過去作
私は小さい頃から一つのことをとことん極めるようなことが苦手だった。必ず飽きがきて、それでもとりあえず続けてこれたのは、ただなんとなく流れのままにやってきたというだけの理由。
でもたまに、思い出して急にもう一度やりたくなる時がある。
それは本当に突然のことで、きっかけは自分にも読めないタイミングで訪れる。
だから今日だって、たまたま大きなドームの中に佇むコレを目の前にして疼いただけなのだ。ただそれだけだったのに。
時間は30分前に遡る。
私はこの日の最後の授業である体育を終えて、体育倉庫に使っていたボールを仕舞っていた。今日の種目はバレーボール。授業の最後まで自分のところに飛んで来た球にだけしか反応せずにいた。別にバレーボールが嫌いというわけではないが、うまく球を操れないとなんだか悔しいというか、気持ち悪くてほとんどチームメイトに任せっぱなしだった。
やっと終わった片付け。倉庫から出ると、もう体育館には誰も残っていなかった。
一人取り残されて意味もなく溜息が出た。すぐに更衣室に向かう気にもなれず、ぐるっと体育館を見渡した。
すると、壇上の一台のグランドピアノが目に入る。いつも同じ場所にあるもので、今までそこまで気にも留めていなかったのに今日はなぜか吸い込まれるようにピアノの前までゆっくりと近づいていった。
私には少しピアノの経験がある。小学生の頃からお遊び程度に習っていて、高校生になってからはもうほとんどピアノに触れることはなくなった。練習が嫌いで、別にもう興味も薄れていたので熱は冷めていたのだ。
そんな私が今日この日に見たグランドピアノは、時間帯のせいか体育館に差し込んでいた夕陽で照らされてノスタルジックな感情を私に与えた。
出入り口に誰もいないことを念入りに確認した後、そっと椅子に腰掛けピアノの蓋を開いた。
ぎぎっという音はドーム状の体育館全体に響き渡り、その音が私を興奮させた。
(ここで思いっきり弾けば、気持ちいいのかな。)
恐る恐る指を鍵盤に乗せる。一つだけ鍵盤を押してみた。重低音が床と反響し、身体に振動が微かに伝わってきて心地いい。
誰もいない体育館に響く静かなピアノの音。
そして引っ張っていた理性の糸が切れたかのように思いっきり曲に乗せて音を奏でた。
何も考えずに動く指に任せピアノを弾き続け、もはや時間の流れに頭の片隅にも意識が向かなくなっていた。
一曲、また一曲と今まで弾いて覚えていた曲を何曲も弾き続け、もうネタ切れになったところで指を離した。
さっきとは違う、高揚した溜息が自然と漏れた。なんとも言えない達成感のような感情。反響していた音がまだ耳に残り、余韻に浸る。
しかしその心地いい時間はいきなり切られた。
あれだけ確認していたはずの出入り口に、一人男の子が立っていてじっとこちらに視線を向けている。
(見られた!?)
人が居たことで、先ほどまでの歓喜は羞恥に変わり、お粗末な演奏をわざわざこんなおおっぴらな場所で弾いた自分の恥ずかしさに堪らなくなって冷や汗が身体を流れる。
そして時間は今に至る。
どちらも言葉を発しない。正確に言えば、私は言葉なんて言える状態じゃなかった。
(これ、自分でも呆れるわ…)
固まったまま何も言えずに考えるのは自分の行動の反省ばかり。
逃げ出したいのに足は動かないし、体に駆け巡る羞恥心も収まらない。
(何やってんの、私。)
相手は制服だが何年生かはわからない。見たことない顔だからきっと違うクラスか、違う学年か。
相手を知らないのなら無かったことにして、さっさとここを立ち去ろうかとようやく決心のついた私はピアノの蓋を閉め、壇上から飛び降りた。
相手と近づく距離に少し緊張するが、前を見なければ顔も見なくて済むのだからと早歩きで前に進む。
すると相手が突然拍手してきた。いきなり響いた大きな音に驚き、足を留めて目を見開き顔を上げたら、相手との距離はもう2mを切っていた。
「すごいっすね。 なんかぐっときました」
真顔でそんなことを言うものだから、私は「お世辞なんてやめてよ」なんて言えずにその言葉を飲み込んだ。
自分でも、弾いていて何度も間違えては弾き直してグダグダだったと気づいているのに、目の前のこの男の子は違う感想を言ったのだ。素直に受け取れない複雑な気持ちで、何も答えられない。
「あんまし楽器とか聞いてもよくわからなかったんすけど、初めて聞き惚れてました」
笑いながら話すものだから、もう何が何だか理解できず、思わず
「はあ、どうもありがとう。」
間抜けな挨拶ぐらいしか返す言葉が無かった。でも本当に何が良かったのか、全く検討がつかない。いっそのこと今日限りなのだから聞いてみようと思い、今度はこちらから声をかけた。
「結構間違えたんですけど、どこが良かったんです?」
すると一瞬目を見開いた後、驚いた顔をしながらも言葉を返してきた。
「え、間違ってるとこなんてあったんですか? ちょっとだけ詰まってたくらいかと思ってましたよ。 でもなんか楽しそうに弾いてたし、作り込まれてない率直な音ってのが良かったっすよ。それに俺、上手い下手より、どれだけ心にぐっとくるかが大事だと思うんすよね。 まぁ素人に何がわかるんだって話だろうけど。」
本当言えばこの人に一体何がわかるのかと一瞬外見で判断した自分がいて、そのことを恥じた。というのも制服のシャツはだらしなくはだけていて、髪色なんかかなり明るい茶髪をしているわけで、まだ金髪じゃないだけマシだ。適当なことばっか言って冷やかしに来たんでしょ。そう思っていたけれど、今言ってくれた言葉に心底驚いた。聞き惚れた、楽しそう、そんな風に受け取ってくれたとは信じられなくて耳を疑ったほどに。
とても嬉しい。素直にそう感じる。
たまたま居合わせた相手に褒められるとは思ってもいなかった出来事で、恥ずかしいけれど嬉しい。
「ありがとう、そんなこと言われたのは初めてだよ。 ところで、いつから居たの?」
「帰ろうかと体育館の前を通り過ぎようとしていたら、鍵が開いてたから閉め忘れかと思って…んで覗いたらピアノの前に人がいて気になって様子見てたんす。 だから曲が流れ始めてからずっと居ましたねー。」
「え…うわ、確認したのに。 」
「まずかったんですか? めっちゃいい感じだったのに。 もしかして、いつもこっそりここで弾いてるんすか?」
「ううん、今日が初めて。 それに、もうピアノ自体弾いてないんだよ。 別にそこまで弾けないし、プロになるとか、保育士になるとか特別目的があるわけじゃないから。」
「え!? もったいないじゃないですか! やりましょうよ。 俺、また聞きたいし!」
「えー。 別に私のわざわざ聞かなくても、プロとか上手い人の聞いたら?」
「なんすか、それ。 俺が聞きたいって言ってるんです。目的、それじゃだめっすか。」
「え……」
言葉に詰まった私。なんだかここまで言ってくれるほどのものでもないのに、申し訳ないような気がする。でもこの人は自分のピアノを聞きたいって言ってくれる。ならばもう一度やってみようか。上手くなったらもっと喜んでもらえるのだろうか。
「…なんか聴きたい曲、ある?」
「弾いてくれるんすか!!?」
「うん、まぁ頑張ってみる。 目的も出来たことだし、頑張れる気がしないでもない」
「そっすか!」
なんだか嬉しそうに笑うものだから、私もつられて苦笑い。
まさか、こんなことになるとは予想もしていなかった。
「あ、じゃあ、俺に聞いて欲しいって思った曲、弾いてもらえないですか?」
「は!? なにそれ? 」
「だめっすか?」
(だってどんな曲が好きかとかわからないのに…)
なんだか相手にペースを持っていかれてしまった。わざわざ拒否する理由も思いつかずに、結局そのリクエストを受け入れた。
「……考えとく。」
「ところで、名前、なんて言うんですか? 俺、1年の中谷健太(なかやけんた)っす。 健って呼んでもらっていいっすよ! 友達からもそう呼ばれてるんで。」
「2年の林原朔(はやしばらさく)。 1年先輩だね。」
「これからよろしくお願いします、林原先輩ー」
「うん、こちらこそ、中谷君。」
「健でいいですって。 朔先輩って呼んでいっすか? 林原って長くて。」
「……いいけど。じゃあ、私も健って呼ぶ。 」
「練習っていつ、どこでするんですか? 練習してるとこ見たいんすけど。」
「見たらだめじゃん。 せっかく健に弾くって話になったのに。」
「いや、弾いてるとこも見応えあるし。 別にサプライズじゃなくてもいいんですよー。」
「まあ、そういうなら別にいいけど。 家のは調律してないから、しばらくはここ使わせてもらおっかな。 先生に聞いてみないとだけど。」
「部活みたいっすね! 俺も一緒に先生に頼みますよ。」
そうして2人、放課後に体育館でピアノを弾くことの約束を交わした。次の日、担任にピアノの使用の許可を取りに行った。最初はためらっていたものの、音楽教室管理の先生が了承してくれた。それからというもの、思ったよりピアノの練習も悪くないことを知り、少しずつ楽しいと思えるようになってきているのを感じた。相変わらず健太は些細な事で感動するから、思わず可笑しくてそんな彼に笑いが絶えなかった。まるで弟が出来たかのようで、次第にピアノ以外にも色々な世間話や相談事などもたくさん話すようになった。
「へぇ、朔先輩は大学行くつもりはないんすね。でもどうするんです、卒業してから。」
「働こうと思ってる。 どんな職場がいいとかはないけど、自分の時間が確保出来るならどこでもいいかな。」
「えー、自分の時間って、何かしたいことでもあるんですかー?」
「え…それは、まあ。そういう健はどうなの? 大学行くんでしょ?」
「はい、そりゃー大学つったらいろんな県から来た女子に会えますしねー。なんて、嘘っすよ! 俺、警察官目指してるんです。」
「へぇ、なんか意外。 でもすごいじゃん。 警察官って言ったら大学じゃなくて警察養成所みたいなのに行くんじゃないの?」
「それが一番なんですけどね。 ただ法学の勉強とか心理とか勉強してたらハイレベルな警察官になれるんじゃないかなって思って」
こんなに志が高い健に、私はただほとんど意味を持たずに社会に出ようとしていたのだと、それを健に話してしまったのを少し後悔した。どこまで違うのだろう、私と健は。外見と中身のギャップが激しいけれど、夢を持って前に進もうとしている健。ただ目の前のことの面倒から避けて通るように、何も考えずに生きている私。ああ、なんで私はこうなんだ。そう思わざるを得ない。
「先輩? ぼけっとしてどうしました? 俺、そろそろ帰らないと行けないんですけど、先輩も帰ります?」
「あ、いや、まだいる。 ピアノを少し練習してから帰るから」
「そっか、お疲れ様っす。」
そして健が出て行き閉じられた扉。一人になった。温められた体育館は熱気が充満し、ほのかにランニングシューズの匂いが残る。
(健、すごい色々考えてた…)
先ほどまでの会話が頭の中でリピートされている。そこに生まれた感情は自分への虚無感と、健に対する嫉妬。
(馬鹿じゃないの、私。)
最近は放課後ずっと家に帰らずにピアノに向かうか、健と話すかという日々を送っていた。健は毎日顔を出すわけでは無かったけれど、一人でピアノと向き合っていたら音を立てて開く扉に、私はいつも心を弾ませていた。
しかし、健が来なくなった。2週間が経過し、私は毎日早めに体育館に足を運んだがそれでも健は現れなかった。
(健、今日も来ないのかなー。 せっかくだいぶ曲として流れが出来てきたから聞いてもらおうと思ってたのに。)
そして今日も体育館の扉は開かれなかった。
次の日、先生から用事を頼まれ、社会科準備室に向かうために1年の廊下を通っていた。健の姿をさりげなく探していると、教室の隅で女子と話していた。
(学校には来てるじゃん…)
なぜ来ないのか。その不信感が心に小さく芽生える。
(あんなに楽しみにしてるって言ってたのに)
しかし何故急に来なくなったのか。直接聞くことも出来ず、知るための手段が無い。さすがに呼び出すのも気が引ける。そこまでのつながりではないのだろうと躊躇してしまう。
気になってしょうがない。
「あの、沢辺さん。 頼みたいことがあるんだけど…その」
クラスに戻って来た私は、クラスメイトの沢部瑞穂(さわべみずほ)に声をかけた。
「何?」
彼女はテニス部で、1年の後輩に慕われている。だからつてを使って何か聞き出せないかを頼むつもりでいた。
「あのさ、1年に中谷健太っていう男子がいるんだけど、その子最近部活に顔を出さないんだ。 連絡も無いし、何かあったのかなって気になってるんだけど、後輩の子たちにさりげなく聞いてもらえないかな?」
「へぇ、林原さん部活やってたんだ。 何部?」
「え、あ、音楽部? って言ってもまだ人数足りないから同好会みたいな。」
「あ、そうなんだー。 いいよ、何か分かったら教えるのでいい?」
「うん、ほんとありがとう」
部活のことというよりは個人的に心配なだけだが、口実としてでっち上げた。沢部さんはあまり興味はないようで、すぐに話を受け入れてくれた。
そして2日後に沢部さんが話に来た。
「ねぇ、中谷って子なんだけど、何か最近彼女が出来たとかで、そっちにつきっきりらしいよ? まぁ、彼女が誰なのかってのは後輩たちも知らないっぽかったんだけど。」
「え」
「うーん、詳しくはわかんないし、噂だけかもしれないけど、呼び出されて告白されて、はいオッケーみたいな感じ?で付き合い始めたとか。」
「あ、そうなんだー。 へぇー…」
(なんだそれ。)
理解出来ない。それでこっちは、ハイ終わり。そういうことなのか。 それだけのつもりでピアノを褒めちぎって来たのか? 結局のところ、健もそこまで何も感じてなかったのかもしれない。 ただ面白そうだから言ってみたってことなのかもしれない。
(やっぱり冷やかしなんじゃん。)
「ねぇ、大丈夫? 別にそんな気にする程の理由じゃ無かったみたいだねー。林原さんも、人数少ないのにその内の1人がそんな適当な子で大変だな。」
「ほんとにねー。 ありがとう、助かった」
「いえいえー、ま、気にしなくていいんじゃない?」
そう言い残し沢部さんは席に戻って行った。私に残ったのはわだかまり。一体何のために近づいて来たのか考えるのも面倒だった。
(ま、気まぐれよね。 別にいっか。)
健のために練習していた曲は、その日の放課後からやめた。そして違う楽譜を立てて、練習してきたその曲はファイルの奥に仕舞った。目に付かなくなったら、何だか気持ちが少し落ち着いた。そこまで執着する相手でもないのに何を必死になっていたのかが急におかしく感じられる。
(彼女…ね。)
言葉を繰り返す度に胸が少しざわついた。
それからまた更に一週間が過ぎた。新しく始めた曲はなかなか先に進まず、つまづいてばかりだった。苛立ちが抑えきれず投げ出しては、またピアノの前に座る。そんな放課後を繰り返していた。何故か情緒が不安定で何もかもが面倒に感じられた。
「おーい、林原ー。 そろそろ閉めるぞー。」
担任が体育館の入り口に立っていたことにも気づかなかった。
「すみません、もう出ます」
慌てて片付けて体育館を出た。施錠される扉を見つめ、何かを期待していた自分がまだいることに嫌悪した。
「なぁ、何かあったのか?」
隣を歩く担任の金武(かねたけ)先生が話しかける。
「いえ、ただ練習がうまくいかないだけで、焦ってるだけです」
「そうか。 一朝一夕に出来るもんじゃねぇんだろ? なら自分のペースでやって行くしかねぇな。」
「はい…」
「もうそろそろ日が暮れるのも早くなってきたから、気をつけて帰りなさい。」
そういって廊下で別れた私と先生。私はふっと息を吐いて学校を出た。
もう空は星が出ていて、月明かりがほのかに空を照らしていた。
「ちょっと、林原さん! こないだ言ってた中谷君だっけ? また違う話が出てきたんだけど!」
「え…? 何?」
久しぶりに聞く名前に心がざわついた。もう関係ないのに気になる自分もいて、そのまま沢部さんの話し始めた内容に耳を傾けた。
「中谷君、彼女と二人でホテル街の近く歩いてるところを補導されて、今学校休んでるとか!」
「何それ!? は? え、ちょっと意味わかんない」
「だからこれもあくまで後輩たちの噂かもしれないけど、中谷君今、停学処分受けてるんじゃないかって。」
信じたく無かった。沸き起こる感情が何かはわからないが、今彼を目の前に怒鳴りつけてやりたい気持ちが先立つ。
「あーあ、中谷君って子、そうとう遊んでた子なんじゃない? 私はよく知らないけど、そんな噂立つんだし。 火のないところに煙は立たないってやつ?」
「……もういい、その子部活勝手に辞めたんだろうし。 ごめん、教えてくれたのに。」
「そう、ごめん、私も知らなくて…」
「ううん、沢部さんは私の頼み聞いてくれただけだし、助かったよ。 でももういいよ、大丈夫。 ありがとう」
そして自然に見えるように、「ちょっとトイレ行ってくるね」と言ってから教室を出て行った。そして校舎裏。私は健のことを思い出して怒りではない感情が芽生えていたことにようやく気付いた。
「彼女とホテル…そんなの…」
その先の言葉は何も言えなかった。この前沢部さんが口にした話のときは、自分が抱きかけていた感情が何かさえも気付いていなかったのに。今回のことではっきりした。
「好きになってたんだ、健のこと」
口に出すと少し鼻がツンとした。そして自然と漏れ始めた嗚咽とともに涙が流れた。
(悔しい。仲良くなれたのに。あんなにピアノ気に入ってくれたのに、褒めてくれたのに!! なんで私じゃないの)
健はいとも簡単に私から離れて行った。それだけ健にとっての私は意味がなかったのだ。
しばらく気持ちが落ち着くまでその場を離れられず、腫れた目は治ることはなく、結局午後の授業は保健室でさぼった。保険医は何も聞かず、何も言わず、ただベッドに横になっているようにと言ってカーテンを閉めた。
好きだとはっきり気付いて、その前からもう失恋していたなんて。なんとも言えない感じを私は眠る間際まで考えていた。
あれからピアノはいっときの間、弾きに行かなかった。そんな気分にもなれないし、1度行ってみたものの指が思うように動かずやる気が削がれた。もうまともに弾いていない。そろそろ練習を再開しなければ指が音を忘れてしまう。そう思って放課後、体育館に向かった。
重い扉を引いて中に入ると足から床の冷たさが伝わってきた。そろそろ秋が来る。ドームの中が少しひんやりとした空気に包まれ、手に触れたピアノの鍵盤はどれも冷え切っていた。
ピアノの前に座っておよそ1時間半が過ぎた頃、日が暮れかけて中は薄暗くなってきた。私はふと鍵盤に先ほどまでの曲とは違う、あの曲を弾き始めた。そう、健の為に用意してきた曲。もう何度練習し弾いてきたか。指はもはや楽譜を見ずとも音を鳴らすことができる。ゆっくりとしたリズムで始まり、音を次々と重ねていく。徐々にサビに近づいて行った時、止まらない涙が鍵盤に滴り落ちて指先が塗れて、滑るかのように鍵盤から落ちた。曲は最後まで行かない内に私は目を覆い、泣き声だけがドームに反響した。
「先輩…?」
ばっと勢い良く振り向くと、出入り口の扉に立つ健がいた。放心したまま微動だにしない私の涙は流れることをやめた。
「なんで健、いるの…」
「え、何? 朔先輩こそ何泣いてんすか? しかもこんな時間まで」
「何しに来たの。急に。」
少し棘のある言い方になっているが、感情は止められない。
「だって俺も仲間じゃないっすか。 今までだってたまに来る感じだったのに、何急にそんな態度なわけ?」
「あのさ、もう関係ないんじゃない? 」
「どういう意味かわからないんですけど。 はっきり言ってくださいよ。」
はーっと思いっきりため息を吐いたあと、席を立ち壇上から飛び降りた。健の目の前まで来て足を止める。
「だから、もう来なくていいって言ってんの」
健はそれまで少し歪ませていた顔を、一瞬で怒りに変えた。
「意味わかんねー! は、何でそんなこと急に言い始めるんだよ! 勝手だろーが。 俺がここに来たいから来たんだよ、悪いかよ!」
つられて私もぶつけてやった。
「しょうがないでしょ! あんたはどういうつもりで来てんのか知らないけど、急に来なくなったのはそっちじゃん! 理由聞いてみれば、彼女が出来たから? ふざけんな!」
「…は?」
私の言った言葉が理解できなかったのか、急に口を閉じて驚いている健に苛立ちが更に増す。
「何、もう一回言おうか? 彼女とホテル街行ったんだってね。 どう、これでもわからない?」
「だから何の話だよ。 俺、彼女なんていねぇし」
「は? しらばっくれんじゃないわよ。 ああ、そう別れたのね。 ふーん。」
「だからちげぇって。 何言ってんだよ。 しかももしそうだとしても関係ないじゃん、先輩には」
「何それ、やっぱそうなんじゃん。 関係ないわけないじゃん! 私はあんたのこ……」
その瞬間、我に返った自分が何を言おうとしたのか気付いて慌てて口を塞ぐ。
「は、何? 俺が何だって?」
しかし私は何も言えない。 いらいらし始めた健が一歩踏み出した。
「あんたの話は全部勘違いなんじゃねぇの? 俺は彼女いないし、好きな人はいるけど、その人とは何にもないし。 俺が来れなかったのはお袋が入院したから忙しくてって理由だし」
「え……」
思わず閉じていた口からこぼれた。塞いでいた手は力が抜けて体の横に垂れる。
また更に一歩と距離を詰めて来た健。私との距離はもう1mを切っていた。
「ちょっと近いんだけど」
それが精一杯で、先ほどまで怒鳴り散らしていた自分の恥ずかしさのあまり足に力が入らず動けなくなってしまっていた。
「ちょっと黙ってて」
そう言われて近づいた顔はもう距離がなくなった。おでこに触れた健の唇。
私は驚きのあまり腰を抜かして、真っ赤に顔を染めたままその場にへたり込んだ。それを見た健は声を出して笑い始めた。
「あー、すっきりした。 ほんとびびったし。 何言い始めたのかと思ったら、先輩も俺のこと気になってたんすね。 あー、ほんと可笑しい」
上を見上げるように健の顔だけに視線を向けて何も喋れずに、ただただぼーっとする頭で彼を見上げていた。
「先輩、口開いてる」
そう言って同じ目線にしゃがんだ健はそっと手を私の頭の後ろに回し、そのまま体を引きつけた。
「何だ、俺だけじゃなかったんだ。 好きなの」
私は力の入らない手足をそのまま床につけたまま、上半身だけ健に預けていた。
「でもいつから先輩、俺のこと好きになってたんすか? そろそろ何か言ってくれないと、俺完全に独り言になってるっすよ」
「あ…いや…それは」
「ほら早く」
「わからないけど、多分ピアノ褒めてくれたとき…」
「え、そんな前から?」
「でも意識してなかったし、気付いたのは最近で…。 健が来ないから気になって、人に聞いたら彼女が出来たとかっていう話で…そのとき、嫌だなって思ったのが気付くきっかけだった」
「えー、でもそんな噂立つなんて心外だわー。 先輩も何で信じたんですか? あんなに今まで話したのに」
「ごめん…カッとなってたのかも」
「ま、全部誤解だから良いけど。 にしても先輩、なんでさっき泣いてたんすか?」
「言わない」
「えー、何で。 言っちゃいましょ、この際」
「やだ、絶対言わない」
頑なに拒むのは健を思って泣いた自分が悔しいから。雰囲気に流されただけ。そう言い訳をして、口には出さずにおいた。
「ね、朔先輩。 俺、先輩のことが好きです。 俺と付き合ってくれませんか。」
目を見て話してくる健に、私は少し戸惑った。どうしても、健のとなりに自分がいる図が思い浮かばない。健に対して自分があまりに恥ずかしい存在だから。
「ね、先輩、付き合おうよ」
「……無理って言ったら?」
「だとしても諦めないけど」
「なんで私なのかだけ聞かせて。 それ聞いたらちゃんと答えるから。」
「ったく、しょうがないっすね。かっこいいなって思ったのが始め。 ピアノ弾いてる姿がいいなって思って、印象に残ってた。 それから思い出すたびに好きだなって思った。 でも話してみると気さくで一緒にいても疲れないし、イメージと違って驚いた。 それでまた好きになった。 以上」
なんだか自分で聞いておいて、たまらなく恥ずかしい。健が話している途中、自分でもわかるほど顔に熱が集中していった。そしてもう逃げられないなと思った。
「私も健が好き」
「だったら、付き合おう」
「うん」
その返事をした後すぐに、健はさっきまでとは比べものにならないくらい力を込めて抱きしめてきた。私もようやく力を取り戻した腕で健を抱きしめ返した。
「今日はこんくらいにしとかねぇと、何するかわかんねぇ。」
「何、一丁前に言ってんの?」
私は自分が可笑しくてたまらなくて、嬉し涙で健の肩を濡らしながら笑った。
健はそのあとはピアノを聞きたいとせがんだが、私は今度と言って断った。そして今日はそのまま手をつないで帰宅した。
次の日、健は学校に来ていて、噂が全くの嘘だということが判明した沢辺さんが謝ってきた。私は噂は所詮噂だと、自分のことを棚に上げて沢辺さんをなだめた。
放課後、先に体育館に来ていた私。もうすっかり秋になり肌寒い。口から吐く息は薄っすら白く、指先も少し冷えてきた。練習を重ねる内に調子を取り戻した私は、再び健の為の曲を練習し直していた。もうそろそろ形として仕上がる。早く聴かせたい気持ちと、もう少し驚かせるのを待ってみようという好奇心が相反し、いつ健が現れてもいいようにピアノを弾き続けた。
そして音が響く。それはピアノの音ではなく、体育館全体に反響する重低音。入口の扉は半分開かれ、中に入って来た彼に微笑む。ようやく姿を見せた健に私はピアノを弾いた。
何も言わずに弾き終わるまで壇上を見上げ続けた健は終わった後、一呼吸おいて盛大に拍手を送ってくれた。
曲名は、幻想ポロネーズ。
健の言葉が私にとってどれだけ影響を与えたか、夢のようだったという思いを込めて。
そして今日もピアノで曲を奏でる。もう一人ではなく、健が共にいる。
体育館に佇む一台のグランドピアノはまた音を紡ぐのだった。
過去作
書き始めたばかりの作品。
少し気恥しい作品の作りで、甘いなと思いますね、振り返ってみると。