点景

 いつからか、気づけば視界の端に小さな染みが出来ていた。眼球の動きに合わせてその点は動く。とても小さな点なので、日常生活には何の不自由も無い。しかし本を広げた時に文字を遮ったり、映画のスクリーンに映し出された俳優の顔の上を動き回るそれは、煩わしいものだった。

 「飛蚊症ですね」
眼科で医師の下した判断はそれだった。
「なんですか?それ」
聞くと、水晶体の一部が濁った事によっておきる現象で、何の心配も無いのだという。
「どうしても気になるのでしたら、手術という方法もありますが・・・・・・。その程度でしたら経過観察で問題ないでしょう」
「そうですか、分かりました」


 問題は無いと聞いて、私はそれをさほど気にしなくなった。慣れも手伝い、その染みは当たり前のように私の視界を漂っていた。
「おや?」
 絵を生業にしている私はある日、白いキャンバスの上でふと、その変化に気付いた。その染みは最初は糸くずのような形をしていたが、今では小さな丸を形作っているのである。
 水晶体の濁りが、形を変えることなどあるのだろうか。私は学生の頃に生物の授業で肉牛の眼球を解剖した事を思い出す。屠殺場から運ばれてきてまだ間もない眼球から取り出された水晶体は、美しく澄んでいた。
 柔らかくひどく透明な入れ物に、水を並々と注いだような凸レンズ型の物体。生き物の体内には、こんなに美しいものがあったのか。私は言い様の無い感動を覚えた。
 生命を美しいとは感じなかった。他の生命を喰らい、搾取する事でしか生きられない、無力な有機体。私が感じていた動物という生命へのおぞましさを、あの水晶体は少しだけ軽減してくれたような気がする。あの柔らかい感触を正確に覚えているのだとしたら、中で濁りのある部分が流動したとしても不思議では無いだろう。私はそう思い直した。


 空を見上げる。描くのは建物や樹木。動物以外のもの。空を入れて、プラタナスと寺院を描く。集中してキャンバスを見つめた途端、私は思わず声を上げていた。別な風景がそこに映し出されていた。
 その風景は、眼の中にある染みなのだと私は気付く。ただの黒い点だとばかり思っていたその中に、精巧なミニチュアの様に風景が収まっている。私は我を忘れてその風景に見入った。
 廃墟である。廃墟だけの、石造りの巨大都市。所々に細い葉を持つ草が生え、土が剥き出しになった道が見える。人っ子ひとり、いや、生命を持つ者は何一つ居ない。空は薄ぐもり。
 私は憑かれたように、その風景から眼を離さず描き始める。西欧とも中近東とも付かないその建築様式には見覚えが無い。私の眼球は何故こんな風景を内側に留めているのだろう。奇妙なもの。しかし私はそんな事を考える余裕も無く描く。


 もっと、もっと広いこの都市を見たい。私の渇望に応えるかのように、その点は日々拡大していった。私は片目に浮かんだその風景を見るためにほぼ常時、何も異常の無い方の眼を閉じておくようになっていた。その点はもう、私の視界の殆どを覆うようになっている。
 「何故、片目を閉じているの?」
そう訊かれて私は答える。
「見たいものが見えるんだよ。こっちの眼は、魔法の眼なんだ」
ふうん、と気の無い返事をして、私のその眼を覗き込んだのを、風景の隙間から捉えた。
「貴方の目には、何も映ってないわ。私は見られないのね。残念だわ」
そんな会話を交わしたのは、何時だったのだろうか。


 私は今、病院の一室にいる。素直に病室にいると言って良いのかもしれない。正常な方の片目を開けれたなら、鉄格子のはめ込まれた窓や、素っ気の無い白塗りの壁が見えるのだろう。その点景が視界一杯に広がった時、私はもう片方の現実を見る瞳を、自ら潰してしまった。
 音声だけが、すっかり点景に入り込んでしまった私に届く。
 あなたの泣き声も、聞こえていたよ。


 私の踏みしめるのは、もう何年も風にさらされた土の道。時折手で撫で回すのは、もうすっかり風化した廃墟の一角。空はいつも変わらない薄ぐもり。自分自身の姿が見えないのは、この風景が動物の生命の存在を許さないから。
 私は狂ってしまったのだろうか。今は、それに答えてくれるあなたは居ない。時折点景の中で、微かな風を感じる。誰かが通り過ぎたようなその気配は、あなたにも似ている気がするのだけど。

点景

点景

視界の端に小さな染みが出来ていた

  • 小説
  • 掌編
  • 青年向け
更新日
登録日
2015-05-20

CC BY-NC
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