ENDLESS MYTH 第1話-8
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衣服は虚無の彼方に焼き飛ばされた。あるのはただ、一糸まとわないメシア・クライストの肉体だけ。けれどもその肉体すらも、光が貫通し、透き通っていた。輪郭は曖昧に空間と溶け合い、肉体という器から意識が抜け出しているように、彼には感じられた。
視線を前方に向けると、飛び来る光の粒、それらが尾を引いて向かってくる根源には、高光度の光源がきらびやかにたなびいていた。
すると無限に遙か遠くまで、果ての見えない空間に、春先のそよ風のような声色が訪れた。
“幾つの世界が興亡したでしょうか”
男女の区別が着かない声は、メシアに問いかけるように語った。
えっ? と喉まで出かかった声音を引いたのはメシアである。不気味な状態を今日という日に幾つも目の当たりにしてきただけに、慎重に行動せざるおえなくなっていたのだ。
“無限を凌駕した数多の世界は、発現と消滅を人間の単位グーゴルを幾つ繰り返しても、計ることのできぬ永劫を繰り返してきました。英雄、救世主は無数に生まれ、戦い、そして消えていったのです。すべては伝説となり神話となりました。無限の戦いはしかし、ただここへ通じるための戦いであり、前任者たちは、貴方が生存するために存在していたのです。貴方が救世主であり、最後なのです”
声がいう意味をメシアはつかめなかった。
「あなたは、誰」
そう問いかける透き通った唇を開くのがようやくである。
“名は《オルト》。神々へ助言するもの”
神々? メシアが疑問を訊こうとした次ぎの瞬間、光の雨は急激に勢力を落とし、空間が回転するような感覚に陥ると、空間が漆黒に覆われた。
けれどもただの漆黒ではないことを、メシアはすぐに理解した。物体化した自らの肉体に、泥やスライムのようにへばりつく闇は、激しく気分を落ち込ませ、吐き気がするほどに、彼の肉体を蝕むようである。
足下は動物の内臓を敷き詰めたような粘りと悪臭を放ち、そこから脚を這い上がってくる、虫のような小さな粒は、瞬く間に彼の感覚を麻痺させ、心臓を冷たい指先で掴むようであった。
顔を引きつらせ、もがくメシアだったが、流砂の如くもがけばもがくだけ、深みに肉体が呑まれていく。
粘つく闇を払いのけ、その場を脱しようとするメシアは、その時、目の前の闇が急に視界を有した事実を認識した。霧が晴れるように、豪雨がやむように、砂嵐がおさまるように、闇は遠くまで見据えられるようになった。
高速道路。彼の前には延々と伸びる、さっきまで高機動車が停車していた、街を動脈のように突っ切る道路の上に立っていたのだ。
だが、風景は破壊され、食い尽くされ、叫喚に塗れた絶望ではなかった。
“彼らの次元に入りました。これは遠く、遙か彼方に存在する彼らの意識。けして呑み込まれてはなりません、けして――”
オルトと名乗る中性的な声が、ボリュームを絞るほうに、こときれた。
幻覚であることに変わりはない。と、ここ数時間の現象を体験したメシアは、今度もまた、現実へ境目をこえて戻る時を待つべく、悠然と高速の白線の上を素足で歩き出す。未だ、彼の肉体は裸身であった。
幽霊の歩行といった様子で高速を歩く。その目の前には闇からぽつねんと1つの丸いものが漂ってきた。波間に浮かぶクラゲをメシアは脳裡に浮かべた。
眼を凝らして眼前まで、風に吹かれるようにきた物体を認識した刹那、ぎょっと後ずさりしてしまった。
目玉。言葉にすると、陳腐で冗談の響きに聴こえるが、実際、現実に血走り、毛細血管が走る全長2メートルを越えるそれが現れならば、悪い冗談にしか思えないだろうし、メシアも悪夢の中に溺れ、沈んだ思いであった。
眼球はゆっくりと彼の前に進み出て、ピタリと停止すると、中空に浮遊したまま彼を凝視する。
気づけば全身に冷たい汗が粒になっていた。脳をかきむしるような悪臭が鼻孔に突如として流れてくると、周囲の風景が再度、変貌した。高速道路のアスファルトの硬度が急激に失われて、足の下が泥のようにヌメヌメとし始め、視線を重力に負けたように落とした。
闇が再び這い上がってきたものとばかり考えていたメシアは、冷たい汗を再び発憤させた。脚の下には、ヌメヌメとした皮膚がぴっしり敷き詰められ、血管が浮き上がり、さながら人間の体内といった光景だ。
それが見渡す限り道路を埋めている。それかばりか樹木の根が這うそれと類似したように、空間全域に広がっていくのだ。あたかも見えない壁を這い上がるように。
驚愕と戦慄が全身を駆け下りるのを感じたメシアはだが、それで戦慄の劇場が終幕とはいかないことを見せつけられた。空間を浸食すると同時に、肉の壁面、地面には複数の光る物体が現出した。それこそ肉の壁を覆い尽くす勢いで。しかしそれがなんであるのかを理解した時、メシアの顔は引きつった。
眼だ。彼の前に浮遊する目玉と同じ、数多の眼が、瞼を広げ、一斉にメシアを凝視した。
あまりの恐怖に逃げ出すメシア。が、背を見た時、背後にもまた行き先の分からない内蔵の道が続くことで、自らが逃げ場を失っているのを咀嚼した。
と、メシアはこの地獄と化した世界に不可思議な物があることに気づいた。暗闇の天に瞳の如く輝く青い月。それが腐敗する世界を照らしている。
ふと、メシアは何かに背中を触れられた気がしてさっきまで見ていた方向へ振り向くと、浮遊する不気味な目玉は消滅していた。代わりに赤い月が今度は天に輝いていた。この世界に青と赤の月が現出し、彼を照らすのである。
と、メシアは異常に肉体が熱をもっている事実に気づく。天から視線を世界に戻した時、周囲が炎に包まれているのを見た。火の気などもちろん皆無。突拍子もなく始まった燃焼は、世界を再び覆い尽くした。まるで自らが消失を望んだ肉の世界を焼き尽くすように。
が、その炎が突如、渦を巻き始め、彼の前にトンネルを形成した。炎は空間全域を覆い尽くしたのか、肉の壁も目玉も青と赤の月もそれぞれみることはできない。
その代わりに現れたトンネルの遙か遠くにまばゆい光を彼は目撃する。色は常に変化を起こし、虹色という表現が最も相応しいだろう。
光は彼の眼前、数キロの位置で光を放っている。当然、彼の視力が優れていても、ぼやけていた。しかし色合いはハッキリと分かる。
けれども、1度瞼を上下させた時、光源は彼の目の前、鼻先に姿を現した。それは人の形をしていた。
“挨拶をしておこう”
オルトを思わせる口ぶりと声色で光は呟いた。
“いずれ、時間も空間も次元も超越した場所でお会いします。私は《トゥルー》。すべてを根源の使者です”
声はそれだけを告げると、光の人型と共に消滅した。本当に挨拶だけをするように。
ENDLESS MYTH 第1話ー9へ続く
ENDLESS MYTH 第1話-8