怪人と 1度もおまえに呼ばれなかった

<全16章>

1 姿見越しに


私のオペラが
もし万が一
日の目を見るなら
その時は

この声こそが
プリマドンナと
聞くなり決めた

途切れとぎれの
その歌声に
魅入られた

地底の館へ
戻るつもりが

聞こえた声に
誘われて

ふらふらと
脇道それて

立ち止まったのは
とある楽屋の
壁の裏

歌声はもう
止んでいた

ブロンドの
痩せっぽっちの
コーラスガールと
思しき娘が

窓もない
楽屋で1人

ろうそくの
明かり1つで
化粧台に 
突っ伏してる

1人きりだと
疑わないから
泣く声を
ひそめもしない

楽屋の壁の
裏側で

壁の大きな
姿見の裏で

通りすがりの
怪人が

マジックミラーの
姿見越しに
自分を
盗み見てるなど

夢にも知らない
小娘は
泣く声を
ひそめもしない

歌声の主は
この小娘?

熟したとは
到底言えない
固くて酸っぱい
若い桃

しかし必ず
舌をとろかす
甘露に化ける
濃厚な味

耳に残った
おぼろげな
声の記憶は

まちがいなく
近い未来の
水蜜桃

声域を広げ
声量を鍛え

我を忘れて
役に化けうる
度胸さえ
埋め込んでやれば

小娘の
清浄無垢な
あのソプラノは

このオペラ座の
観衆など

いちころで
酔い惑わせる
絶世の
プリマドンナに
三月でなる

断言できる

壁や通路を
隔ててとはいえ

この私が
聞き耳たてた
声なのだ

万にひとつの
間違いもない

小娘よ

声立てて
泣くのは喉に
よろしくない

人も羨む
その喉を
泣いてわめいて
みすみす
ドブに捨てる気か?

この怪人が
所望するんだ

めそめそ
泣いてる
暇があったら

さっきの声を
もう1度
聞かせてみろと

幽霊がかった
不気味な声音で

いつもの癖で

あやうく脅かす
とこだった


(2)

「パパが望んだ
歌姫なんか
私は死んでも
なれない」と

泣き疲れた
娘の声が
つぶやいた

「音楽の
天使がいつか
やって来て
素敵な声に
してくれるって
パパの約束

あんなの
真っ赤な
ウソだった

天使なんか
私には
絶対来ない

私を残して
どうして逝ったの?
私もいっしょに
連れてって」

天国に
いると思しき
父親に

涙ながらに
声張り上げた

私は
怒髪天を突いた

いや
天を突く
怒髪とてない
奇っ怪な
この怪人は

今にも鏡を
ぶち割って

乳離れしない
小娘の

口ふさぐなり
首根っこを
へし折るなり
しかねなかった

下手な親など
百害あって
一利なし

逝ってくれたら
もっけの幸い

もう見なくて済む
あの世の親に

涙流して
甘える輩の
気が知れん

あの
美声の主と
思えばこそ

短気な私が
おまえの命に
手を下さないで
耐えてやるんだ

愚にもつかない
感傷なんか
即刻やめるが
身のためだ

もう1度でも
私にそんな
三文オペラを
見せてみろ

次は命が
ないと思えと

踵を返した
ときだった

「クリスティーヌ!」

時間だと
遠くの廊下で
呼ぶ声がして

娘は立って
私を見た

いや

透視する
術も持たない
娘が見たのは

楽屋の壁の
大きな姿見

ほんの10秒
我が身を映して

乱れた髪を
留め直して

泣きはらした
青い瞳を
無理やり拭って
部屋を出た

その10秒

鏡の裏で
怪人は

その鏡越しに
幽霊を見て
息もできずに
凍りついてた

怪人が
幽霊を見て
肝つぶしてちゃ
話にならんが

至近距離の
娘の顔は
母だった

20年も
昔に死んだ
母だった

2 不肖の息子

幸か不幸か
オペラ座で

怪人を見た
人曰く

「眼は落ち込んだ
ただのくぼみで
真っ黒な
2つの大穴」

「横から見ても
あるかないか
判別不能の
無残な鼻」

「歪んで閉じない
醜い唇
当然ながら
歯茎はむき出し」

「肉のない
その骸骨に
直にかぶさる
くすんだ皮膚
浮き出た血管」

「あれを髪だと
呼ぶとするなら
額の上と
耳の後ろに
わずかばかりの
茶色い毛の束」

身もふたもない
酷評なれど
当たらずとも
遠からず

どう贔屓目に
見たところで
人好きのする
容貌じゃない

女子供は
卒倒する

20年も
昔に死んだ
母親は

自分が産んだ
産物なのに

おぞましすぎると
最後まで
我が子を
毛嫌いした女

醜すぎるから
顔を覆えと

我が人生
最初の仮面を
幼い私に
放ってよこした
血も涙もない女

いい子でいると
お願いだからと

泣きすがっても
泣きすがっても

頬ずり1つ
キス1つ

とうとう死ぬまで
してくれようとは
しなかった

抱きしめられた
記憶すらない

町じゅうが褒める
美人だったが

母親と呼ぶ
気にもなれない
情のかけらも
ない女

そんな女を
誰が慕う?

愛された
覚えもないのに
死んだからって
どう恋しがる?

20年
経って未だに
死者を鞭打つ
不肖の息子は

それでもやはり
親不孝だと
そしられるのか?

3 異形の天使


声でなら
声だけでなら

私はおまえの
天使にもなる

父親の言う
“音楽の天使”に
なってやる

おまえは
弟子になるがいい

従順な
我が弟子となれ

そして
可憐な
歌姫となれ

ただし

姿が見たい
顔が見たいと
おまえがどんなに
駄々をこねても

私はおまえの
前に立たない

天使は
姿は
現わさない

徹頭徹尾
声のみで
私はおまえと
交わろう

声だけで
おまえを心酔
させてみせよう
自信はある

その昔

異国の王から
皇太后から
市井の民まで
陶酔させた
私の声だ
酔うがいい

小娘の
おまえに
抗う力はない

私の声の
ゆりかごに乗れ

夢と現の
境に歌え

忘我のうちに
声を天使に
預けるがいい

三月のうちに
私がおまえに
歌姫の喉を
授けてみせる


(2)

おまえの楽屋の
姿見は

天使の声が
響く壁

怪人の
異形を隠す
唯一の盾

オペラ座に
人一人いない
夜更け
早朝

天使と弟子は
鏡をはさんで
主役の男女
オペラの興宴

ささやき合い
罵り合い
むせび合い
歓喜に和した

慰め合い
だまし合い
涙にくれて
愛を契った

オペラが魅せる
古今東西
ありとあらゆる
男女の機微に

楽屋の鏡の
表と裏で
声を合わせて
三月が過ぎた

2度とない
至福の三月

口に出して
褒めたりすまいと
心に決めてた
頑固な天使は

鏡の向こうで
日を追うごとに

のびやかに
艶めいてゆく
弟子の声音に

何度となく
眼を細めては
聞き惚れた

この私が
私の耳が
見出した
おまえの声

鍛えるほどに
見込んだ以上に
広さを広げ
深みを増す声

天使冥利に
尽きるほど
おまえの声が
誇らしかった

無垢なる少女
恋する乙女
賢明なる母
瀕死の老女

優雅な女王
陽気な踊り子
狡猾な魔女
神秘の妖精

おまえの声は
翼を得て
ありとあらゆる
女に化けた

自由自在に
姿を変える
おまえの声に
目を見張った

愛くるしい
小柄な容姿
我が母に似た
その顔立ち

おまけに
声には
翼も生えた

世の男どもが
虜にならない
はずがない

できることなら
おまえの声を
独り占めして
いたかった

世の男どもの
耳になど
聞かせてやるのも
惜しかった

しかし
交わした
あの約束

三月のうちに
歌姫に
してみせるという
あの約束

天使は
たがえる
つもりはない

いいことを1つ
教えよう

古株の
プリマドンナは
今宵突然
原因不明の
病に伏せる

代役には
おまえを頼むと

純朴な
支配人宛て
手紙も先刻
送付済み

さあ機は
熟した

今こそ
おまえが
オペラ座に
君臨するとき

小娘よ
歌姫となれ

プリマドンナの
玉座に座れ

『ファウスト』の
マルガレーテは
おまえのもの

可愛い弟子の
晴れ姿

久々に
5番桟敷で

私も
とっくり
堪能しよう

いざ初日!

4 裏切ってなどいません


数日 歌を
教えなかった

おまえが
泣こうが
赦しを乞おうが

鏡の裏で
果てしなく
だんまりを
決め込んだ

そして今日

楽屋のドアの
止まないノックに
癇癪玉が
破裂した

「たとえ可愛い
弟子であっても

誓いを破れば
許さない

三月前
私はおまえに
言ったはず

歌姫に
なりたかったら
色恋沙汰は
ご法度だと

死ぬまで歌に
生きると誓えと
言ったはず

そして
おまえは
誓ったはず

忘れてたとは
言わせない

歌にその身を
捧げる以上

忠誠を誓い
崇拝すべきは

音楽の
天使のほかには
いないはず

だとしたら

あの耳障りな
ノックのわけを
今すぐ説明
してもらいたい」

大人げもなく
高ぶって

中性的な
天使の声には
ほど遠かった

いつもと違うと
感づかれては
厄介なのにと

内心
冷や汗ものだった

「歌姫の
あのお披露目と
前後して

ノックの主の
若造が
初めておまえに
気がついたこと

以来おまえが
歌う日は
欠かすことなく
ボックス席に
陣取ること

花だ
菓子だと
あの手この手で
楽屋をうろつき
食事に誘い

素っ気ない
おまえの耳に

10年も前の
ままごとの恋の
思い出話を
涙ながらに
繰り返すこと

そして
何より

素っ気なく
振る舞ってみせる
おまえが実は

心の底では
今でも奴に
ぞっこんなこと

この私が
知らないとでも
思ったか?

悪いが
すべて
お見通しだ

天使に向かって
隠し事など
出来っこないと
肝に銘じろ

仮にも
おまえの
師であり
守護神

もう少し
敬意を払って
もらいたい」

声荒げながら
我とわが身を
笑ってた

この世の中に
いや天界に

信徒に向かって
声を荒げる
神や天使が
どこにいる?

“似非”天使も
いいとこだ

「裏切ってなど
いません」と

弟子が
初めて
歯向かった

私の声の
正体も
出所も

いつもながら
知る由もなく
もどかしがって

鏡に向かって
食ってかかった

「初恋の
殿方なのは
否定しません

だからといって

ままごと遊びの
続きができると
夢見る歳でも
ありません

天使のあなたに
誓った以上

親切な
お客様の
1人としてしか
あの人に
接したことは
ありません

私の心も
お見通しとか?

天使にしては
安っぽい
詮索ですね

焼きもちの度が
過ぎませんか?」

泣かせるつもりは
なかったのに
おまえの涙は
止まらなかった

正論だ

修道女でも
あるまいに

うら若き
娘に向かって

色恋沙汰は
ご法度など

誓いとは
名ばかりの
師を笠に着た
あざとい束縛

世間の男に
やりたくなくて

“似非”天使が
無理やり課した
横暴きわまる
むごい戒律

「誓いじたいが
理不尽だ」と

真正面から
その非を責めれば
よいものを

おまえはまるで
誇り高い
無実の囚人

捕縛じたいの
理不尽さには
文句も言わず

覚えもないのに
逃亡を図ったなどと
疑われるのは
心外だと

唇をかむ
無実の囚人

良心
悔恨
自己嫌悪

どれ1つとして
我が辞書には
持たぬと決めた
怪人に

一瞬よぎった
忸怩の念の

その虚を
突かれた

「明日1日
休みをください

命日の
父のお墓に
行きたいんです

詮索好きで
焼きもちやきで
疑い深い
こんなあなたが

ほんとに父が
送ってくれた
天使かどうか

お墓の父に
尋ねてみても
構いませんか?」

小憎たらしい
要求だった

従順な
音楽の
徒でしかないと
気を許していた
我が弟子が

師に辛辣に
反撃してくる
かくも凛々しい
女戦士で
あったとは

頼もしいやら
苦々しいやら

「墓参り?
殊勝なことだ

歌姫になった
ご褒美に
1日くらい
休みをあげよう

おまえに夢中な
あの若造も
何なら一緒に
連れて行け

後腐れなく
墓前で
きっちり
手切れ式と
いこうじゃないか

私も遠くで
参列するよ

この際だから

詮索好きで
焼きもちやきで
疑い深い
この私が

正真正銘
父上の言う
天使かどうか

お望みなら
そのとき証拠を
見せてあげよう」

おおよそ
天使らしからぬ
品のない
台詞を残して

居丈高に
おまえの前から
気配を消した

若造が
おまえのそばに
いるときよりも

おまえの姿が
遠くに見えた

後味が
悪かった

5 父親の十八番


墓では
すべてが
うまく運んだ

それなのに
帰りはひどく
憂鬱だった

凍てつく墓地で

父親の
まだ新しい
墓石の前で

若造は
必死だった

おまえの両手を
握りしめ

天使なんて
まやかしだと

怪人の
催眠術に
かかってるんだと

抱きしめて
肩までゆすって
涙ながらに
繰り返しても

おまえは全く
素っ気なかった

今後一切
近づかないでと

顔を背けて
釘を刺されて
若造は
泣き崩れた

少々離れた
塔の窓から
一部始終を
見物したが

気分は
まったく
晴れなかった

若い2人の
愁嘆場に

遠くから
奏でてやった
『ラザレの復活』

ヴァイオリンの
名手と鳴らした
父親の

その十八番だった
オラトリオ

弦の調べを
一節聞くなり
呆然として

その弦の音の
出所を

虚ろな瞳で
探しかけて
すぐ諦めて

「本物なのね」

天を仰いで
おまえが小さく
つぶやいた

父親の
教えてもない
十八番の曲を

知るのみならず
苦もなく
弾いてみせるのだ

それこそ
何より
天使の証拠

正真正銘
天使が天使で
ある所以

おまえは
納得したはずだ

私は
密かに
ほくそ笑んだよ

怪訝な顔で
耳すましてた
傷心の

奴には
ちんぷんかんぷんなのも
傑作だった

なのに
何かが
違ってた

弟子の
全幅の信頼を

また
もう一度
勝ち取ったのに

それでも
全く
気は晴れなかった

声だけの
天使はいつも
遠いのだ

おまえと私は
遠すぎる

声だけの
天使は決して
おまえの前に
立つことはない

声だけの
天使は決して
おまえの
手を取る
こともない

何物にも
代えがたいほど
誇らしくても
愛おしくても

声だけの
異形の天使は

未来永劫
おまえに触れる
ことはない

奴は
おまえの
前に立つのに!

奴は
おまえの
手を握るのに!

容姿風貌
非の打ちどころの
ない若造は

素っ気なくても
つれなくされても
おまえを胸に
抱きしめるのに!

人並みの
眼鼻口さえ
持たない無念が
耐えがたかった

生まれてこの方
嫌と言うほど
味わわされて
きたはずなのに
耐えがたかった

 

6 シャンデリア


とにもかくにも
『ファウスト』の夜

今夜くらい
機嫌を直して
弟子の舞台を
この目で見よう

マルガレーテの
声でも聞けば
気も晴れよう

無理やり
自分に
そう言い聞かせて

天井裏の
シャンデリア脇の
梁のすき間に
腰を下ろした

5番桟敷も
悪くはないが

マルガレーテの
アリアを聴くのに
この梁の
すき間に勝る
場所はない

あの甲高い
独唱を
歌い上げるとき
おまえの瞳は

知ってか知らずか
客席頭上の
このシャンデリアを
ひたと見据える

煌々と
おまえを照らす
この光源の
陰の闇こそ

怪人だけに
許された
天上の特等席

この暗闇に
陣取って

おまえを照らす
光とともに

可愛い弟子の
瞳に 声に

ブラボーを叫び
万雷の
拍手を送る

その恍惚を
今か今かと
待ちわびたのに

登場してきた
マルガレーテは

どう見ても
長年見飽きた
古株の
年増女で

遠目に
我が目を疑った


(2)

“以後
『ファウスト』の
マルガレーテは
クリスティーヌ嬢が
務める”と

栄えある
デビューの
はなむけに

怪人の名で
しかと名指しで
念押したのに

新顔の
オツムの弱い
支配人は

年季の入った
プリマドンナに
頭上がらず
クビにも出来ず

こともあろうに
おまえが
2番手

冗談じゃない

脇役の
おまえが見たくて
ここに
陣取った
わけじゃない

マルガレーテが
おまえではない
『ファウスト』など
一幕だって
見る気もない

梁のすき間で
地団太踏んだ

興が覚めたを
通りこして
はらわたが
煮えくり返った

上等だ

そこまで
けんかを
売る気なら

私だって
容赦はしない

それでなくても
墓場以来
積もり積もった
この鬱憤

ちょうどいい
今宵この場で
晴らしてくれよう

さあ
満場の
紳士淑女の
皆々様よ
お立合い

こんな陳腐な
オペラより

はるかに
スリル溢れる
ショーを

たった今から
我が演出で
お目にかけよう

しかと頭上に
ご注目あれ

私の自慢の
歌姫を
照らしたかった
このシャンデリア

見上げた者が
みな息をのむ
絢爛豪華な
この照明も

無数のガラスを
散りばめた
元は巨大な
銅の塊

重さ7トン
直径およそ
8メートル

芯棒は
劣化もしよう

その重量に
耐えかねて
いつの日か
ちぎれもしよう

その日が
もしも
今日だったら?

こともあろうに
今だったら?

幸か不幸か
私の予言は
外れたためしが
ないときている

あな不思議

風もないのに
大シャンデリアが
右に左に
ブランコさながら
揺れだした

つられて
太い芯棒が
痛そうな声で
軋みに軋んで
悲鳴を上げる

おお誰か!

一刻も早く
揺れを止めねば

遅かれ早かれ
巨大な凶器が
空を飛ぶ!

天井裏の
この怪人の
警告むなしく
時は来たりて

地響き
轟音

落下
炸裂
大砂塵

暗闇と
劇場じゅうの
阿鼻叫喚

オペラ座自慢の
シャンデリアは

血みどろの
客席の上で

あっけなく
木端微塵と
なり果てた

怪人に
けんかを売るなど
不届き千万

我が逆鱗に
触れた罰だと
思い知れ

恨むなら

私ではなく
オツムの弱い
あの支配人を
恨むがいい

それでも
今宵の
『ファウスト』よりは

はるかにましな
見世物だったと
思うのだが

いかがかな?

7 鏡の奥へ


天井裏から
お見せした
即興に近い
見世物は

それでも
演出家の
目論見どおり

下界一面
血の海に変え

右往左往する
群衆の

尽きることない
悲鳴と
怒号の
大団円で
幕を閉じたが

若い2人の
ままごとの恋の
道行は

演出家が
望んだようには
終わらなかった

天使への
誓いの言葉も
墓場の手切れも
まるでなかった
ことみたいに

惨劇の中
互いを案じ
互いの無事を
祈り合ってた

舞台のおまえは
あの若造を
一心不乱に
目で探してた

まさかあの
血の海の中に
いやしないだろう
いるはずがないと

銅とガラスの塊が
一瞬で
全てを圧した
客席に

ごった返す
舞台の上から
必死になって
目をこらしてた

天井裏から
よく見えた

あんな目で
誰かに案じて
もらったことなど

ただの1度も
経験がない
この怪人には
まるで他人事

高みの見物
きめこんだ

今ごろはもう
互いの無事を
確かめ合って

男の馬車で
早々に

不吉きわまる
このオペラ座から
遠ざかろうと
必死なはず

2人に楔を
打ち込んでやると
私が躍起に
なればなるほど

おまえと奴は
惹かれ合い
距離を縮める

怪人は
絵に描いたような
道化役者だ

その昔
巡業の曲芸団で
叩き込まれた
道化の役が
未だに体に
染みついてる

人は育ちを
隠せない


(2)


どこをどう
さまよったろう

どの抜け道を
どう抜けて
下界の修羅場を
後にしたろう

記憶もないまま
気がついたらもう
おまえの楽屋の
裏にいた

小娘が
ここに
来ることはない

判りきってる
はずなのに
足はここしか
向かわなかった

気がついたら
おまえの楽屋の
鏡の裏に

呆然と
座り込んでた

そのときだ

空耳?

いや
そうじゃない

足元の
カンテラの灯を
慌てて消して
目を凝らしてみた
鏡の向こうに
楽屋の床に

いるはずの
ない人が
ひざまづいてた

真っ暗な中
両手を組んで

冷たい床に
鏡の前に
ひざまづいてた

「シャンデリアの
巻き添えになって
いないなら
今すぐ来て」と

「無事なら
声で教えて」と

「死なないで」と

か細い声で
一心に

気が狂ったかと
思うほど
何度も何度も
つぶやいた

頬に涙が
伝ってた

奴とは
会わなかったのか?

なんで今ごろ
ここにいる?

こんなところで
何してる?

何をぶつぶつ
つぶやいてる?

おまえは何を
案じてる?

誰の無事を
案じてる?

誰に向かって
「死なないで」?

まさか天使?

おまえの師?

この私?

次から次へと
湧いて出る
まるで間抜けな
問いかけを
頭の中で
もて余すうち

歌の調べが
勝手に口を
ついて出た

どうして
『ラザレの復活』
だったか
理由は
さっぱり判らんが
何にせよ

放っておいたら
明日の朝まで

真っ暗闇の
冷たい床に
その姿のままで
居つづけそうで

不憫で
不憫で
ひとりでに口を
ついて出た

どの歌であれ
私が無事で
今ここにいると
気配を察して
くれればよかった

私の声で
今すぐおまえの
気が休まるなら
それでよかった

声には
自信が
あったのに

声は唯一
私の
誇りだったのに

嗚咽で息が
ふらついて

嗚咽で喉が
締めつけられて

よもや音程が
揺らぐなど
音楽の天使に
あるまじき事と

判っていても
限界だった

あの歌が
限界だった


(3)

あのとき
決めた

鏡の奥へ
私の世界へ

私は
おまえを
連れていく

娘がひとり
消え失せたと
地上では
騒ぐだろうが
知ったことか

もう限界だ

死ぬまで声で
声だけで
おまえと関わる
おまえと交わる

そんな茶番は
もう嫌だ!

子供だましは
もう沢山だ!

生涯歌に
いそしむ師弟?

虫唾が走る!
くそ食らえ!

師ではなく
弟子ではなく

人間として
男として
女のおまえの
前に立ちたい

私の無事を
案じてくれた
おまえを
腕に抱きしめて

私は
ここだと
安心させたい

おまえの
頬の
涙をぬぐって

案じてくれた
礼を言いたい

私のために
歌ってくれる
その歌声の
湧き出る場所に
その唇に
口づけたい

声も
体も
心も
すべて

私が
独り占めしたい

ただの
男と女でありたい

心の底から
そう願った

そう願って
何がいけない?

この世で唯一
心許せる
人と頼んだ
母親にさえ

容貌ゆえに
この顔ゆえに
嫌われて
疎まれて以来

女を異性と
眺めることなど

ましてや
女を
欲することなど

どう望んでも
許されぬことと
自分を厳しく
律してきた

その分別も
遠慮も 
理性も
あのとき捨てた

怪人が
怪人に
怪人ゆえに
課しつづけてきた
足枷を
かなぐり捨てた

かなぐり捨てたら

マジックミラーの
姿見は
役目を終えて

おまえをいざなう
ただの無骨な
回転扉に
なり果てた

8 名はエリック


地底の
我が家に
おまえを招く

こんな暴挙に
いつか出る日が
来ようとは

想像だに
しなかった

地下5階までは
馬に乗せ

向こう岸まで
少々遠い湖は
愛用の
小舟に乗せた

それでも馬に
乗せるまで
馬の待つ
螺旋道まで

鏡の裏から
延々つづく
洞窟まがいの
湿った通路を
歩かせねばと

意を決して
エスコートの
手を差し出した
私の姿は
傍目には

音楽の
天使どころか

おぼろげな
カンテラの灯に
浮かび上がった
無言の亡霊

顔には仮面
突き出した手は
黒手袋
体は全身
黒マント

声もなく
表情もない
無言の亡霊

案の定

足の1歩も
踏み出す前から
おまえは
その場で
気を失った

あまりに
“案の定”すぎて

打ちひしがれる
気力も湧かず

眠るおまえを
抱き上げながら

--それでも今が
もしかしたら
一番幸せ
なのかもしれん--と

自嘲半分
独りごちた

少なくとも

私と
天使と
怪人と

3者の奇妙な
つながりを

眠るおまえは
まだ知らないから

仮面の下の
私の素顔を

少なくとも

おまえは
あのとき
まだ知る由も
なかったから


(2)

「天使はどこ?」

「あなたは誰?」

「さっきの馬は
怪人に盗まれたって
みんな言うのよ
あなたの仕業?」

馬の上でも
小舟に乗っても

夢遊病者さながらの
青白い顔で
揺られたおまえが
叫んだのは

一風変わった
地底の我が家の
一風変わった
居間 兼 客間へ
招き入れた
ときだった

怒りに満ちた
その声なら
もう気を失う
恐れもあるまい

だから私は
答えたろう?

最大限
率直に
簡潔に

おまえの天使は
この私だと

そして
私が怪人だと

仮面は決して
外さないが
一応これでも
人間なんだと

名は
エリックだと

あれで充分
だったはず

おまえが
ここに
居る理由

私が連れて
来た理由

あれ以上の
説明は
必要なかろう

突っ伏して泣く
おまえが想像
してるとおりだ

身の程知らずの
男の衝動

たがが外れた
男の狂気

もっと言うなら

怪人の
想われ人に
おまえがなった
だけのこと


(3)

この世の
終わりを
見たような顔で

そんなに怯える
必要はない

約束しよう

5日の後には
自由を返す

必ず地上に
おまえを帰す

5日だけ
私といっしょに
ここで過ごそう

それでなくても
大事な賓客

おまえの意に
逆らって
指1本
触れたりしない
安心していい

その代わり

仮面には
おまえも
触るな

間違っても

仮面の下を
見てみたいなど
妙な気を
起こしてくれるな

私は
死んでも
外さない

おまえのためにも
私のためにも
その方がいい

最後まで
おまえの前では

エリックという
仮面男で
いさせてほしい


(4)

泣き疲れて

おまえは
きょとんと
聞いてたね

何から何まで
突飛すぎて
飲み込めないのも
当然だ

クリスティーヌ
歌ってあげよう

聞きたいなら
夜どおしでも
私が歌おう

世代
生い立ち
境遇
美醜

共通点など
何1つない
我ら2人が
意気投合する
唯一のもの

それが歌

天使と弟子で
培った仲

歌の誘いを
おまえは決して
拒まない

おまえの好きな
デスデモーナは
ハープに合うはず
お気に召すかな?

いつしか
聞き手が
寝つくまで

小一時間と
かからなかった

おまえも私も
一言も
しゃべらなかった

オペラ『オセロ』を
子守唄にして
眠るとは

さすがは私が
見込んだ歌姫
趣味がいい

誓って言うが

胡散臭い
催眠術など
私は歌に
込めなかった

あの夜
おまえは
純粋に

私の声で
眠ったのだよ

初めて
我が家で
過ごす夜

世間が恐れる
怪人の声で

おまえを
無理やり
地底にさらった
男の声で

おまえは
眠りに
ついたのだよ

9 不覚


おまえを眠りに
いざなった
子守唄も
あの『オセロ』なら

私の仮面を
剥ぎ取る隙を
おまえに与えた
憎っくき仇も
また『オセロ』

一生の
不覚だった

寝ても覚めても
怯えつづける
おまえを誘って
二重唱した
件の『オセロ』

我を忘れて
のめりこみ

おまえは半ば
憑かれたように
私の仮面に
手をかけた

この私が
気配も覚らぬ
一瞬の隙

背後から
あっという間の
早業だった

素顔をさらす?

我が意に反して?

小娘ごときに
不意をつかれて?

何たる恥辱!

「小悪魔め!」

おまえを睨んで
罵った

「満足したか?
感想は?

想像したのは
やけどの痕か?

皮膚の病で
ただれた痕か?

いくら何でも
仮面の下が
骸骨なんて
まさか夢にも
思うまい」

稚気溢れる
おまえを呪い

気を許しすぎた
自分を呪った

何もかも
侮りすぎた

明日は
5日目

自由を返すと
約束した日

だがしかし
地上に帰して
やる気は失せた

約束を
反故にしたのは
おまえが先

決して仮面に
触るなという
私の頼みを
無視した報い

自業自得だ
もう遅い


(2)

怒り狂った
私の目にも

我に返った
小悪魔の
取り乱しようは
見るに見かねた

目を閉じても
目を開けても

仮面の下の
正体が
この世のものとは
思われず

自分の手にある
奇妙な面が
なぜそこにあるか
合点がゆかず

わめく髑髏に
打ち震え

見る影もなく
青ざめて

その場に崩れて
息をするのも
苦しげだった

泣くのに
涙も出てこなかった

「ごめんなさい
ごめんなさい
ごめんなさい」

おまえは何度
繰り返したろう?

いや
謝るには
及ばない

私の仮面に
手をかけるほど
肝の据わった
人間は

知る限り
おまえ1人

大した度胸だ
褒めてやらねば

「仮面の下が
見たいんだろう?

思う存分
眺めてくれ

心ゆくまで
鑑賞してくれ

目を逸らすなんて
許さない」

泣きじゃくる
おまえに
息がかかるほど
目の前に顔を
突き出した

「おいそれとは
信じ難い
見て呉れだろうが
勘弁願おう

私の方が
おまえ以上に
この骸骨とは
長いつきあい

愛想が尽きて
困り果ててる

この際だ
おまえの
その手で
むしってみてくれ

もしかしたら
この死肉だって
剥がして
むしれる
皮かもしれない

死肉の下から
ひょっとして

人並みの皮膚と
まともな目鼻が
出てこないとも
限らない

試してみたって
損はない」

そう言いながら

頑として
嫌がるおまえの
両手をつかんで
乱暴に

空洞の
目や鼻と
思しき穴に

突っ込んで
引っ掻き回した

逃げようともがき
おまえは叫び

逃がすものかと
私は捕らえ

思い出すだに
悪夢の一幕

可愛さ余って
憎さ百倍
むごい仕打ちも
平気で出来た

まったく
女は厄介だ

血や痛さには
強いのに

おぞましいもの
奇っ怪なものに
めっぽう弱い
正視もできない

この顔を
晒した以上

おまえは
2度と
私のそばには
寄り付かない
当然だ

--仮面さえ
外さなければ

早晩
おまえは
私に馴れる--

そんな浮かれた
夢も断たれた

私は半分
狂ってた

10 『勝者ドン・ジュアン』


『勝者ドン・ジュアン』

赤い音符が
ひしめく譜面

20年間
心中を
吐露しつづけた
自作のオペラ

たぶん死ぬまで
未完だろうが
書かずにおれない
我が自伝

あられもない
素顔を晒して

おまえの前から
どう逃れ
陰気な部屋に
どう戻ったかも
覚えていない

オルガンに向かい
歌い続けて

ひらめくままに
赤い音符を
綴り足し

鍵盤を叩き
また歌い

つい今しがたの
現実を
仮面を失くした
悲喜劇を

なかったことに
したかった

それが無理なら
忘れたかった

モルヒネを
切らしてなければ
一も二もなく
頼っただろう

あいにく
手持ちが
無いとなったら

『ドン・ジュアン』にでも
没頭しないで
ほかに私に
どんな手がある?


(2)

「エリック」

半日過ぎたか
1日過ぎたか

オルガンの
音の止み間に
呼ばれた気がした

私の名を
呼び得るとしたら
ただ1人

振り返るのは
やぶさかでないが

むき出しの
この顔をまた
見る羽目になる
その人が

気の毒だから
遠慮したのに

「エリック」

それでも声は
懲りずに呼んだ

「顔を見せて」

「怖がらないから
私を見て」

「もう泣かないから
どうか赦して」

「あなたのオペラを
聞きたいの」

声のする方を
向いていいのか
背中を
向け続けるべきか

判らなかった

その声の意志を
受け入れるべきか
それとも
部屋から
追い出すべきか

判らなかった

泣いていいのか
笑っていいのか
判らなくて

声の主に
尋ねたかった

11 ここに棲む理由


「私の前では
もうつけないで」と

仮面を
暖炉で燃やすほど
大胆なことを
するかと思えば

目をそらすまいと
微笑むくせに

刺激の強い
この骸骨を
未だに
正視できないで

そのたびに
謝る姿が
いじらしかった

クリスティーヌ

引け目に思う
ことはない

世間が今まで
私にかけた
情けを全て
足し合わせても

おまえが私に
見せてくれる
その気づかいの
万分の一にも
及ぶまい

無理しなくていい

夜更けの
暖炉の
火の前で

いつの間にか
聞かせてた

私がここに
棲む理由
私が地底に
棲みついたわけ

おまえが尋ねた
訳でもないのに

何のはずみで
言う気になったか

物好きな
身の上話を
始めてた


(2)

「私の頭蓋の
醜さは

この世に生まれて
半世紀
衰えもせず
未だ健在

それどころか
齢を重ねて
凄みも増した

仮面など
所詮気休め

怪しい異形は
隠しおおせる
ものじゃない

生まれてこの方
青空の下
堂々と
散歩ができた
ためしとてない

どこへ行っても
えげつない
人間どもの
後ろ指

他愛もない
優越感に
浸るためなら
人間は

醜いもの
劣ったものに
情け容赦の
かけらもない

蔑視
偏見
愚弄
嘲笑

しかも
1対その他大勢

抗ったとて
たかが知れてる
抗う気力も
いつしか萎える

この醜さが
己の科なら
そしられたとて
甘んじようが

己の科でも
ない醜さを
よってたかって
責められたとて

神ならぬ
人間の身で
ない知恵絞って
思いつくのは

我が身を
人目に
晒さぬように

異国の土地を
闇から闇に
さまようくらいが
関の山

奇術
曲芸
腹話術

医学
薬学
建築
音楽

生き延びるためと
土地土地で
悲しい業を
身につけながら

人間どもと
対等に
関わることなど
とっくの昔に
諦めた

おぞましすぎて
目が腐る?

汚らわしいから
消え失せろ?

半世紀
聞かされ続けた
大合唱は

さすがに
ほとほと
聞き飽きた

それほど
言うなら
消え失せてやる

その代わり

異形を武器に
操ってやる
手玉に取って
欺いてやる

気味が悪けりゃ
震えてろ

命が惜しけりゃ
ひれ伏すがいい

人間じゃないと
忌み嫌うなら

闇に潜んで
怪人となり

闇の中から
君臨してやる
人間どもを
支配してやる

いつからか
そう決めたんだ」

暖炉の前に
座ってるのに

おまえの頬には
血の気がなくて

両目の涙が
こぼれんばかりに
溢れてた


(3)

「このオペラ座は
盟友 鬼才ガルニエと

15年
手塩にかけて
築いた宝

そして地底の
この我が家こそ

あのガルニエにも
断ることなく
構えた根城

客のおまえに
笑われそうだが

あのときは
未来永劫
招く客など
ないと覚悟で
構えた邸

建て方といい
家具といい
一風変わって
目を引くだろう?

そういえば

私が長年
愛用してる
黒い柩の
寝台を

一目見るなり
今日は誰かの
葬式かと

おまえは
歯の根も
合わなかったね

傑作だった

何にせよ
この家は

私を嫌う
人間どもから
姿をくらます
隠れ家であり
楽園であり

そして
いずれは
墓場だろうが

少なくとも
今しばらくは

人間どもを
思いのままに
弄ぶ
格好の
秘密基地
仕掛けだらけの
不思議の館

そんなところだ

出来も上々
満足している

幽霊に
出くわしたの
怪人が
出没するのと

人間どもが
騒ぎ立てるのは
勝手だが

オペラ座は
我が宝にして
我が庭園

徘徊ぐらい
して当たり前

いや
闊歩する
権利があるのだ

正面玄関
舞台
客席
廊下
楽屋は
言うに及ばず

舞台裏
舞台下
練習部屋は
もちろんのこと

地下通路
倉庫
馬小屋
天井裏から
大屋根の上に
至るまで

2000以上の
合鍵があり

遊び心で
密かに足した
縦横無尽の
抜け道や
隠し扉が
常時
頭の中にある

徘徊に困る
わけがない

徘徊すれば
人間どもの
目にも触れよう

そのたびに

ちぢみ上がれ!
泣きわめけ!

そう
ほくそ笑む

すさんだ
私の日常だ」

思いもよらない
自嘲が交じって

あまりに意外で
我に返った

暖炉の炎に
照らされた

おまえの頬を
涙が止まずに
伝ってた

12 もう帰そう


仮面の要らない
15日

歌に明け
オペラ談義で
眠りについた
15日

地底湖に
小舟を浮かべ
夕暮れの森に
馬車を駆った
15日

エリックと
おまえに
呼ばれた
15日

2度となかろう
幸せを
15日間も
味わった

「また来る」と
「必ず来る」と

囚われ人に
慰められたら
誘拐犯は
もう分が悪い

もう強面も
通用しない

この顔を見に
また来たいなど

言う物好きが
いるわけがない

見るたびに湧く
身震いを
おまえは必死に
押し殺し

見てしまった
者の義務
半ば使命と

無理やり自分を
鼓舞してるのが
傍目に判る
痛々しすぎる

もう帰そう
地上へ帰そう

この地下墓地に
永遠に
閉じ込めておける
はずもない

この上私が
おまえを
どうこう
する気はない

夢見ることすら
馬鹿げてる

来る気があるなら
時々おいで
それでいい

おまえは私の
自慢の歌姫

少々舞台を
空けすぎた

地上に戻って
歌わねば


(2)

出て行く
おまえの
左手に

唐突に

質素な金の
指輪をはめた

母の死後
20年来
私の小指に
あったもの

華奢なおまえは
薬指
母と同じだ

話が違うと
責められても

得手勝手だと
罵られても

その指輪で
地上に戻る
おまえを縛る

ちっぽけな
金の輪っかで
無理やりにでも
おまえを縛る

おまえは
私だけのもの

夫と妻には
なりえなくとも

永遠に
私だけのもの

おまえが地上で
ほかの男と
結婚するなど
許さない

万が一にも
その指輪を
外すことなど
許さない

それだけは
肝に銘じて
迷子にならずに
無事にお帰り

道順は
判ってるね?

ああそうだ

明日は
仮面舞踏会

私もたまには
参加しよう

オペラ座の
諸君をあっと
言わせてやるのも
一興だ

きれいに
おめかし
しておいで

あの若造も
誘うといい

では明日
会場で

13 贈った主が拾う滑稽


オペラ座の
大屋根で

おまえが男と
睦言を
交わしたくらいで
怪人は

腹を立てたり
などしない

聖なるアポロが
見下ろす屋根で

おまえが男と
口づけを
交わしたくらいで
怪人は

目くじらたてる
つもりもない

たかがそれしき

若い2人の
ままごと遊びの
延長と
許容範囲と
心得ている

そうでなければ
おまえを地上に
帰したりなど
するものか

たかがそれしき
屁でもないほど

聞こえた声に
愕然として

目でなく耳を
疑った

本当に
おまえの声かと
疑った

婚約?
結婚?
2人で逃げる?

明日の舞台の
歌を最後に?

別れを言うのは
残酷すぎる?

だから私に
一言もなく?

お心づかい
痛み入る

ありがたすぎて
言葉も出ない


(2)

あの15日

強引すぎた
招待の
詫びをもこめて

おまえには
誠意を尽くした
つもりだった

心の底から
自分のものに
したいと願った
最初で最後の
人だから

敬意をこめて
敬愛の
情をこめて

尽くせるかぎりの
誠意を尽くした

女が寝泊まり
するに足る
設えもし

数日の
逗留を乞い

隙あらば
逃げようともがく
おまえを説き

朝な夕な
泣きじゃくる
おまえをなだめた

その気なら
苦もなかったろうが

力づくで
ねじ伏せるなど
卑劣な真似は
したくなかった

万人が憎む
このケダモノを

徹頭徹尾
名前で呼び

曲がりなりにも
人間として
遇してくれた
たった1人の
人にまで

ケダモノに
なり下がったら
自分で自分が
惨めすぎる

だからこそ

仮面を奪った
おまえを赦し

無傷のおまえを
地上に帰した

男としての
私を望んで
くれない以上

女としての
おまえを得たいと
望むのは
不遜すぎると
諦めた

しがない矜持で
歪んだ誠意を
貫いた

だが待てよ?

如何に歪んで
いようとも
誠意は誠意

せめてこの
誠意に免じて
代償をくれと
言いたくなった

笑えるだろう?

育ちの悪さは
隠せない

そして望んだ
代償が
指輪に託した
あの恫喝

--結婚など許さない--

--永遠に私のもの--

名残惜しい
別れの場面に

本音で言うのも
品がないから
ああ言っただけ

遠慮しなけりゃ
こうだった

--醜い醜い怪人は
これから先も
指1本
触れやしないから
案ずるな

閉じ込めたりも
決してしない

地上と地底と
行き来の自由は
保証してやる

その代わり

おまえも生涯
無垢なまま

地底の私の
弟子であれ
娘であれ
通い妻たれ--

食い入るように
指輪を見ていた
おまえには
私の本音が
判っていたはず

判らない
おぼこじゃないはず

これとて私の
独りよがりか?

あるいは重々
判っちゃいても

地上で自由の
身となれば

指輪など
チャチなおもちゃ?
恫喝ごときは
たわけた寝言?

果たして
おまえは
裏切った

本人が
聞いているとも
つゆ知らず

たった今
この大屋根で

おまえは私に
絶縁状を
突きつけた

若造が言う
逃避行を
唯々諾々と
受け入れるほど
この怪人が
憎いなら

あの15日

どうして私に
笑顔を見せた?

地底には
もう2度と
寄り付かないと
言い切れるほど
この怪人が
憎いなら

仮面も失くした
素顔の私を
なぜいたわった?

どうしてあんなに
無邪気な顔で
素顔の私と
歌が歌えた?

おまえが心を
開いてくれたと
浮かれた私が
馬鹿なのか?

夫と妻には
なれなくても

穏やかに
共に過ごせたらと

夢見た私が
馬鹿なのか?

媚びたのか?
騙したのか?
とにかく
逃げたい一心で?

もしそうなら
大した女優だ

そこまで
虚仮にされるほど
私は非礼を
働いたのか?

仮面の下の
正体じたいが
耐え難い
非礼だったと
言われたら

ひとたまりもない
恥じ入るしかない

だからこそ

恥じ入って
詫びるしかない
醜い生き物だからこそ

振る舞いだけは
悲しませまい
信義にもとる
仕打ちはしまい

その一念で
いたつもりだが

所詮は怪人

誠意など
通じないのだ

代償を
望むなど
身の程知らずも
甚だしいのだ

その証拠に

夕闇近い
この大屋根で

1人
取り残された
アポロの陰で

遠目に光った
鈍い金色

近寄って
それと認めた
小さな輪っか

知らずに落とした
おまえの指輪

私がおまえに
贈った指輪

落とした主が
気づかぬ滑稽

贈った主が
拾う滑稽

怪人が
望んだ代償の
なれの果て

アポロの神まで
笑ってる

14 復讐の鬼


もう決めた
引き返さない

復讐の鬼と
化すと決めた

絶望してる
暇はない

おまえに
もらった
屈辱
恥辱

礼くらい
返しておかねば

今日明日とも
知れぬこの身に
悔いが残る

復讐の鬼と
化すと決めたら
舞台の細工は
埒もなかった

1日あれば
充分過ぎた

シャンデリアが
突如その場で
落ちると決まった
あの日と違って
今回は

生ずるべくして
生じる暗闇

起こるべくして
起きる失踪

公演の夜

舞台の上の
プリマドンナを
一瞬にして
消し去るために

当代きっての
奇術師が
腕を振るって
見せるショー

復讐の
鬼と化すのも
手間暇かかる


(2)

1度ならず
2度までも

眠るおまえを
腕に抱えて

歯ぎしりしながら
暗い地底を
行く惨めさが

おまえなどに
判ってたまるか

私のものには
なりえない
おまえを抱えて
闇を歩いて

復讐だ!
復讐だ!と

わめきつづける
この惨めさが

眠るおまえに
判ってたまるか

クリスティーヌ
目が覚めたかな?

思い出したく
ないかもしれんが
見覚えのある
場所だろう?

2度と
来る気が
ないらしいから
私が勝手に
連れてきた

気を悪く
したなら謝る

起きた早々
無粋な話で
恐縮だが

おまえが
この世に
ある限り

あの若造と
結ばれることは
私が許さん
断じて許さん

ささやかな
望みを断たれた
怪人の
ほんのささやかな
復讐だ

さあ
クリスティーヌ
選んでくれ

妻として
私と生きるか

さもなくば

命を捨てて
私を逃れ
あの世で奴の
妻となるか

最後の情けだ
おまえ自身に
選ばせてやる

この怪人と
結婚するか?

ウィか?
ノンか?

いや
悪かった

神聖な
求婚にしては
少々露骨で
せっかちすぎた

目覚ましがてら
聞いてくれ

もしも
おまえが
ウィと言うなら

何はともあれ
若造は
自由にしてやる

無謀にも
おまえを探しに
ここまで
やって来たらしい

発狂するなり
首を吊るなり
ご自由にという
拷問部屋で
だいぶ前から
歓待中だ

そろそろ息も
絶え絶えのはず

手遅れに
ならないうちに
出してやらねば

そして我らは
結婚だ

正式な
届も出そう

仮面とも
気づかぬような
洒落た仮面も
こしらえた

私の顔は
もう怖くない

白昼パリを
堂々と
おまえと歩ける
散歩もできる

おまえの好きな
『ドン・ジュアン』も
完成間近

つつましい
アパルトマンを
手に入れて

暖かな部屋で
一晩じゅう
歌い明かそう

歌に飽きたら
手品でも
腹話術でも
何でもござれだ

一生おまえを
退屈させない

おまえさえ
ウィと言うなら

世界一幸せな
女にしてやる
誓って
してやる

気が進まない?
冗談じゃない?

残念だ

ノンと言うなら
埒もない

館の地下の
火薬庫に即
火でもつけねば

おまえも私も
もちろん奴も

5秒後には
この館ごと

いや
オペラ座の
今夜の客も
1人残らず
道連れにして

木端微塵に
吹っ飛ぶだろう

捨てる命と
引き換えに

おまえと私の
悪縁も
後腐れなく
雲散霧消

あとはあの世で
奴と再会
するのみだ

万事
めでたし
めでたしとなる

クリスティーヌ
どちらを選ぶ?

選べるって
素敵だろう?


(3)

おまえの口から
聞くまでもない

ウィとは
言うまい
言うはずがない

私の妻に
なるくらいなら
おまえは必ず
死を選ぶ

こんな異形の
餌食になるより

オペラ座もろとも
吹っ飛ぶ方を
おまえは選ぶ
当然だ

道端で
すれ違うのも
虫唾が走る
この怪人と

顔突き合わせて
暮らすなど
朝晩寝起きを
共にするなど

おまえでなくとも
女という
女がすべて
ノンと言う

それが現実
自明の理

夢なんか
見てはならない
生き物が

出逢った女に
見てはならない
夢なんか見た
天罰だ

ほかでもない
その女の意志で

価値もない
醜い命を
終えるなら

それも一興
幕切れとして
不足はない

さあお開きだ

クリスティーヌ

答えは
出たかな?

遠慮は要らない
ノンと言え

15 死体にはめて埋めてくれ


「生きて
あなたの
妻になります」

耳を疑う
恍惚だった

冥土の土産に
耳にするにも
身に余る
恍惚だった

青い瞳は
真っすぐに
私を見上げて
怯えなかった

思考が途切れ
心が砕け

物が
何にも
言えなくなった

正気なのか?

恐怖で
気でも狂ったか?

真ん前に
私が立っても
逃げもしない

抱き寄せてみても
拒みもしない

額に触れても
赦すのか?

口づけても
悲鳴を上げたり
しないのか?

ほんとうに
恐る恐る
体の芯から
震えながら

唇と
呼ぶも哀れな
代物で

おまえの額に
私は触れた

それでも額は
動かなかった

「裏切り者でも
あなたの妻に
なれますか?」

声を殺して
泣く人を

どれほど長く
抱きしめたろう

終わったと
私の中で
声がした

自慢の火薬は
出番もなかった


(2)

2人は去った
追い出した

もうモルヒネも
必要あるまい

どうせ長くは
ない命

ましてや
今夜の騒動で

尽き果てる日も
早まったはず

その日が
来るまで
持っててくれと

件の金の
指輪を預けた

私が死んだと
知らせを聞いたら
死体にはめて
埋めてほしいと

そのことだけ
念を押して

若者に
おまえを返した

幸せを祈ると
追い立てた

もう充分だ

この世の全てが
憎む私を

おまえだけは
拒まなかった

怯えずに
寄り添って
くれようとした

過分の夢を
見せてくれた

これ以上
望むとしたら

おまえの幸せ
以外ない

あの男と
幸せになれ

16 永遠の秘めごと


夢かうつつか
定かでないが

聞き覚えのある
足音は

勝手知ったる
足取りで

夜更けの
我が家に
侵入し

私の背中の
後ろに立った

死出の旅路に
発つ前に
気力が残って
いるうちはと

出来上がった
『勝者ドン・ジュアン』を

オルガン相手に
手直ししている
最中だった

「埋葬には
少々早い
何で来た?」

仮面はつけて
いたにせよ
振り向くほどの
用はもうない

「2人で行けと
あのとき
追い出されなければ

きっとあのまま
残ってた

今までかかって
あの人に

お詫びと別れを
告げて来たの」と

面食らうほど
大人びた
別人の声を

夢かうつつか
背中に聞いた

だからと
言って

死を待つ私に
今さら
何の用がある?

振り返って
見上げるなり

頭蓋は
胸に包まれて

仮面はいつか
外されて

むき出しの
髑髏を
華奢な両腕で

強く強く
抱きしめられた

人並みの
眼鼻口では
ないとはいえ

そんなにも
抱きしめられたら
息が詰まる
そう言いかけて

ほんとに一瞬
息が止まった

瞼と言うも
はばかるような

素顔の私の
右の瞼に
左の瞼に

それどころか

そんなことには
およそ不慣れな
歪みきった
唇にまで

瞳を濡らした
おまえが
そっと

柔らかい
あたたかいものを
押し当てたから
息が止まった

驚きすぎて
息が止まった

「この指輪は
返しません

どうしても
返せと言うなら
私を
ずっと
ここにいさせて

幸せを
祈ると言うなら
ずっと
あなたの
妻でいさせて」

消え入りそうに
はにかみながら

何とも
凛々しい
脅迫までして

歪んだ
私の唇を

何度も何度も
むさぼる人を

どうして2度も
手放せる?

心の底から
自分のものに
したいと願った
愛しい女を

どうして2度も
手放せる?

クリスティーヌ

もういい
指輪は
返さなくていい

おまえは私の
妻なんだろう?

だったら
外すな

2度と外すな

どこにも
行くな

妻なら
私のそばにいろ

ずっと私の
そばにいろ


………


たったひとつ
確かなのは

永遠の眠りに
ついて久しい
私の左の
薬指に

金の指輪が
今もあること

質素な金の
指輪がひとつ

まごうことなく
しかとあること

今となっては
そのほかは
すべてがおぼろ
埒もない

あの夜の
不思議な
出来事が

死出の旅路に
見た夢であれ

突拍子もなく
異なうつつであれ

すべては
彼女と
私の秘めごと

我ら2人の
永遠の秘めごと

余人の
野暮な詮索は

この
不調法なる
異形に免じて

悪しからず

どうか無用に
願いたい


   <完>

怪人と 1度もおまえに呼ばれなかった

怪人と 1度もおまえに呼ばれなかった

身の程知らずの 男の衝動 / たがが外れた 男の狂気 / 何とでも言え 笑わば笑え / 異形の身でも 愛したかった

  • 韻文詩
  • 短編
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-05-11

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  1. 1 姿見越しに
  2. 2 不肖の息子
  3. 3 異形の天使
  4. 4 裏切ってなどいません
  5. 5 父親の十八番
  6. 6 シャンデリア
  7. 7 鏡の奥へ
  8. 8 名はエリック
  9. 9 不覚
  10. 10 『勝者ドン・ジュアン』
  11. 11 ここに棲む理由
  12. 12 もう帰そう
  13. 13 贈った主が拾う滑稽
  14. 14 復讐の鬼
  15. 15 死体にはめて埋めてくれ
  16. 16 永遠の秘めごと