しりとり、りんご、ごりら

結婚、という単語がどうもしっくりこなかった。わたしにも彼にも生活感というものがなかったから。けれどわたしたちは結婚した。

世間的には、いっぱしの夫婦となったのだ。



しかし一緒に生活をしてみてわたしは、いや、わたしたちは実感した。
とかく、結婚生活は面倒臭い。

毎食コンビニ弁当で済ますわけにはいかない、どちらかが洗ってくれるだろうと脱衣場に脱ぎ捨てられた服が溜まっていく。
一人暮らしの頃は洗濯物を一週間放置してもなんとかなっていたものだけれど、二人となるとそうはいかない。
そもそも彼は三日で服がなくなり、四日目に三日目の服を着て行きかねない。そうなれば妻のわたしが職場で白い目をされるのだ。
なにしろわたしと彼はいわゆる職場婚というやつなのだから。

わたしだって二日目の服を着て悪臭を漂わせている旦那と一緒に仕事をしたくはない。彼がもう少し気にしてくれればいいけれど、わたしに輪をかけて頓着がないので言っても聞く耳を持たない。

そこで、平日はわたしが休日は彼が洗濯をするという決まりを作った。
すると、今まで生活の営みとして全く成り立っていなかったものがたちまち円滑に回り始めた。
家事が業務として規定されただけで解決するのだから、わたしも彼も相当な仕事人間なのだと思う。


そんな風にして結婚生活の障害弊害を地道に潰し、なんとかどうにかわたしたちはスピード離婚を免れた。

たぶん。


「だから言ったよね?明日は友達と休み取れたから嵐山行くって!」

わたしはついに声を張り上げた。それに対し、彼は彼で不満そうな顔をして呟く。

「でも明日は母さんの誕生日なんだって」

「聞いてないよ!なんでもっと早く言ってくれないの!」

わたしは彼を睨み付ける。
彼のお母さんは絵本に出てくるお母さんのように優しくて暖かい。わたしのことも実の娘のように可愛がってくれるから、実の母親よりも好きだと思えるくらいだ。
だからこそ湧き上がった怒りは収まりそうになかった。
誕生日に帰省してお祝いしてあげたいのはわたしだって一緒だ。

「だからさあ…」

彼はここで言葉を止めて唇を舐めた。少し低い鼻をこすった。それでも飽きたらず頭を掻き毟った。
どれもこれも、言いたいことを言わない時の癖。

「言いたいことあるなら言いなよ、さっきから、でもとかだからさあとかばっかり」

「だから…」

「だから何!」

わたしは足を踏み鳴らした。昔からわたしは足癖が悪い。

彼はやはり鼻をこすって息をついた。その息の音を聞いたって、彼が今考えていることなんて分からない。
彼が帰省したいということをもっと早く、わたしがチケットを取る前に言ってくれれば友達とは別の日で調整出来たし、そもそもお義母さんのプレゼントだって準備出来たのだ。
仮に旅行をキャンセルしたとしても、こんな二十二時を回った夜中にどこで何が買えるというのだろう。
黙っている彼を見ながら、彼の為に買ったクマ柄の座椅子を蹴り飛ばす。苛々は積もっていく。

「…買い物、行こう」

ようやく出た彼の言葉に激昂しかけたけれど、彼の言う「買い物」の意味が違うことに気づいて慌てて口を噤む。これも、わたしと彼の決まりの一つ。
まだまだ色々と言いたいことがある気がしたけれど、深呼吸をして彼に答えた。

「…わかった」

 彼はわたしの返事を聞くと勢いよく立ち上がり、立っているわたしの横をすり抜けて上着を羽織った。
いつもの白いパーカー。
わたしはそのよれよれの背中について部屋を出て、玄関に鍵をかけた。

こんな時だけわたしに背を向けて歩く彼が、わたしとどう話そうか考えていることはなんとなくわかる。
簡単に謝るつもりもないのだということも。
だから彼はわたしを誘った。


着いたのは近所のコンビニ。
彼と二人、無言で並んでビールを買った。
大奮発掛け値なしのビールを、一本ずつ。それから好物のちーたらを三袋。わたしが無造作にカゴに突っ込んだ。

そうして暗黙の了解で買い物が終了すると、来たときと同じように彼が前、わたしが彼のうしろを二、三歩離れて歩き出した。

喧嘩をしたらビール一本とちーたらで決着をつける。

これが彼との決まりごとの一つで、彼が勝手にオーディオを買ったときの喧嘩で決めたことだった。
元々お酒に強くない二人の口をアルコールで軽くし、好物でおだてるという作戦だ。事実、彼を許す代わりに彼のボーナスはわたしの一眼レフを買うことで決着がついた。
その一眼レフが明日、大活躍するはずだったのに。

相変わらず前を歩く彼に微妙な距離を保って歩いていると、少し風が吹いただけで物寂しくなる。
今まで気付かなかったけれど、もう外は随分冷え込んでいるのだった。昔はこの秋の冷え込みが嫌いじゃなかった。少し身震いするくらいが気持ちよく、寒さが身に染みると安心して、秋になるとわけもなく外を出歩いたりしていた。
でも今は物寂しいなんて思っちゃっているのだ。わたしも絆されたもんだと思ったけれど、やっぱり嫌ではないからわたしが成長したってことにする。
それに、責任は取ってもらうつもりでいるのだ、一生。

「………しりとり」

ぽつり、と、前で彼が零した。

「え?」

突然の言葉の意味を計りかねて聞き返したわたしに、今度は体を斜め後ろに、立ち止まってはっきりと言ってくる。

「しりとり」

街灯に照らされて、初めて彼の顔を見る。目を白黒させながらすっかり赤くなった顔から察するに、どうやら最初の言葉は無意識のうちに出てしまったものらしい。
失敗を取り繕おうとする時はいつもこの顔をする。

「だから、何?」

思わず頬が緩んでしまいそうになったのをこらえてもう一度訊いた。
彼は再び歩き出すと、意地っぽくまた「しりとり」と言った。
これは駄目だと思った瞬間、ふとした既視感に襲われた。わたしたちが付き合い始めて少しした頃の帰り道だ。

理由はもうはっきりとは覚えていないけれど、喧嘩をしていた。恐らくとっても些細なことだったのに、どちらも意地を張ってしまって謝ろうにも謝れなくなってしまったのだ。
この人はなんて意地っ張りなんだと思ったけれどわたしも充分相当意地っ張りだったに違いない。その時も彼が急にしりとりをしようなんて言い出したのだった。
あまりに素っ頓狂な提案にいよいよ付き合うのを止めてしまおうとまで思ったけれど、仕方なくやってみたら、驚かされて可笑しくて嬉しくなった。

勢いで抱きついてしまったのは、まあ、若気の至りというやつだ。

「りんご」

わたしは彼の隣に並んで応えた。
ちなみにわたしは常々しりとりは『しりとりりんごごりら』で始めてしまうべきではないかと思っている。
それはまるで緑黄赤で並ぶ信号機と同じように、『しりとりりんごごりら』の順を乱す人にこれまで出会ったことがないからだ。あるいはジャンケンで足並みを揃えるため『最初はグー』と言うように。
近頃は『最初はパー』と言って勝ってしまおうという冗談もあるけれど。とても逸れた。

「ごりら」

『最初はパー』とは決して言わない彼が、やはり例に漏れず続けた。

「らいむぎ」

この辺りはまだ『らっぱ』だの『らっこ』だので済ますのが常套手段ではあるけれど、何しろわたしは『最初はチョキ』で勝ったことのある猛者だ。
いつまでも大人しいわけがない。

「…きんこ」

多少、不意をつかれた彼は少し考える間を空けて答えた。

「こくご」

わたしは極めて冷静に言葉を選んだ。
次の言葉を期待しつつ。

「ごま」

「………」

不意をつかれたのはわたしの方だった。
しかし、偶然かもしれないと思い直して答える。

「まんごー」

「ごご」

もしかして。
ここまできて嫌な予感がしてくる。

「ごみ」

答えた後で、彼の答えを駄目押しとばかりに待った。

「みつご」

「…………」

どうやら予感は的中のようだった。こいつ、はじめからわたしに謝らせるつもりだ。

あの時、これは意地っ張りな彼の精一杯の謝罪作戦だった。
言えない『ごめん』を言うための。
わたしが何の気なしに言った『アミーゴ』を待ち構えていたように息を呑んで、一瞬で吐いた言葉。
それを今、わたしに使わせようとしている。

「ごいし」

彼の意図を即座に却下してやるつもりで即答した。
わたしに謝らせるために『ご』終わりにしなければならない彼は、じっくり三歩進んで考える。

「…しかご」

「ごーる」

今度は五歩の沈黙。『る』はただでさえ難しいと相場が決まっているのだ。

「るす」

「………」

少し、彼が諦めたかと思ったがすぐに考え直す。
まさかとは思う、思うけれどわたしに、「すみません」と言わせようとしているのではないか。それがしりとり上、致し方なくても。
いいや、誰が言うか。いつわたしがあんたの部下になった。わたしは益々、彼の方から謝るまで耐える気になる。

「すてご」

結婚している女から出るセリフではなかったけれどこれは勝負だ。それでもちゃんと『ごめん』と言わせてあげようとは思っている。
よし、わたし優しい。

「…ころんぶすのたまご」

はあ?それ有りか?と、口に出してしまいそうなのをこらえて余計に足音を立てて歩くに留める。
そうでなくても、しりとりで極力ゆっくり歩いているのだから近所迷惑この上ないが、再びふつふつと沸き出した怒りの矛先は他に向けようがない。どうせ怒られるなら、こいつも一緒だ。
残った冷静でしりとりを続ける。

「こじせいご」

「心当たりない?」

「っ…」

また不意打ち。咄嗟に普通の返事をしてしまいそうになるけれど、彼が慎重にしりとりから脱しないように会話を持ち込んできたから普通に返す訳にはいかない。

「いや、ないけど」

動揺したことを悟られるのが悔しくてすぐにしりとりで返す。

「とっくに忘れてるんだと思うけどさ、去年の誕生日、祝ってくれたよな?」

「っ…?」

去年。
結婚直前で、最後の砦―うちの父親―を崩そうと躍起になっていた気がする。その頃はとにかくお義母さんが励ましてくれるのが有り難くて、何かお義母さんにしてあげられることはないか考えていた。

「…何かしたくて、わたし、お義父さんに誕生日を…」

言いかけて突然、彼がわたしの言葉を遮った。

「俺と母さんがどうして嬉しかったかわかる?」

いきなりそんなことを言われてもわからない。
サプライズだったこと?不器用でガサツなわたしが手作りで膝掛けを作ったこと?…なんか違う。なんでだろう。お義母さん、何て言ってたっけ?

すっかり黙り込んでしまったわたしのために彼が続けて言う。しりとりやっている場合じゃあない。

「俺、母さんの誕生日なんて教えてなくて、いつの間にか親父に聞いてお祝いしてくれたんだよ。こつこつ膝掛け作ってくれて、家事までやってくれてさ。だから母さん喜んだんだよ」

「………あ」

思い出した。
あの、笑顔。満開の桜みたいに大きくて暖かい笑顔。
わたしのバンソウコウの両手を、小さくて少し荒れた両手で握り占めてくれた体温。
忘れているのがおかしいくらい、今でも思い出せる。

「膝掛けも手伝いも嬉しかったし助かった。まだあの膝掛け大事にしてる」

暗い道で立ち止まったわたしを振り返る彼。わたしは俯いて、彼を見られない。

「でも、覚えていてくれたことが何より嬉しかったんだ。それって、プレゼントなんかより気持ちだろ?だから覚えてて欲しかったんだ、それだけなんだよ。だからさあ、俺、言いたく、なかったんだよ。きっと思い出してくれるだろうって思って、思ってたくて」

急にわたしはわたしが恥ずかしくなった。彼の声はとても静かで、尚更、謝れないイジメっ子みたいに恥ずかしくなった。

去年ちゃんと覚えていたのに、今年はずっと忘れていた。
前日になってとうとう言わなければならなかった彼は、とてもがっかりしていたのだ。言わなくてもわたしが思い出すのをずっと待っていたのだ。
わたしの旅行を聞いた彼は、ひどく驚いていなかったか。一体どんな気持ちで「わかった」と答えたのだろう。
それでもまだ期待していたはずだ。ある日わたしが思い出して「ごめん、旅行はキャンセルするから」と言うのを。
わたしは全くそれに気がつかなかった。挙げ句の果てにお義母さんの誕生日に予定を入れてしまったのを彼のせいにして。逆ギレのくせに堂々と怒鳴り散らして。

彼はそんなわたしの様子を見かねたのか、あたたかい溜息をついて言葉を付け加えて語りかけた。

「…謡子、」

そんな彼の優しい声に背中を押されて、わたしは『ご』で始まることばを続けた。

「…ごめん」

こんなのパートナー失格だ。
お義母さんの誕生日を忘れるなんて、あっちゃいけないことなんだ。彼と、そしてお義母さんにわたしは謝った。

「…いや、まあ、俺も意地になっちゃったんだよな。言えば謡子も予定キャンセルしてくれるのはわかってたし、プレゼントだって張り切って選んでくれるだろうし。だからこそっていうのかな、期待しすぎたっていうかこだわりすぎたっていうか…。でも最近忙しかったもんな」

彼は、気まずそうに歯を見せて微笑んだ。最後の言葉は明らかにわたしを慰めてくれようとしていた。
そして、くるりとまたわたしに背中を向けて、ぽつんと言った。

「言ってやるのも、優しさだよなあ」

そんなことはない。こうでもしないと、わたしのためにはならない。誕生日を祝うことは言われてするようなことじゃなく、わたしがわたしの気持ちをもってすることだ。
もしも言われていたら、あの去年の強い気持ちをなくしてしまっていただろう。わたしは何の痛みもないまま、また同じこと、同じようなことを繰り返して忘れてしまうだろう。大事なのは思い続けることだ。気持ちを忘れないことだ。
わたしはそれが出来ていなかった。

「…もう、言わせないよ」

わたしはやっとこれだけ言って、彼にほんの少しだけ体を寄せた。
もう、絶対、言わせない。

「うん」

見えないけれど、彼が少し笑ったように聞こえた。彼もまた、少し下がって体を寄せてくれた。

「ごめんな」

小さな声で呟くように言って、背中を軽く叩いてきた。同時にコンビニの袋も背中に当たって思い出す。

「ビール、要らなくなっちゃった」

わたしが言うと、彼も思い出して「ああ」と言ったけれど、すぐに明るく応えた。

「帰ってビール呑んで寝ちゃおう」

「風呂は?」

「朝でいいじゃん」

すぐ隣にいる彼がわたしを見て言った。

「そしたら一緒に、実家帰ろう」

だからわたしも彼を見て答えた。

「うん、わかった」

友達には、後でよく謝ってお詫びの品でも考えよう。今は、彼の言うまま眠ってしまいたかった。

そして一緒に、お義母さんに会いに行くんだ。




残りの夜道を、久しぶりに手を繋いで歩いた。冷たくなった互いの手が暖かくなっていく。無性に嬉しくて、わざとゆっくり歩いた。
なんとなく色々喋る気分でもなくて、二人の靴音や街灯の音を聴いていた。

「謡子、聴こえる?」

不意に問う彼。

「ん?」

「ピアノ。子供だな、すごいたどたどしいぞ」

小さな音だけれど近くでピアノの音がしている。笑った彼の顔を見ながらわたしも笑った。

「あー、そうだね。微笑ましい」

「可愛らしい」

わたしの口調を大袈裟に真似て彼が野太く言った。可愛い。
やっぱり、彼が好きだ、わたし。

「帰ったら、ビールじゃなくてなんかあったかいもの飲む?」

「ああ、良いね。俺、ココア飲みたい」

「了解」



始まったばかりの彼との生活は、たどたどしくてぎこちなくて、拙い。一緒に生きるって全然簡単じゃないのだ。こんなおぼつかない日常を繰り返して繰り返して、いつかそれが自然な日常になるのを辛抱強く待っているしかない。
わたしたちの一番自然な形を見つけるために今は、手探りの日常を積み重ねていく。

わたしは今日のこの日を忘れないために、見えてきた我が家と彼を新しい気持ちで見つめた。



(終)

しりとり、りんご、ごりら

2012年10月18日 他サイトにて公開作品

しりとり、りんご、ごりら

「結婚、という単語がどうもしっくりこなかった」―恋愛に縁もゆかりもシソもない作者の放つ、最初の、そしておそらく最後の“恋愛”小説。そう、恋愛小説なのです。

  • 小説
  • 短編
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-05-07

Copyrighted
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