雪山の夜 

前編

 社畜になる覚悟はできていたはずだった。就職は決めたし、あとは卒業を待つだけだった。それでも心はいつも反問していた。これでいいのかって……何かになりたいが、何になっていのかわからなかった。いつも焦っていた。
 四年生になったとき、衝動的に小説家になろうと決めた。最初はばかげた考えに思えたが、それがどんどん現実味を帯びていき、次第にそれに縋り付くようになった。
 内定していた就職を断り、卒論の提出を放棄した。留年を言い訳に、親から仕送りを続けさせようという魂胆があったからだ。

「別に働きながらでも小説は書けるでしょ、わざわざ留年するなんてどうかしてるわ」
 詔子は呆れたように言った。
「書ける人もいるだろうけど、僕はそんなに器用じゃない」
「単に意思の問題よ」
「そうかもしれない。でも就職すれば、仕事に合わせて生活を変えないといけないだろ。人との付き合いだって変わる。今の自分だからこそ書けるものが書けなくなるよ」
「そんなに今の自分が大事なの? 生憎私は変わる必要があるの。明日から新人研修があるから、もう帰るわ」
 乳首を転がしていた僕の指先を払いのけると、詔子は下着を身につけた。
「それと、しばらくは会えないかもしれない。色々と忙しくなるだろうから」
 僕は仰向けに転がると、黄ばんだ天井を見つめた。初めて彼女とこの部屋で過ごした夜、二人で見上げた天井はまだ真っ白だった。

 詔子と付き合い出したのは大学に入ったばかりの頃だった。
 僕たちは同じ文芸サークルの新入生で、彼女は何人かいた女学生の中で、ひときわ目を惹く存在だった。
 特別美人というわけではなかったけれど、自分の魅力を最大に引き出す方法をよく心得ている娘だった。いつでも趣味の良い服を身につけ、仕草の一つ、表情の一つまで、きちんと自分の意識の中に収めていた。都会的で、洗練された彼女のすべてが、田舎から出てきたばかりの僕には眩しく見えた。

 そして彼女も僕の何かに惹かれたのだろう。僕たちはいつでも互いの視線を意識し、胸を高鳴らせた。
 必要なのは切っ掛けだけだった。
 ある日の飲み会の帰り、僕たちは皆から離れるように歩き、彼女はこの部屋についてきた。大して話もしなかったし、お互いに好意を告げ合うようなこともしなかった。ばったり出会ったつがいの獣が盛りあうように、ただ愛し合うことだけに熱中した。
 意外なことに、僕は彼女にとっての初めての相手で、僕にとっても彼女は初めての女だった。そのうちに僕たちはセックスの相性がとても良いのだと気づいた。僕はサークルの他の女の何人かと関係を持ったが、彼女とのときほどの快感は得られなかった。
 僕と彼女は快感の忠実な奴隷で、自分たちを繋ぐ絆が愛だということを忘れていった。性的な関係だけが、二人を一つの場所に留めておく重いくびきになっていた。
 そして僕たちは四年間、なんの未来も築けぬまま関係を続けた。

 碌なものを書けないまま一年を無駄に消費し、僕は再び留年した。
 父親は学費はだしてやるが、生活費は自分でなんとかしろと電話してきた。
 僕はたちまち追い込まれた。
 執筆の時間を確保するために、短時間で稼げる夜の道路工事のバイトを始めた。
 Iに出会ったのはその頃だった。
「今日から来たI君だ。君が面倒をみてやってくれ」
 現場監督が連れてきた新入りは肉体労働とはおよそ無縁なタイプだった。華奢な躰をサイズの大きな作業服に包み、畏まって居る姿を見て、世の中でこれほどヘルメットの似合わない奴もいないだろうと、僕は思った。
 その日、僕たちはペアで仕事をすることになった。
 道路に描かれた横断歩道や停止線をガスバーナーで炙り、溶けた塗料をデッキブラシで擦るという、ひたすら忍耐と沈黙を要する作業だった。
 Iは見かけの頼りなさとは裏腹に、なかなか優秀な働き手だった。教えたことはすぐに理解したし、手を抜くこともなく、黙々とデッキブラシを動かし続けた。
 時折、彼は顔を上げて僕の方をチラッとみて微笑んだ。彼の潤いをたっぷり含んだ黒い瞳は、僕の心の奥底を覗いてるような気がした。そしてどういうわけか、僕はそれがそんなに不快だとは感じなかった。

 僕はIのことがすっかり気に入ってしまった。自分がこんなにも簡単に他人を受け入れることができるのは驚きでもあった。日に日に疎遠になっていく詔子との隙間をIの存在で埋めようとしていたのかもしれない。
 早朝に仕事が終わると、僕たちは終夜営業のラーメン屋でビールを飲むようになった。
 Iはいつの間にか、僕のことを先輩と呼ぶようになっていた。地元の東北で二浪したあと、この春、東京の大学に入学したのだという。
 彼は二十歳のわりには純朴で、世間ずれしたところが少しもなかった。僕が小説を書いているというと、こちらが恐縮するほど、感動してくれた。
 小説を是非読みたいという彼を部屋に招くほど、僕は彼に気を許していた。

「散らかっているけど、適当に座ってよ」
 僕がそういうと、Iは偉大な文豪の書斎を訪れたような興味と敬意を含んだような表情で、部屋の隅にそっと腰を下ろした。
 キッチンで珈琲を沸かしていると、覚えのある文章が耳に入ってきた。
 Iが書きかけの原稿を手にして、朗読していた。微かな訛りが心地よかった。
 僕は自分の綴った言葉の美しさに感動した。それはきっとIが吹き込んだ命の調べの美しさだったのだろう。

 詔子から久しぶりに電話が掛かってきたのは、秋も終わろうとする十一月のことだった。
「久しぶりに食事なんかどうかしら?」
 声のトーンで、彼女が僕を求めていることはすぐにわかった。
 その頃の僕はIとの疑似兄弟のような付き合いに満足していて、性的な欲情はすっかり影をひそめるようになっていた。
 友人を招待してもいいかという僕の問いに、彼女はしばらく間をおいて構わないと答えた。
「じゃ、青山の店で八時に」
 彼女はとても事務的に電話を切った。

「ここにはよく来るんですか?」
 Iは物珍しげに店内を見回して言った。
「滅多に来ないさ。高いお店だからね。彼女と会うときに利用するくらいかな。でも遠慮はいらない。贅沢すると決めたときには、思いっきり贅沢をすればいい」
 格好をつけてみたが、有り体に言えば、彼女の懐を当てにしていた。
 Iはしばらくメニューに目を落としていたが、どうにも決めかねている様子だった。
「なんなら僕が決めてやろうか?」
 そう言うと、Iは妙にかしこまった様子でお願いしますと答えた。
 アペリティフにシャンパンを、それとオードブルを適当に見繕って注文した。

 Iは何が可笑しいのか、そんな僕を笑いを堪えるようにして見上げた。
「とても夜中にガスバーナーで、道路を炙っている人には見えませんね。先輩は作業服よりジャケットの方が似合います」
「そう言う君だってデッキブラシより、シャンパングラスのほうが似合っているよ」
 意味もなく僕たちは乾杯し、仲の良い双子のようにクスクスと笑い合った。時間はゆったりと流れ、僕たちはとてもリラックスしていた。
 何杯目かのシャンパンを空けたとき、「彼女遅いですね」とIが言った。
「いつものことさ。気にすることはない。きっと仕事なんだろう」
「彼氏を待たせるような女の人って僕は嫌だな」
「僕と彼女はもうそんな新鮮な関係じゃないんだよ。長く一緒に居ればそうなる。驚きやときめきよりも、あきらめや失望ばかりが目につくようになるのさ」
 僕はため息をつくように言った。
「なんか悲しいですね。それ」
「ああ悲しいね。それより先にやっていようじゃないか。今夜は食べることに集中しよう」
 まだ何か言いたげなIを遮るように、僕はギャルソンを呼んだ。

 詔子がやって来たのは九時をまわった頃だった。
「遅くなってごめんね。ちょっと会議が長引いたの。でも今日はかわいいお連れがいることだから、退屈はしなかったようね」
 少し酒の匂いをさせながら、彼女は僕の隣に腰掛けた。仕事は嘘で、どこかで誰かと飲んでいたんだろう。
 Iは明らかに不機嫌そうだった。それでも僕たちは料理にふさわしい程度には行儀よく、当たり障りのない会話を続けた。その実、テーブルの下ではお互いの足を蹴り合っているようにとげとげしくもあった。
 場違いな取り合わせに、僕はIを連れてきたことを後悔しはじめていた。
 彼女は料理にはあまり手をつけず、ひたすらワインを口にしていた。

「ねえ、そろそろ行かない? 部屋は取ってあるの」
 映画でも観に行くように彼女は言ったが、なにか含みのある言い方に聞こえた。
「それなら僕はそろそろお暇します。今日はごちそうさまでした」
 Iが腰を浮かせた。僕は落ち着き払った詔子の態度に嫌な予感がした。
「まだ彼と居たいんでしょ? なんなら私は三人でも構わないのよ」
 詔子は思わせぶりにワイングラスの縁を舐めた。
「止さないか」
 僕は声を荒げた。
「後輩の前だと、随分紳士なのね。でも初めてってわけじゃないでしょ」
 ひどく酔っぱらった夜のことを思い出して僕は顔を赤らめた。
 詔子はグラスに半分残ったワインを飲み干すと、Iを見た。
「君さ。この人の言うことをあまり本気にしちゃだめよ。たまに君みたいな年下の子が勘違いして、熱をあげるんだけど、ほんとは中身なんて何にもないの。空っぽなんだから。小説もただの逃げ口上なの」
 Iは何も言わなかったが、体中の自制心を総動員していることは見てとれた。ぎゅっと口を結び、爪が手のひらに食い込むのじゃないかというくらい、強く握っていた。
 僕は今にもIが詔子に飛びかかるのじゃないかと思い、ひやりとした。
 しかし、Iはナプキンをほどくと静かに立ち上がった。
「あなたは先輩にふさわしくない」
 詔子を見下ろして彼は言った。、
「そんな陳腐なセリフを彼の小説以外で聞くとは思わなかったわ。でも君ならふさわしいかもしれないわね? 彼もよろこぶかもよ。大事なことは全然ヘタレなくせに、セックスに関しては冒険者だから」
 詔子は挑発的な笑みを浮かべて、Iを見返した。
「もういい加減にしろ。店にも迷惑だ」
 僕はテーブルを叩いた。 
「すいません。帰ります」
 Iはそういうと店を出て行った。
 周囲の客の注目が収まるまで、僕たちは押し黙っていた。
 気まずい沈黙を破ったのは詔子だった。
「行ってあげなさいよ。かわいいんでしょ?」
「僕はゲイじゃない」
「解ってるわ、そんなこと……でもああいうひたむきさは私にはないの。悔しいけど。だから行ってきてあげて」
 僕は財布を取り出した。
「いいわよ。払っておくから」
 そう言うと、詔子はナイフとフォークを手に取った。
「私は自分が払ったものは最後まで食べるの。それが私のプライドなの」
 きちんと背筋を伸ばし、好奇の視線などものともしない彼女を僕は心底美しいと思った。

 つづく

後編

 ### 1

 結局、僕は夜の街に消えていったIを見つけることはできなかった。バイト先も辞め、気に入っていたラーメン屋にも姿を現すことはなかった。
 十二月の初めに僕は、訟子と彼女の勤め先の近所の喫茶店で会った。あまり気乗りはしなかったが、どうしても話したいことがあるのだとせっつかれ、仕方なくでかけた。洗いざらしたジーンズにジャンパー姿はオフィス街では目立つ。場違いなところに迷い込んだようで、落ち着かなかった。
 待ち合わせの店は訟子が務める保険会社のビルの地下にあった。訟子はびしっとしたスーツを着て、同僚らしき男女とお茶を飲んでいた。彼女は僕に気づくと、仲間たちに二言三言、笑顔で言い残すと、席を立ちこちらにやって来た。彼女は目で合図すると、僕を店の外に連れだした。
「なんだいお茶を飲むんじゃなかったのか?」
「ごめん。急に人と会わなければならなくなった」
 訟子はそういうと、バックから小さな封筒を取り出した。
「年末は同僚たちとグアムで過ごすことになったの。それでこれはあなたの分のチケット」
「僕も行くことになっているのかい?」
「ええ。他の人も家族や恋人を同伴することになっているから、気を使わなくていいわよ」
「申し訳ないけど、遠慮しとくよ」
「そう。なら別の誰かに回すわ」
 彼女は理由すら問いただすことはしなかった。さっきの同僚たちがレジの辺りにいるのがガラス越しに見えた。
「もう行ったほうがいいんじゃない?」
 訟子は頷くと、エレベーターのボタンを押した。
「あなたと付き合って五年になるのね。青春の半分は一緒に居た勘定になる」
「そうだな。でももう青春て歳でもないさ」
「そうね。そろそろ精算すべき時期にきてるのかもね」
 彼女はエレベーターに乗り込むと、扉が閉まるまで僕の顔をじっと見つめいた。

 ### 2

 小説を書く気にもなれず、僕はひたすらバイトに精を出した。肉体労働は性に合っているらしかった。夜は黙々と働き、昼間は死んだように眠る。他には何も考えない。自分の中身が空っぽになっていくうよだった。その空間に宿る神があるならどんな神なんだろうと僕は思った。
 修道僧のような暮らしが一月ほど続いた。
 Iが僕を訪ねてきたのは、暮れも押し詰まった雨の夜だった。
 久しぶりに会ったIはすっかりやつれていた。元々白かった顔色は青白く、肌の張りもなくなっていた。何より、印象的な黒い瞳は以前のような輝きを失っていた。
「随分、お見限りだったじゃないか。それに君、まるで大病して入院していたみたいだぞ」
「すこし体調を崩していたんです」
 Iは力なく笑った。
「それでも連絡くらいはするもんだ。これでも心配はしてたんだ」
「申し訳ありません。あんなことがあった後だから、連絡しづらくて。あれから彼女とはどうなりました?」
「相変わらずさ。君が気にすることはなにもないんだ。お互いの意思とは無関係に彼女と僕の縁は強いらしい」
 自分でもたいして信じていないことを言うのは心苦しかったが、彼に余計な気を使わせたくはなかった。
「僕が言うのも何ですが、それはよかった」
「それより何か用があったんじゃないのか?」
「実は先輩を旅行に誘いに来たんです」
「なんだい藪から棒に」
「ほら先輩、年末は小説を書くのに集中するって言ってたでしょ。僕の実家の近くに懇意にしている旅館があるんです。あんまり有名じゃない温泉が近くにあるくらいで、寂しい山の中ですが、小説を書くにはちょうどいいかなと思って」
「それは魅力的な提案だけど、なんせ先立つものがなくてね」
「その点はまったく心配ありません。費用は僕が全部持ちます。いままでのお礼の意味を込めて」
「なんだいそれは。まるで別れの挨拶みたいだね」
「大学を辞めることにしたんです。それで貯めたお金も必要なくなりました」
 あまりにも唐突な話に僕は言うべきことを失った。
 僕は嫌がるIを説得して、旅費の半分は持つということで、同意した。この機会を逃せば、それがIとの永遠の別れになるような気がしたからだ。

 翌日の夕方、Iは黒いランドクルーザーに乗って迎えに来た。
 年末を海外で過ごす友人から借りたのだと言う。Iにそんな友人がいることが少し意外だった。
「今から高速を走れば夜中には着きます。魔法瓶にコーヒーをいれてきたので、よかったら飲んでください。できるだけ休憩なしで走りたいので」
 Iはそういうと車を走らせた。僕たちはほとんど話さなかった。
 車はひたすら北を目指した。
 魔法瓶のコーヒーがすっかり空になった頃、僕は深い眠りに落ちていた。

 Iに揺り起こされて目を覚ました。
「もう着いたのかい?」
 まだ意識はぼんやりとしていた。
「申し訳ありません。どうやら道に迷ったようです。下手に動きまわるより、夜が明けるまでここに居たほうがいいでしょう」
 外は一面の雪景色だった。僕は車を降りて、煙草に火を付けた。
 音もしない青白く浮き上がった世界は時間を止めたようだった。木々の開けた場所に停められた車と僕たち、今では轍すらも消え失せていた。ここに辿り着いた痕跡を見いだせるものはなにもない。
「明るいもんだね」
「ええ、雪はわずかな光でも反射しますから」
「なるほど、しかしそれは誰のために必要な光なんだろうね」
 Iは長いまつげを瞬かせて、僕を見ていた。しかし、その黒い瞳にはなにも映しだされてはいなかった。
「ここでは命があることは罪なのです……先輩、このまま僕と消えてしまいませんか?」
 訟子と初めて過ごした夜、見上げた天井は真っ白だった。そして今ではそれはすっかり黄ばんでしまった。
「すまない。僕は行けないよ」
 Iは小さく笑うと、背を向けて歩き始めた。僕は足跡のないその後姿をじっと見送った。

 ### 3

 次に目を覚ましたとき、僕は病院のベッドにいた。
「もうひとりはどうしました?」
 僕の質問に看護師は「ここに運ばれたのはあなただけですよ」と答えた。
「そんなはずはない。車の中にもうひとり居たはずです」
「車? あなたは行き倒れてたんですよ。地元の人が通りかからなければ危ないところだったの」
 彼女はもう質問は打ち切りだという調子で人差し指を僕の唇に当てた。それから耳元で囁いた。
「あんな素敵な彼女がいるんだから、命を粗末にしてはだめよ」
 僕は跳ね起きて、病室の扉を開けて廊下に飛び出した。
 薄暗い廊下の突き当たりにある自販機の横に詔子はいた。不機嫌な顔で、長椅子に腰掛け缶コーヒーを飲んでいた。
「来てくれたんだ」
 横に座った僕に「まずいわね。これ」といって缶を押し付けた。
「そりゃ缶コーヒーだからね」
「グアムのホテルに電話があったの。あなたがこの病院に入院してるって」
「まさかIから?」
「たったそれだけ言ったきりで、電話を切ったわ」
「いつのこと?」
「あなたが雪山で寝ている頃よ。それですぐに飛行機に乗って、東京に戻り、車でここまで来たわけ。あなたは目を覚まさないし、警察には色々聞かれるし、散々な目にあったわ」
「それでも来てくれたんだ」
「言ったでしょ。私は自分が払ったものは最後まで食べるって」
 目を閉じると、詔子は僕の肩にもたれかかった。

 了

雪山の夜 

雪山の夜 

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-05-24

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. 前編
  2. 後編