Spatial slit

青年宮廷魔術師・ジェマが国王の勅命により世界各地を飛び回り、魔物と戦い、仲間との絆を深めながら旅をするお話。

第0話

宮殿の深奥にある融けない氷と透き通った水晶でできた透明な神殿は、静謐で清らかな魔力に満ちていて、春だろうが夏だろうが関係なく寒い。ジェマは先刻、我が身の安全と武運をとりあえず祈りかじかんだ手を合わせていた。あの場所だけはいつだって真冬そのものだ。
国王と、神官に許された者だけが入ることを許される結界をすり抜ける。元いた仕事場へ戻るべく歩を進めてゆく。体に纏わりついていた冷たい空気は溶けてなくなり、快適な温度と湿度に設定された宮殿の空気が肌を包んだ。
「王様のお達し、ねえ……」
目線を宙に上げ、不安そうな表情を隠そうともせずに彼はひとりごちた。
大股でずかずかと歩き、理不尽に耐える気持ちを我慢しながら仕事場のドアを開ける。
「やっほー、ジェマくん」
「こんにちは。お疲れ様です」
呑気な声と、神経質そうな声が真正面から飛んできた。呑気な声の主は王冠を戴いた人の好さそうな金髪の壮年男性で、書類が大量に乗った事務机にだらしない姿勢で腰掛けている。神経質そうなほうは、癖のない銀髪を持った聡明そうな老紳士である。ジェマに後ろめたさのある柔和な笑みを浮かべて会釈してきた。
「……………王様と宰相殿。空気の澱みに関しては右に出る部署はないこの雑用部へ一体なんの御用でしょうか。王様には昼前にも謁見したような気がするんですけど。宰相殿もなぜに……」
ややクセのある臙脂の髪をかき、灰紫色の瞳を面倒くさそうに眇める。はからずもぶすくれた喋り方になるジェマに、王様と呼ばれた壮年男性はくつくつと笑った。
「あれはちょっとした挨拶と頼みだよジェマくん。突然の辞令で悪かったって思ってるよ? でも今回のは人事課通すと色々厄介だからさー。君のためでもあったりするんだよね実は」
この統治者は、風貌に反して下々の者に対しおちゃらけた少年のような話し方と表情をする。威厳があるのは髭くらいだ。
「何ですか一体……」
眉間を指で押さえ、ジェマはこれから重なってくるであろう不安とプレッシャーを思った。

遡ること数時間前。
北ノ国の宮廷魔術師として働いている25歳のジェマは、突然国王陛下とその宰相に謁見することなった。いつものように民間の魔術師では手に追えない嵐などの災害を鎮めたり、《ダンジョン》と呼ばれる未知の財宝が隠れていたり《魔物》と呼ばれる人外を狩る場へ行って地図を作ったり、《協会》に登録された正規の魔術師の名簿を作成したり、忙しい1日をまた送るのだろうなと予想していたのだ。ところがいつものように所属している部署の雑用部に顔出しすると、問答無用で両脇を固められ、国王陛下の元へ連れて行かれた。
「こんにちはジェマくん。あっ全然かしこまったりしなくていいから。リラックスしてね。お茶菓子も好きなだけとっていいから」
訳が分からないまま応接間の椅子に座らされ、侍女が次々茶菓子を出してくる。目の前にいる国王陛下は、儀式で見た荘厳さが一切失われていた。だがジェマは、失望やギャップに対するショックを覚えるほど心の余裕はなく、はあそうですかとただ頷いただけだった。早く状況を説明してくれ。
「何の説明もなしにごめんねいきなり。ちょっとね、君にしかできないお願いがあってさー。逃げられたら困っちゃうんだよ」
「国王陛下、」
「王様でいいよ堅苦しいから。ウチで一番(ダンジョン)に潜ってるのは君だと聞いてる。じゃあ《魔物》がどこから来ているのかも知っているよね? いや知らないとは言わせない」
矢継ぎ早にそう言い、彼はギラリと鋭い視線を投げつけてきた。有無を言わさぬその圧倒感に、ジェマは押黙らされた。
「そう、《空間の裂け目》だよ。別の世界に繋がった此処と彼処を繋ぐ境界。《魔物》はあそこから来ている。《魔界》とでも呼ぼうか。君は《ダンジョン》の封印を管理し、守っている。彼らが外に出ないように。彼らを狩る者たちがリスク相応の利益を得られるように」
「…………………」
王の言う事は全て真実である。しかしジェマはそのことを公にはしない。仕事を聞かれれば国民を守ることとダンジョンの地図作りの雑用ですと答える。
封印の管理をしていることだけは、決して家族以外に明かしたことはない。自分が産まれる遥か昔から、そういうものだと一族代々の教えがあったから。表向き宮廷の雑用部という日陰で生きているのもその為だ。過去に欲をかいた管理者もいたようだが、例外なく惨憺な最期を迎えている。能ある鷹は爪隠せ、という意味合いだけではなく、呪いのようなものすら感じていた。一族の書庫に篭りその原因と根拠を探してみても何もない。父に聞いたところ、「曽祖父の代で一度ぼや騒ぎがあったから、その時焼けたのだろう」と言われた。
「君は、それだけの力を持っている。ジェマくんは知らされていなかったのかもしれないけど、君の一族はもともと王家から分かれているんだ。かなり昔に私たちの先祖と袂を分かつようなことがあったらしいんだけど」
懐かしい話でもするように、王は手元の紅茶を優雅に飲みながらそう言った。自分さえ知らない自分の家の過去を聞かされた驚きは当然ある。だが、問題はその先だ。王は一体、自分に何を要求してくるつもりなのか。
この世界は北ノ国、南ノ国、東ノ国、西ノ国、中ノ国に分かれている。中ノ国は東西南北の国に囲まれ、大陸の真ん中に位置している。
昔、世界各地に《空間の裂け目》が現れ、魔物たちが人々を襲い、魔術師たちが戦った。血を血で洗う闘争に終止符を打ち、人類に勝利をもたらしたのが《五大魔導師》である。彼らは各地に散らばり、国を新しく統治し始めた。各国の王たちは皆、その末裔である。どうしても閉じることが出来ない《空間の裂け目》を中心に、封印を兼ねた《ダンジョン》を作り、彼らをそこから出られないようにした。世界に平和が訪れてからも一部の魔術師たちはそこへ出入りし、魔物を倒すことで己を高めようとし、あるいは彼らを狩って珍しい牙や爪や毛皮を売り、財を成している。特に《協会》という魔術師の連合に属する者たちが、その傾向が強い。
「……………………それで、一体何をお望みですか」
「君に、中ノ国のダンジョンの封印を修正してほしいんだ。あちらの王も神官も流行り病に倒れたとの通達があってね」
「他国の者たちでは務まらないのですか?」
「東ノ国は貧民が王族を刺して大わらわ。南ノ国は海賊たちの制圧に一苦労。西ノ国は返答なし。だそうでね、うちしか頼れないんだって。経済的には潤うしいいかなって。ジェマくんだってこの寒い国で雑用仕事こなしたり魔物倒したりするだけじゃ疲れるでしょ。休暇気分で行っておいで。向こうは都会だし楽しいよ。お金はちゃんとこっちで出すしなんの心配もしなくていい。一族の因縁も全部私が水に流すよ」
拒否権はないよ? と王は言外に言っている。手のひらに嫌な汗が滲み、ジェマは歯噛みした。
「必要な荷物があればこっちで手配してあげるし。とりあえず神殿に行って安全の祈願してきて、ねっ」
なーにがねっだこのオッサン。職権濫用甚だしい。
しかし立場上どうすることも出来ない。のは真実。結局茶菓子には一切手をつけず、分かりましたと立ち上がって一礼し、ジェマは項垂れて応接間を後にした。

そして神殿での祈りを終え、他の部署と業務連絡を取り合って戻ってきた現在。
王は地味な椅子に腰掛け、無駄に美しい髭を触りながら隣の宰相に視線を向けた。
「君を一人で行かせてもいいんだけどね。でもさ、可愛い子には旅をさせろっていうじゃないか。フィリップ宰相、紹介して」
「はっ。来なさい、コーチネル」
宰相がそう呼びかけると、彼の背後から小さな女の子がひょこっと出てきた。
腰まである長い銀髪に、萌黄色の瞳。白に緑の装飾が散りばめられた魔術師用のローブ。見たところかなり若い。少なくとも成人前に見える。
「えっと、コーチネルです。国立魔術師養成学園高等部の2年生です。これからジェマさんと一緒に中ノ国に同行させてもらいます。よろしくお願いします」
ぺこ、と小さく頭を下げてきた。
「……もしかしなくても保護者ですか、俺」
「そうとも言うね。彼女は学年首席の優秀な生徒で、特に召喚魔術と要素魔術を得意としているんだ。若いうちに色々な経験をしてもらいたくてね。きっと君の役にも立ってくれるよ」
やはり是非を言わせない強さの滲む声だった。改めて腹を括り、決まったことは仕方ないなと思うことにする。
「俺はジェマ。国立って言ったっけ? 俺もそこ出身でな、先輩ってことになる。よろしくコーチネルさん」
快活に見えるように努め、 手を差し出すと彼女は控えめにそっと握ってきた。ジェマの硬くごつごつした手とは対照的に、小さくて柔らかい手をしている。ふふ、と笑う顔が、雪原に咲いた花のように儚げで可憐だった。
「もう一人もそろそろ来ますから」
宰相がコーチネルとジェマを見ながら思い出したように言う。まだいるのかよ、と思った矢先、コンコンとノックが聞こえてきた。
「失礼しまーす。遅れてすいません、今さっき追試験終わって走ってきました!」
ぜーはーと息を切らしながら、枯色の髪の少年がドアを開けた。歳はコーチネルと同じくらいだろうか。瞳は山吹色で、緊張を湛えてはいるものの十代らしい活力に溢れている。身長は170センチ前後くらい。この年代ならまだ伸びるだろう。
王は大丈夫だよと緊張をほぐすように言い、宰相はちょうどいいですよと頷いた。
「こちらはルカくん。コーチネルさんのお友で学内最大の魔力量を誇る子だよ。というか、この国でも5本指に入るね。もしかしたらジェマくんすら上回るかもしれない」
ルカは力いっぱい首を横に振り、謙遜を示した。全く上手く隠せていない表情だったけれども。
「いえいえ〜それほどでもありませんって! あ、話は聞いてるんでよろしくお願いしますね! えっーと……」
「ジェマだ。追試は大丈夫そうか? 勉強せいよ、ルカ君」
「うぐ……大丈夫だと信じたいです……。でっでも、おれジェマさんの手伝い頑張りますから!」
がしっとジェマの手を掴み、力強く握手をしてきた。結構素直そうだな。
「ああ、よろしくな。ルカ君。宰相殿、同行してくれるのはこの二人のみか?」
第一印象は悪くない二人だ。これから隣国へ行くに当たって、彼らの実力はある程度把握しなければならない。まあ王と宰相が認めた者ならば大丈夫だろうとは思うが、百聞は一見にしかずだ。自分の目で確かめるのが一番早い。
宰相はそうですと頷いた。
「あなたという方は物分かりが早くて助かりますよ」
「まさか宰相殿に褒めて頂けるとはね」
「凄い順応性だねジェマくん」
「やるって決めましたから。ところでかなり大事なことなんですけど、俺がいない間、ダンジョンの封印って誰がやってくれるんです?」
一番の気がかりはそれだった。もしいなければ、土下座でもしてかつての管理者だった父親に頼み込むつもりでいる。
心配ないよー、と王は自分を指さした。
「ジェマくんがいない間は私が封印を管理する。元々私の一族が君たちに押し付けた仕事だったんだ、その責は私が負って当然」
王の実力を、ジェマは知らない。しかしこの王がただのお飾りだとは思えない。老いていゆくその肉体から滲む魔力が物語っている。
「確かめてみるかい?」
「遠慮します」
好戦的で壮絶ともとれそうな表情の片鱗を見せる王に、ジェマは首をゆるく横に振って応じた。
旅立つまでまだ時間はある。それまでにできることをしようと決め、ジェマは目を伏せてしなければならない物事の優先順位を思考した。

第1話

賑やかな城下町を抜け、正面の門から堂々と王宮に入ることにした。重そうなガチゴチの鎧兜で装備して剣を佩いた屈強そうな門番たちに話しかける。門番たちは確認のためしばしお待ちを、と言って伝令らしき係を呼びつけた後、ものの数分で通してくれた。
案内係に連れられて階段をのぼり、豪奢な石造りの廊下を渡り、派手で豪奢な扉を開けてもらう。奥には、玉座に鎮座した中ノ国の王がいた。
三人揃ってこうべを垂れ、ジェマが代表として堅苦しい挨拶をつらつらと立て板に水を流すように喋る。中ノ国の王は北ノ国の王と違って口数が少なく、よろしく頼み申すと一言言っただけだった。だからといって特段冷たいとかそう感じたわけではないが。
用意された客室はそれぞれ三人分。ベッドはふかふかだし一人で使うにしては広いしベルを鳴らせばすぐ侍女が来てくれるし、何かと快適そうだった。昼食の宮廷料理をたらふく食べ、ひとっ風呂入って長旅の疲れを洗い流した頃にはすでに夕方を迎えていた。ダンジョンの下調べがてら賑やかな城下町でコーチネルとルカも連れて色々見物して回るつもりだったのだが、コーチネルが入浴後にすぐ眠ってしまったと侍女から伝言があり、ルカも似たような状態だということだ。初対面の男と5日もずっと一緒の馬車にいたのだ。きっと初めての経験だろうし、無理もない。
なら明日のために下調べくらいやっておくか。とりあえず役所に行って地図もらってこよう。
城下町の通りから役所に行けると国王から聞いている。賑やかな人の声や音楽に揉まれながら、ジェマは人とぶつからないように歩いた。
と、その時。
「待て! おい! 誰かーっ!! 捕まえて!!盗っ人!!」
「……あ?」
「どけぇ!! 邪魔だッ!」
向こう側の横道から一際でかい声が聞こえた。次の瞬間、軽そうな身なりをしたヒゲ面のオッサンが白い布に包まれたキャンバスのようなものを脇に抱えてこちらに走ってきた。男は短剣を片手に持ち、邪魔する者には容赦せんと振るってくる。人々がきゃーとかわーとか悲鳴を上げながら道を開けようとする。
だが、ジェマはそうしない。盗っ人を見逃す理由はない。はいどうぞと斬られてやるお人好しでもないが。
立ちはだかると、目を血走らせ息も絶え絶えな盗っ人が顔をさらに歪めた。
「どけっつってんだよ若造!! 」
「嫌だね」
盗っ人が手にした短剣を振りかぶる。距離は2〜3メートルほど。
ジェマは丸腰ではない。腰の剣帯からは、カタールと呼ばれる刺突向きの剣が二対提がっている。
「よっと」
だがそれらを抜くことなく、右手で盗っ人の短剣を握る腕を掴んでグインと下げ、肘関節の可動範囲外に捻った。
「ぎえぇ!?」
盗っ人は悲鳴を上げながらぐるっと回転し、地面にズダァンと落ちた。ジェマは放り投げられたキャンバスを腕を伸ばしてキャッチし、這い蹲る盗っ人の手首の関節を極める。動けば極めた部分に激痛が走ることだろう。
周囲から歓声と拍手が上がる。口笛も聞こえる。その音をかき分けて、憲兵と思わしき鎧兜を着た男共がぞろぞろとやって来た。そのうち、一番年嵩の者がジェマに頭を下げた。
「君、御苦労だったな。勇気がある。身のこなしも素晴らしかった」
「何てことはありません。できることをしただけですので」
そりゃ何年も人外と戦ってますからねー。
ジェマが軽く笑って手をひらひら振ると、年嵩の憲兵がますます笑みを深くした。
「謙虚だな、君は。後で憲兵部署に来てくれ。褒賞金がある」
彼はそう言って、ぐったりした盗っ人を連れて行った。すると今度は一人の青年が、人混みをかき分けて泣きそうな笑顔でジェマに飛びついてきた。
「すいません! ありがとうございます! 本当にありがとうございます! 」
青年は、ジェマより少し背が低く、歳下っぽい感じがする。だがそれでも180センチはありそうだ。顔や首や鎖骨に赤や青の紋様ーーおそらく刺青ーーをいれている。捲られた緑のシャツからのぞく腕には紫の紋様。マリンブルーのエプロンには、カラフルな絵の具がこびりついていて、腰のベルトには木炭や絵の具、筆などの画材道具が入っている。もしかしなくても画家だろう。そして多分、この絵を描いた本人だ。
「運が良かったな君は。はいどうぞ、大事なもの」
ジェマが白い布に包まれたキャンバスを差し出すと、画家は生き別れた我が子に遭遇した父親のように破顔して受け取った。
「本当に良かったです……感謝してもしきれません。まさか完成寸前で盗まれるなんて思ってなくて」
「完成寸前でも盗まれるのか。凄いな」
「いえいえそんな」
ジェマが感心すると、画家はへにゃっとはにかんだ。嬉しそうな表情を全く隠せていない。お人好しそうな奴だな。
「それじゃ俺はこれで。防犯には気を遣いな、絵描きさん」
「待ってください!」
役所へ向かおうとすると、慌てた様子でがしっと腕を掴まれた。
「うん?」
「僕はキオといいます。城下町にアトリエ持ってる刻印師です」
「画家じゃないのか?」
「本業は画家です。でも刻印師もやってます。ぜひお礼がしたいので、来てもらえませんか」
ジェマはううむと唸った。お礼を期待してやったわけじゃないから別にいいのだが、キオのピーコックブルーの瞳があまりにも強い意志を示している。これは気が済むまでどうにもならないな、とすぐ分かった。
「分かったよキオ君。君について行けばいいんだな?」
訊き返すと、キオは力強く頷いた。
「ところで、貴方はなんというのですか?」
「おお、悪いな。名乗り忘れてた。俺はジェマ。北ノ国の魔術師だよ」

第2話

賑やかな城下町を抜け、正面の門から堂々と王宮に入ることにした。重そうなガチゴチの鎧兜で装備して剣を佩いた屈強そうな門番たちに話しかける。門番たちは確認のためしばしお待ちを、と言って伝令らしき係を呼びつけた後、ものの数分で通してくれた。
案内係に連れられて階段をのぼり、豪奢な石造りの廊下を渡り、派手で豪奢な扉を開けてもらう。奥には、玉座に鎮座した中ノ国の王がいた。
三人揃ってこうべを垂れ、ジェマが代表として堅苦しい挨拶をつらつらと立て板に水を流すように喋る。中ノ国の王は北ノ国の王と違って口数が少なく、よろしく頼み申すと一言言っただけだった。だからといって特段冷たいとかそう感じたわけではないが。
用意された客室はそれぞれ三人分。ベッドはふかふかだし一人で使うにしては広いしベルを鳴らせばすぐ侍女が来てくれるし、何かと快適そうだった。昼食の宮廷料理をたらふく食べ、ひとっ風呂入って長旅の疲れを洗い流した頃にはすでに夕方を迎えていた。ダンジョンの下調べがてら賑やかな城下町でコーチネルとルカも連れて色々見物して回るつもりだったのだが、コーチネルが入浴後にすぐ眠ってしまったと侍女から伝言があり、ルカも似たような状態だということだ。初対面の男と5日もずっと一緒の馬車にいたのだ。きっと初めての経験だろうし、無理もない。
なら明日のために下調べくらいやっておくか。とりあえず役所に行って地図もらってこよう。
城下町の通りから役所に行けると国王から聞いている。賑やかな人の声や音楽に揉まれながら、ジェマは人とぶつからないように歩いた。
と、その時。
「待て! おい! 誰かーっ!! 捕まえて!!盗っ人!!」
「……あ?」
「どけぇ!! 邪魔だッ!」
向こう側の横道から一際でかい声が聞こえた。次の瞬間、軽そうな身なりをしたヒゲ面のオッサンが白い布に包まれたキャンバスのようなものを脇に抱えてこちらに走ってきた。男は短剣を片手に持ち、邪魔する者には容赦せんと振るってくる。人々がきゃーとかわーとか悲鳴を上げながら道を開けようとする。
だが、ジェマはそうしない。盗っ人を見逃す理由はない。はいどうぞと斬られてやるお人好しでもないが。
立ちはだかると、目を血走らせ息も絶え絶えな盗っ人が顔をさらに歪めた。
「どけっつってんだよ若造!! 」
「嫌だね」
盗っ人が手にした短剣を振りかぶる。距離は2〜3メートルほど。
ジェマは丸腰ではない。腰の剣帯からは、カタールと呼ばれる刺突向きの剣が二対提がっている。
「よっと」
だがそれらを抜くことなく、右手で盗っ人の短剣を握る腕を掴んでグインと下げ、肘関節の可動範囲外に捻った。
「ぎえぇ!?」
盗っ人は悲鳴を上げながらぐるっと回転し、地面にズダァンと落ちた。ジェマは放り投げられたキャンバスを腕を伸ばしてキャッチし、這い蹲る盗っ人の手首の関節を極める。動けば極めた部分に激痛が走ることだろう。
周囲から歓声と拍手が上がる。口笛も聞こえる。その音をかき分けて、憲兵と思わしき鎧兜を着た男共がぞろぞろとやって来た。そのうち、一番年嵩の者がジェマに頭を下げた。
「君、御苦労だったな。勇気がある。身のこなしも素晴らしかった」
「何てことはありません。できることをしただけですので」
そりゃ何年も人外と戦ってますからねー。
ジェマが軽く笑って手をひらひら振ると、年嵩の憲兵がますます笑みを深くした。
「謙虚だな、君は。後で憲兵部署に来てくれ。褒賞金がある」
彼はそう言って、ぐったりした盗っ人を連れて行った。すると今度は一人の青年が、人混みをかき分けて泣きそうな笑顔でジェマに飛びついてきた。
「すいません! ありがとうございます! 本当にありがとうございます! 」
青年は、ジェマより少し背が低く、歳下っぽい感じがする。だがそれでも180センチはありそうだ。顔や首や鎖骨に赤や青の紋様ーーおそらく刺青ーーをいれている。捲られた緑のシャツからのぞく腕には紫の紋様。マリンブルーのエプロンには、カラフルな絵の具がこびりついていて、腰のベルトには木炭や絵の具、筆などの画材道具が入っている。もしかしなくても画家だろう。そして多分、この絵を描いた本人だ。
「運が良かったな君は。はいどうぞ、大事なもの」
ジェマが白い布に包まれたキャンバスを差し出すと、画家は生き別れた我が子に遭遇した父親のように破顔して受け取った。
「本当に良かったです……感謝してもしきれません。まさか完成寸前で盗まれるなんて思ってなくて」
「完成寸前でも盗まれるのか。凄いな」
「いえいえそんな」
ジェマが感心すると、画家はへにゃっとはにかんだ。嬉しそうな表情を全く隠せていない。お人好しそうな奴だな。
「それじゃ俺はこれで。防犯には気を遣いな、絵描きさん」
「待ってください!」
役所へ向かおうとすると、慌てた様子でがしっと腕を掴まれた。
「うん?」
「僕はキオといいます。城下町にアトリエ持ってる刻印師です」
「画家じゃないのか?」
「本業は画家です。でも刻印師もやってます。ぜひお礼がしたいので、来てもらえませんか」
ジェマはううむと唸った。お礼を期待してやったわけじゃないから別にいいのだが、キオのピーコックブルーの瞳があまりにも強い意志を示している。これは気が済むまでどうにもならないな、とすぐ分かった。
「分かったよキオ君。君について行けばいいんだな?」
訊き返すと、キオは力強く頷いた。
「ところで、貴方はなんというのですか?」
「おお、悪いな。名乗り忘れてた。俺はジェマ。北ノ国の魔術師だよ」

第3話

キオと名乗った画家は予想通り年下で、今年で21歳になったとのことだった。最近になって国王に作品を認められ、大きな個展を開いたりしているらしい。未完成の絵を取り戻してくれた謝礼にとジェマをアトリエに招き入れた。
用意してもらった椅子に腰掛けながら、部屋中を見回す。顔料の独特の匂い、窓からさす街中の灯り、室内にかけられた絵画、テーブルの上の絵筆やパレット、白布のかかった巨大なキャンバス。やや雑然とした印象を抱いたが、ここはキオなりの秩序があるのだろう。ジェマは絵にも画家にも人並みにしか関心を持たないが、部屋の気配を感じてそう思った。
「ジェマさん、お茶いれましたよ」
入口のほうから、キオが湯気立つマグカップを二つ持って現れた。テーブルの上に置かれた一つをありがとなと言って受け取り、ジェマは口をつけた。キオは猫舌らしく、息を吹きかけて冷まそうとしている。
「悪いね、気遣ってもらっちまって」
「いやいや気にしないで下さい、ほんとに感謝してるんで」
キオは眉尻を下げ、左の手のひらをヒラヒラと振って見せた。手の指の紫色の刺青、表情に合わせて形を変える赤い刺青に目がいく。
「そうかい。……ところでキオ君、ずっと気になってたんだがその刺青は? 答えたくないなら答えなくてもいいけど」
ああこれですか、と言ってキオは自分の左頬に刻まれている赤い刺青に触れた。
「自分でいれたんです。僕に絵を教えてくれた師匠がしていて、かっこよかったんで。お守りの効果も得られるようにしてるんですよ」
はにかみながら、誇らしげにキオは言った。
「へえ。ってことはつまり……刻印師でもあるってことか」
「その通りです。絵だけで食べていくのは難しいかもしれないって考えたとき、生活の安定のためにと思って一応免許取りました」
キオはエプロンのポケットから、魔術師連合認定の刻印師だけに与えられる白金のブローチを見せながらそう言った。
刻印師とは、対象に特殊な刻印や紋様を刻むことによって、様々な効果を発揮させる職業であり、形状や色を変えることで効果が変えられる。対象が魔術師であるならば守護効果などを、武器ならば命中率や強度の上昇などの効果を得ることができる。
刻印と紋様を正確に刻む緻密かつ繊細な作業を行う指先と、絶えず一定量の魔力――少なすぎても多すぎても効果を得られない――を込める集中力が求められるため、確かな腕を持つ刻印師は世界でほんのひと握りしかいないと聞く。彼らの刻印は破格の値段だが、刻んで貰うために何年も待つ者も大勢いるという。
かなり軽い口調でキオは言ったが、並大抵の努力ではなかっただろう。ジェマも宮廷魔術師の免許を取るにあたり必要知識として勉強したが、数百種類以上は軽くある刻印の形と色彩パターンとその組み合わせの効果に辟易した覚えがある。魔術師養成学園にもあらゆる魔術を得意とする講師がいたが、刻印師だけはおらず外部から呼び出して講義を行っていた。
「ジェマさん、僕の話ばかり聞いてて楽しいですか?」
完全に冷めたお茶を一口飲み、キオはジェマをじっと見た。
「楽しいけど」
「これも何かの縁ですし、そちらの国の話とか、なんでこの国に来たのかとか、何か話して下さいよ」
「そうか。そうだな……とりあえず俺の国は寒くて広くて雪ばっかり、これに尽きる。土地が広いし海にも面してるから食い物には困ってねえな。この国に来たのは、ダンジョンにちと用があるからだな」
「へえ……。あ、今ダンジョンって言いました?」
頷いて聞いていたキオが突如はっとして顔色を変えた。
「言ったが?」
「最深部にだけは行っちゃ駄目ですよ。命が惜しいなら、絶対に」
ひどく神妙な顔つきでキオはそう言った。声も真剣そのもので、先ほどの朗らかで人の良さげな雰囲気が一切排除されている。ただならぬその気配の切り替わりに、ジェマは面食らった。
「ほう。そりゃなんでだ?」
こいつはいい情報が得られるな、という予感。ジェマは口元が緩みそうになるのを堪え、真面目を繕ってキオの目を見た。キオは静かな目で、諭すように話し始めた。
「最深部にはケートゥスというダンジョンの主とも言うべき魔物がいます。今までたくさんの魔術師たちが挑みましたが食われた者が半分、逃亡した者が半分です。ダンジョンには強烈な毒を持つ奴が大勢いますが、ケートゥスはそいつらを平気で捕食するんです。体長は大体20メートル近く。どんな姿かは………これを見てもらえば分かります」
すっと立ち上がり、アトリエの壁際にある、白布のかかった横幅3メートルはありそうなキャンバスに近づいた。白布が、刺青の刻まれている手にバサッと外された。
キャンバスには、プラナリアに似た形をした生物が描かれていた。頭と思われる黒灰色の先端部が縦に裂けてずらりと鋭い牙が並び、血まみれの人間を咥えている。太く短い胴体は真紅だ。ぎょろりとした巨大な濃藍の双眼、尾部から毒々しい紫の触手が十本近く伸びている。
見た者をざわつかせるーーひたすらに凶々しい絵だった。
「これがカートゥスです。昔……この刺青を刻んだすぐ後に、ダンジョンに何人かと組んで行ったことがあって。僕より遥かに腕の立つ戦士もいたんですけど、僕以外全員食われました。目の前で、悲鳴を上げながら、頭から。足を食われて歩けなくなって、やられた人もいました。僕は……せめて僕は、あのおぞましい魔物のことを伝えて、犠牲者が出なくなるようにと願ってこの絵を描き始めました。………もうすぐ、完成します」
キオの声は感情が感じられない、ひどく平坦なものだった。彼の頭には、食われていった者たちの姿が描かれているのだろう。溢れでるものを押し殺して取り繕うような響きを有していた。こちらに向けられた背中は、どんよりとした淀みが絡みついているような気さえする。
「そういうことですジェマさん。最深部にだけは、行っちゃいけない。命が惜しいなら絶対に」
キオがこちらを振り向く。有無を言わせぬ強い視線。ジェマはオーケーと言い、両手を挙げてため息を吐いた。
「でもな、キオ君。俺が今回この国に来たのは、多分そのカートゥスとやらを倒す為なんだわ。でないと北ノ国の王に会わす顔がない。この国の王にも頼まれてる」
封印については触れずに、ジェマはあっけらかんとしてそう告げた。キオは凍りついた顔をして、そんな、と掠れた声を漏らした。
ジェマは空になったマグカップを置き、にっと笑って見せる。ゆったりとした動きでキオに近づき、はっきりとこう言った。
「教えてくれてありがとな。そこでだ、キオ。俺に刻印を刻んでくれないか」

第4話

数日かけた慣れない長旅は、コーチネルが予想していた以上に肉体と精神を疲弊させた。中ノ国の城に到着してからは、しっかり食事を摂り湯浴みをしてぐっすり眠ったので、とても体が軽い。眠い目をこすって上半身を起こし、ふかふかのベッドから降りる。窓のほうを見遣ると、濃藍の空と城下町のぽつぽつとした灯りが見えた。
ジェマというあの青年魔術師はどうしているだろう。幼馴染みのルカはコーチネルと同じようなへろへろの状態だったが、彼だけは出発日と変わらずピンピンしていた。体力も適応力も2人とは違うということだろう。
「キュム。いる?」
コーチネルは呼びかける。すると、ベッドの中から白く小さな動物がぴょこんっと飛び出してきた。
「きゅむ!」
と、それは元気よく鳴いて首を縦に振った。長い耳、濡れた真っ黒い目、雪のように真っ白な体毛。青い宝石のついた首輪。シラユキウサギ、という北ノ国にしかいない生物だ。通常のシラユキウサギは体長40センチほどなのだが、コーチネルがキュムと呼んでいるそれは体長15センチほどしかない。普段はコーチネルのローブのどこかに隠れている。
1年前の冬、コーチネルが魔術の練習のために雪原に行ったとき、複数のマダラカラスにつつかれていじめられていたところを助けたのがきっかけで使い魔として契約した。召喚魔術でよく代表されるグリフォンやラミアーのように実質的な戦闘能力は持たないが、北ノ国の宰相である父親との通信機になり時には必要な物資や金品を転送してくれるという大切な役割を担っている。
また、きゅむきゅむとしか鳴かないが人間の言葉を理解できるらしく、仕草で意思表示をしてくれる。1年間ずっと肌身離さず共にいたおかげで、コーチネルとキュムは互いの言いたいことが分かる間柄になった。
「きゅむー。きゅむきゅむ」
「ジェマさんが一人で下調べに行った?もうすぐ帰る? ルカは?」
「きゅむむ」
「まだ寝てるかもしれない、と」
キュムはこくりと頷き、近づいてくるなりジャンプし、コーチネルの肩によじ登った。そして柔らかな体毛をコーチネルの首にこすりつけてくる。応えてよしよしと撫でると、キュムは気持ち良さそうに目を細めた。コーチネルは簡単に身なりを整えて、わずかに残った眠気を吹き飛ばすために窓を開けた。少し湿ったぬるい風が、コーチネルの銀の髪を揺らした。
目を閉じる。深呼吸する。血の巡りと共に、頭のてっぺんから指の先まで気力と魔力が充実していくのを感じた。

Spatial slit

Spatial slit

王国の元で国家公務員として真面目に働いていた魔術師、ジェマが与えられた勅命とは。

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 冒険
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-05-23

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  1. 第0話
  2. 第1話
  3. 第2話
  4. 第3話
  5. 第4話