ねむりにつき

紙をかさりかさりとめくる音が部屋にしんと染み込んでいく。
何だか、虫が蠢(うごめ)いているような音だ、と前に言われたことがあった。
―確かにその通りかもしれない。
僕は目の前の数十の紙の上で生き生きと動き回る活字を読みながら紙の世界に呑み込まれながら、そう思った。

外は10月とは思えぬ暑さでギラギラと太陽が睨みを利かせている。
それでも、この活字の羅列の世界に呑み込まれると世界ががらりと変わって
そんな暑さも忘れてしまえた。
もちろん、この部屋の中の乱雑ささえも―。
活字の羅列はあと数行で途切れてしまう、世界は終わりを迎えようとしていた。
それと同時に僕は少しずつ暑い、物ばかりで埋め尽くされた乱雑な部屋へと
戻ってきていた。

「なぁ、内野(うちの)君。眠り姫は本当に目覚めたかったのだろうか」
「……眠り姫って有名な童話の、ですか?」

世界が完全に終わり、紙束をまとめながら僕は縁側に寝そべって尋ねる先生に恐る恐る質問を返した。
先生は、質問に質問を返すのではなく答えを返すべきじゃあないのか、と
ぶつくさと文句を言いながら答えた。

「ああ、そうだ。魔女に呪いをかけられて針に触れて眠ってしまうお姫様だよ」

僕はもう一度、彼の質問を頭の中で復唱した。

―眠り姫は本当に目覚めたかったのだろうか。
眠り姫は、とある国の国王夫妻の子供で、誕生した際は城に12人の魔法使いが呼ばれ、盛大な祝宴が開かれた。
しかし、その席に呼ばれなかった13人目の魔法使いが現れ、
お姫様に『王女は錘が刺さって死ぬ』という呪いをかけられてしまう。
しかし、12人の魔法使いたちは死の呪いを『王女は錘が刺さり100年間眠りにつく』という呪いに修正する。
王様は王女を心配して、国中の紡ぎ車を燃やさせたが、15歳の時に一人で城の中を歩いて、城の塔の一番上で老婆が紡いでいた錘で手を刺し、眠りに落ちる。
呪いは城中に波及し、そのうちに茨が繁茂して誰も入れなくなってしまう。
王女は魔法で100年眠り続け、噂を聞いてやってきた王子様のキスで目を覚ます。
そして、その王子様と結ばれてハッピーエンド……それが一般的な眠り姫の
ストーリーである。

逆に言うと、目覚めなければ王子様と結ばれることもなく、延々と眠り続ける
ことになるだろう。
そんなことは望まないのではないだろうか。
誰だって、ハッピーエンドがいいに決まっている。

「……彼女は、眠ったままでは嫌でしょうし、目覚めたかったんじゃないで
しょうか」

僕はそう、目の前の先生―僕が担当している超有名人気小説家、栗冠(さつか) 謎(めい)に
答えた。

彼―栗冠 謎はホラーやサスペンスなどのジャンルを取り扱う小説家だ。
いや、どちらかと言えば、子供などが見たら難しい漢字ばかりの詰まらなさそうだと思うような話を書く小説家である。
彼自身はというと、小説家としても人間としても、とても変わった人物である。
まず、彼は部屋着として女性物のワンピースを愛用している。
大事なことなので言っておくが、女装癖があるわけではない。
彼は恐ろしいほどの面倒臭がりで、服の脱ぎ着に被るだけで済むワンピースの
形態を好んでいるだけなのである。
だからといって、彼はれっきとした成人男性である。
容姿は中性的でも女性のようでもなく、しっかりとした男性だ。
故に、成人男性のワンピース姿を見せられるこちらとしては……毎度毎度、
精神的にくるものがある。
それに加え、彼は思いついた話をするのが好きな人間である。
自論を語ることもトンチのようななぞかけで他人のことをからかうのも好きで、こうやっていきなりよく分からない話題を振られることが多い。
また、小説の為といいながら僕を国内の北から南、時には海外の辺鄙(へんぴ)な奥地まで写真やその土地のものを持ってくるように注文するのである。

そんなこんなで僕は常々、この先生にいいように振り回されている。
しかし、どれだけ変人であろうとも、彼は出す小説全てが飛ぶように売れるほどの人気作家。
担当編集としては、ちゃんと原稿を書いてもらって自分の出版社で出して
もらえるようにいうことは聞かなければならない……。
世知辛い身分である。
まぁ、何だかんだ言いながらも担当を変えさせて欲しいとまで言わないのは、
僕自身、彼の作る文章が、話が、世界が好きだからだろう。
そうして、僕も結構な物好きなのだろうと半ば諦めつつ、
こうやって彼が展開する演説に好奇心で胸を膨らませながら耳を傾けるのだ。

彼は僕の答えを聞いて、にんまりと意地悪そうに笑った。

「相変わらず、君は素晴らしいほどに一般的で平凡な回答をしてくれるね」
「すみませんね、僕は先生と違って平凡的な頭しか持っていませんから」

そう、ぶっきらぼうに言葉を返すと、彼はけらけらと笑って僕を見た。
「いやいや、これでも私は褒めているんだよ? 内野君。
そこまで一般的で平凡で普通だなんて、逆に才能だとすら思うよ。
世間一般の普通という概念に当てはまるとは、まずそう簡単にできる事では
ないからね」

雑多に物が散らかった部屋の中から愛用している葉巻入れを探し出し、
火をつける彼の態度はとても褒めているようには見えなかった。

「先生、褒めるというより貶(けな)されている気がするんですが……」
「気のせいだろう」

そう言って、葉巻を口にくわえ、外へ向かってふわりと灰色の息を吐く。
何とも白々しい態度である。

「さて、内野君は『眠り姫は目覚めたかったんじゃあないか』と答えたな」
「はい」

僕は静かに頷いた。

「だが、本当にそうなのだろうか」

どういう事ですか?―そう問いながら、僕は今から繰り出されるであろう彼の自論に口元が緩んだ。

「眠り姫は作中ではどんな人物であったかと語られていない。
だからこそ、もしかしたら夢と希望に満ち溢れたような人物ではなく、
暗く絶望し、常に死を望んでいるが臆病で自ら死ぬ事ができないような人物だったかもしれないだろう。
もし、そんな人物であったとしたら目覚めたいとは思わず、死の苦痛の無い
永遠の眠りについていたいと思うんじゃあないだろうか」
「……眠り姫が自殺志願者だった、と?」
「あくまでも、可能性の話だがね。私達が見たこと、聞いたことのあるような
童話のお姫様や王女様というのは明るく優しく美しいことが多い。
だから、私達は童話の中でお姫様が出てくると、『お姫様が暗いなんて
ありえない』という先入観を持ってしまっているのだよ」

目を猫のように細めながら、灰色の言葉でふうっと部屋の中を支配する。
元々、男にしては長い髪がくせっ毛なので、不敵な笑みを浮かべたその姿は
『不思議の国のアリス』に出てくるチェシャ猫を連想させられた。

「先生はその先入観がいけないと?」
「内野君、君の悪い所は結論を急いでしまうことだ。一寸(ちょっと)、待て」

はい、と僕が顔を曇らせると、彼は機嫌良く灰色の煙に隠れて僕の視界を
曇らせた。
葉巻をくるくると弄(もてあそ)びながら、彼は話を続けた。

「私は先入観を持ってしまうことが、一様に悪いことだと言っているのでは
ない。だが、先入観を常に持っていることを意識できないということは、
よくないことだ。
先入観は人の思考の可能性を制限してしまうからね」
「なるほど……」
「それともう一つ、今まで話したのは全て私の想像の範囲だったが、実際に
話の内容が大きく違う『眠り姫』も存在している」
「えっ」

僕が驚いて目を丸くすると、彼は悪戯に成功した子供のようなしたり顔で笑った。

「一般的によく知られている眠り姫という作品は、グリム童話集の
『いばら姫』という作品だ。
そして、これと似た作品が他の童話集などでも取り上げられていてね。
例えば、シャルル・ペローのペロー童話集では『眠りの森の美女』という
タイトルで掲載されている。
話の内容自体は前半部分がほとんど同じなのだが、魔法使いが仙女(せんにょ)になり
8人になっている。
眠りに落ちた王女を悲しみ、王と王妃は王女に別れを告げず城を去ってしまう。他の者たちは妖精の魔法により眠らされてしまう。
そしてグリム童話との大きな違いは、王女は王子のキスで目覚めるのではなく、
100年の眠りから覚めるときがやってきていたために、自分で目を覚ますのさ」

面倒臭がりな彼のどこにそんな知識を蓄えているんだというほど、
彼は博識であり、僕は彼のそんな一面に度々、驚かされる。

「また、グリム版では省かれたと思われる、2人の結婚の後の話が残っていてね。『王女は2人の子供をもうける。しかし、王子の母である王妃は人食いであり、王女と子供を食べようとする。そこを王子が助け、王妃は気が狂い自殺して
しまう』といった残酷でグロテスクな、なんとも後味の悪いラストだ」

そこでだよ、内野君。と灰色の波は調子を変えた。

「さて、それを踏まえた上で彼女は目覚めたいと思うのだろうか?
いや、目覚める前の彼女がその先の未来を知っていることはないと思うが、
そんな未来の彼女は目覚めてよかったと心の底から思うのだろうかね」
「それは……目覚めたくなかった、目覚めなければよかったと……。
そう思うんじゃないでしょうか」

僕の回答に、彼はまた予想通りだとでも言うように口元を綻(ほころ)ばせた。

「そう。僕もそう思う。
だが、数分前の君は『眠り姫は目覚めたかったんじゃないか』と言った。
今の君の意見とはまるきり逆の意見だ。そこで、1つの謎が生まれる。
数分前の君の意見と今の君の意見が180度逆なのは何故か?
これは君にでも分かるだろう、簡単なことだがね。
答えは、思考をして結論に辿り着く為の過程で必要な情報の違いだ。
私が言いたいことは、思考に大事なのは先入観と情報量の違いだと
いうことだよ」

一様に先入観を否定しているわけではない、と言いながら達成感の心地よさに
浸っていた。

「……つまり、先入観と情報量が思考には良くも悪くもある、と?」
「そういうことだ。まぁ、今はそんな話は関係ないんだがね」
「えっ」

僕がきっと、鳩が豆鉄砲でも食らったような顔をしていたのだろう。
彼は僕の顔を見て、腹の底から大きな笑いを吐き出した。
灰色の煙で包まれた空間はあっという間に笑いで吹き飛ばされてしまった。
僕はなんだか恥ずかしくなって顔を伏せた。

「私が眠り姫から言いたかったことは、そんな基本的なことではない。
 もっと直観的で単純明快だ」
「それは……何ですか?」

僕がおずおずと顔をあげて尋ねると、彼は葉巻を灰皿に置きながら答えた。

「それはね、常識や一般論で全てが構成されているとは限らないということさ」

灰皿の上に乗った葉巻からゆらりと灰色の煙が空へと昇っていった。
僕は目の前の男の眼に映る、驚いたような拍子抜けしたような奇妙な顔をした男を見て、なんだか不思議な気分になった。
彼が吐き出した灰色の波に、僕は灰色以外の明るく鮮やかな色を見た。



…… …… ……

「こんばんは―月が奇麗ですね」

とてもきれいな月が出ている夜だった。
とても暗くて、とても寂しくて。
後ろを何かがついてきているような気がして何度も振り返った。
振り返った先には、月に照らされた何もない小道が延々と続いている。
確かにここは、私と彼の2人だけの世界だった。
ただ、私と彼の2つの影が月光で白んだ小道の上に黒々とそこにあった。
月光で白んだこの世界から切り離されてしまったように、それは黒く焼き付いていて、私はどうしようもなくその黒さに目を奪われてしまった。
このまま見つめていたらこの影に私は呑み込まれてしまうのではないか、とすら思った。
けれど、私はもうとっくにこの影に呑み込まれているのだと、今更のように
思い出した。
ふと、こちらへ近づいていた彼の影が立ち止まった。

「どうしたんですか?」

彼が不思議そうに振り返る。
月を背にした彼は何を考えているか分からない色の瞳で私を見つめた。
私の顔を見ると、彼の唇はにたりと不気味に弧を描いた。

「狐にでもとり憑(つ)かれてしまったような顔をしているね」

彼の意地悪な言葉に私の心はきゅうと締め付けられて、鼓動が速く大きくなった。

「大丈夫。何にも憑いていないよ」

私の少し後ろを見つめながら、彼はへらりと微笑んだ。
綺麗だ、といった口で大丈夫だと笑って、とり憑かれているだなんて愕(おどろ)かす。
風変わりで万華鏡の様な人だ、と心の中で静かに呟く。

「…月子(つきこ)さん」

彼は優しい声で私に声を掛ける。
私が望んでいる事を、まるで見透かしているかのような顔で。
影がゆらりと揺らめいた。

「愛しています」

月光の下で2つの影が踊る。
優しく、月の光を一身に浴びて、微笑む彼の姿は幻のように現実味がない。
そんな彼を―私は愛している。


…… …… ……


灰色の波をぼんやりと、何かに取りつかれたかのように見つめていた僕の意識を現実へと引き戻したのは、携帯電話の着信音だった。
僕は慌ててカバンから携帯電話を取り出し、通話ボタンを押した。

「はい、もしもし。内之宮(うちのみや)です」

相手は僕の旧友の母親からだった。
(ちなみに僕の名前は内之宮(うちのみや) 牧人(まきと)で、内野は先生が勝手に作ったあだ名である。)
落ち着いてよく聞いてね、と前置きをしてから僕の旧友―電話越しの女性の
息子が亡くなったと聞いた。

話によると、3日後に葬儀が執り行われるということで、ぜひ生前に交流が
深かった僕に出席して欲しいということだった。
もちろん、生前の彼と親しく、特に予定もなかった僕は葬儀に出席する旨(むね)を
相手の女性に伝えて電話を切った。

「何だね、はいはいと人形のように同じ返事ばかりをして、とうとう木偶(でく)の棒(ぼう)にでもなってしまったのかい、内野君」

先生は僕の事を面白可笑しそうに見て、けらけらと笑っていた。
僕が何も言い返さずにいると、先生は肩をすくめた。

「冗談だよ。その様子だと、仕事ではなさそうだから私用かな?」
「……大学時代の友人が亡くなったそうで、葬儀の連絡です」
「ほう、君に友人なんてものがいたとはね」
「…………」

言葉を返す気力も起きない。
僕は親しかった友人の突然の死に呆然としてしまった。
彼は病弱な人間ではなかった。
そんな彼が死んだということは、急病か事故か自殺か、もしくは……。
……もしくは―他殺。
だが、本当にそんな事があるんだろうか。
僕の記憶の中の彼は、人に恨まれるような人間でもなければ、この世や自身に
絶望して自ら死を選ぶような人間でもなかった。

彼のことを一言で言ってしまうなら、人間の「理想」のような男だった。
名前は、泰地(たいぢ) 星(せい)太郎(たろう)。
性格はおおらかで優しく、親切で人付き合いもよかった。
成績優秀、運動神経よし、見た目も男らしくたくましい格好いい奴で、
何故僕が彼と友達になったのか不思議なくらいだった。

家は有名な工芸品関係の会社をしていて、その会社を継ぐと言っていた。
家族関係も良好だと聞いていた。
それなのに何故…?

僕が首を捻っていると、先生がにたにたと愉(たの)しそうに問いかけてきた。

「内野君。さては、足りない頭で友人の哀れな死亡原因でも
考えているのかい?」
「……」
「図星かね」

考えていたことを完全に先生に読まれてしまって、僕はぐうの音も出なかった。
先生はそんな僕を見て、灰色の空気をかき乱すようにため息をついた。

「君はいつもいつも世の出来事に対して推理小説を読むように勘繰(かんぐ)っているが、
 世の出来事全てが謎に満ち溢れている訳ではないのだよ?
全く、何でもかんでも物騒な事件沙汰に結びつけてしまうのは君の悪い癖だね」
「……はい」

確かにそうだ、僕は何故彼の死をこんなにも不思議がっていたのだろう。
大学時代の彼が死ぬような人間に思えなくても、今は分からないのだ。
さっき、先生が話していた眠り姫のように想像通りのままかは分からない。
それに、急病や事故の可能性だってあるのだ。
彼の死については、葬式に行ってみるまで全く分からない。

僕は自分の推理にそう区切りをつけておいた。
気持ちの切り替えにゆっくり深呼吸をしていると、先生が灰皿からひょいと
葉巻を持ち上げて、深く吸った。
目を細めて灰色の煙をゆっくりと吐き出すと、先生は顔をこちらに向けた。

「ああ、そうだ。内野君」
「はい、何でしょうか?」
「その、君の大学時代の友人の葬儀はいつかね?」
「は?」

目を細めて口角を上げた先生の顔はまさに、遠足前の小学生のような表情だった。
僕は、ああこの人は風変わりな物好きだった、と今更になって思い出したので
ある。


…… …… ……


月が静かに見つめている。
月の光で白む。
薄暗い川の傍の小道。
白い白い私のワンピース。
揺らめく裾。
白くなっていく彼の肌。
硝子(がらす)玉(だま)のような瞳。
青味が差していく唇。
動かない影。
影と、月と、私だけの世界。
影と、月と、私だけの……―。
世界は少しずつ色を取り戻して。
少しずつ、少しずつ死んでいく……。



…… …… ……


葬儀当日、先生は君の物珍しい友人の顔が見てみたい、と不謹慎な好奇心で
僕に同行してきた。

何だかんだと言って、先生の同行を許してしまった僕も悪いのだが……。
やはり、僕には信じられないのだ。
彼が死んだという事が偶然の事象であると。
僕は漠然と、やはり事件なのではないかと懲りずに勘繰り続けていたのである。
だが、僕には事件を解く頭脳はない。
だからこそ、僕は先生の要求を呑んだのである。
先生は今までに幾度か興味本位で事件に関わり、事件の真相を暴いたことが
あったのだ。
たとえ、真相を暴けずとも、先生がいれば何とかなるだろうと僕は愚直にも
先生を信じていたのである。

ちなみに今日は葬式ということもあり、また僕がしつこく言ったこともあって
ごくごく一般的な黒いスーツに革靴とシルバーのネクタイという先生の貴重な姿を拝んだのである。(髪は綺麗に纏めて後ろで一本結びをしている。)

あくまでも、僕と先生は知り合いということで受付へ行ってお香典(こうでん)を渡し、
一般席についた。
しばらく待っていると、お坊さんが経を読み始めた。
番が回ってきて、お焼香(しょうこう)を済まし、出棺までを見守った。
(一般常識に乏しい先生がお焼香を慣れたように上げていたのが、何だか不思議だった。)
出棺前にちらりと見た故人となった彼の顔は、前と変わらず男前で何ら変わっていないように思えた。


彼の母親とは、出棺前に少しだけ話すことができた。
彼女曰く、彼は誰かに殺されたらしい。
しかも、首をロープのようなもので絞められて、だ。
犯人は見つかっていないそうで、彼の母親は早く捕まってくれるといいのだけれど、と力の無い声で言った。
僕が、彼はその時1人だったのですか?と尋ねると首を横に振った。
母親は気まずそうに、交際相手の女性と一緒に居たそうだと言った。
発見者もその女性だそうで、僕は彼女が最有力な容疑者ではないかと思った。
しかし、僕のその推理はすぐさま否定されることになる。

故人と最近も連絡をよく取り合っていた僕の友人が言うには、その彼女と彼は
誰もが羨むほどに互いに愛し合っていたのだという。
交際期間は4年ほど、喧嘩はしたこともないそうだ。
彼女のほうのことも知っていて、交際相手の女性の名前は春日井(かすがい) 月子(つきこ)。
僕も知っているくらいの有名な化粧品会社のご令嬢だそうで、大層な美人らしい。

2人は既に婚約もしていたそうなのだが、大きな問題があった。
彼らはどちらも、その婚約を親に認められていなかったのだ。
互いに1人っ子だったことで後継ぎがいなくなるのを嫌がったのである。
つい最近では、彼は友人に彼女と駆け落ちしようと思っているとまで話していたそうだ。
まさに、ロミオとジュリエットのように2人の恋は逆境をもって燃え上がって
いた訳である。

そんな関係にある恋人、ましてや女性が彼の首を絞められる訳もないという事で
自然と容疑者の中から外されているそうだ。
残念ながら、人通りのない道だったので事件発生時の目撃者もいないらしい。

警察は、彼を狙っていた別の女性、また会社関係の怨恨の可能性が高いと睨んで捜査を進めているらしい。

僕の予感通り事件ではあったが、推理でどうにかなるような事件ではなかった。
加えて、彼が他殺であったのに酷く驚くばかりだった。

知人達との立ち話を終えると、先生は見知らぬ女性と話していた。
僕がそっと先生の傍に寄っていくと、先生の声が聞こえてきた。

「今回の事件の犯人は、貴方ではないのですか?」

先生の言葉に驚愕を隠せなかった。
僕はつい、先生に駆け寄り小声で何を言ってるんですか、と言った。
先生は僕の存在に気付くと、彼女に軽く僕の紹介をして僕を彼女に紹介した。

「ああ、内野君。丁度いい所に来た。
 彼女は春日井 月子さん。君の友人の婚約者さんだよ」
「先生、何故彼女が婚約者だと……。誰から聞いたんですか?」
「誰からも聞いてはいないさ。強いて言うなら本人から直接教えてもらったの
だよ」

僕がえっ、と声を上げて彼女を見ると、彼女は微笑みながら初めましてと
挨拶をした。慌てて僕が挨拶をすると、先生は言った。

「彼女は通夜の時に一般席の最前列に居た。
 焼香の時にちらと顔を見てね。遺影をじっと見つめていたのを見て、
 交際関係にあったか、もしくは片思いをしていたのだろうと思った。
 だが、出棺には付き添わなかった。ということは片思いか、もしくは親に
認められていない交際だと思って、彼女に声をかけたという所だ」
「な、何故、遺影を見つめているだけで、彼女が彼を好いていたか分かったん
ですか?」

訳が分からないというように聞けば、彼はさらりとあの顔は恋する女の顔だ、と言った。

「面白い方ですよね、この方」

月子さんがくすりと微笑しながら、僕に言った。

「私も先ほど、同じことを聞いていたのです。
まさか、それだけのことで見破られるなんて凄いですよね」

軽くひかれた赤い線が緩く弧を描き、僕はやっと彼女の姿をしっかりと見た。

彼女は確かに、大層な美人だった。
目鼻立ちも整い、白い肌にすらりと伸びた手足、細すぎず太すぎない女性らしいふくよかな体つき、胸元まで伸びた艶やかな黒髪、どれをとっても美しかった。
白い肌に脛(すね)まである黒いワンピースと赤い唇が酷く目立っていた。

だからか、絵や本に描かれたような美しさがある女性だという印象を受けた。
この彼女と彼ならば、素晴らしい美女美男のカップルであったのだろうと思う。

ただ、彼女の黒い瞳だけが、優しそうに細められたその瞳が、僕にはどうしようもなく冷たい作り物のように見えて不気味だった。

「それで、彼女に彼との関係や今回のことについて、無礼を承知の上で聞いて
いた訳だ」
「それは分かりましたが……。
何故、そこから彼女が犯人だという話になるんですか?」

周りに先生と彼女以外、人がいなかったことが幸いである。
これを他の人間に聞かれていたら、先生は奇異の目で見られていたことだろう。

「可笑(おか)しいかな?」
「可笑しいもなにも、彼女と彼は愛し合っていたんですよ?
 2人の間に影もなければ、親に反対されて駆け落ちしようと思うまでには」
「ああ、その話も彼女から聞いたよ。
 だが、それが何だって言うのかね?」
「は…、」

訳が分からなくなり、開いた口が塞がらないでいると先生は呆れたように
ため息をついた。

「愛し合っていたからってどうしたっていうんだい?
 愛し合っていたからと言って、その愛が本物だとしても、彼女が彼を殺さない
とは言えないだろう」
「……こ、殺しても何にもならない。彼女にはメリットがないじゃないですか」
「殺人以外にも、メリットのない行動なんて往々にして存在しているよ。
 それに、彼女にとってのメリットが君にとってのメリットとは限らないだろう」
「で、でも……どうして?」
「私もお聞きしたいです。どうして、私が犯人なのかを」

彼女が微笑みながら、先生を見つめた。
先生が彼女に向き直って、静かに推理を話し始めた。

「彼女から聞いた話だと、彼が殺されたとき、彼女はちょうど彼とはぐれていた。
 一緒に歩いていたら、いつの間にかはぐれていた、と。
 恋人と川の傍の何もない小道を歩いていて、そんなことあると思うかい?
 可能性としては有り得なくもない話だが、まずほぼ有り得ないだろう。
 また、犯人の姿を見ていないと意見も同じこと。
 犯人が逃げ去る音さえ聞かないなんて可笑しいからね」
「でも、女性が男性の首を絞めるなんて、無理なんじゃ……」
「ああ、普通なら無理だろうね」
「普通なら……?」

先生は僕の反応に上機嫌で、ゆっくりと自分の手で自分の首を絞める真似を
しながら、言った。

「彼女は彼の首を絞めたんだよ。普通にロープを引っ張ってね」
「それで、一体どうやって? 彼が抵抗したらそれもできないじゃないですか」
「ああ、そうだよ」
「そうだよって、それじゃあ彼女に犯行は無理じゃないですか」
「だから、抵抗しなかったんだよ」

僕は目を見開いて、先生の顔を見てから月子さんの顔を見た。
月子さんは変わらずに、微笑んだままだった。
それがどうにも、不気味で仕方なかった。

「彼は彼女を愛していたからこそ、彼女に抵抗できなかったんじゃないか……。
私はそう考えた。だから、彼女に聞いていたのさ。
犯人は、貴方ではないのですか?とね。
勿論、これはあくまで可能性の話。真実は私には分からない。
どうでしょうか、月子さん。貴方は星太郎さんを殺しましたか?」

月子さんは静かにゆっくりと頷いた。そして、優しい声でさわやかに微笑んだ。
その光景の似つかわしさに、僕は乗り物酔いのような吐き気を覚えた。

「ええ、そうです。私が、彼を殺しました」
「……どうして…、そんなことを……?」
「愛していたから、です」

彼女はまるで当然のことのように殺害動機を語り始めた。

「彼はご実家の工芸が大好きでした。
 私も工芸作りに励んでいる彼が好きでした。
 ですが、私と結婚してしまったら、私の会社に婿入りしなければいけなく
なってしまいます。私が彼に嫁ぐことは私の親が許しませんでした。
双方の親の猛反対に、彼は駆け落ちまで提案してくれましたが、駆け落ちを
してしまったら彼はご実家の工芸を続けられなくなります。
私にはそれが耐えられなかったのです」

彼女はゆっくり目を閉じて、小さくその言葉を吐き捨てるように言った。

「だから、私は彼に殺して欲しかったのです」

彼女の黒髪とワンピースが風でゆらゆらと揺らめいた。

「私はあの日、あの場所で、彼をロープで首を絞めました」

彼女はゆっくりと言葉を一口大に切るように、区切って言った。
だが、僕にはその異物を呑み込むことはできなかった。
咀嚼(そしゃく)してみても、僕にはそれを呑み込むことは全くできなかった。

「ロープを首にまわし、力を入れて絞めました。
 ですが、所詮女の力です。彼を殺せる筈(はず)がありません。
 彼が抵抗して正当防衛として、私は殺される筈でした。
『頭の可笑しい女から殺されそうになったので、身を守る為に殺した。』
そうなる筈だったのです。
そんな女に彼も愛想を尽かして、愛すこともない筈だったのです。
けれど、彼は……」

彼女は悲しそうに言葉を詰まらせた。
けれど、彼女の瞳には何の感情も読み取れない。

「彼は、私に抵抗も反撃もしなかったのです。
 絞められていくロープを掴むこともしなかったのです。
 ただ、ただ、愛おしそうに私を見つめて、頬を優しくその大きな手で
撫でるのです。
私は彼の抵抗を、ゆっくり首を締め上げながら待ちました。
けれど、最後まで彼が抵抗することはありませんでした。
女の力であろうとも、首を絞め続けては酸素が足りず死んでしまったのです。
私は焦りました。ですが、起こってしまったことはどうしようもありません。
私は警察と救急車に連絡をして、自分が捕まる時を待ちました。
けれど、警察はとうとう私を捕まえには来なかったのです。
父の力が働いたのかもしれません。
何にせよ、私に疑いの目を向けられることはありませんでした。
私は自分の罪を償うことも許されなかったのです」

化粧をした顔を歪ませて嘆く彼女に僕はそっと尋ねた。

「どうして、殺して欲しかったのですか……?」

彼女は息苦しそうに答えた。

「彼の障害になんて、なりたくなかったのです。
 あの人は優しい人でした。あのままでは、彼は彼の大好きなものや大切なもの
を全て捨てて、私と駆け落ちしてしまったでしょう。
それが私には耐えられなかった。
夜空に星が輝く為には、月があってはならないのです。
偽物の太陽など、あってはならなかったのです。
何度か自殺も考えました。
でも、私は死ぬのなら愛する彼に殺して欲しかった……。
彼の為に、彼に殺されたかった。
けれど、彼に罪を着せたくない。
罪悪感も持ってほしくない。
だから、正当防衛という形で殺して欲しかったのに……」

彼女が言葉を止めて、不意に顔を上げて先生を見た。

「栗冠さんは、このことを警察にお話しになるのでしょうか?」

先生は彼女を見て短く、いいえと答えた。

「……酷いお方」

彼女は悲しそうに眉を下げて微笑んだ。



月子さんとの話を終えて、僕と先生は車に乗って帰路についていた。

「先生、どうして彼女のことを警察に話さないんですか?」

運転席からの投げかけに後部座席に寝転んだ先生は欠伸をしながら答える。

「私は一介の小説家だ。探偵でも警察でもない。
 真相を暴くことや真実に辿り着くことが仕事はないのでね。
 それにあれはあくまで、私の考えた可能性の中の話でしかない。
何の証拠もない話だ。推理などと呼べる代物ではない。
 それに彼女の話だって本当かどうかは分からないだろう」

あまり納得ができなかった僕は前を走る車を追い抜き、疑問を口にした。

「先生、彼女の話が本当だとしたら1つだけ全く分からないことがあります」
「何だね」
「彼女はあんなにも捕まりたがっているのに、どうして自首をしないんでしょ
う?」

先生は上着を脱ぎ捨て伸びをして、さあねと答えた。

「頭の可笑しい女の考えなど分からんさ。
 彼女がどうなろうと私には関係のない話だ」

車の少ない道を走りながら、僕は美しい月をちらりと見た。
今日は雲が多く星々は見えない。
暗く寂しく冷たい夜空で月はただ静かに、そこにあるのみだった。

星太郎にとって月子さんは、邪魔に光り輝く月ではなかったのではないかと
ぼんやりと思った。
泰地にとって月子さんは、暗い闇夜に包まれた地球を明るく照らしてくれるような大事な存在だったのではないかと。
ただぼんやりと、大団円を愛するご都合主義者として身勝手に、そう思った。

眠り姫のように、あの月も眠ってしまうのだろうか。
それとも、もう目覚めた後だろうか。
どちらにせよ、あれだけ美しい月には永遠の眠りになどつかないでいてもらい
たいものである。

《終》  

ねむりにつき

小難しい話を書くと疲れますが楽しいです。
その内、リメイクするつもりなのでリメイクしたら下げます。
文章のおかしい所が多々ありますが、読んでくださってありがとうございました。
参考元:眠れる森の美女-Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9C%A0%E3%82%8C%E3%82%8B%E6%A3%AE%E3%81%AE%E7%BE%8E%E5%A5%B3

ねむりにつき

偏屈な変人小説家先生と平々凡々な編集者の話。

  • 小説
  • 短編
  • サスペンス
  • ミステリー
  • ホラー
  • 青年向け
更新日
登録日
2015-05-15

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