槐之宰相

無故


「槐<エンジュ>の花が咲いている。そうか、もうそのような時節か」

薄明けの夏空が日の出から放たれる光により黄金色に変わる。朝方だというのに、少し汗ばむほどの陽気である。
その日、王旦は自身の邸宅の中庭に植えられた一本の槐を見上げていた。
槐は深緑の葉で覆われ、いくつかの枝先には、中心を薄い黄色で染めた白い蝶形花が、葉と調和するがごとく円錐状に群生している。

まだ王旦が大名府の莘<シン>県で暮らしていた頃、父親の王祐が王氏の繁栄と王旦への期待を込めて、庭に三本の槐を植えたことがあった。
父親の陰ながらの御膳立ても功を成し、王旦は進士に及第して高官への道を辿り、現在は見事に宋の宰相として国を背負う立場にいる。
開封の内城に居を構えた今でも、王氏の守り木として一本の槐を庭に植えていた。

「昔は槐を眺めない日などなかったのになぁ。今はこの枝垂<シダ>れるように咲く花が妙に懐かしく感じる」

言い終わると同時に、王旦は幹の側に近寄る。地面に目を向ければ、槐の花びらが数枚落ちているのが見える。
王旦は身をかがめて一枚の花びらを手に取り、ゆっくりと立ち上がった。

「尊き黄を包み込むような白、か」

拾った花びらと槐の樹に咲く花と交互に視線を移しながら、王旦はポツリとつぶやく。

「ん?ち、ちう、え?」

「おや?」

背後から寝ぼけたような声が聞こえてきた。幼子特有の高めの声である。
後ろを振り返って見れば、齢五歳となる息子の王素が、中庭と回廊をつなぐ短い石段の上に立っていた。
小さな手で眠そうな目をこすっている。声の様子でもそうだが、衣が少し乱れているので王素が起床したばかりであることが容易に想像できる。

「素よ、起きたのかい?」

「朝だというのに、どうしてお庭に?」

「ああ、そうか。素にはまだ言っていなかったね。今日は休沐<キュウモク>、お休みの日なんだよ。特別に陛下から賜ったんだ。近頃はゆっくり庭を見渡す暇もなかったからねぇ。久しぶりのお休みだったから、こうして朝から槐の木を見上げていたんだよ」

休沐とは官吏に与えられた休暇のことであり、宋では十日に一度の間隔で回ってくる。
しかしここ最近の王旦は、日々宰相の公務に追われ、夜遅くまで中書に詰めることもあり、休暇を取るのも不定期になっていた。
休日返上を強制しているわけでもなかったが、さすがに王旦の身体の具合を心配した真宗は、特旨を用いてまで今回の休暇を賜ったのである。

「え、じゃ、じゃあ今日は!」

先ほどまで垂れ下がっていた王素のまぶたが瞬く間に上がり、物欲しそうな顔に変わる。
王旦は王素の言葉に少しの間首をかしげたが、すぐに「ああ!」と何か納得したような声を上げた。

「そうか、そうだったね。私が休沐の日には、お前を私の膝に乗せる、との約束だったね」

その言葉を聞いた王素の目がパッと輝く。
息子の無邪気な表情を見た王旦は思わず顔を綻ばせた。

「よし、じゃあ身なりを整えておいで。私はここで待っているから、お前が来たらそこの石段に座ってお前を膝の上に乗せてやろう」

「は、はい!すぐに仕度いたします!」

王素は言い終わるやすぐに体の向きを変え、邸宅内の回廊を駈け出した。

「そんなに急がなくても私は逃げないよ。全く、気の早い子だ」

そんな息子を微笑ましく思いながら王旦は王素の後ろ姿を見送った。

                                                *

「フフフ~ン」

王素が楽しそうに鼻唄を歌う。

「嬉しそうだね」

「だって、久しぶりに父上とゆっくりお話しができますから」

衣を着替え、再び中庭に戻ってきた王素を膝の上に乗せながら、王旦は石段の上に座っていた。両腕は息子の腰に回している。

王素は年々自分が成長するにつれ、子供ながらも細身の父が、自分を膝の上に軽々と乗せるのが難しくなっていることに薄々気づいていた。
それでも自分を抱える父の手や体から伝わる温かい鼓動が心地よく、それを一番感じ取ることができる王旦の膝の上が好きなのだ。
まるで穏やかな父の人柄がそのまま乗り移ったかのようで、手を通して自分の心身にも沁みこんでいく。

--ずっとこうしていたい

なかなか巡り合えない父との触れ合いの機会。
恋しさも相まってか、王素はできることなら、この時間が永遠に続けばいいと思っていた。

一方の王旦も、五十を過ぎて生まれたこの末子に対し深い愛情を注いでいた。
溺愛、目に入れてもかゆくないといった類ではなく、どちらかといえば慈愛といった方が近いかもしれない。

王素は王旦の息子といっても性格は似ていない。
修学に取り組む中で疑問点を鋭く指摘することが多いが、気が短く、煩雑な手伝いなどはすぐに飽きて放り出してしまう傾向がある。温厚な気質で積み重ねを大事にする父親とは正反対といっていいだろう。

「この頃父上はお忙しいのですね。家に帰られても、夜遅くまで筆を動かされています」

「そうだね。この頃は特に忙しくてね」

王素の頭を優しくなでながら、王旦は温和な口調で言う。
やんわりと笑みを浮かべてはいるが、その表情には陰りが見える。

「母上や兄上達だけでなく、家人達も心配されていましたよ。叔父上にいたっては、「私のひい(脾胃)が痛むことばかりだ。この間も陛下が急に御出ましになられるし、お疲れのはずなのに兄上の顔はいつも和やかだし、かと思えばたまに部屋に籠られて瞑想<メイソウ>を始める時があるし何を考えておられるのか。本当に宰相の弟という立場はブツブツ」とつぶやいていました」

「き、旭...」

反応に困った王旦は苦笑いをするしかなかった。
弟の王旭とは幼い頃より、互いに気兼ねなく付き合ってきたつもりだったので、息子が語る弟の言葉にいまいち実感が持てない。むしろ弟が脾胃を痛めていたこと自体初耳であった。
今度、弟のために薬を調達しようと真面目に考えると同時に、まだ理解できない言葉も含まれているはずなのに、弟の台詞を一字一句覚えている息子にも感心した。

「み、皆には心配かけるね。忙しいのは普段の政務とは別の政務が増えたからなんだけど」

「別の政務?」

王素は首を後ろに動かして王旦を見上げる。
王旦は頭をかきながら、ウンと呼吸するように返事をした。

普段の政務とは別の、というのは長い年月をかけて執り行われる封禅の儀のことである。この一大の宗教事業が三年前に実施することが決定されたのだ。
始めは封禅そのものに反対の意向を示していたが、裏で糸を引いていた王欽若の一計により、真宗本人より秘密裏に真珠を贈られ、王旦は無言の同意を余儀なくされたのである。

皇帝の命である限り逆らえない。実質的な賄賂である真珠を突き返すことは、真宗の皇帝としての威厳、面子をつぶすことになる。
それでも、理路整然と反論する余地はあったのだ。師と仰いだ李沆に学んだように、陛下の側で必死に諫めることもできたはずであった。

だが、できなかった。
契丹との盟約が結ばれた頃は、寇準ら抗戦派の官僚に督されながらも、河北を安定させたことで即位当初から不安に苛まれていた真宗の心を勇気づけていた。
その形成されつつあった威信も、弱味につけ込んだ王欽若の一言で粉々に砕け散った。
真宗の弱味も、そこまで追いつめられるに至った理由も痛いほど理解している。そんな最も鬱屈した時に自分は召されて宰相となった。

不安定な真宗の心に釘を刺すことなど、自分には到底できなかった。

封禅の実施を黙認したあの日からただ悔やむ毎日が続く。
三司からの国庫捻出の相談、儀式進行全般の計画、王旦にとって全てが憂鬱なものであった。
泰山の地に刻まれた「封祀壇頌」<ホウシダンショウ>は、「陛下は民の幸福を願い祈祷しているのだ」と無理に言い聞かせながら草案を練ったものだ。

国家の重責を担った自分が下したたった一度の選択肢。
王旦にとってその決断は、二度と拭えぬ最大の汚点となり、生涯纏わりつくトラウマともなった。

最近の政務を思い出しながら、王旦の表情は徐々に憂いの色が濃くなっていく。
王素はそんな父親の目を、しばらく何も言わずにじっと見つめていたのだが、王旦が視線に気づいている様子はない。

「あの、父上」

「...」

王素は王旦の顔を覗き込むように呼ぶ。だが、当の王旦は俯き加減で心ここにあらずといった感じだ。

「父上!」

「わ!び、びっくりしたぁ。ど、どうしたの?」

しびれを切らした王素が今度は声を大きくして呼びかけた。これにはさすがに王旦も気づいたようである。

「父上がいつもお傍でお仕えしている宋国の皇帝陛下とはどのような御方なのですか?」

王素の問いを聞き、まるでふいを突かれたように王旦は目を見張った。

どうして息子はいきなりそんなことを尋ねるのか。
いや、よく考えれば自分の父親が宋の宰相である以上、息子が主である皇帝に興味を抱くのは至極当然なのかもしれない。
しかし、今の自分に朝廷で陛下の天資を語るように、うまく説明できるのか。
瞬時に様々な考えがよぎり、王旦は口をつぐみそうになる。だが、

「そ、そうだね。戦ごとを好まれない、情け深く寛大な御方だよ。臣下の意見にはよく耳を傾けくださる」

答えに窮していたのも束の間で、自分の考えとは裏腹に独りでに口が動き始める。

「裁判事についても、残酷な刑罰を好まず、妄りに大辟、つまり死罪との判決は極力避けるようにと臣下に何度も命じられているね」

焦りを含んだ語りが自ずからいつもの落ち着きのある口調へと変わっていく。知らず知らずのうちに口から自然にこぼれ出るのだ。

「祖宗より継承された重責を担い、日々庶政や新しき制度の安定に心血を注がれている。先帝の遺訓を遵守され、お暇ができるたびに書をご覧になられる。侍讀や侍講学士より経書の講義も毎日のように聖聴され、政事について問答をされている。即位されて今に至るまで真に勤勉な陛下だよ...でも」

「でも...?」

「とても、傷つかれやすい御心の持ち主でもある。それを見せまいと一生懸命隠そうとされている」

「どうして傷つかれやすいのですか?」

「ど、どうしてって」

王素の反応に今度こそ王旦は言葉を詰まらせてしまう。
そもそも、自分は何故「でも」といった逆接の言葉を使ってしまったのか。その上息子は答え難い疑問を投げかけてくる。
真宗が傷つきやすく、性格も内向型にならざるをえなかった要因。その問いは真宗、いや先代の太宗から続く宋国が抱える禁忌に触れてしまう恐れがあるからだ。

「そ、その前に、今の私の話、素にはちゃんと理解できたかな?小難しい話をしてしまったような気がしたが」

なんとかして、王旦はうまくかわすことを考える。

「うーん、でもだいたいは分かりますよ」

王素の曖昧な答えに安心していいのか悪いのか分からなかったが、とにかく予想の範疇は越えなくて王旦は胸をなでおろした。

「そ、それはよかった。私もつい口が先走りすぎたよ」

「それで、どうして陛下は傷つかれやすいのですか?」

ホッとしたのも束の間、先ほどの質問をぶり返した王素の真っ直ぐな視線に、王旦は心の中であたふたしてしまう。

「え、ええとそれは...そう!いずれ時がくれば分かることだよ。あと二十年ほどぐらいかなぁ」

「むぅ。それは立派な士大夫になるには二十年の歳月が必要ということですか?ならば素は早く一人前の士大夫になりたいです!二十年といわずに十年でなってみせます!」

「そ、それは楽しみだね」

と、王旦は慌てて相槌を打つ。
頬を膨らませて少し機嫌を損ねたようにみえる王素だが、むしろ今の王旦の言葉に火が付いた様子である。
まだ幼き自分では知り得ることができない、と納得はしたらしい。
苦し紛れに出た言葉であったが、結果的にはそれが功を奏した形であった。

しかし自分が言葉を濁して王素のやる気を引き起こした手前、何か王素が興味いてくれそうな事柄はないかと考えた。

「ああ、そうだ!一人前の士大夫を目指すなら、私が今から陛下が御製された文武七条を教えてあげよう。陛下御自ら説かれたこの国に奉仕する百官の心得だよ。素も覚えておくといい」

「本当ですか!?絶対に覚えます!」

王素のむくれた表情が一転する。少し興奮気味で嬉しそうだ。
とりあえず話題をそらすことには成功したようである。

「じゃあまず、私が声に出して一条ごとに諳んじるから、素は後に続きなさい」

そして王旦は文武七条を声に出して読み始めた。

                                                *

それから一刻ぐらいの間、王旦は王素に文武七条を教えていたが、しばらくすると、王素は徐々に空返事のような気のない反応を繰り返すようになり、そして

「それで、七条目の革弊は...おや?」

王素からの返事は完全に途切れる。最初は真剣に耳を傾けてはいたが、どうやら王旦の膝の上がよほど心地がよかったようである。王素はそのまま静かに寝息を立てていた。

「眠ったしまったのかい?朝餉もまだだろうに。しょうがない子だ」

自分に寄りかかる息子の寝姿を王旦は愛おしむような眼差しで見つめる。

「時代が下るにつれ、真実はいずれ風化し、様々な憶測を呼ぶことになるだろう。後世の史書も詳<ツマビ>らかに記されることはあるまい。それでも成長するにつれ素も薄々と気づくかもしれないね。陛下が何をもって心にその傷を負われているのか」

王旦はフッと力のない笑みを浮かべ、目を細める。

「自信をなくされないように、憂いを持たれぬように、堂々と玉座に君臨されていただきたい。それが陛下を支え、百官を束ねる宰臣の...私の務め、そして願い。お前の父はいつもそのように考えて陛下の御傍にお仕えしているんだよ。もちろん宰相として陛下に、国のために、身を捧げることは言うまでもないけどね」

眠っている王素に向けた言葉のつもりであったが、まるで自分に言い聞かせているようだな、と王旦は思った。
王素の方は少し、唸るような声を上げたが、眠りを妨げるまでにはいたっていないようだ。

やがて一枚の槐の花が親子の足下に舞い降りてきた。最初に手にしたものとは違い、花を構成する花びらが全て揃ったままの状態を保っている。
王素を抱えているため、拾い上げることが叶わなかったが、王旦は槐の花を見てつぶやく。

「尊き黄を包み込む白。私はこのような穢れなき白には決してなれぬ過ちを犯した。それでも陛下は変わらず私のような凡庸な身を重用してくださる。だが時々陛下より向けられる信頼の眼差しに押し潰されそうになる。私を越えたその視線の先に潜んでいるのは、他の官僚や民衆の怨嗟ではないのかとも。だとしても、我が忠信だけは潔い白き心をもってありたい。毫髮<ゴウハツ>の私も決して入り込む隙などないような」

少し声を震わせながら言い、王旦は目線をゆっくりと花から樹の方へと移す。

「私の代わりに素を、いや王氏の行く末をどうか見守り続けてほしい。私はしばらくそなたをゆっくり眺める余裕はなさそうだ、槐よ」

眠っている王素の頬にそっと手を添えながら、王旦はただ一途に槐の樹に対して願った。

                                                                                         <了>

槐之宰相

槐之宰相

北宋真宗朝の名宰相王旦と末子王素の親子話。ほのぼのシリアス 王素は仁宗慶暦年間の四諫の一人。 王旦父子と王旦→真宗を書きたいを思った故にできた産物

  • 小説
  • 短編
  • 時代・歴史
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-05-16

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