漱石の小説
間もなくA新聞に夏目漱石の『それから』が連載される。自由律の俳句を作っている彼は漱石なぞあまり好きではなかった。そこへ、妻の祖母が耕一さんにも読ませるようにと押し付けがましい手紙を寄越した。
「どう、読んでみない?」
「余計なおせっかいだよ」
「お祖母ちゃんの言うことは、何でも反発するのね」
「俺はあの婆ァとはまったく合わないからな」
「でも、読むくらいはいいじゃないの」
「いやだね」
すると妻は祖母と知り合いの崎川千代さんの話を始めた。前にも聞いたことがあるけれど千代さんは藤村操の初恋の女性と言われている。藤村は華厳の滝に飛び込む直前に(万有の真相はただ一言に悉す。いわく『不可解』。我この恨みを懐きて煩悶、ついに死を決す)で知られている哲学青年だ。はたして哲学的な理由か、それとも漱石に叱られたからか、いや失恋も関係ないことはない……恐らくそのどれでもなく、もって生まれた虚無思想のような気がする。
祖母のマツは軽井沢の別荘の管理を頼まれて、千代さん夫妻と親しくなった。千代さんは小柄な体をつきしていて、囁くような優しい声で話し、如何にも良家の育ちを思わせた。それにしてもマツはヒドイ。色の黒い、気の強そうな顔をした、現実的な生活者である。色気や美しさや上品さとおよそ無縁だ。
「マツさんとはだいぶ違うな」
「比較することないわ、失礼ね」
「よく千代さんと親密になれたもんだ」
「どう致しまして。旦那さんもいい方よ」
夫は大学教授をしていたが、夏が終わっても一人軽井沢に残って、畑仕事をしていたような人である。二、三人で家の前を通りかかると、
「マツさん、ぼく、南瓜でポタージュを作ってみたんですよ。とってもおいしいスープだから、飲んでいって下さい」と勧められた。まだ貧しい時代だったから貴重なご馳走である。夫婦共に気さくな人柄だった。
夫は亡くなり、千代さんも九十七歳で他界した。死後、千代さんの遺品から藤村操の詩の恋文が発見されて、それを子息の崎川範行氏が公開した。
「ねえ、せっかくだから、『それから』を読みなさい」
「俺みたいなやくざな人間には関係ないよ」
「ないことはないわ」
「いや、ないねえ」
「藤村操は一高で漱石に英語を教わったんだけど、級友に尾崎放哉もいたのよ」
「えッ、尾崎放哉が! なんで知っているの」
「祖母の手紙にあったもの」
「本当か」
「ホラ、読んで」
友人への手紙に放哉が『漱石サンに一年教エテモラッテ大イニ夏目サンガスキニナッタモンダ』と書いてある。
「さすがに婆さんは元女子校の先生だな」
「学識があるのよ」
「それなら俺も読むよ!」
耕一は興奮気味である。以来、漱石を見直して連載が始まると、欠かさず目を通した。そして読み終わると毎日切り抜いて専用のノートに張りつけた。自由律の俳人耕一も漱石を疎かにできなくなった。
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