月と子羊(Napier)

 昔々、異国のとあるのどかな牧場に100匹の子羊がおりました。そのうちの1匹は最近になってその牧場で飼い始められたものです。まだ小さいながら丸々と太って可愛らしく、そこへ来る前には遠くの牧場でお母さんや兄弟姉妹たちに愛され、みんなで一緒に仲睦まじくのびのびと生活しておりました。子羊はお母さんのことが大好きでした。それなのにどうして家族と離れてたった1匹で新しい牧場に来ることになったのかというと、胸を病んでいた飼い主のおじいさんがとうとう帰らぬ人となったからです。それで、おじいさんの家族は家族の方で別の家業を営んでおりましたので、おじいさんに飼われていた羊たちは飼い主を失い、みんな競りにかけられることになったのでした。おじいさんは羊から得られる羊毛を商売の道具に利用していましたので、そこでの羊たちの務めは時々こんもりした体中の毛を丸刈りにされるくらいなもので、彼らは家族揃って大変平和に暮らすことができました。しかし、さてみなが散り散りに売られていった先々では、いかなる運命が彼らを待ち受けていることでしょう。家族のうちあるものは客人をもてなすためのメイン・ディッシュとして丸焼きにされてしまうかもしれません。またあるものは期待と不安を胸に新たな家に連れられてゆくやいなや横倒しにされ、首を切り落とされてしまうかもしれない。実際にこういう羊たちがいるのです。どんなに恐ろしいことが彼らを待っていることか見当もつきません。

 羊でも親となる年齢になると実はその辺の事情は大方心得ています。彼らは人間たちが裏で何をしているのかすべて知っているのです。いや、正確には知識としてはやはり彼らは何も知りません。それはそうです。けれども不穏な空気をその肌でちゃんと感じ取ることができるのです。それも人間の大人たちよりもずっと鋭敏に、と言えるかもしれません。子羊たちでさえ、少なくとも人間が想像しているよりは、もっとずっと多くのことを知っています。だから羊たちがじっと沈黙して、人間の様子を窺っていることがあるとしたら、その沈黙は無知のためではなく、あるいはその虐げられた悲しみの深さのためかもしれません。

 このように、知ることはときに苦痛を伴います。知らぬ方が良いことは世の中にたくさんあるのです。あることを知ってしまったがためにその人の住み慣れていたはずの世界ががらがらと音を立てて崩れ落ちてしまう。昨日までの自分が、どのような表情をして、どのように振舞っていたのか、分からなくなるほど、自分というものを途方もなく見失ってしまう。そんなことがあるものです。例の子羊はまだ幼い子供であったがために、家族を失ってはるばる売られてきた事実から、それほど大きな動揺を受けずに済みました。これから何が起こりうるか、という悲劇の予感みたいなものは、子羊の傍らを静かに通りすぎてゆきました。もしも子羊が家族に何が起こりつつあるのかということを察してしまったならば、たとえ自分の身体が安全に守られようとも、彼はその時点できっと心のある部分を固く閉ざしてしまっていたことでしょう。心を閉ざすということ、それは過酷な現実についてそれ以上にもう何も知りたくないと望む心の安全装置です。心が異常なのではありません。異常な現実に対して、安全装置が働くのは、むしろ心が正常であるからです。

 子羊の心のなかにもそんな安全装置がたしかにありました。子羊が新しい飼い主に連れられて100匹目の子羊になるべく牧場に来た最初の晩に、こんなことがあったのです。きらきらと夜露に濡れた青葉が茂る牧場の柵の中で、99匹の子羊たちが輪になって並んでいます。その光景は、異様であるというより、壮麗でさえあり、意味するものは、ひとつの秩序そのものでした。彼らは互いにみな家族か親戚かであり、毎晩こうして休息をとっているらしいのです。なにも新入りを手荒く迎えるためにあえて意地悪をしたわけではない。新しい飼い主も、きっと子羊がこの輪のなかに溶け込めるだろうと考えていたのでしょう。

 いくらか土質が硬く、強く根が張った草地をかきわけ、不安でいっぱいの子羊が柵の中におずおずと足を踏み入れてゆきます。すると、輪を成した羊たちが一斉にその足音のする方に振り返り、そしてその足音の主である彼をじっと見つめるのでした。この光景は子羊の脳内の奥深くに刻み込まれて、その後もたびたび夢のなかで甦っては、死ぬまで彼を苦しめることになります。なぜその光景はそれほどまでに子羊の心を傷付けたのか?なぜなら、そのとき彼はきっと、いわば警察の目を借りて、容疑者として疑われている自分自身の姿を見てしまったからなのです。そしてそのときの彼の心は本物の犯罪者となったみたいなのでした。
一体こいつは何ものなのか?
何をしにここに来たのか?
危ない奴なんじゃないのか?
子羊は思わず鳴き出しそうになりましたが、なんとかこらえると、柵の隅っこの方で、99匹に背を向けるように、その夜を過ごしました。好奇の視線に晒されながら一晩を明かすと、次の朝にはまるで視線によってべっとりと体中汚れているような感覚が皮膚に染み付いているのでした。

 その後も、子羊がその輪の中に入ることは一度もありませんでした。柵の中では、99匹の秩序と、1匹の秩序とが互いにぶつかり合わぬように、距離を置いて共存しておりました。子羊は輪の中に入ろうと思わなかったし、入れるとも思いませんでした。99匹の方でもやはりそうです。彼を輪の中に入れようとも思わなかったし、入れられるとも思いませんでした。子羊はそれでも昼間の明るいうちは寂しくも悲しくもなりませんでした。彼の感情は無でありました。しかし夜になるとどうしようもない恋しさが募るものです。彼が前の牧場にいた頃には、お母さんが毎晩彼のところへやって来ては、お母さんのぬくもりを感じながら、彼はその傍で眠るのでした。
「お母さんは今頃どこにいるのだろう?」
そんなことを考えながら毎晩月が高くのぼっているのを見上げるのです。次第に月だけが彼の唯一の友達になりました。彼は新しくできた友達に話しかけます。
「君もひとりぼっちなの?」
「君はひとりぼっちで寂しくないの?」
月は黙っていましたが、彼の話を熱心に聞いてくれるようでした。

 そんなある晩、羊飼いは柵の扉を閉め忘れました。けれど99匹の子羊たちのなかにそこから逃げ出そうとするものはおりません。それに興味も持たないようです。まわりの誰も外に出ようとするものがないからです。誰も外に出たことがないからです。だから外が怖いのです。しかし新入りの子羊はただひとり月だけを友とし、外の世界に憧れていましたから、月に誘われるように、群れをはぐれて、柵の外へとさまよい出てゆきました。扉が開いていることを彼が見つけたのは偶然でしたが、風に揺られてかすかにきしむ扉の音を彼は聞き逃さなかったのでした。青白く月に照らされた草原の丘を越え、林を通り過ぎ、どこまでもとことこと歩いてゆく。月のある方へ、明るい方へ、歩いてゆく。

 どれだけ歩いたことでしょう、やがて海辺にまで辿り着きました。その牧場は海のほど近くにあったのです。そのようなことは99匹の子羊たちがけっして関知しえないことでした。海岸の砂を踏む音がしゃりしゃりと反響し、むっとするような潮のにおいが鼻を刺します。そして広大な海が見えてきました。海面は月の光をいっぱい吸い込んで真っ白であり、それはまるでこの世のものではない夢の世界のように幻想的でした。子羊はゆっくりと波打ち際まで来て、そこで諦めたように足を止めます。
「どこまでゆけば、君にあえるのだろう?」」
子羊はふと我に返ると、こんなにも長い道程をはじめて歩いた疲れもあり、暗く孤独な行路がむやみに悲しくなってきて、そのままめえめえ鳴きだしてしまいました。

 さざ波が寄せては返す海岸の、夜更けの空に、子羊の泣き声だけが遠く響き渡っていました。どれだけ泣いたことでしょう、突然、子羊の耳にはどこからか懐かしい声が聞こえてきます。耳を凝らすと、それはたしかにお母さんの声で、月の方から聞こえてくるようでした。子羊が空を見上げると、月は明るくにっこりと微笑んでいます。お母さんの笑顔のようだと子羊が思った、その瞬間、彼はただ独りでまっすぐに月と向き合い、夜空にぱっくりと開いた穴みたいなその輝きのなかに引き寄せられるような感覚を覚えました。今までもずっと月を眺めてきましたが、その晩の月はいつもとは様子が異なるようでした。それに、月以外のものは、初めから何も存在しなかったかのように、そしてこれからも何も存在しないかのように、ことごとく消え果ててしまい、世界には月と子羊だけがただそこに対峙しているのでした。それは夢のような出来事で、そしてなぜだか分からないけれど涙が出てくるような素敵な経験なのでした。
「お母さんは君のところにいるんだね?」
こう尋ねた子羊には根拠はないけれど確信のようなものがありました。それを受けて月は頷くように金色の輝きをまばゆいばかりに増してゆき、闇はその光の渦のなかにゆっくりと吸い込まれてゆきました。光は闇の中に輝き、闇がこの光に打ち勝つことはありませんでした。子羊はその壮大な風景を眺めながら、光のなかにいるであろうお母さんに思いを馳せます。
「僕を君のところへ連れていって」
そして子羊が月に向かって心でこう願うと、月からは色とりどりの鮮やかな光が泉のようにどっと溢れてきて、子羊の体を丸ごと飲み込んでゆきました。

 子羊は光に飲み込まれながらはっとして思い出したことがあります。それはお母さんから産まれてくる前のかすかな記憶です。温かくて気持ちの良い世界から、冷たく恐ろしい世界に産み落とされた淡い記憶。こんな重大なことをどうして今まで忘れていたのだろう。それを思い出してみると、生まれてからお母さんと過ごせた時間はたしかに幸福だったけれど、生まれる前の方がもっと幸福だったような気がしてくるのでした。
「僕は生まれてこない方が良かったのかなぁ…」
それは子羊が生というものに対してはじめて抱いた感慨であり、溜め息のようなものでしたが、嘘偽りのない心象を率直に吐露していました。そして子羊にはある疑問が芽生えてきました。
「お母さんからうまれる前には、僕はいったいどこにいたのだろう…?」
子羊は考えます。そして次第に薄れてゆく意識のなかで、きっと月にいたのに違いないと思い至るのでした。きっとそうであるのに違いありません。なぜならお母さんがたしかにさっき、月から彼を呼んでいたのですから。
「僕もお母さんも、みんな生まれる前にはきっと君のところにいたんだろうね…?そして僕たちはみんないつか君のところへ帰ってゆく…」
その時点で彼は、お母さんがもうこの地上にはいないことをぼんやりと了解していたのです。子羊はこうしてやっとお母さんにあえる喜びに満たされて、光の世界へと帰ってゆくのでした。

子羊がその世界で家族と平和に暮らしていることを、私たちはただただ祈るばかりです。

月と子羊(Napier)

月と子羊(Napier)

2015-05-07「春 or 月」

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-05-09

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