ニセカシコメ

八木橋麻子

中学三年生の頃に執筆しました作品です。あえなく落選した作品ですがどうぞご賞味を…

ニセカシコメ

 ニセカシコメ
今日は久々に花屋へ寄っていこうと思う。僕があの花屋へ行ったのは去年の秋頃だったが、あの女を見かけて以来、僕は取りつかれたようにその花屋へ通い続けていたのだ。
「今日は何かお探しですか?」
お決まりの文句を言うのは、一見して威厳のある顔つきの中年のおばさんだ。僕が花屋へ通い始める以前からの付き合いで、家の事情から僕の内なる感情までをも受け止めてくれる、言わば親切な女性だ。おせっかいと例えてもおかしくはないと思う。彼女は僕の母さんが習っているクラシックバレエの講師で、花屋はあくまで趣味なのだそうだ。
「今日は新しく入ってきたお花があるわよ」
僕は、彼女がそう言って指した、シルクのような、真っ白な小さい花を見た。
「なんて言うんですか?」
僕が言うと、ただでさえ多いしわがさらに多くなっても気にせず、笑って答えた。
「ニセカシコメって、言うのよ」
一週間ほど僕がこの花屋へ来れなくなったのには、わけがあった。どんなものにも理由はある。理由があることで何もかもが成り立っているのだ。
あの時彼女は、いつものように澄ました顔で、バラの花を眺めていた。真っ赤な、それこそ血のような、鉄の匂いがこちらにまで届いてくるような、赤い赤いバラが彼女は好きだ。だが彼女はそれを購入しようとはせず、バラの近辺にあったゆりの花を横目で見る。それに手を伸ばした時、僕は思い切って彼女に話しかけた。
「今日はバラじゃないんですね?」
そう言った後、一瞬、ストーカーめいた発言だったと僕はたじろぐ。だが彼女は、格別驚いた様子もなく、ゆっくりささやくような声で話す。
「ええ。友人のお見舞いに」
「ゆりをですか?」
目を見開いた。ちょうどピカソの絵のように、さぞへんてこな顔だったことだろう。
「ええ。とてもきれいでしょう」
そう言い残し、彼女はレジへ向かった。思えばなぜおばさんは、彼女をその場で引き止めなかったのだろう。他に誰も客が居ない静かな場所で、二人の声は際立っていた筈だ。気づかない筈がない。そして僕も、なぜ彼女を止めることができなかったのだろう。ふだんバラの花ばかり眺めている彼女がゆりを買おうと思うことが信じられないのと同時に、何より『ゆり』の花を『見舞い』にやるという事態が信じられなかった。彼女はそういうことに疎かったのだろうか?
「不思議な、花でしょう」
ニセカシコメとやらの花びらを、指先でやさしく撫ぜながらおばさんは言う。その深く刻み込まれたしわとともに、僕は親近感が沸いた。僕は共感の合図を示して、
「由来はなんなんですか?」
 と問いた。彼女はふとももに肘を乗せてほおづえを突きながら、
「そのままよ。『偽りの自分』っていう、意味なの」
 と、静かに言う。
「ほんと、めずらしい呼び名よね」
 店の外にかざられているそれは、確かに、とても自己主張している以外には捉えよう
がないさまだった。太陽が傾きかけて、白くはっきりとした色に淡さが広がっていく。それでもそれは、存在感を失わなかった。むしろ周りの主張が弱くなるにつれて、強くなるという感じだった。
「あの子、今日も来たわよ」
 唐突におばさんが言う。
「見ていたのは、やっぱりゆりだったけどね」
 おばさんは、妙に納得したという表情を浮かべながら、静かに白い花を眺めていた。
「バラが嫌いになったのかしらね」
 ――解っていたのか。
 僕は思った。いや、話の流れでそう思わざるを得ない状況になっていたのだ。
「毎日ゆりを買ってるんですか」
「そうよお」
 ため息をつく。
「なんだか、顔色も悪くなったような気がしてね。元気に変わりはないんだけど」
 僕は、静かに、だけど重々しくなく言うおばさんの姿が、あまりに淋しく思えた。
 白い花が、夏の風にゆれる。
 一輪だけ、他の花にぶつかり、思うように動けなかったのを、見た。
                   ☆
翌日僕は、あの女を見かけた。昨日と変わらない位置に立ち、ゆりを眺めている。まだ花屋へ立ち寄って数分も経っていないのだろうが、彼女は二輪ほどゆりを掴み、レジへ持って行った。彼女の髪の毛がぼざぼざに縮れ、ラーメンのようになっているのを見て、僕は、風呂に入っていないのだろうなと思った。前髪に異常に脂が含まれ、塩をまぶしたようにフケがついている。いや、もう積もっている、と言った方が正しいのかも知れない。それほど、彼女の姿はひどかった。またそれと同時に彼女の体は、骨と皮でつながれているようだった。僕は、たったものの二十四時間で、人間の肉というものはこうも落ちるものなんだと思った。見てもいられなかった。数ヶ月も経てば、彼女の姿は粉々に砕け散ってしまうのではないかと思うほど、見てはいられなかった。
「止めないんですか」
僕はおばさんに詰めかけた。
いくつものドライフラワーを包装用紙にくるんでいるおばさんの姿が、今はとても腹立たしかった。物を売ってしまえば、それでいいのだろうか。
「あの子は」
言いかけて、留まる。急におばさんの目に生気がなくなった。電池が寿命を迎え、電流を流そうとする自体に意義を感じなくなったような、そんな、恐ろしい目だった。
「あなたはどう思うの」
「どうって……」
僕は自分が悪いような気がして、思わず退いた。
「あの子自身に、自分の不注意が原因だったなんて気づいているとは思えないわ」
遠く向こうを眺めておばさんが言うので、あまりの空っぽの空気に寒気がした。あの女に自覚がない、と言うのは一体どういうことなのだろうか。
僕は縮れ毛になってしまったあの女の顔を、反芻してみた。記憶を辿り、初めて会った時の表情を脳裡に映してみる。
「明らかに違うでしょう」
おばさんがきっぱり言う。それと同時に、おばさんの目に少し生気がよみがえる。ふいに、ゆりの甘い匂いが鼻をつついた。
「きっと、あんまりにも疲れすぎたのよ」
「……どうして」
「そんなの私にも解らないわ。でも」
息を呑む音が聞こえた。それは何かを覚悟していたような、一種の諦めが混じっていたような気もした。
「でも、あれが『彼女自身』だってことも、理解しなくちゃならないでしょう」
その時ふたたび、ゆりの匂いがした。
                  ☆
確かこの町の外れに、墓があったのを覚えている。墓を建てるに相応しい場所なのだろうかと何度も思ったことがあった。日当たりの悪すぎる配置に、人っ子ひとり存在しないような見渡せば畑ばかりの風景。墓の周りは、林と言うより雑草と例えた方がしっくりくるだろう。
彼女は、あの花屋へ毎日のように通っていた。彼女のあの、煌々とたたえたあの目に取りつかれていた。プラスのエネルギーと言うのだろうか。たまに同級生の友人を連れて来ることもあった。そして、あの目をして喜々としながら、バラがいかに素晴らしいかを自慢していた。だが、その目のどこかに、深い海を連想させる群青色の心をかいま見てしまったことももちろん、ある。どんなに明るい人間でも、明るい一色では人間とは言わない。その逆もあるということだ。紙一重であるような、気がする。だけれど僕は、そのことがひどく物悲しくなっていた。
「……君」
クーラーの冷たさが静かに肌を包み込んだ。そういえば彼女はいつも、この冷たさを毛嫌いしたことはなかった。僕にとって、クーラーとは自動車の排気ガスなんかよりも嫌いなものの一つで、いつもおばさんに、
「お客さんが暑いでしょ」
 云々と罵られた。あの彼女が長袖を飽きもせず着ているところを見ると、本当は寒いのだろう。
「矢田君」
 ふと誰かの息がかかる。
「えっ!?」
 気づくと、僕の前にはおばさんの顔があった。この花屋の中で、うつらうつらしていたのだろうか。――ろくでもないクーラーが、がんがんかかっているというのに?
「あなた疲れてるんじゃないの」
 そうだろうか。
「睡眠不足はお肌に大敵よ」
 ……女じゃないんだから。
「まあ、いいけどね。そう、この花あるでしょう」
 おばさんはそう言って、ニセカシコメとやらを指した。今日も比較的元気のよさそうな風情だ。白い五枚の花びらに弾く水滴が、それを主張している。
「もう三日くらいしか咲かないの」
「三日?」
僕は内容の意味が掴めず訊きかえす。
「そう、この花品種改良で、いたずらに作られた花でね。実は私の店でしか扱われてないのよ」
 「いたずらにって……」
 僕は言う。ニセカシコメの鉢を抱え、彼女はバケツの傍へ置いた。
「ちょっと前に知ったの。この花はバラを組み合わせて作ったもので、その作った産みの親が誰だと思う?」
「……」
「あの子の、父親なのよ」
                  ☆
 あの後おばさんは、あの花をバケツの中に入れ、強い陽に当たらないようにビニールを被せた。一瞬金繰り捨ててしまうのかと目を見張ったが、違った。でもなぜ、彼女はいたずらに作られたこの花を、捨ててしまわないのだろう。あの時のおばさんの目には、何らかの慈しみが込められていて、僕にはそれが恐ろしかった。
今日、近所のアパートが陽におだやかに当たる頃、僕は偶然花屋の近くであの女を見かけた。いつものようにゆりを眺めに来たのだろうが、今頃ゆりは店の中で寝ている筈だった。外に出ている花は、鉢に植えているものだけしかない。彼女も知っているだろう。
それでもなお花屋の道を辿ろうとするので、仕方なく僕は後をつけてみた。
着くと、思った通りにゆりはない。バラもなければ彼女の気に入りそうな花もない。あるのはミニトマトの苗やきゅうり、茄子などの野菜、そしてニセカシコメ位だった。
彼女はそれらが置いてあるすぐ前に、ちょこんとしゃがむ。
「あなたたちはよく元気ね」
陰の放つ声で、苗たちに言う。
「私がこんなになっても、学校ではいつも笑っていなきゃならないのよ」
 ……?
 まるで笑うことに恐れを感じるかのように言うので、僕は不可解な気持ちに囚われた。
「今日ね、新聞に載ってたのよ。この花」
そう言って、人差し指を上げてニセカシコメを指した。
「父さん、すごく喜んでた。私がこうなった恨みからかしらね。あなたちまたで有名なのよ」
寒気がした。『恨み』と彼女の『笑み』はあまりにそぐわなかったからだ。
「今はこの地域の出荷だけだけど、きっと将来は解らないわ」
――将来は解らない。
「でも未だによく解らないの。どうしておばさんは、私を今も花屋へ通わせてくれるのかしら」
僕は袖で額の汗を拭った。野太い電柱に隠れて盗み聞きしている事態よりも、彼女のやるせなさそうな姿が目に痛かった。透明感のある姿なのに、はっきりと解る「光」が見えない。彼女はまさに、空っぽだった。
リュックの中をあさった。誰かに彼女のことを言いたい気持ちに駆られた。だが、留まった。
「矢田和之さん」
リュックの中をあさる行動を留めたとほぼ同時に、彼女が声を上げる。
「あなたも、この花を見に来たの?」
「……はい」
彼女は僕が今までつけていたことを、知っている。目が、そうだった。どんなものでも見通してしまいそうな黒く黒い瞳が、それを真に受け止めている。
「あなたは、この花好き?」
彼女から少し距離を置いた苗の植えてある横に、僕はしゃがむ。僕はあわてて、
「色が、すてきだと思います」
と、かろうじて言葉を紡ぎ出した。
「……そう」
軽い沈黙。ちらっと腕時計を見ると、六時だった。落ち着かずにコンクリートの砂をいじっていると、
「私ね」
と、彼女が話す。
「私、これでも根はすごく暗いのよ。ずっと昔から」
――あなたの最近の姿を見れば解ります
などと言える筈もなく、僕は、
「僕なんか家で切手コレクションしちゃってますよ」
とジョークを言ってみた。でも冗談、ときっぱり否定されてしまうのには少しはやいだろう。少なくともここ三年間の切手は揃っている。
彼女は目を細くしながら笑んだ。
「そう。でも、趣味があるのはいいことだわ」
「そうですかねえ……」
「うん。私はそう思う」
 僕は少し恥ずかしくなった。貶されるのにはなれているが、褒められるのには慣れていない。
ここら周辺は住宅街で、車の通りは少ない。太陽が沈み、薄暗くなった今では、道の街灯以外にその場を照らしてくれるものはなかった。もうひとつ光があるとするならば、ここの花屋の中にある常夜灯位だ。薄気味悪いが、駅の近くのたくさんのネオンに囲まれるよりはましだと思った。
僕は思い切って訊いた。
「学校、楽しいですか」
「そうね」
彼女は仏頂面で言った。
「それなりに楽しいわ」
「部活は? 僕はバドミントン部だけど」
「ううん。やってない。前は吹奏楽でフルート担当だった」
彼女はたんたんと話した。
「どうして」
「楽器が……」
――楽器が?
そこまで言って、彼女は押し留めてしまった。空っぽだった彼女の中に、感情が押し寄せてくるのが解る。目の輝きが生まれ、倒れてもおかしくない青白い肌に、血色が表れて来る。
彼女を囲うオーラは、プラスでもマイナスでもなく、健康的だと言った方がよさそうだった。
「楽器が持てないのよ」
 僕は訊ねた。
「どういう風に」
「手で、こう」
 フルートを持つ真似を、彼女はした。かすかに指先が震えた。
「掴めないの」
「確かに掴んだんですか」
 彼女は頷く。顔を伏せて言った。
「大好きなものは、さわれもしないし、あっちからふれられることもできないわ」
 僕は胸におもりを感じた。とっさに彼女の腕を掴む。白のカットソーから体温が伝わる。そして気づく。
「なに?」
「僕はあなたの力にはなれないんですね」
 彼女はおだやかに笑っただけだった。
                   ☆
 翌朝僕の学校には、でかでかと花瓶にニセカシコメが飾ってあった。こいつの花言葉の噂は、有無を言わさず学校中に広まっていった。だが噂というだけで片付けるのは間違いだった。こいつの花言葉はあくまで「偽りの自分」なのだ。変に思わない奴が居るわけがない。
昼、学食で偶然会ったクラスメイトの前川にあの女のことを話してみた。彼女は僕らのひとつ上の学年にいるのだそうだ。つまり、同じ学校ということだ。
今、ニセカシコメと彼女ととの間に何か関係があるのではないかと色々噂になっているらしい。彼女は学校にゆりの花を持ってきて、それを授業中生けていたり、独り言のように花に話しかけていたりと、異常な注目を浴びているという。そのせいか、彼女の周りを取り囲む連中も「前はこんなんではなかった」と嘆いていて、あまり話さなくなったそうだ。休み時間もひとりで居ることが多いらしい。
「そういや、おまえと彼女で噂になってるのも聞くぞ」
 前川は呆けた顔をして言う。
「花屋に通ってんのも、彼女のためなんだって? 律儀だなあ」
「冗談言うな」
僕は学食の後、三年の教室を覗いてみることにした。実を言うと二年の僕が三年の教室に出向くのは禁止されているのだが、別に校則によって縛られているわけではないのだ。単に上級生に目をつけられないようにと、作られたものである。僕はそんなことも今は気にしていなかった。
前川の情報では、彼女のクラスは四組だと言う。僕の記憶によると、三年四組はスポーツ部の奴が多く、県での優勝も数少なくない組だとされている。その中で今の彼女が浮いてしまうのも仕方がないような気もした。
――しかし、今まで彼女と付き合ってきた奴は?
そう考えて、僕は足を止めた。かすかに足がこわばっている。三年の生徒が僕を振り返って行くのに気がついた。白い目とまではいかなくとも、珍しい光景に目を留めているようではあった。彼女の教室まで距離はなかったが、僕の足はそこまで融通が利かないらしかった。
この前まで仲のよさそうにしていた連中が離れて行く。プラスのオーラにだけ惹かれていた連中は、これからも彼女から離れて行くだろう。
――なんだろう? これは。
「でも、あれが『彼女』だってことも理解しなくちゃならないでしょう」
ふいにおばさんの言葉が反芻される。おばさんは多分、始めから知っていたのだ。彼女の異変に気づいたのは、ずいぶん前だったのだろう。しかし、それと彼女に何のつながりがあるのだろうか? それとも、彼女の父親か? なぜおばさんは、彼女の父親が『ニセカシコメ』を出荷したことを知っているのだろうか。
 僕は、結局彼女のことを何も知らなかったことに気づき、頭で響く雑音が消え去って行くのが解った。リアルすぎるとはこのことを言うのだろうか。映画でも、あまりに日常とつながりすぎたり、現実を突きつけられたりするのは、自分が置かれている立場と混合させてしまい、がっくりきてしまう。それと、一緒だ。まったく、同じ状況だった。
――ただ、今は。
 僕は彼女に、確かに惹きつけられている。それは恋とも、同情とも違っていた。あの時僕は、彼女の腕をしっかりと掴めていた。あれは僕になど興味も示していない印のようなものだった。だが、だが、今の僕にも前の僕にも必要のないことだったのだ。自分が無力なのは仕方のないことなのだ。僕にとって、彼女からの好意や興味など、関係のないことなのだ。
 ぜんぶ、僕が勝手にしていることだ。
 僕は少し楽になって、彼女の教室である三年四組に足を運ばせた。上級生が僕とすれ違う。一瞬だけ体がこわばる。先刻と同じ目で見られる。こんなもんだ。陰では何かしら言われているだろう。が、表で言われないだけましだ。
 あいつは――。
「鈴木さん!?」
唐突に女の金切り声が聞こえた。
「先生、先生呼んでよ」
金切り声の女が言う。
「やだよ。どうせ貧血かなんかなんでしょ?」
「冗談言わないで」
「あたし鈴木さんと仲良くないもの」
――仲良くないもの。
場違いに、僕の小学校の頃を思い出した。ある女子が落としてしまったテストのプリントを、男子が「汚ねえ」と言って足で払って返したことだ。僕はあの頃とてつもない臆病者で(今もそうかも知れないが)気の利いた言葉は言えなかったが、その女子はただ黙って、上履きの跡がついたプリントを拾っていた。他の奴にはその『はんこ』がついていないということを、その事実を無理やりにでも受け止めようとしているように見えた。
「じゃあ誰か運んでよ」
うっとうしそうに金切り声の女が言う。
「じゃ、ジャンケン」
「オーケー」
 さっきの小学校のシーンが、頭の中で何度も反芻される。巻き戻して見たいところだけ繰り返すことができるのとは違って、嫌な場面を強制的に見せられているようだった。ニセカシコメとやらを作った彼女の父親の人間性、彼女の好きなバラやフルート、そして友だち、小学校のあの女子の置かれていた立場。
――偽善? それがどうした。くそったれ。どうにでも思ったらいい。自分のしたいことも満足にできないでどうする。 
瞬間、僕は飛び出した。彼女はここに居ない。こんなところへ留まっていられるほど、弱い人間じゃない。彼女の近くに居ると絶対と言っていいほど、匂いがした。僕の大嫌いな場所だ。僕は田んぼの景色を通り過ぎる。胸くそ悪い場所、灰色の墓石の前に、彼女は居た。
                    ☆
「なんだ」
彼女は後ろを振り返りながら、言う。
「授業始まっちゃうわよ」
左手首にされた時計を見ながら、きつく言った。彼女はハイソックスの靴下をのぼる蟻にも気にかけず、僕を手で追いやった。
――彼女を取り囲む匂いは、墓だった。
「こうなったから、無理にでもゆりを好きになってしまおうと思ったんじゃないんですか」
 彼女は黙っていた。
「虚勢を張り続けていたから、疲れちまったんじゃないんですか」
 僕の口は留まることを知らなかった。あまりに彼女が不条理だった。
「僕の予想だけど」
 息を呑む。
「あの花は、あなたが居なくなった時に作られたものなんでしょう」
 彼女は何も言わなかった。だが僕は彼女に同情するつもりはなかった。これが余計なお世話でも構わないつもりだった。
「『取り繕い』でもしなきゃ、生きてなんかいられないのよ」
 ひどく物悲しい声で、彼女は言った。
「でも、あなたの『取り繕い』は嬉しかったな。矢田さんは『すなお』な『取り繕い』なのよ。きっと絶対、誰にも憎まれたり恨まれたりすることはないわ」
それを聞いて、胸がまち針で刺した時のようにちくちくいった。遠くで授業の合図が鳴るのが解ったが、この状況ではどうでもいい気がした。学校も、彼女のぬけがらを見て騒いでいる頃だろう。授業どころではない筈だ。
「あの馬鹿親父は、私がこうなってから、ずっと私を憎んでいるの。母親まで失くしたからかしらね。私だけが、希望だったのよ。花屋のおばさんは、そんな馬鹿親父が好きだったみたい。だから、おばさんはあの花を自分の店で出したいと言ったのよ。おばさんもきっと私を憎んでいるわ。……ああ、馬鹿親父なんて言い方しちゃだめよね。もっと恨まれちゃう」
  僕は彼女の顔を見ることができなかった。なぜなら彼女の顔かたちが砂の城のように風化されていっているのに気づいたからだ。でも、おばさんが彼女を心配していたことだけは、言っておきたかった。
「どうせなら、最後まで嘘ついていたいな」
――言わせてくれよ。なんでそんな風に我慢することができるんだ。
「……あなたと、もうちょっとだけ早く会えたらよかったな。バラやフルートと同じ位、あなたを大切だと思えたかも知れない」
                   ☆
彼女が姿を消してから一年が経った。墓の場所はあそこではなく、郊外の日当たりのよいところへ移された。やはり寺の住職も気の毒だと思ったのだろう。彼女が望んでいなくても、僕はそれに賛成するつもりだった。
今全国に広まりつつあるニセカシコメは、僕の署名運動によって撲滅されつつある。これだけは、僕の意思でやりたかった。この花はここに残しておくべきではないのだ。
僕は友だちと学校の帰り、花屋へ寄った。彼が新しく入った、僕とおばさんで考えたセルフトゥルーを指差して花言葉は何かと訊くので、僕は笑って答えた。
「本当の自分って、意味だよ」

ニセカシコメ

ニセカシコメ

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-05-14

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

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