僕の孵る場所

雨宿書房

 霧が晴れていく。それが本当に目の前に広がっていたものなのか、はたまた自分にしか見えない頭の中の靄なのか、それすら分からないままに僕はただ闇雲に手で(くう)を掻いた。その指先がようやく堅いものに触れたような気がしてじっと目を凝らすと、そこには見慣れた建物が現れていた。
「……そっか、帰ってきたんだ」
 そう口にして初めて、僕は確信を得る。そうだ、これは僕の家だったと。道理で見覚えがあるはずだと。
 最初は恐る恐る、次第に堂々と。不自然に白いその壁に手を這わせ、僕はやがてその表面にクレバスを見出した。壁は裂けている。裂け目は長く無機質に伸びて僕の指先を導き、その溝が四角く形を為したとき、そこには扉が生まれていた。
 扉。僕をどこかへと繋ぐ、軽すぎる口。
 僕はその口を通り、雄弁な僕の家へと帰る。

 僕を迎えた母さんは、いつものように柔らかな微笑みを浮かべて飲み物を差し出してくれた。マグカップからはほのかな湯気と、甘い匂いが立ちのぼっている。やっぱり、母さんは僕の帰りを待ってくれていたんだ。その優しさが照れくさく染みて、心の奥深く、凍てついていたところが温かく溶け出していくような感じがした。少しだけ自分という器が満たされたような、そんな感じが。
 でも、これじゃまだ足りない。優しさは、目に見えないものだから。優しい気持ちそのものは、目や耳ではつらまえられないから。だから、不安になる。それを少しでも埋めたくて、そのぽっかりとしたどす黒に何かを(そそ)ぎ込んでしまいたくて、いつだってそのための「何か」を――他人の優しさを分かりやすく形にしてくれるものを――探している。例えば、そう、僕に向けられた優しさがなみなみと湛えられているはずのマグカップなんかは、きっと打ってつけだ。だから僕にとって、喉が渇いているかどうかなんてことは、実のところどうでもいいのだ。このセカイでは、マグカップを受け取るのが渇きを潤すためだとは限らない。理由なんて、きっと他にいくらでもある。
 器の温もりを両手に感じ、優しく捧げ持ち、傾ける。そうして流し込まれた飲み物は、僕の唇を、歯を舌を、喉を馥郁とした香りで潤していった。僕は母さんに微笑みかけた。母さんも、優しげな表情を返す。
 そうだった。僕の家は、こんなにも穏やかな幸せに溢れているんだった。
 セカイは、そうして完成されていった。

 ――でも、そんなのはウソだ。

 嘘、と。誰かが今、僕のセカイを嘲笑った。
 そんなことがあるものか。僕はしかと確かめた。この家も扉も、僕が自分の手で探り当てたものだ。だから、それを否定することは誰にも許されない。このセカイは本物で、それはつまり、母さんもその笑顔も、そして甘く温かな優しさだって確かにここにあるという意味だ。疑うことなんて何もない。
 それでも、一度鎌首をもたげた疑いはそう簡単に消えてくれない。その疑念はちろちろと舌を出し入れしながら、僕の体の中を這いずりまわるようだ。そんな、ひどく嫌な感じがする。嫌で嫌で堪らなくて、いっそのことそいつを胃の中身ごと全部吐き出してしまおうと思ってしまう。そんな、気持ちの悪さに蝕まれる。
 ちょっと不安に思うことがあるくらいで、随分と大げさな言い草だってことは分かってる。でも、本当に具合が悪くなるんだから仕方がない。とにかく吐き気がして。そう、吐き気だ。とにかく、喉にうっとくるような。うっとくるようなって……何が?
 あの甘ったるいだけの飲み物が?
 ……嫌いだった、のだろうか。そんな気もする。いや、そうだ。そうだった。
 どうして忘れていたんだろう。
 成長期の子供の骨を強くする、なんて宣伝文句だっただろうか。家で帰りを待つ母さんがいつも淹れてくれたその飲み物は、渇いた僕の喉にどろりと雪崩れこみ、息を詰まらせた。喉を通り過ぎた後も、そのねっとりとした独特の風味は粘ついた唾液と一緒に喉に絡んでずっと残っていた。
 冗談じゃなく、幼かったあの頃の僕はあの液体を薬か何かのように思っていて、渡されるがまましぶしぶ飲み干していた節がある。それでいて、母さんの方はあれが僕の好物なんだと思い違いをしていたらしい。毎日僕の帰りを待ちながら嬉々としてあれを淹れていたんだと思うと、本当に、やるせない。

 もう一度、深く息を()く。いつかのような、むわっとした芳香がこみ上げて口いっぱいに広がり、頭をくらくらとさせる。
 僕は母さんを見上げた。母さんは何も言わない。寂しげな、頼りない笑みだけが僕らの間に(かよ)っている。
 そうだったね。あんな甘ったるいだけのもの、僕は大嫌いだったよね。この幸せな時間に水を差したくなくて、つい好物なフリなんかしてしまったけれど。本当は、あんなの飲めたものじゃないって、ずっと思ってた。
 でも、僕に好き嫌いがあるからと言って、僕に与えられる優しさそれ自体は何も変わらないはずだ。極端な話、僕がそれを汲みとれなかったとしても、そんなことは問題じゃない。大事なのは、与えてくれる人がいて、与えられた物があるという、その事実じゃないか。それを忘れないよう、カップを握る手に力を込める。
 その指は、何を掴むこともなく閉じられ、ただ拳を握った。そこにあると信じて疑わなかったマグカップさえ、僕はとうに失ってしまっていた。
 ……そっか、きっと僕が文句を言ったからだ。
 いつだったか、僕は母さんの気も知らずに思ったままありったけの文句を言った。もう、あの飲み物は要らないと伝えるだけでよかったはずなのに。きっと、言わなくてもいいことまで言っただろう。思ってもいないことまで言ったかもしれない。感情のタガが外れた子供は、少ない語彙で大人を言い負かせるはずもなく、ただただ自分の意地を通したいばかりに相手を傷つける言葉を選ぶ。そんなことが言いたかったわけじゃないのに。
 だから、母さんがあの飲み物を淹れてくれることはもうないんだ。それはとても寂しいけれど、それでもいい。欠けてたっていい。ちょっとくらい悲しくたっていいじゃないか。そんなこと、僕には関係ない。
 ……なんて、意地を張ってるだけだ。幼かった頃みたいに、相も変わらず。
 僕は、笑い方が分からなくなった。ただ、渇きだけを覚えていた。渇きは潤されなくてはいけない。人間は、干からびると死んでしまうのだから。

 そうだ、死んでしまう。人は死んでしまうんだ。

 ねえ母さん、どうして人は死んでしまうの?

 母さんは、どうして死んでしまったの?

 温かい湯気を立てるマグカップなんて、幻想だ。おおらかな笑みで包んでくれる母さんだって、本当はもう、どこにもいやしない。小さな子供が、大きな家に一人ぼっち。ここは……。

 ――お前がいていい場所じゃない。

「僕がいていい、場所じゃない……」
 顔を上げて、辺りを見渡す。
 なんだか、どうしようもなく心許なかった。どうしてだろう。自分がうんと小さかった時には、やれば何だってできてしまいそうな全能感を抱いていたはずのに。あの頃は何の根拠もなく、少なくとも自分の中では無敵な自分でいられた。そんな時代が確かにあって、気づけば呆気なく過ぎ去ってしまっていた。でも、そんなことは当たり前なんだ。あんな薄っぺらい全能感が嘘っぱちなんだってことは、ちょっと年を重ねればすぐに悟る。
 それよりも厄介なのは、大人になっても疑えないような幻想だ。例えば、家という囲いが、外の世界にある恐ろしいものから家族の温もりを包んで守ってくれているなんていう思い込み。あれがそうだ。家なんて、所詮は壁と壁とが合わさっただけの箱だ。それが無敵のバリアになるわけじゃない。でも、みんなそうだと信じたがる。家に帰れば安心だと、家にいる家族は無事だと、祈りたがる。そんな思い込みと、小さな子供が自分勝手に抱く全能感。一体、何が違うというのか。
 そうして、全てが剥がれ落ちていく。
 不自然に白い壁だと思ってたものは、いつからか、僕に照りつける白んだ光に変わっていた。痛いほどに白い光が、壁のように僕を取り巻き、ありとあらゆる方向から容赦なく僕に差す。僕の姿をくっきりと浮かび上がらせる。
 頼もしい壁なんてものは、最初からありはしない。僕に向けられるのは、ただただ白んだ目、目、目……。
 やめろ。
 僕を見るな。
 違う、違うんだ!
 みんなが見ているのは僕じゃない。みんなの目に映っているのは、僕によく似た姿のお荷物だ。そんなの、僕じゃない。誰も僕に、僕そのものに触れてくれはしなかった。
 目を閉じて耳を塞ぎ、もう一度あの幸せな、マグカップと優しい微笑みのあるセカイを思い描く。このセカイが夢に過ぎないってことくらい、とっくに気づいてる。でも、だから何だっていうんだ。夢だって構わない。現実じゃなくていい。だから、もう少しだけ……。
 けれど、全てを拒絶したはずの耳にも、やはりその声は届くのだ。

 ――こんな、くだらない場所(トコ)にいつまでいる気だ?

 くだらない。夢のない。そんな元も子もない言葉で。
 セカイは、まるで卵の殻が砕けるようにあっさりとその輪郭を失ってしまった。

   *   *   *

 目を開けると、くすんだ色の天井が広がっていた。
 ここには、柔らかな霧も靄もありはしない。せいぜい、寝起きの頭の中が薄ぼんやりと霞がかっている程度だ。
 窓の外からは、鳥のさえずりが聞こえてくる。そっちの方に目を遣ると、カーテンの隙間から差し込む朝日が僕の目を鋭くついばんだ。
「本当に、夢のない……」
 そう呟いた自分の声はどうしようもなく干からびて聞こえて、言葉は尻すぼみに途切れた。ずんと鈍い重さを頭に抱えながら、身を(よじ)ってベッドから下りる。しばらく部屋のただ中で呆と突っ立って体のふらつきが収まるのを待つけれど、代わりに血の気が引いていくような感覚に苛まれるだけだった。頭が、ずっと奥の方で痺れを訴え始める。
 何でもいい、動かないと。いつまでもこんなところにいたって駄目だ。
 ノブに手をかけてドアにもたれかかると、それはあまりにも簡単に開いて僕を部屋の外に放り出した。
 こんな表情(かお)して出て行ったら、きっとあの人を心配させてしまう。なんとか笑顔を仕立てようと口元をしごくけれど、筋肉の強張りは一向に取れやしない。だんだんとむしゃくしゃしてきて、袖で口元を乱暴にこすった。乾いた唇がひび割れたのか、笑顔が痛い。
 突き当たりにあるドアの向こうから、朝食の香ばしい音と香りが漏れてきた。
 今日もこの家のキッチンでは、赤の他人(おかあさん)が僕の朝食を作って待っている。

僕の孵る場所

僕の孵る場所

  • 小説
  • 短編
  • 青年向け
更新日
登録日
2015-05-16

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