こんな読書感想文はイヤ!

読書感想文です。

芥川龍之介の『蜘蛛の糸』を読んで

 カンダタは、人を殺したり家に火をつけたり、いろいろ悪事を働いた大どろぼうである。
 そんなカンダタも、たったひとつだけ善いことをした。
 それは一匹の小さな蜘蛛の命を助けたことだ。
 いや、正しくは踏み殺そうとしたのを思い止まったに過ぎない。

 しかしお釈迦様は、そのたった一つの善行の報に、カンダタを地獄から救い出してやろうと蜘蛛の糸を垂らす。
 糸に気付いたカンダタは、地獄から抜け出そうと一生懸命にその糸をたぐり、上へ上へと極楽を目指す。 

 けれども結局カンダタは、極楽へは行けず、元の地獄へまっさかさまに落ちてしまうのだが、僕は一つ、疑問を抱いてしまうのだ。
 どうしてお釈迦様は、たかだか一匹の蜘蛛を踏み殺さなかったに過ぎないカンダタを、救ってやろうとしたのだろう?
 
 カンダタは、人を殺したり家に火をつけたり、いろいろな悪事を働いた大どろぼう、要するに極悪人である。
 その悪事の数々が、小さな蜘蛛一匹の命を奪わなかった程度の善行で、帳消しになってよいものだろうか? 

 僕にはどうも納得出来ない。

 それにしても、なぜお釈迦様は、わざわざ地獄の様子をご覧になったりしたのだろう?
 三途の川や針の山、地獄の底の血の池をご覧になったりしたのだろう?

 はじめからカンダタを救ってやるためにご覧になったわけではない。
 たまたま地獄の底のカンダタに、お眼が止まったに過ぎないのだ。

 お釈迦様は、極楽の蓮池のふちを、ひとりでぶらぶらお歩きになっていた。
 散歩をしていたのだろう。
 それだけ極楽は平和で、のどかで、要するにたいくつなのだろう。
 ひょっとすると、お釈迦様はたいくつしのぎに、しばしば地獄の様子をご覧になっていたのかもしれない。
 たまたまお眼に止まったカンダタに蜘蛛の糸を垂らしたのも、たいくつしのぎ、ひまつぶしの延長だったのではあるまいか。

 果たして本当に、お釈迦様はカンダタを救う気があったのだろうか?

 カンダタの後を、何百何千もの罪人が蟻の行列のようにのぼって来ていたのだ。
 もしもカンダタが、何事もなく極楽へたどり着いてしまっていたら、その後に続く何百何千もの罪人達を、お釈迦様はどうするおつもりだったのだろう?
 カンダタだけを救い、そこで糸を切ってしまわれては、それでは無慈悲であさましいカンダタと変わらない。
 と言って、何百何千もの罪人達を、全て極楽に受け入れられるはずもないだろう。

 お釈迦様にとって、全ては予定調和だったのではないか?

 お釈迦様は、大どろぼうのカンダタの、たったひとつの善行もご存じだった。
 カンダタという大どろぼうについて、詳しくご存じなのだ。

 そんなお釈迦様なら当然、カンダタが、自分の後からのぼってくる罪人達に、

「こら、罪人ども。この蜘蛛の糸は己のものだぞ。お前たちはいったい誰に尋いて、のぼって来た。おりろ。おりろ」

 と、わめくことくらい、予測がついた――お分かりになっていたのではあるまいか?

 本当にカンダタを救ってやるお気持ちがお釈迦様にあったのなら、いくら蜘蛛を助けたからといって、それにかけて、蜘蛛の糸などと細く不確かなものなど用いずに、自らの手で救ってやれば良かったのではないか?

 カンダタに蜘蛛の糸を垂らしてやったのは、お釈迦様のたいくつしのぎ――そのように考えてしまうと、お釈迦様はカンダタより、なお一層、あさましく無慈悲に僕の目には映ってしまう。

 けれどももしかしたら、お釈迦様のお行いを、そのように解釈してしまった僕の方が、なお一層、あさましく無慈悲に、お釈迦様の目には映ってしまうかもしれない……。

こんな読書感想文はイヤ!

 小林よしのりさんのマンガ『おぼっちゃまくん』に『蜘蛛の糸』のパロディがあったと思います。
 確か無茶苦茶やって、お釈迦様からあの世を追放されて、現世に戻ったと思います。

 追記
 タイトル通り『こんな読書感想文はイヤ!』な訳で、あんまり参考にならなかったでしょ?
 ごめんなさい。
 と言うわけで、読書感想文は、極力自分で書きましょう。
 それも夏休みの思い出です。
 ご足労さまでした。
(いや、なにやら夏休みに入ってから、急に読まれ出したもので……)

こんな読書感想文はイヤ!

ほんとに読書感想文です。 意外とまじめに書いてます。

  • 随筆・エッセイ
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-05-11

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