五月病には白銀の指輪を

 5月病って奴ですかね。
 私、三浦皐月(みうら さつき)は一人暮らしのアパートの一室でぼんやりと白いレースのカーテンを眺めていました。4月から入社した仕事にも少し慣れてきましたが、まだまだ気疲れに耐えません。先輩からの仕事にも笑顔で積極的に行い、飲み会も上司のお酌を行い、私は日々頑張っています。
 表面上はうまくいっている……はずです。
 なのに、休日の友人からの遊びの誘いも断り、私は部屋着のまま日曜の朝、誰に会うこともなく怠惰に過ごしています。ちなみに彼氏はもちろんいません。
 明日、仕事……。
 そう思うと気持ちは限りなく落ち込みます。
 仕事、嫌だなぁ……。
 そんな気分が落ち込んでいる時は、部屋の掃除を行います。平日はあまり掃除ができないので、室内を掃除機で掃除し、布団をベランダで干しパンパン。きっと夕方には太陽に干されて暖かな匂いがついているこるでしょう。
 一通り部屋が片づくと外に出掛けてもいいかな、と思うようになりました。私は化粧を最小限にして薄い桃色のパーカーをシャツの上から羽織り、ジーパンとスニーカーを履くと外に繰り出しました。
 外に出ると、初夏の匂いが鼻孔をくすぐります。若葉の緑の匂い、肌には夏ほど強くなく、春よりも元気な太陽の日差しを感じます。気持ちのいい天気でした。


 近所の池のある大きな公園まで来ると、家族連れがキャッチボールをしたりする姿が見られました。平和だなぁ……そう思ってベンチに腰掛けていると、小学生ぐらいの男の子がこちらに駆け寄ってきました。よっ、と言って私の隣に腰掛けてくる男の子。私のパーソナルスペースを侵害している男の子に多少怪訝な想いを持ちましたが、私は内心の気持ちを隠しながら挨拶をします。
「こんにちは」
 そう言うと男の子はニシャッと満面の笑みを返してくれました。
「こんにちは!」
 元気な声に驚きながらも私は辺りを見回します。
「えっと、君一人? お母さんは?」
「うん、ひとりだよ」
「そうなんだ」
 男の子は笑っていますが、私は内心困っていました。どうして隣に座ったんだろうこの子は? 私が知る限り、小学生の男の子に知り合いはいません。
「お姉さんはひとり?」
「うん、そうだよ」
「じゃあ一緒だね」
「う、うん」
 悪意のない笑みに私はとうとう訊ねずにはいられませんでした。
「君は、私に何か用があったのかな?」
「ううん、ないよ。でも話したかったから」
「話したい?」
「そう、おねえさんキレイだったから、話したかったの」
「……」
 私と話したかった男の子が隣にいます。これはまさかナンパですか!? 私、小学生にナンパされているんですか!?
「えっと、そのね……」
 私が照れていると男の子が私の右手の薬指を指差した。
「その指輪キレイだね!」
 えっ、指輪? あっ、ああ指輪がキレイだったから話したかったことですか。私じゃなくて指輪ね、ああ、分かりましたよ、このクソジャリが。
「ぼく、知っているよ。それコンヤクユビワでしょう?」
 私は笑った。
 あらら、地雷踏まれちゃったな。
「よく知っているね。そう、これは大事な人との大事な約束の指輪なんだよ」
「へー、その大事な約束ってなに?」
「結婚って言って、一緒に暮らすことかな」
「一緒に暮らすんだ、よかったね。さびしくないね」
「……うん、そうだね」
 私は笑いました。
 精一杯笑いました。
 でも、胸がジクジクと痛みます。声が少し震えました。
 さびしくない……。
 そんな訳がない。
 私は精一杯嘘をつきました。


 私と彼が会ったのは4年前。
 会社の入社式の会議室が分からずにオロオロしている私に背の高い男性が会議室の場所を教えてくれました。それが彼でした。それでもオロオロしている私に呆れて、彼が会議室まで先導して『フラフラすんな、前はこっちだ。しっかり前を向け』とお叱りを受けて、怖い人だなと思いました。
 怖かった先輩は、私の指導係で色々とお叱りを受けましたが、決して私を見捨てることをしませんでした。そんな彼に私は惹かれていきました。そして、交際がはじまり、2年前、彼からプロポーズをされたときは本当に嬉しかったです。そう、すべてが順調でした、あの日までは。
 その日は結婚指輪を選びに行く日でした。でも彼は約束の時間に来ることはなく、彼が交通事故に巻き込まれて亡くなったと聞いたのは、家に帰ってすぐのことでした。私の左の薬指には永遠に彼から指輪をはめてもらうことはなくなりました。
 ……泣いて、泣いて、やっと今、少しですが歩き始めました。転職もして、順調に前に進んでます。でも、それで本当にいいのかな? って思うんです。
 私は彼を忘れて幸せになれるのかなって思うと、胸が耐えきれないほど痛くなります。
 彼を忘れていく過程を歩む私を、私は大嫌いです。
 いつか彼とは別の人に私の左手の薬指に指輪をはめてもらう日が来ることがたまらなく嫌悪感を持ちます。
 だから、私は今でもこうやって右手の薬指輪をはめ続けています。
 未練がましくてもいい、この指輪が私と彼とが愛した証だから。
「……お姉さん、泣いているの?」
 気がつくと、瞳から涙が溢れていました。何、泣いているんだろう? こんな小さな子の前で。私は慌てて涙を拭って笑いました。
「ああ、ごめん、ごめん。ちょっとお姉さん、五月病って病気であんまり体調が良くないんだ」
「だいじょうぶ?」
 男の子が心配そうに顔をのぞき込んできました。私は胸に罪悪感が広がるのを隠すように立ち上がろうとしました。しかし、私の袖を引っ張る男の子に遮られます。
「おねえさん」
「うん?」
 男の子がポケットから銀色に輝くものを取り出しました。
「これは?」
「ぼくが作った指輪。あげるよ」
 それは白銀の折り紙で作られた指輪でした。それを男の子は満面の笑みで差し出してきました。
「大事なものなんでしょう。もらえないよ」
「いいよ。お姉さんの指輪、ひとつだけで、さびしそうなんだもん」
 私は右手の指輪を無意識に見つめていました。指輪は言われた通り、寂しそうに鈍く輝いていました。
「ありがとう」
 そう言って、私は一瞬躊躇して、左手の薬指に男の子からもらった指輪をはめました。その指輪はお世辞にも綺麗なものではなかったですが、男の子は満足そうに笑いました。
「うん、とっても似合っている」
 私はその笑顔に応えるように、笑いました。
 久しぶりに歯を出して、本当に笑った。
「ありがとう……」
 私はもう一度、男の子にお礼を言っていました。


 その後、男の子と別れて、部屋に戻るとお布団はだいぶ太陽に辺りポカポカとしていました。私は押入の隅に隠してあった段ボール箱を取り出しました。中には彼との思い出の品がいくつもありました。旅行に行った写真、プレゼントなど。その一つ、一つが輝いていました。私の宝物達。その中から紺碧の小さな小箱を取り出します。彼からもらったプロポーズの指輪、私と彼の絆。
 私はその小箱を開けて、右手にはめていた指輪をそっと外します。
 小箱に指輪を入れて、パタンと閉ざしました。
 ……ごめんね。
 私は、前に向かって進みたいから。
 同じ所で立ち止まるのは、今日で一旦おしまい。
 また明日から、頑張って生きていくね。
 私は段ボールを押入に入れようと立ち上がると、バランスを崩しました。
 その時、段ボールの中のものがいくつか出てしまいました。
 宙には写真がいくつも舞い、降り注ぎます。
 写真を見る度に思い出が蘇ってきます。
『……結婚しよう』
『一緒に住むのって大変だな』
『味付薄すぎじゃね』
『はじめての旅行だからな、思い出の品、買ってやんよ』
『北海道はデッカイどう!』
『なに買っていいのか、分からなくて悩んだけど、喜んでくれて嬉しいよ。お誕生日おめでとう』
『付き合ってくれないか?』

『フラフラすんな前はこっちだ、まっすぐ前向け』

 はじめて会ったときのちょっと怖い声が蘇りました。
 私はいつものように弱々しい声をあげます。
「はい……」
 私はあの時と同じように笑います。
 でも、瞳から溢れる涙だけは止まってくれません。
 ……私、前、向くね。
 フラフラせずに自分の足で立って、歩いていくね。
 私の前に一枚の写真が舞い降りました。
 その写真は満足そうに笑う彼の写真でした。
 しっかり前向けよ、そう彼が言ってくれる声が聞こえた気がしました。
 私はもう一度、今度はしっかりと頷きました。
 五月の日、日曜日のある週末。
 私はもう一度歩き出す決意ができました。

五月病には白銀の指輪を

五月病には白銀の指輪を

五月病ってやつでしょうか。 仕事は順調。 それでも埋まることのない空虚な思いがずっと胸にありました。 そんな五月のとある日曜日。 気分転換に出掛けた近くの公園で出会った小学生の男の子。 その子が私の薬指を訊ねた時から始まる物語。 ちょっと切なくて再生の恋の話。

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-05-23

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