スケッチ#1

スケッチという名の、小さなお話を書き留めていきます。「わたし」の旅をお楽しみください。

「やっと終わった」
ゴールデンウィークと言う名の、主婦にはとても恐ろしい「金」と名のつくお休みが終わった。何が金だ、金が飛んでいくだけじゃないの。
子どもたちが学校に行ったあと、ひとりでゆっくりと家事をする。
小さな家に、家から出ない子どもたち。
休みの日ほどストレスがたまる。だから、外に出て買い物をしてしまう。

子どもの前では穏やかにいることを心がけている。
たとえ夫にストレスを感じていても悟られてはならない。
大変な時ほど普段通りにしようと人は頑張ってしまう。
日常に戻った途端、反動が襲ってくる。

夫は、晴れの日は朝早くから出かけ、雨の日は何もせずに家にいた。
なんとか一日そばにいないよう、出かけなければならない。
休日が憂鬱なのは、家でゆっくり休めないことなのだ。
それでも自分のために何かしなければ気が収まらない。
GWの最終日、京都に出かけることにした。

朝早くJRに乗る。土日でもないのに、もう混み始めている。
こうして出かけるのは何か月ぶりだろう。
子どもたちの卒業入学が思ったよりも忙しく、出かけることも考えられなかった。
京都駅に降り立つと、何か懐かしい匂いがした。遠くに旅行に出かけた時の駅の匂いだ。
電車に30分乗っただけで旅人なのだった。

慣れない市バスに揺られ、上賀茂神社へ向かう。
賑やかな街並みから外れると、京都も大阪も変わらない風景が広がる。
けれど京都にはさらに奥があり、宅地開発や単なる田畑ではない「山の風景」が出現するのが面白い。
神社を中心とした街が作られているのだ。
山の際に神社に神社を配置することで、農地や宅地になるのを防ぎ、山が崩れてしまわないための仕掛けではなかったのかと思えるのは、近所の山が軒並み崩れて行くのをリアルタイムで目にしているからかもしれない。

鳥居をくぐると白い砂が続いている。空の青、山の緑、白い道。シンプルで美しい。
そこに白い神馬がいる。
その日は箱の中に繋がれていて、参拝者がえさをやれるようになっていた。
その目からは何も読みとれない。崇め奉られる日と、こうして動物園のように見られている日が繰り返されると人間なら混乱するだろうが、馬には関係ないのかもしれない。

必要以上に大切にされることと、蔑まれることは、実は同じことで
どちらも「人として対等に扱われていない」ことには変わりない。
だから障害者は「○○テレビ」などで感動を与える仕事を割り当てられる一方、普段の生活の中では奇異な目で見られる。
我が家の不登校の子どもたちも、ある学年では全く無視され、ある学年では「受け入れますよ」と精いっぱいアピールされたがまるでお客様扱いをされるということがあり、どちらにせよ、特別扱いというよりも厄介もの扱いだった。

人は、自分と違う生活様式や身体を持っている人とどう接していいのかわからないものらしい。その結果、避けるか、持ち上げるかしか思い浮かばず、的外れの対応をする羽目になるようだ。
「普通ではない」ということは、他人の心に一種のパニックを起こさせる。
そのパニックをどうやって放出するかがその人の力量であり、優しさであり、人格を現すのだとわたしは理解することにした。
だから、意地悪なことに、中途半端にカウンセラーの肩書を持っている人に対して「うちの子は不登校で」と言ってみることもある。あるいは「わたし、うつ病なんです」と。その反応を見るだけで、その人の経験と知恵、知識の深さをわたしは測る。

馬はしゃべれない。ただ人間を見つめているだけだ。
わたしのことを特別扱いしないでください、と言うこともできない。
役に立たなければ殺されてしまうことも見通しているかのような空虚なまなざし。
そこまで達観できれば幸せなのだろうか。それとも。

先に進むと、ちょうど結婚式が執り行われるところにぶち当たった。
神社での結婚式に出会ったのはこれで3度目、これは吉兆の印。
わたしは心の中で小さくガッツポーズをとった。
結婚が幸せなのか、離婚は不幸せなのか。
何がこの世界に出現しようが、すべては自分の解釈次第だ。

馬が神の馬になるのは、そう思い込む人間の仕業であり
馬の問題ではない。
結婚式が幸せの象徴に思えるのも同じことだ。

花嫁が幸せであるようにと祈る。
これは二人の問題ではなく、二人を取り巻く世界における幸せ。
わたしたちの結婚は、夫の家族にとっては災厄だったので祝福されなかった。
いつまでもいつまでの呪いは二人に降りかかり、今や結婚生活は息切れ状態に陥っている。
だからこそ祈る。幸せを祈る数は多いほうがいい。

この結婚は間違いだったのだといつからかそう思い始めた。
「ふたりは幸せになってはならない」わたしたちの結婚式で多くの親戚が願っていた。
わたしは必死でその願いに抗ってきたけれど、それも時間の問題だった。
夫婦の関係を修復するのはわたしだけの役目なのか。なぜ夫は何一つ解決しようとしないのか。
考えるのに疲れ、修復する努力をすることに疲れ、もうどうでもよいのだと思った。
せめて、これから結婚する花嫁には幸せになってもらいたい。
誰も彼らの不幸を願いませんようにとまたわたしは祈った。

次に向かった大田神社には、カキツバタが咲き、多くの写真家が小さな池の周囲を囲んでいた。緑の池の中にすっくと立つ高貴な紫が、わたしを違う次元へと誘う。平安時代の貴族が花を愛でるためにこの池に来ている様子が感じられる。
愛らしい姫のようでもあり、大人の女性のようにも見えるカキツバタ。
いつからここに咲いているのか、いつまでここに咲いているのか。
来年のわたしがどうなっていようと、またここに来て眺めてみたいと思った。

小さな神社に頭を下げて、わたしはまた歩き始めた。
もう少し寄り道をしてから帰ろう。
歩けばまた道はできる。誰かに歩かされるのではない。わたしが歩くのだ。

歩きながら上賀茂神社でひいたヤタガラスのおみくじを開けてみた。
「大吉」
甘くはない現実に、またわたしは立ち戻っていく。
周囲の称賛や呪いに惑わされず、わたしはわたしの道を行く。
「大吉」は今日の、精いっぱいのご褒美として財布の中に入れておこうと思った。

スケッチ#1

まだまだ続きます。

スケッチ#1

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-05-10

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