マリッジリング

八木橋麻子

日常のある中で書いた長編です。

マリッジリング

ソーシャル  目次
「出会い」 2
「マリッジリング」 4
「確執」      24
「嫉妬心」 30
「奈美子」 36
「手紙」      46
「母親」      53
「三上くん」 70
「事件」      81
「人間じゃない」  00
「境界線」 100


「出会い」

こともなく進んで行く日常には嫌気がさしていた。明美の一件家の近くにあるコンビニの通りには明美よりも2、3歳は上であろう高校生の群れができていた。彼らは彼女がどうしただとかプリクラの映りがこっちの方がいい等と話して居て、明美の心に1つ穴を空けさせていた。どうしてみんなそんな他愛もない雑談ができるのだろう。まるで私だけ他の世界にいるような不思議な感覚に陥った。1年前の私ならば、その空間にいることを許されたのだろうか。明美は途方もない淋しさに陥れられていた。―いや、疎外されて居るのだ。日常から。彼らですら知らない所で、私は本当にさりげなく、1つの円の中に閉じ込められて居るのだ。
 明美はコンビニでペットボトルのジュースを買うと、無愛想な店員を睨み付けて家へと帰った。外見はさも立派で、大そうな庭もあり瓦造りのがっしりとした佇まいだったが、この家は彼女にとってはどぶの中に浸かったような居心地の悪さだった。中学生という子どもでもない大人でもない彼女には、幾ら夕飯がお粗末で母親が理不尽に厳しくても、帰る家は此処しかなかったのだ。明美は使い古されたスクールバッグを茶の間に無造作に置くと、冷蔵庫の中からプリンを取り出した。表面がこんがり焼かれたキツネ色のそれは、明美の大好物だった。もちろん、母親には内緒で5つも買い溜めしたものである。母親はパートに出かけて居て、帰宅するのはいつも5時頃だというから、中学生ながらどきどきしていた。明美が最初のプリンを口へ運ぼうとすると、古びた玄関の音ががた、がたがたという音がし、母親がこんなにも早くパートが終わるとは思って居なかった明美はスプーンを持つ手を止め、すばやく食べかけのプリンを冷蔵庫にしまった。玄関の廊下を走り、苛立ちと不安で彼女の玄関を開ける音が最大音量ともいえる勢いでがたんっとなった。
 その瞬間、明美は小さくごめんなさいとうな垂れ、
 「お母さん、早かったね」
 と、何とも間抜けな声を発した。
 ところが目の前に居たのは明美の母親ではなく、背の高い少年だった。その場違いな光景に明美はぎょっとしてその少年を見上げた。
 「あの、これ、おれのお袋がおすそ分けって……」
 「おすそ分け?」
 「うん、去年のお中元の時にお袋が渡し損ねたって言ってて」
 「……ふーん。でも普通、お中元って忘れないよね」
 的を付かれたのか少年は俯き、申し訳なさそうに小さく「悪い」と言った。この同じクラスの三上孝介は、こんがりと焼けた肌に似合わず、性格はどちらかというと大人しかった(バスケ部だと言うのに焼けた肌は似合ってない。地黒なんだろうな)クラスでも目立ったグループに属するわけでもなく、一匹狼のような風情で休み時間には一人で窓の外を見ていることが多かった。そんな一匹狼な奴が明美の家にきたのだ。広い玄関にいる彼はお世辞にも堂々とした営業マンのような佇まいともいえなかった。左手には「NECTAR――とろける美味しさ」とカラフルで赤色が強調されたジュースの缶を持って居る。
 「じゃあ、また明日な」
 彼はそう言って明美に背を向けたが、左の頬にできた鋭く彫られた様にも見える傷痕を、明美は見逃さずにはいられなかった。そういえば廊下側の最後列(明美は中央の列の後ろから二番目の席だ)に位置して座る彼からたまにその傷が窺えた。気付いては居たが、何だか触れてはいけない様な感じもしたので、あえてその件からは一歩引いて見て居たのだ。しかしもしかすれば親からの虐待だ何て事も有り得る。
 「ねえ」
 明美がそう引き止めると、咄嗟に振り返った彼の顔はいつにも増して血色がよかったように思えた。それは一瞬の事でいつもの寂しげな顔がこちらを向いただけだった。
 「その頬の傷、いつから出来たの」
 束の間の沈黙の後、穏やかな口調で答えた。
 「この前の部活で転んだんだよ」
 明美は少しばかりの疑心が頭に過ぎりつつも彼を見送った。やはり触れない方が良かっただろうか。猫背ではないが猫背の様にも思える歩き方が、より彼の心に抱えて居るとてつもなく重いものが背負わされて居る様に感じた。増長させて居る様な気がした。
「マリッジリング」
 「ただいま」
明美の母親が買い物袋を手に提げながらいそいそと帰宅した時、いつもながら言われる「片付けなさい」との言葉に明美は毎回腹が立った。春になったばかりのこの季節に学校からは受験生という肩書きを背負わされているせいでもあった。明美はこの先の進路を全く考えておらず、しかしこの間終わったばかりの実力テストの結果が散々だったことを思い出すと、背中の筋がぴーんと硬直してしまうのだ。ただただ、漠然とした果てのない道先を思い描くと不安で不安でたまらなかった。無論母親からは、ちゃんと勉強しないからでしょうと、他の母親達も子供に言っている様な常套句位しか返っては来ないのだが。母親の買い物袋の中身を覗いてみると、土の付着したでこぼこの球体、少し黄色いすじの付いたオレンジ色の逆三角形の物、薄く皮の付いた若干黄土色をした、はたまた球体の物体、そしてパックに入った肌色の柔らかな形をした食材。ざっと見れば今日はカレーと予測できた。しかし台所の天井にある電球はもう切れかかって居て、どうにも美味しい料理等出来そうにもない状態だった。誰が薄暗い台所で嬉々としながら食材を刻みたいと考えるだろう。母親しか居ない。不謹慎な。母親がフライパンに油を注ぐ瞬間、私はある事が脳裏に過ぎった。
 「お母さん」
 「何。またお小遣いの話?」
 母親は不機嫌そうに嫌味を言った。
 「携帯買う位なら、テストの結果を出してから言ってよね」
 携帯何て格別必要だとは考えてもないのに、母親はきっと他の奥さん連中から又聞きして来たのだろう。明美はむっとした感情とは裏腹に、針で刺された様な痛みを胸に感じた。ちょうど鶏肉を炒めて居てこれから料理の開始だという所に、娘の何の変哲もない呼びかけは母親としては大嫌いだったのだ。昔からそうだった。父と結婚した当初からもこういう完璧主義というか潔癖症めいた所ががあったという。明美も昔は気にも留めなかった。しかしそれは若干嘘になるだろうか。まあ今程傷付く事はなかった様に思う。どうしてだろうと明美は不思議だったが、今日来た彼についての話を手短にした。差し入れはリングケースに入って居るマリッジリングだった。明美も渡された直後から不審に感じて居た。母親はぐつぐつ煮込んだ鍋の火を止めて、
 「何よこれ、おすそ分けでも、お中元のお返しでもないじゃないの」
 母親の手には10カラット程ありそうだったダイヤの宝石が眩しい位に手元を光らして居る。明美も物珍しさに思わずダイヤの白い光を覗き込んで居た。この時の明美には、どうしてマリッジリング何か、等という思考は頭から消え去って居た。母親はマリッジリングどころかもはや結婚指輪もして居ないし、実際にこんなにも間近に拝見させて貰う事など一度もなかったからだ。
母親は疑心暗鬼にそのリングをケースにそっと置いた。
 「それに三上さん家からはちゃんとお中元きたわよ」
 「え」
 「去年の夏に。だいぶ遅れたからって、申し訳なさそうに家に電話が来たのよ。別に謝ることもないわよねえ近所なんだから」
 「じゃあ三上くんが持って来たのはなんだったんだろう」
 「さあねえ……まだ中学生だもの、きっと勘違いよ」
 母親は再び鍋のほうに振り返ってあくを取っていた。
 「明日ちゃんと返して来てやって」
おたまに張り付いたにんじんがなかなか取れず鍋の縁をかんかんとぶつけて居る。ついには諦めて菜箸でぽとっと鍋の中へ落とした。明美は埃のついた群青色のリングケースを眺めながら、母親の煮込んでいるカレーの匂いを嗅いだ。

           「空っぽの眼」

 春の匂いは苦手だった。纏わりつくような温度の生温さが肌に張り付いて、解放された空気が私を裸にしてしまって居るみたいな恥ずかしさがあったからだった。いつ誰が私を監視して居るのか、いつ誰が私の心の奥底を読んでしまうのか、それが恐ろしくてたまらなかった。満開の薄ピンク色の花達が挙って咲いて、休日になると生い茂った草地の上に決まって青色のシートを敷く。そして何のストレスも感じさせないかの様に、百円ショップに売られてる透明なたっぱに入れられた手作りのおにぎりや玉子焼きを食べる姿を見る羽目になるのだろう。あの姿を見る度に心が抉られる感覚を憶える。あの時に戻って能面じゃない顔を取り戻すのだ。そうしたら今頃私は、この丸く縁取られた空間から抜け出す青色の切符を手に入れられる様な気がする。まあ今年から受験生の明美には、どちらにせよ困った事だった。
 錆びれた学校の正門には校舎を支える円筒が2、3本私を見下しているように聳え立っている。堂々としたそれは僅かなヒビが入っており、どうにも縁起の悪いもののように感じた。ここでは生活委員の生徒達や先生が「おはようございまーす」と何ともお愛想の挨拶をのたまう。先生はともかく、生徒達が本当にこの学校を元気にしようと思っているわけがない。3年生のこの時期になれば、みんな野獣のように眼を光らせて、苦手科目の担当の先生にいかにしたら気に入られるかという競争心のみだ。小さな社会の中でのちっぽけな体裁だ。明美は、おふざけで美人な先生に絡んでいる生徒を睨み付けて正面玄関に入っていった。男子生徒は明美を訝しげに見ているような気もしたが、なるべくそちらを振り返らないようにした。
 一時限は体育だったので、明美は友人とジャージに着替えた。この体育着の長いパンツが大嫌いだったので、ハーフパンツを履くことにした。殆どがハーフパンツなのには訳があって、長いパンツの裾の部分がきゅっとしまっているのが気に食わないのである。ある一部の男子は裾の部分のゴムをハサミで切ってしまっていて、わざとだらしなくしている。
 「明美、三上くんってすごいね」
 三上くんの3Pが入った瞬間、ステージ上に座っている女子生徒の一部がわあっと好奇にも似た歓声をあげた。3Pの線からは遥かに遠い位置から決めたシューティングは、打点が高く綺麗な弧を描いていた。バスケのセンスなど微塵もない明美にも、その素晴らしさは伝わってきていた。どちらかというと、ドリブルをするとボールよりも先に脚が先走ってしまう私が、だ。基本的に男子と女子では別々の種目を行うのだが、今日は男女交互にバスケットをすることになっていた。と、言ってもちゃんとした試合という試合ではない。ファウルやバスケットカウントなどもないし、審判のルールも基本的には無視だ。だから誰かの所為で倒れたとしても、同情の言葉を掛けるだけで一切のサービスはない、単なるお遊びにも似た授業である。
 「うん、三上くん、たしかバスケ部でしょ」
 「やっぱりそうだよねえ……密かに憧れてたんだあ、でもちょっと近寄りがたいっていうか、怖いよね」
 「そうかなあ……私には大人しいとしか映らないけど」
 「明美はクールすぎるんだよ、勉強のしすぎじゃない、中学最後の青春を無駄にしてる人がここにいるよ」
一瞬むっとしたが、川下奈美子はいつもこの手の嫌味を口走るので放っといて居た。奈美子との関係は特別親しいと言う間柄ではない。学校の連中と話す度に、一年前に明美の心に1つ穴を空けた件が脳裏に浮かぶからだ。――他でもない。どうしようもないのだ。
多分三上くんはこのコート上ではポイントガードの位置を任されている。殆どの生徒はパスすら持たせて貰えないのに、彼は常にチームの起点になっていた。時たま他の生徒達がシュートに行きやすいような場所を選んでパスさばきをしているところからも、彼のセンスは光っていた。しかも彼が敵のボールをスティールし、このコート上の皆が唖然としている。私は放課後の部活の時間を選んで、あのリングを返そうと思っていたが、彼のプレイを見ているとそんなことも忘れ去っていた。明美はもう、彼の姿に釘付けになっていた。奈美子もまた、一点を見据えている。誰かを観ているには違いなかった。――まさか? ゲームが終わると三上くんは、味方の生徒達に笑顔を見せお互いの肩を叩いている。明美はそんな姿をいままで拝めることはなかった。いままで、一度も。
 「おまえの方がキャプテンに合ってるよな、孝介」
 部員の1人がそう称賛した。部員の間でも信望があることに気づいた明美は、今まで気がつかなかったことがおかしい位に自分を懺悔した。彼はきっと、もっともっと、自分の可能性を信じて、凄くなっていくんだろう……そう思った。
 「おれはインサイド勝負ではまだおまえに敵わないよ」
 「はは、どっちかっつーと前半勝負だもんな、おまえは」
 「うるせえな、おれだって練習すればセンターでもいけるぜ」
 「それはどうかな、おまえは校庭百週走ってスタミナつけとけ」
 集合の合図をした先生を尻目に、どうやらバスケの主将と三上くんは何とも負けず嫌いな会話をしていた。一匹狼と決め付けていた明美に、この時点でやっぱり違うのかなと思わせるには充分なやり取りだった。しかしこの空間は、まるで誰にも入ることを許されない彼達だけの秘密の域のようにも思えた。あの空間は、私にほんの少しの物悲しさを感じさせた。その入り込めない距離感は、1本のテレビゲームの要の電線が切れていて、季節の訪れを前に買い換えなければならない虚無感にも似ている。先生が二人を叱咤すると、彼らは建前だけ取り繕って列の後ろに並び、ぶつぶつ言いながら先生の長ったらしい話を聴いていた。しかし三上くんだけは、また空っぽの眼で体育館のどこかを見据えていた。興味を持たせてくれるような真新しいものなどないのに、その二重の眼の奥底の茶色味がかった瞳は常に一点を選んで見つめているだけである。破れかかったポケットに手を突っ込んだまま、呆然と宙を描いているだけなのだろうか。明美は一年前に死んだたった1人の親友を思い出した。まさに明美の心に1つ穴を空けた張本人である。京子は私が中学二年生だった頃に家庭教師として就いた21歳の大学生だった。シャンプーのCMにでも出てきそうな艶やかな長い髪の毛はいつも私の憧れで、私が友人から悪口を言われて居ると告白した際も独特の間のある口調で私を宥めてくれた。そのせいか水を打ったような沈黙が続くことは多く、その度気まずい空気が流れていた。京子も大学のサークルでバスケ部に所属しており、プレイはお粗末だったが熱意は太鼓判を押してもいい位だった。人一倍練習しなければ追いつかない程下手糞だったのに、私にも基礎を教えてくれていた。そしていつも手には桃味のネクターを持っていた。京子はそれが好きらしく、明美も飲まない?と薦めて来た。しかし私は甘ったるいその味に馴染めなく、断って居た。そんな京子が事故にあったのは、12月10日のまだ雪がまばらに降り始めた午後のことだった。明美が冬の中間テストで初めて高得点を採れた報告をしようと思った矢先だったのである。その前の日の彼女は、三上くんと同じものではなかったが、現実味を帯びた目を見せて居た。そして何故か、両手に包帯をぐるぐる巻いて居たが、彼女はただ怪我しただけよ、少し調子が思わしくないと私に伝えただけで、彼女はこの世界から居なくなってしまった。しかし私は不思議と泣きせびることもなく、命が1つ消えただけだと自分に言い聞かせていた。大泣きするような感情が込みあげてこなかったのは、決して私の心が幼いわけではなく、ただ広すぎるお葬式の会場で、あまりにも漠然としすぎる臨場感は私には伝わってこなかっただけのことだ。そして当時の私に唯一理解できたのは、人々の痛すぎるすすり泣きのその会場の真ん中では、人が死ぬのはとてつもなく簡単ということだけだった。母親から訊くところによると、彼女は休日の昼に友人と宿泊するビジネスホテルを探している途中、道に迷って通りすがりの歩行者に行く先を尋ねていたという。案内してくれた方は無事助かったようだが、彼女は右折してきた日産のセダン(警察は事故当時の現場を抜かりなくメモしていた)に全身を強打され、そのまま病院へ搬送されたが、30分も経たず帰らぬ人となったらしい。あの時、彼女が急いでいなければ。あの時、右折の車が彼女を即座に発見していたら……こんなことにはならなかったのだろう。私の中ではいつまでも「もし」という言葉が反芻されていた。人が死ぬことに、難易だとか安易だとかいうありふれた単語は似つかわしくない。明美の心には小さなしこりが残っただけだった。だけれどこのたった1つの穴だけが――簡潔すぎる、過ちだった。
 体育館の出口の周辺には雑然と散らばっている埃が多々あり、出た瞬間私達は汚いなあと呟いた。斜め上を見上げると黄ばんだ螺旋階段が渦巻いており、使い古された綱引き用の紐がところどころに吊り下がっていて何だか何十年もここにいるような感じがした。三上くんは渡り廊下を颯爽と(彼はどうにも陸上部のような規則正しい走り方だった)掛けていくと、私を見て不敵な笑顔を見せた。にこっというよりも、にやりといった方が彼の顔つきには合っているのだろうが、そんな表情は見たことがなかった。
 「女子のバスケ見てたよ。飯田さん、ドリブル下手だな」
 三上くんの言葉が発せられた時、女子達は盛大にはやし立てた。ある者は黄色い声を出し両手を振りかざしながら友人と小さくジャンプし、ある者は眼を細くしてうわあと口をにやけさせている。裏に潜めたある種の好奇心と、微笑んではいるが私を憎む嫉妬心とが入り混じった表情がそれぞれに並んでいて奇妙な光景としか言いようがなかった。奈美子も他の子と混じって気色悪い百面相の手助けをしている。……誰か助けて、そんなんじゃないんだってば。
 「余計なお世話よ。三上くんだってスタミナないくせに」
 「おれは毎日練習してんだ、今に追いつくぜ」
 「どうだか」
 明美はため息混じりに言った。三上くんは左手を顎に置いてしばらく反芻している。眼を瞑ったまま推考している姿は無邪気な小さな子どものようで、見ている分には面白く、愛おしさを憶えた。
 「あれ、飯田さん、もしかしておれのプレイずっと見てたの」
 その一言に裏をつかれたが、何事もなかったように、
 「そっちだってそうでしょ」
 と、素っ気無く答えた。しかし再び女子生徒達はきゃーきゃー言いながら、私と三上くんを羨望の眼差しで眺めていた。
 「私達、先に行ってるね、次自習だからサボれるよ」
そういい残して足早に割り廊下を走っていく姿に、明美はやり切れない気持ちで埋まっていた。「なにあの子、美人でもないくせに」
という投げやりな低い声が耳を掠めたからだった。たしかに明美は背が高いのとは逆に、その身長を持て余しているような性格が僅かながらでも潜在していた。後ろは短く刈り込み、顎の辺りまでのボブヘアで、傍目から見ればそこそこ可愛いとも言える容姿だったが、妙に気が長くクールな態度は一部の女子生徒からは反感を買っていた。
 「あんなの、気にすんなよ」
 三上くんは遠巻きに女子生徒達を怪訝そうに見ながらはっきりと言った。彼の一言が、胸に優しく突き刺さった。明美の眼が潤んでいるのに子どもながら気がついたのかも知れない。いや、ただ偶然に明美への悪口だと悟ったから、励まさずに居られなかっただけなのだろう。多分、そうだろう。
 「単なる憂さ晴らしで、言いたい放題言わしときゃいいって」
 明美は眼を細めて、そして力なく微笑んだ。
 「……あのさ、三上くん」
 「なに?」
 三上くんはいつもの柔らかい表情で私の返答を待っていた。どうしてこんな時でもその場の空気を和ませるようなオーラを持っているのだろう。彼の後ろには、渡り廊下にある左斜めの窓ガラスから放たれた春の穏やかな太陽がきらきらと差し込み、緑色をしたオーラが彼の背中を纏っている。何の変哲もない日常に、少しばかりの希望を持たせてくれるような、そんな燦然とした面持ちが窺えたのだ。
 「どうして時々、空っぽの眼をしているの?」
 あのリングに関して口を開こうかと目論んではいた筈だが、授業が終わる前の整列の時のあの淋しそうな眼を問いたださずにはいられなかった。透き通るようなあの眼は、一体何を見つめているのだろう。だがこの質問にはいささか違和感があった。明らかに、変だった。明美は焦ったように俯き、それから少し間を置いて、
 「あ、ああ、いいの、気になっただけだから」
 と、弁解した。三上くんは静かに黙ったまま、明美をじっと見つめていた。明美はいままで異性にこうも長く見つめられることはなかったので、どぎまぎしていた。耳朶から徐々に紅潮していく過程が読める程だ。気づいた時にはもう隠しようもなく、さながら紅しょうがのように真っ赤になっていた。三上くんはそんな明美をみて、右の口元をつり上げにやりと笑った。こんなに堂々とした中学生が一体どこにいるというんだ。明美は悔しかった。
 「ハエがうるさかったからだよ」
 「そしたら呆然となんてしてらんないでしょ」
 彼はばれたか、と言うような風情で苦笑いした。
 「あのリング、お中元なんて言うつもりなかったんだ……」
 「あんな小さな箱じゃ、大したものは入ってないって判るよ」
 罰が悪そうに笑って、再び悪い、と発した。大体母親が気づく前に疑わしく思っていたのはたしかだった。正方形の白い箱の角は捲れそうになっていたし、古めかしい物だとは察していた。何より母親が別の男性とお付き合いをしているだなんて馬鹿げた話を信用する訳がない。邪道だ。
 「飯田さんは、どこの高校受験するの?」
話題を転換したかったのか、三上くんは明美の一番嫌いなお題を持ってきた。適当に近くの普通レベルの南野高校を受験しようと思っていると、まだぼんやりとしか決まっていないのにそう、答えた。三上くんのがっかりしたような、拍子抜けしたような表情は明美に伝わってきた。
三上くんは肩をすくめて、
 「てっきり朝霞野高校だと思ってた」
 と、県内トップレベルの高校を指した。朝霞野高校は120年にも渡る伝統的な理系の男女共学の高校だった。そこの大部分の生徒は大学に行き、医者を目指すのが大まかの規則なようなものである。文系もごく僅かでは存在しているが、理系程力を入れているものではない。明美は医者になる気など毛頭なかった。
「医者になれっていうの?」
「まさか。ただ飯田さんなら上を目指せると思っただけだ」
「……三上くんは、どこへ行く気なの」
「澤平高校」
「それこそトップレベルの高校じゃない!」
思わず叫んだ明美の声に、三上くんは眼を見開いた。
「もっとバスケが上手くなりたいんだ、それだけだよ」
――もっとバスケが上手くなりたい。そんな彼の真っ直ぐな言葉に、明美は気づいた時にはダッシュで駆け出していた。彼のそのたった一言が、明美の心を惑わせていたのだ。彼の未来への期待を持った輝いた姿をこれ以上見たいと思わなかった。なんて向上心溢れる人なんだと思った。あの空っぽの眼は私の幻だったのだろうか。そうに違いない。彼が明美を追いかけてくるような気配はあったが、明美は教室に戻ると友人の奈美子に、「ごめん、早退するって先生に伝えて」と残し、ロッカーにある教科書を入れることすらせず、スクールバッグを持って長い廊下をばたばたと立ち去った。渡り廊下の静けさが明美の心細さを助長させており、背中に背負ったバッグの中の筆箱がごとんごとんと振動していた。バッグが上下に動いて非常に走り難い。あまりに耳障りな筆箱の音にも、いっそこれも置いてくればよかったと落胆した。思わず身震いがした。そして微かな戦慄が、電流のように、明美の身体に走った。
「三上くん、明美のヤツどうしたの?」
「ねえねえ、告白でもされたの?」
そんな彼女達の好奇の眼をよそに、彼は何も言わず自分の席へと戻り、週刊バスケットボールの記事をじっと眺めていた。じっと、同じ箇所を見ていた。

             「奮起」

 明美の近隣に属する小さな公園には、まだ陽の浅い午前中にも関わらず、5、6歳であろう子ども達が母親を引き連れて、完成されたばかりの青いペンキで塗られたジャングルジムで遊んでいた。若い母親は自分の子どもに「危ないよ」と諭しながらも、我が子が楽しそうに他の子ども達と戯れている姿を横目で見ながら微笑んでいる。左を見ると鉄棒に挑戦しようとした男の子が、逆上がりを失敗して泣きべそを掻いているのに気づいた。母親は赤ん坊を背負いながら、「ほらほら、泣くんじゃないよ。男の子でしょ」とお決まりの文句でその子を叱咤していた。その母親から「学校どうしたの」と言われた明美は、「具合悪いから早退したんです」と取り繕ったように答えた。明美はローラー滑り台の脇にある木造のこげ茶色のベンチに座っていた。所々剥げて本来の木の色を垣間見せている。ベンチを支えている金属の一部分が錆びて、誰かが蹴り飛ばしたような跡も残っている。明美にしたら、ジャングルジムを補整することよりも、この今にも金属部分の足ががたつきそうな箇所を補強して貰いたかった。蹴り飛ばされた靴の跡が無残にも残余しているのが、今の明美にはどうしても気に食わなかったのだ。午前中の透き通った空気を大きく吸い込み、そして吐いた。深呼吸などろくにしていなかった明美にはこの大切さを教えてくれたような気がする。少しばかり肩の荷が下りた心地がした。明美は再び死んだ親友を回想し、京子だったらこういう状況をどんな手法で相談に応じてくれるだろうと思った。彼女が生きていたら、こんな惨めな自分は居なかったのだろうか。三上くんの言ったあの言葉位で、落ち込む私はそれ程柔な人間なんだろうか。明美は歪な形をした大きな石を蹴飛ばしながら、俯いたまま考えていた。春の半ばだというのに一頻り寒い風が吹いて、カーディガンを羽織っていてもその寒さは感じられた。この疎外された空間から抜け出したいとも思えずに、明美は1人で悩んでいた。両腕をしっかりと組んでいると、長年着古していたお腹の辺りのカーディガンのボタンが解れ、地面に名残惜しそうに落ちた。しばらくぼうっと見た後、ボタンを拾い、クリーム色のそれをじっと見つめた。そう人差し指と親指でボタンをいじくりながら、ふと明美の脳裏に1つの閃きが映った。それはとんでもなく、簡単なことだった。そうだ。
――私も三上くんに追い越されないように、一つ上の高校を目指してみよう。私に出来ることを、今しかできないことを、一生懸命やればいいんだ。京子にも、それは伝わる筈だろう。明美は自分を奮い立たせ、座っている位置からまるで跳躍するように立ち、筆箱をごとんごとんと鳴らしながら走って行った。公園で遊んでいた子ども達は、自分達の遊びを一旦止め、その奇妙な行動に吸い込まれるように見とれていた。
            「希望」
 「あらお帰り、随分早いわね」
 スクールバッグを背負いながらどたどたと慌しく帰宅してきた娘を、母親は不審そうに眺めていた。今日はパートが休みで、きっと何か理由があるんだろうと石畳に掃除機をかけながら明美を眼で追っていた。掃除機のゴミパックが一杯になったのか、母親はああもうと面倒くさそうに換えのゴミパックを箪笥から探り出そうとしていた。石畳の部屋は明美のものだったが、大量の書きかけのルーズリーフやお菓子の袋が散乱していて、まるで女の子の部屋とは思えないと母親はがっかりしている。ゴミパックを掃除機の中にずいっと詰め込むと、
 「明美、あんた自分の部屋位掃除しなさいよ」
 と、呆れかけたように怒鳴った。しかし明美には母親の声は耳に入らなかったのか、それとも単に無視しているだけなのか、いずれにせよ、5歳児がアイスの当たりくじを引いて歓喜に酔いしれたような声をあげて母親に尋ねた。
 「ねえお母さん、私、柏木を受験するよ。いいでしょ?」
 明美の天真爛漫とも言えるその表情が、親心にも不思議に思っていたが、なぜわざわざ元々受ける筈だった南野高校を止めてワンランク上の柏木高校を受験しようと決意したのかが疑問であった。反発ばかりし、いつでも冷ややかな眼をしていた我が子が悦びに耽っているのを眼にするのは、ともかく初めてのことであった。昔から自分のやりたいことばかりを優先して母親の言う意見など一切無視する。欲しい物があるとしても、どちらかにしなさいと叱るのをよそに、明美は突発的に手に入れたいものを、自分の小遣いを犠牲に買う傾向があったからだ。以前は我侭としか言いようのない子どもであった。そんな明美が新たな挑戦に自ら挑むというのは、彼女にとって驚愕以外の何物でもなかった。はては、多分彼女は自分の望みを明美には見透かされていただけなのかも知れないが。母親は眼を見開きながら、まるで1つの壁を乗り越え、今にもそこから駆け出していきそうなその顔をまじまじと見つめた。
「別に構わないけど、何かあったの、学校で?」
思わず上ずった声が明美に伝わる。
 「ううん、何でもないの」
「何でもないことないでしょう、そんな前向きになるなんて」
「いいの。とにかく、挑戦してみたいの」
口元を頬の辺りまで持ち上げ幸せそうな笑顔を見せびらかされると、母親は何も言えずに、心の中で淡い思いをじっくり噛み締めていた。まだ受かるかどうかも未知数で、まだ不透明とも言える状況であるというのに、そんな娘の表情を温かく見つめているとそんなことすら忘れてもいいような気がしていた。
明美はその先の行く末と、三上くんと、マリッジリングのことを静かに頭に思い巡らしていた。そんな気持ちを自分の物に出来るということが、明美にとっては非常に感慨深いものである。胸に沁みた心地を味わいながら、石畳の部屋でただ何もせず空想に耽っていた。居心地の悪いこの家ですらも、明美にとっては煌びやかな都に思えてきている。まるでロココ調のお城の中で、だだっ広いテーブルの上にアロマキャンドルを照らして日々過ごしているようなそんな、奇抜な光景が描かれていた。しかし偏差値50程度の明美が、60もある高校へなど進学できるのかという不安もあった。ただ、今からなら決して遅くはない、明美は強く心に念じて死に物狂いで勉強に取り組もうと決意したのである。あの時心にぽかんと空いた胸の中の円は、ほんの少しずつだが、消えつつあった。午前中帰宅したせいで暇な明美は、石畳の上の綺麗に片付けられた自分の机を熟視した。昔建築関係の仕事に就いていた父が手掛けて造ったものである。父親は出張で地方へ1週間ほど家を留守にしているので、いつもフローリングにある卓袱台の上で勉強(当時明美は学校からの提出物を片付けていただけで、先生からの予習や復習は露ほども手掛けてなかった)に取り組んでいた。建築家であった父親はこの手の工作がとても得意であり、この家に存在している椅子や家具等も何でも造ることが出来た。この机は、小学生だった明美が乱雑に扱っていたせいで所々傷がついている。机の色は総じてこげ茶色をしていて、椅子の足の部分が均等になっていない。まさに手造りの代物であり、殆ど使用することもなく自然と五年間も放置してあったので、明美は何だか申し訳なく思い、心の奥底で小さく父へ深謝した。机に散在しているノートの数々を凝視していると、昔の友人に宛てた(出し忘れたものが多かった)、そして宛てられた手紙が山積みになりノートの脇に置かれていた。つい懐かしくなり一番上に所在していた茶封筒を手に取ると、宛名書きには「921?0020 飯田明美様 福島県外川市1-5-6」と筆ペンで書かれた住所があった。裏の相手方の住所を見ると、そこには「935-000 相川京子 福島県外川市4-5番地」と示されてある。明美はそれを見た瞬間、眼を丸くして、そして――慄然とした。日付は去年の12月7日をさしていた。ちょうど京子が死ぬ3日前に書かれた手紙であったのである。母親は私の知り得ない場所にこれを潜めていたというのか。一体どこに隠したというのか。そして母親は間違ってこの手紙を明美の机に無造作に置いてしまったのか。明美は畏怖してそれを手放そうとした。しかしその心とは裏腹に、茶封筒を両手で握り締めたままの身体は、臆することで震えが一向に止まらず、その場に立ち尽くしていた。

           「淡い憧れ」
母親はフローリングの卓袱台の真正面にあるテレビを観ながら、時折大きな笑い声を上げては、その恥ずかしさに身をうずめたりしていた。卓袱台の上には器に入った柿の種や醤油せんべえ、はたまたこってりとしたイチゴ大福等それぞれ雑然と並んでおり、それらは彼女の口に次々と運ばれていた。1週間の内に1日しかないこの貴重な休みを、彼女はいつもこうして過ごしている。昼メロを観ることが、彼女にとっての至福の時間だったのだ。不倫相手の男性を思い切り平手打ちをするとか、泣きながらそれでも一緒に居たいなどと言う場面を彼女は大真面目に見入っている。旦那が居ない時間にこそ観る番組は、スリルが味わえて新鮮だった。不倫をしている既婚男性と彼女、不倫をされている既婚女性の場面が映された時、母親は大口をあけて大福を口に含んだ。最も重要な場面である筈なのだが、どうも咽たのか部屋に響き渡るような耳障りの悪い堰をした。見逃してしまった悔しさよりも、肺の器官に入ってしまったことが、どうにも苦しくてたまらなかった。反省したのか、口に含めた大福を手で取り出して、ちまちまと食べることにした。ちょうどテレビドラマが良い所でCMに切り替わったころだったので、明美の様子を見に行こうと考えた。こういう嬉しい時にこそ、卓袱台の上で趣味である絵画を楽しんでいるのに、明美が自分の部屋からもう随分出ていないことを不審に思った。張り切って勉強に勤しんでいる最中なのか、母親の脳裏にはその程度の思考が浮かび上がっただけだった。母親はそっと渡り廊下を歩き、右手にある襖を開けた。部屋がしんとしていたので、先刻まで前向きな表情をしていた娘が、急に風邪か何かで倒れたのではないのかと心配になっていた。思わず声を掛けようとしたが、明美は部屋の中心に棒立ちになっており、何かを握り締めたまま見つめていたので、ただ後ろから明美の肩を叩いた。
「明美、どうしたの。お地蔵さんみたいになって」
明美は母親の眼に視線を送った。茶封筒は一切開けずじまいだったが、それでよかったと思った。不思議と、母親に対する悲憤や癇癪を起こして叫ぼうとする気持ちは全くない。ただどうして教えてくれなかったのか、それだけが、心に刻み込まれている。
「どうともしてないよ。小学校時代の友達から来た手紙見て、懐かしいなあって思ってただけ」
「そう、ならいいんだけど……お母さん、あんた用のご飯も作るから、ちゃんと勉強してなさいよ」
いつも通りの母親の一声で、私は机に向かった。わざと机の隅に置いた茶封筒を開けようとは思わなかった。何か知ってはいけないようなことが綴られているような予感がして、明美は数学の教科書を開き、問題を解くことで気を紛らわせようとしていた。
母親が台所で茶碗に卵を割り、我が家の定番である卵焼きとほうれん草のベーコン炒めを作ろうと準備に取り掛かっているころ、突然玄関のがたがたという音が響き渡り、一頻り大きな声が部屋中に広まった。少しくぐもった、低い男の声だった。
 「三上孝介ですが、明美さん居ます?」
 明美はびくっと身震いし、思わず問題集を解く手を休めた。右手に握っていたシャープペンが左手の甲に刺さり、しかめ面をしながら襖を開けておそるおそる玄関の方へと振り返った。なんで三上くんまで早退して家に来るんだろう……正直顔を合わせたくなかった明美は、ぴしゃっと襖を閉め、石畳にあぐらを掻いて畳の解れを手でむしっていた。どうせまたこのことについて母親にどやされるのだろう。だが、今はそんなことはどうでもよかった。こういう癖が明美には昔からあって、母親にはその都度どうしようもないわねと、激憤されていた。――ああ、いいよ、いいよ。どうにでもなってしまいやがれ。
 「明美、明美!三上くんがわざわざ来てくれたのよ。あんた学校早退したのね?三上くん、あんたのこと心配して来てくれたのよ。あのケースもちゃんと返したの?部屋に居ないでちゃんと出てきて一言言いなさい!」
 三上くんの母親と私の母親は、私が中学1年生のころから仲がよかったので、子ども心に私は建前だけでも三上くんとは会話をすることになっていた。とは言っても、特別2人だけの話をすることは全くない。教室で顔を合わすだけの仲である。そんな母親の猛烈な一声に、明美は現実に舞い戻ったような気分を持たされていた。サボりは母親にばれたし、ケースを返すのも忘れたし、茶封筒の謎は曖昧なままだし、学校から帰宅した時までは、欣然として行動に移そうと考えていたのに、今や非常に遣る瀬無く自堕落な感情へと成り下がりかけていた。
 「今、行くよ……」
 「まったくもう、さっさと行きなさいよ」
 母親は明美が早退した為に昼飯を作ることを任される羽目になってしまったので、その有限を面倒臭くても守らなければならなかった。いっそ三上くんを家にあげたらいいのに、と思ったが、明美の母親は他人が土足で自分のプライバシーを汚されたくないという何ともくだらない生活信条があった為に、明美は外へ出ざるを得なかった。しかしあの厳格な母親が、ワンランク上の高校へ行かせてくれることに対しては、明美は心の奥底で朗らかな、柔らかく温かい思いを感じていた。素直にそう思うことができたことが、何よりも大切であり、それは明美にとって、初めてのこと。ただ、あの京子から明美宛ての手紙を忘れることはできなかった。
 明美は右手で鷲づかみするようにマリッジリングのケースを持って、木造建ての軋む廊下をいそいそと走った。真っ昼間の高く昇った太陽の光が玄関先に差し込んでいる。白く白く煌めいた1本の線がいくつも帯び重なっていて、明美の眼を細めさせていた。一体どんな顔をして三上くんの前に姿を現せればいいのだろう……彼の顔が逆光によって表情が読み取れず、近くに行くまではよく判らなかった。ようやくその顔を拝めることが出来たと思ったが、三上くんの表情はいつにもまして芳しくなかった。私が急に駆け出してしまったことに、自分なりに自己嫌悪していたのだろう。もしかしたら罪悪感かも知れない。鋭い目付きに、唇はまるで下に円を描きそうなブーメランのように弱弱しく折り曲がっていた。
 「ごめん、明美さん」
私は息切れが続き、三上くんの前で膝に両手を当てながら背中を曲げた。我が家は廊下が異常に長かった。そしてほんの数秒ののちに、彼に対してある種の羞恥心を持ってようやく立ちあがった。すると彼は自衛隊の敬礼のように私に向かってお辞儀した。いや……それよりも急に下の名前で呼ばれたことに、どきっとした。
「なんで怒ってんのか、実は今もよく判らねえんだ。おれも今日は、具合悪いっつって早退しちゃったよ」
そう言って苦笑いをした。彼はいままで以上に優しい顔つきで、慈悲にも似た表情をして私を見つめていた。その二重の真ん丸な眼は、幾分細められていて、唇はきゅっと上に持ち上げられていた。彼の背中を覆いつくすような淡く七色の虹が縁取られていて、まるで彼そのものの人物像が全て収縮されているように感じられた。三上くんのその姿をじっと見つめていると、同時に心臓が急速な勢いで高鳴っていることと、いままで感じたことのない秘めた恥ずかしさが私の中に存在していることに気がついてしまっていた。体育館の渡り廊下の手前で会話した際も同じだったように思う。彼に対する気持ちはもはや滞りなく、流れ出る滝のように胸一杯に広がっていた。レモンとグレープフルーツにも似た甘酸っぱい思いが身体の心髄から溢れ出るように込み上げてきていた。
「怒ってもいないし、謝らなくてもいいよ……私が悪いの。その……三上くんが、どんどん先へ行ってしまうことが……私、とても怖かったの」
まるで告白めいた文章を口走ってしまったことに、私は挙動不審になってしまっていた。俯き、再びあの紅しょうがに戻っている自分に腹立たしさを憶えた。――滑稽じゃないか。悔しいじゃないか。ちくしょう。こんなことを口走る筈じゃなかったのに。すると三上くんの顔はみるみる赤くなってしまい、二人は棒立ちになり奇妙な光景を近所に晒していた。玄関先で話すよりも外へ出たほうがいいと思い、眩しい陽ざしを浴びながら三上くんとしばらく古びた町並みを散歩することにした。彼はずっとコンクリートに眼を呉れていた。私も何も注視するもの等なかったので、彼と同じ行動を取った。
「あのさ、おれは別に……先になんか行ってないよ」
明美の方に視線は向けず、今度は左手にある賃貸住宅のベランダに干された干し柿を見つめている。さながら正月の餅の上に飾る橙のような色をして白っぽい筋が点々と塗してある。もう熟し時であろうそれは、放ったかされたままのように思えた。昼間だというのに人通りが少なく住宅街である為、石垣が私達を挟むごとく両端に並んでいる。そして彼は、ある時はあさっての方を見たり、とにかく眼を泳がせて落ち着きのない態度をしていた。
「ただ先に進路を決めた、それだけのことだよ……それに」
三上くんはそう言って、やっと私の方へ振り返った。太陽は空高く更に真上に昇り、逆光でますます彼の顔は見え難くなっていた。
「明美のペースがあるんだから、急ぐ必要ないって思うぜ。あんまり難しいことは、おれにはよく、判んないけど……」
照れ隠しのように鼻をこすり、それから再び視線を戻しコンクリートを見つめた。
「そうかな」
「そうだよ」
ただただ、私達は歩き続けて、その先には果てのない何かがあるとか、どんな未来が待っているとか、そんなことすら考えずに一本の道を歩いた。両端にある住宅街がいつにもましてきらきらと輝いているようだった。たとえベランダにある物干し竿に洗濯物が並んでいても、今ならそれすら愛せるような気もした。三上くんは何か言おうとしているのか、ちらちら私に目配せをしながら赤くなった顔を表面上に曝け出している。
「あ、あのさ……」
「なに、干し柿食べたいの」
始終、落ち着きもなく所々に干してある干し柿の方ばかり見つめているので、どうにもこの手の返事位しか出来なかった。しかしついに覚悟をしたのか、この際プライドなど棄ててしまおうかと推考しているのか、三上くんは私の方に向き直り、きっとした鋭い眼を向けた。
「干し柿なんか食べたくねえよ」
「じゃあ、自分の家の洗濯物を干すのを忘れていたの?」
明美は冗談交じりに笑って、そそくさと三上くんよりも先に歩いて行った。手ぶらで外へ出たものだから、コンビニでお気に入りのポカリスエットを購入することも出来ない。三上くんと一緒に歩くことが苦痛という訳ではないのだが、どうにも恥ずかしさが先走って居たたまれない気持ちから避けていた。彼はしばらく明美の1m後方に位置して歩いていたが、彼の走ってくる足音が聞こえて、立ち止まろうとした。瞬間、左腕をぐっと掴まれ思わず振り向いてしまった。掴まれた左腕は力強く私の腕を握り締めていて、離そうにも離せなかった。明美の眼は三上くんの眼に惹き付けられて、隠しようのない気持ちは、もう全面に出ていた。もしかしたら、既に判っていたのかも知れない。悟られていたのかも、知れない。
「ずっと、一緒に居て欲しいんだ」
           
            「生き物」
梅雨の時期が終り、いつの間にかぶ厚い雲が過ぎ去って、じめじめとした湿気が肌に纏わりつく季節へと移り変わっていた。膨張した暑苦しい空気がいちいち明美の身体を刺激し、夏の制服を着用していても、度々スカートの裾が膝の辺りに貼り付いて苛々した。その姿はとても爽やかとは言い難い不恰好な感じがした。スクールバッグを背負った明美は、黄色い風船が、広大した積乱雲の許へと導かれるように、高く高く吸い込まれて行くさまを眼で追った。公園の傍を通り過ぎようとした時、まだ三歳にも満たない子どもが、母親の脚にしがみ付いて咽び泣いている。多分、スーパーの開店時によく配布される無料の風船を、その子は貰ったのだろう。たしか母親も、今日の午前10時辺りに新しいスーパーマーケットが出来るとかで、いつにもましてちらしをまじまじと見ていた。ちらしの赤い文字で表された数字の品物は、買わなきゃ損、と熱論していたのを思い出して、そんなに貧乏性な母親だからこそ、家の生計を立てていられたのだろうか、とため息をついた。1週間の出張をしていた父親は、昨日の夜に名物の品物を買ってきてくれて、ぐったりと座布団に座ると、東京にいちゃ人に酔うと嘆いていた。明美もどちらかというと、人ごみは苦手である。むさ苦しい人と人の間では、息さえもつかせてくれないような気がしたからだ。東京はそんな所だと、ある偏見を持っていた。
今日は、三上くんが部活をするとかでその様子を是非、観に行こうと学校へ向かっていた。他の学校では夏休み前が二週間と迫っていて、まだ普通授業が続く時期ではあったが、明美の学校では中体連が間近であり3日間の休日が設けられている。バスケットと野球に限っては強豪校だったので、過去全国の勝利を掴みとっていた。明美は県大会の様子を伺うことはできなかったが、三上くんが言うには無事第二位という成績を残したそうで、その為3日後には全国大会が待ち構えている。全国大会の会場は神奈川県だった。三上くん含め、バスケ部員は学校の資金で大会に臨むことが可能だが、私がただ観覧するだけに往復の金を準備することは不可能である。そしてその当日には進路相談が待ち構えている。明美はただただ消沈していた。しかし私が行く理由などどこにあるのだろうか?三上くんはそれを心の底では歓迎しないかも知れない。あれから約3ヶ月経った。三上くんが言ったあの言葉に「うん」と応えたのみで、それから校内で会話することもなかった。1週間置きに来る電話だけが私達の僅かな繋がりだった。その電話の内容はいつも、「部活を見に来て欲しい」というものばかりで、格別何の変化もない。おかげで彼のプレイを間近で拝めることができたが、やはり休憩中に、時折見せる空っぽの眼は健在したままだった。ところで明美自身の勉強の進行具合といえば、1時間問題集と闘ったと思うと机に突っ伏したり、ある時は5時間以上も集中して取り組んでそのまま夕飯を食さないことも多々だった。しかし思い切り決意したものの、精神的にはムラが生じていて、毎度自分を奮い立たせながら頭に叩き込んでいた。一度母親に判らない問題を借問してみたこともあったが、昔習ったことはとうに忘れているのかあてにならなかった。
明美は、正門の手前に所在する生い茂ったけやきの葉の縁を凝視した。その卵形のとげとげした葉に、揺ら揺らと熱を帯びた陽炎を見ると、一層、身に夏を感じていた。また、けやき以上に青々とし、フェンスから葉が突き出した桜の木々にも陽炎が窺える。オゾン層が破壊されつつあると前々から耳にしていたが、まさにその通りの熱気である。天気予報では、昼にかけて実に35度以上もの暑さになるそうで、これからもこの暑さと戦わなければならないんだろうなと、思っていた。くろがねの表面に錆びかけて所々褐色になっている正門の真ん中を抜けると、誰かが飲み捨てて行ったであろう空き缶を発見した。「NECTAR――とろける美味しさ」と表示されたそれは無様に転がっている。完全に飲み干したものではなく、飲み口から液体が流れ出ていた。するとその液体と共に、何やら細長い環形動物と見られる生き物が何匹も登場し始めた。気色悪い紫色をしていた。まるで生きたスパゲティが自由自在に動いているようだった。頭なのか尻の辺りなのかも判別つかないそれは、勢ぞろいした所で明美にこう問い掛けた。
「こんちは、お嬢ちゃん。僕とダンスしない?」
途端に背中からぞくぞくっと寒気が走り、一秒後には発狂して一刻も早くその場から立ち去ろうと猛ダッシュした。誰だこんなものを入れやがったのは。誰だ、どいつだ!ふざけんな――
 
            「確執」
気味の悪い光景を見せ付けられた明美は、体育館の出入り口の前で息を切らしていた。左方を見ると、建物の一部が損傷したらしく、赤紫色をした屋根の周りにいくつもの仕切りがしてあった。その鉄でできたポールが1m程空けて両端にあり、根元に青いシートを垂直に立たせてある。更に屋根の位置にも丹念に覆われていた。明美は靴を脱いで、すのこに立つと、工事用のヘルメットをした人が作業用の水色の服を汚しながら明美にこんにちはと、穏やかな笑顔で挨拶をしてくれた。
「まったく勿体無いことをしてくれたねえ、僕はよくこの学校の修理に来るんだけど、荒らす奴がしょっちゅう出没して困るよ」
片手に靴をぶら下げたまま、青いシートの内側をそっと見上げると、赤紫色をした屋根の一角が白く接げており、見事に壊されている。なんてことをするんだろうと、激しい怒りがふつふつと込み上げてきた。スカートの裾をぎゅっと握り締め、おじさんに言った。
「今度見掛けたら、ぶん殴ってやりますよ」
「ははは、潔い子だねえ。でも危ないから、実際にはそんなことしないでちょうだい。心意気だけはおじさん、有難く受け取るよ」
明美は頷くと、汚らしい靴箱の中に学校用指定靴を突っ込んだ。二つある石段を重々しく上がると、既に練習が始まっていた。何やらもう、40分の試合が始まっているらしい。ただですら暑苦しい空気が、体育館のフロアに上がると2倍にもなって、もわっと蒸気をあげている。――しまった。体育館シューズを忘れた。
「明美」
膝下まである白い靴下の足の裏を気にしていると、呼び掛けられた先には奈美子の姿があった。
「あれ、何しにきてんの」
「三上くん見に来たんだ。せっかくの休みだし、有効に使わないと、でしょ?」
奈美子のあどけない表情と独特の言い草に、つい茶々を入れたくなった。彼女は制服ではなく、私服を着用している。おまけに髪の毛をポニーテールに結んで、可愛らしいピンクのゴムをしていた。よくよく奈美子の顔を見ると、どことなく京子に似ているのに気付いた。気のせいか顔はそれ程似ていないが(きゅっと上がった唇と、二重の可愛らしい眼は似ているが)このはっちゃけた性格は良く似ていた。奈美子に親近感を持って居たのはこのせいだったのか。
「なあにが有効よ。どうせ格好いい姿見たさに来たんでしょ」
「あれれ、ばれちゃった?そういう明美こそ何しに来たのよ。勉強中毒じゃなかったの?」
「私はただ、暇だったから見物しにきただけ」
素っ気無くそう返答したが、まさに図星をつかれた明美は奈美子の前を通り過ぎて、わざわざフロアの隅っこに体育座りをした。モップ掛け等していないような汚さだった(練習前の時間で掃除をしようとする者は居ないのだろう)が、奈美子と居るとどうも空しくなってくるので、仕方なかった。明美はバッグの中から1リットルのポカリスエットを取り出し、口へ含み込んだ。横目で奈美子を見遣ると、嬉しそうに彼らのプレイを眺めているのが判る。キャップを閉め、フロアの上にごとっと置くと、奈美子の周辺に3つの2リットルペットボトルが並べられているのに気付いた。それは、明らかに部員達への差し入れだろう。ご丁寧にタオルまで用意してある。ADIDASのタオル何て、奈美子は普段使用してない。体育の授業ですらも、だ。わざわざ買ってきたというのか?彼女はマネージャーでもないのに、部員達の為だけに朝から準備してきたというの?
明美は自分用の飲み物をじっと見ると、再び喉を鳴らしながら口に含んだ。ボールの籠が置いてある傍に、奈美子は居た。明美とは――3m程も距離を空けて。たしかに、そうしたのは私なんだけれども。だけど、何もそこまで離れてくれなくてもいいじゃない。
「孝介、ディフェンスが甘いって。もっと腰落として相手に抜かれないようにしろよ!ここではおまえがエースなんだから!」
三上くんは主将に叱咤され、はい!と、答えて再び自分の位置に戻った。先刻主将に言われたように、彼は脚を大きく開いて深く腰を落とし、前かがみに相手の眼を睨んだ。相手の眼から離さないことがバスケットの上では重要なことであった。目線で相手がどこを見ているのか、チェックできる。三上くんのそれは、威圧感――相手がいつおれを抜いてくるのか、フェイクを入れてくるのか、フェイクを入れず、そのままシュートを打ってくるのか、はてはチェンジ・オブ・ペースで、おれを抜くテクニックを使ってくるのか――三上くんはそんないくつものパターンを考えているような気がする。明美は京子から僅かな知識は得ることができていたし、ゲームの観戦も慣れていた。彼らはバッシュの底とフロアの間の摩擦で、耳障りの良い広がった透明な音を鳴らしながら、フロアを走り回っている。40分のゲームの中、休憩を挟んで、今、30分が過ぎようとしていた。後半、汗だくになるのも無理はなかった。まるで蛇口を少しばかりだけ閉め忘れて、その残った水滴がぽつぽつと落ちるように、彼らの顔からは汗が噴き出していた。もはや鼻のてっぺんからすらその水滴をフロアに落としている。明美はその体力の限界を間近で見ることに、一種の恐怖を持たされていた。同情や、憐れみではない。圧倒的なプレイをしている彼らの、凄まじく負けず嫌いな表情。疲れ切って今にも脚がふら付いて倒れそうで――気迫を感じさせるほどの激しい顔。虚ろな眼をしている様で、絶対にそうでない――
相手の部員はフェイクを入れてきた。左に1回、右に1回、ボールを移動させ、三上くんを翻弄させ、抜こうとした。三上くんは相手の前にだんっと立ち、ボールの行く末を防いだ。左からポールをカットし、速攻を仕掛け全力で走り抜く。ボードの表示は40対34。三上くん達のチームは6点差で負けていた。
「孝介!」
主将がパスを回せと声を張り上げた。ゴール下のインサイドでは三人の部員が眼を異様にぎらぎらさせて立っている。三上くんはその部員達の手前で左にパスをし、主将がインサイドにいる部員をかわしてレイアップを決めた。40対36。残り1分弱。後4点、若しくは5点、シュートを入れなければ明らかに三上くん達のチームは負ける。
「俊平、悪い」
相手ボールになり、自分の位置に戻る際、三上くんは俊平という先刻レイアップを決めた部員に言った(主将は俊平という名前だったんだ。ただ放課後の練習で観察していたにも関わらず、部員の名前を把握してなかった。穏やかな顔と口調に似合わず、何て活発そうな名だろう)
「いいよ、いいけど、この時間じゃ、おれ達、負けるぜ」
俊平くんは、三上くんと違ってスタミナに余裕はあるように思えたが、40分もの試合で息を刻むペースがひどく短くなっている。部活練習で40分のゲームをするということが、妙な凄味を明美に持たせていた。この光景に――明美の背筋はかたくなった。
「……おれが、あいつにファウル、突っ掛ける」
俊平くんは、眼を大きく見開いた。
「――何する気だ?」
「いいから、おれにパス回してくれ。おれが決めてやる」
そう言って三上くんはマンツーマンのディフェンスについた。俊平くんの不安げな表情は、三上くんの背中に向けられていた。相手チームの方は、たかが部員の練習試合で何ムキになってんだ、と小声で呟いている。しかし全国大会が間近に迫っているのだ。キツい練習を休日にやらせてくれるだけでも、有難いのだ。彼らもほんとうは、そう思っている筈だ。
相手のオフェンスの速攻を封じ、全力疾走で反対側の自分のゴールへ向かう。明美の座っている隅っこの側から(詰まる所、相手ゴールの角の位置から)主将の俊平くんが三上くんにロングパスをし、ディフェンスの相手が彼をマークした。相手はフェイクを入れてくると予測したのだろう。しかし、彼はフェイクを入れなかった。ボールを1回バウンドさせ、白線の位置に戻った。
ゴールを見遣る。相手がはっとして、そのボールを叩き落そうと、三上くんの手首をばちっと叩いた。それを見た三上くんは右の口元を吊り上げ、にやりとした。相手にとって、三上くんのゴールを見遣る行為は、かえってフェイクとなってしまったらしい。ワンハンドシュートの綺麗な弧を描いて、惜しくも打点は高くなかったが、ボードに当たることもなく、白い網の中へ、すっと入った。途端、コート上の全員がざわめいた。唖然としていたのかも知れない。審判の下級生は、首に掛けていた白い笛を鳴らし、バスケットカウント!と声を高らかに叫んだ。喚いた、に近いかも知れない。
「なんだよそれ……スリースローはねえって……」
三上くんのディフェンスの相手を担っていた彼は、がっくりきたのか背中を丸めポケットに手を突っ込んだ。相手チームの組み合わせはよくよく考察してみても、三上くん達のチームよりは遥かに強い生徒達が揃って居た。比較して主将達の方はというと、どう見ても三上くんと主将、俊平くん位しか戦力になる者は存在しない。他の3人は三年間プレイして来たにも関わらず、ミドルレンジからのシュートや遠い位置からのシュートは入らないようだ。
「おい三上、これは試合じゃないぜ。あくまで練習だ。マジんなって一人で殺気だってんなよ」
マークしていた部員が声を荒げて、三上くんを睥睨している。
「よせよ、フェイク掛けられて躍起になってんのはおまえの方だろ、増田。おまえがファウルしたのも、部員に一躍、買ってんだぜ。何も恥じることないだろう」
俊平くんは息をついて、
「おれ達はチームメイトだ。全国に行くんだぞ。ケンカするような有り余った時間何か微塵もないんだ。3日間、本気で取り組めよ」
俊平くんの説教のような言葉がフロア全体に響いた。体育館の独特な空間の中で、彼の一声は、まるでこの場所の空気をめったぎるような怒声として、明美に感じ取られた。実際は――決して怒声ではない。ただ部員を叱咤しようと、はっきりとした言葉を発していただけなのだったが。少なくともそう、体育館に居る時に限って、そのような印象を抱いただけなのだったが。
三上くんがフリースローの白線に立ち、両手で持ったボールを身体の側に素早くくるっと回した。ボールがしっかりと彼の両手に密着し、増田と言われる部員に目配せした。
「悪いな増田、勝たせて貰うぜ。おれに歯向かう位元気があるじゃねえか、仲間内で競争心持っても、仕方ねえよ」
そんな皮肉な言葉に増田くんはむっとしたのか、俊平くんは慌ててフォローを付け加えた。
「いや孝介、仲間内の競争心は必然だぞ。張り合いなけりゃ強豪にすらならない。張り合いがあるから、今までおれらは強豪で居られたんだ。モチベーションを上げる為にも必要なんだぜ、判るか」
しょぼくれたように三上くんは答える。
「判ってますよー、キャプテン」
明美は、俊平くんの178cm以上はありそうな大きな身体とその言葉の内容を聴いたことによって、この人は、明らかに「主将」だ、と思った。頼もしいな、こういう人がキャプテンに向いているんだろう。三上くんは中学生ながら175cmという立派な体格であるというのに、ちょっとやんちゃが過ぎる。とてもキャプテンには向かない。
三上くんの打ったスリースローは、確実に取ることが出来た。スリーポイントのファウルカウントでは3つのフリースローが与えられる。40対42。思惑通り、三上くん達のチームは勝った。
増田くんはまだ力有り余っているのか、三上くんへの当て擦りを口走る。余裕を持って、三上くんは彼の眼を平然と瞠目した。おれのフェイクに気付いてファウルするのは度胸がある奴しかできないぜ、大したもんだ。――果たしてそんな風に感心しているのか、それとも三上くんはファウルを貰うことに相当な自信があって、またしても増田くんを皮肉っているのか――何だって彼は、そこまで自身に対して自尊心を持って居られるのだろう。
「三上、エースに自己中心的なプレイはある時は必要だがな、そう自信ばっか持ってちゃ、チームからしっぺ返しが来るぜ」
三上くんは増田くんからは若干嫌われていることに気付いているのか、再び増田くんを睨んで言い放った。格別、三上くんのプレイに自分主義なものを感じさせて居なかったのだけれど。
「おれはそんなプレイはした覚えない。増田が勝手におれを妬んでるだけじゃねえか」
俊平くんは事の重大さを察して、二人を宥めた。このバスケットをしている間は、おれ達は「友達」じゃない。何度も言うようだが、「仲間」だ。嫌ってる奴が居ても、全国では2人はパスを使って協力し合わなきゃしなきゃならない。そこんとこ、念頭に入れて置いてくれよ。そう、俊平くんはキャプテンとしての自覚、責任として2人に告げた。明美はこの様子を観察しながら、体育館の隅っこで、1人ポカリスエットを飲み干してしまって居た。
             「嫉妬心」
奈美子は少々この場の空気に怖気付いてしまっていたのか、しばらくの間、茫然として座り込んでいた。初めて部活の練習を観に来たのだろうから、緊迫とした状況に入り込めなかっただけだと、明美は奈美子に眼を留めながら、空になったポカリスエットのキャップを人差し指で押さえ、ぐるぐる円を描くように遊んでいた。しかし部員達は奈美子の傍にたかって、タオルで汗を拭ったり、スポーツドリンクを一気飲みしていたりする。先刻までの青ざめた表情は、すっかりいつもの笑顔に変貌していた。正直な所、安心した。明美はというと、隅っこで観ていたあのゲームを反芻していた。三上くんは、たしかに、凄い。たしかに、エースとしての役割を完璧にこなしていた。だけど、何故あんなにも、虚栄心にも似た自尊心が、人よりも強く抜きん出て居るんだろう。バスケに対する執着が恐ろしく感じられる程、あの熱意がとんでもない。――恐怖。あのプレイは紛れもなく、恐怖としか言いようがなかった。
「ねえ、奈美子」
明美は立ち上がって奈美子の方に近づいて行った。部員達に次々とタオルを配布しながらも、明美には一切眼もくれなかった。無言のままお互い気まずい空気が流れるのは一溜まりもなかったので、私は元の場所に座り込んだ。ずっと下を向いたまま、考え込んでいるのか、考え込んでいないのか、頭の中で自問自答していても、もう、判らない。私はきっと、何も考えてないんだ。何かを見つめているようで、ちっともその真義を追求しようとはしない。あの恐怖について、何の意味も見出せない。執着心。虚栄心。自尊心。恐怖心。何故、奈美子は私にあの笑顔を見せてくれないの?さっきまで一緒に喋っていたじゃない。わざと距離を置いていたのはどうして?――ああ。
明美が蹲って手を膝に放り出していると、誰かが近寄ってくる気配を感じた。この場所の独特な蒸気が私の元にまで支配していることに、声を掛けられるまで全く気付くことはなかった。
「明美、どうした」
この声は?一段と低いこの声は。頭を起して眼を見開いた状態の後、声の主の顔を見上げた。体育館のライトの逆光になって、影が顔を覆いつくしている。その顔と、この場所の後方に綺麗なコントラストをなしていた。――三上くんだ……
「おい、明美、ゲーム観たか?」
「うん……観てたよ。凄いプレイだったね」
明美の消沈した様子に異変を悟ったのか、三上くんは以前にも増して優しげな表情を向けた。その顔が明美に向けられたと同時に、奈美子が部員全員に手渡した筈のタオルやドリンクを持っていないことに、明美はようやく気が付いた。
「元気ないな、どうしたんだよ。具合、悪いのか」
そんな風に眉間に皺を寄せてまで言われたことで、明美はもう、充分だった。いつもならつり上がっている眉毛が、しゅんと垂れ下がってしまっているように見えた。
「そんなことないよ、ねえ、奈美子から何か貰った?」
手渡されて居ないことにはとっくに知っていたけれど、もしかしたらフロア上に置きっ放しにしている可能性もあるからだ。明美がそう尋ねた瞬間、三上くんは困ったような顔をして、左手で髪の頭皮を小刻みするようにわしわし掻いた。
「何も貰ってない。あの子、苦手なんだよ。何つーか……思い出したくないことが、あの子から無理やり引きずり出されてるような感じ。あのはっちゃけぶり、おれにはついていけないぜ」
「思い出したくないことって?」
そう問うた途端、三上くんは黙り込んでしまった。立ったまま俯いて、そう――空っぽの眼をしている。その空っぽの眼は掃除されていない硬いフロアに注がれていた。しばらくの間が続いた。明美の問い掛けをはぐらかしたいのか、奈美子の話題に移行していた。
「……まあ、とにかく、嫌いなんだよ。出来れば関わり合いたくねえ。あいつには、近寄って欲しくない」
そう断言した三上くんの非情な言葉に、明美は眼を合わせたまま複雑な思いに身を寄せていた。まるで初めて大好きな友達に流行ものの雑誌を見せようとしていたら、実はその友達も同じものを買っていて、そのすれ違いのさまに呆然としてしまい、せっかくのサプライズを蔑ろにされ嘲笑われたような、そんな違和感を持った。偶然にしても出来が良過ぎで、彼女はその空間から瞬く間に黒い淵へ投げ出されてしまうのか、どうか。裏付けられた根拠に理由はあるのか否か、的確な判断すら思い通りに操れない。結局はうらむやにされざるを得ないような、もどかしさを感じた。きっと三上くんはほんとうに奈美子を毛嫌いしていて、奈美子は彼にどうしようもなく恋焦がれているのだろう。馬鹿みたいに大それたものまで手筈して、そんな奈美子に感付かない訳がない。一目惚れの達人とまで呼ばれている彼女の思いに、浅かろうが深かろうが関係のないことなのだ。その過程にすら遠く置いて行かれ、いままで彼らと境遇して来たことに、明美はどうしようもなく、内省した。
三上くんが明美の手前に置かれた空のペットボトルを持ち上げると、眼を如何わしく細めてフロアの上に何度も何度もゆるく叩き付けた。空になったそれは、中身の入ったものと異なって何とも間抜けな音を鳴らしている。部員達はそそくさと体育館を後にし、残っていたのは増田くんと奈美子だけであった。増田くんは何度もアウトサイドのシュートを練習していたが、がっとリングから跳ね返されるばかりで、時折ちくしょうという声が聞こえた。増田くんは三上くんのどこからでも打てるシュートが大層気に食わないらしい。30本は打ったのだろうか。1つシュートが入ったと思うと、よっしゃあ!と一人相撲に喚声を上げた。どんなに広くその声が響き渡ろうとも、誰も持て囃すような気配すら感じられて居なかった。体育館の壁に背もたれしている奈美子をおそるおそる注視すると、手持ち無沙汰なのか、それともただ両腕を無気力に放り出しているだけなのか、区別の付かない落ち着きのない状態で居た。増田くんのボールの音だけがフロア全体に立体感のある音を鳴らしていた。私達3人だけが、増田くんとの距離を分け隔てている。
「あのさあ、明美」
三上くんのペットボトルを叩き付ける行為が中断され、ボトルを正しく垂直に立てた。その様子がおかしく、明美は含み笑いをした。
「何だよ、何がおかしいんだ」
「ううん、何だか声掛けられた瞬間にタイミングよくボトル置かれたから、少しおかしかったの」
三上くんもそうだったか、と言いたげな表情をして、フロアに右手をついてあぐらを掻いた。三上くんの履いているバッシュはアシックスというブランドであり、白く素朴なものだった。三上くんは言おうか言わまいか思い迷っているのか、しばらく間を置いた。
「明美さ、神奈川には行けないの?」
訊かれたくない問いだった。
「行きたいのは山々だけど、午後にかけて少なくとも15時までは、進路相談があるの」
「……そうか」
彼は目線を逸らして壁の下側に位置する窓ガラスを見た。空っぽの眼はその存在を消したのか、安におぼろげな淋しさを直視していた。窓ガラスに乾くような日照りが見えたのか、その日照りから眼を外した。そして再び明美を見据えた。
「じゃあそれ終わったら来いよ。終盤しか観れないだろうけど。おれが先生に頼み込んでやるからさ、部費は余ってる筈だぜ」
「そんなこと出来るの?」
明美は顔を強張らせて、緊張気味に言う。すると三上くんの顔は、もちろん、と語っていた。
「お金は必ず返させて、プライドなくなっちゃうから」
「当然だろ」
三上くんはそう淡い笑顔を見せて、1人シュート練習をしている増田くんに喚きにも似た声で叫んだ。
「おい増田!おれに対抗心燃やしてどーすんだよ」
「うるせえな、おまえにだけ華持たせてたまるかってんだ。例えチームメイトであってもな」
「でかい口叩いといて、アウトサイドが全然入ってねえじゃん。おれに勝つ気なら下手糞なシュートよりフットワークの練習した方がよっぽどいいと思うぜ」
「そんなの……散々部活で練習したろ、血反吐出る位だったぜ、思い出したくもねえ」
増田くんはアウトサイドのシュートを外すと、そのまま無様にバウンドしたボールが彼の胸に当たった。そしていままでの練習を反芻したのか、今にも反吐が出そうな空ろな表情で居る。三上くんはこれ以上出せないんじゃないかと言う程に笑い声を上げ、増田くんをじっと、見上げた。彼は三上くんに目配せをし、この際見下してしまえと言わんばかりに睥睨した。
「おまえやっぱ、インサイド以外は入らねえよ!」
いままで壁際に突っ立って居た奈美子が、色素の薄い――(まるで気力を失った鬱病患者みたいだ)瞳をして私達の方へ向かって来た。希薄なその瞳は、宙をさ迷う哀れな蝶の様である。
「三上くん、明美がいいの?」
奈美子は今にも涕泣しそうに顔をゆがめて、唇の隙間をほんの僅かばかり開けて震わせていた。立ち尽くす奈美子を、三上くんは冷凍食品を一瞬にしてフリーズドライするような、冷たい眼差しで見上げた。言い換えれば見下している、のかも知れない。
「そうだよ。いずれにしろ、アンタにおれのことが判る訳ない」
明美に奈美子の気持ちは少しばかり判るような気はした。蔑ろにされたような目付きをされて、誰が平然と居られると言うのか。しかし三上くんの内心に渦巻いているものは、明美にはずっと、バスに揺られ乗り物酔いをしたように感付くことはあった。それはとても、うやむやで、あやふやで、頷くことはできないけれど。
「何を判って欲しい?明美より私の方がずっと理解できるよ」
「何だそれ、判って欲しい?何て訊くことからして卑怯だ。アンタに惹かれる部分は何一つないし、おれにとって重要なものも何も、アンタに理解出来る筈がない」
「明美なら判るって言いたいの?」
奈美子の表情はみるみる青ざめて、眉までをもぎこちなく震えさせ、怯えていた。しかし、もはや振り切ってしまおうと断固したのか、徐々に傲慢な態度にへと変貌して行った。苛立ちさえ感じられ、奈美子に周りを見る様子等全くなく、感情は脇目も振らず一目散に走り抜けて行った。見ている側が、ここから逃げ出してしまいたくなるような、異常な情景だった。――奈美子、言っちゃ駄目だよ。言ったら、おしまいだよ。言ってしまったら、三上くんは自分を投影して、真っ暗な谷底へ一気に突き落される。明美はそんな一連の言葉達が頭の中を一秒単位ですり抜けて行くのが判った。
「……奈美子、言っちゃ駄目だよ。絶対に、駄目だよ」
だけど、自分は本来何を言いたいのだろう。強い口調で言ったものの、自分にもそれはよく判らないのだ。奈美子は歯を食いしばり、一頻り、乾いた声で喚いた。
「明美は黙ってて!」
「そんな言い草はねえだろ!」
三上くんの罵声にも似た一声が、奈美子の感情を更に逆撫でさせていた。それは奈美子の表情に、ぞっとする程真っ白な狂気が読み取れたからだ。無理もなかった。こんな風に自分を抑圧され、ほんの僅かに存在していた筈の奈美子の理性は毫もなかった。三上くんへそれを伝えることは、痛ましい程に残酷なんだ。私にはその侘しい色は微々たるものしか判らない。だから奈美子、絶対に言わないで、どうか抑えて、絶対に、絶対に――
「三上くん、あなたが好きなのよ、判ってよ!」
「奈美子!」
明美はついに叫ばざるを得なかった。
「これ以上、何も口走らないでやって!」
もっと前に奈美子を引きずり戻して無理やりにでも留めてやればよかった。奈美子は明美を睨み付けて体育館の出口へ逃げるように走り去って行くと、力いっぱいに引き戸を閉めフロアに広がる嘆きにも似た音を鳴り響かせた。直線的な鋭い光を保たせたまま、ひそかな薫風の香りが柔らかな痛みと共に明美の鼻の奥をついた。増田くんがボールを手にしたまま、一体何の騒ぎだという形相をしている。明美は三上くんに眼を配ることはなかった。それでも彼は今、空っぽの空気を漂わせ、空っぽの眼をフロアに向けているように思えた。蒸し暑い温度に身を預けたまま、脆くも鉄で出来た戸口の青い錆が、群青色の沈黙と共に、泣いて居た。

            「奈美子」

奈美子を追うことはせず、三上くんは一緒に帰ろうぜと言ってくれたが、明美はその気にすらなれなかったので1人家路に向かうことにした。勉強があるから、と言い残して。近所であるにも関わらず、だ。明美は握り締めた拳を指1つ1つゆっくり開くと、明美の手の平にじっとりと、粘り付くような汗が滲んで居た。前髪を振り払うと額が露わになり、生え際から塩気を含んだ水滴が次々と落ちて来る。顎の方まで滴り、ついには鼻の下に入り込もうとするそれを明美は鬱陶しそうに人差し指で拭った。夏の解放された空気の匂いは好きではあったが、部活の観戦から帰宅する時の暑さも、体育館に向かう途中の暑さにも、もう散々だった。うんざりしている。35度を上回り更に加速していく炎天下の中で、奈美子のあの発言が幾度と反芻され、それに伴って安易とは言い難い精神的な疲労が明美を大きく支配していた。ちょうど通りである、でこぼこに並ぶ住宅街すら魔の国境にすら観えて来てしまって、明美にいかつい視線を送っている。――脱北者だ。私は北朝鮮から韓国へ亡命しなければならない。辛い山道を乗り越え身体に傷を負いながらも絶望に浸る気持ちを棄てなければならない。さあ、今まさに心算を企て新たな新地へ難民とあろうと乗りこむのだ!……薄ら寒気がする。脇目を向くと、壁の真っ白なばかでかい新築の一軒家や、所々古びて擦り付けたような黒っぽい汚れはあるが、まるでシュークリームの中にたっぷり詰め込まれたカスタードの色をしている賃貸アパートがやたらと眼に付く。おまけに洪水を防ぐ為に石垣で囲ってある贅沢なお屋敷まで健在だ。こんな土地の高い地域に水嵩が増してくるものか。この軟弱者め。一点も曇りのないセレストブルーをした広々と続くこの空は、何事にも言い難い複雑な気持ちを助長させて居るだけであった。左手に所在している公園に見向きもしない。幼稚園児にも満たない年齢の子が、母親を引き連れてただ騒々しい笑い声を上げているだけだ。なあにがブランコだ、ジャングルジムだ。明美には単なる、凶暴な番犬が正気を失い気が狂ったような喧騒な鳴き声にしか聞こえない。豪勢な新築住宅も緑色の網で囲まれたダンボール箱みたいな公園も、セレストブルーの青空もどうでも良かった。……なあにがブランコだ、ジャングルジムだ。猛犬を野放しにしているだけじゃないか。まったく、くだらない。
明美は先刻からずっと何度も何度も奈美子の行動を推考して居た。――奈美子は今ごろ、どうしているのだろう。何故あんなことを口走ってしまったのだろう。三上くんの空っぽの眼に気付いていた筈でしょう。あの何も凝視していない、何も見てはいないあの空っぽの眼を。……もしかして、気付いてすらいなかったのか?だからこそ感情を剥き出しにし重苦しい心を明け放ったのか。そうなのかも知れない。ぐっと胸が締め付けられ伝えずには居られなかったのだろう。そんな胸中を吐露したことについて明美には何となく会得出来た。なぜなら三上くんからの電話や話す仕草には、彼女と同じ気持ちを感じて居たからだ。それを判らないという厄介者の考えの持ち主の方が、とんでもなく鈍感だということになる。しかし奈美子にとって、明美の存在がその厄介者以外の何物でもないのに間違いはなかった。明美の頭の中は灰色に混じった濃く深い緑のぼんやりとした色をしていた。これは静寂に紛れ込んだ物悲しい色だ。遣り切れなかった。そんな奈美子の怯えた眼を、まさにあの空っぽの眼で見下した三上くんは、彼女へ凍て付くような救いようもない文句を言い放ったのだ。あんな非道な言葉を告白したのには、理由があるのはたしかだった。邪険に扱ったのには、必ず理由がある。きっと、ある筈なんだ。だけどどうしても許しがたい発言にあることには違いなかった。
「ちょ、ちょっと」
はっとして身を翻した。あまりの驚きにセーラー服の青いリボンがそよ風で吹かれ浮き上がるかのようになり、身体から放たれた。明美は不審者を見る目付きで用心深くその顔を注視した。嗄れた声の持ち主は、増田くんであった。
「急に声掛けないでよ、ストーカーかと思ったじゃない」
「悪い悪い、別に脅かすつもりはなかったんだ。声掛けるタイミング掴めなくってよ」
増田くんは両手を合わせて神社にお参りでもするような格好で謝った。素早く用件を言おうとしているところが、あまり反省しているとは見えなく、同じやんちゃな性格でも三上くんとは違って居た。
「ほんとうは三上の話何か振りたくねえんだけど」
なに?と明美は言い、増田くんが自ら三上くんの話題を持って来ることに意外性を持った。少なくとも春から夏にかけて部活を観た限りでは、彼は一度たりとも三上くんに話を振るような感じはなかったからだ。毛嫌いしてるんじゃないの?それともライバル心燃やしているだけだったり?
「あいつ、おかしい」
「何が」
「……アンタには格好つけてるだけだよ」
答えになって居ない。しかしそれ以上に増田くんの言葉が明美の心を惑わせた。何か感付かれてはいけないような、後ろめたさがあった。空っぽの眼、バスケへの異常な執着心、それらを知っているのは私だけだと思っていたが、果たしてそうではないのか……?
「今日部活行くとき見たんだ。あいつネクターが好きでさ、校庭にその空き缶捨てられてんの見たんだよ」
増田くんは明美の言葉を封じて次の言葉を発そうとして居た。
「以前もそうだったんだ、あれは三上の仕業だよ」
「どういうこと」
「屋根壊した奴も、そうだ。断言できるぜ。おれはずっとああいうことがあってから、三上が嫌いなんだ。どうかしてるぜあいつ」
そんな風に結論を先走るように言われると、明美の頭は一気に混乱した。と、すると、ミミズの入った空き缶も、屋根を壊したのも、全部全部三上くんのせいだったということ?明美は増田くんを差し置いて、三上くんと親しくなる前のこと、つまりお中元と見なしてマリッジリングを持ってきたことについて反芻して居た。指輪、左頬に出来た傷、淋しげな表情、空っぽの眼、ネクター、奈美子に冷たくあしらったこと。何故いきなり指輪を持ってきたのか。何故頬に傷が出来ていたのか。何故淋しげな表情をしていたのか。何故空っぽの眼をしていたのか。何故ネクターが好きなのか。ともかく何故奈美子に対してあれ程までも冷たくあしらったのか――そうか、あれは、そういうことだったのか……明美は自分の記憶をこと細かく辿って行く内に全ての理由が明らかになって行くのに気付いた。しかし納得の行かない不可解なものもあった。納得の行くものが判り始めて居たことで、不思議と三上くんに対する苛立つ気持ちはなかった。
「……うん、どうかしてる三上くん。だけど判ったよ、どうしてああいう行動に走ったのか」
「何が判ったの?教えてくれよ」
「増田くんに言っても、判らないと思う。だって三上くんの空っぽの眼には気付いてないでしょう?」
増田くんは明美が何を言っているのか理解出来ないらしい。無理もないのだ。京子―明美―三上くんの繋がりが彼には判らないのだから。だけど、京子と三上くんは何か一本の相反する線で繋がれたものがあっただろうか。
「空っぽの眼?何だそりゃ、そんな比喩的なこと判んねえよ」
「うん、いいの。じゃあ、ありがとう。教えてくれて、助かった」
明美は増田くんに笑みを浮かばせて、その場から立ち去った。彼は呆けたような顔をしてずっとこちらを観ている気がしたが、そんなことはどうでもよかった。どうでもよかったんだ。そう、京子と三上くんにはたしかに繋がりがあるからこそ、三上くんは空っぽの眼をして、京子も好きであったネクターを持って居たんだ。彼はあの時、左手にネクターを握り締めて淋しげな表情をして居た。そして奈美子に対して冷たくあしらったのは、奈美子が京子の性格に似ていたからだ……しかし――どうして? それが、判らなかった。明美には、指輪と京子の繋がりが理解出来なかった。京子に対する嫌悪感を持つ程の心奥で錯乱してしまって居るのは確かである。でも、どうして?
ここ最近ずっと、夏真っ只中というのに生温かい雨すらもまともに降り注いで居ない。雨の中に佇む一点の星すらも見せて居ないような気がする。どんなに晴れて居てもそれを観望することが出来ないのは、明美の中でただ1つの空間に漂わせた静寂を密かに守って居るからだ。妙に雲のないセレストブルーの空を観ていると、明美の立つ位置がいつの間にかおぼろげになって居たことに、ようやく気が付いた。そして実際存在する筈のものが、全然実在して居ない気がした。明美は道の一点を凝視した。ずっと、そうだったんだけれども。

明美は軋む床を1つ1つ確かめながら家の廊下を歩いていた。俯いては居ない、眼は廊下の向こう側にある茶の間に一点を見据えたまま、歩いている。明美はしばらくそうして居ると、30インチのテレビから野球中継のアナウンサーの声がけたたましく聞こえて来た。大音量のそれは明美の思考を余計ややこしくさせて居た。お父さんが帰って来て居るのだ。どうして、午後の2時に何て時間に帰宅して来るのだ? 早番か?
「おお、明美おかえり」
茶の間のテーブルに肘を置いて、あぐらを掻いている。振り返って言われたことに、明美はイラッとした。
「ただいま。何でお父さん居るの」
「そんな冷たい言い方ないだろう、早番何だよ、今日は」
「ああ、そう」
父は帰宅するといつも野球中継を嬉々として観ている。別に野球場に脚を運んでいる訳でもないのに、本気になって観戦してるつもりで居る。時折握り拳を入れてまで、おおーだの、何だってこのピッチャーは使えないなあだの、叫声にも似た声を幾度となく上げる。明美はそんな父を横目で睨み付けながら(悪い癖だ、直さないと)自分の部屋へ入ろうとした。
「ちょっと待て明美、この間の中間考査が返って来たんだろう」
これは見せなさい、と言う合図だ。明美は素早く自分の部屋へ入ると中間考査のぶ厚い用紙を父に見せた。7月中旬に行われた考査は8科目と多かったが、受験には関係のない科目もいくつか存在して居る。明美は自信があった。飲まず食わずとは行かないが、それなりに1日1日勉強して来たつもりだ。国語91点・数学84点・歴史85点・公民90点・理科80点・英語86点・保体65点・技術52点。受験では歴史、公民は1つにまとめて科目は社会となる。一通りその白い用紙を観察して居ると、父は訝しげにこちらを見た。
「受験科目は5つだ。それ以外の点数は悪いな、どうしたんだ」
「だって受験に関係ないもの、手抜きしたの」
「いくら関係ないからって、手抜きはいかんだろう、これからはちゃんと勉強しなさい」
明美ははあい、と空返事をしながら自分の部屋へ戻って行った。どうせ受験間近になれば5科目のテストしかないのに、他の科目が悪くても偏差値に影響がある訳でもないのに、どうして父はああ言うのだろう。本気で取り組んで居ない筈がない。柏木高校の偏差値は60だったが、明美の偏差値は56とまずまずの成績を残して居るのだ。それで何がいけないの、明美はそう思いながら父の造った机に眼を遣った。高く積み上げられた手紙の中に、京子の手紙はない。母親があの時不安を感じてどこかに隠したのだろう。明美も京子のことを考えるとどうにも胸が締め付けられて来るので、出来るだけ思い巡らさないで居ようとした。しかし三上くんの謎が解けて来る度に、明美は京子のことを考えずには居られなかったのだ。頭にこびり付いたまま、服に付いた絵の具の染みが取れないように、離れないのだ。京子はいつまで私を縛り付ければ気が済むんだろう。もはやこの世に居ない京子にまで腹が立って居る訳ではなく、三上くんの空っぽの眼や淋しげな表情を早く解いてあげたかったのだ。明美は脳裏から京子のことを一時的にシャットダウンした。部屋から出て茶の間にある古臭い電話がある方へ向かって行った。この電話は明らかに昭和から平成初期にかけて造られた電話である。その黒電話はダイヤルを回して使用する、どうにも面倒臭いものだ。明美は受話器を耳に当て、先方の出る側を予測しながら待って居た。すると数秒経ってもしもし、どなたですか、と言う暗い声が響いた。
「私、明美。奈美子、何してる」
ああ、やっちまった。奈美子が沈鬱な気持ちで居ることは判ってた筈なのに、ずっと京子や三上くんのことばかり推考して居たせいですっかり忘れ掛けて居たのである。奈美子は明美にはそう言われたくないと思っている筈であり、その通り奈美子は電話を切ってしまった。ああ、違うの違うの。違うんだってば!明美はもう一度奈美子へ電話を掛けた。
「奈美子、酷く落ち込んでるのは判る。だから一度外に出て話を聴いて」
電話の向こうの静かな雑音が聞こえて来るだけで、奈美子の声は響いて来なかった。
「……奈美子の話は聴く。公園で待ってるから」
明美は手短にそう言い残して、来るか来ないかすらも判らない奈美子を待つ為に急いで軋む廊下を走り去った。ドアの閉まる音が勢いよく鳴り響いたせいで父親の声が聞こえたような気はしたが、今はそれどころではなかった。汗の染み付いた薄汚れた制服を着たまま、再びあの暑苦しい空気に包まれ公園へと向かう道を走った。明美にしては短距離走は実に得意な方であったが、長距離走は一歩引いて苦手である。1km走行するだけでも、すぐ息切れてしまう。喉の奥から掠れた息を吐き出し、すうっと上を向いて深呼吸すると、錆び付いたベンチに座った。この足はまだ補強されてない。クレームでも入れてやろうか、明美はそう思いながら、奈美子の来る時をじっと待っていた。――それにしても、暑かった。この熱帯地方に居るような暑さの中で、太陽が見下すように眩しい光を明美に轟かして居る。明美は制服を手で団扇のようにはためかせた。両手をベンチに着くと、指と指の間に汗が滲んで来るのが窺えた。なめこのようにぬめぬめとした汗が、明美に緊張をもたらして居る。奈美子が、来るかも判らないのに。
「……明美」
奈美子が苛立つ眼で明美を見据えているのが判った。思いもよらず奈美子の来る時が早かった。明美は息を呑み、真正面に突っ立って居る彼女を覚悟して見た。
「奈美子……」
「ほんとうはアンタの顔なんて見たくないのよ」
そう言って、明美の横に極僅かの間隔を空けて座った。奈美子もまた、明美と同じく両手を着いた。歯を食い縛っているかのように見えた奈美子の姿は、お互いの間に見えない緊張を走らせて居る。
「それで、何の用」
冷酷な眼差しであることには違いなかった。奈美子はずっと俯いたままで居るのでその表情は窺えないのだ。しかし三上くんから冷淡にあしらわれたこと、明美に対する嫉妬、それがこんな声を出す羽目になったのには違いない。私が悪い訳ではない。それは理解出来て居る筈なのに、居たたまれない気持ちになるのは奈美子がこうして、私に憎悪にも似た嫉妬を向けているからだ。
「三上くんは、決して奈美子のことが嫌いな訳じゃないよ」
「何よそれ、私に対する当て付け?私を貶めたいの、2人して」
「そうじゃない!奈美子は京子に似ているから、三上くんは何故だか知らないけれど、それで奈美子に嫌悪感を持ってるの」
京子という名前を出したことに、明美は少し怖気付いた。何故なら奈美子は京子を知らないからだ。嫌悪感、と言う言葉に反応したのか、奈美子の口調がますます鋭くなった。
「京子って誰よ、それに嫌悪感って何。他に言い方ってもんがあるでしょうよ……」
奈美子はまた涕涙しそうになって居る。涕涙しそうな表情の裏に、明美に対して嫉妬をしている陰が見える。嫌悪感という言葉の他に、何も思い付かなかったのだ。仕方がなかったのだ……しかしもっと他に選ぶべき言葉が合ったのは、たしかであった。
「ごめん。京子は私の親友だったの」
「だった?」
「1年前に死んだの、事故で」
京子の名前を出来れば出したくはなかったが、奈美子の心を解す為にも、この際名前を出してしまう他にない。奈美子は嫉妬心混じりの気持ちではある筈だったが、死んだ、という言葉を耳にし、唖然とした表情で居る。それが奈美子の心に張り付いたのか、明美の顔を窺うように膝に手を着いて黙って聴いて居た。
「きっと京子が三上くんに嫌な思い出を作ってしまって、三上くんはそのせいで心を閉ざしているの。だから京子に似てる奈美子の存在が現れたことで、その嫌な思い出をまた思い出す羽目になってしまった。だからあんなにも淋しげな顔をしているの、私はそれを助けてあげたいの、救ってあげたいの、せめて解してあげること位は……してあげたい。だから奈美子は何も悪くないの、私に対して嫉妬してるのも、判る。けれどそれで私が奈美子を貶める訳ないでしょ、奈美子は私にとって大切な存在なの。判るでしょう」
流れ出る滝の浄水のように一気に明美は打ち明けた。これが精一杯だった。奈美子に対して伝える言葉はもう、出し尽くしてしまった。何もこれ以上、言うことはなかった。これが、全てだったからだ。明美は京子の名前を一体幾つ出したのだろう。もう、思い出したくない程に流れるように出し尽くした気がする。奈美子の心境は一体どんな色をしているのだろう。冷徹にも似たあのどんよりとした群青色ではないことを願う。そして京子は死ぬ間際に、どんなことを目論んでいたと言うのだろう。三上くんの渡したマリッジリングの意味には何が込められて居たのだろう。そんな風に思い巡らして行くと、途端に明美の眼からは滴る水滴のように涙が零れ始めて居た。泣くのは決して私じゃない。奈美子が泣きたい位な筈だ。奈美子は私に憎しみを持っているのだから。留まることを知らず溢れ出る涙を無理やり手で拭った。
「泣かないでよ、もう、いいよ……京子さんの存在が明美にとって、きっととてつもなく大きいんだね、判るから、泣かないで」
明美は頷くと、奈美子がこの誤解にも似たしがらみを理解してくれたことに対して再び感極まってしまった。奈美子は、判ってくれたんだ。私のしがらみを、解いてくれたんだ。そしてまた、痛みで胸が刺さるような窮屈さすらも、奈美子は僅かながらでも許してくれたんだ。明美のとめどなく溢れ出る涙に気付いて、奈美子はアナスイのハンカチ(小奇麗にしてある。私なら家に放ったらかして翌日もまたそれを使うと言うのに)を手渡してくれた。しばらく経って、ベンチに肘を着いたまま奈美子までもが泣き出した。明美とは異なる怒号のような哀咽を上げ、咽び泣いた。公園に居る小学生が、そんな私達を凝視しながらキャッチボールをしながら遊んで居る。
「あーあ……三上くんに嫌悪感持たれてただなんて、あんな冷たい振り方しないでくれたっていいじゃないよお……」
奈美子は明美に代わって、自分の心の内を惜しげもなく曝け出した。
「どうして明美がいいのよ……私だって、明美に勝つこと位出来るわよ……」
あまりに悲痛にも似た言葉を発したので、思わず明美らしくもないセリフを言ってしまった。
「そうだよ。三上くんの淋しさは奈美子だって、少なからず解ける筈なんだよ。たしかに嫌味ったらしい皮肉は言うけれど、私より奈美子は明るくて可愛いんだもの……」
「何なのよ、それ……」
2人して嗚咽を上げながら泣いた。太陽の見下すような視線すら何とも輝かしい光栄なトロフィーに見えた。むさ苦しい暑い陽差しと一緒に流れる生温かい微風ですら、この先を導いてくれる天使のようにも思えた。
「せめて明美は三上くんを解いてあげて、でも明美は1人で抱え込み過ぎる所があるじゃないのよ……」
そう情緒豊かな言葉を、奈美子は咽び泣きながら口にした。
「そうでもないよ。だから、三上くんは私に任せて」
一息付いて、明美は言った。大それた自信は、なかった。それでも口先だけでも、言う他なかった。
「三上くんの淋しさには、理由があるから、大丈夫」
奈美子は明美の微々たる自信を感じ取ったのか、よく判らないと言う顔をして次の言葉を吐き出した。
「そう……凄く悔しいわよ……まだ私の心なんかちっとも癒されてもない、それでもまだ、三上くんが好きなのよ」
もう、今はそう口にすることすらしたくない筈だ。呆然とし、心の内のどんよりとした重い鉛を抱えて居る筈だ。心臓の鼓動と共に耳を澄ます感覚だけが、奈美子の中にはある筈だった。しかし、今はその感情を外に外に追い遣ることしか方法はなく、叫声にも似た憎たらしい笑い声を上げ、2人で咽び泣いた。それは微かに解放された空気に包まれ、きらきらとした光景であるには違いなかった。そして、あまりにタイミング悪く用意された重過ぎる日常の中で、もはやうんざりする余裕もなかった。
「……大切な存在、私も、明美に返す」
「何とも、嬉しいお言葉ありがとう」
この時点で、明美と奈美子の距離は只ならぬ程に近付いて居たことに気付いた。纏わり付く暑さの太陽のもとで、そう感じられた。何にも増して明美の心には壮大な開放感があった。私は淡い黄色の色を持って、解放されたのだ――1つ、解放されたのだ。鮮やかに照り出したただ真っ白な光に、包まれながら。

           「手紙」
「あら明美、おかえり」
帰宅したのは16時であった。夕飯の支度に忙しいのか台所で大きな黄緑色の球体をざく、ざくと切り刻んでいる。出刃包丁の切れ味が悪いのか、思うように切れない。そのキャベツの上に、出刃包丁の両端に両手を置いて、上に下に交互に刻んでいる。まな板がステンレス板から落ちそうになる度に、母親はいちいち戻して再び刻む。その光景がとても滑稽だった。まな板の上に雑然と並べられて居るのは、青緑色の先が尖った細長い艶の良いものと、パックに入れられた薄い桃色(所々白い筋がある)の角張ったものである。今日は野菜とベーコンを入れた卵とじであった。明美はその夕食を楽しみにしながら、父親と共に卓袱台の上に両手を着いて、つまらない野球中継を観ていた。私は、バスケットが好きなのに。
「そういえば、明美」
母親が台所の隙間から顔を覗かせ、明美を呼び掛けた。
「三ヶ月位前だったかな、京子さんから来た手紙を、隠してごめんね」
母親はそう言って、罰が悪そうに眉を弱々しく吊り下げた。
「受験間近にアンタが滅入っちゃ困るし、部屋の引き出しに置いてあるから、だけど…気を確かに持って読みなさい」
その憐れみにも似た口調は、明美の身体を硬直させ、そして何より彼女の心を小刻みに震わせて居た。臆病な心意から込み上げたものではなく、母親が唐突にそう切り出したことに、明美は意外性と駭然とした気持ちを感受したからだ。三日間放置したままのぼやけた味のフィリピンバナナでもなく、味わいのはっきりとした中にも、鋭い苦味を加えた中長苦瓜にも似た所懐を持ったからだ。娘の為に迷いながらもずっと考慮して居てくれたことが、明美にとって鳴謝せざるを得ない程悦ばしいことであったのだ。母親はきっと、何とも切り出し難いこの手紙を、どうして良いか判らずさぞかし困惑して居ただろう。しかし三ヶ月も放ったらかして置いて、私の所思を汲み取ってくれなかった点については、どうにも憤慨せずに居られなかった。奈美子の言葉に含まれた、あの深い感情を無駄にしてはいけない。どこに置いたら良いのかすら判らない、取り留めのないあの純粋な感情を。母親は、京子からの手紙を拝むことによって、明美がもしショックを受けて寝込んでしまわないだろうか、と臆して居るのか、台所の隙間から明美に疑懼した眼を覗かせて居た。それでも料理の手を休めることなく、フライパンに先程刻んだであろう野菜を入れると油の飛び散る音が聞こえて来た。油が飛び散っても小さな悲鳴を上げることもなく、野菜が焦げ付かないように頻繁に菜箸を動かして居た。明美を産んだ頃から数十年、近場のコンビニでパートをしながらこなし続ける家事は、もはや母親にとっては義務のようなものだろう。明美は今まで、それが当り前だと思って生きて来たのだ。以前小学生の時に、母親も父親も遠出をして(小学生の私を放ったらかすとは一体何事だ。夫婦水入らずってか、はっ)留守番を頼まれた際に、何日か家事をしたことがある。洗濯、晴れた日には布団干し、部屋中の掃除、食事の買出し、これら全てを小学生の私に一言メモを置いて(3日間お母さん達遠出するから後宜しくね)やれと言うのだ。洗濯の仕方等、到底私には知り得なかったし、3人分の布団は小さな身体で持ち上げるのは無理がある。そして料理の買出しと言われても、何から購入したら良いのか混乱するのだ。それでも私は3日間遣り遂げたつもりで居た。案の定母親は帰宅したと同時に、洗剤の量多過ぎるわよ!だの、自分の好きなものばかり買ってどうすんのよ!等と私には理不尽にも思える罵声を飛ばしたのだ。子供心にも悔しく、母親の前で散々喚き散らして当分部屋に篭りっきりで居た。今の私ならば、多少の炊事洗濯は出来るのだろう。しかし幼心にも家事の異常な大変さには気付いて居た。今はそんな若かりし頃の母親の面影は見る影もなかった。多分私のあの頃の失態を見て自重したのか、今の私になせるであろう米の研ぎ方を指導してくれたりもした。明美は野球中継から眼を離し、身体を反って母親を見遣った。母親はフライパンから器に盛り付けて居る所で、ベーコンと野菜の入り混じった何とも言い難い良い匂いが漂った。
「お母さん、手紙読んでから食べるね」
母親は何も言わず、ただただ疑懼した眼を明美に向けて居るだけである。料理を作りながらも、明美がいよいよ京子の手紙を見ることに対して怯えを見せて居る。明美は三上くんのこともあり、何ともおぞましい程の気配を身体に感じて居た。京子が死んでから、あんな手紙をいつ明美に受け渡そうとしたのか、未だに理由が明かされて居ないからだ。明美は自分の部屋に戻り、母親の不安げな顔を背中に感じながら、机の一番上の引き出しを引いた。茶封筒に筆ペンで書かれたであろう達筆な文字。何とも、京子らしい。明美は肩に力を入れて、ペンケースの脇に置かれたハサミを手に取った。利き手である筈の右手が震えて思うように封を切れない。しかし、震える手を振り切って一気に封を横一直線に切った。すると何かいけないことをしたような気持ちになった。ほんとうは開けてならないんじゃないのか。ほんとうは見るべきではないんじゃないのか。途端に明美に戦慄が走った。秘密を覗かせた沈黙が、明美の心を威嚇して居た。それを押し切ってそっと封の中を開けると、3通にも渡る便箋が丁寧に折り込まれ、静かにその姿を覗かせて居た。その便箋は、鋭利な刃物で脅しを企てるように、鋭い視線を明美に対し注いで居るような感じすらした。母親は一体、何を渋って居たのか。その理由が全て注ぎ込まれて居る筈なのに、いざ封を開けると、奇妙な夢を見たような感覚に陥った。部屋の電気を点けて拝むべきなのだろうか。真っ白な電球を便箋に照らし合わせ、明る過ぎる部屋の中で拝見して、この怖気を断つべきなのか。いや、そうではいけない。そうであってはならない。そんな思考で埋め尽くされるように明美の心を支配した。明美は薄っぺらい白い便箋を一枚手に取ると、黒い筆ペンで書かれた文字を順に追って行った。
「飯田明美様 雪が降り続く毎日ね。お元気ですか?私は残念ながら、元気とは程遠い状況に居るわ。何故ならこんな寒い冬には私の心は凍て付いたままだから。あなたの家庭教師を務めて半年になるのかな。数学が苦手なあなたに、私はどれだけ精一杯教えて来たのか、それをあなたが理解してくれたのか、それすらも判らないまま、私はどうやら堕ちて行くみたい。あなたは時折クールなつもりで居るんだろうけれど、私の眼にはいつも輝かしく映って居たわ。羨ましいぐらいに。心の感性が磨かれて居て、きっともっと綺麗になって行くんだろうね。だけれど、そんなあなたに申し訳ないぐらいの憎しみと嫉妬を持って居たのも事実なの。どうか落ち込まないでね。あなたを貶めるつもりで書いて居る訳ではないの。私が大学でバスケットをして居る時、三上くんというあなたと同じ年頃の子がよくプレイしに来てたのよ。あなたと同じクラスね。話したことはあったかしら? 大学生に囲まれながらプレイする彼の姿は、馬鹿みたいに一生懸命でね、観てるこっちが恥ずかしくなったぐらいだわ。ドリブル1つにも、どういった手段を使えば相手を抜けるか、速攻を出せるぐらいの速さを出せるか、そうやっていつもいつも考えているような顔が窺えたの。だけど流石に大学生の男の子には勝てなくてね、パスをスティールされる度、先輩に向かってちくしょうと吐き出していたのを覚えてる。彼に話し掛けてみても、きっといつだってバスケットのことが頭から離れて居ないのね、素っ気無い態度ばかり取られて居たわ。タオル1つ手渡しても、どうも、としか言わないんだから。失礼しちゃうわよね。明美はどう思う? 私は桃味のネクターが大好きだったから(明美は嫌いだったわよね、ただ甘いだけって)ある時彼にそれを飲んでみてと言ったの。けれど彼は甘ったるいものは嫌いだと、皮肉交じりの笑みを見せて私にそれを突っ返したわ。こういう所も、明美とそっくりね。決してクールではないんだけど、彼はコート上以外では親しい間柄の人としか関わりを持たないみたいね。もしくは、大切な人が出来たなら、それこそ強い繋がりを求めるのだろうけど。だけどそれはまだ先ね、中学2年生だもの。取り組めることに一生懸命時間を費やしてこそ、人格は作られて行くものよ。だって、そうでしょ? 幾ら自分に自信を訴え掛けても、それは虚栄心にしか過ぎないのよ。明美は判って居るだろうけどね、あなたはしっかりした子だから。だけどどうやら、私にはそれが判って居なかったみたい。彼に対する思いに自信を持ち過ぎて、今や自己満足にしか例えられないものになってしまった。彼を見ていると、自制心が失われて困ったことになってしまう。常識の欠けた大人よね、まったく。あなたに歴史の教えをした後(関ヶ原の戦いは何年だったかっていうのを私が問い掛けた頃よ)私は友人と宿泊するビジネスホテルを探して居たの。その友人が、家出をしたからって私を無理に誘い出したのよ、酷いでしょ。彼女は自立してないんだから、ちゃんとした職を見つけるまで家に居たらいいのにね。判らないわ。まあ、そんなことはどうだっていいわよね。それで私はその誘いに付き添われて歩いて居る時、横断歩道の向かいに彼の姿が見えたのに気付いたの。思わず呼び掛けて、彼に私のもとに来るよう言ったわ。彼はいつもの皮肉めいた笑顔を私に見せたわ。とんでもなく舞い上がるような気持ちだったの。だけどそこからして、きっと間違って居たのね。前もって高いお金を払ってまで、マリッジリングを買ったの。おかしいと思うでしょ? 明美。21歳のおばさんが、14歳の男の子に好意を意味する指輪をあげたいだなんて。ましてや婚約指輪よ。馬鹿馬鹿しいにも程があるわ。それは私にも判って居たの。ううん、判って居なかったからこそ、渡したのよ。受け取ってくれた彼に私はもう、天にも昇るような気持ちで居たわ。その時は彼にはその意味すらよく判らなかったみたいね。暫く経って、サークルを終えた時に口走ってしまったの。あなたが好きなのよと。彼は私の好意を受け取ってはくれなかったわ、そりゃそうよね。自ら自滅しに行ったようなものだわ。私はいつからこうなってしまったのか、私自身にもよく判らない。もしかしたら彼がよくあなたのことを口にして居たから、焦って先を越されないようにしたのかも知れないわ。彼はあなたのことを、クールだけど、よく空っぽの眼をちらつかせて居ると言って居たわ。何も見て居ないようなあの空っぽの眼とあなたのそのクールさが彼を惹き付かせて居たのかもね。もう、その頃から部屋中の壁を引っ掻いてぼろぼろにしたわ。爪が剥がれて、流れるように真っ黒な血が出た。爪を剥いでも気が足らなかったのね、爪の失われた指で毎日毎日引っ掻いたわ。元の血色の良い指の色じゃなかった、茶色く黒ずんでまで、家の天井裏を上って屋根を素手で引っ剥がしたわ。重くて手強くて、でも痛みがないのよ。サークルにも参加しなかったわ。大学にも行かなかった。あなたのせいだと思ったわ。憎しみから現れる狂気はそう、あなたのせいよ。彼の心を奪ったあなたが憎い。爪を失った手はもう手遅れよあなたなんか居なければ良かったのに堕ちてしまえば良かったのに。いっそ私の前から姿を消してよ私をこれ以上苦しめないで居なくなれば良いのにああ、痛みなんか微塵もない白く濁った狂気しかない狂気狂気狂気狂気きょうききょうきあなたなんて濁った憎しみ憎しみ憎しみ乾いた感情しかない流れ出るもの知らない知らないしらない空っぽの眼言葉が消え失せて変わるしろいうずきょうききょうききょうきあなたいなくなれきょうきしろいにくしみうずかお」
1枚目の便箋を読み終え、2つ目、3つ目と読み進んで行く内に、京子の文字がどんどん歪んで居るのに気付いた。筆ペンで書かれた文字1つ1つが最初のものとまったく違う。後半はまるで、何らかの痛みを抑圧し、震えた手で感情の思うがままに書き殴ったようだ。封筒に記された宛名は一番始めに書かれたものだろう。もはや平仮名で記された文字は習字の筆で太く書かれたみたいに枠から大きくはみ出して居た。明美はその手紙から眼が離せないで居た。三上くんの抱えた真実が一気に読み取ることが出来たからではない。京子の心に抱えた真実がここに全て書かれて居るからである。明美は便箋を両手に持ちながら、金縛りに合ったようにずっと立ち尽くして居た。明美のせい、と記された文字だけが頭の中で幾度となくリフレインされた。私と奈美子のように分かち合うことは出来なかったのか、せめてその心境を改めて話すことは出来なかったのか、そしてそれまでの明美に対しての京子の態度は何であったと言うのか。明美はこの時、初めて京子に遺恨の念を持った。「もし」と言う単語が反芻され、今度ばかりは京子だけに縛り付けられて居るような感覚がした。死んでまで人に恨まれたくなかった。落ち度があったのは私じゃない。話を持つ機会を持たせてくれなかったのは、京子の方だ。天国でも地獄でもない場所に居て、私を上から見下ろして居るの。そして私をほんとうの地獄の底へ突き落したいの。京子は、京子は、いつまで私を縛り付ければ、気が済むんだろう。ねえ、京子と私は何でも話し合うことの出来た友達でしょう?潤んだ眼の奥で、輝かせた瞳を私に向けて居てくれたでしょう?5科目の問題集まで自分で作って来てくれて、私に何度も世話を焼いてくれて居たでしょう?―― 頭では、判って居た。感情に身を置きながらではいけないのだ、理性でものを考えるのだ。理性を失ったら、私もまた以前の京子のように、狂気で身をくるめられた生きる屍になるだけだ。明美は自身にそう言い聞かせながら、京子に対する遺恨をどうにかして振り払おうとした。この遺恨は慈悲にも僅かに似て居た。しかしそれは、感情の上では到底判り得なかった。明美はその便箋を両手で丸め込み、机に放り投げた。野球選手さながらのなかなかのピッチングだった。綺麗に折り込まれた便箋は、既に折り目等なくしわくちゃになり、無様に転がって居た。それは明美の遺恨を振り払おうと推考した訳ではなく、あくまで見えぬものとして捉え、慨然とした心の有様を用意周到に役目を施しただけである。他の何ものでもない。漠然と何かを考えるでもなく、具体的に事を追う訳でもなく、ただ自失し立ち尽くしたまま、明美は部屋中の本棚やカーテンや使いもしないガラクタに眼を泳がせた。どうすれば、いいの。どうしたらいいの。読まなければ良かった。そして読まずに三上くんから距離を隔ててれば良かった。だけれど、どうしても読まずには居られなかった。読むべきものであったから。
茶の間から鳴り響く電話の音だけが、部屋を通して聞こえてきた。部屋と茶の間の隔たりのせいで、不協和音で成り立つBjorkの「The Anchor Song」にすら聞こえた。明美の頭の中は深い暗闇の樹海の中で混沌として居た。6畳もない部屋がやけに開けた空間に思える。明美はただただこの手紙から身を退け、逃げるように、電話の音だけに集中し、耳を澄ませて居た。  

            「母親」
母親は夕飯を作り終え、茶の間に先刻の野菜とベーコンを入れた卵とじをでかい皿に盛り分けて居る所であった。小皿に盛られて居るのは我が家定番の小松菜のピーナッツ和えである。また卵とじの後に、デミグラスソースのハンバーグを作ったのか、大皿にポテトとにんじんが並べられて居た。決して手抜きをしたような代物ではなかった。明美は寂寞として部屋から出ると、父親の座って居る位置の反対側に体育座りをした。呆けたような顔をして居る明美を母親は畏怖したのか、明美の好きな焼きプリンをテーブルの手前にそっと置いた。
「明美、今日はご馳走よ」
「食べる気しない」
俯いて居る訳でもなく、ただ真正面を見据えたままの明美は、まるで死んだ魚の眼をして居た。母親を見る訳ではない。大音量で鳴る野球中継を観る訳でもない。カーテンの縫い目を見る訳でもない。明美は自覚して居た。ただ魚になって居るのだ。生死を分ける状況にある魚は、漁師に釣り上げられた時点で、死を決断する絶望に面す淵に追い遣られる。遠退く意識に痛みを期待しては居ない。痛みの予感を悟り生を放り出すのだ。生死を思索する哲学者の戯言を、死ぬ間近の魚は聴こうとしない。痛みに対する所以はないからだ。しかし果たしてほんとうに絶望に追い遣られて居たと言うのだろうか?いや、魚は既に匙を投げただけなのだ。明美はまったくその通りの眼をして居た。
「相川さんは、ずっと前から病んで居たのよ」
母親は明美の魚の眼をじっと見つめて言う。父親も明美の様子がおかしいことに気付いたのか、テレビの音量を下げた。一体どうしたんだ、と言う言葉が過ぎったような気がしたが、明美には単なる雑音にしか聞こえて居なかった。母親のしっかりとした口調は、明美を余計に混乱させた。1人置いてきぼりを食らったような感じがした。しかし前からそうだったのだ。プリクラの映りがどうとか話して居る彼らも、その姿は本来のリアリティを欠いてインスタントカメラに押さえたものに過ぎないのだ。誰も彼らが何を思ってその言葉を発したのかは認識しない。裏に潜んだ悪言があるのかも知れない。もしかすれば、そのままの意味として捉えても支障のないものかも知れない。だから京子の手紙に書かれた文面にも、幾分かは裏を掻く要素があるかも判らないのだ。唯一明美に言えたのは、彼らの日常生活の中に、必然として排斥を齎すオーラを漂わせて居るということだけであった。しかし明美には、京子の手紙に裏を掻く要素等何1つとしてないような気がした。感情の赴くままに書かれたそれは、危うい狂気の中ですら確かな正気を持って筆を走らせたと思ったからだ。明美は母親の言うことがよく掴めなかった。正気と思わせる所謂「普通」という環境で、京子の顔はこの上なく血色の良い肌色をし、両手に包帯を巻いて居た時ですら何ら変わりない笑顔を明美に振り撒いて居たからだ。
「以前相川さんの御自宅から、お電話を頂いたのよ。あの子は自分の感情を留めて置くことの出来ない疾患を持って居たと言ったわ」
明美に不憫そうな眼を遣りながら、母親は次の言葉を口にした。明美はそれが耳に入って居るのか否か茫然として居た。
「たしか統合失調症て言うものでね、強く人との関わりを求めると感情があらわになってしまうらしいのよ。その三上くんとやらが引き金になったのね、きっと」
父親が興味深そうに母親の話を聴いて居た。テーブルの上に肘を着き、鼻筋を中指で押して居る。夕食には少し手を付けただけで、まだ残りは沢山あった。大好物の小松菜のピーナッツ和えだけが、皿の中を空にして居る。明美は体育座りをしたまま、それがどうしたんだ、と言うかのように母親を睨み付けた。
「私もあの手紙を読んだ時には恐怖を感じたわよ。私の娘に何て言い方をするんだってね、殴り掛かってやろうとも思ったわ」
珈琲カップに入れられたアップルティーを飲みながら、下を向いて一息着いた。母親はアップルティーが好きであった。そもそも果実の匂いのするものすべてが母親の好物である。ただメロンの匂いのするものだけはいけ好かなかったようだ。
「殺してやろうかとも思ったのよ」
途端に明美の眼は見開かれた。今までずっと魚の眼をして居た明美の顔が、母親の一声で、危険を予知するかのような切迫とした表情になって居た。
「殺しちゃ駄目だよ」
「何よ、勝手に死んじゃったじゃないのよ」
――そうだった。京子はとっくに死んだのだった。明美は母親に言われたことでようやく気付いた。手紙に書かれたのが真実と言えるのならば、それは自殺を計ったということなのだ。いや、直接的に読み取れたのではない。京子の手紙の内容には、死を間近とする匂いが立ち込めて居たのだ。まるで何ヶ月も冷蔵庫に置きっぱなしにした角切りの肉の腐臭がしたようだった。縦長の発泡スチロールにパック詰めされたそれは、パックの隅に追い遣られた血が溜り、生臭い匂いを漂わせる。どう調理しても旨みがでる気配がないのは、京子の手紙の書き始めの文章から当に感じ取れたことだった。明美は母親の、勝手に死んだ、と言う言葉を反芻して居た。事実そうだと納得はして居ても、改めて声に出されると、それは真実味を増してその言葉だけが1つの円の中に閉じ込められたような気がした。自分の中で静かに取って置いた秘密が暴露されそうになり、思わず図星を付かれてしまったのにも似て居た。
「大人気なかったのは私の方ね、明美。あの手紙を貰ったのは相川さんが亡くなる前日だったわ。アンタに見せる訳にはいかないと思ったわよ、言ったでしょう、参っちゃ困るって」
そっと珈琲カップを明美の脇に置くと、アップルティーの甘い匂いが立ち込めた。そしてゆっくりと腰を下ろして正座した。
「でもね、アンタに読ませない訳にもいかなかったのよ。タイミングが掴めなくてね、困ったわ。今は気付かせない方が良いと思って最善を尽くしたつもりだったけど、私はドジやっちゃったのよね」
母親は溜め息をついた。アップルティーを口に含むと咽たのか、喉を押さえ何度か堰をする。相変わらず咽るのが得意だな、と明美はこともなくそんなことが頭に過ぎった。
「母さん、その相川さんから来た手紙はどんな内容だったんだよ、事故で亡くなったのは葬式で呼ばれたから判るけど」
「あなたはちょっと黙ってて」
父親の突拍子もない言葉を押さえて遮ると、全く空気が読めて居ないなと言う表情をして眼を瞑り両手を挙げた。首を少し振ると、茶色く染められたベリーショートの髪の毛が揺れる。明美は腹が立って仕方がなかった。どんな書類であっても、人に見せられない程の大切なものであるならば決して他人には悟られないようにすると思うからであった。母親との物事の捉え方が明らかに異なっていると、ようやく判りつつあった。
「明美、いい、相川さんが亡くなったのは事故じゃないこと、それは判るわね?」
明美は渋々頷いたが、納得はして居なかった。母親もそれに感付いたのかもう一度問い質した。
「彼女は三上くんを呼び出して、まるで彼が彼女を押したかのように見せ掛けて亡くなったの。警察はそこまでは調べてなかったようだけどね、そのせいでますます、彼は相当な傷を受けたと思うわ。彼女は事故で死んだんじゃないのよ、判る」
「どうしてそこまでお母さんが知って居るの」
「訊いたからよ」
すらすらと事務的に話す母親を見て、明美にはその様子がどうにも理解し難かった。手紙には京子が死んだ経緯までは書かれて居ないからだ。まるで京子と母親がタッグを組んで、明美を混乱させようと企んでいるようにしか見えなかった。少なくとも、明美は現時点でそう感じた。
「そう、三上くんから訊いたわ。警察の事情聴取でも彼は相川さんが自殺したとは言わなかったの、言えなかったのよ」
「言えなかったって」
「この期に及んで言えなかった理由が判らないの?」
「……現実味ないんだよ」
明美は頭の中に渦巻く数々の思い出を振り返り、どうにかして京子がやったと言うことを証明させようとして居た。手紙に書かれたもの全ても拒否してしまいたかった。この時だけ記憶を無くせるのなら何だってやりたいとも思う。青いバケツに入った多量の環形動物ミミズの中にも脚を入れて踏み潰すことが出来る。それが出来ると思うのに、何故京子の陰の部分を取り消すことが出来ないのだろう。目の前に置かれた焼きプリンをスプーンでざくざくと割れ目を作りながら、明美はそう考えた。アップルティーの匂いが立ち込めて、魔の匂いはこれだと思った。
「どうしてそんなに淡々と話せるの、知ったかぶりもいいとこじゃない」
「知ったかぶりじゃないわ、知ってるのよ。明美、これは仕方のなかったこと。眼を逸らさずにちゃんと聴きなさい」
母親の一声で、明美は透明なスプーンをテーブルの上に投げ出した。父親の食べた後の茶碗に当たり、歯切れの良い音がしただけで、跳ね返ることはなかった。
「だったら冷静に話せる訳ない。お母さんだけ知ってて、どうして私が知らないの」
「相川さんの気持ちを汲み取ってあげなさい。あんなに動揺してたのにアンタにだけは何も話さないで居てくれたのよ」
母親は立ち上がって、テーブルの上の錆びれた白い円筒のポットを右手で持ち上げると、空になったティーカップにお湯を注いだ。ティーバッグがカップの中で林檎の匂い(この香りは嫌いだ。今現在では)を醸し出して居る。熱湯のお湯を注ぐ母親の姿はいつにも増して厳しかった。何かを決意したのか、それとも何かを恐れて居るのか、表情からは読み取れない母親が、明美にとって恐ろしい以外の何物でもなかった。眉間に皺を寄せて居るだけで(これは熱湯の蒸気を浴びたからかも知れない)その他からは何の感情も読み取れやしない。京子が何の音沙汰もなかったのは、どす黒い狂気の中で自分の理性が失われつつあったからだ。そして一番に憎悪する相手に、激励の言葉や後顧の憂い等気に掛ける余裕はない筈だ。明美はあの自分への只ならぬ憎しみと、あの不気味な程の敵意が書かれた手紙から、未だ頭にこびり付いて忘れることが出来ないで居る。それが母親の「汲み取ってあげなさい」等の言葉ごときで、明美に対する京子の執念は決して払拭されることはないのだ。「相手の心を汲み取る」と言うものは、例えば自分が相手に対して悪意のある言葉を発言した場合に(自分が悪意ある言葉を発したとは思って居ない)第三者が自分の過ちを気付かせてくれる助勢の役割をしてくれるものだ。それは相手に一縷の望みを叶えさせてあげることも出来、相手は第三者が仲立ちしてくれたことによって心強くもなるだろう。自分もまたその過ちを省みることも出来る。しかしそれはあくまで状況の違いだ。母親と京子だけの秘事を持ち、それを当事者である明美に明かさないということは酷く論外であり屈辱であった。たしかに一番親しく付き合って居た明美の心を攪乱させるというのは、京子にとっては当然思い悩み、苦渋の決断をせざるを得ないものだったのだろう。しかし京子が母親に手渡した手紙の真意は、今となっては判らずじまいなのだ。少なくとも明美にだけは、判らないのだ。
母親がアップルティーを大げさに口に含ませ、ごきゅっと喉を鳴らしてティーカップを置いた。両手の指をしっかりと絡ませ、握力機具を握るように力を入れて居る。今にも青紫色の血管が浮き出そうな程の力の入れ具合は、とても尋常と言えるものではなかった。明美はその尋常でない様子を窺いながらじっと母親を見据えて居た。焼きプリンをスプーンでぐちゃぐちゃにしながら、見据えて居た。もはやそのデザートは食べ物の代物ではなく、単なるコンビニの廃棄(賞味期限間近である食料品のすべては、人様に食べさせるような物ではなく廃棄物と化す)を45リットルのゴミ袋に入れられ、手や脚でここぞと踏み潰された原型の留めて居ないものに過ぎなかった。母親を睨み付けながら、明美は焼きプリンのカップの真ん中に突き立てた。縁起が悪い等と考える余裕は既になかった。
「何も話さないことが、私にとっての親切だと言うの!」
そう怒鳴り散らし拳でテーブルを叩き付けた明美を、母親は睥睨するような眼で見つめ言い放った。ティーカップが明美のせいでテーブルから浮き上がり甲高い音を立てた。
「アンタも往生際が悪いわね、相川さんはねえ、親切だとか申し訳ない何てアンタに思ってないのよ!」
「じゃあやっぱり、私を憎んで居ただけじゃないの!」
明美は手紙の内容を反芻するのを止めずに居られなかった。思い巡らし、そして思い出す程京子を可哀想等とはとても思えないのだ。同情は出来ない、哀れみ悔やむことも出来ないのだ。
「相川さんは愛憎と信頼をアンタに預けただけなのよ」
「……信頼だって?」
「そう……半狂乱の中に彷徨いながらも、アンタを愛してやまない心と、自分の思い通りに事が進まないことへのしがらみ」
冷静に言葉を進めようとする余り、平常心を保とうとして居るのかカップを持つ手が若干震えてることに気付いた。
「手紙は筆を進めて行く内に、相川さんじゃない誰かが支配した者が書いた成れの果てなのよ」
父親がコンビニから購入して来た柿の種を頬張り、どうにも肩身が狭いのだろうか、2人の話を怪訝そうに聴いて居る。柿の種がテーブルから落下する度に動揺し急いで拾って居る。
「彼女は他にも色んな病名を持って居たのね、薬なしじゃ笑顔を振り撒くことすら出来ない状況だと話して居たわ」
「……同情は出来ない」
「同情何てすることないわ、自業自得よ。只手紙に書かれたすべてを鵜呑みにすることはしなくていいのよ、明美」
先刻まで威厳に満ちた態度をして居た筈の母親が、途端に明美へ柔らかい笑顔を向けた。アップルティーを啜る頻度が短くなり、心の落ち着きさを取り戻したようにも思えた。相変わらず父親は手持ち無沙汰なのか、柿の種を絶え間なく口に放り込んで居る。メタボ検診する程の体型ではないが、毎晩の楽しみが晩酌(純米酒の三井の寿という銘柄が好きなようだ)とつまみ以外に何もないとなると、相当な困り者でもある。
「明美をそれだけ信頼してくれてるの、手紙に書かれた内容を、あなたなら受け止めてくれるだろうってね。そりゃ憎しみもあったでしょうよ、でもそれ以上にアンタに対する愛でる気持ちが大きく存在して居たのよ」
明美は母親を見つめ、そして母親の存在がこんなにも大きかったのかと知ることになった。プラスティックのスプーンを手に持ち、カラメルと卵のぐちゃぐちゃに入り混じったプリンを初めて口に運んだ。甘くとろけるような味わいが舌の中に広がって、カラメルの濃い水あめにも似た匂いが美味しさを醸し出した。憑き物が取れたような淡い空気が部屋中に広がった。「汲み取る」と言う本当の意味が今まさに知り得た気がした。この状況での「汲み取る」と言うことは、相手の非を真正面に受け止めるのではない。折り合いを付け自分なりの答えを見出すものである。もし答えが見つからなくとも、過ちの中に1つ裏側に潜んだ真実を追うことが出来れば、おのずと京子の内情は私の前に現れ、お互いの深憂や思い煩うのを心奥で共に向き合えるのだ。明美はプリンの2口目を口に入れる際、1つばかり腑に落ちないことを口にした。
「だけどどうして三上くんを犯罪者にし立てあげようとしたの」
「それはアンタに言ったように、愛憎の塊からよ」
「……それなら何も罪を犯させようとはしないでしょう」
「判ってないのね、明美。相川さんがわずか14歳の男の子に指輪を渡したのは、私もどうかと思うわよ。でもそれだけ三上くんを愛して居たと言うことになるのよ。彼を愛し過ぎて、今度は自分しか愛せなくなってしまったのかも知れないわね。こればかりは彼女の病気とは関係ないわ、誰しもそうよ。親友のアンタに三上くんを奪取されてしまうことが、そら恐ろしかったんでしょ。私でも旦那が不倫したら狂気沙汰になるわよ」
父親に向けた皮肉の一声が引き金になったのか、彼は急に柿の種を持つ手を止め、母親を凝視した。母親はいつもこの手を使い、父親の浮気の沙汰の探りを入れて居る。
「母さん、おれは浮気はしない。疑るなよ」
母親はティーカップを口元に運びながら、さも父親を嘲笑うかのように目線だけ父親の顔に向けた。余裕すら感ぜられる笑みであった。毎度のこと父親が風俗に通い詰めてるのは、明美にも知り得て居る。しかし月に2回程行く父親を責めることはなかった。母親の夜のお勤めに満足して居ないからではなく、単なるつまみ食いに過ぎないからである。母親もそれはしっかり会得して居たのだ。元から明美は他の級友よりも冷めた部分があったが、勿論父親の性癖に対して匙を投げて居たのも、またたしかなことである。
「あらそう、じゃあ風俗嬢の名刺をコートに忍ばせるのは止めて置きましょうね。愛ちゃんなんて」
「……判ったよ、悪かったよ……行かないようにするさ」
「いいのよ、別に行っても。今は明美の話よ、黙ってて」
「振ったのはおまえじゃないか……」
そう言って肩を竦めた父親は、何だか実に申し訳なさそうに見えた。そして、母親のいかにも諷する口の利き方は、ほのかに甘く匂うこの状況ではあまりに不相応である。明美はその様子を観察しながらゆっくりとプリンを口に運んだ。安物のそれがとても美味しく感じられた。しかしそれでも、母親の言葉が頭の片隅では小さなしこりとして静かに残って居た。本当に、そうなのか、と。信頼されて居たのだろうか、と……
「あら、何の話してたんだっけ。……そう、ともかく相川さんは三上くんを愛しすぎてしまったのよ。明美に対する憎しみの裏に隠れた愛情を、アンタは少しでも気付くことは出来たでしょう?」
実は明美は心底では会得して居なかった。母親の言葉で救われた気持ちになれたのは正直の所だが、明美に対する京子の怨恨や敵意、溢れん程の嫉妬心を鮮明に思い返す程、この場から消えてしまいたいという想起に駆られてしまうのだ。三上くんが時折見せるあの空っぽの眼を賛助してあげたいと思うのと同時に、自分の無念さや苦悶する思考が頭を占め尽くしてたまらないのである。明美はスプーンを持つ手を止め、テーブルに放り出しあることを想像した。真っ暗闇の一本道を歩き街灯の灯しだけがその形を伴って道路に面す。明美を灯すことはなく、黒い人影が通る度に脅威を持って襲い掛かるのではないかと危惧してしまう。人影は人間ではなく心に彷徨う亡霊のように私を見張って居る。叫び声を上げた瞬間に、その亡霊は光る刃物を持って私の服を切り裂こうとする。助けようとした人影は案の定間に合わなく、亡霊の刃物を取り上げただけで私の服は大げさに引き裂かれる。服は外面でありそれが無残にも亡霊によって粉砕されてしまったようだ。私の人前での役割が、そして建前がぶち壊されてしまったのだ。それがあるからこそ、私を責め立てる術はないものとして無様に大衆に晒される。絞首刑の台に上がったようだ。絞首刑の台の上で公然に嘲笑われるようだ。
「……三上くんを好きだった、京子は」
明美のあまりにずれた言葉を受けて、母親はその顔を覗き込んだ。電球の灯りのせいで、明美の表情は窺えなかった。
「そうよ、判ったことを言わないの。私が訊いて居るのは、アンタが相川さんの思いを読むことが出来たかって話よ」
「……読めない」
頭では理解して居た。「汲み取る」の妥当な意味も知り得ることが出来た。しかし根底では、今すぐにこの事態を飲み込むこと等到底有り得ない代物だったのだ。
「何を言ってるの、アンタのことをちゃんと認めた文があったでしょう!あれは相川さんの真っ白な素直な正直な言葉よ」
「それは建前の言葉なんだよ、京子の真理何て本人にしか判りゃしない。それが読める訳ない、信じること何てもっとできやしない!」
明美は眉を吊り上げ大声を張り上げた。京子を許すのではない、最もそのような問題ではない。非のない明美を嘖む京子を窘めさせたい訳でもない。三上くんを追い込んだ京子を恨みたい訳でもない。それならば、何故こんなにも苦しいのだろう。母親が立ち上がり明美を見下ろし、すると右手で明美の頬をばちんと叩いた。その瞬間、父親も明美も、眼を丸くし口を空けた。父親の開いた口の上下に唾が糸を引いてぴんと張って居る。その唾液がぷつんと切れた。明美は過去何回か母親にぶたれたことはあったが、それは皆お金を使い過ぎただとか、洗濯物を取り込まなかったからだとか、そういう理由の元にあった説教である。何とも滑稽な光景であった。まるでクラッカーが弾けた音のようだった。
「亡くなる寸前に、彼女は明美は私の宝物と言ったのよ」
力強いびんたを食らったせいで、明美はしばらく二の次が言えないで居た。母親の言葉を頭に入れることすら忘れてたかも知れない。
「何が正常か異常か何て、誰にも簡単に判り得るものではないわ、少なくとも普通というものは存在しないと思いなさい。あんな稚拙で感情的な手紙を理由に、アンタが悲観して相川さんを責めることは決して良くないの」
母親は明美を貶して居る訳ではない、それは明美にも判って居た。しかし叩かれた左頬を手のひらでさすることしか出来ないで居る。母親の言葉に驚きと不安を隠せず、母親の顔をじっと見つめるしか術がなかった。そして今にも泣き出しそうに眼を細めて居る顔は、決して母親に叱られたと言う理由からではない。京子の最期の言葉が、明美の身体の中を、静電気が起きたかのように2万ボルトの電圧が走って行ったからである。明美はただ呆然として居た。
「京子が、私を……」
「宝物と言ったのよ」
明美の顔を見遣りながらアップルティーを口に含んだ。既に温くなって居たせいで、母親は嫌そうにカップをテーブルに置いた。明美は手紙の内容をもう一度反芻した。『あなたなんか居なければ良かったのに』の文章が、京子の死ぬ間際の最後の最後である、明美への遺言であったと考えて居たからだ。それが『宝物』という言葉を遺して私へ伝えようとしたのだろうか。明美ではなく母親に言ったということが、明美の思考を困惑させた。妄想と現実の区切りの付かない日常の中で、京子は狂気と正常の間を彷徨って居たのだろうか。だからこそほんとうに言うべきことのタイミングが掴めなかったのではないのか。ただ1つ踏ん切りがつく答えに、明美は相反する思いの丈を、根底から覆すかのように心に深く留めて居た。しかし浸透する複雑な絡まりだけが明美に対する挑戦状としか考えられないものになって居た。唯一明美に理解出来たことは、京子の心情が実に厄介であり、2つの思いが交差して居るということだけであった。それから判ったものは、明美にしたら胸を抉られるような――それは最終的には1つの答えでしか導き出さざるを得なかったということになる。人の真理を見出すには、顔色を伺って相手が何を目論んで居るのか等通用しないのは明美には十分判り切って居たことであった。答えを導き出す強引な倫理での1つの解釈は……それはそれで、良かったのかも知れない。
「京子の最後に言った言葉が……私への最大の皮肉だったんだ」
明美は目の前に置かれた焼きプリンに眼を注ぎ、絶対に胸の内に秘めて置きたかった言葉を吐き出すように口にした。母親は立ち上がって、テーブルの斜め横に座って居る明美を宥めるように、その短いショートボブ(肩に掛からない位の、おかっぱと言っても差し支えない髪型)を右手の平で優しく包み込むように撫ぜた。その温かく柔らかな手は、髪の毛1本1本を手繰り合わせるように頭の天辺から首筋までゆっくりと撫でて居る。心が鎮まって行くと同時に明解な注釈として明美の脳裏にしっかりとこびり付いた。
「皮肉と世辞はいつの時代も使われる言葉ね、でも根本を探れば2つの言葉は同じ意味にも取れるのよ」
そう言って母親は脱力したように肩を撫で下ろすと、明美の頭を撫ぜる行為を止め、元の位置に座り、再びアップルティーを口に含んだ。ティーバッグの独特な色合いが徐々に消え行き、ポットから出したお湯もカップの中には薄く気の抜けた滲みを見せ、まるですべての味気が失われたような代物でしかなかった。母親が父親に目配せをし、
「あなた、やかんにお湯沸かしてくれない」
と、平坦な低い声で父親を追い遣った。いつもと同じような態度で父親を蔑ろにするのはこの状況では大変不相応ではあったが、問題を真正面から受け止めるべきはまさに明美のことであったので、母親の態度は妥当に感じられた。父親は自分が蚊帳の外であることに少々不満を憶えたように見えたが、この現状を打開するのは自分では至難の技であるというのに気付いて居た。父親にはしっかりと会得することが出来て居た筈だ。リビングから出て木造の軋む廊下を渡りながら、浮かない表情をして居る父親が何とも不憫である。
「アップルティーで良いのか、瑞枝」
「それは飽きたわ。この間買い溜めしたネスカフェの珈琲にして」
父親はあっけに取られて500gの円筒の蓋を、ざっざっと開けた。こびり付いた粉末のせいでどうも安っぽい音がした。手の掛かるティーバッグよりもインスタント珈琲にした母親の心情がなんとなく読み取れたような気がした。明美が京子の言葉を不器用ながら飲み込むことで、母親の肩の荷が下りたように思えたからだ。
「相川さんが言ったことは、今になって言うことではないかもしれないけど、まったくもって予想が付かないのよ。もしかしたら明美に対する謝罪の念も含めての皮肉だったのかも知れないわね」
父親が暫くしてリビングに戻って来ると、おどろおどろしながら母親の前にかちゃんと珈琲を置いた。その両手は震えて居たが、表情は至って真顔であった。明美はその様子を観察しながら京子の心情を計ろうと頭の中で幾つかの仮説を立て考えに考え抜いて居た。そうせざるを得なかった。しかし母親の予測は比較的的を射て居たと思う。
「アンタが言い当てた『最大の皮肉』っていうのは、的確な表現だと思うわ。でも、判る、明美」
再び明美に眼を向けながら言葉を発そうとする母親は、いつにも増して明朗な面持ちであった。
「ほんとうに皮肉や世辞で私に言ったのか、はては真意や本懐で私に言ったのか、それは第三者では決して判り得るものではないの」
「……受け入れる強さが必要だということ」
「そう、幾ら推測しても戻って来ない答えに関しては、それはもう受け入れるしかないのよ。アンタが悪い訳じゃない」
母親は一息付いて、次の言葉を発した。
「少なくとも相川さんには、あの時不敵な表情をして居なかったことだけは確かなのよ、馬鹿にした笑顔でないことは唯一言える言葉よ」
明美の眼を見ずに、ただ珈琲を口の中に留めるだけで、5秒ばかし飲み込まずに居た。それは明美に対する配慮なのかどうか判断出来そうもない光景であるに違いなかった。しかし明確な真理が判りつつあることにも違いなかった。それと同時に『受け入れる強さ』――明美はその言葉を反芻した。
「死人に口なし、そんなの判り切ったことでしょ?」
焼きプリンを頬張る程精神的に落ち着きを取り戻せては居なかったので、ずっと、父親が吸った煙草の煙のせいで変色した黄土色のカーテンの一部を眺めて居た。白く網目のあるカーテンは汚れが目立つということも知らずに、ずっと父親はマイルドセブン6?をすっぱすっぱ吸って居たに違いない。
「そのまま受け入れるしかないのよ」
明美は心の奥底でまだ状況を受け入れることは出来ずに居たが、あの時京子の手紙を揉みくちゃにしてしまったことを酷く後悔して居た。自分への反抗的なさま、明美を卑劣だと思うことからの嫉妬心、その他様々に入り混じった灰色の気持ちが京子を死に追い遣った。かくして明美は、自分のとんでもない恐怖心や京子の思いを一時でも忽せにした自分を寛恕することが出来なかった。今ですら自分を納得出来ずに居るのに、どうしてあの時の思いを抑えられるだろうか。
テーブルを挟んで明美の眼の前に座る父親の神妙な表情を窺いながら、明美は父親の元へ行ったクリーム色とカラメルがごちゃごちゃにこびり付いたスプーンを見た。そのこびり付いたスプーンの柄の部分に何列も連なって居る細い線が、父親や母親に対しての侮辱ですら感じられた。母親が静かに珈琲を口に運ぶ。熱湯をカップに注いだせいか唇を窄めて2,3度分けて飲んで居る。それでも明美の中では僅かな慈悲忍辱にも似たあからさまな解放感があることに気付いた。事実を受け入れることで自分を楽にさせるのは、いつだってこの世の中では自分自身でしかなかったからだ。明美は無言で父親からスプーンを受け取り、プリンの真上に突き立てた。その表情は1つの事件の些細な証拠を掴み、心の内で真に納得した警官のように感じられた。
「お母さん、ありがとう」
――受け入れる強さということが、自分自身、はては見ず知らずの人を邪険に扱うこと、扱われることですら、明美は的を射た的確な表現だと考えて居た。人はさして悪意のない他人に対して怒りを憶えることはたびたびある。それをいきなり正面から『それは悪だ』と決め付けてしまったならば、それは『現実を直視出来る器量がない』ということになってしまうのだ。それを踏まえた上で、明美の稚拙としか言いようがない『真の受け入れる強さ』という解釈は、しかし他の何物にも変え難く、他の何者にも邪魔をされない自分の中だけのプライベートの空間にあるのだ。人々の自尊心を踏みにじる悪徳業者よりも遥か上に、明美の根拠は只ならぬ説得力があったには違いなかったのだ。それは明美の思い込みも交じって居るのだろうが。
「悪意のない人に間違った解釈することもある。悪意のある人に前述の解釈をしてしまうこともある。それを踏まえれば私も『受け入れる強さ』が……」
途端、母親はテーブルに突っ伏した。明美の言葉を遮って、これ以上ない見た事もないちょうどシベリアに生息する狼のような遠吠えにも似た嗚咽を上げた。その低い声質(母親が泣く時には、周囲にいつも物怖じせずには居られない畏怖を与えて居た)は父親どころか明美すらも驚きを隠せない状況に強いられて居る。こんな事は今までに幾度も出くわして居たが、現状を飲み込む事が不慣れな父親にとっては只、あたふたする以外のシナリオまでは想定することが出来ないのだ。いつも、そうだ。
「いつか手に入る時期がくるのかな」
「いつか、何て予測出来ない大人じみた副詞使うんじゃないわよ」
そう言いながら眼やら鼻から流れ出る(これは涙という事で解釈してしまって良いのだろうか)水を、あまりにも雑にBOXティッシュを何枚も使い切ってる。無様だと思う事を隠したがって居るように見えた。母親の、一種の好意の裏返しにも似た言動は、明美にはどうしても愛らしくて仕方がなかった。そう、まだ母親のお腹に居た頃の事を、自分がへその緒で繋がれた胎児であった頃の事を、今明確に母からの愛情をしっかり受け取ったように思えたのだ。そう、今で言えばあまりにこっ恥ずかしい、つまり、これこそが無償の愛だという事を。
「明美、行きなさい」
今まであいうえおですらリアクションを取らなかった父親が、唐突に沈黙を破り、言った。父親の手には柿の種は握られて居なかった。
「……どこに」
「明美が自室で相川さんの手紙を読んで居た時に、三上くんから電話があったんだよ。三上くんにとって明美は、とても大切な人なんだろう。詳しくは判らない。だが明美にしても三上という奴は大事な存在なんだろう?」
――私が途方もない迷路に巻き込まれて居た頃の、あの電話の音の主は三上くんだったんだ。どうして両親がそれを早急に私に教えてくれなかったのかは、明美にはもうすべて判り切っている事だった。私を察してくれた事以外の、他に何の理由があるというのだろうか。
「あの公園に、来て欲しいって。ずっと待って居るからって。おれにはその『あの公園』って意味がさっぱり判らんのだがな……」
父親は明美を訝しげに観察した。急かすような言動とは裏腹に、その眼は若干疑い深い表情を持って居た。そして父親独特の娘に対する信頼というものが弾き出されて居る様にも感じられた。夜な夜な中学三年生の娘を、よりにもよって同級生の男の子が呼び出しを強制する(父親の心にはそう捉えられたのだろう)事が、何より父親としてのプライドが若干傷ついたのであろう。父親とはそういうものなのだ。今の明美には到底判り得ないものだったが。
「……あの、公園……ね……判った、行って来る」
明美が小さな若草色のバッグを手に持って玄関から出て行く所を(この玄関の周辺には古びて使えそうにもない色褪せた傘が散乱して、明美の行く手を拒む様にしか見えなかった)またも父親は明美の行く手を遮った。――どいつもこいつも私を三上くんの元に行かせたくないが為に派閥を組んで企んで居る様な気がしてならない。
「今20時なんだからな? 要らん事はくれぐれもしない様に」
「……判ってるよ、そういうお父さんはお母さんを宥めてあげてね」
少し照れて居たのか、申し訳なさそうに俯き禿げかかってる髪の毛をわしわしと掻いた。ユニクロの黒いトレーナーの上にパルメザンチーズにも似た粒状の白いフケがぱらぱらと落ちて居る事に気付く。
「お風呂に入りなよ。建築家の延長で小企業に勤めてるのにこじつけて三日入らない何て怠慢の他に何もないよ」
「……今日は入るさ……」
明美の思い掛けない一言によって父親は相当傷口を抉られたのか、明美に背を向け猫背のまま古びた玄関へ向かって行った。カーテン越しからさも心配そうに見つめる父親の姿は、少しだけ不憫だった。それよりも明美は、父親の放った『要らん事はくれぐれもしない様に』という一言に明美は瞬時に思考を張り巡らせた。娘を奪取されたくないという意図もあるのだろうが、多分それだけではない事位明美は会得して居た。例えば箱入り娘を持つ両親にしてみれば、得体も知れない他人との婚約等は十中八九「邪道だ!」と認識するのだろう。たとえお互い面識があった者同士でもだ。母親の場合は物事を円滑に進めたいが為に、波風立てず式の段取りまでも他の関係者を遮って事を進めるだろう。しかし父親はそうは行かないのが現実だ。娘を持った父親にとっての一番の悲痛は、今まで自分の半生までをも犠牲にして育て上げた愛情が娘によって崩壊されてしまったことにも言えるんだろう。崩壊された、という言葉はあまりにも不謹慎だが、事実からすれば実にその通りなのだ。いや……崩壊というのは淋しさから来る1つの皮肉に過ぎないのかも知れない。
明美の家では、母親がまだ泣きじゃくったままであった。時折それが止んだかと思えば、すぐさま眉間に皺を寄せ眼を狐の様に細くしながらわんわん泣いて居る。父親がどうにかして宥めようと声を掛けるが、母親はその声に耳を傾けようともしない。
「何があったんだ……」
母親は再びBOXティッシュに手を伸ばし、何とも恥じらいのない鼻の噛み方をした。決して明美や父親に対して敵対心を向けて居たのではなかった。それは紛れなく、明美の母親への一言で及ぼされた事であったのだ。思う存分眼に溜めた涙を拭うと、母親は言った。
「ありがとうの言葉に、娘にこんなにも助けられてしまうなんて、思わなかったのよ……」

            「三上くん」

外は雨だった。運悪くボロ傘を持って来てしまった事に明美は非常に腹が立って居た。柄の辺りを持ってその傘を開こうとすれば傘の骨がロボットの手の壊れ具合にも似る。ばっさばっさ傘を開かそうとするのだが、ついにはロボットの手よろしく、要の部分を傘から引き離す羽目になってしまった。これではどうしようもない。要の部分の1つが壊れてしまえば、傘の存在意義すら見当たらないだろう。明美はその傘を捨てることはなかった。意気消沈した明美は諦めて、住宅街全体を降らす小雨の雨に身を任せながら公園への道を辿って行った。7月の20時という時刻にも関わらずそこら中に見える街路灯は、コンクリートを淡くない光で照らして居た。天辺に見える丸みを帯びた街路灯の形がそのまま電灯として映し出されて居る。これはいったい何なんだろう、と明美は突拍子もなく思った。深い意味は微塵もないのだが、こうも夜道が暗いと薄気味悪いとしか判断のしようがないからだ。ついこの前(三上くんと出会った頃だ。彼と会う時にはいつも桜が咲き誇って居た)まで街路樹として落葉樹のサトザクラが誇り気高く満開であったのに、今では青葉と化してしまって見応えのないものになってしまった。明美は桜の中でも、ヨコハマヒザクラという、派手ながらも揚々と咲く庶民的な風情を保って居る花が好きであった。ここぞとショッキングピンクでその風格を現しているにも関わらず、何処か淋しげな陰が見え隠れして居るのも理由の1つだった。4月上旬に咲くにしても、ここではこの桜を窺う事は出来ない。明美はそんな事を思い巡らしながら、三上くんの待つ公園までの道のり、約20分を黙々と歩く事にした。途中、ぶっ壊れた傘を持つのが嫌になりそうだった。だが捨てる事は出来なかった。明美は白いノースリーブを着て居て、下は深緑色のハーフパンツを履いて居たので、どうにもこうにも寒いには違いなかった。どうしてこんな薄着で来たのだろう、と自分を自嘲する事もあったが、小雨の中、これからどしゃ降りになる等あり得ないと勘で悟って居たので、それ程苦痛ではなかった。いや、苦痛だと思いたくないが故のせめてもの自分に対する擁護だったのだろう。しかし街路灯のコンクリートを照らす灯りが益々濃くなるにつれて、明美の恐怖心は只ならぬものになって行った。
「せめてこの傘が直ればなあ……」
明美はぶっ壊れた傘の骨を見た。この要が折れてしまった以上、直る筋道等閉ざされてしまったも同然だ。ちくしょう!
「おい、明美」
不意に一段と低く掠れた声が聞こえたせいで、思わず明美は前を見据えた。しかしその声で、呼び掛けた主を瞬時に判り得た。
「三上くん……ごめんね、待たせて」
相変わらず優しげな眼を私に向けてくれる三上くんは、私には決してあの空っぽな眼をちらつかせたりはしなかった。
「ずぶ濡れじゃん、おれの傘やるよ、どうせお袋のだし」
「お母さんのって……大事にしてた物なんじゃないの」
「知ったこっちゃないって、お袋は基本的に放任だから」
白いプリントTシャツに青く所々色素が薄いジーンズは三上くんにはとても似合って居た。正直他人にとってはオーソドックスな格好としか捉えられない筈だが、この夜道の恐怖心を和らげる為の過剰な演出に違いはなかった。この雨の中ですらも彼の佇まいは他の雑音を消してここぞと言わんばかりの濃い緑色のオーラを纏って居る。三上くんをかたどるパールの薄っすらとした線の外に、穏やかな心を落ち着かせる力があるのだと明美は確信した。ずっと前からそうだった。
「雨が酷くなって来たから、心配して途中まで歩いて来たんだ、何だか嫌な予感がしたんだよ」
「嫌な予感って」
三上くんはそれきり黙ってしまった。明美にそっと自分の傘を手渡すと自分は雨の道をゆっくりと歩き始めた。その黒い傘の柄を持つと不思議な安心感が生まれた。三上くんの手が若干震えて居る事に気付いた明美は、彼の頭上に同じ傘を覆いかぶせた。三上くんはそれに反発するような仕草をしたが、
「じゃあ明美が持ってるおんぼろ傘貸してくれよ」
と言い、代わりにその壊れた花柄の(どう見ても男の子が持つ傘ではない)傘を半ば強引に奪った。一瞬「何だこれ」と言いたげな三上くんの表情は、街路灯の灯りですらあまり窺えなかった。それは彼の七癖でもある独特な猫背のせいだろうと、明美は突拍子もなくそう考えたが、次の言葉でこの考えは抑制されざるを得なかった。
「なあ……おれがこんな傘になったら明美はどうする?」
明美は少し肩をビクつかせた。何て、何てエキセントリックな言動を口走るのだろう、と瞬間的に悟ったが、明美の答えは前々から覚悟して居た事であり、さして難解な問いにも感じられなかった。梅雨明けもしたというのに肌に纏わり付く小さな雨はこれ以上にない憂いだった。三上くんは明美の表情を下から覗こうとはせず、只自分の問いの反応を瀬踏みして居るように見えた。
「私は……」
明美は少し言葉を吟味しながら、
「三上くんのそんな姿に愛しいと思うよ」
と、応えた。吟味しながらというのは、決して三上くんの問いに対して侮蔑する時間を与えたという訳ではなかった。中身の存在しない即答では、いかにも嘘八百としか彼のあの眼には映らないだろう。淋し過ぎる応えというものはいつだって相手の気持ちを汲み取る事に大それた失敗をしたとしか表せ様がない。知って居た。
「そんな答えは考えてなかった、詩人にでもなるのかよ」
三上くんはいつもこの手の皮肉が得意である。出会った当初に話し掛けられた事、バスケットの練習試合でのチームメイトへの誤解され易いあからさまな皮肉の数々、それは本当に『得意』であったというのだろうか。しかしそれらは三上くんの自尊心が異常に高いという事が証明された出来事と言っても過言ではない筈だった。憶測だが言わばその引き金となった京子の存在を知らない筈がないのだ。
そう言った三上くんは、唇を頬の辺りに微かに持ち上げ温和な笑みを浮かべた。しかし静寂を身に纏った三上くんの姿は、いつにも増して淋しげな表情を露わにして居る。
「おばさんから電話で聴いたよ」
「……何を」
「明美が、相川さんの手紙を見たって」
――お母さんが言ったんだ。言うべくものとしてあの場で、私の気持ちを確信し心痛して居たのだろう。あの凶器にも似た狂気を明らかにした京子の手紙は三上くんにも通ずる箇所があったのだろう。そうでなければ単なる悪戯のチェーンメールとしてここはかわす所だ。だからこそ言わなければ伝わらないものがあったに違いないのだ。一見母親の行為は傍から見れば何とも迷惑極まりないだろう。しかしそれ以上の小さな輪の中に閉ざされてる彼らの行動を邪魔されては堪ったものではない。そう確信した上での厄介であったのは、共通点を持つ私たちにとっては余計なお世話等とは微塵も思わない。
「あの手紙を見てどう感じた、明美?」
「え……」
明美は答えようがなかった。言っても良いのかという葛藤と、三上くんはまだこの件に関しての全貌は無知に近いと言っても過言ではない。だからこそ衝撃を受け、益々、割れ易い透明な殻の中に心を閉ざしてしまうのではないかという懐疑心の2つの恐れがあった。しかし問題はそれだけではないのも理解して居た。マリッジリングをわざわざ明美の元へ持って来た事や三上くんの頬の傷跡、警察の事情聴取での不可解なやり取り、そして三上くんが起こした学校の工事現場の屋根の破壊の痕、大量に詰め込まれたミミズ(ああ……思い出すだけで吐き気がする)の理由。それら含めて謎語の集大成であった。どう切り出して良いのか、どこから切り出せば良いのか、明美にはその予測が及ばなかった。今や京子に対する怒りよりも、三上くんが平静を保って居られるのかが疑問であった。いや、平静を保とうとして居るその裏側には、誰にも予想する事の出来ない感情の山が渦めいてるんだろう。だからこそ平静を保っていられるのだ……
明美は自分が言おうとする多くの言葉を身体の何処かに埋め尽くしてしまったかのように、小雨の降る中、暫くは何も言えないで居た。すると三上くんは、ばつが悪そうに明美に顔を向けた。
「はは……言い方が悪かった、ごめん。話を変えよう。実は昨夜あの人がおれんちに来たんだ」
壊れて使えそうにもない傘を右手にぶら下げながら、三上くんは一度鼻を啜り左手で鼻の下を掻いた。その様子を感じ取りつつ、明美は、何故奈美子の事を『あの人』と呼ぶのか不可解な気持ちに苛まれながらも、今までの事を考えると無理もない様な気がした。
「それでおれに謝ってきたんだ。『突然押し掛けて来てごめんなさい。電話番号も判らなかったから家に来るしかなかったのよ。あの時はほんとうにごめんなさい』って。今思えばあの人もおれと同じ様に苦しんで居たんだな……」
三上くんは若干途惑いながら奈美子の言った台詞を口にした。あえて簡略化して明美へ伝えたのだろう。きっとそうせざるを得ないのだ。物事はだらだらと口にする事で、自分のほんとうに思う気持ちが伝わるとは限らない。その事実は自分を護衛する為の単なる蛇足的な言い訳にしかならない。その三上くんの気持ちを察すれば、奈美子はあの公園で明美と話した後、胸を締め付けられるような想いで三上くんの家へ向かって行ったんだろう。別れ際の彼女の表情からは、そんな気持ちを感じ取れない程だったのに、あえて明美にはそれを悟られない様にと心中では必死だった。少なくとも、明美はそう感じた。三上くんもまた、この一件でそう感じた。そんな彼女は今何を思って居るのだろう。胸の奥の熱い大きな鉛の塊を背負い込みながら、全人生を任されてる様な不思議な感覚に陥ってるだろうか。周りが一気に簡素化され自分ばかりしか興味の対象を持てない様な……しかしもはやあの時の彼女とは違うのだ。彼女の心をほんとうの意味で癒してくれるのは――明美は右手の中指で眉を掻きながら、三上くんの話を聴いて居た。
「でもおれはああ言うしかなかったんだ、同情する何て酷だろう?仮にもおれはあんな言い方であの人を傷つけちまったんだ、それよりも酷い仕打ちを向ける何て……おれには出来なかった」
三上くんは額に手を当てて、そこから吐き出す様に言った。徐々にトーンダウンして行くその声は、いかにも三上くんらしくない。しかしそこから生まれるであろう偽善的な香りは、まったく感じられなかった。反省する訳でも情けをかける訳でもなくそれは只、1人の人間としての脆い感情であった。
「奈美子は強い子だよ。そこら辺の女の子とは違う」
明美が臆面もなくそう言い切ると、三上くんは右手に持って居たぶっ壊れた傘を雨の中に落とした。その傘は地面に小さくぴしゃんと音を立て、ゴミが入り混じった雨水へ溶け込んだままそれっきり動かなくなった。落ちる水滴はビニールの弾ける音がし、21時を過ぎた夜更けにはもうその音しか耳に入らなかった。三上くんは住宅街の石垣の脇に設置された自販機を見遣ると、明美をよそに一目散に駆けて行き、ポケットから小銭を幾らか出した。ごとん、と鈍重な音から飲み物を取り出し、少し息を弾ませながら明美の元へ戻って来た。
「これ、やるよ」
「またネクター?」
「はは、飲み終わったらおれにくれな」
「空き缶なのに」
お互い滑稽なやり取りをしながら暫くの間他愛もない雑談をした。何処へ行く事もなく雨に濡れながら、それでも三上くんの傍に居られるだけで明美の心は不思議と安心出来た。三上くんは元々耐性があるのか、濡れても構わないと言って充てにならない電柱の脇で雨宿りをした。真上には何列にも連なる真っ黒な電線があるだけで、三上くんの肩はいつの間にかずぶ濡れになるのを知らない。明美は自分が持って居た傘を三上くんの頭上に掲げ、2人で相合傘とも見られる格好を強いられた(風邪への耐性があっても何が起こるか判らないでしょう)しかし三上くんの背が高いせいで、思い切り腕を伸ばしたが届かない。三上くんは明美の掴んでる柄を強引に引き離し、代わりに彼が雨宿りの役目を担ってくれた。2人の距離があまりに近いせいで、沈黙になると何処からともなく口笛が聞こえる。掠れた口笛は「夕焼け小焼け」の唄だった。時折誤って三上くんと眼が合ってしまい、しかし1秒もお互いの眼を見続ける事はなかった。
「懐かしいね、その曲」
明美は三上くんの口笛に心地良く耳を傾けた。
「……ああ、これな、小学校の下校の時刻に必ず校内アナウンスとしてよく流れてたんだよ。明美んとこにもあったろ?」
「うん、あったけど私はこの曲大嫌いだったの。まるでガキは早く家に帰れって警告受けてるみたいで」
「はは、しかしこれってその通りの唄だぜ。今も大人とは言わないだろ、どっちかっつーと明美はまだガキだよな」
「うるさいなあ、もう」
眼を閉じるとたしかに当時の事が鮮明に思い出されて行くのが判った。体育テストのハンドボール投げで、明美だけが僅か5mしか跳ばなくて恥を掻いた事、数学の宿題があったのを忘れてその日はぐっすり眠ってしまい、仕方なく期日当日の朝に女子トイレに鉛筆を持って、壁を盾に慌てて片付けた事(勿論宿題のプリントはポケットに入れたせいでぐしゃぐしゃになった)初めて恋をした男の子に気持ちを打ち明けられずに卒業してしまった事、それから二年……母親が娘の成績に落胆して、偶然にも家庭教師に就いた京子の事――明美は思わず京子の端正な顔立ちや表情の1つ1つを現実に思い描いてしまった。しかし眼を開けると何もない。皮肉にも涙は1滴も流れなかった。網膜が乾き切って居るのか、脳が京子を描く事を拒否して居るのか、いや奈美子や母親と話した事でとっくに事実を受け容れた筈だ。しかし何しろ1滴足りとも涙は流れなかった。とっくに京子の存在した証を忘れる事も簡単に出来てしまったのだろうか? そんな私は極悪人になりえる事も大して困難じゃなかったのだろうか? あんな鮮明に思い出して置いて、私は此処で泣ける筈だろう? まだ1年弱しか経ってもないのにあの親友を周りの他人と同化にする事も、安易に出来てしまったのだろうか……おかしい。それでは、おかしい。京子を風化させてはいけないんだ。お母さん、風化させちゃダメだ、風化させちゃダメだ。風化させちゃダメだ。明美の眼に埃が入ると、少しばかりの涙が流れた。明美は左手でそれを拭うと、自分の服に擦り付けた。ああ……そうか。私は二人になってしまったんだ。明美は右手に持った飲み掛けのネクターを地面に落とした。暫くしてネクターの甘い匂いに誘われたのか、蟻やミミズが続々と集結して来て居る。その水溜りと空き缶の軽快な音を耳にして、三上くんは咄嗟に傘を放り出し、明美を抱き寄せた。電柱に傘の柄がかつんと歯切れの良い音を立て、それから、しんと静まり返った。
「ねえ、教えて三上くん。受け容れるにはどうしたら良いの」
明美は全身を三上くんにぎゅっと委ねられたまま、訊いた。両腕に強い力が掛かり潰れてしまいそうだった。そしてお互いの皮膚の温度と共に、速い鼓動が伝わって来た。そのせいで強い湿気と熱気が篭り、明美の右肩に寄せられて居る三上くんの顔からはあどけない淋しさが語られて居た。
「だいじょうぶだ、忘れない事だ」
はっきりとした口調でそう言った三上くんの言葉から吐き出された息が明美の右耳にそっと伝わり、助長された愁嘆の響きが感じられた。
時間は留まる気配もなく、電柱に横たわる傘の嘆きの事は今は考える余裕がなかった。三上くんの鼓動が速まる度に、明美は動揺して居た。
「相川さんから指輪を渡された翌週におれは呼び出されたんだ。見せてあげたい物があるってな、でも彼女は雑貨屋がある横断歩道の手前でシースナイフをおれの左頬に切り付けたんだ。自分の傷口止める暇何かなかったさ、何せ彼女は気付いた時にはセダンの車に跳ねられて即死したんだからな。おれの傷については誰も言及してくる事はなかった。警察は自殺したとして纏めたがってた様だけど、お願いだから事故で取り扱ってくれって頼んだんだ。当時おれは中二だぜ? 誰が加害者何かになりたいかってんだ。その後の新聞記事を見て愕然したよ。何がホテルの案内人として行く先を教えてくれた、だ。警察ってのはどうしても正義を演じたいんだな、おれからしたら物事を安易に片付けさせたいが為の綺麗な集団にしか映らねえ。結局……最初から見せたい物何てなかったんだよ」
いままで明美が気掛かりであった事の真相と矛盾を一気に吐いた三上くんは、疲弊し切ったのか明美の胸に身体を委ねた。肩に覆い被さった両腕が酷く重苦しく、明美は只必然として三上くんの脇に手を回し背中を撫ぜた。雨で湿った白いTシャツがあまりに冷たく、それでも自分の体温で幾分か温めさせてあげる以外に他の何の術もなかった。綿で縫製されたそれを精一杯に握り締める以外になかった。どれ位の時間を刻んだかは釈然としない。三上くんはだいじょうぶだと言い、明美の元を離れた。そして先刻放った明美の花柄の傘を手に取り、石垣にそっと立て掛けた。蟻達が集結する甘い匂いに三上くんも追い求められたのか、零れたジュースの傍に横たわれたネクターを拾った。既に何匹かの蟻や昆虫が混入して居るのか、三上くんは左手の人差し指でそっと入れて行った。どうやら小雨になって来た様で、昆虫達も乾燥を恐れて家路へ着く頃かと思いきや、まるで三上くんを信仰者さながらとし彼らは次々と列を作って足元へとやって来た。三上くんは顔色1つ変えずその缶の縁に昆虫を押し付けぐいっと押し出し入れた。やがてミミズが多量に列を乱して来ると、1匹目のそれをぶらあんと指で釣る下げながら缶へ放る。2匹目、3匹目となる内に三上くんは遊び心が芽生えたのか、ミミズの先端を指でゆらゆら古めかしい時計の様に動かしながら放って行った。表情の色等何も変わって居ないいつも通りの三上くんの筈なのに、その不気味な行動が明美を心底震わせた。缶が満杯になると三上くんは満足そうにそれを眺め、暫し時間を稼いだ後地面にことっと置いた。
「……三上くん、何してるの……?」
明美には現状を冷静に判断出来る筈はなかった。昆虫で満杯になったその空き缶には、まだそこから飛び出そうと蠢いて居る彼らが居るからだ。そして今三上くんがやった行動は、以前にも増田くんから訊いて居た事だった。信じ難いと言うよりこの眼で見た光景はあまりにも残酷な集大成であった。
「どうした?」
日常の1コマにはこんな事がある。思い知らされた情景はその中では単なる単体に過ぎない。さり気なく閉じ込められた円の内側にだけ存在するというのはあり得ない。何か異様なものが存在すれば徹底的に叩きのめすのが日常での暗黙のルールであり、それは平和で正常な日々と言えるのだ。そしてそれが異質であるという根拠は何処にも存在しないのに外野に出てしまえばすぐさまそれは日常から抹消されてしまうのだ。何処に何の根拠があって理由があるのか、正しいのかそうではないのか、少なくとも決定打を打つのはいつも自分自身であるにも関わらずだ。
「あれ?」
明美は耐え切れなくなり三上くんの傍へ走った。走る途中でネクターの缶を蹴ってしまったが(こんなもの……)どうでも良かった。三上くんを全身で抱き締め、問い掛ける様に自分の頭を三上くんの胸に擦り付けた。その場に倒れそうになるのを必死で押さえ様とする三上くんに明美は更に腕を回して抱き締めた。――どうしてこの場に至るまで彼の心を優しくしてあげられなかったんだろう? どうして京子は彼に対して優しさを与える事を忘れ去ってしまったんだろう? 憎しみの中に愛情は生まれないのでしょう? 愛情から生まれる憎しみもまた、ほんとうの優しさを温める事は出来ないのでしょう? だったら生命を絶って自分を殺してしまった事への償いをしてよ! 苦しかったのは決してあなただけじゃなかったのよ! 明美の頭の中が混乱と恐怖で埋め付くされた頃、三上くんへの言葉が実に不透明に、逆を言えば素直なもので吐き出された。恐ろしい事だった。
「三上くん、あなたには、2人居るの」
――その言葉に三上くんは大きく眼を見開いた。何か釈然としない物を一点として見て居る様な非情な表情だった。そんな自分に慌て、明美に裏切られた屈辱感に、たまらなく呆然として居るみたいである。孤独感故にほんとうに彼と同じ人物が1人居るかどうか辺りを探ってみるが、それらしき人物は居ない。電柱の影にも、住宅街の脇にも、石垣の塀の辺りにも、明美のすぐ真後ろにも何処にも『三上くん』は存在しなかった。試しに自分の心の中をも探ってみたが、そこにもそれらしき人物は居ない。今ここに存在する、三上くんしか見当たらなかった。すると空っぽの眼はその姿を消し、三上くんは我に返ったかの様に笑った。私だって2人になってしまった筈なのに。
「何言ってるんだよ、おれは1人だよ」
三上くんは明美をここぞと言わんばかりに抱き返した。やっとそう返答されると、明美はようやく落ち着きを取り戻したのか三上くんの胸の中で眼を閉じ、そして静かに泣いた。ああ、どうして! どうして、三上くんにあんな酷いことを言ってしまったの! どうして! 
「だって三上くん、平然としてるんだもの……私と話す時はあの眼にはならないのに、いつだって振り向いたら……あなたは……」
寂寞としたこの場所で只その事が淋しかった。京子の事実が悪であろうと彼の存在するこの日常を好きになりたかったのだ。燦然としたあの表情から空っぽの眼を脱却させてあげたかったのだ。だからこそ明美にとって、彼のした行動は大して理由にはならなかったが、ある意味では留めて欲しかったのが一理としてあった。止める事はない、続ける事もない、そうしたグレーに居る事実が何にも増して必要であるのだ。京子の事を忘れる必要はない。
「相川さん、相川さんっておれだってもう呼びたくねえよ……」
明美は強く抱き締められた身体から左腕を抜いて傷口を触った。刻印の様に斜めに深く切り込まれた傷跡は今はもう古傷と化して居る。三上くんは照れ隠しの様に目線を明美から逸らした。そして抱き寄せた身体を少し離した。
「呼ばなくたって忘れない事にはならないよ。この傷は」
「気にする必要ないよ、こんな傷。……でも訊いてくれ、明美。おれが相川さんから貰った指輪を明美に渡したのは、家庭教師に世話んなった女の子としてが2割程度だ。後の8割は、純粋に明美に与えるつもりで渡したんだぜ」
乾き切った舌を舐めると、三上くんは続けた。名前は……呼びたくない筈だ。
「それにおれも明美と同じで、ネクターは甘ったるくて好きじゃない。だけどいつからか――あの事件を思い出す度に飲まずには居られなくなったんだ。酷い時には1日に5本は飲んでたぜ。哂ってくれよ、アホみたいだろ?はは。相川さんが進めて来た飲み物だったけど、死んじまった今じゃ探り様がない。あの腐った行動も……ほぼ無意識でやっちまってる様なものなんだ。そんで必ずやっちまった後で気付くんだ。おれって何だったっけってな……だけどいつも片付ける気力すら沸いて来ないんだ。現実味を帯びないんだ。おれってナニモンだったっけって……それは……それは、おれにもよく判らない」
明美は淋しそうに頷くと、
「じゃあ、あの校舎の一部を壊したのも?」
「ああ。親にはこっ酷く怒られた」
「当たり前だよ、あの空き缶ゴミ箱にちゃんと捨ててね」
心底罰の悪そうな顔を見せると、最後にこう付け加えた。
「なあ……おれは自分だけがこんな思いをして居ると思ってたんだ。バスケットのコートに居る事だけが唯一の頼みの綱だった。だけど2年になって明美を見掛けた時、おれ以外にもあんな眼をする奴が居るんだって……判ったんだ。最初はクール過ぎてとっつき難い奴かと思ってたけど、そうじゃないよな。面白い奴だって判って来たんだ。こいつなら、理解してくれると思ったんだ」
三上くんは眼を生き生きとさせて明美の事を話した。明美ですら三上くんについて同じ事を考えて居たというのに、何たる皮肉だと思った。そして自分自身の立ち位置を理解して居るのか、次の言葉は幾分躊躇した様に間を置いた。時折目線を泳がせ、何もない空間を縁取る様に描いて居る。自分に対して引け目があるからこそ言い難い伝わり難い単語があるだろう。しかしミミズやら蟻やらうようよして居る中で、こんな事を言ってくれる人はこの先にどれだけ居るんだろうか?
そう、どうしてこんなにも優しい人を、私は怯えさせてしまったのだろう……私達の心をほんとうの意味で癒してくれるのは、それは時間だ。一生分に近い濃い時間が必要なのだ……いや、たっぷりの、ありふれた時間でも構わないのだ。とにかく、たっぷりの、時間が。
「ずっと、一緒に居て欲しいんだ」
――ああ……そうか。私は2人になってしまったんだ。
――三上くん、あなたには、2人居るの? おれは、1人だよ。

             「事件」

真夏の湿気を肌に感じながら、明美は広く渡るガクアジサイの空を見て大きく息を吸った。昨夜と同じ道を歩けば、もう何度この道を通ったのだろうと明美は思わず感傷的な気持ちになってしまった。我が身が受験生であるという自覚が沸いて来たのも理由としてある。推薦枠も考慮したが、明美はあくまで2期選抜を選択した。あれだけして来た勉強を無駄にはしたくなかった。それから……京子の10カラットの指輪は明美の右手薬指にはめられた。透明にきらきらと光るダイヤの石には京子の胸いっぱいの気持ちが刻まれて居るだろう。明美はその右手を見ながら今まであった数々の出来事を思い出した。でも、もういいのだ。バスケットボールの中体連の前日の今日、三上くんは今頃『友達』達とコートの上で猛練習をして居るだろう。三上くんのとっておきのお気に入りの場所で。そういえばあの日の夜中に増田くんは三上くんの家に電話を掛けて来たと言う。最初はバスケに関しての作戦やら何やらの相談を持ち掛けるのかと思ったのだが、話は一変して三上くんの行動に対する説教を延々と聴かされたと言うのだ。
「お前のあの変な行動、部員に全部知られちまうぜ。この脳足りん」
「判らねえよ、おれ自身にも判らない行動ってもんはある」
「答えになってねえよ! お前って時々変な理屈垂れるよなあ。いいかよ、部員全員に知られたらお前のユニフォーム失くすぜ。エースの代わり何て幾らでも居るんだよ、ちくしょう」
「……何だ? 増田がエースの代わりになれるって話か、お得意の自意識過剰も程々にしとけよ」
「そうじゃねえ!やっぱりてめえは何にも判っちゃ居ねえ!てめえの薄気味悪りい行動が公になったら部員どころか先公の信頼も失くすんだ。てめえの事は大っ嫌いだがよ、コートから居なくなったら……公式戦の勝ち目はなくなるんだよ。お願いだから自重してくれって」
話の一連はこんな所だと三上くんは話した。増田くんの口の悪さにはまったく閉口しちまうぜと愚痴を吐いて居たが、三上くんもまた自分自身の立場が窮地に立たされてるという事は理解してるらしい。しかし自分にも検討が付かない奇抜な行動を止める事は不可能に近いと増田くんに伝えた様だ。増田くんは仕方なくキャプテンの俊平くんに頼み、折り合い皆にその趣旨を伝えるという事でとりあえず話は収まった。今頃三上くんは部員達に気味悪がられて居るのだろう。そして多数の部員は彼を罵ったりするだろう。これも、仕方ないのだ。
明美は近くの雑居ビル(公園を通り抜ければそこは都会と言っても過言ではない)に配置されてある公衆電話を借りた。最近これを見掛けなくなったのは、携帯電話の普及のせいなんだろうなと、妙に侘しい気持ちになった。どうしてだろう?三上くんに出会うまではこんな思いを感じる事等なかったのに。夏ボケってヤツかな。
「わあ、明美!?久しぶりじゃないのよ。元気だった?」
ワンコールもしない内に奈美子は明美の呼び出しに反応し、それから受話器越しにとんでもなく明るい声を響かせた。
「元気だよ、奈美子は相変わらずね。勉強の方はどう?順調?」
明美は公衆電話内のタウンページを適当に開きながら、ラーメンを食べた後であろう黄色いしみが切れ端部分に付着してあるのに気付いた。電話BOXで食事をする人が居る事に明美は驚愕してしまった。しかしその直後明美はそれに不思議な安堵感を憶えた。そして少しして奈美子の怒声が聞こえて来た。しまった。禁句だった。
「まあた勉強の話ぃ?これだから勉強オタクは。どうせ暇だし、これからそっちに行っても良い?買いたい小物があるんだあ」
「……ん。ビジネスホテル脇の古い雑居ビルあるでしょう、そこの公衆電話内に居るけれど、少ししたらビル内の喫茶店で待ってるから」
「げっ、今時公衆電話?ケータイ買って貰いなよ。明美と待ち合わせする時いつも自宅に掛けなきゃなんないから不便なのよ、ケータイあると何かと便利何だから、最近デコメにはまってるんだ、じゃね」
電話を切った音を確認すると、明美は受話器を黄緑色の電話BOXの本体の横にがしゃんと引っ掛けた。すると間もなくして小さい正方形の扉から10円玉が転がり落ちて来るのが判った。明美は暫く右手の人差し指で持ったその10円玉を見つめた。それは心細いと明美に訴え掛けて居る様な気もした。だがこの時点で――後に公衆電話外に居る黒い人影を放って置いた事を後悔する。明美は気付いて居なかったが、それらしき空気を感じ取ったのか1度自身の周りを眼で確認した。そして黒い人影はガラス張りを通した明美のすぐ傍に居た事に気付いた。明美はタウンページの一点を見つめながら、ちょうど公衆電話外の隠れて見えない場所に潜む男の気配を肌で感じた。しかし暫くしてその存在が消えたので、明美は一安心し呆けた表情で再びタウンページを眺めた。ラーメンのしみと公衆電話と携帯電話の事を考えて居た。
……携帯電話。3分で10円の公衆電話と、3分で100円の携帯電話とでは明らかに金額が違う。メールにしても、送信や受信するだけでも金が嵩む。奈美子は最近他の友人とメールのやり取りを楽しんでるらしい。しかし1分も返信が来ないと急激な不安感に襲われると、以前明美に自宅の電話越しで訴え掛けて来る事もあった。いつの間に人と人との繋がりは進歩したんだろうか。
「人ってこんなに便利な存在だったっけ」
明美は電話帳の切れ端のしみを見た後、唐突に、三上くんと会って沢山の話をした頃を思い出した。彼の眼を見つめるだけで彼の気持ちが読めてしまう。彼のほんの些細な仕草を感じ取るだけで彼の表情を覚ってしまう事が出来る。会って話せばその存在を感じ互いの情報伝達が可能になる。いつの間に、人との繋がりは便利と化してしまったのだろう。手間も掛かり面倒臭いがこんなにも簡単に心の伝達は出来る。しかし余計な手間を要し、人間の隙間に割り込んで真の誤解を生み出して居るのはこの便利な機具ではないのだろうか。とうとう最近のヒットチャートに昇る音楽にも『携帯』の文字を使う歌詞が増えた事を思い出した。そしてこれが愛すべき現代の平和の象徴なのだ。明美は名残惜しく電話BOXを後にすると、すぐ脇に建設された雑居ビルへ足を運んだ。すると黒い人影はすぐさまその姿を消した。気付いては居たが特に警戒する様子もなく明美は進んだ。しかし途中まで来たところで足を止め、来た道を振り返り、再び電話BOXを眺めた。何の変哲もない只の1つの電話器具だった。只の、錆で所々剥げただけの何の変哲もない黄緑色のアナログ電話機である。
「さようなら」
足早にビルの方へ向かうと、明美は自動ドアをすり抜け中へと入って行った。此処は京子が以前お気に入りだった洒落た造りの喫茶店だった。外面からは想像しない立派な椅子やテーブルがあちこちに配置されてある。しっかりとニスで塗られた丹誠なお洒落な椅子とテーブル。左横を見遣ると長方形の幾つかのガラス張りの窓がある。その窓から太陽が差し込む度に、家具達は影と光のコントラストを交えて透明で綺麗な佇まいをここぞとばかり見せ付けて居る。窓の両端には漆黒のカーテンが結び付けられてあり、客に落ち着きを保てる様にと色々と気を配ってる。中央の大きな丸いテーブルには花瓶に花が飾られ、豪勢にも見えるが明美にはとても質素な空間だと思えた。それはともかく、喫茶店に入ったからには何かしら注文しなければならない。ウエイターを呼ぶと1分もしない内に制服を身に纏った高齢のおじいさんがやって来た。所々額にいぼがあり、口髭を生やして居る。おじいさんは暫し明美の顔をまじまじと眺めると、
「高校生かい?」
と調子っ外れな質問をして来た。明美はしどろもどろになりながら、
「や……受験生です」
と答えた。
「おやおや中学生だったのかい。僕は此処に勤めて20年になるんだが……自分の質問に恥を掻かされたのは初めてだな、屈辱さ」
そう言って口髭をぽりぽりと掻きながら穏やかに笑った。それと同時に何て人懐っこい人何だろうと安堵にも似た淡い気持ちが膨れた。
「お嬢さん、判るかい?人の眼ってのは心を語るんだ。あなたは大分精悍な眼付きをしてる。いや犀利な様と言っても良いのかな?」
「犀利な様とは」
「頭の働きが鋭い人の事を指すものだよ。と言っても単に勉強が出来る頭の良さとはまた異なる。まず状況に応じて行動が出来る人の事を指すね。お嬢さん、あなたが15歳だとは思えなかった。さて、ご注文はお決まりかな?」
「……あ、ああ……じゃあアイスレモンティーを下さい」
手持ちが1000円しかないので、そう高い品物は頼めそうにもなかった。奈美子と待ち合わせをする時は、必ず明美が待つ羽目になるので何処かで暇を潰すしかないのだ。明美はトートバッグに入れて来た数学の参考書を眺めながら、先刻のおじいさんの言葉を反芻した。人の眼について話す人は三上くん以外には初めてだったので、安心したと同時に自分の視野の狭さに思わず内省せざるを得なかった。じゃあ奈美子の眼は質朴な心の様を語ってるというのか。そして三上くんの眼は篤実なそれを語ってるというのか。前者は飾り気がなく素直で世間ずれもしてない。後者は情に厚く誠実であり、とても真面目である事。まさに、ぴったりだ。明美は笑いを堪えながら日本語の有り難味を感じた。眼は心を表すって、やっぱり良いじゃない。笑いが止まらない。
「お待たせしました。お嬢さん楽しそうだね。そんなにその参考書は面白いのかい?あ、この分は僕が支払うから寛いで行ってね」
おじいさんの一言に明美は途惑った。
「いやこれは……私が払いますから」
「良いんだよ。この店は僕1人で仕切ってる様なものだから。明日には閉店するからね。世の中は不況だから仕方ないのだよ」
「……閉店、ですか」
「まあ、そんなに深刻にならずに。これはしっかり冷やしてあるから、甘みも控え目でお嬢さんの口には合うんじゃないかな」
たしかに、このレモンティーは甘さが控え目にも関わらずしっかりとした味わいを際立たせてる。しかも輪切りのレモンが甘酸っぱい匂いを漂わせてる。喫茶店の中はクーラーを利かせてないせいもあり、冷たさが倍増してとても美味しい。グラスにはたっぷりの氷が詰め込まれてグラスの外面からは水滴が幾つも幾つも零れ落ちて来る。両手に滴る雫の粒が心地良い。この上ない至福の時であった。明美は中央の椅子に腰掛けており、左手のガラス越しに見えるのは当時京子の事故現場である交差点だった。昔の記憶を掘り返したい訳ではなく、明美の中では吹っ切れた事実であるからこそ向かった場所であるのだ。平日であるというのに人は途切れる事なく時折ぶつかりそうになりながらもどんどん人を擦り抜けて目的地へと向かうのだろう。あの場所はもう凄惨な事故現場ではない。そう確信した。明美は腕時計を見た。10時46分を指している。待ち合わせの時刻は10時半だ。この位の時差なら何て事はない。奈美子はいつもこの調子だ。明美が色々と思いを張り巡らしてるその時に、自動ドアから人が入って来る気配がした。おじいさんの「いらっしゃい」との言葉にも無言で答え、夏だというのにニット帽を被って居る。またあの人。暑くないんだろうか。
「ちょっと明美!明美ってば!!」
後ろから誰かが明美の背中を叩いて居る。……ん?
「何ぼやっとしてんのよ、まったく。待ち合わせの時間遅れてごめんね。でもこの店、何だか気味悪くない?」
ニット帽の男のせいで、まったく気が付かなかった。
「そうかな、落ち着くよここ。明日で閉店らしいし、奈美子も何か頼んだら」
奈美子はそのおじいさんにイチゴサンデーを頼んだ。いかにも奈美子らしい。手に持ったゴールドのボストンバッグを明美の横の空席に置くと、いきなり手鏡を出して化粧をし始めた。推薦で小論文を書くだけの奈美子は余裕綽々として決め顔を作りながらマスカラを塗って居る。学力選抜の受験生に対してのあてつけか!
「あのさあ、明美」
相変わらず手鏡を見たまま話す奈美子は何となく大人びた感じがした。前よりもずっとずっと明るくなって居るのも、たしかだ。
「何」
「三上くんとはどうなった?」
「どうなったって」
「だから何か進展あったのって訊いてるのよ」
奈美子があまりにも糞真面目な顔をして言うので、明美は思わず赤面してしまった。三上くんとは何もなかったとは言い難いが、そんな恋人同士の様なものは得てして考えて居ない。あの時の明美は、京子のしがらみで心が抑え付けられ苦しんだ三上くんをせめて助けてあげたかっただけの為に行動したのだ。そんな甘いものは何もない筈。
「京子の愛憎で苦しんでた三上くんを少し救えた様な気はする」
確証もない、証拠もない、だけれどあの時の2度目の告白はずっと忘れないだろう。忘れる事何て出来やしない。感情と感情のぶつかり合いは冷静な判断を狂わせてしまうが、ほんの少しの熱情さえあれば冷静さはきっと保てると思って行動した。いや……明美にも何だかよく判らなくなって来たが、一先ず事の発端を抑える事は出来た筈だ。
「救う、助けるばっかりね、明美」
「……え?」
――いったい何を言ってるんだ。三上くんの為を思って精一杯動いたのが裏目に出たと言いたいのか?京子の事すら?明美は一気に混沌とした日常に引き戻された様な気持ちになった。つまり……日常の静けさから思考を突き抜かれたのだ。
「自分の事は考えない訳?そんで幸せだって?公園で言ったでしょ、明美は物事を深く考え過ぎるって。もっと自分の事考えてあげなよ」
――自分の事を考えてあげなよ。この言葉に胸の奥を貫かれた様な鋭い痛みを感じた。私は充分自分自身の立場を弁えていままで行動して来た。奈美子の事も三上くんの事も……そして京子の事も……客観的に考え相手に対して思いやりを持とうと必死だった。それなのに自分の事を考えてないとはどういう事だ。何だか、とても、淋しかった。
「大体傍から見れば好き合ってる同士にしか映らないわよ」
――私が三上くんを好きだと?最初の頃三上くんから呼び出された時に発したあの言葉は紛れもなく『告白』だった。しかしあれは三上くんに追い抜かれて遠い世界に行ってしまう事を恐れた故から口走ってしまった意味の『告白』だ。惹き付けられる魅力が三上くんにあるのは判って居る。それは『憧れ』に過ぎないと思って居る。それがそんなに悪い知恵を働かせた打算的なものだと言うのか。
「明美と公園で話し合った後、三上くんに電話を掛けたのよ。私はアンタ何かに取られるのが嫌でたまらなかったけど、彼への想いを全部ぶつけたつもりだった。最終的に彼が言ったのは何だと思う?」
明美は俯いたまま何も言えずじまいだった。居心地が悪かった。奈美子が腹の底から思い切り溜息を付くのが判ったからだ。
「鈍感も此処まで来るとバカにしか見えないわ、明美」
憤慨した。奈美子を此処からいますぐ立ち去って欲しい位の怒りが込み上げて来るのが判る。奈美子よりもバカだと言うの?バカ!
「あのう……イチゴサンデーお待たせしました。しかし何をそこまで2人して険悪な雰囲気になって居るのですか」
「明美が三上くんを好きだと自覚しない事にムカついてるのよ!」
おじいさんにもタメ口で利く奈美子の何と迷惑極まりない。おじいさんは奈美子の眼を見た後、すぐさま明美の眼に視線を移した。
「ほう……自覚しないというのはまだ発展途上の恋心の芽生えですな。つまり『初恋』だ。お嬢さん、焦る事はないがそこまでして彼を救うというのは一種の愛でもあるのだよ。他人の為に尽くしてやりたいのは判るが、やり過ぎると身の破滅を及ぼしてしまう。『憧れ』では決してない。焦る事はない。しかし逃がせば、後悔の塊があなたを縛る事になるのだよ」
明美達の話をこのおじいさんは聴いて居たのか?いやイチゴサンデーの下ごしらえの準備をして居たと言うならば、この席からカウンターまでは距離が遠い。つまりこの考えは棄てる事になる。ならば一種の超能力を持ってるとでもいうのか。いやここまで論理的かつ的確に明美達の会話を無駄なく話せるのは超能力でも何でもない。つまりこの考えも棄てる事になる。じゃあ、何だというのだ。
「ははは。お嬢さんには判るだろう?人の眼を見れば多からず少なからず心は読めてしまうものなのだよ。その彼はあなたに愛を持って居るんだよ。いや今時の若者には恋と言った方が的確かな」
そう言い残しておじいさんは再びカウンターへと戻って行った。心なしか足取りが軽快であるのは気のせいなのか。
「あのじいさん、凄い奴だね。惚れそうよ」
「何言ってるの!少なくとも60歳は行ってるよ」
「ばっか。今ので判ったでしょ?三上くんはアンタに惚れてんのよ」
明美は取り乱さざるを得なかった。心が無茶苦茶に張り裂けそうだ。嬉しいという所懐を持つと同時に心惑う困惑が頭の中を占めた。おじいさんや奈美子の言う事実というものはこうだ。『京子の事を差し置いてまで三上くんは明美を思って居たという事なのだ』これ以上の内実閉口はない。ならどうして明美の心は微々たるものの当惑しか垣間見せる他に方法がないのだろう。事あるごとに裏付けられた事情をすべて自分任せにしたのだ。だからこそ奈美子はこうの給うのだ。
「ねえ明美ぃ。もう1度訊くわよ。最終的に彼が言ったのは何だと思う?」
「……明美は大切な存在だって?」
「明美が大事な存在という以上に、ずっと好きだったんだ」
……何!?奈美子は躊躇いもせずさらっと言った。とてもじゃないけれど受け容れられないどころか世界中を震撼させたアメリカ同時多発テロ事件を想起してしまったではないか。あの2つの高層ビルに旅客機が突撃した時のあの惨劇は忘れる訳はない。しかし2つのビルは言い方が不謹慎だが仲良くがたがたと崩壊して行ったじゃないか。崩れ去るあの場景は1つのスローモーションとして明美を釘付けにさせた哀れな事件である。たしか2つのビルは互いに先端をぶつけ合いながら、建物の欠片と一緒に人々までもを巻き沿いにしそのビルから逃げる様に飛び降りて行った。何の躊躇もせず、だ。そして2つのビルは無惨に粉々と砕け散った。まるで寄り添う様にテロの首謀者が望んだ様に。……躊躇いもなく、2つの高層ビルが、寄り添う様に、ぶつけ合った……?明美は傍から見れば変な例え話を垂れ流し変人な妄想をして居る様に見えるのだろう。しかしそれは明美にとって重大な事柄であった。それは――躊躇いもなく三上くんが明美に寄り添う様に感情をぶちまけて居た――それに相当するのではないのだろうか。三上くんは自分でも気が付かない内に明美に対してさり気なくアピールをして居たという事になる。それに感付く事も察する事も出来なかった明美は実に忠実な鈍感娘だったという結論になる。つまり、バカだ。紛れもなく、私はバカだ。
「いい加減、気付いた?」
「うん。2001年の9月11日の現地時間10時28分に起こったアメリカ同時多発テロ事件を思い出したら気付いた」
「はあ?」
「……私は、三上くんが……好きだよ」
その瞬間、その瞬間に見せた奈美子の表情は、この先明美には到底感じ取る事はないだろう。いままで見た事もない破顔した表情の奈美子を、この上なく友人を幸せに思う綻ばせた顔を、明美は知り得る訳もなく、冷え切ったレモンティーを黙々と啜った。しかしその顔は知られたくもない秘密を暴露されてしまった様で、明美は度々咽て居た。
「そろそろ出る?」
奈美子はイチゴサンデーを食べ終わった様で、逆三角形の大きなグラスはいつの間にか空っぽになって居た。しかしどうもあのおじいさんは奈美子の食べ方が気に食わないのか、「グラスが透明になるまできちんと食べて貰わないと」と愚痴をこぼした。明美はというとレモンティーに入った氷も輪切りのレモンもすっかり食した様だ。そのグラスは窓ガラス越しに透け、黄色い太陽の光が当たり見事なコントラストを成した。おじいさんはそれに感銘したのか明美に何度も何度も感謝の言葉を並べた。この店は今日限りで閉店するのだ。明美はその悲しさ故に、あの透明度の高く美味しかったアイスレモンティーにだけは、感謝の弁をおじいさんに言いたい位であった。ここぞと入れた氷とほのかな甘酸っぱい匂いのする素朴な味のアイスレモンティー。これだけは忘れられないだろう。忘れないよ。奈美子が自動ドアを開けて外の日常へ向かう時、明美の背後の席に座って居たニット帽の男が立ち上がる気配を感じた。奈美子は素っ頓狂な面持ちで明美を見遣ったが、急にとんでもなく恐ろしい事になりそうで奈美子を急かす様に背中を叩いて「早く、早く」と言ったが、それはもう、手遅れの合図にしかなり得なかった。そして喫茶店内に轟く様な銃声が何発か鳴り響いた。明美は両耳を両手で力いっぱい押さえた。男が持ってる銃はショットガンだ。奈美子は自動ドア越しに明美を呼び寄せようとドアを何度も何度も叩いたが、ドアに向けられた拳銃が奈美子に向けられ、そのドアが瞬く間にガラスの破片へと変貌するのを見た。破片の割れる音が耳を劈いて思わず明美はテーブルの下へ伏せた。ああ、奈美子!逃げて!奈美子は奇跡的にもその破片も浴びる事(破片が眼の中にでも入ったらとんでもない、奈美子は死んでしまう!)なく脇の雑貨屋の方に逃げて行った。明美は奈美子を裏切り者だとは思わなかった。当たり前の行動だったからだ。警察に、警察に電話して!おじいさんは逃げ惑う様な事もせず、只ひたすらあの男の説得に応じて居た。しかし男はおじいさんには興味を持たないのかショットガンを突き付ける事はなかった。曖昧な返答を繰り返してるだけである。
「おれはじじいには興味ねんだよ。おれの狙いは、その女だ」
男が言った言葉を瞬時に理解出来なかった。何故明美を狙うのか何故喫茶店に入る明美を判ったのか、思考が混乱に混乱を重ねて、テーブルの下に只頭を抱えて現状を把握出来ないまま、男が明美に近づいて来る気配だけが身体中に浸透した。早く、早く何とかしないと!明美は椅子の上にあったトートバッグに眼を配った。これだ。男の温度が確実に明美に感じられた瞬間、伏せた身体を素早く起こし、明美はその男の左腕を華奢な右手で取り上げた。そして偶然にも持って居たボールペンで男の左腕を力の限り突き刺した。肉の嫌な感触がすぐ伝わり、明美はボールペンを思い切り抜き取った。丁度動脈の辺りを狙った筈だが、男の左腕からは僅かな血が流れ出ただけだった。男は怒りに任せて明美の右肩を撃ち、明美は撃たれた衝撃で椅子を薙ぎ倒しそのまま仰向けに倒れた。左手で右肩を必死に押さえた。おじいさんが警察を呼ぼうとカウンターの中に入り電話を繋いだ。しかし繋ぐ間もなく男に発砲され、残されたのは床に転げ落ちた受話器だけである。警官の声が始終聞こえたが、それ切りだった。この外道!外道!ちくしょう……あのおじいさんは死んだのか知る術もなく、男は明美に近寄りこう言い放った。明美は決死の中おじいさんの顔を思った。
「じじいの急所は外したよ。お前と同じ右肩を狙っただけだ。さあ、立てよ。目的は他にあんだよ」
無理やり右腕を掴まれ、明美はビルの屋上へと引っ張り出された。階段は4階あり今の明美にとっては右肩から流れる血を押さえるのが精一杯であった。しかし肩を押さえる暇もなく後ろからショットガンを突き付けられたまま駆け上る階段は悪夢だった。その強引な男から見受けられる絶対的な緊迫感のせいで、もはや痛みは感じなくなり、圧迫する淀んだ空気を吸うのが屈辱的なだけであった。息も絶え絶え右肩から溢れ出る血を止める方法もなく、屋上へと連れて行かれた。呼吸が整った頃にようやく痛みを感じた。痛い、痛い、痛い。無理やり立たされたせいで右肩の痛みも倍増した。明美は思考を駆け巡らせた。――此処で死ぬの? 死んじゃダメだ。此処で死ぬ位なら……
「おれはなあ、12月10日に起こした事件の加害者なんだよ」
瞬間、明美は閉口した。こいつが……京子の自殺を招いた加害者?しかし京子と明美の接点を知らない筈だ。明美を殺す必要があるのか。いったい何の為に明美を呼び寄せたのだ。その加害者と顔を合わせる事で、まさかこんなにも心臓の鼓動が速くなるとは思ってもみなかった。殺されるという恐怖感よりも京子と接点があったこいつに対する憎悪が真っ先に浮き出て来たからだ。
「あの日サツに取調室に連れて行かれた時にね、女のプロファイルを偶然見ちまったんだよ。そしたら何だ、家庭教師相川京子、中学2年の飯田明美に勉強を教えて居た、とまでご丁寧に書かれてあったんだなあ……未成年なのに、お気の毒に。おれは取調室で苦痛な尋問を毎日毎日受けさせられた。ありゃ拷問だと思わない?思うよね。仕事は首になってついにはサツの隙を突いて日雇いの職に就くしかなかったのさ。でもそれも首になったんだよ。まあ当然っちゃ当然のざまだわなあ……業務上過失致死障害って奴でさあ、どうやら3年の懲役を下されてんだよ。納得いかねえさあ、一方的な不注意での事故でもねえし、信号無視した訳でもねえのによ。おれは今ムショ抜け出して此処にいんだよ。あの女のせいでおれは全人生を狂わされたんだ。その代償として……」
男は薄笑いを浮かべながら、言葉を吟味する様に上唇を頻繁に舐めた。いや吟味して居るのではない。困惑させる為の罠だ。遊んで居るのだ。明美を甚振りいままでの屈辱を晴らそうと、演じてるだけだ。そしてこいつは間違いなく気違いだ。その次の言葉はバカでも判る。
「明美さんを殺すんだよ」

          「人間じゃない」

奈美子は雑貨屋の看板に身を寄せたまま暫くうずくまって居た。その身体は振るえ精神的に安定を保つ事など到底出来る筈もなかった。緊急手段の時にはどうすればいいのか、明美が人質に取られて今頃殺されそうになって居るかも知れない。そしてもしかしたらもう手遅れかも知れない。ああ……どうしたら良いの。取り乱した奈美子は真紅の携帯電話を見た瞬間思わず手放しそうになった。しかし現状を把握出来てるのは奈美子しか居なかった。三上くんは今頃学校に居るだろう。そうしたら電話を掛けなければいけない。
「そう……け、警察にも電話しなきゃ」
先に警察へ電話を掛けようと恐怖に戦く右腕を押さえながら右手の親指で110と押した。ワンコールで警察は奈美子の呼び出しに応じた。まず事件が起こった住所を教えた後、何が起きたのか等の状況説明を端的に話した。そして多分店内の中に居るであろう明美の身の危険を、最後に話し電話を切った。奈美子はいままで警察に電話を掛けた経験は一度もない。こんな数秒の間だけで奈美子の息は上がってしまった。息を整えなければならない。しかし速まる鼓動を今更落ち着かせてる暇はない。三上くんに電話をしなければならないからだ。大切な人を奪われてしまうという一か八かの選択に必ず彼なら来てくれる。奈美子は三上くんの携帯番号を押して(どうして9桁もあるのよ!)繋がるまでの時間を待った。何故かその時間がとてつもなく遅く感じられた。一刻を争う克明な時間である筈なのに、それがどうしても憎らしくて溜まらなかった。――遅い。呼び出し音が鳴るまで5秒、電話音が鳴って三上くんからの応答が来るまでの時間は約3分弱だった。三上くんの電話越しからはバスケットボールの音が絶えず鳴り響いて居た。予測した通り三上くんは電話に出てくれた。やっと、繋がった。
「あれ、どうしたの?」
何とも明るく平和な声が聞こえた途端に、奈美子はいままで言おうとして居たすべての事柄が吹っ飛んでしまった。頭の中が真っ白になり、動揺を隠せず、この人にたった今起きた事件を話しても良いのかすら考えた。知ったらこの人は逃げ出してしまうだろうか、もしかしたら事の重大さに気付いて狂気と化してしまうのではないだろうか。しかし奈美子には言うべきものなのか言わないべきなのかどちらにせよ隠し通す程の嘘を付ける程、多大な精神力はなかった。
「……明美が……明美が連れ去られた」
電話からの応答が急になくなった。ほんの1秒間の沈黙が続いた。沈黙が長過ぎる。お願いだから沈黙は止めて。しかし、それから早口で捲くし立てる様に、三上くんの大声が電話を通して聞こえて来た。
「どこに?誰に連れ去られた。川下、お前どこに居るんだ」
「……公園から10分もあれば着く雑居ビルの脇の雑貨屋の傍に、居る……何か判んないけどニット帽被った男が、明美を、多分屋上に連れて行った様な気がするのよ」
「判った、今行く。念の為、明美の家にも電話を入れろ」
「それはいいと思う……警察に電話したから……」
「警察何かほとほと充てにならねえ、いいから電話するんだ!」
奈美子は三上くんの罵声に圧倒され、雑貨屋に建て掛けられた小さな看板の横に尻餅を着いた。先刻まで僅かに腰と尻を浮かせ、左手を太股に添えたまま、右手で携帯を握り締めて居るだけだった筈なのに、この現状が現実だと改めて気付かされ気が抜けてしまった。奈美子は三上くんの助言を無視してしまい、思わず携帯をコンクリート上に放り投げてしまった。仰向けに倒れたまま、奈美子は放心した様に空っぽの眼をちらつかせた。一点の曇りもない青空がやけに遠かった。このまま手を伸ばしても届く筈もないのに奈美子は真っ直ぐ上に腕を伸ばした。何にも知らない通行人が奈美子を精神病患者だと口々に言って居る様な気がした。悪いのだろうか。只仰向けになって青空に手を伸ばして居るだけの何が悪いのだろうか。時々通行人の1人が「あんただいじょうぶ?」と声を掛けてくれたが、それはあからさまな中傷としか捉えられなかった。――今は私は周囲からは疎外された人間なんだ。1つの輪の中の空間に閉ざされた身の毛もよだつ単なる個体なんだ。周りに危害を加えて居る訳でもないのに、これ以上、邪魔されてたまるかよ。アンタ達の為に、私はこうして騒ぎを起こさない様に黙秘してるんだよ。それがどれだけの苦痛か知ったこっちゃないだろ。私はこうして待ってる人間が居るのよ。無惨に割れたガラス窓に眼もくれないで、あくまで他人事だと思ってるアンタらよりマシだわ。それを邪魔されてたまるかよ!奈美子は空に掲げた腕を下ろし、携帯を持って雑居ビルへ向かった。そしてガラス窓から大げさに外に巻き散らかされたガラスの破片の一部を手に取った。触ったせいで右手の親指から血が流れたが、明美の強いられてる状況よりはマシだとすら思った。ビルへ向かう途中ふと携帯から着信音が鳴り、奈美子は迷わず手に取った。
「今、着いたぜ」
三上くんの息が弾んで居るのが電話越しでも判った。激しい息遣いからして多分走って来たのだろう。三上くんは雑貨屋の中に隠れてると言った。奈美子が外のガラスが散った場所に居ると伝えると、
「判った、今行く」
と手短に言って電話を切った。すると雑貨屋の中から男の子が出て来た。奈美子は一瞬、それが三上くんだと気付かなかった。何故ならとんでもない威圧感を身体全身に漲らせてる様な気がしたからだ。眼付きからして前の三上くんとは違った。夏のジャージ姿のまま来たみたいだが本来ならば極普通の少年だ。それをどうしてこんなにも変わらせてしまうのだろうか。やんちゃなあの少年とは違う。野性的な眼付きをした青年にも見えた。奈美子はうろたえた……何かが居るの?
「家に電話した?」
「……してない」
「そう」
三上くんは迷いなくガラスの散乱した地面を踏み締めて雑居ビルの中へと入って行った。騒然たる人込みには眼もくれず、何も持たないまま自動ドアを擦り抜けて行った。警察等充てにはならないという冷徹な言葉が奈美子を支配した。奈美子もガラスの破片を手に持ち三上くんの後を追った。思えばガラスの破片は目立ち過ぎる、奈美子は自分の服の一部を引き裂いてそれに包めた。そしてジーンズの脇腹辺りにすっと差し込んだ。――周囲の人の奇異な眼等格別気にならない。傍観者として楽しんでみて居るだけなんでしょう?これから何が起こるか想定不可能な面白い事をやらかしてくれると期待してるんでしょう?それよりも奈美子の眼の先にあるのは只明美の事だけである。中に入ると撃ち込まれた銃弾の跡が椅子にもテーブルにもそこら中にあった。奈美子が逃げてる最中にも居たたまれない惨劇が催されて居たのだ。奈美子は唖然とした。よりにもよって明美が座った椅子が蹴倒され、絨毯の上に数十発の弾丸が残ってる。その花柄の模様の絨毯の上には所々の白い部分に少しばかりの血痕があった。奈美子がその血痕に触れると、生温かい血の匂いがした。そして血の付いた人差し指をそっと鼻に持って行くと、更に嫌な匂いに奈美子の鼻がぴくっと反応した。これはレバーの匂いだ。それも生肉の匂いだ。これは明美の血なのか……?奈美子はあまりの気持ちの悪さにその場で卒倒しそうになりながらも、必死で持ち堪えた。思わず血の付いた指を即座に絨毯に擦り付けた。この生臭い血の匂いは明美のものなのか……?
――……明美?あ、あけ……
「触らない方がいい」
「だ、だって明美が……」
「あいつは死なない」
三上くんは冷静に周囲を観察し、カウンターの辺りも見渡した。奈美子が眼を遣ると、おじいさんが居た場所には受話器が転がって居た。しかしおじいさんの存在はない。もしかして、殺されたの……?
「居ないんなら自分で救急車呼んだんだよ」
澄ました顔をするのはまるで三上くんを装ってる犯人みたいだ。ついに奈美子は耐え切れなくなり、三上くんの態度に激怒した。
「何でそんなに平然としてられるの!?おかしいと思わないの?殺されてるかも知れないのよ!ちゃんと見たの?あそこに明美が座ってたのよ!それが何よ、銃弾が幾つも転がってる。三上くん、あなた人間じゃないわ。ほんとうは助ける気何てないんじゃないのよ!」
その怒声は喫茶店外にも伝わり、周囲は更に騒然とし始めた。警察が来る様子もなく人々の混乱を招いた。しかし奈美子は一貫して明美の事を主張した。どうしてそんなにも冷静で居られるのか判らなかった。血の跡を見ても何の反応も示さない三上くんをおかしいと思った。
「なあ……」
奈美子はその後ろ姿にびくっとした。表情が窺えないせいもあったが、それだけではなかった。割られたガラス窓から光は差し込んで居る筈なのに、三上くんの後ろ姿は、何というか……黒かった。
「殺される前提ですべてを語らないでくれよ」
一言喋っただけで、三上くんは屋上へ繋がる階段を足早に掛けて行った。しかし奈美子にはその一言があまりにも強烈だった。奈美子は、明美が殺されて居るかも知れないと本気で思ったのだ。周囲のまだ新しい血痕や幾つもぶち込まれた銃弾の跡のせいで、奈美子自身の精神状態が冷静な判断を下せなかった。――もし明美が殺されたらと考えると三上くんからも他の友達からも遠く見放されてしまうのではないかと、そんな非情な疎外感を感じたんだ。無理やり1人ぼっちの世界に突き落とされるのが、怖くて怖くて淋しくてたまらないんだ。果物や大好きなイチゴを食べても、もう単なるモノクロにしか映らないからと私なら捨ててしまうだろう。そして周りにあるすべての食べ物を美味しい何て感じないで、肉や魚を食べてもきっと、きっと乾き切った雑草の味がするんだろう。やっぱり、こんな事態になる事で酷く感情的になってしまうのは、私がいつも自分自身の事ばかりしか考えて居ないからだろう。あれ程明美が公園で諭してくれたのを、今、邪険に扱ってしまったのは、明美を心から信頼する事が出来なかったから。私が明美を、ほんとうの友達として見てなかったから。明美を、心から信用する事が一番の私にとっての第一だったのに。唯一無二の存在は自分しか居ないと考えて居た事こそ、初めから誤ってた。それなのに、三上くんまでをも、人間じゃない何て扱き下ろして……私っていったい、何なんだろう……何の為に、ここまで来たんだろう。
それから奈美子は脇目も振らず三上くんの後へ付いて行った。階段は4階ある。駆け足で上って行くが、三上くんの様に2段飛ばしですいすい上がれる筈はなかった。屋上の手前まで着た頃、どんどんと激しくドアを叩く音がした。やがて三上くんは普通の手段でドアを開けるのを諦めたのか、いつまでも棒立ちのまま何かを考えて居た。このドアは銅と亜鉛で出来た真鍮の物だ。どうしていつまでも開けないのだろう。しかし三上くんはじっとドアノブ辺りを注意深く見た。もしかしたら何か細工がしてあって誰も入っては来れない様に厳重に念入りに手技を施したのかも知れない。三上くんは、ちらっと真鍮のドアの横を見遣った。
「鍵掛けられてんだ」
「鍵!?」
「そう、鍵……」
それならば、案外簡単に蹴飛ばせるのではないか……屋上手前のドアの長方形の小さい窓からは、誰の姿も見える事はなかった。透明ではあるが中は見えない。緩やかな波の様な曲線が張ってあって視界をぼやけさせてる。学校のトイレにもこんな窓があった事を思い出した。三上くんは、ドアの横の壁に立て掛けられてある工事用のどでかい鉄板を両手で持ち上げ、頭上に掲げた後、思い切り力を込め、そのドアに振りかざした。物凄い大音量が聞こえた。まるで生徒が教師に対して不満を持ち教室から去って行く所でドアをばちんと閉める音のそれに似て居た。しかしこれは鉄板と真鍮との争いだ。真鍮のドアは呆気なく上部分から落ち、屋上の向こうに重々しい音を立てて、暫くはその音がずっと鳴り響いて居た。その向こう側には、明美とニット帽の男が見えた。あまりの衝撃に唖然としたのか、ニット帽の男が三上くんの真正面に銃を向けた。距離は約5m程だった。男は明美の肩を強く抱き寄せ羽交い絞めにも似た行動を取った。明美の一m程後ろ側には勿論柵があり、いつでも突き落とせる様、あらかじめ脅してる風にしか見えない。
――明美……
「こいつの仲間か」
男は三上くんに銃を向けたまま言った。しかし三上くんは正面を見据えたまま、上目遣いに男を睨んで臆面もなく答えた。
「知り合いだ」
安易に『おれは明美の恋人だ』何て余計な事を口走ったらきっととても厄介な事になるだろう。三上くんはあえて予防線を張ったのだ
「へえ……良い度胸してんじゃん。この娘が『知り合い』?……知り合いねえ。必死に追い掛けて来た割には随分と素っ気無いじゃないのよ」
三上くんは奈美子の胸の前に右手を平行に伸ばし、庇うと同時に、張り倒した真鍮のドアの向こう側に戻る様に仕向けた。その行動に仕方なく、奈美子は未練な気持ちを引き摺りながらもドアの向こうに身を潜めた。奈美子の手は微かに震えたままその状態を保ち続けた。
   
           「境界線」

明らかだ。男が持って居るのは紛れもなくショットガン(散弾銃)だ。しかしあれは複数の弾を発射させる事はない。あの店内に残った弾丸を調べたが、弾の大きさも異なり、あちこちに複数の弾をぶちまける物ではない。あれはスラッグ(一発弾)弾専用銃身にスコープを取り付けた物だ。本来ならば狩りをする為の猟銃であるが(鳥類や雀、そして熊等を狩る)この男は何故か人を殺す為だけに許可を貰い堂々とここに現われてる。世界中にもこんな狂った奴がのさばってるのだろう。いや、この言い方は正しくない。世界中にはこんなにも『純粋』な奴らがのさばってるのだろう。本能に赴くまま、ただ純粋に行動して居るだけだからだ。
「お前の銃にはスラッグ弾しか入ってないな?」
三上くんが詰問すると、
「詳しいもんだな、ガキの癖して。流石に公の場で散弾銃ぶっ放す勇気はないもんでね」
と答え、ほくそ笑みながら男は明美のうろたえる様子を楽しんで居る。――なんだこいつは……明美を殺す理由が何処にあるって言うんだ。しかし単なる快楽殺人者とも思えない。金銭目的の悪党にも見えない。表面上楽しんでる様に仮面を被ってるだけにも見える。もしやこいつは、過去に凄惨な出来事を経験して来たんじゃないのか……
「スラッグだけでも充分威力はあるぜ、公ではもう騒ぎが起きてる」
「へえ、脅してるつもりか?おれの目的はこの女だけなんだよね」
その途端、三上くんの眼は更に鋭くなり、男を威嚇した。この男にどんな事情があろうと、明美を目的扱いされてはたまったものじゃない。男がその表情に気付くと、ショットガンの引き金を引こうと手を掛けた。すると明美は三上くんに向けられた銃口に左の手の平を当て銃口全体を包み隠す様に強く握った。男は無我夢中で明美を引き離そうとし、明美はコンクリートの上に叩き出された。小さな呻き声を上げるとその男を睨み付けた。
「ぶっ殺されてえのか、てめえは!」
――明美、無茶するんじゃねえ。銃口何かに手を当てたら、お前の手は粉々になっちまうんだぞ。
「おい……これ以上やったらお前を張り倒すぞ。目的は何だ」
三上くんはこれ以上ない相手を睥睨する眼付きで男を見た。明美は眼を大きく見開き、男の傍に座らせられたまま、か細い声でいいから逃げてと叫んだ。三上くんはその明美の悲痛な叫びに動揺を隠せなかった。
――明美、今こいつから逃げる事になったらお前が無駄死にする羽目になるんだ。だがどんな方法であれお前を助けるさ、警察?くそくらえだ。
「おっ威勢が良いねえ。おれの目的?そりゃ女さ。1年前の事件を憶えてるか?おれは相川って女の加害者として警察にとっ捕まったのさ。あいつが突然突っ込んで来ただけなのによ。取調室じゃ拷問にも似た仕打ちを毎日受けたんだ。サツの隙を突いて今や仕事は日雇いで賄ってくしかねんだからな。でもそれも首になったさあ。お陰様で3年の懲役喰らったよ。赤信号無視した訳でもねえのによお。一方的な不注意とやらで50万払ってとんずらした方が良かったかなあ。しかし偶然にもあの女のプロファイルを見ちまったんだよな、『家庭教師相川京子、中学2年の飯田明美にお勉強教えてました』ってな。サツも卑劣なモンだよなあ、未成年の本名を晒す何てよ」
――そうだ、その通りだ。警察はそれ相応の奉仕をしてるつもりだろうが、訊いて来るのはいつも『事実の証拠』だけだ。それだけが『目的』だ。この男は事故で解決されてしまった事に対して腹立たしくてたまらないのだろう。当然だ。警察も大概だ。こいつも大概だ。日雇いの仕事をする羽目になったのを警察や相川のせいにする気持ちは少し汲み取ってやる。同じ屈辱を受けた者同士としてな。だから情も持てる。だが、明美には何の罪もない。ただの1人の女の子だ。それ以上何がある。……しかし何故50万の罰金を払い逃げてしまわなかったのだ?遺族に対する保障ならば、働けば何とか返して行ける範囲だろう?どうしてそれを懲役まで受けて自分を見殺しにするんだ。
「とにかく、明美には何の罪もねえ。離すんだ」
「あーあ、説明すんの面倒くせえ。なら、こうしてもか?」
すると男は明美の髪の毛を引っ張り強引に柵の方へと向かわせ立たせた。銃口を首筋に強く当て、挑発する様に三上くんを見遣った。しかしやはりその男のやつれた眼の奥は、とても人の物差しでは計れぬ物悲しい気持ちを訴えてる気がした。あの『事実』に苛まれてこちらに救いを求めてる様な気がした。明美は精神的なショックからか抵抗する気力もなくただ男の言うがままにされて居た。しかし強く眼を瞑り、歯を食い縛ってるのが見て取れる。明美の思考はもはや、怨恨で埋め尽くされてる。三上くんはこの男が憎らしくてたまらなかった。しかし男の言い分が判るだけに今一歩踏み込む事が出来なかった。
「み……三上くん……こんな奴何か……殺されて、当然だよ……京子を轢き殺したのは……幾ら何て言おうとこいつ何だから……」
明美の言葉に相当ぶち切れたのか頬を何度か引っ叩き、柵の上に明美を乗せた。柵の上に跨られた明美がこの男に情を持てる筈がない。今明美が考えてる居るのは、この男に対する無慈悲な心以外の何物でもないのだ。三上くんは、明美を一刻も早く助け出したかった。しかしその2人の感情の狭間で、ついに三上くんは憂悶する以外に手立てがなかった。この男は『加害者』でもあり『被害者』でもあるからだ。真鍮のドアの隙間からその光景を目の当たりにした奈美子は思わず悲鳴を上げた。もうここは決断するしか他はない。三上くんは大きく息を吸い、そして吐いた。吐いた息すらも灰色に見える位だ。――この男を殺したくない。この男だって充分人間の情があるではないか。ただ歩いて来た道を少しばかり踏み外してしまっただけだ。踏み外したなら心持ち脚を浮かせて元のレールの位置に戻れば良い。だが、こいつは今その2つの気持ちを合わせて巧く統制する事が出来ない。その境界線を見定める事も出来て居なかった。ならそれが不可能ならば、こいつは、いったい何の為に生まれて来たのだ……?真っ先に1番に救いたいのは、明美だ。明美がいままでに何度おれに優しさを分け与えて来てくれただろうか。相川とのしがらみをほんの少し解いてくれた。そして彼女のとぼけた顔が好きだ。何処を見定めてるのか判らない透明感のあるあの眼が好きだ。感情的になっておれを無理やり現実に引き摺り戻してくれた彼女が好きだ。おれは彼女が好きなんだ。それ以上に何があるっていうんだ?それなら、絶対的なバクチを打つしかなかった。この現状には1つ穴がある。穴があれば徹底的に追い詰める事は出来る。勝ち目があるバクチは打たなければ大損だ。おれはこの瞬間、この男と明美の真ん中に大きく線を引いた。男は今三上くんを見ては居ない、柵に腹が食い込み苦しんでる明美を見て面白そうに眺めて居るだけだ。お得意のショットガンも柵の向こうに右手と一緒に共存して居る。――この穴を狙うんだ。三上くんは内ポケットに入れた銃を男に向けて言い放った。
「こっち向けよ」
男が現実に振り返ると同時に、
「ばあん」
と銃声が鳴った。
しかし束の間の沈黙の後、男はゆっくりと立ち上がって三上くんを見据えた。失敗したのだ。大概死ぬ訳がない。偽物の銃だからだ。近場の玩具売り場で購入した子供の遊び道具だからだ。銃声は三上くんの発した声に過ぎなかった。しかしこれでも充分な効き目があった筈なのだ。相手が隙を見せた瞬間に下手糞な芝居を演じる事で、相手は多かれ少なかれ一瞬の戸惑いを見せるに違いなかった。だが、結果は失敗した。三上くんは立ち竦んだまま玩具の拳銃をコンクリート上に落とした。奈美子や明美までもが絶望的な空気を読んだ。三上くんは窮地に立たされてしまった。ショットガン相手の奴に勝ち目がある訳もなかった。武器となる物は三上くんの手にはない。
「演技が上手いねえ。なあ?」
三上くんは冷静さを見失って居た。勝てるバクチは性もない演技のせいにより恥を掻かされた。男は明美の腰を掴み柵から引き摺り落とそうとした。奈美子が堪えかねて真鍮のドア越しから顔を出すと、すかさず男はショットガンを奈美子に向けた。――止めてくれ……
しかし男は銃を自身の脇腹辺りのジーンズのポケットに入れ、奈美子に銃口が向けられることは回避された。そして明美のウエストを両手でぐっと握り、まるで放り投げるかの様にぐいっと柵の向こう側に押し出した。明美は柵の下の情景を見る様な形の体勢になった。逆さまだ。柵の下は大勢多数の人間が行き交わす大通りである。勿論これから明美が突き落とされるであろう地面は、柔らかい公園の砂場でもクッションになってくれるであろうトランポリンもどきでもなく、間違いなく飛び降りたら即死同然のコンクリートの上だ。明美が位置する柵の斜め左下には鉄筋で出来たコンクリートの建物すら存在する。明美は4階の屋上の柵の真下からその通りを眺めると、途端に叫びにも似た悲鳴を轟かせた。男が明美の足首を固定すると、明美は宙吊りを余儀無くされた。奈美子もまた明美のその状況を察すると悲痛の声を漏らした。三上くんは「何て卑劣な野郎なんだ」と心の中で愚弄したが、この状況に勝るすべてのものは、何もなかった。
――離せよ、離してくれってってば!
「へえ……てめえ、びくっちゃって声も出ねえのか?おれの両手を離せばこの女は地面に真っ逆様だ」
三上くんはいつまでも逆さづりにされた明美を見て、痛ましい位に胸が締め付けられた。これ以上の辛苦はないだろう……明美を此処まで追い詰めたこの男が心底憎らしかった。憎らしくてたまらない。まるでぐつぐつと煮え滾ったやかんのお湯を全身に振り被り、次第に自分自身の肉体が焼け爛れ堕ちて行くさまをこの眼に焼き付けて居る様だ。轟々たる鋼鉄の意志を皮膚から引き裂かれる思いだった。しかしその時、手に取る様に空っぽの眼に戻って行くのが自分でも判った。それはとんでもなく敏捷な伝達であった。敏捷なエレベーターだ。あたかも爪先からエレベーターの上へ上へと脳にまで浸透し尽くしてしまったのに似て居た。ハリウッド映画で頻繁に起用されるまどろっこしいスローモーションの感触の手応えな訳がない。光の速さが秒速約30万kmとするならば、これは秒速1000万kmにも及ぶ速さだ。光の速さよりも上回るものを地球の人間に置くのであれば、それは人間の脊髄から命令される反射だ。しかし彼の瞬時の悟りはたしかに光の速度を遥か超えて居た。つまりそれは『自身に寄生する敵からの指令』だった。彼にも判らなかった。何処を把握し見定めて居るのか判らないその眼を、自分自身自らの脳で悟ってしまった。自分ではいままで知り得なかったこの眼が、今まさに彼に宿るのを解した。まるで誰かに生け捕りにされた猛獣の様な感覚を憶えた。眼が、眼が可哀想だ。今まさに生け捕りに晒されてるのは明美の方なのに、何故三上くんの方が自身を生け捕りだと解釈したのだろうか。それは彼にも判らなかった。ただ理解したのは今しがた自分自身が『猛儒』と『本来の自分』との狭間で闘ってるということだけだ。しかしその『本来の自分』が見失われつつある自分には不思議と高揚感を憶えた。絶望的な高揚感に近いかも知れない。その様子を察したであろう奈美子は、咄嗟にあの野性的な眼付きをした彼を見ずには居られず、知らず知らずの内に小さな声を上げて居た。その思いは三上くんにも大まか伝わった。冷たい眼だ。雪像の眼だ。ドライアイスの眼だ。上等だ。
――境界線を引き間違えたこいつに今更何の情を持てってんだよ。取調べで拷問を受けただ?何言ってやがる。てめえはただの悪党に過ぎない。冷徹でドライアイスさながらの冷たいおれの眼がどうしたって?そんなに慌てふためくほどのことでもねえだろう。
「三上くん、君はいったい誰なのよ……」
三上くんは明美だけを見据えて居る。明美は現在頭に血がぐっと昇り、頭部以外の胴体は何の感覚もしないだろう。しかし周囲から開放され切った太股やふくらはぎ辺りにふわっと触る、微かな空気すら恐ろしく感じられてる筈だ。開放された身体ほど怖いものはない。それも男の手に委ねられて居るからだ。それでも、失神しそうな境遇の中で必死にそれを持ちこたえて居る。徹底的な脅しに三上くんはあの冷淡な眼付きを男に向けた。まるで狩人にでもなるのかという様な、憐れで残酷な眼を遣った。奈美子はその瞬間を見て、またもや小さく悲鳴を上げる。その声を耳にした彼は「いい加減黙れ」と呟いた。
――こいつを、狩る。
「殺す」
三上くんはコンクリートを見下ろしたままくぐもった声を吐き出した。表情が見る間に怒りの形相になり、後姿からしか拝見出来ない奈美子にもその表情が判った。別人に、変貌してしまうのだろうか……明美もまた気が遠くなる一方で三上くんの声を頭の片隅で聞いた。
「あの時の空っぽの眼に、あなたは戻ってしまうの。でも……」
しかしその思考から抜き出された台詞は即座に断ち切られ、男の両手の力が弱まった事に明美は愕然とするしかなかった。今にもその両手を擦り抜けて真っ逆様に突き落とされそうだ。明美は決死の思いで柵の内側にある金具を掴もうとした。だが弱まれた男の両手首に怯え、届く筈の金具は明美から遠ざかって行った。三上くんにもその壮絶な活動は無意識に捉えられた。
「何だって?聞こえねえよ」
男は明美の足首を両手で握ったまま、三上くんの方をだるそうに振り返った。この男のひけらかした様な声質は薄気味悪い気がしたが、三上くんにとってそれは大した問題でない。つまり提起するのは邪道であるが故に、普遍的な正しさは差ほど気にも留めなかったのだ。この場合この男と折衝するのもまた彼にとっては邪魔以外の何物でもない。少なくとも利害関係が一致しない相手と戦うのも悪くはないだろう。明美を救う為ならば彼は得てして勝算の公式を掴み取るからだ。問題はない。彼に残るのは憎しみから放たれた物を清算する高揚感だ。
「殺すって言ったんだ」
「……」
ぞっとした。この言葉に男が動揺したのではない。三上くんが男に見せた非人情な面構えに……いや、男はこの眼の奥に潜むこげ茶色の瞳に怖気づいたのだ。子供じみた顔付きであった筈の三上くんがいつの間にか野蛮な顔付きに変化して居た。つまり何かに支配された様な眼に、強い迫力を感じたのである。先刻の眼付きとは明らかに違う。しかし何だ?その眼は複雑な感情が入り混じってとても把握出来ないが、何処か物悲しい気持ちがあるのが不自然だ……まあそれはともかく、まるで猛然とした破壊力を持った強固の塊でもあるあのコヨーテを震撼させたのもたしかだ。獲物を捕獲する為には何の手段をも選ばず鼠や兎、プレーリードッグすら喰らう。または強靭な大きな獲物を狩るにも油断は決して見せ付けない。男は悟った。(こいつには計り知れない多くの感情を眼に宿してる……人間には当たり前のモンだが……こいつは眼の情操だ)……強いのか?
三上くんは男の前に近付いて行った。ショットガンを持ってる事等頭から消え去って居る。ただ無表情に相手の表情を窺いもせず1歩1歩前へ脚を運んだ。男はその行動に怯みながらじっと三上くんの眼を観察した。明美の両足首を持ったまま彼の姿を凝視した。首を左後方に向け、何を企んで居るのだろうかと立ち尽くして居る。明美はもう限界の筈だ。顔が鬱血して赤紫色の表情を拝める事になるだろう。しかしまだ時間はある。約5分の時間が経とうとして居た。その間に、明美を助けるのだ。三上くんは歩く速度を速めて行き、すぐさま男の左脇腹辺りに隠されたショットガンを奪い取りジャージのズボンの中に入れた。安全装置は完璧だ。瞬時に男は恐怖に戦き彼を見遣った。同時に明美の頼みの綱であった男の両手が引き離され彼女はビルの4階から滑り落ちる様に真っ逆様に下って行った。
――助ける!間に合うさ!
しかし1mほどの距離が開き救う術もない様に思えた。奈美子がけたたましく叫び声を上げた。男は呆然と立ち尽くし、何だかとんでもないアクション映画を観て居る様な気分になった。――合理的に状況を判断し明確に隙を狙う動体視力も尋常ではない。完全に不可能を可能にしてしまって居る。しかもあの速さは尋常ではない。何という速さなんだと、男はこの三上とやらに眼を見張ってしまった。明美を救おうとする決死の覚悟から出たのがあの眼の正体なのだろうか?それならば何故最初からそうしない。いやその前からあの眼が宿って居たような気がする。いつからだ?……まさか。まさかあの言葉があいつの眼の最後の引き金となったのか?
――おれの両手を離せばこの女は地面に真っ逆様だ。
三上くんは柵に上り力の限り手を伸ばした。そして手すりの手前に前側の太股の重心を掛け柵の下に全身を預け放った後、彼もろとも落ちる前にすぐ左手で手すりを握る。彼はまさに宙吊り状態であったが、恐怖感など内に引っ込めてしまえば良い。いや、今の彼には恐怖感などという有り触れた感情の類はないのだ。柵の手すりが彼の盾になってくれる。額から幾つもの汗が滴って大通りの行き交う人々の下に落ちるのが判る。地上からは果てなく遠い屋上の上からは汗が小さい粒としか見えなかった。しかし滲み出る汗などどうでも良い。明美は宙吊りの状態から彼に救いを求める様に手を上に翳して居た。明美を助けること、それ以外の概念はなかった。彼はついに柵から更に身を乗り出し明美に自分の手を掴む様必死に叫んだ。一瞬の出来事であったが、彼女の指先が彼の中指と人差し指に微かに触れるのが判った。彼は彼女の指先を掬い上げる様に自分の指先を上へ持ち上げた。直後2人の指先は離れたが、彼は勢いに任せた。隙を逃がさないことだ。一時の惑いを振り払い、強引に明美の手の平と、同時に小指と親指を包み込む様に掴んだ後その手を離した。それからすぐに手首をぎゅっと握った。汗が滲み出た。やっとのことで、成功してしまった。ぐっと右手で左手首を握り締め、もうこれ以上大通りの景色を見せたくはないと思った。勘弁してくれ。彼女の顔が青ざめて居ることも、想定内の範囲だった筈なのだが、酷い動悸が彼の身体中に行き渡り、頭の中にすら心臓の音が大きくこだまして居た。彼が彼女の手の温度を感じ取った瞬間、何て、何て冷たい手何だろう……と思った。夏場だというのに手ががちがちに冷え切って居る。まるで手の形をした彫刻を握ってるみたいだ。
――明美、お前……
「み、三上くん……また、淋しい顔……してる……」
「何言ってんだ。おれは普通だよ」
三上くんは弱々しく笑いながら明美を引っ張り上げた。奈美子もまた束の間の安堵感を憶えたのか、気が抜けた様に座り込む気配を彼は感じ取った。しかしその直後、背後から誰かが近付いて来る気配がした。彼は振り向く時間を与えられないまま背中をぐっと押されるのが判った。堪えず彼の背筋をぐいぐい押すその力は真の大人の力だった。あの男に決まって居る。彼はその力に耐え、明美を引っ張り上げようと手荒ながら持ち上げた。彼女の手首がぽきっと音を立てるのが判った。痛がってるだろうと様子を見たが、どうも骨折をした訳ではなさそうだ。それより柵だ。柵の手すりを掴むんだ。彼女を右手で持ち上げると同時に、左手で自分の身を守る為に柵を掴むのだ。彼は錆び付いた黒い手すりに左手を戻そうと肩に力を入れた。左肩が脱臼したのか鋭い痛みを感じた。それどころではない。早く柵を掴むのだ。しかしその肩すらも柵の向こうに追い出され、両手で他の働きをし尽くした彼にはもうその力は及ばなかった。右手を離してしまったのだ。そして彼女が仰向けに落ちて行くのが判った。今度こそ手遅れだと、彼は瞬時に悟った。そして真鍮のドアの傍から奈美子のけたたましい悲鳴と泣き声が聞こえた。彼女は遠く大通りに投げ出されその姿がみるみる内に小さくなって行った。声すら上げずにあっけなく落ちて行ったのだった。『今更声を上げても助かる見込みがないのなら、声を上げる必然もないんだよ!』と、懸命に訴えてる様な気がした。そこから窺えたのは、彼女が眉を顰め悲しみに遠のく意識を、あの青々とし過ぎた空に身を任せる一点だけであった。しかしその表情すらもただの他人の粒となり、窺える筈もなかった。彼は他人の粒が落ち行く姿を、立ち尽くしたまま無表情で眺めると、途端に声にならない叫びを上げた。喉から出る声は掠れた息となり、肺から出る息は呻いた声と化した。不思議と……涙は出なかった。胸の奥を窮屈にされてしまう様な涙というものはまったく出て来なかった。出そうとしても、心臓が痛くなるだけだ。それ以上はない。普通ならば胸の奥の痛みから滲み出て来るであろう、涙が零れる筈なのだ。しかし彼はその正体を忘れた。水道水の蛇口から流れる液体という前提でしか、説明する事が出来ないのだ。ともかく……そうなのだ。普通ならば胸の奥を窮屈にされる事で心が沁み過ぎてしまった感情というものの正体を、こうも簡単に忘れ去られる筈がないのだ。しかし溢れ出ないのだ。心臓が痛いだけだ。肺が苦しいのだ。数秒の内に幾つもの行動を取ったせいで肺が苦しいのだ。それだけなのだ。……乏しく希少価値のないのが、痛いのだ。彼は屋上の真下を見遣るのを止め、男の方に身体を向き直した。奈美子もまた走り出てしまおうかと目論んだ様に見えたが、相手の男に目撃されて何が隠されて居るか予測も付かない物に反撃はされては彼女もまたあの男の餌食になってしまうだろうと彼女も三上くんも瞬時に悟ったのだ。そして、ふと行ったり来たりする奈美子を三上くんは見遣った。奈美子の憶測通りだろうが、やはり首を横に振ってくれぐれもこの場には来ない様に促した。仕方のないのだ。
男は彼の眼の奥の生き様に吸い取られて居た。彼の後ろ姿を見て居るだけなのだが、眼の容相だけをはっきりと察することが出来た。眼の奥底から感じられるその生き様が複雑に絡み合い揺曳と尾を引いた何か残るものに見せ付けられて居た。突き落としたこと等気にもせず、ただ引き付けられたのだ。死に関わった人間の尋常でない姿が。
――こいつの眼は何かが違う。虚勢を張った眼ではない。未練が残された眼ですらない。体裁を気にした眼でもない様だ。固定観念がある奴に見受けられる執着した眼でもない。もしあえて執着と言うならばこれは、見栄を見切った『執着心』の塊から出る妖しい眼だ。
彼が柵の上から見下ろす光景は美しかった。青空に魅入られた人が行き交う大通りがよく見える。視線を移すと薄暗い水色の歩道橋までもが麗しく思えた。惑いのない聳え立つビル達がこちらを見て微笑んで居る。そのビルの間には住宅街が建ち並んでそれに挟まれた住宅達はどうやら途惑ってる様にも見える。何て失意のないまぼろし達の戯れだろう。何て失望のない滑稽な人達の表れだろう。彼が眼にしたのは恐らく希望の象徴ではなかった。理の筋道の道理や情理を称える訳でもなく、見て居たのは現実から生み出さざるを得ない創造した夢だったのだ。暫くして彼は柵を掴んだ手を離し後ろを振り返った。あまりに近付き過ぎる男との距離に、懐疑的な眼を遣ったのは間違いないが畏怖する理由は当然なかった。男はその不可解な違和に途惑ったが、直後には彼を警戒し戒める様な顔付きへと変わって行った。これは大きな矛盾を語ってるが男の心には彼はたしかにそう映って居たのだ。冷徹な眼を配る彼の裏側に潜んでるのは大いなる孤独感だ。
――こいつは、おれを撃てない。
「彼女サン、死んだなあ」
彼は沈黙を置いて、
「お前のせいでな」
と言い放った。
「悲しくねえのか?」
「悲しくないよ」
その発言に男は笑ってしまった。
「血も涙もねえのなあ……」
男との距離は50cmとないのに、三上くんはただこの男の顔にじっと眼を呉れた。男は一瞬眼を見開いたが、眼を瞑る事で彼から湧き出て来る威圧感を押し込めれば良いと学んだ様だ。そのでかい身体を持つ立派な怒り肩は彼の頭の位置に相当する位である。顔の骨格は随分としっかりしており、その辺の不良仲間とつるんで居ても何らおかしくはない風情であった。しかしそれはあくまで見掛け倒しの外観に過ぎないと彼は考えた。年齢を推定すれば20代半ばといった所だろうか。彼が男に更に近付くと、男は流石に怯えたのかすかさず後退りした。左足を1歩、右足を1歩とゆっくり後退する内に、脚の震えるのが判った。そして彼は男の弱点を見抜いたのか、すかさずこう問い掛けた。
「お前、風袋だろう」
意表を付かれたのか、男は彼の唐突な問いに答えられなかった。ただひたすら身を守る術を考えたて居ただけであり、彼が目論む質問の意図がまったくと言って良い程判らなかった。しかし黒いTシャツの袖口からたらたらと零れ落ちる汗が男の緊張を物語って居た。梅雨を伴う夏の湿気も手伝って、額からも次々と汗が滲み出る。この男は3日間まともに風呂にすら入ってないらしく、排便した後の様な体臭の匂いが汗と共に混じり奇妙にこの身体から充満して行くのが判った。
「何だ……それわよ」
三上くんは事も無げに話し出した。
「まあ、大きさの違う箱があるとする。両方の目方を量る時、まず自分のそれがどれ位の重さなのか眼で確かめるだろう?それで次に手でその感覚を確かめる。両手だろうが片手ずつで量ろうがそれは自由に任せる。同じ目方なら問題はねえ。しかしだ、その次ではかりの針で指し示されるのが両方のどちらかだったらお前はどう考える」
何を言い出すんだと、男はとげとげとした奇妙なサボテン園に呼び寄せられた様な心地を憶えた。色々な種類のそれが男の周辺に集結して、人間でもないのに執拗に問い詰められる異様な感覚に陥れられた。それに似てる。しかし子供のくだらない言葉遊びに過ぎないだろう。せいぜい高校生にしか見えない子供に、高尚な考えが出来る筈もない。裏がある事は頭に入れなくて良いだろう。いや……撤回すべきか?
「そりゃ軽けりゃ軽いほどいいんでねえの。重いモンにゃ何が入ってっか判んねえからさあ……アンプだの家電品だの収納家具だのお袋から届けられる干乾びたみかんが入ったダンボールの仕送りだのが重いモンだとすると、こりゃ針飛んじまうだろが」
若干呆れた様子で男は答えた。同時に三上くんも呆れた顔をした。
「これだけ言ってもまだ判らないのか?さっきお前の言った事は全部無駄だよ。よく考えてみろ。今おれは銃を持ってるがお前にはない。頭の優劣や精神力ですらこの時点でおれが上だ。例え話なんだよ」
「な……」
「無職さんよ、今まで何を学んで来たんだ。日雇い首になったせいで頭もイカれちまってるのか?」
男は逆上し彼に襲い掛かろうとしたが、思い留まった。隙を付かれ銃を奪われた時点で男の立場が圧倒的に弱くなってしまったからだ。彼の顔面寸前に向けられた右の拳をゆっくり引っ込めると、ジーンズのポケットに手を突っ込んだ。彼は微笑しながら男を見据えると、脇腹に顰めたショットガンに手を遣った。途端に男は彼を睨み付けた。やはりこいつは何を考えて居るのか見当が付かない。こいつにとって裏の裏を掻くのはさして困難なものではないんだろう。何を考えてる。
「風袋っていうのは実質に対しての外観だ」
その瞬間、彼は男に殴り掛かった。左頬を狙った右手の拳は、男がその方向に倒れる事を予測したかの様に素早く流れて行った。男は地面に叩き付けられコンクリート上に鈍い音が響き渡った。横倒しにされた男の綿のTシャツやジーンズの擦れる音までが聞こえ、どうやら右の頭を軽く負傷した様だ。殴られた傷を触ったが、ほんの僅か右の頭と左頬に血が付着しただけであった。彼の力はさほど強くはない。男にとっては想定外だっただろうと思惟するだろうが、彼にとっては想定外の中に伏す想定内の出来事である筈だった。彼は今心得ては居ないだろうが、殴り合いでは確定的に完敗するだろう。中学生の力と二十台の大人の男の力加減では太刀打ち出来ないのは当然の事である。しかし彼の力でこの男に対抗する事すら及ばないというのは、彼にとって確実に想定の範囲内だったのだ。彼は無意識の内にそれらすべてを計算した。銃は力に適わない。しかし彼は銃という武器をそれとして考えて居ない。つまり眼に宿る脅威的な鋭さを自ら計ってしまう事により銃を銃として見なして居ないのだ。ただ圧倒的な峻烈の凄みと、彼らを恐怖感に煽ってしまうほどの高圧的な態度からあの『情』がすっぽり抜け出してしまっただけなのだ。彼は恐らく最後まで気付かないだろう。あの例え話の行く末では決定的に彼が勝って居るのだ。
男は立ち上がると同時に彼の腹を右の拳で下からアッパーを食らわした。すると彼は急激に蹲り、口内から唾液に混じった血が流れ出て来るのが判った。そして唸る様に唾液と血を吐き出した。曇天の空に良く似た色のコンクリートの上にぶちまかれた透明な唾液とその黒い血は、さながらコンクリートが食パンの役目を果たし、その血はルバーブジャムとラズベリーを混合させたミックスジャムよろしく引き立て役をしたかの様にも見える。彼はその準えた比喩を直感ですべて頭に張り巡らせたのだ。しかし……何と気味の悪い例を出してしまったのだろう。彼がすべて吐き出した事を確認すると、男は右の拳を自分の身体の位置に押さえた。彼は大きく息を吸う間もなく立ち上がり、男の右の横腹をフック(曲線の軌道を描く横からのパンチの事)した。しかし彼の攻撃力は弱々しく、よろめきながら前屈みに伏した。その隙を付いて男は、再び彼の腹をストレートで打ち抜いた。打ち抜かれた腹は鈍重な重みを抱え、息を吸う事も吐く事も許されないまま、無呼吸の中で鼻から息とも言えぬ小刻みな片息を繰り返して居た。膝を着いて腹を充分に抱えながら又もや口から血を吐き零し、ついには地面上に噴水の様に吐瀉物をぶちまけてしまった。部活内で二時間もの間激しい運動をした彼の体内にはスポーツドリンク以外には何も残されてない。胆汁と血液が混じる褐色を帯びた胃液が絶え間なく出続けて居た。時折喉から掠れる様な堰をしたかと思えば、再びそれらを吐き出す。その一連の行為を反復して居た。
――おれがこの男に勝てる筈もねえんだ。例え話も全部おじゃんだって訳か。ちくしょう。だがこいつの精神力はまるで子供だ。子供のおれよりも遥か低俗だ。予想出来る筈の事を右から左へ受け流し自ら投げ捨ててしまってる。知識や理論はこいつには関係ないというのか。
男が薄ら笑いを浮かべながらその状況を眺めて居ると、勝ち誇った様に言った。自業自得だったが三上くんは男を睥睨した眼付きで見た。
「なあ、確か『風袋』だとか言ったよなあ?見掛け倒しだってよお。例え話もてめえの頭のなさから出た身の錆だ」
三上くんは吐瀉の反復をし続けて居たが、ようやく収まったのか言葉を口にした。そして右手で褐色めいた黒色の吐瀉物を拭った。
「いやお前は風袋だ。しかも出来損ないのうわべ野郎だ」
又も男が殴り掛かって来ようとするのを、彼は左手で腹をぐっと押さえながら右手の甲を自身の顎に引き寄せた。内臓の辺りを二度も力任せに打ち抜かれた彼は右手を上げる事すら苦痛である。今も尚唾液を地面に吐き出して居る。この鈍重な重みを抱えたままこれ以上殴られるのはごめんだと彼は思った。男から見れば「もう殴るのは止めてくれ」という悲痛な叫びに見えるのだろうが、彼にとっては違った。男が憶測して居たものとは異なるのだ。つまり「こっちに来たらこの銃でぶっ放すぞ」という脅しの警告である。彼は脇腹に入れたショットガンを取り出すと男に向けた。この瞬間男は眼を見張り、撃たれる心配はないのだろうが少しずつ後退りした。彼は腹を抱えふら付きながらゆっくりと立ち上がった。口内から出る血が遅かれながら瞬く間に下唇へ、そして次々に顎へと滴り地面に落ちて行く。鼻からも出血があったのか、くぐもった堰を払う度に続々と血が溢れ出して来て居た。彼の立つ地面の下が黒く染まり円を描いた様に目の前に広がった。
「いいか。おれはお前を撃たない。だが逃げ出す様な真似をするんならおれはお前を撃つ。そして警察を呼ぶ」
男は『警察』という言葉を出されたせいか再び戦いた。
「ひ、卑怯な奴だなあ?おい?てめえも警察嫌いなんじゃなかったのかよ。相川京子のプロファイル聞いたろ?未成年の名前まで出しやがってよ。不手際で愚鈍な奴らの集まりだろ。助けに何ざ来ねえさ!」
「そうだよ。おれだって警察は嫌いだ。あの事件を事故として取り扱ってくれと訴えたのに自殺で言い包められちまった。あんな散々な事はまっぴらだ」
――何だこいつは。事故で取り扱って欲しいというのか?自殺ならこいつの身も大分楽になるだろうにそれを自ら放棄するつもりなのか。おれにしてみれば自殺で取り扱ってくれたサツには幾分感謝はしてる。それでも3年の懲役だ。台無しにされたも同然だ。だが事故扱いされちまったらおれは危険運転致死傷害として少なくともムショには15年以下居座る羽目になる。すると何だ。そうまでしてこいつは相川京子を『事故』として処理して欲しかったのか?
三上くんはショットガンを男に向けたまま冷徹な眼を呉れた。そして始終堰を切りながら横腹をさすった。しかし男は少しばかり同情の念を抱いたのか、後退りした脚を止め徐々に彼の方へ脚を運んだ。60cmとない距離であるが男は些細な憐情の思いを託し進んで行った。
「来るな。哀れみの眼で見るんじゃねえ。明美を殺した代償として今度はお前が死ぬ事になる」
彼の脅しに引けを取らず男は問い掛けた。
「事故で取り扱って欲しいってのはどういう事だよ。なあ。相川京子をそうまでして自殺にしたくなかったのか?」
「黙れ」
すると京子の声が聞こえた気がした。ふんわりと浮かぶ私の体が彼女によって支えられている様な。京子は私を抱き抱えたままビルの屋上へとやってきた。うっすらと消え去りそうなその姿のまま、三上くんから銃を奪って、男を撃った。男は即死だった。三上くんは京子の幽霊の様な姿を見続けながら、こう言った。
「相川さん……なんでここに」
京子はくすっと笑いながら三上くんに問い掛けた。
「彼女を救いたかったんじゃないの。それだけだったんじゃないの。あなたの眼はいつまでも透き通ったままで居るわ。バスケをする時もそうだったじゃない。過去はもう棄て去りなさい。私の事も、いつか忘れる時が来るわ。その時まで、時間はたっぷりあるわ」
三上くんの眼から、今まで見たこともなかった、涙が溢れ出した。過去は羽根の様に飛び去っていき、三上くんの涙は京子の頬へと当たった。風がゆっくりと体をすり抜けていき、京子の体を優しく撫ぜた。京子は何も話さず私を三上くんの手にやると、すっと消え去った。警察のサイレンの音が聞こえたからなのか、京子の最後を見たのは三人だけだった。
「奈美子!」
私は思わず飛び上がって奈美子の体に飛びついた。
「生きてたのね。相川さんの姿、少しだけだけど見えた。綺麗だった」
京子。あなたは私を憎んでなど居なかった。三上くんの事すらも。私と京子の間にある境界線は、勘違いと透き通る眼から来ていたのだった。三上くんと京子の間にある境界線も、事故にしたかった思いと、自殺に蘇る記憶から来ていたのだった。野獣の眼は、三上くんの眼の奥底から段々と消えて行った。京子は私のしがらみでもあり、優しさでもあった。人が解放される時間というものを、この眼からしかと焼き付けながら、三上くんは私の所へやって来て、ぎゅっと抱き締めた。京子を見た三上くんの体からは、温かな柔らかいものを感じた。いたたと言いながら、私達三人は京子を見たんだと溢れる涙を抑え切れなかった。風が通り過ぎる度に、京子の思い出は、少しずつ、私の錘を解き放つ様に消え去って行った。

マリッジリング

少しむつかしい漢字を使いすぎたかと思います。

マリッジリング

  • 小説
  • 長編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-05-14

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

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