電波と先輩
先輩のことを語ろうと思うとき、何から語ればよいのだろうといつも迷う。なにせ私は先輩との出会いを、よく覚えていないのだから。私の琥珀色の記憶の棚の中で、あんなに大きな場所を占めていた人物だったはずなのに。それどころか私は、先輩に関するハレーションを起こすような鮮やかな思い出など、何一つとして持ちあわせてはいない。先輩に関する全ては、ただ曖昧模糊とした印象のうちだけに――書道の授業の後、流した水の表面を滑る墨汁の渦の描き出す絵のように――かすかに香るだけになってしまった。だから、私達がいつどのようにして出会いどんな言葉を交わしたのかは、もう私の口からは語ることはゆるされていない。音楽のように。それはあの屋上の湿った空気の中にかき消されて、二度と戻ってはこないものなんだと思う。
先輩は天文部員だった。とはいっても私達の中学に天文部なんて部はそもそも存在すらしていなかった。聞いたところによると先輩の前の代まではきちんとした部として活動していたのだけれど、新入部員の確保に失敗してあえなく廃部となったのだという。私はこの中学の歴史における最後の天文部員だよ、と先輩は時々茶化したようにそんなことを言っていた。そう考えるとなんだか偉大なように聞こえて逆に滑稽だね、なんて快活に笑う先輩の顔を茶色けた記憶の中でかすかに覚えている。いつも眠そうにしていたけれど、見開けばくりっとして大きな瞳。快活な印象。血色の良い頬。すらりとした輪郭に、短く切りそろえた髪の毛。霧の中で烟るような感覚を拾い集めれば擦り切れそうに微かに胸が縒れる。あの頃の私は、同級の可愛い女の子たちと同じように、ただ純粋に先輩に憧れていたのだ。
先輩はおよそ天文部員というような雰囲気を持った人ではなかった。二人でよく話すようになってからも、星の話などほとんどすることがなかったし、星座だって私のほうが多く知っていたくらいだった。私の中の天文部員のイメージが間違っていると言われてしまえば、多分それで終わってしまうような話なのだけれど。宇宙的神秘や星座占いなんてものには先輩は目もくれていなかった。あの、人のいない屋上で、私達は他愛のない会話ばかりを繰り返した。例えば、好きな音楽。先輩は私のよく知らない海外のバンドやクラシックの作曲家をよく知っていた。例えば、最近読んだ漫画の話。少女漫画をひっそりと愛好していたという先輩の秘密は多分私しか知らない。それから、好きな人のこと。普通の中学生が話すようなそんな当たり前の話題がでもたしかに私にとってはばかみたいに楽しかったのだと思う。もう今となってはまどろみの中の中学時代がそれでもほんのり輝いて見えるのは、きっとそういうことなんだろう。
お昼休みの屋上でのやりとりはたいてい私のどうでもいいような話を先輩が聞いていてくれていただけだった。それでも先輩は私の話を熱心に聞いていてくれたように思う。あの頃の私の生活のやすらぎの中心には先輩がいた。それは確かなことだ。染み付いた煙の重奏低音のように、あの頃の記憶の輪郭を保っているのは先輩だ。だからこそ、私は何かを思い出さねばいけない気がする。忘れてしまったことも忘れかけている事柄について。先輩について、語らなければいけない気がする。大切だった人の、思い出になってしまったからこそ大切な思いについて。
放課後も、私は先輩の部屋によく遊びに行った。先輩の家は同じ団地の背の高い白いマンションの一室で、先輩の部屋のベランダからはほど近い私の家もよく見えた。殺風景な部屋だったように思う。ポスターの一つもなく、大きなからのコルクボードが壁にかけてあるだけだった。本棚はいくつかあったかもしれない。それすらもよく覚えていない。ただ、ベランダには先輩が天文部員であることを示すように、立派な望遠鏡が置かれていたことは、いやにはっきりと記憶している。
私はあの部屋で、一体何をしていたのだろう。あこがれの先輩の私室でふたりきりだったはずなのに。たくさんの話をしたはずなのに。まだ靄がかかっている。私は先輩に聞きたいことがあったのではなかったか。先輩は何故、私なんかを選んだんだろう。
うつろに思い出す会話がある。先輩に天文部に入った理由を尋ねた時のことだ。
「そりゃ、もちろん星に興味があったからさ。それ以外に何か理由があると思う?」
「でも先輩、星のことあんまり知らないじゃないですか」
「知らないことはいくらでもあるさ」
と先輩は少し目を伏せて、いたずらっぽくそう言った。
「もう、ごまかさないでくださいよ」
と私が拗ねたように言うと、先輩はいつもの様に急に黙って私の顔をじっと見た。そのまま数瞬。頬が熱くなる感触。その刹那、先輩はまた視線を逸らして、ベランダの奥の何かを睨めつけるようにして見た。そしてゆっくりと私に向き直る。
「じゃあ篝ちゃん、星ってね、泣くんだって知ってた?」
「星が、泣くんですか?」
驚いて私が問い直すと、先輩は立ち上がって、本棚から一冊の本を抜き出し、ページを開いてこちらに見せてきた。何やら色鮮やかに着色された夜空の模様。まるで小学生の絵みたいだと、私は思った。
「これはね、星から発せられる電波をうつしたものなんだ」
「電波?」
首を傾げると、先輩は人差し指を立てた。
「そう、電波。星はね、死ぬときやブラックホールに飲み込まれるときにに軋むような電波を発するんだ。遠くて、望遠鏡では姿の見えないような星でも、断末魔だけは聞こえる。そういう悲鳴を一生懸命探して、天文学者達は仕事しているのさ。どうだい、ロマンチックだと思わないかい?」
心臓がばくばくとする。それでも、私はかろうじて笑う。
「先輩、まるで本物の天文部員みたいですね」
だから、そうなんだってば、と少し頬を膨らまして怒る、でも笑っている先輩が輝いて見えた。
思えば先輩にはそんな宇宙からの電波が聞こえていたのかもしれない。私のおかあさんみたいに。あのベランダに飾った望遠鏡で見えない悲鳴を探していたのかもしれない。空っぽのコルクボードに見つけた星々の写真を飾り付けることを夢見ていたのかもしれない。でも、そんなことが分かるほど、私は先輩を知らない。知ろうとしなかっただけなのかもしれないけれど。
二学期の終わりに、私は先輩と一つの約束をした。
「河原に、プレハブの小屋を作って小さな観測所みたいにしたんだ。あそこに今度、ふたご座流星群を見に行こうよ」
と白く息を吐きながら先輩は私にそう言った。私はしくしくと痛む肋骨を気取られないように、しっかりと背を伸ばす。先輩まるで本当に天文部員みたいですね、とお決まりの文句をいうと先輩はまたぷりぷりと怒ったふりをした。いいですよ先輩、行きましょうと私が困ったように返すと、先輩はそれでも嬉しそうに笑った。
「じゃあ、今度の金曜日が一番の見頃で天気もいい見たいだからその日にしよう。約束だよ?楽しみにしてるね」
そう言って先輩は私の手を強く握ってくれる。それだけで、私は胸が暖かくなって何もかもを忘れられる気がしたのだった。
その金曜日、家を忍びでた私の居る河原に先輩はこなかった。
そしてそのまま、私の前から姿を消した。
私は何を覚えていないのだろう。透明な釣り糸のように、解せない何かが私の心を縛っている。私は何を聞きたかったんだろう。先輩は庇の付いたベランダで何を見ていたんだろう。穴だらけのコルクボードには、何が飾ってあったんだろう。どうして先輩は私の痣のことを知っていたんだろう。
今でもひとつ思い出すことがある。一人ぼっちのプレハブ小屋の外。来ない先輩を待ちながら、消えてもなお白く蒸気を立ち上らせる裸電球の微かな焦げる匂いの中で。私は星を見た。悲鳴を上げる星を見た。流星を見た。夜空を滑りながら燃え尽きていく星の雨を見た。
それから私は毎年、ふたご座流星群を見に行っている。あの街を離れてなお、それはこびりついた絵の具のように私の習慣となった。けれども、あの日以来きちんと流星を見れたことはない。私には、星の悲鳴は聞こえない。ふたご座流星群の降る日、決まって冷たい冬の雨がそれをかき消してしまうのだった。いつか、その声をまた聞けたら、先輩のことを、大事なことを、思い出せるだろうか。そんな他愛もないことを、私は見えもしない流れ星に願った。
☆☆☆
平成××年十二月十七日
昨夜未明頃、××町の住宅で「人を殺した」との一一〇番通報があり、駆けつけた警察官が女性が刃物で刺され倒れているのを発見し、その場に留まっていた十五歳の少女を殺人の疑いで現行犯逮捕した。女性はそのまま病院に搬送されたが、死亡が確認された。○○署によるとこの少女は以前にもストーカー行為で保護観察処分を受けたことがある模様。調べに対し少女は「私が殺しました。友人を助けるためにはこれしかなかった」などと容疑を認めているという。以前から警察には被害者の女性宅から夜中に悲鳴が聞こえるなどの苦情が寄せられており、周辺トラブルを含めて警察はさらに動機の解明を進める方針だ。
電波と先輩
リハビリの習作三題噺
・電波
・電球
・雨
クソのように薄いテーマの描写。
思った以上に深刻な書けない病。
次回はもっとうまくかいてやるし(それにもっと軽いものを書くにゃし)
そして推敲を殆どしてないからね、(誤字は)しょうがないね。