物になった私
最後まで読んでから、見出しの『描く』の読み方を考えてみてください。
かく、えがく、どちらでしょうか。
手紙を描く
私が彼の持ち物になったのは、事故から目が覚めた時だ。私の乗っていた車と、大型トラックの正面衝突。もちろん私はぺちゃんこだ。
けど意識が戻った今は、こうして彼の家にある『物』になったというわけ。
私が事故で死んでから、彼はひどく落ち込んだらしく、最初の三日間なんて石膏像みたいに動かなくって、ただじっと虚空を見つめるばかりだった。
けど次第に彼も立ち直って、顔にもちらほら笑顔が見れるようになった。
彼は美術家。まだ名の知れない絵描き。そんな彼の『物』になって3ヶ月。私はこんな形でも幸せだった。
あるときはキャンバスになって、あるときは木炭になって、そんな風に意識すれば、彼の持ち物にだけ意識を移せる。
こうして私は彼が死ぬまで一緒に入る予定だった。
でもやっぱり人生はうまく進んでくれない。まぁ、もう終わってるんだけどね。
ある日、彼が外出先から帰ってくると、その隣には女性がいた。顔は整っていて、私よりぱっちりした目がとても綺麗で、スタイルもいいし、声もかわいいし、気がきくし、全てにおいて私は負けていた。
この人が私の代わりなら申し分ないなって上から目線なことを考えた。
彼女は本当にいい人だった。頭がいいのかわからないけど、彼の悩みや壁に対して、これでもかというほどベストなアンサーを与えられる。彼がそれを望まないときは、ただ彼のそばに寄り添って二人で悩む。そうして2人は自然な流れで幸せになっていった。
取り残されたのは私だけ。彼の『物』になって嬉しかったけど、今は、なってしまったという後悔の方が大きい。
だから私は彼の木炭に意識を移して、そのまま木炭と一緒に消えてしまおうと考えた。おそらくそれが私の成仏できる唯一の道だろうから。けどいつも無くなる寸前で、キャンバスに意識を移してしまう。やっぱり怖いんだ私。自分がいなくなっちゃうのが。
そんな中でも彼はどんどん幸せになっていった。
彼女のお腹も大きくなった。
彼の名前も世の中に知られていった。
描いた絵に値が付いた。
彼も彼女も幸せになった。
それと反比例するように私は不幸になった。けどその一方で彼が幸せになるのは、嬉しい。それでプラマイ0になって、嬉しいのか苦しいのかわからなくなって、考えが膨らんで膨らんで、私は一体何なのか分からなくなった。
“そのとき、彼が木炭の私を手に取った”
彼は大きめのキャンバスに文字を書き始める。
『大好きだった君へ』
『今から描く絵は、君との時間を忘れないために描く、特別な絵だ。文字から書き始めるから手紙といってもいいだろう。まず僕は、君に感謝したい。僕を幸せにしてくれてありがとう。君との時間は何から何まで、パズルのようにぴったり当てはまって、生まれてきたことに感謝するほど幸せだった。大袈裟な表現と言われるかもしれないが、それほどでもない。足りないくらいだ。僕にとって命より大切な君は、急にこの世界から消えてしまった。そして次に僕の目の前に現れたのが、彼女だった。彼女を見ているといつも君を思い出すんだ。笑った時、泣いた時、喜怒哀楽、幸せを重ねるごとに君が生き返ったように感じた。彼女には悪いが、僕の心の中にはいつも君がいる。今もそうだ。僕は君の面影を追って生きているんだよ。馬鹿だと思うだろう。実際に僕は馬鹿なんだ。仕方がない。今になってこんなことを書いて、君に届くとは思っていない。だから、君が来世で生まれたとき、この絵がこの世に留まって、いつか君の目に止まればいいなと願っている。それではまた会おう。僕の愛した人よ』
そう描き終えたとこで、木炭は消えた。彼の足元には小さな水滴がポツリと垂れていた。彼はそれには気づかないまま、綺麗なキャンバスに白を塗って、その上から新しい絵を描き始めた。
物になった私
彼女に足りなかったのは、なんだったのか。
分かりましたか?