遊園地の騎士

 子供を預かった。


 姉の一人娘で、名前は芽莉。今年の春に小学二年生になったばかり。


 二週間前、普段何の音沙汰もない姉から私用のケータイにメールが送られてきた。様々な近況が上司の文書のように理路整然と並んでいたが、要するに、結婚記念日に旦那とデートへ行くプランを立てたもののどうしても子供の預け先がないということらしい。僕は慌てて「ロリコンと間違えられたらどうする」と預かるのを拒んだが、「父親にしか見えない」と返され何も言えなくなった。三つ歳の離れた姉の出産は、一般的な出産より遅かった。姉がキャリアウーマンとして十年充分活躍したのちの子供だったため、授業参観にはむしろ僕と同い年くらいの親が多いのだという。実感のない話ではあるが。


 僕は今年、三十六になる。独身で、結婚経験も無し。大学卒業後、どういうわけかフリーのライターという社会的地位を手に入れて今に至る。現在、週一の連載二本と単発の仕事三本を抱えてはいるもののスケジュールには余裕があり、新作ゲームをクリアしたり意味もなくギターを買って居間に飾ったりしてのんびり気侭に過ごしていた。本来、子供を預かるほどの交流がなかったことを考えると、その余裕が何となく察知されたのかも知れない。こうなると、肉親の勘も馬鹿にならないとさえ思えてくる。しかもここ数年たて続けに年末の仕事が入り、ろくに正月、実家に帰っていない。つまり子供とは、かれこれ四年ぶりの再会であった。


 その四年ぶりの再会となった子供は、案の定、僕のことなど忘れていた。僕の方も、あれこんなんだったっけ?という調子で、その小さな体を、顔を、瞳を、無遠慮に眺め回した。僕の記憶では、しがみつくとちょうど膝に額がつくくらい小柄な生物であった筈だが。しかし、三歳と七歳とじゃ人並みならない進化が起こってもおかしくはないのだ。目の前の、生物から少女へ明らかな変化を見せた子供は、円らな目で僕を見て、そして人買いに買われた少女のように絶望的な顔で「お世話になります。よろしくお願いします」とおじぎをした。





「やっぱ無理だよ姉さん、子供の友達の家とかにさ、お世話になればいいじゃん」


 子供がトイレに行った隙に、そう提案した。あの調子じゃ、いたいけなこころに深い傷を負わせてしまうのではないだろうか。

「何言ってんの、お友達付き合いは色々と大変なのよ。向こうの親御さんのお世話になるわけだし、預けてハイ、ありがとうございましたで済む話じゃないんだから。優馬だったらそんな心配いらないし家も近いし、どうせ暇なんでしょ、一泊くらい大したことないって」


「けど、さっきの顔見たろ?ありゃ、俺を人攫いかなんかだと思ってるよ」


「馬鹿。あんな風にじろじろ見られて委縮しない方がおかしいわ。二週間前から連絡してあったのに、まさかそんな無精髭の、いかにも無職で世界を恨んでますって顔で出迎えられるとは思ってなかったし。芽莉の周りにそんなオトコいないんだからね、ちょっとは考えてくれると思ってましたっ」


 おや、いつの間にか叱られている。


「無職じゃないよ一応ライターだよ」


 一連の言葉で暗に、ライターは無職同様いつでも暇をしているのだろうとなじられたような気もする。実は結構いそがしく、自分でも天才的と思えるスケジューリングで飯を食うに至っていて、現在珍しく余裕があるだけなのだ。もっとも、姉に仕事の話などしたことはないから、未だに、ふらふらと何をしたいのかよくわからない弟がふらふらしている割に飯はちゃんと食っているらしいとでも思っているのかもしれない。しかし身なりに関しては姉の言うことが正しいと思い、余計なことは黙っておく。確かに、上下ジャージではお世辞にも人に会える格好ではない。それに忘れていたが、高校時代、あまりの目付きの悪さに不良に絡まれ袋叩きにされたこともあった。


「あんたの職業なんてどうでもいいの!あーあーもうほんっと、大人になっても相変わらずなんだから…芽莉預けるの心配になってきたわ…」


 預けられる俺の方が心配だよ。口をついて出そうになったが、子供がトイレから戻ってきたので慌てて口を噤む。姉はチラと携帯を確認すると、僕を牽制するように睨みを利かせながら言った。


「じゃあ、そろそろ行かないと飛行機の時間に間に合わないから。何かあったらすぐメールすること、電話でもいいわ、いや電話にして。とにかく本当に頼んだから、何かあってからじゃ遅いんだからねよく考えてよ!」


 昔から姉は厳しい人だったが、ここまで厳しく言いつけられたのは三十六年間で初めてだ。「姉」というよりもむしろ、「母親」がそういうものなのだろうか。


「芽莉、」


 打って変わって柔和な表情になった姉は、不安そうに隣に寄り添う我が子に語りかける。


「優馬はね、人としてはクズだけど、根は優しくていい子なの、芽莉のこともきっと可愛がってくれる。言うことよく聞いて、ちゃんと面倒見てあげてね」


「…うん」


 うん?何か言っていることが端々おかしくないか?素直に頷くところじゃないんじゃないか?


 しかし母娘の別れを邪魔してはならないと言い聞かせ、黙って待つ。一通り言葉を交わすと、姉は決意したように立ち上がった。「じゃあね、芽莉は本当にいい子ね、ありがとう」と我が子を最後まで褒めちぎって頭を撫でた。部屋を出る間際、僕を振り返って思い出したように言う。


「そうそう、遊園地のチケット、芽莉に持たせてあるから、連れてってあげて。よろしくね」


「はあ」


 と、僕が気のない返事を返す頃には玄関扉はぴったり閉じて、部屋にはいよいよ僕と子供だけになった。


 僕は時計を確認する。午前九時二十八分。八時半には子供を連れていくと言われていたにもかかわらず、目が覚めた時には既に八時を回っていた。そこから二日分の洗濯物と食器、食べたゴミなどを始末し二人分の座布団を敷くだけのスペースを作ったのだ。上下ジャージに無精髭でも多少大目に見てもらえるのではないか。しかし、まだ九時半か。寝直したいところだが子供がいる手前それも出来ない。とりあえず、腹ごしらえをするか。


 視界の端でちょこんと座る子供に嫌でも目が行く。何か声を掛けてみるべきだろう。がんばれ、自分。


「えー、と…。朝ご飯、食べた?」


 こくん。以上。


「俺、まだなんだ、寝坊しちゃってね、食べるけど、何か飲んだり、する?」


 ふるふる。以上。


「そうか、じゃあすぐ食べちゃうから、ちょっと待ってて」


 こくん。以上。


 …心が折れそうだ。子供ってこんな感じだっけ。もっと、馴れ馴れしくて、うるさくて、無遠慮はた迷惑な感じでは無かったっけ。見た目も、ピンクだの黄色だの派手なファッションに身を固めてジャラジャラとアクセサリーを付けて生意気すぎてどうしよう的な子供にしか見えないのに、これじゃあ、クラスの学級委員よりおとなしい。ああ、僕と意思の疎通をする気がないとかそういうことか。それならば仕方がない、しかし姉に任された以上僕まで意思疎通を放棄するわけにはいかない。


「俺の支度が出来たら遊園地、行くから。それまで…そうだな、ゲームあるから何かするか?」


 ふるふる。


「じゃあ、ちょっと待ってて」


 あまり待たせるわけにはいかない。冷凍庫からラップしておいたご飯と一昨日余った豚とキャベツの甘辛煮を取り出し、同時に電子レンジへ。お湯を沸かして一人用のお茶セットに玄米茶を用意。冷蔵庫からお新香とほうれん草のおひたしを出して座卓に並べる。有り合わせにしては上出来だろう。昨日かっぱ橋で手に入れた少し小ぶりな深めの焼き物に、温まったご飯と豚肉を盛って豚丼もどき。いい店のメニューみたいで贅沢な気分。


「いただきます」


 どこの焼き物だったか忘れたが、釉薬の緑が目に嬉しい。そういえば最近まともに朝ご飯を食べていなかった。早起きはいいなあ。朝の日差しが部屋の中に差し込んで、静謐な風が抜けていく。いいなあ。一つを除いて。


「……」


 いただきますと言ったきりしばし動かないでいた僕を、不審に満ちた目が見つめている。僕は我に返って、豚丼をかき込みはじめた。一人が長いせいで内側にばかり思考が向くようになってしまった。この二日間はそういうわけにいかない。しっかりせねば。

 結局、コミュニケーションに進展が見られないまま支度を済ませ、家を出た。遊園地のチケットは子供の小さなリュックに大事そうにしまわれた。そのリュックの姿形と言うのが、蛍光グリーンに模様はオレンジの三毛猫の顔で、猫のくせに随分まるくて大きな目をしている。この物体の良さが僕にはよくわからず、思わず「ふ…センスひでえ」なんて口を滑らせ鼻笑したら全く目を合わせてくれなくなった。子供のことだ、すぐ忘れると言い聞かせながら最寄り駅のホームに立って電車を待つ。ここに至るまでに近所のおばちゃん、職務質問、そして改札口と子供にとっては難関があったと思うのだが、どれも難なくクリアしていた。そういえば、自分が子供の頃は改札にしたってまず切符を買わなきゃいけなかったし、通る時に切符を入れて取る動作も慣れないうちは苦労した記憶があった。対して今の子供はSuicaでピッと通るだけ。しかも塾などで早いうちから電車を利用していると聞く。子供がしっかりしているというより時代だなとつらつらと考えていたら、またしてもコミュニケ―ションを怠ってしまったので慌てて話しかかる。


「電車はよく乗るのか?」


 こくん。高い位置で結わかれた髪の束が二つ、同時にぴょこんと跳ねる。よく見たらただの二つ結びじゃなくて編み込まれている。今の子はませているなあなんて思ったが、僕らもそう言われていたから案外いつの時代もそんなものだ。


「そういえば、髪の毛はいつも姉貴…お母さんがやってんの?」


 “お母さん”ってこんな他人事な響きはない。と、感じているということは、姉が母という役目を担っているということを僕は今一つ理解していないらしい。お母さん…お母さんかあ…。


 子供はこくん、と肯定する。


「へえ、姉貴もそんな器用なとこあったんだ」


 姉と言えば、針に糸を通そうとして針を皮膚に通したり、ゲームのキャラを飛ばそうとしてゲーム機のボタンを吹っ飛ばしたりしているところしか知らないから意外だ。結構頑張って母親やっているのだなと妙に感心してしまう。

「お母さん、いつもやってくれるのか?」


 子供がまた頷いたところで電車がやってきた。姉が用意したチケットは「ウネワプラスワールド」という、悪く言えばローカルで平均的な、魅力らしい魅力のない遊園地のチケット。僕の家の最寄り駅から「畝和駅」で下車し、徒歩五分程で到着する立地は良い遊園地なのだが、肝心の「畝和駅」が各停しか停まらないという徹底したローカルっぷりだった。この畝和の地区はその名の通り元々広大な農地だったという。これがのちに陸軍の演習場となり、終戦後はほぼ手つかずの草原となっていた。そうして今から十数年前、終戦五十年を記念しその広大な土地を遊園地としたのが始まりである。国の莫大な補助金が投資されただけあって、創園当時は電車のダイヤが変わるほど賑わったが、今や町内会の子供会がちょっと利用する程度の細々とした営業となっていた。そのため売り込むのに必死で、様々な催しのお知らせや割引券といったものがタウン紙の至る所に見られる。ポイントは、新聞などの全国紙ではなくタウン紙というところだ。今日のチケットだって、そういったタウン紙から先着何名様だのといった煽り文句で、その実、完売することはないチケットを姉が易々と手に入れたに違いない。


「遊園地って、他はどこに行ったことある?」


 揺れる休日の電車内は、春の長閑な日差しを受けて暖かかった。子供連れが目立つので、僕もそのうちの一組に見られているのだろうなと思うとむずかゆく、それだけで浮ついた。子供の方がよっぽど落ち着いて、窓の向うの景色を無機質に眺めている。その固く結ばれた口からどうにか子供らしい言葉を聞こうと、あの手この手で話題を振る。


「……千葉イワークスランド…」


「ああ、あそこね」


 消え入るような声で言ったのは、言わずとも知れた遊園地…というよりテーマパークの王様、エンペラーである。解析不可能な大いなる普遍性によって、日本に輸入されておよそ三十年、世代を超えて愛されているお伽の国、日本人なら生きているうちに一度は行くだろう。


「ティンモー好きなのか?」


そのキャラクターは異常に人気なため訊いてみたのだが、子供は小さく首を振って否定したきり、また喋らなくなってしまった。僕の方もそれ以上キャラクター名がわからなかったので諦めて、広告の中学受験問題を眺めることにした。

「畝和ー畝和ー」


 すっかり受験問題を解くことに夢中になっていた僕は、扉が開くまで到着に気がつかなかった。一方、子供は開く扉の前まで行って木偶の如き保護者を恐る恐る見ている。しまった。慌てて子供の後について電車を降りる。


 降りると、駅のホームはウネワプラスワールドのイメージキャラクターで溢れていた。と言っても、元あった普通のホームの広告やらベンチに散りばめた程度なので、どこぞのテーマパークとは比べてはならない。トラえのすけミュージアムの方がまだ豪華かも知れない。そんなささやかなイメージキャラクターはその名を「ウプラス」、「ネプラス」、「ワプラス」と言って、身体が「+」の形をした三つ子ちゃんだ。それぞれ色分けされ、性格によって表情も違うのだが、細かく描写する必要を感じないので割愛する。


「ああ、ウネプラは専用出口があるんだよ、そっちは西口」


 僕に構わず歩いて行ってしまう子供に慌てて声を掛ける。子供は初めてここに来たはずだ。わからなくて当然だ。僕が行かなくてどうする、と戒めながら少し前を歩く。改札を出て左に曲がり、しばらく道なりに歩くと「ウネワプラスワールドへようこそ!」という横断幕がかかったトンネル状の通路に続いていく。実は地下通路になっているこのトンネルがまた長いのだが、壁に戦後の日本の変遷が描かれていたり、「ウネプラのひみつ」なるクイズが連なっていたり意外と飽きない。背後の子供を気にしつつ歩き、なだらかなスロープを抜けて外に出た。五月晴れ清々しい緑溢れる広場が、入場ゲートを囲むように広がっている。その向こうには、この遊園地のもう一つのウリである「車」が並んでいるのも見える。全園内をこの「プラプラカー」で移動できるというのが開園当初から謳われていたセールスポイントだった。「プラプラ」の名の通り自転車よりも遅く、ゴルフのカートのようなちゃちな車ではあるのだが。


 人もまばらな石畳を歩いてゲート前に着く。惑星や謎の幾何学模様などで近未来を模していたはずの銀色のそれは、経年変化によって艶消しの効いたレトロなゲートへと変貌している。その哀愁漂うゲートをくぐって、まず受付をしようと財布に手を伸ばしかけたが、子供のリュックの中にあるものを思い出して子供に声を掛けた。


「チケット、出せるか?」


 この時まで子供は、初めての場所にきょろきょろと視線を彷徨わせてチケットの存在を忘れていたらしく、僕の言葉に文字通り飛び上がって慌ててリュックを開けた。と、小さい割に何やらギュッと詰まった中身を垣間見る。プライバシーというものがあるからすぐ目を逸らしたが、明らかに使わないアイドルのブロマイドやら白馬やら流行りの少女向けアニメの「パンジーキャノン」のおもちゃなどが見え、そういえば自分も何処へ行くにもウルドラゴンマンの敵キャラのフィギュアを持ち歩いていたなあなんてことまで考えてしまった。


「ウネワプラスワールドへ、ようこそ!プラプラカーはご利用になりますか」


 子供から受け取ったチケットを渡すと、受付嬢、というには語弊もある四十半ばの女性が年季の入った営業スマイルで奥の駐車場を示した。


「いや」


 つい、食い気味に即答してしまう。そんな、ゆっくり進みつつ会話もない空間なんて耐えられない。と、狼狽える僕の一方で、中年受付嬢は落ち着き払って対応を進めた。


「かしこまりましたーではこちらが入園パスになります、いってらっしゃいませ!」


 こちらの重い空気をものともしない明るい声が、入口を一際、閑散とさせた。入口付近にいるのは僕と子供の他に、人生の休暇を満喫している老夫婦が受付に向かっているだけだ。この光景、ますます遊園地の業績が心配になる。

 この遊園地のメインであるアトラクションゾーンへは、四車線道路並みに広く長く緩やかな坂道を登っていく。歩道は赤い煉瓦敷きになっていて、プラス柄が黄色、白、青など様々な色で埋め込まれ高揚感を導こうとしている。両脇に規則正しく並べられた緑の街灯にはイメージキャラクターが印刷されたフラッグが掲げられ、風になびいていた。坂道の上に、観覧車、ジェットコースターなどが堂々と顔を出しているのが見える。


「時計、持ってるよな」


 右腕に真新しい「パープルパンジー」の変身装備を模した時計があったことを思い出して尋ねた。子供はその時計を、一度腕を上げて持ち上げて自分の目で確かめてから、こっくりと頷いた。「パープルパンジー」なんてまたマイナーな趣味である。思えば姉も、決して主人公を好きにはならなかった。主人公を陰で支え励ます健気な、それでいてなぜか人気はそこそこの地味キャラが好きらしかった。「パープルパンジー」もそのタイプで、破天荒アイドルである主人公「レッドローズ」を幼馴染として支え、また少女戦士「フラワーフローラル」の母的存在である、というのはあくまでも仕事上雑誌などで見かけただけで断じて趣味ではない。日曜日のアニメを暇に任せて観ることはままあるがそれ目的でもないし、本当。…そうそう、子供に時計を確認させたのは今後の流れのためである。


「今、十時半だからー、昼飯をまあ十二時に食べるとして…十一時五十分だな、うん、十一時五十分集合で」


 どうやら子供には伝わらなかったらしい。目を合わすまいとしていたことすら忘れて、こちらをじっと見つめてくる。


「あー、俺と回ったって楽しくないだろ?俺はそこのパラソルのところで待ってるから、集合時間まで遊んできていいぞ」


 視界は開けて、心なしか錆の匂いのする風が招き入れるように強く吹いた。坂道の終着点には写真撮影用のキャラクターのボードと花壇があり、広場がよくある円状に作られている。広場には、なぜかアトラクションゾーンから外された回転木馬が堂々と構えて細々と動いていた。回転木馬が見える一区画には、垣根に沿って五、六のパラソルが立てられちょっとした休憩所となっている。アトラクションゾーンへは、この回転木馬を過ぎた先の大通りを真直ぐ行くばかりで着いてしまう。視線を子供に戻すと、子供はちょっと困ったような顔をしていた。


「地図ついたパンフレットはさっき渡したよな、基本的に東西南北にエリアが分かれてるからわかりにくくはない。どうしても迷ったとかなら、電話すればいいし」


 そこまで話して子供はようやく頷いた。


「じゃー、行ってらっしゃい」


 蛍光色まみれのリュックを叩いて子供を促したあと、その小さな背中がさらにもっと小さくなっていくのを見送った。


 さて俺は一寝入りするかな。昼寝にはとてもいい場所だ。と、その前に何か炭酸でも買ってくるか。

 世の中のゼロカロリーの蔓延を嘆きつつ、自販機からパラソルの下のベンチまで戻ってくると。


「あれ…もういいのか?」


 なんと子供がもう戻ってきていて、パラソルの下で立ち尽くしていた。何かあったのだろうか。


 慌てて小走りで近づくと、子供はこっくりと頷いた。しかし、ここまで来ておいてもういいはないだろう。


「何か飲むか、買ってくるよ」


 完全に困惑してしまった僕は、買って来たタスト・グレープをベンチに置き、踵を返して自販機に戻った。そうして慌てて戻ってしまってから子供の好みが全く分からないことに今更ながら思い立ち、かといってまた戻るのも気まずく自販機の前でさんざん悩んだ挙句、カルピルを買った。


 ベンチに子供を座らせてその隣に腰掛けてタスト・グレープを開ける。プシュッと小気味良い音がして、それを一気に喉に流し込んだ。目の前で回転木馬が動き出す。流れる沈黙に耐えかねて僕は口を滑らせる。


「…俺、昔、回転木馬嫌いでさ、」


 ここまで言ってしまって何故こんなことを言ってしまったのかわからず子供の方を横目で見る。子供はじっとこちらを見て傾聴体制に入っていたので、なんだかもうどうでもいいかと思って喋り続ける。


「小…三くらいの頃かな、こんなんガキの乗りもんだと思ってたのよガキなりに、ガキのくせに。で、どこだったか忘れたけどこんな感じでなんか座ってたんだよ。遊園地まで来といてなんでそんなことしてたか忘れたけど」


 大方、身長制限で姉に置いて行かれて拗ねただの、ソフトクリームを食べたかっただのそんな些細で仕様もないことだったのだろう。本当にどこにでもいるどうしようもないガキだった。そのどうしようもないガキの隣には、奇しくも今の僕と同じように父親が座っていた。


「優馬、乗らねえのか?楽しいぞー回転木馬」


 父親は、昔からイジイジとへそ曲がりだった僕に比べて快活という言葉を具現化したような人物だ。ここだけの話、仕事中にふと「快活」と使いたくなってもすぐ父親の顔が浮かんできて止めてしまう。


「乗らない。メリーゴーランドなんてガキしか喜ばねえもん、回ってるだけじゃん」


 坊ちゃんヘアで生意気な口をきく滑稽な僕を、父親は笑いもせず窘めた。窘めたというよりはぷりぷりしていた。


「おまえー、お前メリーゴーランドなめてるだろお前ー」


 さも不本意不服極まりないといった風である。まるで金のウルドラゴンマン限定生産十体のうち一体を手に入れて息子に自慢したら「僕ウルドラゴンマン興味ねえし」と一蹴されてしまった時のようである。


「どーせお前、メリーゴーランドなんてファンシーな乗り物だと思ってんだろ?」


 その高圧的な言葉の中に、所詮は子供だなという挑発的な言葉が確かに聞こえた。僕は思わずむっとして父親を睨む。


「なんで」


「ふ…っ。知りたいか。知りたいだろ」


 ますますムカつく父親だ。僕に「そんなの自分で調べるからいい」と言うだけの余裕がないのを知っているかのようで、僕の次の言葉を待たず喋り出しそうである。眼をぎょろっと大きくして顔を近づけてくる。


「教えてよ」


 父親の油ギッシュな顔面に耐えかねた、という素振りをして僕は言った。その幼稚な小細工に気付いているのかいないのか、向こうは待ってましたとばかりに薀蓄モードに切り替えた。


「そもそもメリーゴーランドの起源はcarouselっつってな、聴いて驚け、十一世紀から十三世紀にかけてヨーロッパにあった、かの十字軍の軍事訓練器具だったのだ!」


「ええっ」


 ちなみに言っておくが、この頃の僕に何世紀だのヨーロッパだのましてや十字軍だのという概念はない。ただそのいかにも大仰な口調と「軍事訓練」という単語に反応してしまっただけである。


「軍事訓練ってあの戦車とかでやるやつでしょ、これが?」


 僕は、目の前の、優雅な白馬が固定され、大輪の薔薇があしらわれた舞台を疑わしげに見る。


「そう!昔々の騎士たちはな、これに乗って実際の戦闘に近い馬上訓練を行っていたのだ。騎士といえども、馬の上で剣を振るうのは簡単なことではないからな。たとえば、こうして回っているのも、いかなるバランスでもしっかり落馬しないでいられるように訓練するためなのだ」


「へええ!」


 僕は想像する。スタイリッシュな銀の馬に甲冑姿のナイトが跨って、身の丈ほどもある大槍を縦横無尽に振るう。メリーゴーランドの回転速度はぐんぐんと上がってゆき、馬は競走馬のように大きく傾く。しかし、ナイトは傾きをものともせずバランスを取り淡々と目の前に現れた等身大人形を斬り捨てた。


「すげえっすげーな父さん!かっけえな!」


 僕は目を輝かせて父親を見た。父親も同じ顔をして笑った。


「どーだ!回転木馬、乗ってみるか!」


「うん!」


 もう遠い記憶である。今思えばどこまで本当なのか怪しいところであり、それでも現在まで僕の中の回転木馬は凛々しく勇ましい騎士が息づいている。


「………」


 そこで突如、隣に気配を感じた。そうだ、子供と一緒にいたのだ。しかも、女の子相手に十字軍だの軍事訓練だの、あまりにも夢のないことを言ってしまった。今日最大の大失敗である。やばい。今後メリーゴーランドに乗らなくなってしまうかもしれない、失態だ、姉になんて謝ろう、菓子折りを用意するか。恐る恐る、子供を見る。


「……うん?」


 そこには、去りし日の僕顔負けの輝かしい顔が、更に言うと出会って初めての笑みを湛えて、きらきらしていた。眩しさにこちらが呆気にとられて瞬きしてしまったくらいだ。


「今の話、面白かった?」


 彼女の様子があまりに微笑ましかったのでつい笑みを零しつつ、訊いてみる。


「うん!」


 返事は間髪入れず返ってきた。初めて声らしい声を聞いた気がする。弾けるように、とはまさにこのことだ。


「見て」


 彼女は言って、例の派手なリュックの中を探り始めた。間もなく取り出したのは、トリックナイフ並みにリアルな短剣。


「見てて」


「うん?」


 と、思いきや、彼女が刃先を持って引っ張ると、なかなか様になる風体の日本刀が現れた。伸縮式とはイカしている。僕も欲しい。


「かっこいいな!それ!俺も欲しい!」


 うっかり心の声だだ漏れである。小学生のような反応をして内心恥ずかしくて居たたまれなくなったが、彼女はそんな僕の反応に気をよくしたのか、続けて言う。


「鼓雨ちゃんと、飛華ちゃんとね、時代劇ごっこするの、芽莉は十慈真ノ助!」


「渋っ」


 そういえば姉が熱狂的な時代劇ファンだった。特にまだ映画スターというものが全盛期で、時代劇も圧倒的な支持を得ていた頃の時代劇が好きで、そのビデオやDVDを鬼の如く収集していた。


「じゃあ、これで時代劇ごっこするか?」


 僕は回転木馬を指差した。芽莉は満面の笑顔で肯いた。



 バイトの兄ちゃんに温かい目で見送られ、芽莉は刀を携えて、他の数人の客とともに舞台に入っていった。とても真剣な眼差しで自分の命を預ける相棒を吟味し始める。舞台中を点検し尽くした結果芽莉は、黒光りに光る身体に真っ赤な鞍を付け、妙にリアルな口を剥き出しに今まさに嘶いている黒馬を選んだ。他の客に芽莉と同年代の少女がいたが、その子はサンドリヨンに出てくるようなかぼちゃの馬車に、お姫様気取りで乗っている。


 発車のベルが鳴った。プルルルと鋭く鳴ったベルに合わせて、ゆっくり馬が動き出す。同時に、どこかヨーロッパの民謡を思わせる安っぽい電子音が流れ出す。僕は父親よろしく柵にもたれて、芽莉を見送った。柵は誤魔化しようがないほど錆びているが、さすがに本体は問題なく作動するようである。当たり前か。


 一周目、芽莉は気持ちよさそうに髪を風になびかせて僕に手を振った。咄嗟に手を振り返して、手を振るなんていつぶりだろうかと少し顔が熱くなった。毎回これの繰り返しかと思うと、精神的に耐えられるか不安を感じざるを得ないところへ、あっという間に二周目がやってこようとしていた。すると。


「優馬!覚悟!」


 芽莉は刀を構えて鋭い一声を上げた。刀は横一文字に僕に向かって光る。真剣そのものの凛々しい瞳が、こちらを睨んでいるのがわかる。そして迫る刃…!


「ぐわっぅ」


 刀のタイミングに合わせてぐっと体を反らし、こちらも全力で声を上げた。先程の羞恥などすっかり意識の外である。続いて第二の刃が迫る。僕は前の一刀でかなりの痛手を受けていたが、柵にしがみ付きまだ闘志を燃やしていた。


「む、やるなおぬし!」


「まだまだ!」


 第二、そして第三の攻撃と、屈んで避けてやり過ごす。おそらく次が最後の対決だ。芽莉の後姿が大きく揺れながら白馬の影に消えた。安っぽい電子音が、気のせいか熱を帯びていく。


「覚悟っ!」


 最後の対決はまもなく訪れた。さながら女武者の振る舞いで、正面に切っ先を向ける正眼の構えで姿を見せると、僕を仕留めようと再び横一文字に構えた。僕も男だ、自らの潮時は察している。最期は正面で受けて立とうではないか。


 芽莉の刃がすぐ横を抜けた。今度は仰け反ったり避けたりはしない。その代り、ガチャンと音を立てて柵に横倒しになり最期の一声を絞り出した。


「む、無念…」


 颯爽と駆けてゆく芽莉は、神妙な顔つきで静かに刀を収めただろう。振り向かずとも、背後の気配でありありと想像できる。芽莉の勝利だ。



 安穏とした乗客たちの隙間から、芽莉が少し息を弾ませてするりと戻ってきた。本体が減速し停車のベルが鳴りアナウンスが流れるその芽莉を待つひと時が、二、三分では済まされない、羞恥晒し極まりない、悠久の時間であった。右を見ても涙、左を見ても涙状態であった僕はしかし、その姿を認め、悠然と好敵手として両手を広げてみせた。


「俺の負けだったよ」


 その声が若干震えていたのも気づかず、芽莉はリュックに縮めた刀を仕舞う。


「今までやった時代劇ごっこで一番面白かった!」


「それはよかった」


 心からの台詞に僕自身がびっくりした。芽莉のはしゃいだ声が本当に嬉しく、人生で初めてかもしれない「子供っていいな」を胸の内で呟いた。まず相手がいないというジョークの常套句は措いておいて。


 そのあとの言葉は、思いもよらずすぐに出た。


「次何乗るか?」


「ジェットコースター!」


 ちなみに、僕は絶叫系が大の苦手だ。




「ひっどい顔ねえ!」


 開口一番、姉は純粋な驚きで目を丸くしてこう言った。そして心配そうな顔になって言う。


「そんなにストレスだった?ごめんね押し付けて。はい、お土産」


 今更謝っても無意味だと思ったが、そもそも見当外れなので僕は慎重に言葉を選んでいく。


「ありがと。いや、芽莉とはうまくやれたと思うよ、昨日もハンバーグ作るの手伝ってくれたし。ただ姉さんが一つ大事なことを忘れていたということなんだよ」


 姉が、何のことやらという顔をして首を捻ったところで、朝から飛ぶ鳥を落とす勢いで活発に活動してきた弾んだ声が聞こえてきた。


「優馬ー!芽莉のパッチン留め知らないー?」


 昨日は、夕飯を平らげ風呂から出るなり居間で発条の切れたぜんまい人形の如く寝てしまい、先程帰り支度を始めたため、姉が迎えに来てもぱたぱたと部屋を巡回しているのだった。


「洗面台の鏡の前!」


 色気のない男臭い製品に交じってピンクのウサギがピースサインしているのだから覚えていないわけがない。すると腕を組んで立っている姉が大きく息をつく。


「はー本当にうまくやれたのね。あんなに泣き言言ってたくせに。で、私が忘れてたことって?」


 普段からさっぱりした人だが、輪をかけてさっぱりしている。もしかしたら、わかっていて任せたんじゃないだろうか。


「だから、俺が」


「お母さんお待たせ!」


 僕の言葉を見事に無視して主役の登場である。大きなリュックを背負った体が僕の横をすり抜けて姉に飛びついた。まあしかし母娘の感動の再会である、水を差すのは野暮だ。


「お母さんあのね、優馬ずっとねジェットコースター目つぶってたんだよ!それでね、降りたら足がずっと震えててね、あと怖がりすぎて階段で転んだの!」


 僕が説明するより前に芽莉がさもおかしそうに説明してくれた。その無邪気さは昨日の日本刀よりもずっと僕の心を抉るのだった。


「そうなのー!あははっ転んだの優馬!」


 いいや、この姉の邪気に満ちた声に比べれば可愛いもんだ。この様子からするとやはり、姉は僕の絶叫嫌いを覚えていてわかっていて遊園地に連れて行ってなどと頼んだのだ。


「まあね…芽莉が捕まえてくれなかったら俺は階段を延々転がり落ちたかもしれない。まさに遊園地のナイトだったよ。今度は別の、水族館とかにしてくれよ頼むから」


 大して出掛けずに生活しているのに、遊園地なんてただでさえ体力を使うところに行き、絶叫系によって精神的疲労が大きく圧し掛かってくると、睡眠だけで疲れが取れるわけがない。もうそんなに若くはないのだ。これが「ひっどい顔」の真相である。


「芽莉は大活躍だったんだね、すごい!」


 姉はしがみついている芽莉をがしがしと撫でる。芽莉は嬉しそうに声をあげて笑った。


「じゃあまた芽莉を預けていいのね?助かるー」


 儲け話だとでも言わんばかりに満面の笑みを見せて、姉は再び芽莉の頭を撫でた。「いい子だったのねー」なんて言いながら。


「じゃあまたよろしくね」


「はあ」


 もちろん、また預かる分には構わない。いや、でもしばらくは遠慮したい、体力が追いつかない。


 大きなスーツケースをガラリと動かして姉がドアノブを持った。


「帰ろうか、芽莉」


「うん!」


 芽莉は大きく頷いた。何にしても母親が一番なのだなあと、たったの一晩の付き合いだったにもかかわらずもの寂しさを感じてしまう。そういえば、あんなに打ち解けたと思ったのに母親が来てから僕のことをほとんど意識していない気がする。まさに眼中にない。僕なりに結構距離を縮めた方なのだが、芽莉にとってはそんな、気に留めるような存在ではないということなのだろうか。だとすると僕は、二人が帰ったら直ぐ缶ビールを開けて夜通し泣き通す。ああ、もう二度と芽莉は家になんて遊びに来ないのかもしれない。また正月に顔を合わせるだけになってしまうのかもしれない。


「とにかく助かったよ優馬、おかげで旦那とはまだまだラブラブよ。本当にありがとう、じゃあね!」


 姉が玄関から出ていって、あとは芽莉の後ろ頭を見送るばかり。ぼんやりと悲しい気分が僕の視界に見え隠れし始めたところで、芽莉が突然くるりと振り返った。


「じゃあまたね!」


そう言って、芽莉は颯爽と僕に手を振った。ああ大丈夫だ。また凛々しい黒馬の背に乗って、僕を迎えに来るだろう。それだけでもう充分だ。



〔終〕

遊園地の騎士

2013年11月25日 他サイトにて公開。

遊園地の騎士

――目の前の、生物から少女へ明らかな変化を見せた子供は、円らな目で僕を見て、そして人買いに買われた少女のように絶望的な顔で「お世話になります。よろしくお願いします」とおじぎをした。

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-05-12

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