雪の花

Mi

 雪が降り始めて、僕はまたあの場所に向かう。
 冬の海だ。雪の積もった砂浜、僕は雪の中を泳ぐように其処へ向かう。
「お早う」
雪の中に横たわり、空を見つめていた彼女は、僕に顔を向ける。長い髪に包まれた頭と、白く細い腕は硬く凍った雪の上に載せて、身体はすっかり雪の中に沈み込んでいる。その姿はまるで、雪の中のオフィーリアだ。
 空からは、時折、かすかな雪が降る。僕は、彼女の頭の方に屈みこんで、話し掛ける。
「空を、見ていたの?」
かすかに頷いた様に、僕は感じたけれど、赤い小さな唇は結ばれたままだった。
「空は、綺麗」
透き通った声で、不意に呟く。僕も空を見上げたけれど、その日の空は鼠色で、綺麗だとは思えなかった。それくらいなら、蒼い、彼女の横にある海の方がよっぽど綺麗だと思う。
「永遠だから」


 「海も綺麗だよ。ほんの少し首を傾ければ、海が見えるのに」
「海は、煩いわ」
波の音や、海の中のものがひっきりなしに彼女に語りかけてくるのだという。
「私は、永遠のふりをしているけど、それは偽物なのだと。全てのものは、絶えず変化しているのですって。波のように」
「空だって、毎日変わっているのにね」
 彼女は沈黙した。彼女の顔や腕に降る雪は、その肌に載ると同時に溶けて、積もるという事が無い。空を見ていると、そこへ還るものたちの甘やかな、歓喜を感じるのだという。
永遠、無になる事への透明な喜び。
「永遠でいたいの」
「無になる?」
彼女は、ゆっくりと首を横に振った。その仕草はとても静かだったけれど、瞳には強い意志が宿っている。
「形を永久に保つ事は、永遠だわ。この空と、貴方が私に贈った宝石たちは、同じではないけれどどちらも永遠でしょう」
「君は宝石になりたいんだね」
「無になれば、忘れてしまうわ。貴方が、私を忘れるように。私も貴方を忘れていく」


 お互いが忘れたことさえも忘れるのと、片方が忘れてもう片方が忘れることができないのは、どちらが痛いのだろう。
 その日は吹雪で、僕は立っているのもやっとだったけど、彼女は涼しい顔だ。甘栗色の、ゆるいウェーブのかかった髪は、雪や風と戯れて時々顔を打つけれど、すっかり冷えてしまった顔の皮膚の感覚はもう無いらしい。


 春が近付いてきた。日中、暖かく雪が緩まるようになると、途端に彼女は不機嫌になっていった。雪が溶けて僅かに下がり、覗いた首は、青黒く変色し出していた。
「びちゃびちゃして、気持ちが悪いわ」
彼女は何度となく言った。


 僕がその日、霙に変わった雪の中を傘をさして海へ行くと、海に向かい彼女は座り込んでいた。
「……雪が溶ける事くらい、知っていたわ」
声が少し震えていた。


 僕が、彼女が空に還るのを阻んだんだ。雪の中に、彼女を連れていって。流れる時間から、彼女を雪に埋めて隠した。 いくら変わらないように願っても、身体は心を無視して形を変えてゆく。いくら雪に時を埋めても、崩れていく肌は止められない。
 雪に戻ろうとする彼女を支えようと手を伸ばすと、彼女は身を引いて被りを振った。
「崩れるわ」


 雪は所々溶け初めて、泥と混じって汚れていった。見え始めた土気色の身体に、残った雪を掛けようとする僕を、君は止めた。
 地面から緑が生え始めて、彼女の足はもう土になっている。最後まで残っていた顔も土色になった頃、花が咲き始めて僕は温かい風の中、雪の無い地に立ち尽くす。
 波の音は穏やかに僕を包み込む。見上げた空は、どこまでも透き通る、薄い青だ。



 雪が降り始めて、僕はまた海へ向かう。

雪の花

雪の花

その姿はまるで、雪の中のオフィーリア

  • 小説
  • 掌編
  • 青年向け
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