白いカーネーションはいかが?

 昔、俺はいい子だった。
 家族は父、母の三人家族。
 父と母は厳しく俺を育てた。俺はそれを愛情だと勘違いしていた。今考えればとんでもない間違いだ。
 習い事をたくさんやらされた幼少時代。ピアノ、習字、そろばん、英語、全く遊ぶ時間なんてなかった。周りの同世代の子どもたちがサッカーやドッジボール、テレビゲームをする笑い声が聞こえた。
 ……寂しかった。
 それでも努力して結果を残せば、誉めてもらえた。ピアノのコンクールで優秀な結果を残した時、家族三人で近くのファミリーレストランでハンバーグを食べた。父も母も嬉しそうにしていた。それを見て俺も嬉しかった。そんな小さな事が俺の幸せだった。
 でも、そんな日々も終わりが来る。
 反抗期って奴だ。
 中学生に上がり、しばらくすると俺は親に反抗した。
 部活でバスケ部に入った俺は仲間と汗を流すことに楽しみを覚えた。遅くまで練習をする俺に両親は塾に時間を割くように話してきた。いや、命令してきた。
 俺はその時、両親とはじめてぶつかった。
 はじめて刃向かう俺に両親は驚き、理屈の通らない話をしてきた。きっと言いくるめる話術は長けていなかったのだろう。『お前のためなんだ』、『大人になれば分かる』ということばかりの言葉でより一層俺の怒りに油を注いだ。
 それが半年間ほど続き、両親は折れた。
 好きにしろ、とポツリと呟き、俺に関わることをやめた。
 そして、程なくして父と母は言い争いを続け、母が家を出ていった。


「働け、息子よ」
 五月の午後の日、新緑の葉が生い茂る頃。
 俺は大学に忘れ物を取りに行き、実家兼喫茶店の扉を開けると、母に早々と言いつけられる。
「いや、まだ帰ったばっかなんだけど」
「お帰り、拓海」
 カウンターにいた母がニコリと笑った。そしてそのまま窓際を指さす。
「手洗って、3番テーブルにオーダーよろしく」
 ……鬼母め。
 俺はため息をつき、シャツの袖をめくると慣れた手つきで手を洗い、腰に白いエプロンを巻いた。
 客は三人だった。
 中年の男女と中学生ぐらいのベレー帽を被ったおとなしそうな女の子。
 中年の男女は一切目を合わさずに冷たい空気が流れていた。女の子だけあたふたしながら中年の男女の顔を伺っている。
 なんだコイツら。
 家族と呼べばいいんだろうが、それにそぐわない余所余所しい空気が流れていた。
「お客様、大変遅れて申し訳ありませんでした。ご注文はお決まりですか?」
 俺は内心の気持ちを隠しつつ営業スマイルで丁寧に話しかけた。
「ああ、ホット2つと、南(みなみ)は何にする?」
 男が口を開くと、南と呼ばれた少女は焦ったように早口で話す。
「えっと、カフェラテ!」
「ご注文を繰り返させていただきます。ホット2つとカフェラテ1つですね」
 間髪入れず注文を繰り返し、両親が無言で頷くと、俺は一礼してカウンターに戻った。その時、少女の鞄から赤い花がのぞいているのが横目に見えた。
「ホット2つとラテ1つ」
「あいよ」
 淡泊な声に母が景気よくかけ声を返してくる。
 俺はカウンターで先程の花を思い返していた。
 俺は母から珈琲を受け取ると、カップにミルクを静かに注いで、そのミルクをつまようじのようの細い棒で線を作っていく。
 程なくして、俺は三つの珈琲をトレイに乗せて先程のテーブルに近づくと少女がシュンと縮こまっていた。
「南、忙しいから私は珈琲を飲んだら失礼する」
「あら、珍しい私も仕事で忙しいので。職場に行くわ」
「えっ……」
 南は戸惑っているが父と母はすぐにでも席を立とうとしている。
 全く珈琲すら一緒に飲めないのかね……。
 俺は内心ため息をつきながら、珈琲を置いていく。
「お待たせしました。ホットと、カフェラテです」
「……!」
 カフェラテを見て、少女は驚いたように目を丸くした。いや、両親も驚いていた。ラテには琥珀色の上に白いミルクで描かれたラテアートが描かれていた。
「素敵ね。これは?」
 母親が少し嬉しそうに訊ねてきた。
「今日は母の日ですから」
 ニコリと微笑むと母親が少し驚いたように顔をする。
 すると、すぐさま声が聞こえた。
「お母さん、これ……ありがとう」
 南が緊張した顔で母に一輪のカーネションを差し出していた。
 母は少し驚きながらも、先程のような冷たさは消えて優しい笑みを浮かべた。
「ありがとう、南……」
「うん、いつもお仕事ありがとう」
 南は緊張しながらも母の目をしっかりと見つめて話していた。
「それと」
 南は鞄をゴソゴソと探して、小さな紙切れを出した。
「お父さんもいつもお仕事ありがとう! 今日はプレゼントないからコレ!」
 その小さな紙切れは手書きで『父の日プレゼント引替券、いつもありがとう!』と書かれていた。
 それを見て父は少し困った表情を浮かべながらも微笑んだ。
「引換券か、どんなプレゼントか楽しみにしているよ」
 その優しい顔を見て、南は満面の笑みを浮かべた。
「うん!」
 俺は、ごゆっくり、と小さく呟き一礼し、そっとその場を立ち去った。

 窓際の席のお客達はゆっくりと珈琲を飲み、しばらく談笑した後、帰っていた。
 帰り際、両親からお礼の言葉と南も嬉しそうに頭を下げていった。店を出た三人を目で追うと、三人は新緑の木漏れ日を浴びながら、川沿いの道を歩いていく。その両親の手には南がしっかりと二人の手をつないでいた。
 正直に言えば、ほんの少しだけ羨ましかった。
 あの親子が今後、どうなるか分からない。もしかしたらすぐにでも離婚の話が出てくるかもしれない。それでも今日、三人で過ごした時間は彼女にとっていつまでも色あせない思い出になるだろう。そんな思い出が羨ましかった。胸の中でザラつきのある感情が渦巻き始めるのを抑えながら母親の表情を伺うと、忙しそうに珈琲を煎れていた。その表情からは先程の親子についてどう感じたのかうまく読みとれなかった。俺は内心でため息をついて仕事の手伝いに戻った。


 夕暮れ、紺碧の空が広がり紅の夕日が沈む頃、最後のお客が店を出ていく。
「ありがとうございました」
 レジで頭を下げると、疲れがどっと押し寄せてきた。今日はバイトの子も少なかったので疲労感も大きい。俺はカウンターの椅子に腰掛けて一息つく。全くもってジジ臭い。
 すると、カウンターから白いカップに注がれた珈琲が置かれた。酸味の効いた匂いが鼻孔を刺激する。俺の好きな珈琲だ。
「お疲れさん、今日はありがとうね」
「いいえ、どういたしまして」
 カップを手に取ると、指先に珈琲の温もりが伝わる。
「お給金期待していますぜ」
「あら、現金な子ね」
 そう言うと母は悪戯っぽく笑った。子どもの頃から知っている年齢にそぐわない笑み。その笑みが何度も俺の心を救ってくれた。
「なあ、お袋」
「なんだ、息子よ」
「今日のお客で、中学生の女の子がいた親子のこと覚えている?」
 何となく切り出してしまった。母はすぐさま応える。
「ああ、あの可愛いらしいベレー帽を被った子ね」
「そう、あの子。はじめ親父さんとお袋さんの態度が冷たかったんだけど、俺がラテアートで絵を描いたら、ほんの少しだけ態度が柔らかくなったんだ」
「なるほど、それでお会計で頭を下げていったのね」
 母も合点がいたのか、納得の表情を浮かべる。
「アンタは昔からお節介な所、変わらないわね」
「そうか?」
 母は目を閉じて何かを思い出すように語り出す。
「そうだよ。元々お父さんとお母さんが仲良くなかった事を知って、アンタ必死でいい子をやってくれてたでしょう」
 いきなり核心を突かれて俺は珈琲を口から吹きそうになる。
「ちょっと、せっかく煎れて上げたんだから粗末にしないでね」
「ちょ、いきなり何を言い出すんだよ!」
「何って、アンタがお節介な話でしょう」
「いや、そうじゃなくて、今まで別れた父さんの話は割とタブーだっただろう。なんで急に……」
「アンタも今年で二十歳でしょう。充分大人でしょ。そろそろその手の話題を避けずに、しっかりと話さないといけないでしょう?」
「……」
「アンタもずっと腹の中に言いたいことがあったんでしょう?」
 母の真剣な表情に俺も母の目をしっかりと見て、頷いた。
「あった。ずっと聞きたいことがあった」
「知ってたわよ。アンタすぐ表情に出るんだから」
 そっけなく話していたが、母もずっと俺のことを気にしていたんだな。
「で、何?」
「お袋は、俺のこと恨んでないのか?」
「……」
 母は無表情で俺に近づき頭にゲンコツを落としてきた。
「いって!」
「うっさい」
 母が胸ポケットから煙草を取り出し、火をつける。
「何かと思えばしょうもないことを」
「しょうもなくねーよ。俺は俺でずっと気にしていたんだよ。俺が反抗せずにいたら、父さんともうまくやれてたのかなって」
「バカ野郎」
「なっ」
 母は紫煙をゆっくりと口元から吐き出し、天井に上る煙を追いかけながら話し始める。
「アンタが頑張っていてもいずれは別れていたよ。自分が他人の人生をどうこうできるなんて思い上がるな」
「……」
 母の予想以上の厳しい口調に俺が黙っていると母の瞳に陰が落ちた。
「いや、それは私への訓戒か。教育ママになって、アンタの人生をどうこうしようとしていたのは私自身だ」
 母は笑った。その顔はとても寂しそうだった。
「空っぽだったんだ。あの時の私は、夫の冷え切った関係、自分への自信のなさ、それを補う意味で私のぽっかり開いた穴を埋めるためにアンタを利用した。情けない話だよ」
 母はもう一度大きく煙草に口を付けて大きく吸い込み紫煙を吐き出した。その姿は自分の中のわだかまりを吐き出しているようだった。
「それをアンタが壊してくれた。私達の言いなりにならずに自分の気持ちをまっすぐに伝えられるお前を見て、私は間違っていたことに気づくことができた」
 母はもう一度笑う。今度は俺のことを見つめてニッと笑った。
「こんな母ですまん、そしてありがとう……」
 俺はそれには応えず。無言で立ち上がった。母に客席に座るように無言で指示する。母は穏やかな表情でそれに従った。母と入れ替わり、カウンターで珈琲を丁寧に煎れ始める。
 母はゆっくりとそれを待っていた。カウンターのみに明かりがついた温かな時間が過ぎていく。程なくして珈琲をカップに注ぎ、先程と同じようにミルクピッチャーを手に取り、丁寧に琥珀色の上に描き始めた。俺は指先に集中しながら色々な事を考えていた。
 こんな母ですまん、だと。
 ……バッカ野郎、それはこっちの台詞だ。
 いつだって謝っていた。俺がお袋の幸せを壊したんじゃないかって。
 ずっと、謝りたかったんだ。
 こんな息子でごめん、いい子じゃなくてごめん、上手に伝えられなくてごめん。
 色々な謝罪が浮かんだ。
 でも、珈琲で描いたのは謝罪ではなかった。
 白いカップを母の前に置くと、母の口元が笑った。
「ほお、大したもんだ」
 乳白色のミルクで描いたのは大輪のカーネーション。
 先程、女の子に描いた絵と同じだ。
 たくさんの謝罪じゃなくて、俺は感謝していたから。
 目一杯の感謝の気持ちを込めて俺は微笑んだ。
「いつもありがとう、母さん」
 その言葉を聞き、母のカップを持つ手が震えた。白い大輪の花が大きな透明の滴によって波打っていた。
 一口啜り、母はまた笑った。今度こそ幸せそうに母は笑っていた。
「おいしいよ、拓海……ありがとう」
 

 翌日以降も日々は続く。
 俺は大学に、母は忙しく喫茶店の仕事を。
 時々、叱られながら、喧嘩しながら日々は続いていく。
 変わった事はほとんどない。
 一つ変わったことがあるとしたら、喫茶店のカウンターの花瓶に一輪赤いカーネーションが増えたことだろうか。
 そんないつもの日常が続いていく。
 慌ただしく、幸せで温かな日常が。

白いカーネーションはいかが?

白いカーネーションはいかが?

俺と母さんは二人暮らし。 父と離婚した母は喫茶店のマスターをしている。 忙しくも幸せな日々を送っていたが、俺は母への後ろめたい気持ちがずっとあった……。 母の日に送る不器用な二人の暖かい家族の物語。

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-05-10

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