懐中時計

マレー沖海戦で英雄だったはずの祖父が、実は…。

 理沙が病院に着いたとき、祖父は息を引き取った後だった。母のむせび泣く声が廊下の端まで響き、祖母は祖父の手を握ったまま、皺の刻まれた顔をクシャクシャにしながら枯れた涙をにじませていた。祖父の身体は、胸のところで掌は組まされているものの、まだ顔に布は被されていない。自然と涙が溢れ、祖父との思い出が脳裏を駆け巡る。優しい祖父だったが、戦争から帰って来てからは、郵便局員として細々と人生を過ごしてきた。何処にでもいる、ごく普通の人だったのだが、戦争を経験しているからだろうか、理沙には、子供のころから目に見えない不思議な威厳のようなものが感じられた。今想えば、いぶし銀のような武士(もののふ)のオーラだったような気がする。しかし、余程のことでもなければ、祖父は戦争の話をすることもなかった。理沙が中学生の頃、戦争のことを訊ねたことがあったが、祖父はそれまでに見せたことのない顔をした。決して怒っているのではないのだが、相手にそれ以上の言葉を発せさせないオーラを醸し出していた。理沙自身も、別段、戦争に興味があるわけでもなく、おじいちゃんが経験した大東亜戦争と教科書で習う第二次世界大戦が一緒だということさえ知らないほどだった。ただ、伯父さんたちから、祖父が戦争中は飛行機乗りで、手柄も立てたのだということくらいは聞かされていたが、そんなのは頭の端っこの方にしまわれ、微かな記憶として残っているほどだった。
 葬式には、会ったこともない親戚の人たちや付き合いのあったお年寄りが多く集まり、祖父の人柄が偲ばれるようだ。戦友と思しき人たちも、付添いの人に支えられながら弔問に訪れてくれていた。写真を見上げて掌を合わせる姿にも、戦争を一緒に戦った人たちからは余計に感慨深いものを感じさせる。通夜のお清めの席でも、年老いた戦友同士が同じ席に着き、戦時中の話になると錆びついていた記憶回路が一気に蘇るように鮮明に当時のことを語りだす。‥ それほど、戦争がそれぞれの心に強く焼き付いている証しだろう。
 祖父が荼毘にふされ、火葬場の職員が焼かれた骨を集める。その手先を見ながら、おじいちゃんが欠片になってしまったと思うと涙で目が霞んでしまう。お骨の周りに皆が集まり職員の手先を見つめていると、その職員は、一瞬怪訝な色を顔に浮かべ、集められたお骨の一角に目を落とした。皆は、その職員の動作に自然とその手元に視線が行ってしまう。職員は、白い手袋をしたままその小さなお骨の一片を拾い上げると、掌にそれを乗せて廻りの皆に問う様につぶやいた。
 「これは何だろう…?」
 小さな骨片に丸い金属の玉が付着しているように見える。孫たちは、骨に金属の玉が張り付いているということでざわめき立っていたが、一人の伯父が、その骨片は多分頭蓋骨であり、小さな金属の玉は鉄砲の弾だということを教えてくれた。伯父は、その骨片を端によけておいてくれるように言い、祖父のお骨が骨壺に収まった後、それを袱紗にくるんでポケットにしまった。鉄砲の弾が頭蓋骨に張り付くように残っている。
 四十九日の日、親戚が集まり祖父の遺品が整理された。着る物や身の回りの品、そして、引出しにしまわれた貴重品の中からは、祖父の戦争にまつわる品物も出てきた。
 「おじいさんは、戦争中は飛行機乗りだったんだ。爆撃機に乗り、敵艦に爆弾や魚雷を落とす。歴史的にも有名な、マレー沖海戦で手柄も立てているんだ。」
 祖父の長男が、遺品の中から勲章をいくつか取り出した。そのうちの一つを三男が手に取ると、
 「これがこの賞状に謳われている勲章だろ!?」
 そう言って、その勲章を壁に飾られた賞状の入った額に近づけた。
 「やっぱりこれだ!マレー沖海戦で手柄を立ててもらった勲章だ。」
 中々戴ける代物ではないらしい。祖父の戦争体験を知らない親戚は、長男の話を誇らしげに聞いている。普段のおじいさんからは、全く想像の付かない姿だ。そんな人の血を分けていると思っただけで、その誇らしい気持ちも倍増してくる。
 伯父さんは取り出された引出しから、今度は懐中時計を手に持った。本当に古ぼけた懐中時計なのだが、理沙も極幼い頃に祖父がそれをポケットから取り出していたのを微かに覚えている。
 「戦争中、飛行機乗りは懐中時計が必需品だ。時計の文字盤を位置や計器の計算に使ったり、様々な部分で飛行機乗りには時計は必要な物だった。戦時中も片時も離さず持っていた物だし、戦後もおじいさんはこの時計だけは動かなくなるまで使っていた。」
 子供のころに、祖父に手を引かれて歩いているときなど、ポケットに手を入れ鎖の付いた懐中時計を取り出していた記憶が僅かに蘇ってくる。同時に、祖父が爆撃機に乗り込で、その時計を片手に照準を定めている姿がおぼろげに脳裏に浮かんでくるような気がした。
 「おじいさん達は、真珠湾攻撃のすぐ後のマレー沖海戦で歴史的な勝利を収めた。それまでは、航空機で戦艦級の船を撃沈するのは不可能だと言われていたんだ。そんな時にじいさんたちは、イギリスの艦隊プリンス・オブ・ウエールズをことごとく撃沈し、歴史に名を残すマレー沖海戦を戦った。じいさんは、隊長機に続く二番槍で魚雷を命中させて手柄を立てる。その時の勲章が、さっき賞状と照らし合わせていた奴だ。だがその時に、敵の弾も頭に被弾して名誉の負傷を負ってしまったんだな…。それが、この頭蓋骨に張り付いた鉄砲の弾だ。」
 そう言って伯父さんは、小さな四角い透明なプラスチック・ケースに入れられた、おじいちゃんの頭の骨に鉄砲弾がくっついた骨片を皆に示した。その話を聞かされた皆は、おじいちゃんが戦争の英雄だと初めて知ったような気がした。そして、そこまで話をすると伯父さんは、レポート用紙にまとめられた祖父の手記を理沙に渡した。そこには、マレー沖海戦の模様が事細かに記されていた。祖父が亡くなる前に、密かに記して仕舞い込んでいた物だ。伯父が言っていた話が、事細かに記されている。理沙の中でも、おじいちゃんが戦争の英雄として躍り上がってくる様な気がした。他の親戚がそのレポート用紙を見終わった後、理沙はもう一度それを手に取り、記された文字に目を落としていた。その文章を見るにつけ、彼女の中ではおじいちゃんの像がどんどん高みに上がっていく。それまでの単なるおじいちゃんの像が、外国映画に出てくる恰好の良いヒーローと重なってしまう。彼女は気を良くして繰り返し読んでいたが、何度か読み返すうちに文中に気になる一節があることに気がついた。“海戦には勝利したのものの、魚雷が命中したのがせめてもの慰めだ”とある。折角の二番槍の手柄が、せめてもの慰めとはどういうことだろう…。伯父もその質問には答えられなかった。理沙の中では、その“せめてもの慰み~”という言葉が引っかかっていた…。
 今までの普通のおじいちゃんが、戦争のヒーローになってしまっていた。歴史的にも有名なマレー沖海戦で手柄を立て、その時の戦いで名誉の負傷を負った。それだけでも映画のヒーローの資格は十分だ。戦時中のお爺ちゃんのヒーロー話をもっと聞いてみたいと思った。同時に、手記に書かれていた一節も気に掛かる。また、そこには被弾した事実も記されていない。伯父の話にあったように、マレー沖海戦での負傷なら、それを記した手記にはその事が書かれていても良いはずだ…。伯父の話を黙って聞いていた祖母に質問してみた。すると祖母は、普段はあまり見せたことがないような複雑な色を顔に浮かべて、理沙の質問には答えようとしなかった。お爺ちゃんのことは誰よりも知っているはずなのに…。

 四十九日が終わってからも、理沙は祖父のことが気に掛かっていた。亡くなったことの悲しさはもとより、やはり、手記の中の一節も気になっていた。年賀状や弔問のリストから、お爺ちゃんの戦友の所在が分かった。お爺ちゃんの戦友と言っても、皆八十歳も半ばを過ぎた人たちばかりだ。半分以上の人たちはもう亡くなってしまっているが、健在だとしても老齢には変わりない。ここでその人たちを訊ねなければ、一生会うことはできないだろう。理沙は、その人たちを訊ねることに決めた。できれば、同じ部隊の同じ飛行機に乗っていた人を訪ねたかった。彼女はおじいちゃんと近かった戦友を何人か選び出し、その人たちに面会を申し出る手紙を綴った。
 日本晴れが崖にそびえる木々の紅葉を映えさせ、照り付ける日の光が海を輝かせる気持ちの良い休日だった。小林さんというお爺ちゃんの戦友は、瀬戸内海を見渡す小高い丘の上にひっそりと住んでいた。年齢を考えれば、身体も思考回路もかなり疲れが出ているように感じる。その家の倅の嫁さんに促され、小林さんの居る居間に案内されても、本人は心なしか反応が遅いような気さえする。壁には、家に飾ってある物と同じ賞状が飾られている。他の表彰状も、同じような物が並んで飾られている。それを見るだけでも、小林さんの人生とお爺ちゃんの人生が一気に重なるような気がする。嫁さんが理沙のことを祖父の孫だと説明すると、瞬時に小林さんの目の表情が変わり、映りの悪いTVが一瞬にして地デジに変わってしまったように意識の焦点が合わさったように感じた。同時に、小林さんは理沙の中からお爺ちゃんのDNAを読み取ろうとするように本当に懐かしそうに、そして親しみを込めた眼差しで見つめてくれていた。
 「清田啓太郎の孫の理沙と申します。小林さんの御健在なお姿を拝見できて何よりに感じております。」
 小林さんは、心から懐かしむように理沙と向き合い、そこから一生懸命清田啓太郎の記憶を呼び覚ましているように感じた。丘の上に立った家には、キラキラと海を照らした優しい光が反射して差し込んでくる。小林さんは、その光と同じような優しい目つきで理沙を見つめ、微かに目を潤ませるようにして言葉を紡いだ。
 「よく来てくれた。清田のお孫さんか…。」
 理沙の容姿から祖父の面影を読み取る様にして、当時の呼び方のままお爺ちゃんの名を言う。その祖父の名を呼ぶ一言だけでも、年輪なのか、軍隊という亡霊がそう感じさせるのか、戦友という名に恥じない響きを感じてしまう。
 「先日、祖父が亡くなりました。」
 小林さんは落ち着いた表情のままその話を聞き、また自分の番が近づいてきていることを認識するようにそっとうなずいた。
 「祖父が亡くなり遺物を整理していると、戦時中の品々が色々出てきました。小林さんと同じ勲章や賞状もあります。手柄を立てて頂いた懐中時計に日の丸に記された寄せ書きなど、当時を偲ぶ物ばかり出てまいりました。そんな中に、マレー沖海戦のことを記したお爺ちゃんの手記がありました。」
 理沙がそのレポート用紙を取り出すと、小林さんは老眼鏡をかけてその文章に見入った。そしてその文章を読み終わると、小林さんの顔、眼つきはまるで軍人のようにきりりとし、年寄りの顔から武士の顔つきに変わっていた。そして、お爺ちゃんと一緒に戦ったマレー沖海戦のことを語りだしたときには、そのまましっかりと作戦をすぐに遂行できるのではないかと思うほどの覇気まで目に現れていた。小林さんにとっても戦争というのは、決して忘れられない大きな出来事であったのだと改めて感じさせられるし、侍としての気構えも心に根付いているのだと感じさせる。
 小林さんの口からは、マレー沖海戦の時の様子やお爺ちゃんの活躍なども聞かされた。本当は、お爺ちゃんが凄いヒーローだという話が出てくるのではないかという期待もあるのだが、小林さんは普通にお爺ちゃんを誉め讃えてくれた。正直、ちょっと物足りなくも感じた。当然、戦争の悲惨さやそれを再び起こしてはいけないということも強調している。地獄と言われるような世界や、現代の世では不条理としか感じないような世の中を経験している人だから、戦争について語る言葉には重みがある。しかし、理沙がここにきている本当の理由は、手記に記されていた“海戦には勝利したものの、魚雷が命中したのがせめてもの慰めだ”という一節に疑問を持ったことと、もう一つは、その手記の中には、お爺ちゃんが被弾した経緯が書かれていない。その理由が知りたかった。理沙の中では、伯父さんたちの話を聞くにつれ、その被弾はきっと英雄的な行いによるものだという確信的な想いがあったのだ。お爺ちゃんの英雄像を確かなものにしたいという願望のようのものも含まれていた。そのためにも、その疑問は紐解いておきたかった。
 「その手記に、“~魚雷が命中したのがせめてもの慰みだ”と書かれているんですけど、その意味が良く分からないんです。」
 小林さんはその理沙の言葉を聞くと、一瞬、言葉を詰まらせた。そして、それまでのお爺ちゃんを懐かしむ顔つきから、明らかに困惑の色を浮かべ、すぐにそれを隠すような表情をした。理沙はそれを知ってか知らずか、ポケットに持ていた弾の付いた骨片を取り出して見せた。小林さんは、それを見ると余計に困惑するように、侍の顔から年寄りの表情に戻って言葉を探していた。
 小林さんは、常に理沙をいたわるように接してくれて、とても優しい人だった。しかし、話の核心という部分では、しっかりとした答えを聞くことはできなかった。お爺ちゃんにも好意を抱いていてくれているようだし、実際、当時のこともよく知っていた。だが、こと理沙が質問した内容になると、言葉を濁してしまうように感じた。でも、最後の言葉はとても強く強調され、しっかりと理沙に伝わるように話をしてくれた。
 「清田がいてくれたお蔭で、命の助かった者が沢山いるんだ。皆、心から感謝しているはずだ。あなたのお爺ちゃんは、本当に立派な人だったんだよ。沢山の戦友が命を救われているんだ…。そう想っておけば、間違いがない。」

 手記に書かれている一節は、確かに気に掛かる言葉だが、小林さんの最後の言葉も余計気になってしまう。その言葉を鵜呑みにすれば、理沙の中ではお爺ちゃんのヒーロー説は益々強くなっていく。しかし、何かが引っ掛かる…。あれほど祖父のことを知っている人なのに、被弾のことになると良く分からないという言葉に変わってしまう。理沙にしてみれば、そのことに対する探究心は自分や家の名誉のためでもあると感じてきた。また、お爺ちゃんのお蔭で命を救われた人がたくさんいるということにも、密かに蜜の味にも似た独特の感情を呼び起こす。気に掛かることはあるのだが、お爺ちゃんがヒーローだという思いは尚更強くなっていった。
 次の休みには、他の戦友を訊ねることになっている。手記の中の気掛かりな一節ではあるのだけれど、それよりもっと凄い手柄話が聞けるような気がして仕方なかったし、それを望んでもいたのも確かだ。

 丸山徳重さんは、お爺ちゃんと同じ飛行機に乗っていた。年齢も同じで、全くの同期だ。お宅を訪ねると、やはり壁には同じ賞状と勲章も一緒に額に飾られていた。しかし、八十六歳という年齢は重みのあるものだ。その分、身体にも様々負担がかかってくる。小林さんに比べて、丸山さんはもっと年寄りに見えた。耳も遠く、視線ももっと空ろに感じる。理沙のあいさつも、やっと聞き取っているようにさえ感じるほどだ。しかし、それが一度戦時中の話となると、眼つきが侍の眼になり、精気が蘇るように言葉が飛び出してくる。戦争の重みを、ここでも同じ形で垣間見るような気がする。
 徳重さんは和室用の椅子に腰掛け、大好きな煙草に火を点けた。空気の流れの止った部屋に、煙の織り成す模様がやけに目立って見える。理沙は挨拶を済ませ、祖父が亡くなったことを告げる。そして、難聴になってしまっている徳重さんの耳元に口を近づけて話を始めた。
 「お爺ちゃんが亡くなった後に、マレー沖海戦の時の手記が出てきたんです。それで、戦争の話や軍隊の時の話を聞きたいと思って…。」
 徳重さんは、一瞬、むっとした顔をした。理沙がそのことを見て取ったかどうかは分からない。しかし、戦争の悲惨さを身を持って知っている徳重さんにとっては、理沙の言葉が興味本位のように軽く感じられたのだ。
 「あれは負けた戦争なんだ。そんな負けた戦争をとやかく言うようなことを武士はしない。そりゃそうでしょ…。そんなことは家族にだって話したことはない。だって、負けたんだから…。今更ああだこうだといったって、そんなのは遠吠えにしかならないし、死んだ者も生き返るわけじゃない。」
 最初の一言がそれだった。その言葉の中には、死んでいった者たちに対する言いようのない想いもしっかりと含まれている。それを聞かされた理沙も、一瞬にして身が引き締まるような気がした。同時に、徳重さんの言葉の重みに、自分の言葉の足りなさを余計に感じてしまう。しかし、そうは言いながらも徳重さんは、お爺ちゃんも死んでいった者たちも、皆立派な軍人だったのだと言葉を付け足した。フィルターのないタバコが短くなり、吸い辛そうに煙を吐き出すとそのままそれをもみ消した。理沙は少し救われるような気持になり、ポケットから骨片と手記を取り出してみせた。
 「決して興味本位で聞いているんじゃないんです。」
 徳重さんは、理沙の手元に視線を移した。
 「お爺ちゃんが荼毘にふされたとき、この小さな骨に鉄砲弾がくっついて焼け残ったのです。伯父の話だと、マレー沖海戦の時に被弾したのだと言っていたのですが、その時のことを書いた手記にも被弾のことは書かれていないのです。それで、真実が知りたくて…。」
 そうは言いながらも、理沙の表情にはお爺ちゃんを賛美する言葉を聞きたがっている様相が現れていたのかもしれない…。徳重さんはその弾の付いた骨片を直に手に取り、指先で確かめるようにしばらくそれを見つめていた。徳重さんの脳裏には、きっとその時のことが蘇っているのだろう。理沙は、頃合を見計らって手記も手渡した。徳重さんは、逆から見たら目玉が何倍にも大きく見えるような分厚い老眼鏡をかけ、骨片を手に持ったまま手記に視線を落とした。
 「被弾の事が書いてないのと、“~せめてもの慰みだ”という言葉が気に掛かってしまっているんです。」
 徳重さんは文面を見つめたまま、理沙の言葉にも黙っている。様々なことが脳裏を過っているのだろう。その顔つきも、決して老人の様相ではなく、軍人のりりしさを感じるような眼つきになっている。しばらくの沈黙の後、彼は絞り出すように言葉を紡ぎだした。
 「このことは、話すつもりもなかったことだ。これを聞いて、あなたがどんな気持ちになるかを考えたら、話さない方が良いかもしれない。お爺ちゃんの行いにより、何人もの人の命が救われたのは確かだ。しかし、お爺ちゃん自身はかなりの葛藤があったはずだ。そんなことを抜きにしても、お爺ちゃんは立派な人だったのだ。当時の人は、皆そうだったんだ。それで気持ちに治めるのが、本当はいいんだが…。」
 徳重さんの言っていることは、きっと間違っていないのだろう。これで気持ちを治める方が、理沙自身も悩まないで済むのかもしれない。しかし、人の情としてここまで来てしまえば、どうしても聞きたいのが人情だ。同時に、お爺ちゃんの英雄説も必ず出るはずだと信じている。部屋の中の古びた柱時計が、メトロノームのように時を刻む音を響かせる。理沙はその音にせかされるように言葉を出した。
 「聞かせてください。お爺ちゃんの戦争を知っておきたいのです!」
 徳重さんは、もう一度考えるそぶりを見せてから、ゆっくりと掠れるような声で話し始めた。
 徳重さんと祖父は、第21航空戦隊 鹿屋航空隊に所属していた。乗っていたのは一式陸上攻撃機、略して一式陸攻(いっしきりっこう)だ。この機は、航続距離を稼ぎ速度を速くするため、極端に機体を軽くしている。翼の内部をほとんど燃料タンクにして距離を稼ぐため、翼が被弾すると一気に燃え上がって墜落してしまう。“ワンショット・ライター”とあだ名されていたほどだ。搭乗員は七名、正、副操縦士に偵察者(偵察、爆撃、射撃)三名、それに整備士に電信士で七名だ。祖父は、偵察者、徳重さんは整備士として同じ爆撃機に同乗していた。皆、同じ航空隊で訓練を積んだ者たちだ。しっかりと息も合っている。チーム・ワークも他の機には決して負けていなかった。あの頃の誰もがそうだったように、皆、何時でも死ぬ覚悟はしっかりと出来ていた。
 マレー沖海戦の少し前、祖父たちに出撃の命令が下った。しかし、その命令は無謀と言ってもよく、魚雷の到着を待つことなく出撃しなければならなかった。当然、爆撃機なので爆弾は搭載している。しかし、駆逐艦や巡洋艦のように小回りの効く艦船に対しては、爆弾を命中させるのは非常に難しい。故に、魚雷を搭載せずに出撃するのは、それだけでも無謀な話なのだ。しかし、そんなことが通る時局ではない。祖父たちは無謀と知りながらも、命令には従わなければならなかった。出撃してしばらく航行を続けていると、大体、指令通りのところで敵を発見した。窓から雲間に見え隠れする敵艦が目に入った。搭乗員は、緊張感と共にすぐに配置につく。隊長からの指示に従い、祖父も定位置について爆弾の照準を合わせる。爆弾投下の命令があれば、何時でもそのスイッチを押せる状態だ。しかし、当然その間には敵からもこっちの存在を発見され攻撃を仕掛けられる。機関砲の弾が飛び交い、激しい時にはそれが幕になって見えるような時もある。弾にあたらない方が不思議に感じるほどだ。編隊を組んで飛んでいる他の友軍機も、偵察員が機銃で応戦したりしながら、投爆の瞬間を待っている。艦船を護衛するために飛んでいた敵機も、攻撃を仕掛けてくる。お爺ちゃんも、全神経を照準器に集中させながら、その時を今か今かと待ち望んでいた。一瞬、搭乗員の眼に閃光が走った。それと同時に、お爺ちゃんは敵の弾を被弾して一切の意識をなくしてしまう。徳重さんや他の皆も、祖父は殺られたと感じたそうだ。そして、祖父は被弾した瞬間に、無意識のまま投爆のスイッチを押してしまった。当時の慣習では、編隊で飛んでいる飛行機のどれか一機が投爆すると、それに続いて他の機も一斉に爆弾を投下する。したがって、その時のお爺ちゃんの意識を失ってしまったが故の誤投爆が、結局は他の機の投爆の合図となってしまい、爆弾が次々に投下されてしまった。当然、ほとんどの機から投下された爆弾は命中せず、そのことから味方に多大な被害を出してしまう。友軍機が撃ち落され、搭乗員が何人も死んでしまった。そればかりか、お爺ちゃんと同じ機に乗っていた戦友も、被弾して命を落としてしまう。
 英雄だと思っていたお爺ちゃんの像が、心の中から一気に崩れてくるような気がした。勝手に自分が思い込んでいるにもかかわらず、言われのない腹立たしさまで感じる。密かにお爺ちゃんの手柄話を期待していたのに、まさかこのような話を聞かされるとは夢にも思っていなかった。しかし理沙は、徳重さんの話す言葉から耳を逸らすことはできなかった。部屋の中には徳重さんが吸うたばこの煙が、空気の流れもなく澱んで漂っている。
 当時の戦陣訓にもあるように、“命は鴻毛より軽し”という時代だ。本来なら助かったことを喜ぶはずなのに、お爺ちゃんは生き残ってしまったことを心から後悔していた。いくら無意識とはいえ、味方に大きな被害を出してしまった事には違いない。仲の良い戦友を亡くしてしまった者など、生き残った祖父のことをあからさまに非難してくる。その時の祖父の気持ちというのは、針の筵に座らされているといってもまだ足りないくらいだろう。被弾するという不幸さえ起らなければ、祖父の評価は立派な兵隊という以外の形容は思いつかないほどの兵役ぶりだった。決して祖父が悪いわけではない。たまたま被弾してしまい、その拍子に投爆のスイッチを無意識で押してしまった。しかし、人の情はそれに重ならない部分がある。仲の良いものが亡くなってしまえば、責任はなくても切っ掛けを作った者が非難されることは往々にして起こることだ。
 ここまで話をすると、徳重さんはまた煙草に火を点けて、吸い込んだ煙を澱みの方に吐き出した。部屋の中の空気がかき回され、吐き出した煙が渦になる。理沙の心の中も、何かの渦に飲み込まれるような気がした。老齢になってしまった徳重さんの注意力では、決してそんなことには気づかない。葬儀の後、伯父さんが親戚の前で誇らしげに話していた姿が、恨めしくさえ感じる。マレー沖海戦での名誉の負傷のはずが、まさかこんな話だとは…。半分浮かれるような気持で祖父の手柄話を待っていたのが、全く逆の展開の話を聞かされてしまった。徳重さんは、何事もないように嗄れ声を絞り出して言葉を続ける。
 「しかし、清田のお蔭で命を救われた者は大勢いるんだ…。」
 徳重さんの口から、小林さんが言っていたのと同じ言葉が突いて出た。理沙にとっては、そのことがせめてもの救いのようにも感じる…。
 戦局が進むに従い、日本の敗戦の色が濃くなりだした。それに従って、日本軍は究極の戦術を採用する。飛行機に乗ったまま相手の艦船に突っ込んでいく。それが神風特別攻撃隊なのだが、一般的にイメージする特攻隊というと、零戦に乗っての特攻というのがイメージされがちだが、実際のところは様々な飛行機での特攻が試し見られていた。当然、お爺ちゃんも特攻隊に組み込まれ、一式陸攻による特攻を試しみる。爆撃機なのだから、爆弾を抱いて特攻すれば、それだけ相手の被害も甚大になる。しかし、爆撃機故に図体もでかく、突撃する前に撃墜されてしまうことも多かった。終戦が近くなるとお爺ちゃんの経験も積まれ、その頃には乗務員に指示を与える立場になっていた。お爺ちゃんたちにも特攻の指示が下る。出撃し、敵艦に体当たりをくらわせて自らの命も華と散る。しかし、出撃したお爺ちゃんは、爆弾を途中で落として戻って来てしまう。指示を与える立場にあったが故に、お爺ちゃんはその方法で何度か死を免れる。お爺ちゃんを筆頭に選ばれた一式陸攻の特攻乗務員は、お爺ちゃんと一緒だったが故に皆命が救われている。 確かに、多くの命を救ったのには違いがない…。
 ヒーローだったはずのお爺ちゃんが、途中で爆弾を捨てて戻って来てしまう。お爺ちゃんの英雄像が、一気に崩れ去ってしまった。自分の思い込みなのだが、だまされたような気さえしてしまう。こんなはずではなかったはずだ。徳重さんの口からは、お爺ちゃんを褒め称え、映画のような名誉の負傷の話が聞けるはずだと思っていた。理沙の心の中では、徳重さんの言葉が呪いの言葉のようにさえ聞こえていた。

 徳重さんの話を聞いてから、心の中での重たい日々が続いた。浮かれるような気持でお爺ちゃんのことを戦争のヒーロ―のように感じていたのが、実際は、全くその逆だった。お爺ちゃんの戦友に会うことで、きっと、その手柄話が聞けると思っていた。手記に記された言葉や、被弾の事実を知りたかったということもあったが、今想うとそれは、そこからヒーローのような手柄話が飛び出すという、勝手な妄想があったような気がする。そんな気持ちが、尚更、理沙自身で恥ずかしくも感じてしまう。
 近々、もう一人のお爺ちゃんの戦友に面会を申し込み伺うことになっている。しかし、徳重さんの話を聞いてしまってからは、面会に行くことさえ余計に気が重くなるような気がする。しかし、手紙を書いて面会を申し込んでしまっている以上、今更、行けないと言うことはできなかった。小林さんや徳重さんのお宅を訪ねたときとは、気持ちが全く違っていた。こちらから頼んで話を聞きに行くのに、何事かを謝りに行くような気さえする。海辺近くの漁村のその人の家の玄関の前に立っても、暗い気持ちは変わらなかった。

 大野茂さんは、決して裕福とは言えない暮らしが映し出されるような家に住んでいた。理沙がその家に入ってしまったら、家族の居場所がなくなってしまう。大野さん自身、きっと、その家に呼ぶことも憚られたのではないだろうか。それでも、清田啓太郎の孫だというと、来訪を快く承諾してくれた。ただ、家の中は狭いからと言って、近くの公園のベンチで話をすることになった。地方の漁村ということもあって、子供たちが元気に遊んでいる。大野さんは、そこで初めて理沙の顔をまじまじと見つめ、
 「来てくれて、本当にありがとう。」
 そう言って、目に涙を浮かべた。その涙を見るだけで、大野さんにとっての戦争も、何物にも変えがたいほど大きな影を落としているのだと感じてしまう。そしてやはり、大野さんも理沙の中から、清田啓太郎の面影を一生懸命読み取ろうとしているように感じた。そんな大野さんの姿を見ると、会えたことを良かったと思うのだが、知らされた話を想ってしまうと、やはり辛さを感じてしまう。
 大野さんは、理沙の言葉を聞く前からお爺ちゃんの話をし始めた。お爺ちゃんは立派な兵隊であり、大野さん自身は本当に面倒を見てもらっていたのだと。お爺ちゃんには感謝することばかりだと言ってくれていた。そして、大野さんからも、お爺ちゃんのお蔭で命が助かった人がたくさんいるのだと知らされた…。その言葉には、先に話を聞いた二人以上の強い想いがこもっているようにも感じたが、理沙は、それを聞くと余計に複雑な気持ちになるような気がした。大野さんの、お爺ちゃんへの好意や感謝の念が強く感じられる分、それに伴って目に涙がにじんでくるようだ。晩秋の公園のベンチに座っているのに、不思議と寒さは感じない。冷たくなりかけた風が、自分の心の中とは逆に心地良くさえ感じてしまう。理沙はその風を吸い込むようにして、嗚咽してしまいそうなのをぐっとこらえて言葉を紡ぎだした。
 「お爺ちゃんが被弾したせいで爆弾を投下してしまい、そのせいで仲間が死んだり大きな被害を出してしまったって…。それに、お爺ちゃんは特攻出撃したのに爆弾を捨てて帰ってきてしまうんでしょ…。」
 その言葉を口から出したとき、理沙の眼からは大粒の涙がこぼれ出ていた。大野さんは、一瞬、驚いたような顔を見せた。そして、すぐにその理沙の言葉を強く否定した。
 「それは違う!!」
 毅然とした言葉でそう告げると、大野さんは真剣な顔つきで話を続けた。  
 「被弾した時のことも、誰が撃たれて意識が無くなった時のことまで管理できるんだ。戦争なのだから、敵がいれば撃ってくるのは当たり前だ。爆弾が当ろうが当るまいが、弾に当る時は当ってしまうのだ。ましてやお爺さんの場合、照準を合わせて投爆の構えをしている時の被弾だ。そんなものには、一切の過失などあるはずがない。ただ、そのことで仲の良かった戦友を亡くした者や、心無い上官からは謂れのない扱いを受けることもあったが、お爺ちゃんは、それでも本物の武士(もののふ)のようにじっと耐えていた。大概の者は、お爺ちゃんの心中を察することが出来ていた。そんなものは不可抗力であり、本当に運が悪かったのだと感じていたんだ。確かに、お爺さんの中では大変な葛藤があっただろう。でも、それは決してお爺さんを責める内容のことではない。だから、お爺さんのことを、決してそんな風に思ってはいけない。あなたのお爺さんは、誰よりも命の大切さを分かっていたんだ。決して臆病だったわけでも、卑怯なわけでもない。常に思っていたのは、犬死は絶対してはいけないということを誰よりも強く思っていたんだ。あの頃の軍部は、空戦にしろ陸戦にしろ、竹槍で戦車に突っ込んでいくような戦法を当然と思っていたんだ。また、そんな戦法でも、命令であれば従わなければならない。上官と言っても、本当に上の者に命を預けるのなら納得もいくが、大して年端もいかず、戦場を全く知らないような上官に、やっても無駄で犬死だとわかりきっている作戦を命令されたりしても軍人は従わなければならない。お爺さんは、その犬死がどうしても納得がいかなかったんだ。血気盛んな兵隊の中には、死ぬことを目的と思っているような者もいる。そんな者を見かけると、お爺さんは一生懸命それを諭すんだ。死ぬことが目的じゃない、敵を殲滅することが目的なんだと言って…。実際、それが本当のことなのだが、戦争という狂気が死を美化してそれに酔ってしまうんだ。お爺さんは、それが狂気だということをしっかりと判断できていたんだよ。爆弾を捨てて戻ってきたというのも、かなりの兵隊はそれと同じことをしていたんだ。しかし、それは皆、決して臆病だったわけではなく、兵器も火力も敵が全てに勝り、特攻作戦であっても相手に突っ込むことさえ出来ず撃墜されてしまう。そんな作戦を遂行するということに反抗した兵隊は、終戦近くには同じようなことをしたんだ。ただ、生きたくても乗り込んだ機の指導的立場にある者が、死を目的とするような考えの持ち主だったなら、同乗した者は生きてはいられない。本心では、誰だって死ぬのは嫌だ。特に、無駄な犬死など絶対にしたくないはずだ。そんな時にあなたのお爺ちゃんは、決して軍隊という特殊な環境の特殊な雰囲気に飲まれることもなく、どんな法よりも大切な人の道をしっかりと考えることが出来たのだ。無駄な死は避けるべきだという信念を貫くことが出来たのだ。お爺ちゃんが説いていたことは、当時の軍紀・軍法にはそぐわなかったのかも知れない。しかし、人の道として考えたのなら、その答えはおのずと分かるはずだ。当時もお爺ちゃんに感謝している人はたくさんいたはずだが、終戦を迎えてからも、皆余計にその思いは強くなっているはずだ…。あの頃の軍人は、逃げたりするような卑怯な者は何処にもいなかった。お爺ちゃんの勇気は、あの頃の皆が持つことのできなかった本当の勇気なんだよ。」
 お爺ちゃんのせいで大きな被害をだし、特攻で出撃したのに戻って来てしまう。英雄だったはずのお爺ちゃんが、まるで臆病者で卑怯な奴だと知らされたような気がしていた。でも、大野さんの話を聞けたことで、気持ちは少し和らいだ。全く意味がなく無駄死にだと分かっているような作戦でも、命令の元に出撃をしなければならない。特攻隊員の命が、単なる鉄砲弾や砲弾のごとく消費されていくことが、どうしても納得できなかったのだ。特攻という極めにある作戦を遂行するからには、決して失敗してはならないという強い考えを持っていた。しかし、そうは言っても、そのようなロジックが通る時代でもない。そんな考え方は、きっと、臆病者とか卑怯者などと言われて寂しい思いをさせられていたに違いない。
 お爺ちゃんは、思っていたようなヒーローではなかった。というより、当時とすれば決して褒められるような軍役ではなかったようだ。徳重さんが言っていたように、知らない方が良かったのかもしれない。しかし、大野さんが語ってくれたことも、現代に生きる者には理解が出来る気もするのだが、理沙の心の中での想いのギャップはあまりにも大きかった分、割り切れない気持ちも残ってしまっている…。

 理沙は、決してすっきりしない気持ちのまま、祖母を訪ねることにした。祖父の戦友に聞いた話を、祖母に訊ねてみようか心の中で迷っていた。見慣れた小さな門をくぐって、ちょっとした庭を抜けると玄関がある。伯母がいつものように笑顔で迎えてくれる。玄関脇の下駄箱の上に飾られた菊の華が、伯母に活けられることで精気が余計に甦る。理沙は、伯母がいつも活けている、この家の飾られた華が大好きだった。仏間と繋がりにあるお婆ちゃんの部屋に行き、まず仏壇に線香を上げる。お婆ちゃんは理沙が来るのを知っていて、仏壇がある部屋の座布団に座って、お爺ちゃんの形見の品や写真を並べてくれていた。お線香の香りがただよう中、理沙がお婆ちゃんに向き合うように座ると、お婆ちゃんは理沙がまだ見たことのない古ぼけた写真を見せてくれた。写真館で撮られたその白黒写真は、若い頃のお爺ちゃんとお婆ちゃんが写った写真だ。軍服を着て少し斜に構えたお爺ちゃんの傍らに、椅子に上品に腰かけたお婆ちゃんが写っている。
 「お爺ちゃんは、結婚してすぐに戦争に行ってしまったの。戦争に行くとき、自分は飛行機乗りだから生きて帰ってこれないかもしれないと言っていた。そして、あの時代の誰もがそうだったように、お国のために命をささげるという覚悟もしっかりと出来ていたのよ。ただ、“決して俺は撃ち落とされないし、無駄死にだけはしない。俺が死んだらお前が若後家になってしまう”と笑いながら言って安心させようともしてくれていたの。同時に、“もしもの時は良い人を見つけて添い遂げろ”とも言っていた。優しいお爺ちゃんだったのよ。」
 仏壇から立ち上るお線香の煙が、仏間全体に広がっている。飾られたお爺ちゃんの写真が、まるで二人の会話を聞いているように感じる。
「お爺ちゃんは手柄も立てたけど、軍隊では辛い想いもあったの…。」
この言葉を聞いたとき、理沙はお婆ちゃんがお爺ちゃんに起こったことを知っていると思った。
 「でも、例えどんなことがあったとしても、あたしにはお爺ちゃんが帰って来てくれたことが、何事にも変えられない喜びだったのよ…。」
 この時のお婆ちゃんの顔は、まるで恋する少女のような面影を漂わせていた。それだけで十分だった。もう、何も聞くことはない。
 理沙は、畳の上に置かれたお爺ちゃんの懐中時計を手に取った。お爺ちゃんが戦時中、肌身離さず使っていた物だ。理沙はその時計を親しみを込めて触り、喰い入るように見つめた。
 「お婆ちゃん、この懐中時計私がもらっていい? 時計屋さんに持って行って、もし直ったらこの時計を使うの。お守り…。」
 祖母は笑顔を浮かべて、うなずいてくれた。
 「でも、もう動かないかもしれないよ…。」
 「それでもいいの。」
 仏間の障子には、太陽の光が気持ちよく当たり、白い紙を輝くように浮かび上がらせている。祖母はその言葉を聞くと、さっそく時計屋に行こうと言い出した。障子に映える明るい光を感じていると、理沙も久々に祖母と歩いてみたいという気になった。伯母に促されて祖母と外に出ると、やはり気持ちの良い光が、きれいに整理された庭先を照らしていた。玄関から小さな庭先を抜けて門を出ようとすると、何処から迷い込んだのか季節外れの蝶が飛んできた。祖母はその蝶を見つけると、
 「お爺ちゃんが来たわよ!」
 そう言って、娘のようにはしゃいで見せた。祖母は、その蝶が見えなくなるまで目で追い、最後に掌を合わせていた。風もなく日当たりのよい道を、二人はお爺ちゃんのことを話しながら歩いた。黄色に変わった銀杏の葉っぱが、もうしばらくすると落葉して黄金色のじゅうたんに変わる。理沙はお婆ちゃんのさっきの言葉を思い出しながらそっと訊ねてみた。
 「おばあちゃん、おじいちゃんのこと愛してた?」
 突然の言葉にお婆ちゃんは戸惑いながらも、理沙の方を向いて優しく微笑みながら、そっとうなずいた。

 時計屋の主人は、古いものだと言いながら、ルーペを目に当てその時計を調べ始めた。金属の色が剥げ落ち、ガラスにはヒビまで入っている。
 「これを動かすのは、無理かもしれないな…。」
 主人は首を捻ってそう言いながらも、慣れた手つきでネジ式になっている表のガラス部分を簡単に外して見せた。そして一言二言告げると、今度は、菊の紋章が大きく彫られた裏側を覆っている丸身を帯びた金属部分を外しに掛かった。お婆さんとブルーはその主人の手先を見つめているのだけど、まるで、お爺ちゃん自身が分解されているような痛々しげな顔になっている。鉄砲の弾が当たった時も、針の筵に座らされているような気持になっている時も、また、特攻出撃して戻って来てしまった時も、この時計はお爺ちゃんと常に一緒にいたのだ。そう思うと、余計にお爺ちゃん自身のような気がしてくる。時計屋の主人は、そんな二人の気持ちを知ってか知らずか手元の時計を器用にいじくっている。ついついその手先の動きに引き込まれ、二人とも真剣に見入ってしまう。ウインドウの中の時計や貴金属が、光の加減で余計にきらびやかに感じる。主人は、一瞬、怪訝な色を顔に浮かべた。そして、ちょっともったいぶるような素振りを見せてから窺うように二人の方に視線を向け、外した裏蓋の内側を見えやすいように傾けた。店内に飾られた時計の音がやけに響いて聞こえる。ウインドウを照らす照明の光が明るく輝く中、二人は誘い込まれるようにその手元を覗き込んだ。その瞬間、お婆さんは堰を切ったように泣き崩れた。ブルーの眼からも大粒の涙が一気に溢れだし、お爺ちゃんに対する尊敬の念と感動が改めて押し寄せてきた。
 裏蓋の内側には、上手に工夫して大切なものを隠すように、セピア色にくすんだお婆ちゃんの若い時の写真がしっかりと貼り付けられていた。




 

懐中時計

NHKで放送された「お爺ちゃんの鉄砲弾」というドキュメンタリー番組を、自分なりに創作文にまとめたものです。TVで一度観ただけだったので、資料・知識が乏しく、細かい部分で多々間違いがあると思いますが、その辺はどうかご容赦ください。

懐中時計

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-05-15

Copyrighted
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