いかさま忠臣蔵
忠臣蔵のお話です。
タイトル通り、いかさまの嘘っぱちです。
いかさま忠臣蔵
「吉良殿でござるな?」
間十次郎、武林唯七の両名によって、炭置小屋から引っ張り出され、縄でぐるぐる巻きに縛られた白小袖の老人に、そう声をかけたのは、我らが大石殿である。
「違う、わしは吉良様ではない。人違いじゃ」
「何を、戯けたことを」
「本当じゃ、信じて下され、わしは違うのです」
義士の一同は、その見苦しい老人の様を、嘲った。
「おやあ?」と、義士の一人が、吉良どのの股間辺りを指差しながら、嫌らしく間延びした声で言った。
「一同ご覧なされい。こやつ、何やら臭いと思うたら、漏らしてやがる」
「なるほど、寝床がほんのり温かかったのも、それで合点が行く」
「うわ、汚ねえな、お主触ったのか、吉良殿のいばりで濡れたお布団を」
一同、ゲラゲラ笑う。
吉良殿――と、おぼしき老人はぐっと涙を堪えている。
「吉良殿、もはやこれまで。お認めなされ。武士の情け、腹を切らせて差し上げます故」
優しく諭すような口調で老人に声をかけたのは、無論、我らが大石殿である。
「違う、わしは違うのじゃ、どうか信じて下され。ほれ、この通り」
そう言って、老人は新雪のうっすら積もる地面に額を擦り付ける。
愚鈍な一同は、その様を無邪気に笑った。
しかし我らが大石殿だけは、はてな――と思った。
それを周囲に悟られるよう、極めて冷静を装って、大石殿は尋ねた。
「では、何ゆえあんな所――台所の炭置小屋などで、ぶるぶる震えてらしたのかな?」
「そうじゃそうじゃ」
「見苦しいぞ」
――と、皆が囃す。
大石殿は、ヤジを制し、
「いかがかな?」と、優しく尋ねる。
「わしはそうするように吉良様から、命じられただけじゃ。わしは違う、断じてわしは吉良様ではない」
老人のその言葉に、一抹の不安の過った大石殿であったが、すぐにその目には、老人の額の刀傷が映った。
大石殿は、そうであった、と心底ほっとして、
「お惚けなさるな、額の刀傷が、何よりの証拠でござろう」と、刀傷を指差し笑う。
「そうじゃ、そうじゃ」
「全く然り」
皆が、信じている。
この老人が、吉良殿であると。
「これこそ、違う。よっく、ご覧なされい。傷が、新しくないか?」
四十七人――全員の息を飲む音が、見事に重なった。
言われてみると、その傷は、ついこの間付けられたかのように、新しい。
「本当に、違うのか?」
誰かが、震える声で言った。
「も、もしもお主が、万一吉良殿ではないとすると、本物は、どこだ?」
そう言う別の誰かの声も、やはり震えている。
「本物の吉良様なら、既に上杉様のお屋敷に移っておられるわ!」
吉良殿とおぼしき老人は、ある一点の恐怖を通り越したか、激しい口調で言った。
「馬鹿な」
「ありえん」
「わしは、騙されたのよ。吉良様に騙されたのよ。三両くれると言われて、わしは金に目がくらみ――ここにいるのも、この刀傷も、全て吉良様の言われるがままに付けたのよ」
一同も、大石殿も、困惑する。
確かに、その新しい刀傷をどう(自分達に都合良く)解釈すれば良いか、分からない。
「しからばお主、お主は、一体何者だと申される?」
皆を代表し、大石殿が尋ねた。
「わしは、五日前にこの屋敷の近くを偶々通りかかった、いやしい、屋台の蕎麦屋でさあ」
蕎麦屋――と聞いて、一同愕然とした。
老人が、侍ですらないという、事実に。
あまつさえ、蕎麦屋であるという、皮肉に。
ある者は、膝が抜けてへたりこみ、ある者は、天を仰いで泣き叫ぶ。
そんな中、一人の義士が叫んだ。
「嘘だ!」と。
「そうだ、嘘だ」
他の義士達も呼応する。
「嘘だ!」
「嘘だ!」
「嘘だ!」
それはまるで、この老人は吉良殿であると、自分達に暗示でもかけるかのようだった。
大石殿には、その嘘だと連呼する声が、何故だか蝉時雨を思い起こさせた。
山科に居を構えてから、足しげく通った廓でのことを思い起こさせた。
なかんづく、おかるのことを思い起こさせた……。
「大石殿!」
一人の義士が、大石殿に判断を仰いだ。
大石殿は、あっという間に、現実の師走の小雪舞う世界に引き戻された。
もはや、夜も白々と明け始めている。
大石殿は、一つ、大きく深呼吸した。
そうして――
「こやつは、殿のかたき、吉良殿に相違なし!」
――強く強く、断言した。
一同、
「お、おおおおおー」
まるで地鳴りのような鬨の声を挙げた。
「ち、違う、大石殿、お間違いなさいますな、わしは吉良様――吉良ではない、わしはしがない蕎麦屋です、卑賎の者に過ぎませぬ。御身の刀を、穢れた血で汚されますな!」
「見苦しいぞ、吉良! 恥を知れ、吉良、吉良!」
周囲を、そうして自分をも暗示にかけるかのように、大石殿は殊更『吉良』を強調して言った。
「で、ではこの額の傷、新しいのはどうなさる!」
皆の視線が、大石殿に注がれる。
が、大石殿は、怯まない。
「そんなもの、元の刀傷をなぞって、改めて傷を付けたに過ぎぬ。このように言い訳するためにな!」
一同、狂喜した。
それしかない、と思われた。
「なるほど、さすがは大石殿、まったくそれに相違ない」
「浅はかな奴め、そのような嘘で、我等の目をごまかせるとでも思ったか」
「そ、そんな、わしは嘘など吐いておりません。わしは、吉良ではございません」
「……誰か――唯七、縄を切って差し上げろ」
不意に大石殿は、武林唯七に命じた。
「いや、しかし……」
唯七は、もちろん、誰もが大石殿のその言葉に、戸惑った。
「おお、大石殿、お分かり下されたましたか――」
「唯七、早よう縄を切れ、縄を切らねば、吉良殿が、腹を切れぬではないか」
一同、合点して、安堵した。
大石殿は、懐から匕首を取り出すと、そっとそれを吉良殿の前に置いた。
「これは、我が主君が、その折に用いた匕首でござる。武士の情け、これで腹を切りなさい。唯七、さあ、縄を切れ」
縄が、切られた。
老人は、眼前の匕首と、大石殿の顔を、交互に見やる。
「さあ」と、大石殿。
老人は、ごくりと唾を飲み込むと、覚悟を決めたか匕首を拾うと、鞘を放り投げ、そのまま大石殿に襲いかかった――が、その刹那、既に老人は、武林唯七によって右肩から袈裟斬りに斬られている。
大石殿は、微動だにしなかった。
老人とは言え、その動きは、あまりに武士にしては無様だと、一同思った。
本当に、この老人は、吉良殿であったのか?
額の傷ともう一つ、確か吉良殿は、我らが主君によって背中を斬られている。
しかしその背中の傷を確認しようにも、今しがた武林唯七によって、奇しくも同じ位置を斬られてしまっている。
いや、武林唯七は、敢えてその位置を斬ったのかもしれない。
何の為?
決まってる!
皆、不安げな視線を、大石殿に向けた。
しかし大石殿は――
「殿」
天を仰いでそう呟くと、つつつと頬に涙を伝わせてみせたので、義士達は、ほっとした。
吉良殿の首は、間十次郎が落とした。
いかさま忠臣蔵
忠臣蔵のお話でした。
嘘っぱちです。