巴・女武者列伝~燃え尽きるまで

巴・女武者列伝~燃え尽きるまで

草木茂 作

草木茂 編

女武者一騎

 筆者はその昔、一度だけその光景を目にしたことがある……。
 北陸本線で新潟からはるばる京都に赴く最中のことで、周囲は銀化粧し北陸特有の冷たい風が吹き荒れていた。しばしば風雪でその姿をかき消しながらも、標高およそ二七七メートルの倶利伽羅峠は、その不気味な影を筆者の心に鮮明に焼きつけた。今日では石川県河北郡津幡町倶利伽羅と富山県小矢部市石坂の県境。この地を境にして、東側に砺波平野が、西側に金沢平野が広がっている。
 この倶利伽羅峠は、今日では全長約九五七メートルの倶利伽羅トンネルが開通し往来が少しは楽になったが、かっては難所中の難所であった。急勾配であったため明治帝の輿さえ通過できなかったといわれる。じっとその光景に見入るうちに、今からおよそ八〇〇年昔、この地でおこなわれた合戦に思いをはせずにはいられなかった。
 いわゆる源平合戦最中に行われた倶利伽羅峠の合戦。この合戦で源氏方の大将木曽義仲は、ある奇策を用いた。眼前に不気味に浮かびあがる急勾配の峠を、松明を灯した牛が闇の中、平家に迫る光景を想像すると、それだけで身震いせざるをえない。
 義仲は気性が荒く、そして戦上手であったといわれる。その義仲につねにつき従う影があった。女武者である。名を巴といった。三尺五寸の太刀と真羽の矢を背負い、弓を持って五枚兜の緒を締め、額に天冠をあて、白打出の笠をかけている。そしてなにより風になびく黒髪が艶やかである。
 巴は倶利伽羅の山頂から、麓までの険しい道をじっと見下ろしていた。静まりかえった闇夜の冷たい空気がほおをつたっていく。倶利伽羅峠とは、山頂付近に倶利伽羅不動明王を祭った、倶利伽羅不動寺があることから名づけられた。合戦に先立ち、巴は義仲とともに、この寺に必勝を祈願した。不動明王は炎に包まれた剣を片手にし、邪悪の化身である蛇を幾重にも巻きつけた恐ろしい姿で境内に祭られている。
 静かに祈りを終えると、両者は甲冑姿のまま唇を交わた。義仲はいつにない表情でいった。
「平家は十万、我等はその半数。あれいは今生の別れとなるやもしれぬが、来世があれば再び唇を交わそうぞ」
 そして共にそれぞれの陣へと散っていく。薄霧の中に義仲の馬のいななき声が消えたとき、巴は胸中密かにつぶやいた。
「お願いです。行かないでください義仲様」
 今、巴は戦場に異変がおきるのを、ひたすら待っていた。その巴の脳裏に、義仲との出会いから今日までの時が、早足でかけぬけようとしていた。
 

大蔵館夜襲

 時あたかも、貴族全盛の時代がようやく終わりを告げようとする頃である。もうほどなくすると武者達の時代がやってくる。平安朝はおよそ四百年続いた。むろん後の徳川の世でさえ、平安朝には遠く及ばない。これほど長く続けば、体制が弛緩することは避けられないのが世の常である。
 華やかな平安貴族の生活を支えたものは、いうまでもなく、天下の民・百姓が中央政府に収める、様々な形の税に他ならない。天下の民等は平安朝も中期以降にさしかかると、重税にあえぎつつも、常に死と隣り合わせの生活から脱却したいと考えるようになった。すなわち武装して、己の身は己で守ることを考えたのである。これが武家の興りである。
 以来数百年、奇妙なことであるが、中央政府に対する反体制組織として出発した武士団は、中央政府を守る立場へと変貌しつつあった。武力を持たない公家は、強大な武力を持った武家集団なくして成り立たなくなったのである。
 武門の家の中において、平家と源氏は二大巨頭として今まさに頭角を現わそうとしていた。ただし源氏にとっての不幸は、源氏同士での、血で血を争う抗争が後を絶たなかったことである。時あたかも久寿二年(一一五五)八月十六日夜半、十六夜の月明かりの中、近郷の地(現在の埼玉県比企郡嵐山町)にある、大蔵館を目指す、一団の武者達の姿があった。


 およそ百ほどの軍勢を率いる大将は源氏の棟梁、源義朝の嫡男にして太郎義平、史上有名な源頼朝、義経の異母兄にあたる。齢わずかに十五歳にすぎぬが、後に武勇を恐れられ、悪源太義平といわれる人物である。
 義平は道中軍勢に小休止を呼びかけると、全軍にむかってまだかすかに幼さも残るが、凛とした声で演説を始めた。
 「皆の者、今日は我が父義朝の命により、我が叔父義賢を滅ぼしにいく。この東国の地は元より我らのもの。なれどよそ者の叔父は都より上野(現在の群馬県)に下向して以来、我等の目にあまるふるまい多々あり。また昨今は、新田や足利といった我等と手を結びたる豪族の領土とも、利根川を挟んで争うこと幾度にも及び、もはや我慢ならぬ。我が叔父といえど今日討ち果たす。皆、勇んで力戦奮闘せよ。叔父の首を討ち取った者には、褒美は望みのままであるぞ」
 この時、義平は練色の魚綾(ぎょりょう)の直垂に、八龍と称する胸板に龍を八つ打ち付けた鎧を着て、高角(たかづの)の甲の緒をしめていた。
 
 もとより義朝と義賢は源為義を父とする兄弟である。しかし義朝と父為義の間の親子関係は決してうまくいってはいなかった。当時中央政界を牛耳っていた院の力を背景とし、下野守に任じられた義朝の東国での勢力拡大を危惧した為義は、その牽制のため、義賢を上野の国に下向させたのでる。
 義賢と義朝の衝突はいわば必然であり、これからおこることは、後に為義と義朝が親子で敵味方になって争う、保元の乱の前哨戦でもあった。そして後々には頼朝と、義賢の嫡男にしてまだ二歳にすぎない駒王丸、すなわち後の源(木曽)義仲の対立の遠因ともなるのである。

 義賢はむろん義平の夜襲を予測していなかった。わずかに土塁を積みあげただけの質素な義賢の屋敷は、たちまち義平の軍勢に包囲され、火矢をびっしりと放たれて炎上した。
 気がついた時には、腹巻鎧に身をつつんだ武者達が、義賢の寝所にまで迫ってきた。義賢は寝巻き姿のまま、刀をとり迫り来る武者達を数名斬り伏せた。たちまち義賢の顔面は返り血に染まった。その眼光の凄まじさは武者達を恐れさせたが、やがて何者かが放った矢が、義賢の右目を貫通した。
 義賢に従う供の者数名。主君を守ろうとし敵の前に立ちふさがるうちに、義賢は廊下を意識もうろうとする中さまよい、ようやく正室小枝御前の部屋にたどりついた。


「駒王を頼んだぞ、屋敷は囲まれ始めている。早々に脱出せよ」
 すでに亡者のような形相をして義賢は、御前とその胸にしっかりと抱かれている駒王丸を目にしながら逃亡をすすめた。
「殿はいかがなさいますか?」
「もはやこれまで、わしは自害するまでのこと」
 悲壮な言葉に小枝御前は取り乱し、
「ならばわらわも、この子を殺した後、御供つかまつりたく存じます」
 と半ば泣き声でいった。
「たわけ者! よいか我が姿をその胸にしかと焼きつけよ! 決して忘れるな」
 と、義賢は血と油汗がにじみ片目が潰れた、凄まじい形相を小枝御前あえてに近づけて見せた。さしもの御前も覚悟を決めた。義賢の誕生した年ははっきりとわかっていない。従って享年も三十前後と推定されている。

 
 義賢は死んだが、小枝御前とまだ乳幼児にすぎない駒王丸はかろうじて修羅場を脱した。その後の母子の足どりについては、諸説あっていずことも断定できない。確かなことは義平の臣下にして、小枝御前の従兄弟にあたる畠山重能が、密かに二人を逃がし、都から東国に赴いていた斉藤実盛という者に託したということである。
「私の身はいかがなっても構いませぬ。どうか、どうか駒王の命をお助けください」
 実盛の所領である長井の庄(埼玉県熊谷市)の屋敷で、小枝御前は平身低頭して実盛に懇願した。
「なに案ずることはない。人として赤子の泣く声を聞いて、これをむざむざ見捨てることができようか? 赤子のことなら案ずることはない。ここへ持って参るがよい。駒王とやらの寝顔を拝見したい」
 斉藤実盛は、駒王の寝顔にしばし見入り、やがて不意に顔色を変えた。
「いかがなされましたか?」
 小枝が怪訝な顔をすると、
「いや、今わしはこの赤子の寝顔を拝見しているうちに、不思議な縁を確かに感じてのう。今、今日ここで初めて会ったような気がせぬのじゃ。察するにこの子とわしは前世からの縁で結ばれているに違いない」
 と四十四歳になる実盛は、半ば真顔でいった。むろん実盛は駒王と後日いかなる形で再会するかまでは、まだ知らずにいた。

 その後、母子は一旦上野の国の中里村まで赴き、そこから大日向村(長野県南佐久郡佐久町)まで落ちのびるのである。実盛のはからいにより、信濃国の豪族中原兼遠という者に助けを求めるためである。
 二人は銀の雫降りしきる中を、まるで見えない何者かに導かれるように、草木深い信濃の地を訪れるのである。行く手に何事が待ち構えているか、むろん駒王はまだ知らない。

巴・女武者列伝~燃え尽きるまで

巴・女武者列伝~燃え尽きるまで

平安末期、平家打倒のため木曽の山奥深くで挙兵し、一時は都を手中にしながら、ついに悲劇的な最期をとげた木曽義仲。そして義仲に終生を捧げた女武者巴御前の物語です。

  • 小説
  • 掌編
  • 時代・歴史
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-05-12

CC BY-NC-ND
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  1. 女武者一騎
  2. 大蔵館夜襲