夜更けの石ガエル

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夜の10時頃、家の門を閉めようと表へ出たところで
久しぶりに音楽家のサクマさんに会った。


「やあ。久しぶりだね」
と言ったサクマさんの表情が暗く翳って見えるのは、
夜の闇のせいだけではないらしい。


「ここのところ不調でね」
と、サクマさんは言った。
「どうしたんです?」と尋ねると、サクマさんは軽くため息をついた。


「音を奏でることが、純粋に楽しめなくなっているんだ」
とサクマさんは言った。
それから、上着のポケットから小さな細い笛を取り出して軽くぴるるーと吹いてみせたが
またため息をついてすぐポケットへ戻してしまった。


「以前は何も考えずに出来ていたんだがなぁ」
サクマさんはぼりぼりと頭を掻いた。


「今はそれが出来なくなっている。
 意味を持っていないとダメなような気がしてしまうんだ。
 音楽にももっと、深い意味を持たせなくてはいけないんじゃないかと思ってしまう。
 人生とか。命とか。癒しとか。希望とか」


そう言って言葉を切ると、サクマさんは視線を落として広げた手の平をしげしげと眺めた。
「僕の作る音楽はちゃんと意味を持っているだろうか。
 そうしてそれが、誰かや何かのために役に立っているんだろうか。
 必要とされるものであるだろうか。 
 とか、そういうことを思ってしまう」


はああ、とため息をつくサクマさんがずいぶん深刻そうで、
私は「そんなこと・・」と言ったきり先を続けられなかった。

そんなことない、と言おうとしたのに
サクマさんの言っている意味がなんとなく分かるような気がした。
だから、簡単なことは言えなかった。


ため息を吐ききったサクマさんはおもむろに顔を上げ、
「それで僕は、石ガエルのところへ行こうと思う」と、唐突に言った。


「へ?」
何を言っているのか分からず、私は間抜けな声で聞き返した。
「石ガエル?」


そう尋ねると、今度はサクマさんの方が意外な顔をした。
「聞いたことないかい? 四丁目の」
「いいえ?」
「ほら、うどん屋の隣りにあるえんじ色の板塀の家。
 あの家の門柱に石のカエルの置き物が乗っかってるだろう?」

「・・ああ」
たしかにその石のカエルには見覚えがあった。
ずんぐりとしたカエルが、宙を見つめて口をあんぐり開けている。
少しグロテスクで、可愛げのない置き物だった。


「あれが夜の12時を過ぎると、本物のカエルになるんだ」
真面目な顔をして、サクマさんはそう言った。
「そうして、面と向かった人間に対して何か言葉を発するらしい」
「・・言葉」
「お告げ、とでもいうのかな。その人にとって、何かとても役に立つようなことさ」


そんな話は聞いたことがなかった。
詳しく尋ねてみると、駅前の焼き鳥屋で何度も聞いたことのある話だと言う。
ほろ酔い機嫌のまま、連れ立ってそのカエルを見に出て行く人たちもいるそうな。


「本当かしら?」
私は眉間にシワを寄せてつぶやく。
「だって、要するに酔った人たちが口にする話でしょう?
 酔っ払いの言うことなんて、いつだって信用ならないじゃない」


「でもさ、もし本当なら」と、サクマさんは少し声に力を込めた。
「今のこの迷いを解決する答えのような、そういう言葉を聞けるかもしれない」


あんまり真剣なので、私もそれ以上難色を示すことができなくなった。


サクマさんは石ガエルに、今夜会いに行くのだと言う。
興味があるのと何となく心配なのとで、私もついていくことにした。



12時まで、私たちは駅前の焼き鳥屋で時間をつぶすことにした。
サクマさんが石ガエルの話を耳にするという、その店である。
もし誰かがまたその話を始めたら、もう少し詳しい話を聞いてみようという目的もあった。


焼き鳥屋は私たちが席についてしばらくするともう満杯になって、
サクマさんは初めのうちは周りの話し声に注意深く耳をそばだてていたのだったが
焼酎を二杯飲んだあたりから、それももうどうでもよくなってしまったようであった。


私たちは酒を呑み、むしゃむしゃと焼き鳥を食べた。
そうして下らない話で笑ったり、愚痴をこぼしてしんみりしたりしているうちに
あっという間に時間が経って、時計を見るともう12時を5分過ぎていた。
危うく本来の目的を忘れるところであった。


慌ててお勘定をして店を出て、石ガエルの家を目指して急ぎ足で向かおうとするが
お互い酔っ払っているのであまり急ぐとふらふらする。
気持ちよく酔っ払って、このまま家に帰って布団に入れたらさぞかし良いだろうに
わざわざカエルの声を聞くために暗い夜道を早足で歩いている。


そう考えるとなんだかおかしくて、ふらふらしながら二人で笑っていた。


商店街から少し路地へ入るともうあたりは真っ暗で
明かりのついた窓がぽつぽつとあるだけである。
人影は全くない。
うどん屋はもちろんすでに閉まっていて、隣りの石ガエルの家も明かりは全て消えている。
そのあたりは街灯もなく特に暗い場所で、よおく目を凝らさないと石ガエルの姿も見えないくらいであった。


昼間見るのと同じように、石ガエルは門柱の上に座り込んで宙へ向かってぱっくりと口を開けている。
闇まで飲み込もうとしているような、気持ちの悪い姿であった。


そして、やはりというのか、どう考えてもそれはただの石でできたカエルでしかなく
本物のカエルとは似ても似つかぬほど硬直した姿を保ち続けていた。


「ほら。やっぱり」と、私は小声で言った。
「これはただの置き物だよ」


ふうむ、とサクマさんは小さくうなった。
「おかしいなぁ。でもたしかにそう聞いたんだけれど」
そうつぶやくと
「ちょっと尋ねてみようか」
と言って、私が止める前にさっさとその家のインターホンを押してしまった。


ブーー、という大きなブザーの音が、外にいる私たちにもはっきりと聞こえた。


「ちょっと、何やってるの。もう帰るよっ」
と、サクマさんの上着の袖を慌てて引っ張ったが、サクマさんはちっとも動かない。
おまけにもう一度手を伸ばして、再びインターホンをしっかりと押してしまった。
ブーーと、また大きな音が家の中で鳴り響いているのが分かる。


「ちょっと!」「だって」「怒られるよっ」「聞いてみないと」
などと小声で揉めているうちに、玄関の明かりがぱっと点いてドアの鍵を開ける音がした。

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細く開いたドアの隙間から顔を覗かせたのは、くたびれた感じの痩せた中年男性であった。


「・・何です?」
いかにも無理矢理起こされたという感じに顔をしかめながら、その人は言った。


「ああ、どうもすいません」
やけに明るくサクマさんは言った。
「お宅のカエルの噂を聞いたもんですから。
 ぜひ僕も何かお言葉をちょうだいしたいと思いまして。
 あ、この人はただの付き添いです」


勝手に私のことも紹介したので、
「夜分遅くに申し訳ありません」と、私も慌てて頭を下げた。


おじさんはまだ顔をしかめたまま、黙ってドアの隙間から姿を現した。
寝間着の上に濃いグリーンのガウンを羽織っていて、
寒そうに前をかき合わせながら石ガエルの真後ろまで来ると
面倒くさそうにすっと片手を差し出した。


「500円です」


私とサクマさんは、その妙に生白いおじさんの手の平をしばらく眺めていたが、
彼の言った意味を先に理解したのはサクマさんの方であった。


「ああ、そうか。はい。ええ」と言って
サクマさんは上着のポケットから財布を取り出し、
じゃらじゃらと小銭を数えてそれをおじさんに渡した。
私はそれを見て途端に嫌な気持ちになってきたのだが
今さらサクマさんを止めるわけにもいかない。


受け取った500円をガウンのポケットにしまうと
おじさんはそっと片足を動かして足元をがさごそとやった。
それから声の調子を少し改め、
「では、いいですか」ともったいぶった口調で言った。


サクマさんは背筋をぴんと伸ばして気をつけの姿勢をとり、
「はいっ」と力を込めて返事した。
私も後ろから身を硬くして石ガエルの様子をうかがったが、カエルは相変わらず微動だにしない。


数秒間妙な沈黙が流れた後、ふいに
「ぐえええええ」
という、気味の悪い低い声があたりに響いた。


それが石ガエルの鳴き声らしいというのはなんとなく分かったけれど、
私にはどうしてもおじさんの足元から音がしたような気がしてならない。
しかしそのあたりには玄関先の明かりも届いておらず、目を凝らしても暗くてよく分からない。


鳴き声は一度聞こえたきり、いくら待ってもあとはもう、しんとした静寂が夜の闇に溶けてゆくだけであった。
遠くの方で、犬の吠える声が微かに聞こえた。


「・・・これは、どういうことでしょう?」
長い沈黙を破って、サクマさんがやっと恐る恐る尋ねた。


「ふうむ」と唸って、おじさんは思案気にあごをさすりながら
「まあ、時期尚早、ということですかな」
と、やはりだいぶ面倒くさそうに答えた。


「と、言いますと?」
「ふむ。つまり、まだ言葉にできる時期ではないと。
 まあ、そういうことでしょうな」


何だそりゃ。と、二人のやりとりを後ろで聞いていた私は思った。
あほらしい。やっぱりインチキなのだ。
それでお金まで取るなんて、いくらこちらが酔っ払いだからってバカにしている。
と、だいぶ酔いが覚めて酔っ払いでなくなってきた私は胸の内で吐き捨てた。


ところが、当のサクマさんは怒るどころか
「ははあ~」と感心したように低い声を漏らした。


「そうか。なるほど」
そうつぶやいて、一人で深くうなずいている。
「時期尚早。そうか。なるほど」


「ふむ。まあ、そういうことでしょう」
と、おじさんはもう一度繰り返し、それからくわああと大きくあくびした。
その口の開け方は、どことなく石ガエルに似ているようでもあった。


「ああ、どうも。夜分遅くに失礼しました」
酔っ払いのサクマさんもさすがにおじさんのあくびに気がついて、丁寧に頭を下げた。
「おかげで迷いがなくなりました。とにかく、しばらく精進してみます」


「ふむ。まあ、そうするがいいでしょう」
おじさんは本当に眠そうにそう言って、
「それでは、これで」
と言ってガウンの前を少し掻き合わせながら、ドアを開けてさっさと家の中へ消えていった。


がちゃっと鍵の閉まる音がして、それからぱちんとスイッチを押す音が聞こえて玄関の明かりが消えた。
あとはしんとして、何も聞こえなくなった。


「さあ、帰ろうか」
と振り返ったサクマさんの顔は、さっぱりと明るい表情に戻っていた。
私たちはしばらく黙って、来た道を駅へ向かって戻り始めた。


「結局、何にもならなかったじゃない」
やはり納得がいかず私が不満げに口を開くと、サクマさんは
「いやいや、そんなことはないよ」
と笑って首を振った。


「だって、やっぱりカエルはしゃべらないし」と言いかけた私に、
「ハハハ。立派な声が聞けたじゃないの」と、てんで取り合わない。


やっぱり本当に石ガエルが鳴いたと思っているのだ。
おじさんが足元をごそごそ動かしていたことを教えようかと思ったが、
サクマさんが鼻歌なんか歌い始めたので、気持ちがそがれてしまった。


でたらめな鼻歌を隣りでしばらく聞いた後、私は尋ねた。
「時期尚早って、どういうこと?」


鼻歌をやめてサクマさんは、しばらく真面目な顔で黙り込んでいたが
「要するに、まだまだ、もがかなくちゃいけないってことなんだ」
と、ぽつりと言った。


「もっと悩まなくちゃいけなんだ。
 誰かに答えを教わってはいけないんだよ。
 時期尚早っていうのは、そういう意味だと思う。
 だから石ガエルは言葉を発しなかったんだ」


そう言った。


びっくりして、そしてその後ものすごく深く納得した。
限りなくインチキに近いあの気味の悪い鳴き声から、
サクマさんはこんなにまともな結論を見出したのだ。
そうして本当に満足そうにしている。


「そうか」
と、私は自分の考えをまとめるようにゆっくりとつぶやいた。

「たくさん悩んでいいんだね。
 そうしないと見つけられない答えがこの世にはあって
 それは自分で時間をかけてつかまえないと意味がなくて、
 早く見つけられればいいということではないんだね」


サクマさんも深くうなずいた。
「そう。そうだよ。
 そういうことなんだと思う」


なんだか急に晴れ晴れとした気持ちになって、私は笑った。
そうか。そういうことなのか。
500円払っても、ちっとも損ではなかった。
そう思ったら、あのおじさんにすら優しい愛情が湧いたくらいであった。


家の前まで送ってもらって、私とサクマさんは「じゃあまた」と言って別れた。


背を向けて歩き出したサクマさんは、上着のポケットをごそごそとやった後、
取り出した物を口のあたりに持っていった。


ひりりい。ふるう。へれれれえ。
と、笛の音が微かに聞こえてくる。
夜も遅いので、控えめに、でも楽しげに、
笛の音とサクマさんの姿はだんだんと夜の闇に溶けて見えなくなっていった。
それを見届けてから、私も家の中へ入る。


体が冷えきってしまったので、しょうが湯を飲んで温まることにする。
流しの前の明かりだけ点けた薄暗い台所で、私はふうふうと息を吹きかけながら熱いしょうが湯をすする。
手の平で湯呑みを包み込むようにすると、冷たかった指先がじわじわと温まってくるのが分かる。
そのままの姿勢で、しばらく考えていた。


あんな胡散臭いものから答えを導き出すことのできたサクマさんについて。
それから、答えを見出す糸口というものについて。


「要は、それを見抜く自分の力か」
と、私は小さくつぶやく。
そのつぶやきは、薄暗い台所に思いのほか大きく響く。


体は、芯まで温まってきた。

夜更けの石ガエル

夜更けの石ガエル

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-05-20

Copyrighted
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