奸佞の檻

無故


宰相が薨じた、と朝廷に伝わるまでそう時を要さなかった。
正確に言えば、ほんの数月前まで宰相を務めていた<奴>が死んだのである。


開封宮城内に設けられた正殿の一つである「文徳殿」*¹。
いつもは早朝より待ち受ける宰相以下文武百官が、そこに御出ましになる天子と謁見する場として使われている。今日も殿内の広間では、百官達が官位ごとに左右に分かれ、整然と列を成していた。殿の奥の中心には、四段ほどの階がそれぞれ左、中央、右と設けられ、各階を登った先には龍を象った彫刻を施し、金色に鈍く輝いた皇帝専用の玉座が見える。

玉座の前では本来そこに坐すべき宋国の皇帝が膝から崩れ落ち、左右に控えた側近に支えられながら、文徳殿中に慟哭の声をいつまでも響かせていた。陛下の両手には<奴>が息を引き取る直前に草した奏稿が握られていた。だが奏稿は陛下が流された涙に濡れて墨がにじみ、もはやそこに記されていた文を解することはできない。

身体を陛下に北面して左右に整列する百官達も、まるで陛下の声に呼応するかのように嗚咽していた。どうやら彼らの大半は本当に<奴>の死を悼んでいるらしい。それは同時に、<奴>が朝廷内で敬慕されていた証でもあった。
かくいう百官の列の先頭に立っていた私も、衣服の袖で口元を覆い隠し、鼻をすすらせながら泣いていた、いや、泣いているふりをしていた。
実際の私は、<奴>に対する哀惜の情など微塵も持ち合わせてなどいない。しかし、上辺を取り繕ってでも、悲哀の様相を表すために演じなければならなかった。
ふん、怖いものだ。まるで<奴>の死に対して涙の一つもこぼさない者は狂っているとでも言いたいようなこの異な雰囲気...

「ック...」

思わず苛立ちが込められた声を吐き出しそうになる。だが必死に本心を押し殺し、私は一人の重鎮の死を惜しみ嘆くように振る舞った。


文徳殿での朝見が終わり、未だに涙を流し続けている陛下も宮中にお戻りになり、文武百官達も一時退廷して次々と殿外へ出ていく。私も例に漏れず、その集団に続こうとしたが、未だ漂う<奴>を悼む雰囲気に耐え切れず、殿内に少し居残り、機を見て百官達の最後に退廷しようとした。

「宰相殿?いかがなされたのです?陛下から留身*²をお許しいただいたので?」

その場から身を動かそうとしない私に対し、高官の一人が訝しげに声をかけてきたが、当の私はこの嫌な雰囲気から脱出することしか頭になく、全く耳を貸そうとしなかった。

私は目を閉じて少し気を紛らわせようとした。しかしこの空気を厭えば厭うほど、<奴>のことが頭から離れなくなっていく。
名状しがたい惨めな感情の波が、私に襲いかかってくるようで、その波の向こうには人影がぼんやりと映し出されていた。やがて人影は太陽が雲間から放つような光を浴び、徐々に色づき、そして人の姿を浮かび上がらせていく。

その正体はまぎれもなく、私が厭う<奴そのもの>であった。
<奴>の姿があらわになった時、心中に閉まっていた奴に対する苦々しい思いが一気にあふれ出てきそうになる。

病魔に侵されていた<奴>に代わり、私は宰相の座に就いた。それは子供の頃から憧れていた全ての百官達の頂に、祖父が私に託してくれた夢の果てに、ようやく辿りついた瞬間でもあった。だが...!

「我の十年宰相となるを遅れたるは王子明が為なり」*³

隣に先ほど声をかけてきた高官が立っていたのにも関わらず、私は憎々しげに<王旦>への怨み言に似た言葉をつぶやいていた。

                                                *
                 

進士に及第して以降の私は、宋国の中央政府へと入り、宰執となる理想をひたすら追い求め続けた。何を為せば遠く東京に君臨する皇帝の心を掴むことができるのか、そればかり推し測りながら、小官の仕事に専心していたのだ。
私は行巻*⁴により朝廷で名声を馳せていた人物の推薦を受けたことも、一族がらみの有力な人的関係なども持ち合わせていなかった。
條制も整いつつあり、宋国に生きるほとんどの者が等しく科挙を受ける機会が与えられ、試験に及第し、能力さえあれば生活の安定は約束されたも同然、などと言われる世。だが、中央政府である程度大成するには、人脈も少なからず必要なことは古より不変である。時には生まれついた身の丈の低さやうだつの上がらない風貌さえ弱みとなりえる。

そして何よりの足かせは私が江南の出であることだ。私が生を受けた南唐を初め、南方に割拠していた国々は、五代を経て中原を継承した宋に征服された土地であった。南北の気質の違いに加え、南方諸国の併呑を終えたばかりの宋には、支配者と被支配者という見えない従属関係のような空気が、朝廷内の官僚の間でも少なからず影響を及ぼしていた。北人、開封人が南人に接する時は、侮蔑的な態度を取ることも少なくはなかった。

南人は軽俊、奴らに与える高位の官はないだの、酷い場合は南人のために栄誉ある状元を与えるなだの言ってたな。
どうせ自分達の身の置き所を南人に奪われたくないというのが北人どもの本心だろうがな。南方の豊饒な地から得られる物資や多芸に通じた人才を享受しているのに、だ。


細々とした吏職を地道にこなし、時に機転を利かして租税を収集したりなど、少しずつ功を重ね、才を認められるようになっていたのだが、やはりそれだけでは、色々と障壁を持った私などは地方官として埋もれていく。
その時々の上官を喜ばせ諂うのでもない。必要なのはそいつを通して伝えられる皇帝をも唸らせる功を私が挙げたという事実である。人的関係に期待ができない私にとって、功は功でもとにかく大功が必要だった。

そしてその大功を立てる絶好の機会が巡ってきた。当時開封尹*⁵を兼ねて皇太子の位にあり、開封の租税免除の政策で先帝の不快を買っていた陛下を、廃嫡の危機から救いだしたのだ。事の真相を探るため、御史台*⁶が選抜し遣わした官の中に私はいたのだが、官の大半が陛下の処理に不正があったと主張する中、ただ私だけが陛下の政策の正当性を先帝に説いたのである。まさしく当時の陛下にとって、私は己の身を顧みず自分を弁護した恩人というわけだった。
一歩間違えれば陛下も私も共に失墜していたかもしれなかったが、おかげで多くの百官が羨む将来の皇帝からの厚い寵愛を掌中に収めることができた。大功を立て、寵愛という強力な武器を手にした私の前には、中央政府の宰執*⁷へと進む道筋が鮮明に照らし出されたのだ。

陛下という一番の後ろ盾を得た私にとって、もはや縁故関係の疎遠というしがらみもなく、むしろそこから発生する恩顧に悩まされることがない分、身軽になったとも言える。
少々卑俗な行為を犯したとしても、陛下は黙したままとがめない。そう考え始めた私は、自身にとって邪魔になりそうな他者を蹴落とすことも厭わなくなっていた。後で自分が仕出かした行為に悔やむこともあったが、貶める際にはそれなりの覚悟を決め、躊躇いを感じることなどはなかった。

他人を追いやるには根も葉もない噂より、どんな些細なことでも相手の弱みとなりうる事実を用いた方がよい。あとはその事実を膨らませ陛下にはさりげなく、そしてもっともらしい話をでっち上げて吹き込み、徐々に疑心を抱かせる。
陛下の性格からしてこの方法は最も功を奏しやすい。日頃は生真面目でお優しい御心を持ちながら、政務に臨んでおられる。しかし口には出さないが、複雑な皇位継承を経た陛下は、即位当初からご自身の権威をゆるがしかねない小さな脅威を敏感に感じておられる。逆にいえば自身の権威を高める謀には食いつきやすい。
陛下の弱味を突く讒言や奸言をもって目障りな者を退け、さらに私への信を高める。ゆえに澶州で結ばれた遼との盟約を城下の盟と称し、陛下の面子を傷つけ寇準を追いやることに成功もした。さらには寇準の後任として宰相の座に就いた王旦を出し抜き、私自身が主宰として実行に移した封禅の儀。「先帝が断念した封禅の儀を、天命の名の下に、陛下が≪民衆の幸福のために≫祈りをささげ天地を祀る」という名目を掲げ、荘厳華麗な儀式の仕立て屋として敏腕を振るい、陛下はますます私をお気に召された。

事はほぼ私の思惑通りに進んだのである。

おかげで私は清廉を気取る士大夫どもからは忌み嫌われ、裏では「姦邪」やら「鬼」やらいかにも正義面した奴らが好みそうなあだ名で呼ばれる始末だ。冷ややかな視線を送られることが日常と化していたが、未だ南人を軽んじる風潮が残るこの朝廷で、大成するには必要な不義だと考えればよい。

言わせたいやつには言わせておけばよい。


まあそんなことはどうでもいい。
要するに中央政府へと進む好機を見逃さず、確実に出世への糸口をつかんだ私は、異例の早さで詔勅を司る知制誥、翰林学士、副宰相たる参知政事、そして一時は身を退くこともあれど、両府の片棒を担う知枢密院事*⁸と順当な官途をたどっていった。いつ宰相就任のお声がかかってもおかしくない資序*⁹を十分に積んでいたのである。

事実上の百官を統べる最高権力を手中に収めることも時の問題。
私はそう信じて疑わず、実際に中央政府の宰執や高官達もある程度想定をしていたに違いない。

だからこそ、いったい誰が予測できたであろうか?
まさか宰相の座を明確に据えていた私が、およそ十数年もの間、行く手を阻まれ、足止めを食らうことになるなどな。

それはまるで狡猾な策士の罠にかかり、檻の中に閉じ込められ、外に出ていくことを禁じられた獣物のような感覚であった。


あれは七、八年前、ちょうど封禅の儀が軌道に乗り始め、道教に基づく祭祀に朝野が沸き始めた頃であったか。
ある日、朝廷内で私は、陛下と陛下に一人召された宰相王旦との間で交わされた会話を記した起居注の官*¹⁰を捕まえ、宮中でも人通りの少ない廊へ連れ出し、密かに話の内容を聞き出そうとしていた。
最初は起居注の官も容易に洩らすことに対し渋っていたが、当時すでに陛下の寵愛を笠に着て権勢を振るっていた私を畏れたのか、観念して会話の中身を打ち明け始めた。

「真か!?その話は?」
「は、はい。王宰相が申されました。確かに陛下はそう仰られたと」


――そろそろ欽若を宰相の座に就けたいと考えている


起居注の官から伝えられた陛下の御言葉を聞き、思わずその両腕をつかんで話の真偽を問い直した。つかむ手に力を込めすぎたためか、起居注の官は痛みで顔をゆがめていたが、胸の高鳴りがおさまらない私にとって、そんなことはどうでもよかった。

陛下はお望みになられている!この私、王定国が宰相に就任することを...!
そうだ、ついに待ちわびたこの時が来たのだ!私が、南人の私が...至高の地位を手にするこの瞬間を!これで祖父との約定を果たし、一族の名声を挙げることができる!

「し、しかし、この話には続きがございます」
「続き?」
「は、はい」

苦しげにこぼした起居注の官の言葉に、反射的に首を傾げて答えた私は、相手の両腕をつかんでいた手を無意識に緩め、そのまま放していた。
だがすぐさま起居注の官に尋ねていた事を思い出すと、自ずと口元がほころびはじめる。

「そうだったな。陛下は今の人事を王宰相に問われたのよな?それで、宰相は何と申されたのだ?」

王旦は元々絵に描いたようなぼんやりとした平和宰相殿だ。それに奴は陛下が強く望まれている事案なら、あえて止めはしまい。陛下の御心の隙をつく私と違い、陛下の御心を守ることを第一義に考えて行動しているからな。奴のそんな性格を利用して計略をめぐらし、成功したのがあの封禅だったのだ。

つかまれていた腕をさすりながら、起居注の官は私の顔を上目遣いで一瞥したが、すぐに視線をそらして話の続きを語り始めた。


――王旦、この人事、現宰相のそなたならどう考える?欽若も宰相となりうる資序は十分に積んでおる。そろそろ、そなたと共に中書を担ってもよい頃合いではなかろうか?

――臣の愚見を申し上げてもよろしいのでしょうか

――当然だ。そのためにこうしてそなたを召したのだぞ?


朝廷内では専ら沈着温厚で、特に人材登用の面では評判を得ていた王旦であったが、起居注の官によれば、この報告をした際の王旦には、普段の奴からは感じ取れない妙な威圧感を覚えたという。いつもどおり、物腰やわらかな口調で話していたことに変わりはなかったらしいが。


――愚見を申し上げます。王知院は陛下と遭逢し、恩禮はすでに極まっております。そもそも枢密への起用は宰相と等しき地位を得ると同義にございます。また、祖宗の法を鑑みまするに、南人を宰相に就任させ、国の大事を預からせたことは一度もございません。一方で孟子によれば、賢人を登用することに定まった法はないとも申します。これはすなわち誠に才能が備わり、人格が優れている人材であれば、必ず大事を担うことが可能であるということにございます。臣は宰相の任を預かっておりますが、陛下が人材を用いることをあえて止めはいたしませぬ。しかしながら、今、臣が申し上げたこともまた、「公儀」であるということをお忘れなきよう


「こ、公儀...?祖宗の...法...?」


――祖宗の法、か。先帝達が御製された前例を覆すとなると、もう少し慎重に考え、時を要するべきか。しかしいつもながらそなたの筋の通った具申には感嘆するばかりだ。礼を申す。祖宗の法を今一度見直し、他の宰執達からの合意が得られるまで、欽若にはもうしばらくの間枢密院を総べさせるか。どちらにしろ、そなたのその口ぶりから察するに、今の欽若は大事を担うにふさわしくないと思っているのだろう?人材を適所に配するそなたの考えなら、朕はその言に従おう


会話の内容を最後まで話した後、起居注の官は私の宰相就任は見送られることになった、とだけ言い残し、そのまま一礼して私の下から足早に立ち去った。

「......」

予想外の顛末に呆然と立ち尽くす。まさに今の私の状況を表すには的確すぎる言い回しであった。
にわかには信じがたい話を受け入れることができず、しばらくは頭も回らず言葉も出なかったが、徐々に自失していた我が戻り始める。

「ふ、ふざけるな!今更...今更国初より南人は一度も宰相就任の例がないだと!?もはや南人官僚の進出は止められはせぬ時代の流れであろうが!」

行き場をなくした歓喜の声が、まるで悲鳴を上げるようにやり場のない怒りと化していく。わなわなと震える手が止まらない。
人通りの少ない場所であったのが幸いしたのか、荒げた声は誰にも聞こえていないようであった。

「いや、今起居注の官が話した言葉は真に奴から発せられたものなのか?あんな平凡でわずかな怒気さえ顔に表さないような奴からそのような強気な発言など出るわけ...」

その瞬間、私はハッと思い起こし、起居注の官が覚えたと言っていた普段の奴からは感じ取れない妙な威圧感とやらが頭にちらついた。

「祖宗の法」やら「公儀」やらを遵守しようとする風潮は朝廷内に根深い。「祖宗の法」「公儀」、すなわち宋朝が興って以来歴代の皇帝が守るべきとされた政治上の礼儀や規範のことだ。今でこそ朝廷に強く根付いた「不殺士大夫」の信条も、太祖以来、歴代の皇帝に遵守されてきた「祖宗の法」ということになる。特に太祖や太宗が定めてきた法に仕上げを施してきた今の陛下なら、法を遵守することに拘るはずだ。
それでも先帝達の前例に倣わず、私に宰相の座を与えようとしていたのは事実だ。陛下自身にはその気があったということなのだ!

-誠に才能が備わり、人格が優れている人材であれば、必ず大事を担うことが可能であるということにございます

王旦め...忌々しくも遠まわしに私を否定しているのか!陛下が私の品格について深く踏み込まれなかっただけでも救いかもしれぬな。
人格者たりえることなど、初めから捨てているようなものだ。むしろ私のような身の上が高みを目指すには不要なものとして捉えていた。
だがらこそ、重大な正念場でこのような形で取り上げられるなど...!

そもそも何故奴は今更南人の宰相就任例を取り上げて...いや、違う!南人が宰相に就任した前例がないからではない。奴の狙いは私に宰相の座を与えないことだ!祖宗の法など都合のいい方便にすぎない。それでも、今の朝廷で陛下や士大夫を縛るこじつけとしては十分すぎる。

甘かったというのか?私の見通しが?祖宗の法を掲げる王旦が陛下の側に在る限り、私の栄転は有りえないというのか?才覚だけではどうしても埋めることの叶わぬ溝があるゆえに、この舌を詐術の色に染めることも厭わなかったのに。

不覚を取ったという後悔の念もあったが、それ以上に王旦に対する憤懣が段々と積もっていく。
こんな、こんなところで立ち止まるわけにはいかないのだ。今は北方も西域の辺境情勢も落ち着き、しばし平穏に時が流れているとはいえ、明日をも知れぬ我が身だ。いつまでも同じ地位に留っている猶予などない。それにいつ死ぬか分からぬ王旦の死を座して待つなど、時を持て余すうちに私の方が先に逝ってしまう可能性もある。

何らかの策を講じ、陛下と王旦の間に楔を打つことで奴を追い詰め、私の下に宰相の座が転がるように仕向けなければ!陛下は人材登用の面では奴を信用しきっている。ならば奴がこれから登用しうる宰執候補の周辺から始末していくべきだ。奴が信任する人材の悪言を陛下に密奏し、徐々に奴への不信感を募らせなければならない。
もちろん東封西祀を始めとした天地祭祀の事業を引き続き利用して、陛下の歓心を買い、国の威信を高める方針も変わらない。この一大儀式は南人が持つ経済力および大きな祭祀を執り仕切る才覚が示される好機でもあるのだ。幾年もの歳月をかけて実施する封禅の中身をおろそかにするわけにはいかぬ。


王旦の口から出た思いもよらなかった諫言。まるでその言が契機となったように、しばらくは表向き平穏な朝廷で、私と奴との水面下での争いが繰り広げられることになる。
同時に、私にとっては目の前の宰相への道を閉ざされ、抑留された檻から脱するための鍵を手にする駆け引きの幕開けでもあったのだ。


暗闘の最中で、私は奴が陛下に勧めた周辺の人事の一部を阻害することに成功し、奴が立后に異を唱えていた蜀人の現皇后劉氏も立てることができた。
だが阻害できた人事はあくまでほんの一握りだ。相変わらず奴が推す人事に対して、疑う陛下の様子はうかがえない。それどころか王旦の奴は腹立たしいほどに、陛下の面子を保つことを決して忘れず、国の為にならずと判断した事案については、怒気を込めず、静かに道理を説いて諫めるやり方を貫いていた。

それに比べ私が先導に立つ宗教事業に関しては莫大な費用がかかっている。今は共に事業を推し進め、国家財政を預かる身である丁謂*¹¹が、その生まれつき備わった経済面での才を生かし、何とか工面しているが、いくら奴の吏才でも、国庫がいつまで持つか分からぬ。東封西祀を始め、瑞兆、符瑞となりえるものの提供、道教経典や大蔵経の編纂に玉清昭応宮などの大型宮殿の建設。それら全ての遂行を支えているのは宋が蓄えた莫大な財力だ。それが使えなくなれば...

一進一退、いや、一杯の水をもって車薪の火を救うがごとし、か。王旦の堅実なやり口よりこちらの方が強く陛下に揺さぶりをかけているつもりだが、そんな思いとは裏腹に、陛下の奴への信頼は陰りができるどころか、日に日に增していくばかりであった。

いたずらに時は過ぎていくばかり...。気が付けば奴が宰相を十年以上務める中で、私は十年を経ても枢密の地位から動けない状況が続いていた。枢密も軍政を預かる大事な官であることは十分に承知している。だが私は武官の長に満足しているわけにはいかないのだ!

思えば私と奴はほぼ同時期に参政を拝命し、寇準の宰相罷免を機として互いに両府の長となり、多少の異動を除けば、真に十年以上もの年月の間、その状態が続いていたということになる。佛教には「因縁」や「宿命」という言葉があるが、まさにその文字通りの意味を、身をもって味わっている気分だ。


効果的な打開策が浮かばず手をこまねく中、私と王旦との十年以上にも及ぶ水面下での持久戦は、奴の病という形で突然の終局を迎えることになった。

重篤な病を抱え始めた奴は、今までも再三宰相の職を辞すことを願い出ていたが、いずれも陛下のお許しが出ることはなかった。しかし徐々に痩せ衰えていく王旦の体をご覧になると、さすがに事態を重く見たのか、ついに王旦から宰相の職を解くことを決められた。

思い返せば王旦が宰相となり十二年、初めて参政となり中央入りした日より数えれば十八年もの間、陛下は奴を外任に出さず、朝廷より手放そうとしなかった。
今まで任に就いた宋朝の宰相や枢密使を鑑みても、一度は罷免され地方の知事を任されることが多い。もちろん中には再び朝廷に返り咲く者もいるが、王旦みたいな例は間違いなく稀有であろう。

王旦が宰相を辞したことで、宰相陣の構成は向敏中と*¹²、そして...

長年務めた枢密使より異動した私が宰相に就任した。夢にまで見た百官の頂の座が、王旦という管轄者がいなくなった檻の鍵が、私の下に転がり落ちてきた。あまりにも、あっけなく。

「待てよ...病で身を退くなど許されると思っているのか。本来ならばすでにたどりついていてもおかしくない至高への道を、十年以上もお前という存在よって阻まれたのだぞ?これではお前の勝ち逃げも同然ではないか...」

病というやむを得ない由で罷免された奴に代わり宰相就任?嘉するべし?念願がかなって?
ああ、本来ならば快哉!とでも叫んでるのかもしれんな。だが快どころか私の胸の内は王旦への憎悪で埋め尽くされているわ!
結局私は、最後まで<王旦という障壁を乗り越えて>宰相に就くことができなかったのだから...

「めでたいことですなー。晴れて大宋始まって以来、初の南人宰相誕生というわけです。いかがですか?<ご自身が>太祖以来遵守されてきた法を塗り替えたというご気分のほどは?」

宰相に就任した私に対し、丁謂は恭しく祝言を述べに参上したが、奴め、何が<ご自身が>だ!口ぶりはいつもの奴らしく至極丁寧ではあったが、嫌味にしか聞こえんわ!


そして、王旦の死が朝廷中に伝わったのが今朝の文徳殿での朝会が始まる前であったのである。


王旦の死の一報が届くと共に流れた官僚間の伝聞によれば、奴が息を引き取る数日前、陛下はわざわざ輿を用意させ、王旦の息子に奴を承明殿*¹³まで担ぎ込ませたそうだ。そうまでして何をお尋ねになられたのかというと、奴に万が一のことがあった場合に後事を託す人事だったという。
そうか。陛下は奴が生死の境を彷徨う最期の時まで、奴の抜擢する人事を信じておられたということか。私が弄した工作など、奴への不信につながる効果を何一つ表さなかったのだな。
おそらく言葉を発するのも苦しい状況であったはずの奴が誰を推挙したかと思えば、あの口やかましい寇準だったらしい。それも陛下が次々と上げる候補の人物には首を縦に振らず、後事を託すに値する人材は寇準のみであると、最期まで意見を曲げずに貫いたという。
ふん、王旦の奴め。いくら寇準とは同年の間柄とはいえ、陛下の前で堂々と自分の非難をする馬鹿を推すとはな。しかし単なるお人よし、北人官僚間の派閥人事、というわけでもないであろう。よりにもよって陛下が敬遠し、私とは水と油のような関係の寇準を推すということは、

「そうか...病により自ら身を退けど、死してなお、この私を檻の外には出すつもりはなかったということか。ハハ、ハハハハハハ」

乾いた笑いしか出てこなかった。どうやらただで勝ち逃げするつもりはなかったらしい。しかも私にとって癪に障るほどの嫌がらせを残そうとしやがった。

だが、いくら王旦の懇願であっても、陛下は剛直に過ぎる寇準を再び宰相に登用することだけは渋ったらしい。陛下の寇準に対する畏怖は相当深いということであろう。

その証拠に宰相には寇準ではなく、私が就いた。陛下は王旦の遺志に逆らい、私をお選びくださったのだ。

「そう、陛下は奴に逆らったのだ...。ハハハハ、まさに嘉するべしではないか!ハハハハハハ!」

無理に笑いを作っていることが痛々しいほどに分かった。本当は今際に奴の意見を取らなかったことなどより、十年もの間、奴の存在によって檻から出ることが叶わなかったという事実が身に染みつき、荒んだ胸の内を抑えるのに必死であったのだ。

心の中に晴れぬわだかまりを抱えながら、私は今朝の文徳殿での朝会に向かっていたのである。


                                                *

                                       
その日の翌日より三日の間、陛下は廃朝され聴政に御出ましにならなかった。
だがその廃朝期間が終わり、政務を再開されてしばらく経つというのに、陛下のご聖顔が晴れることなく、曇り続けていることは誰の目にも明らかであった。
王旦の死による陛下のご心傷は相当深かったようで、廃朝の数日後、陛下の藩邸時代から付き従い、信頼厚い張旻*¹⁴が外任に出るため、朝廷を上げて餞別の宴を催した時ですら鬱々とされていた。

ああ、陛下。およそ十八年もの間、当然のように御側で輔佐をされていた者が消え、ご心痛はさぞ深きことでしょう。しかしながら一時離れたこともございましたが、私も王旦と同じ歳月ほど中央政府で陛下を輔佐したことに間違いはないのですよ?それに現宰相は私です。もうすでに昔日の人と成り果てた奴のことなど、いい加減振り返らないでください。

陛下は私が死す時も、王旦と同じように御心を痛めてくださりますか?

そのような考えが胸をよぎった時、王旦が死んでなお、自分自身の中に奴への恨みが募っていくことを感じていた。
もう奴はいないのだ。私を閉じ込めていた檻の番犬はいない。もう奴と己を比べることも、奴のために振り回される必要もないのだ!


そして気づいた時には、以前にも増して陰険な嘘をつくようになり、陛下への讒言もより巧妙に仕掛けていた。

太常礼院*¹⁵が王旦の葬儀の日取りを決め、陛下の百官への聴政を中止するよう進言する前に、私は断固としてこれを阻止しようと陛下に密奏していた。ただ、ただ募る憎悪の衝動が私を駆り立てる。さすがの陛下も私の行為を訝しんだが、あらゆる詭弁を繰りだし、半ば強引に陛下が葬儀へ参列されるのを阻止することに成功した。宰相就任以来、私はまるで抑えつけられていた鬱憤を見境なくふりまく子供のように、<宰相の>権力を振るい始めていた。

当然のごとくだが、以前より増して周りからの視線が冷たく感じる。
何だ?私は宰相だぞ?決定権は陛下に次いで私にあるのだ。そうだ。王旦だって、小事は完全に委ねられていたではないか。私だって陛下に<信頼されているはずなのだぞ?>そうだ。封禅の時のようにまた私の意見を聞き入れてくださる。誰も私の意を覆すことなど叶わない。私の意思を邪魔する者など存在しない。

だが内実は、陛下と私の間に厚い信頼関係という甘い幻想など存在しなかった。まるで今まで両者を結んでいた一本の危うい橋が、音を立てて崩れていくように、陛下の私に対する寵が、徐々に薄れていく様を肌で感じていた。
だから陛下が秘密裏に向敏中や他の宰執に相談され、私の罷免を視野に入れられていることなど、朝廷に漂う空気から容易に察することができた。


そしてその日は思ったより早くに来た。いや、予想通りと言うべきか。
ある日、一人崇政殿*¹⁶の奥に召された私は、すでに普段とは異なり、陛下の視線が鋭いことに気付いた。

「欽若、お前に賄賂を受けた嫌疑がかかておるぞ」
「何かの間違いにございます。宰相たる臣が賄賂など受けるはずがございません。どうか御史台にお下しになり、陛下のお耳を煩わせる虚言を取り除かれ、真実を見極めくださいませ!」

と、私が弁明すると同時に、陛下はその聖顔に不快感を顕わにされていた。今までに見たこともない、私を疎ましく思われている明確な意思表示。

少し間を置き、陛下は大きくため息を吐かれた後、重い口調で私に語り始めた。

「国家が御史台を置いた理由は、ただ一個人の虚実を弁んずるためであろうか?なあ、宰相たるそなたなら、もちろん存じておろう?」
「そ、それは...」

自身の顔から汗がしたたり落ちる音が聞こえ、その場の空気が凍るような圧迫感を覚える。

恐怖...皇帝という至尊の君に対するそれとは別の、私が陛下という人物に対して抱いた初めての感情であった。

「おまえにかけられている嫌疑はそれだけではない。民間では禁じたはずの讖緯に関する書を密かに収蔵し、六丁六甲神の術を使いこなすと自負していた道士を捕縛した。その道士は、こう申したそうだ。「かつてお前の家に出入りしたことがある。その証として詩もいただいたことがある。」とな」
「......!」

もう、何も弁解する術を持ち合わせてはいなかった。賄賂もその道士と交友関係があったことはまぎれもない事実だった。後者は封禅の儀の際に意見を求めた道士でもあったのだが、かつて陛下を喜ばせるために画策したというのに、まさかこのような形で跳ね返ってくるとはな。

皮肉すぎる...。その場はただ頭を下げ、陛下の聖顔をまともに仰ぐこともせず、身を退くしか他なかった。
大方私に不満を持つも、報復を畏れ今まで口をつぐむしかなかった誰かが、私が陛下の寵を失い始めたことを好機ととらえ密奏でもしたのであろう。飛ぶ鳥を落とす勢いであった頃の私では考えられない顛末であった。

危険な綱渡りをした引き換えに手に入れた陛下という強力な後ろ盾。あっけないな。陛下による庇護がない私など、所詮この程度だったいうのか。無様だ、惨めだ。
あるいは陛下も、最初から過去に私に救われた恩を感じられていただけで、信頼などされていなかったのやも知れぬ。


そして私は宰相を罷免され、半ば逃げるように新たな任地である杭州へと出向くことになった。幼い頃より祖父と交わした約束を胸に抱き、思い焦がれていた宋国の宰相としての日々。それがたった二年という歳月で終わりを告げたのだ。


                                               *


判杭州*¹⁷として杭州に赴任し、城内に居を構えた私は、官庁に通い執務に臨む日々が続いた。とはいっても、特に面倒な訴事や厄災でも起きない限り、実際に民の陳情を聞いたり、事を取り仕切るのは下に属する胥吏が中心だ。一応は元宰相が知事に就任したからか、昔地方官を務めていた頃より胥吏は従順であった。
「上に天国有り、下に蘇州、杭州有り。」と称された杭州は、五代の世では呉越国の都として銭氏による支配を受けていた。都市の要としてそびえ立つ杭州の城はその際に修築され、元々肥沃であった土地は田畑の開墾も進み、水運や港も整備され海上交易が発展した商業都市として、今は宋国を支える江南経済力の一角を担っている。白居易もその情景を詩に綴り、朝霧が濃く広大で美しい錢塘湖を抱え、また土地としての特色だけでなく、銭氏が佛教を信奉し手厚く保護した影響で、杭州には仏塔や寺院が多く点在していた。市場も賑わい活気づくこの地を毎日視界に入れていると、柄にもなく、詩の一つや二つでも詠みたくなってくる。

宰相を罷免され三月近く経っていたが、それまで国の要職に就いていたことなど幻のように思えるほど、杭州での生活は移り行く時の流れをゆったりと感じながら過ごす穏やかなものであった。今日も官庁内の知事が在任する房子で、送られてくるある程度定まった内容の文書に目を通していた。

自分は、本当にほんの数月ほど前まで、中央政府の重鎮として、時に奸言を駆使しては政の主導権を巡り、泥沼の政争を繰り広げていたのだろうか?
あの都で、開封の宮城内で中央政府の執政の一員として、国家の大事に関わる事案を陛下や同僚達と相談し、毎日せわしく政務を処理をしながら過ごしていたのか?

自分の桌の前に積み上げられた文書に目を通す傍ら、胸の内を占めるのは、真に自身が重大な任を担い、能力を発揮する<居場所>を朝廷内で得ていたのか?という問答であった。


杭州行きが決定した際、陛下は餞別の儀礼として、ご自身が御製されただけでなく、宰執や翰林学士院*¹⁸の官にも私へ詩を贈るように命令を下した。もっとも詩だけではなく、彼らからは私を刺すような視線も賜ったがな。中には最後まで私を毛嫌いし、剛情を貫いて詩を作らなかった奴もいた。
慣れているはずの軽蔑の眼差し、だったはずなのに、この時の私は久しく忘れていた孤独を味わっていた。

そして私の後釜は、王旦が死を迎える直前に強く推した寇準であった。
フ、何だ。寇準を再び宰相に就けることをあれほど躊躇われていたというに、つまるところ、陛下は王旦の遺言を採用されたのだな。思えば宰執の私に対するあの態度といい、自身の死後に私の動きを抑え込むために描いていた奴の思惑通りの人事だったのかもしれぬ。私に近かった丁謂達が宰執から遠ざかったのも、宰相の力を存分に発揮しようとしても思うようにはいかず、陛下にすら皮肉を言われ、あっという間に寵を失い始めたことも、すべて...

今や丁謂すら私に見切りを付けている節がある。いや、むしろ初めから丁謂は自身が着々と権力を握るために、私を利用しただけなのかもしれない。奴の人に取り入り、どんな気難しい者だろうが巧みに接する術は侮れない。
私が朝廷を去った後、丁謂は一度追われた参知政事に復位していた。昔、奴を参知政事に後押ししたのは私だったのだが、そんな恩など微塵も感じてはいないのだろう。


やはり追い出されるように杭州へ行きついたのも、本来異物である私に、朝廷内での居場所などどこにも用意されていなかったからではないか。きっと長い間、私は自身に居場所があると勝手に錯覚していたのだろう。

「そう私の居場所など最初から...」

ふと、次の言葉が出る前に浮かび上がったのは、またしても奴...王旦であった。

「しつこいな。死人といえど、私は宰相を追われ、地方の知事に身を落ち着けたのだ。お前は満足したであろう。」

本当にしつこい。いや、しつこいのは私の方か。いつから私はこんなにもお前に執着するようになっていたのだ。自分でも厭になる。

初めは純粋に幼い頃からの憧れや祖父や一族のため、そして何よりも自身の名誉のために宰相の座をこの手に掴むという野心を抱き、宋国の官僚の一人として人生を歩み始めたはずだった。
ところが、お前という壁が私の前に立ちはだかり、檻に閉じ込めたあの時から、私は自身の大望以上に、お前を打倒することに気を取られ、進むべき道が見えなくなっていたのかもしれぬ。

それでもあの十年以上に及ぶ政争の渦中で、両府の一角を担う国の重鎮として身を置き、国を挙げての大規模な宗教事業の指揮も執っていたのだ。
たとえ目的を見失っていたとしても、お前と互いに両府の長を務めていたあの頃は、私は私らしいやり方を貫いていた。私にしか成しえなかったこともあったはずだ。

だがお前が逝き、檻の中から解放されたというのに、逆に檻の外に出れば、急速にそれまでの栄達が嘘のように終息し、朝廷内での身の置き所...居場所を失ってしまった。

「失う?何を言っているのだ私は。先ほど思い至ったばかりではないか。最初から居場所など...いや...まさか、私の居場所は...」

あの檻の中だったというのか?私はお前に...王旦によって居場所を与えられていたのか?

「フ、何を考えているのだ私は。そんなことあるわけないであろう?そんなことあってたま」

頬を冷たい滴のようなものが伝う感触。いつになく目の奥が熱い。これは...

「涙...?どうして、こんなものが...」

分からない...。どれだけ探っても自分が涙を流す理由が分からない。
意地を張って堪えようとしても、自ずと目からあふれ出てくる。押し寄せてくる感情を抑えることができず、胸が苦しい。
私は人を欺くことができても自身を欺くことはできないのか?情けないことだ。それでもかつて朝廷で「鬼」と称された男か。

「政敵に、居場所など与えるわけがないであろう?」

当然だ。なのにどうして私はこんなにも動揺している?

私は王旦に宰相の道を奪われ続け、辛酸を嘗めてきたはずだ。しかし...

思い返せば戒められることはあったとしても、激しく糾弾されることはなかった。陛下の御前で枢密の同僚と延々と口論を続けた時も、『冊府元亀』を同修した文人共が私を憎むあまり、裏では私を亡き者として扱い葬送の演出を企てた時も、大事に発展する前に王旦が巧みに仲裁した。

お前が隙を見せること自体は少なかったのやもしれない。だが私の讒言によりお前自身が築いた名誉だって失われていた可能性もあったのだぞ?

それでも、お前は私を積極的に朝廷から追放しようと画策したことも、出会い頭で視線を逸らして忌避することも、欠点をあげつらって陛下のお耳に入れることもしなかった。
私がお前に対して何を謀ろうとも、お前はいつも正面から受け止め、報復を考えずに耐え忍ぶだけであった。お前にとって最大の恥辱を与えたであろうかの封禅でさえも...

...だから、私は檻の中でも相応の<居場所>を得ることができたのか。檻から解放された後に周囲からの制裁が厳しくなった時よりも、己の手腕を発揮できたのは、全て...

「......負けだ。それも、見事なまでの...」

私は天を仰ぎ、ため息をつきながら王旦への敗北を悟った。宰相云々だけではない。王旦の度量の深さを身に染みて感じた今、惨めに敗れた去った己自身を痛感するしかなかった。

「私は、お前に居場所を与えられていたのだ。お前にも、私にもそのつもりがなかったのだとしても、お互いが意識せずうちに、私はお前によって朝廷での居場所を確保されていたのだ」

涙の流れも私を襲っていた胸の痛みも次第に治まりつつある。それどころか、つかえがとれ気が軽くなっていく。今まで張りつめ続けていた虚勢が剥がされるような気分だ。
もしかすると、この痛みは王旦という人物を一方で決して受け入れようとせず、一方で受け入れ始めていた心情同士が衝突し、せめぎ合うことで発生した胸痛の一種だったのかもしれない。


「少し、気が抜けすぎたようだ。さて、これからどうすべきか」

自嘲気味につぶやいたが、実際のところ、今更王旦への敗北を認めても、私が置かれた状況が変わるわけでもない。陛下にも疎まれ、朝廷での居場所を失った私が再び栄誉を手にすることなど容易ではないであろう。その後の身の処し方を考える気力はほとんど残っていない。ゆえに...

「やはり、ここで終わり、か。第一、居場所を与えられていた檻の中の住人が、中央への再起など」

--本当にここで終わるのか?

「!?だ、誰だ!!」

突如どこからともなく声をかけられたような気がして、思わず坐していた倚子(椅子)から立ち上がり、辺りを見渡したが、人がいる気配はなかった。

「何だ。誰もいないではないか」

ただの空耳だろうと考え、再び倚子に腰を掛け、下の方に向けた視線を正面に戻したその時であった。

「!?」

私は目を疑った。視線の先に立っていたのは、歳の頃十二、三ぐらいの貧相で小賢しそうな顔立ちをした子供。うなじから突起物のようなものが見え、背丈は同じ年頃の男子と比べれば明らかに低い。
ちょうど父を亡くし、祖父に引き取られた頃であろうか。その子供はまぎれもなく、過去の<私自身>であった。

「お、お前は!?」

--それはお前自身が一番よく分かっているだろう?

「...」

--まあそんなことよりさ、お前、まさか爺様が言ってたこと、忘れているんじゃないだろうな?

「爺様が...言ってたこと...?」

--まさか、本当に忘れちゃったのか?ほら、爺様と約束しただろう?

「約束?爺様との、約束...」

--もう!しっかりしろよ!爺様が言ってたじゃないか。「私は地方の低級官吏に在ること五十年を越え、刑罰を用いる時も常に事を慎重に運び、人を活かすことも多くこなしてきた。しかるに我が後に隆盛を極める者が現れるというのならば、それは我が孫欽若に他ならん」って、「今は不遇の南人の身の上でも、欽若の才ならば必ず一族の名を挙げることができるだろう」って

「...あ」

--ようやく思い出した?

「あ、ああ」

--うんうん。で、その後、お前、爺様に何て答えたんだ?

「...爺様の御恩に報い、ご期待に沿えるよう努力いたします。いえ、必ずや進士に及第し、しかるべき官途の道をたどりて宰相の地位すら手に入れてみせます」

--よく覚えてるじゃないか!

「...」

何だこいつは?何が言いたい...?

--なあ、だったらもう一度宰相になろうぜ?今度は本格的にさ!

......何を言い出すかと思えば

「ずいぶんと調子のいいことを言ってくれるな。今の立場でそれが可能だと思うのか?朝廷を追われ、政敵にも敗れ、無様な姿をさらけ出した私にはもう」

--だから?

「は?」

まるで私の反論に意に全く介さないような態度に思わず目を見開く。

--あいつに負けた。だから何?お前が目指していた宰相への道って、あいつに負けて終わるような脆いものだったのか?そんな簡単にあきらめていいものなのか?

「も、脆い?」

--だったら今までお前が宰相になるためにやってきたことは全て無駄だったのかよ!

「む、無駄?そ、それは...」

--あれだけ頭を使って色々と悪い企てをしたのも、皆から嫌われることも、覚悟ができていたからだろう?必死に宰相になろうとしてさ

「...」

--なあ、お前はこんなところで終わるほど、柔な奴じゃないだろう?

「柔な奴じゃない?」

--そうだぜ!まあ、その...体の方は強風が吹いたら、ひとたまりもなく飛ばされそうなほど貧弱かもしれないけどな

「フ、何だそれは?」

少し罰が悪そうな顔をして視線をそらし、開けっぴろげに話すこいつを見ていると、何だか調子を狂わされる。

--と、とにかく!お前はやられっぱなしで終わるほど、柔な奴じゃないだろ?いつもの狡賢さでもう一度宰相になろうぜ!

「...」

まただ。こいつのこの顔...

実のところ、私は驚いていたのだ。もう遠い昔のことでもあり、記憶も定かではなく、私は自身が陰気臭い子供であったと思い込んでいたが、昔の私はこんなにも屈託のない顔をしていたのか?
そしてその顔は、胸の内に閉まった子供の頃や、進士に及第するために、決して裕福な生まれではなかったが、日夜勉学に励んだ頃の思い出を彷彿させてくれる。

そうか。惨めな思いに押しつぶされ忘れそうになっていたが、若年の頃を含めれば、私は人生の大半を、胸に抱いた大望を叶えるために邁進していたのだな。

--こんなところで終わる悪ガキ欽若じゃないだろう?

目の前の私が意地の悪い笑みを浮かべる。だが、その目は活き活きとして、どこか小気味がよい。

こいつが私に何を訴えたいのか、ようやく分かった気がする。だがまずは...

「おい、お前。さっきから勝手気ままなことばかり申してくれるな?」

--だって、<俺>だったらこのまま引き下がるのは嫌だぜ?

そういって目の前の私は小さな白い歯をのぞかせる。

「生意気な...まだケツの青いガキに、堕ちた高官の心情など解せるものか。だが、ああ、そうだな。そうだ、その通りだ」

--悪態つけるなら、もう大丈夫だな。

「...ああ」

含むような笑みを浮かべるこいつに呼応するように少し口の端を吊り上げ、私はそっと目を閉じた。
悪ガキ欽若か。フフ、なつかしい。幼い頃は背丈が小さいことを馬鹿にされるたびに、相手への仕返しを謀っていたものだ。妙なところで負けず嫌いであったからな。しかし周りからの風当たりが強くても、堪えようと己を律することができたのはその性によるるものかもしれぬ。

一度王旦に敗北を喫し、奴の手を離れた檻の外だからといって、私の居場所など存在しなかったとまで認めていいのか?

「そんなこと、断じて認めるわけにはいかぬな。そう、<私>なら、な」

陰鬱な空気に支配されていた自分の中で、反骨心のようなものが芽生え始める。いや、本来の己を取り戻したというのか。

固い決意のような言葉を吐いて再び目を開けた時、先ほどまで私の前にいた子供の頃の自分は消えていた。

あいつがどうして私の前に姿を表したのかは定かではない。だがあいつは、深海の奥底に置いて行こうとした己の軌跡そのものを地上に、私のもとに連れ戻してくれた。しかし昔の自分に説教されるとは奇妙な感じだ。

あれは、私の胸の内に残っていた頑なに敗北を認めぬ心が映し出した幻だったのかもしれぬ。もちろん、ただの憶測だがな。


最後まで王旦という壁を越えられなかった。だから何だ?私の念願は百官の頂<宰相>だったはずだぞ?
任期としてはわずかであったとはいえ、一度その座に就いたのはまぎれもない事実だ。
そして再びその座に返り咲かなくてはならない。このまま黙って引き下がり、敗者の味を噛みしめているわけにはいかないな。

だが、おそらく今はその時機ではない。しばらくはこの杭州の地で、宋国の動向を見守るとしよう。いや、違うな。見守るのではない。私らしく、虎視眈々と隙をうかがい、来るべきその時に備えて宰相再任への好機をつかむのだ。

「フ、ならいつまでも年甲斐もなくこのような醜態を下の者に晒しては示しがつかぬな」

そう思った私は、急いでまばたきを繰り返したり、顔を叩くなどをした。腫れた目を元に戻すためにも、後で顔も洗いに行こう。

「さて、今日よりまた計略を練る日々が始まるな。再起を図るため、のな」


陛下が不豫*¹⁹であるという知らせが杭州に届いたのは、それから半月ほど経った頃であった。
どうやら御言葉もろくに発することができず、体も自由がきかない陛下に代わり、幼い皇太子を擁した皇后が政治の指揮を執っておられるとのことだ。
丁謂は皇后の後ろ盾を得て、南人を中心に自身の息のかかった者や、常日頃より親しく接していた者を取り込み、一大の朋党とも呼ぶべき集団を形成しているという。中央政府において、未だ根強い勢力を張る北人官僚の首領とも呼べる宰相寇準と、表向きは対立することなく水面下では腹の探り合いをしているらしい。

「南北の党争が本格的に表面化してきたか。思いのほか、事態は差し迫っているみたいだな。あまり静観する猶予もない。このまま取り残されてたまるか」

その日、私は朝からいつも通り、知事の房子に詰めていた。桌の上に広げたのは、杭州の獄空*²⁰の状況を記した陛下への上奏文であり、宰相に返り咲くための重要な鍵でもある。

「...どこに旅立ったかなど知りもせぬが、<お前>も刮目するといい。私は今度こそ、この手に掴む。檻の外で、ふさわしき者を待ち受ける<至高の居場所>をな。姦邪と蔑まれたこの王定国が、ただの負け犬や亡国者の烙印を押され、終わるつもりなど毛頭ないことだけは覚えておけ」

完成した上奏文を見つめ、私はその先の向こうにある懐かしき開封の憧憬を見据えていた。再び繰り広げられる政争の予感を感じながら

                                                                                         <了>



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<注>

1.文徳殿
太宗の雍煕元年(984)に文明殿より改名。宰相以下中央政府に勤める文武百官は毎日文徳殿に赴き、東西に分かれて整列し、皇帝が出座されるのを待つ。この時、一名の宰相または副宰相が毎日交代しながら文武百官の位階順序を管理する。皇帝が出座されると、百官は拝礼し朝会を開始する。終われば百官は再拝して退廷する。なお皇帝が出座されない場合でも、文武百官は毎日文徳殿に赴き、閤門使(朝廷内の宴や各行事の儀礼を司ったり、皇帝の旨を伝える役目なども果たす職)より、改めて皇帝不坐の旨を聞き、玉座に向かい再拝して解散する。このように皇帝の出座の有無に関わらず、文武百官が毎日朝会に参上することを常朝と呼ぶが、六代目神宗の元豊改革時に、文徳殿での常朝は廃止される。
※余談だが、毎朝皇帝が中央政府の首脳クラスの官より順次奏上を受け、意見を伺う視朝(聴政)というものがある。これは長春殿(仁宗の明道元年(1032)以降は垂拱殿)で行われた。長春殿は禁中でも外朝側に位置することから前殿とも称されたので、この視朝を前殿視朝ともいう。

2.留身
皇帝の聴政(or朝会)が終了後に、宰相や副宰相が単独での謁見を求める場合、聴政が始まる前に閤門に密啓を送り、許可が下りれば、一人留まって皇帝に意見を述べること。南宋初期の奸臣として有名な秦檜はこの制度をよく利用した。また北宋末期の宰相蔡京は、徽宗に自身の留身のみを許可する詔を出させている。


3.「我の十年宰相となるを遅れたるは王子明が為なり」
元ネタの原文は「為王公遅我十年作宰相。」(『宋史』王旦伝より)。訳は「私が十年も宰相になるのが遅れたのは王旦のせいだ。」

4.行巻
科挙の受験者があらかじめ試験を受ける前に、自分の作品を試験官となりうる人物や朝廷での名を馳せた有力者に進呈し、自身を売り込む事前運動のこと。宋代では科挙條制が未整備の部分もあった初期の頃に利用されていた。

5.開封尹
開封府尹ともいい、首都(開封)の行政を担当する長官。「包青天」等の包拯が主役の話でこの官名を聞いたことがある方もいるかもしれない。
※ちなみに史実の包拯が就いたのは「権知開封府」(仮に知開封府を務めるという意味。一応は真の知開封府よりは格下扱い)である。開封尹は親王が就任する事例が多く、また真宗のように後に皇帝となる皇太子が就任した職であることを憚り、官僚がこの任に就く場合は「開封尹」や「知開封府」ではなく、「権知開封府」と称することが多かった。

6.御史台
官僚の監察を担当する官署。宋代では御史台の長官は御史中丞。

7.宰執
宰相と執政の略称。神宗時代の元豊改革以前では、民政を司る中書の「同中書門下平章事」(宰相)と「参知政事」(副宰相、執政)、また軍政を司る枢密院の長官である「枢密使」(または知枢密院事)と次官である「枢密副使」(または簽書枢密院事、同知枢密院事)のことを指す。中書と枢密院を合わせて両府とも二府ともいわれる。

8.知制誥・翰林学士・参知政事・知枢密院事・枢密使
知制誥、翰林学士は詔勅を司る官。前者は外制(宰相の命令の下に詔勅を起草する)、後者は内制(皇帝の命令の下に詔勅を起草する。知制誥より格上)とも呼称され、共に翰林学士院(注18を参照)に属する。参知政事は、注7のように中書の副宰相であり、「参政」とも略され、通常は二名~三名ほどが任命される。枢密使は注7のように、軍政を司る枢密院の長官であり、「枢密」とも略され、通常は一名から二名までが任命される。他の官を兼務している場合は、「枢密使」ではなく、「知枢密院事」となり、「知院」と略される。知制誥‐翰林学士‐参知政事コースを経ている人物が宰相に就任する事例は多い。

9.資序
その官に至るまでに積むべき職歴や資格のこと。

10.起居注の官
「起居注」は、皇帝の臨席時に側に控えることを許された起居注の官(「修起居注」や「同修起居注」等)が、皇帝による日々の言動や政務の様子を記録した官撰史料である。「起居注」と、宰執の手によって日々の政治を記録された「時政記」等を基に、墓誌や行状を加えた「日暦」が編纂され、「日暦」を基に皇帝一代の事績を編纂した史料である「実録」が完成する。その他、起居注の官は、皇帝と直接会話した官僚より、上奏内容や命令等を聞きだすことができたが、必ずしも官僚から自主的に報告されるとは限らない。

11.丁謂(966-1037)
真宗時代の奸臣五鬼の一人。字は謂之。後に公言と改める。王欽若と同様に淳化三年(992)の進士で、いわゆる同年の間柄である。丁氏は呉越銭氏の幕僚を務めた名家である。丁謂の文体は韓愈・柳宗元以来の才と称され、古文の道で大成するかと思いきや、あっさりと師匠(王禹偁)にそっぽを向き、晩唐の李商隠を模倣し華美な文体を得意とする西昆派に乗り換える。なお残存する丁謂の詩文はとても甘美お耽美。経済にも精通し、朝廷の官としては権三司使→三司使と長年財務官僚の長を勤める。封禅の儀には協力的で三司使として莫大な費用を捻出した。後に参知政事になり、時の宰相(二度目)寇準との政争に勝利。宰相に就任して独裁体制を作り上げるも、二年ほどで失脚し現在の海南島に流される。王禹偁、王欽若、寇準の下で恭しく働いていたこともあるが、後に手酷い裏切りをすることは共通している。寇準の髭を拭いて嫌味を言われたことがよほど癪にさわったらしい。休日は彼の家に人が絶えなかったほどの人気者。日本から入宋した天台宗の僧寂照と親交を深めたり、茶録などを記して福建の「龍(鳳)団茶」を朝廷に献上している。実は漢代の仙人丁令威の末裔を称している極度の鶴オタクであり、朝廷では鶴相とあだ名される。しかしこやつの所業を見ていると鶴の恩返しどころか鶴の倍返しされるので注意が必要だ。丁謂の劉邦評は彼の本性が垣間見れる。後に欽若以上の奸臣として後世には「善=寇準、悪=丁謂」という図式が成立してしまい、お話とかでは損な役割で眼中の丁とか呼ばれる始末。どこかで道を誤ったとしか思えない。なお真面目な彼の紹介をご覧になりたい方は、ウィキペディア等にGOすることをお勧めいたします。ていうか説明長いよ。
※三司は財政を司る官署であり、三司使はその長官。宋の財政運用に関わり、その権限も朝廷内では高く、元豊改革時には権力分散の目的で三司は解体される。両府(注7)、開封府(注5)、御史台(注6)、翰林学士院(注8)、三司が宋代(元豊改革以前)における中央政府の主要官署。

12.向敏中(949-1020)
字は常之。寇準や王旦と同様に太宗の太平興国五年(980)の進士で、彼らとは同年の間柄である。神宗の皇后で徽宗の即位を推した張本人である向氏(欽聖憲粛皇后)は彼の曾孫。軍才もあると推挙され、太宗より武官の位を与えられそうになるも懇ろに辞退している。太宗末期には枢密院の職を歴任し、真宗初期には宰相に就任するも数年で罷免。後に王旦の計らいで大中祥符五年(1012)に宰相に再任する。性格は清廉かつ真面目でガッチリとした体格の持ち主だったらしい。元宰相が地方の任に就く時は軍事に対して意を介さないことが多かったが、彼は真面目に職務に従事した。しかし比較対象の一人が終日遊宴状態な寇準というのは...。また犯人の痕跡を慎重に調べ上げ捕まえた名奉行的なエピソードもある。
※宰相(同中書門下平章事)は通常一~二名まで、時には三名まで任命される。首席宰相は昭文館大学士、次席は監修国史、三番目は集賢殿大学士の館職を兼ねる。二人の場合は、首席宰相が昭文館大学士、監修国史を兼ねる。館職については注17内を参照。

13.承明殿
仁宗の明道二年(1033)に延和殿に改名。皇帝の日常政務は注1の長春殿(垂拱殿)の前殿視朝後、宮中で食事を済ませ、次いで後殿に赴いて政務を執り、前殿視朝で上奏した以外の官僚の奏事を受け取り、時には兵士の武芸を閲覧する時もある。その際に使用される後殿の一つが承明殿(延和殿)であり、皇帝が特定の臣下を召す御殿としても利用される。後殿は禁中でも内側(内朝)に位置している。

14.張旻(?-1048)
字は元弼。後に張耆と名を改める。水滸伝にも登場する北宋末期の悲劇の将張叔夜は彼の子孫。藩邸(親王)時代の真宗に十一歳の頃から側近として仕える。皇太子時代の真宗に、一人寵愛を受けていた後の劉皇后(章献明粛皇后)が、太宗に藩邸からの追放の命を受けた際、密かに家に匿い謹んで従事したので、張旻は皇后にとって恩人である。契丹との戦にも参加し、封禅に伴う土木事業や天意の所在については明確に否定的な態度をとる。大中祥符九年(1016)に王旦の人事により、枢密副使の任を預かるが、欽若が宰相に就任すると、(真相は不明だけど)狙ったように罷免されている。しっかり者で細やかな性格をしており、『論語』や『春秋左氏伝』も読み、病人には家に貯めた薬を無償で提供するなどもしていたが、将としては厳格な人物であったらしい。仁宗初期には枢密使を勤めるが、当時の士大夫からはこの人事に反対者が多く軽蔑されていた。

15.太常礼院
礼楽制度や儀式を司る官署。

16.崇政殿
注13と同様に後殿の一つ。こちらも特定の臣下を召す御殿としても利用されたり、殿試を行う場所としても使用された。

17.判杭州
杭州の知事。職務内容としては知杭州(こちらも杭州の知事)と大差はない。ただし、判○州や判○府に任命される官は寄禄官上で位階従二以上で中書、枢密、宣徽院の事を冠する者である。それ以下の位階で地方の知事に拝命される官が知○州や知○府と言われる。なお、これ以外にもいくつか条件(太子太保や僕謝が知州になる時に判と称す等)はあるが、基本は前述の条件である。
※たとえばかの有名な王安石は一度目の宰相罷免時、地方へ出て知江寧府に就き、この時の寄禄官は吏部尚書(正三品)であった。二度目の宰相罷免時は判江寧府に就いたが、この時の尚書右僕謝(従二品)を領している。
※実際の職務を伴わず、官僚の位階や俸禄などを示す基準となる官名を「寄禄官(官)」という。官僚の等級のみを唐代の九品官で表していると考えればいいかと。これに対し、実際の職務を表す職名を「差遣」という。また、官僚の中でもかつて宮廷図書館の編纂官を勤めた者や、宰相や高位の官が特殊な肩書として「某殿(大)学士」「某閣(大)学士」などを帯びる場合があり、これらを「館職(職)」と呼ぶ。ちなみに館職の中には実際に書籍を編纂する時に与えられ、実務を伴う「下位館職」もある。他にも唐代以前から続く爵や文散官などもあるが、基本的に「寄禄官」・「館職」・「差遣」の違いを見分けることが宋代の官名を理解する上で重要なポイントとなる。ちなみに元豊改革以前と以後で官制は様変わりする(頭痛
※例として王安石が一度目に宰相を罷免された時の寄禄官・館職・差遣はそれぞれ、吏部尚書(正三品)・觀文殿大学士(かつて宰相を経験した官僚に与えられる館職)・知江寧府(江寧府の知事)である。

18.翰林学士院
注8の知制誥、翰林学士等が勤める皇帝の詔勅を起草する官署。

19.不豫
皇帝が病である時の称呼。

20.獄空
刑罰を軽くしたり罪を犯すの者が少ない等の要因で、監獄に空きができること。

奸佞の檻

奸佞の檻

この話は主に中國の宋の三代目皇帝真宗(趙恒)の時代に、皇帝の寵を受け後世「姦邪」と評された王欽若(962-1025)の視点で進みます。欽若は、五鬼(真宗朝で特に奸悪とされた南方出身の五人の官僚)と称される奸臣のうちの一人です。ただし、彼らの列伝は『宋史』奸臣伝の項に収録はされていません。 拙い部分も多々ありますが、宜しくお願いいたします。 ※文中に注記号が付している用語等は、文末の<注>に解説があります。

  • 小説
  • 短編
  • 時代・歴史
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-05-17

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著作権法内での利用のみを許可します。

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