きれい
◇Scene 1
誰もいなくなった校舎はとても静かだ。
体を休めた大きな動物のように、昼の喧騒が嘘かと思うほど静まり返って
いる。
いつもは生徒達を温かく見守って包み込んでくれている校舎も、
生徒たちのいないこの時間は冷たく静かな無機物らしくなっている。
とても静かで、とても冷淡。これくらいの時間まで学校にいる時は、何だか知らない場所に迷い込んだようでいつも不思議な気分になる。
それと同時に、とっても楽しくなるのだ。
ひんやりと冷えた空気を胸一杯に吸い込みながら、心を躍らせる。
廊下の奥の影がこちらを窺(うかが)っているかもしれない。
手前の教室のドアを開けたら異世界が広がっているかもしれない。
緩やかに非日常に変わり始めた校舎は、不思議な力を持っているみたいだ。
どんなことでもあり得るんじゃないかと思う。
どんなことでも起こってしまえるんじゃないかと思う。
不可能を可能にしてしまえるような、そんな奇跡もあり得るんじゃないかと思わせられてしまう。
そんな雰囲気がこの校舎にはあるのである。
鼻歌を歌いながらスキップをしていると、後ろから声が飛んできた。
「おーい」
「あ、やっほー」
「1人ー?」
「うん、1人ー」
「一緒に途中まで帰ってもいーい?」
「いーよー」
2つ分の足音が廊下をゆっくり歩いていく。
鼻歌を続けていると横から不思議そうな声色で尋ねられた。
「何やってたの?あんなところで」
「色々見てたの。この時間帯の校舎ってさあ、楽しくなるんだよね」
「えー?あたしはちょっと不気味で怖いから嫌なんだけど」
「そこがいいんだよ。可能性が無限大みたいな感じが」
「それが怖いんじゃん」
「ええー、わくわくするけどなあ」
「変なの」
2人分の声が空気を震わせる。しんと静まった校舎の中でしっかりとした
彼女の声はよく通っていて、私の耳にちゃんと届く。
私は彼女とは違う通らない声を出した。
「そういえば、こんな時間まで部活?」
「そう。部活終わってからも先生と話をしてたら遅くなっちゃって」
「そっか、大変だねー」
「大変だけど、まぁその分楽しいしね」
「すごいなぁ」
「え?何が?」
「だって、私、そんなに1つのものに一生懸命に打ち込めないもん。
だから、すごいなぁって」
「そんなにすごいことでもないと思うけど……普通じゃない?」
「私はすごいと思うよ」
「そ、そう?」
突然、校内に大きな音が鳴り響いた。
私の声でも、彼女の声でもない、無機質な音。―学校のチャイムだ。
「あっ、もう最終下校時間じゃん!昇降口閉められる!」
「閉じ込められちゃうね」
「急いで出よ!」
「はいはーい」
軽く生返事をして軽い足取りで歩み寄ると、真面目な彼女はまた声を上げた。
「ほら、早く帰るよ!」
「はーい」
マイペースな私の腕を掴んで引っ張りながら、私達は階段を下りていった。
◇Scene 2
「あ、雷だ」
暗い外をぴかりと一筋の光が照らした。
「ええっ。雷嫌いなのに…嫌だなー」
彼女が折り畳みの傘を開きながら、苦々しい表情で呟いた。
「嫌いなの?」
「だって、怖いし」
遅れてゴロゴロと空が怒っているような音が聞こえた。
「ううっ、怖い……」
「そんなに怖いかなぁ。綺麗だと思うけど」
「綺麗!?何で!?」
雷に怯える友人に、私はため息をつきながら答える。
「だって、星を見たら綺麗だと思うでしょ」
「それは…星は綺麗だし……」
「月だって綺麗でしょ」
「うん…まぁ、確かに」
「だったら、雷も綺麗でしょ」
「うーん……それは分かれない…」
「えー…」
私が残念そうな表情したようで、彼女は困ったような顔をした。
「どこが綺麗だと思うの?」
「月とか星ってさ、空で輝いてる光でしょ。簡潔に景色として言っちゃうと」
「そうだね?」
「だから、同じように空で光り輝いてる雷も綺麗だなーって」
彼女は唸りながら、星とか月とか雷とか全然違うじゃんと言って
雷を警戒していた。
「違くないと思うんだけどなぁ…」
「全っ然違うよ!ほら、それより早く帰ろ。雷怖いし!」
友人は私の背中を強く押して帰路を急いだ。
◇Scene 3
「ひとまず、雷が酷くならなくてよかった」
彼女は私の隣に座ってそう言った。
バスの中、じめじめとした雨の日特有の湿気と匂いが籠っている。
私は何となく息苦しさを感じて、ネクタイを緩めた。
「バス、どこで降りるの?」
彼女の質問に私は素っ気なく、家の近くのバス停を答えた。
窓から外を眺める。外はもうすっかり暗くなっていて、ゴロゴロと雷が
不機嫌そうに唸り声を響かせている。
私は窓枠に肘をついて時折光る雷を眺めた。
彼女はそんな私の横で退屈そうにもせず、静かに座って次のバス停表示を
眺めていた。
そうして、雷が光ったりすると怯えたように手を握りしめていた。
バスの中に私達以外の客はほとんど乗っておらず、何人か乗っていた人達も
すぐにバスを降りて行ってしまった。
がらんとした静寂ではバスの走行音や雨が窓に当たる音、隣の彼女の息遣い、バスのアナウンスがよく聞こえる。
気紛れに運転手のいる前方へ視線を移すと、大きな窓についた雨水を
ワイパーが忙しそうに拭っていた。
距離は離れているけど、微かにワイパーの音も聞こえる。
私がふと、蜘蛛みたいと声を洩らすと彼女は覗き込むように私の顔を見た。
「何か言った?」
「あ、いや、独り言だよ」
「独り言?」
不思議そうな顔をする彼女に私は前方の窓を指差した。
「あのワイパーの音が、蜘蛛の音みたいだなぁって」
「蜘蛛?」
「いや、ただそう思っただけなんだけどね。ただの思いつき」
「へぇ…。蜘蛛かー。まぁ、そう言われれば、形とか動きは蜘蛛っぽい感じ
だよね」
蜘蛛は苦手だけどね、と苦笑いをする彼女を見て、私は窓へと視線を戻した。
◇Scene 4
バスを降りて一緒に歩きながら、私は彼女をちらりと見た。
雨も止んで傘を差していないのに、彼女の表情は読めない。
「帰るの、こっちの方向だったっけ?」
私がずっと気になっていた疑問を口にする。
「ううん。違うよ」
あっさりと彼女が答える。
その答えに私は驚きとも懐疑ともつかないような、何ともいいしれない
不意打ちを食らったような気分だった。
「…じゃあ、どうしてこっちの方向に?」
「聞きたいことがあったの。聞きそびれたから」
そう言って彼女は私の前に出て、私の進路を塞いだ。
私はよく分からないまま、彼女の腹部辺りを見つめていた。
「さっきも聞いたけど、どうしてあんな時間に学校にいたの?」
「…色々、見てたから」
「ずっと?」
「そう、ずっと」
顔を上げない私に彼女の声は不安げに問い掛けた。
「じゃあ、何の為に学校にいたの?」
「何の為ってほどでもないよ。うろうろしてただけで…」
空中に消えるような曖昧な答えに、声は話した。
「私のお節介だったら、すごく申し訳ないんだけど……。
何かあったの?」
彼女のよく通る声は、私の耳にちゃんと届いた。
私は彼女とは違う、不安定な声を出した。
「どうして、そう思うの?」
「あの廊下で会った時、すごい悲しそうだったから」
「…………」
何も言葉を返さない私に、声は続けて話した。
「悲しそうっていうか、苦しそうというか……。
何とも言えない感じだったの。すごく楽しそうな表情してたんだけど、
空元気みたいな……楽しそうなのに楽しくなさそうな感じだったって
いうのかな」
すぐそばに立っている街灯がジジジと点滅する。寿命も残り少ないんだろう。
「それで、心配になって…。でも、聞ける雰囲気じゃなかったから、ここまでついてきちゃったの」
問い掛けている彼女自身が泣き出してしまいそうな声で、私に聞いた。
「どうしたの?本当のこと、教えて」
私はついに震える唇をそっと開いてか細く言葉を発した。
「……自殺、しようと…思ったの」
その言葉が合図だったかのように、私の口から言葉が溢れ出した。
「……特に辛いことがあったわけじゃ、ないんだ。
いじめられてたりとか、友達がいないとか、両親が不仲とかそういうわけ
じゃないんだ。そういうわけじゃないんだけど、何となく
『死んでみようかな』って思ったの」
不安定な私の言葉が彼女にちゃんと届いてるか不安だった。
私達の立っている横にある排水溝へ流れる水の音が酷く大きく聞こえる。
「何でか分からないけど苦しくて、辛くて……。人間関係が、とかそういう
のじゃなくて、生きてることそれ自体が苦しいような気がして……。
でも、何にも理由がなくて辛いだなんて言い訳とか甘えでしかないから、
誰にも言うこともできなくて。だから、ずっと気のせいだと思うことに
してたんだけど、やっぱり気持ちは晴れなくて、溜まってく一方で……」
その音に私の声なんか掻き消されてしまっていそうで、怖かった。
彼女は黙って、私の言葉を聞いている。
もしくは、私の声が届いていないのかもしれない。
「それで、どうしようもなくなって……どうしようもないくらい、
辛くなっちゃって……。悪い方向にしか考えられなくなっちゃって、」
手持無沙汰な左手を握りしめながら、ひたすらアスファルトの地面を眺める。
「死んでみよう、っていうか……死んでやろうみたいな気持ちになって。
何となく、学校で死のうかなって。……そう思って学校に残ってたの。
飛び降り自殺にしようと思ったんだけど、屋上は開いてないから
教室とかの窓から飛び降りようかなって思って。
どこから飛び降りようかなと思って、校内を歩き回ってみてたの」
切れかけた街灯のジジジ、ジジジジという虫の羽音ような音が聞こえる。
目の前の少女からは何の音も聞こえない。
「それで、やっと場所を決めて窓から乗り越えようとした時に、凄く怖く
なったの。」
その時のことを思い出すだけで、私はぶるっと身震いをした。
ぞわぞわとした恐怖感が足元から這い上がってくるようだった。
「突然、『ああ、死ぬんだな』って思ったらなんだか怖くなって。
窓枠にかけた手が震えて、どうしようって思って。
結局、死ぬ事が出来なかったんだ……。
……今思うと死ねなくて当然なんだよね。
ただ辛いなって思って軽い気持ちで死ねるんだったら、誰も苦労しない
もんね……」
しばらく、何の言葉もない時間が過ぎた。
私はどうしようもない自己嫌悪に押しつぶされそうになったけれど、
もう1つの自殺を止めた理由を思い出した。
「ああ……でも、もう1回死んでみようとした時にね、外の景色が見えたの」
何か話しかけようとしていた彼女は不意をつかれたような表情で私を見て
いた。
「ずっと上か下しか見てなかったから、地面と星空しか見てなかったの。
2度目の時にたまたま、真っ直ぐ前を見たの。
そうしたらね、学校の近くの住宅街とかビルとか……そういう、街の夜景
が見えて。星空も十分綺麗だったんだけど、街の光がずっと綺麗に見えて。
この光の数だけ、色んな人が色んなところに居るんだなって、そう思えて。
何だか、そう思ったらね?ほんの少しだけ元気が出たの」
勇気を振り絞って顔を上げると、泣きそうな困ったような可笑しいような
複雑そうな顔をした彼女がこちらを見ていた。
私はその顔が何だか面白く思えて、無理矢理な笑顔で笑って見せた。
そうすると、彼女も無理矢理な笑顔で笑い返した。
「だから、ごめんね。
『何か』はあったんだけど、もうほとんど終わっちゃったの」
「ううん、いいよ。それならそれで、話を聞けてよかった」
何だか可笑しくなって、顔を見合わせて2人で笑いだした。
ぱちぱちと煌めく街灯の光が視界の端に見える。
ひとしきり笑って、私はお腹を抱えながら目尻の涙を拭った。
ふと、私がずっと気になっていた疑問を口にする。
「ねぇ、どうしてとびっきり親しくもない私にここまでしてくれたの?」
「あたしも同じだよ。ただ、何となく、そうしたかったんだよ」
彼女はそう言って、また私達は2人で小さく笑った。
きれい
どうしようもないようで救われていた話でした。
書いた本人もよく分からん話になりました。
普段、キャラクターごとの容姿や性格を完璧に決めて書いていくのですが、
今回は何も決めずに固有名詞を出さないでどれだけ書けるかを挑戦しました。
兎に角不思議感を目指しました。