ゆめうつつ

わたしの記憶にあるいくつかのこと

 二千三年五月凶日、夜桜の下で私はあの男に出会った。
 小雨の漸く止んだ午前二時、眠れず伏して窓の外を眺めていた私は、手を付いて起き上がった。倒した瓶からこぼれた眠る為の薬――コピーしたようにそっくりな形状の錠剤の山を払いのけ、傍らに置かれていたコップから温くなり過ぎた水を飲み干し、裸足に草履を履いて外へ。
 雨上がりの空を覆う雲は、月の光を透かし掌で掴めそうな狭い範囲だけ真珠色に鈍く輝き、その仄めかしに気付いたのは私と桜だけ。他の草木やアスファルトはそれに気付かず、露を濃く纏って眠っている。

 春の夜はあまりに寒く、裾の長い上着を着ていても身震いした。先程から足が震え、そう言えばコップに映った私の唇も青かった。薬の飲み過ぎだと、腫れた喉と共に私は自覚している。
 黒く湿っぽいアスファルトをのろのろ歩き、歩道沿いに植えられた桜の、とりわけ見事な一本に近付いた。

 冷雨に打たれ、世を儚んだ花弁たちは既に飛び降りている。まだ数えられぬ枚数ではない地に伏した花弁を避けて歩く合間にも、ひらひら、私の頬や髪を掠めて身を投げた。
 何故か濡れた地面に貼り付いたのは白、身を寄せ合って枝についているのは薄紅色なのだった。
 転落した花弁を悼む為に私は俯いた。そして、宵闇に馴染んで元々青褪めていた私の爪が白、肌が蒼に塗られているのを、見た。



 息を浅く吐き、一歩、二歩足を進める。風がひっ、と喉を詰らせた。瞬間。
 向こうから骨色の髪靡かせて、血色の瞳光らせて、あの男が真直ぐ歩いて来た。髪は風も無いのに吹き上げられ、頭にある2つの角を目立たせる。頬と同じ色した青褪めた唇、白い牙と同じ色した足の爪。着崩した雪白の重ねの袂に組んだ両手を突っ込み、足は裸足に草履。

 身の丈は恐ろしい程高く、瞳はこの世ならぬ者の常、瞳孔が針のように細い。それでも整った高い鼻梁、牙が突き出ていようと品良い唇。彼は美しかった。

 驚きに目を見開く間も無いまま、見詰め合う時間すら惜しんで、私たちは真直ぐゆっくり歩いて行く。
 同じ空気を吸っている、それだけで心が窒息する程の幸福。胸の潰れそうな懐かしさ、脳が拉げてしまうような悲しみ。
 話す事がたくさんありすぎて、互いに口を開けなかった。

 一言も喋らぬまますれ違った折、月が薄雲の衣脱ぎ捨てた。
 私の肌は常の色を取り戻し、振り返る。鬼は、消えていた。

 許して下さい、このような罪があるとは知らなかったのです。
 誰にでもなく、私は請う。
 今も。

 「助けて……」
溜息から生まれた言葉は微か過ぎ、自分の耳にも聞こえはしない。
その頃、星はまだ作られて居ず、空を支配するのは太陽と月だけだった。新月の闇の中、鬼の猫めいた縦長の瞳だけが、両刃の細い短刀のような光を放っていた。
 溺れる直前の、足を水に浸した者特有の冷静さを保って、私と自身に忠告する。
「お前が掴まらなければ。私の爪では、お前を切り裂いてしまうよ」
 けれどその腕は白く滑らかで、その力からは信じられぬ程細い。爪を掌に隠すように握り、指の付け根で私の頬を撫でた。

 震える私の腕が背に回ったのを衣の上から確かめ、水が波立ち始めた。
 衣擦れの音はおろか、肌の擦れ合う音すら立てず、ゆっくりと揺れる。部屋が震える水底になったように、私は息も出来ず身を捩らせる。
「私に口付けてはならない。私の牙では、お前の唇を噛み裂いてしまうから」
 けれどその唇は、私が今まで見たどんな人よりも優しく美しい。牙の触れぬように、私の唇にそっと舌を這わせ……



 ……何時の間にか、窓の下で夢を見ていた。呪いに焚く香から立ち昇る煙に似た月の微光に惹かれ、窓辺に身を寄せていた内に。過去の、そして未来の願望の。
 月光が、硝子を透かして部屋に差し込んでいた。カーテンを開いたままの窓から投げかけられるほの白い光は、板張りの床に小さな泉の虚像を作り上げている。
砂漠に不定形に現れるように、部屋の奥から窓辺に移動していた、床の泉の中に私は浮かんでいた。

 空の最高位に誇らしげに君臨していた月は、今や高みから墜落しかかっていて、今や床にくず折れながらも窓枠の内に見えた。
 無言の悲鳴を上げながら夜の手で引き摺り落とされていく月を、美しさに感嘆した故の無感動さで私は眺めていた。星は、私の無感動さに厭きれかえったのか姿を見せない。
 闇に荷担した黒雲が、ふわり薄衣を月に投げかける度、泉は白にほんの少しずつ青が流し込まれる。

 空の波打ち際。光が肌に纏わりつき私を青く染め抜く。光というよりは、乾いた青い水のよう。濡れた肌に砂粒が張り付くように、私はぴたりと月に全身を塞がれ、皮膚呼吸が出来ず喘いだ。
 一枚、もう一枚と薄雲を投げかけられ、月は一層青褪めていく。

 光以外の何かが、私に纏わりついている。白く細い糸を辿れば、長い髪だった。凍ったかのように青い私の肌は濡れ、溺れる寸前のような息が耳に触れた。
 星は現れぬ。そして、月は一瞬で、闇の内に引き摺り込まれた。

 今は完全に青い泉から、水底に膝と手をついて起き上がったようだった。私は水底に背を預けていた所を、引き上げられた気がした。

 月が、黒雲の濃い幕内で闇に陵辱されている。月光を浴びる全てのものが、月の虚血をまともに浴びて、尚一層青く染まった。薄雲の合間から、塞がれた口から洩れる悲鳴のような微光が注いではいる。

 爪の伸びた指。穢れを知っている手、肉を切り裂く腕。私の頬を首筋を撫で、眠りが引き上げていた裾の、両膝を割る。弓形に大きく仰け反った私の背を、支える事は出来ぬも道理。
私は両足を囚われ溺れている。彼もまた溺れ、動くことすら、背に突き立てられた爪すら忘れたように。
 覆い被さる髪の合間の、象牙色した角が小さく光った。

 月は息も絶え絶えに黒幕から逃れ出て来た所に、硝子ごしに猥らな戯れみせられて、息すら忘れた。
 明朝、胎内から血の流れるのを初めて見た私は、驚きと痛みに蹲った。
 まだ私の歯車は動き、望まぬ時を刻んでいる。

 雪の遅い冬の事。私は道路の真中に作られた公園の、冬囲いの木々の間を歩いていた。もう数ヶ月もすれば雪像が多く立ち並ぶこの場所も、今は人影は疎らだった。
 乳母車に乗ったその赤子は、私の着ている別珍の服と同じ、赤色の布を掛けられている。すれ違う折、母親が微笑んで言った。
「どうぞ、見てお遣りになって」
 屈み込み、赤子の柔らかな頬に触れようとしたが、歯の無い口で叫ばれ私は震え上がった。
 わたしたちはまだ此処に居るぞ、お前の断罪の為に、生きて。母親は薄い笑みを貼り付けたまま、私を見る。
「どうかしました?」
痛かった、腸を屠られるのは抱き殺されるよりずっと、冷たくて苦しくて――痛い痛い痛い――赤子は顔中を口にして喚き続けている。私は背を向け、駆け出した。


 骨色のショールを巻き付けた私は、ピンが外れたそれに足を取られ、水の枯れた噴水の前で転んだ。
「おや、お嬢さん。久し振りだね」
私はつと目を上げた。

「あぁ、本当に。そして貴方も私を責めるのね」
「あの時は鬼に喰われた身を呪ったが、今になって思うと、愛されるよりは余程良い。だから休んでおいで、まだ足も痛むだろう」
彼は古ぼけた莚を指差した。

 見る者の居ない紙芝居。
「お嬢さんの物だよ」白紙の――薄闇色に染まった紙芝居を指差し、彼は言う。
 生成りのタイツと赤い靴を履いた体を投げ出し、藁越しに冷たい地面に左頬を押し付けて。目を閉じて、見るは彼方の物語。



 新月の夜に現れて、日の昇る前に去って行く。
「決して外に出てはならないよ」
わたくしの住む村は、どうなっているのでしょう。父も母も、戻って来ない。そう聞けば、夢かも知れぬこの日々が終ってしまう気がして、私は何も言い出せないで居る。
 障子の向こうから照る、白い無地の日光を浴びて、私は眠る。

 「姿? 昔はお前より余程美しかったよ。……なにもお前が醜いというのではないよ。私は人ではない、比べるのが間違いというもの」
醜ければ通ってなど来ぬ、そう言って私に頬を摺り寄せた。その肌は赤子程にも滑らかで、女人よりも白い――否、青い。


 月の、或いは勿論太陽の目に入らぬように、私たちは新月の下で声を殺して愛し合った。時には月の出ない、止む気配のない雨の降る夜にも、雪がすっかり山に真白の寝具を着せてやろうと奮闘している夜にも、密やかに。

 熱の引かぬ体で庭に出て、雨を浴びながら背中越しに振り返る。私はまだ上身を起こしたばかりで、笑った。否、笑おうとしたが、冷水を浴びたように体が強張り、歯の根が鳴った。
 雨の中、ほんの僅かの気紛れに、月が顔を出していた。
 けぶる光は淡々と、しかし容赦なく、雫を纏った草木を、ぬかるんだ地を、隠しようも無い鬱血の花を、あまねく照らす。照らし出す。黒い瞼を持った、見下ろす眼の形。卵色の瞳の中には、あろう事か曇り色の瞳孔が、真っ直ぐ私達を見つめていた。
 銀に染められた雨が音もなく降る中、鬼もまた凍りついたように動かない。

 地上を一瞥して、面白がり憤慨し月は姿を隠した。目は闇に慣れず、見えぬものを前方に睨んでいた私に、冷たいものが触れる。それは私から衣を奪い、どこか手の届かぬ所へ放った。

 「それが、人の肉の味だ。お前の村の……お前の親の」錆びたような味が、口内に広がった。「あぁ、知ってはならぬ……何という、罪の、」振り解こうとした鬼が震え、嘆く。これ程の歓喜を、嘆かずにはいられようか。
 「月に知られては、もうわたくし達は逢えますまい。ですから、どうか」
舌が絡まり、彼の牙を掠った瞬間に、新たな血の味が染みた。

 次の夜に、小さな星達が並んでいた。空の無数の目は、血と傷に塗れた骸を眺めている。
 引き寄せた折、再び鋭い爪が皮膚を突き破った。既に私に痛みも血が流れる事も無かったが。


 今もまた、私は彼を、彼の腕だけを求めて。
 手の届かぬ場所で生き続けなければならない。何度でも忘れて。
 唯、それだけの話。


「いつか必ず終るわ。全てのものはいつか必ず終る。そして始まるのだわ」
「まだ始まったばかりかも知れんがね。お嬢さん、着物の方が似合うよ」

「ありがとう。では凶日は、出来る限り着物を着ます」
私はもう一度ショールを掻き合わせ、空を見上げる。

紙芝居の扉は閉まり、一等星が私に目を据え、瞬きした。

ゆめうつつ

ゆめうつつ

  • 随筆・エッセイ
  • 短編
  • 青年向け
更新日
登録日
2015-05-20

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