ハムスター

「あの婆さん、まだ生きているのかい」
 西山は家族にわざとらしく聞いた。長生きしているのは図々しい証拠と言わぬばかりである。三沢きみ子とは少なからず縁がある。彼は三十代の半ばに十二指腸潰瘍を患ってS中央病院に入院した。症状は重篤で、下血して白血球が三分の一近く減った。診察した直後、ただちに二階の病室に担架で運ばれた。
「体が痩せている割には重いなあ」
 男の職員がぼやいた。点滴や輸血の準備をするため、二、三人の看護師が出入りした。看護師の一人がベッドに仰臥している西山を真上から見つめて、
「私、あなたと同じ団地に住んでいるのよ」
 ニーッと笑った。唇を真っ赤に塗っていて、コケテッシュな老娼婦を思わせた。その女が三沢きみ子である。
「顔色、悪いわね。真っ白よ」
「病気だから、仕方ないよ」
 受け応えをしているうちにいきなり、
「郷里はどこ?」
「何で、そんなことを聞くの」
「地方の訛があるからよ」
「今、そんなことを聞いている場合じゃないよ」
 つっけんどんに答えた。これで黙るだろうと思っていたら、しばらしてまた近寄ってきた。
「ずいぶん髭が伸びているわねえ。若い看護師さんに嫌われるよ。奥さんが来たら剃ってもらいなさい」
「私は死ぬかもしれないのに、髭がどうしたと言うんだ」
「あらあら、大変ね」
 三沢はからかうような口調だ。
「あんた、それでもプロなのかね」
「私は十八の時、この世界に入って、四十年働いているのよ」
「それにしても、患者の扱い方を知らないね」
「看護師って、こんなものよ」
 あの夜は徹夜で輸血してろくすっぽ眠れなかった。今までこんなひどい病気をしたことはない。風邪をこじらせて肺炎になり、肺炎の影が消えたら胃腸のほうに飛び火した。風呂に入ったり、髭を剃ったりする余裕もなく、家で寝ていた。カメラマンをしているのだが、いくつかの注文をキャンセルした。生活の不安に怯えながら一ヵ月間の病院暮らしをした。
 休養のためにはよかったが、生活は逼迫したので妻も働いた。
 退院したての頃、住まいの周辺で三沢と行き合うと、挨拶を交わしたが、早々と向こうがそっぽを向くようになった。
「あの女、どうも気に入らないな」
「でも、悪い人じゃないわ」
「俺は好かん」

「お父さん、たまにはピンキーを抱いてあげて。可愛いよ」
 小一の順子に勧められるのだが、いつも断った。ピンキーというのはハムスターの愛称である。西山はネズミの仲間の小便臭い動物など触りたくもなかった。ピンキーは時折、逃げ出して家の中を徘徊することがあった。深夜に西山の部屋に忍び込んでくるのだが、熟睡中にもかかわらず目が覚めてしまう。日頃から嫌っているせいか、些細な物音にも反応するのだろう。気がついた時はいつもゾッとした。
 この厄介なケモノと同居しなければならないと思うと、三沢きみ子を恨まずにはいられなかった。彼女が家に届けに来たのは次のような経緯がある。順子と友達は夏休みに団地の周辺をジョギングするようになった。走っているうちに、きみ子の夫の三沢友二と話すことがあった。ある日、友二がハムスターの子が生まれたから、一匹ずつあげてもいいと言った。
「ほしい」
 友達はすぐに返事をしたが、順子は親と相談してからと答えた。西山は承諾しかねた。犬猫もさることながら家で動物を飼うのは好きではない。けれど順子はぜひ飼いたいと主張するし、妻もどっちかと言うと、子供の側である。結論はなかなか出なかった。
 ところがある日、帰宅するとハムスターの子がケージの中を動き回っていた。
「あれ、どうしたんだ」
「三沢さんの奥さんに無理やり受け取らされたの」
「強く断ればよかったんだ」
「わざわざ持ってきたんだから、と押しつけてくるの。こちらの都合などお構いなしよ」
「嫌な女だな」
 西山は渋い顔をした。順子が大喜びするのを見ていたら、妥協するしかなかった。そんなわけでピンキーは家族の一員になった。すっかり西山家に慣れた頃、妻は買物の帰りにきみ子と行き合った。
「ハムスターは元気ですか」と聞かれた。
「ええ、何とか」
「旦那さんは嫌いだとか」
「そうなんです」
「でも、面白い方ですよね」
「さあ、どうかしらん」
「ユニークですよ」
「いえ、普通の人です」
 路上でこんな会話を交わした。面白いだのユニークだのと言うのは変わり者の異名である。西山はその話を聞くときみ子をいっそう嫌悪した。
 順子は毎日餌をやり、可愛がった。
 西山はどうしても好きになれなかった。
 しかし順子に気の毒だが、ハムスターは半年後に死骸で横たわっていた。彼女は涙を流して泣いた。こんなことで泣けるのが不思議だった。

 あれから長い年月が過ぎた。三沢きみ子は夫と老後を仲むつまじく過ごしている。髪の毛は赤茶けて白髪が増えたが、いつ見ても丈夫そうである。そのうち夫が他界した。次はきみ子の番である。
「そろそろあの世に行くよ」西山はよく口にした。
「そんなこと、言うもんじゃないわ」
「邪魔者は消えてくれたほうがいいんだ」
 さらにもっと月日が経った。きみ子は八十代の後半になったがしぶとく生きている。
「いくらなんでも、もうすぐだろう」
 毒づいて間もなくである。西山は体調を崩して救急車で病院に運ばれた。六十八歳の時である。脳内出血で、不運にも一週間後に亡くなってしまった。
「俺は悔しい」
 死の直前に呟いた言葉である。写真家として大成しなかった。
 三沢きみ子は現在九十二歳になるが、淡々とした日々を過ごしている。

ハムスター

ハムスター

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-05-08

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