おもてなし

 九月が半分を過ぎても東京は秋を迎える様子がなかった。まだ八月かと疑わせるほど残暑が続き、冷房が効いた電車内の空気に触れるだけで安らぎを覚える。ホームで地下鉄を待つ間に首元から流れ出た汗も少しずつ引いていく。冷静になった頭で今日の用事を思い起こそうとしたが、再び熱くなることを恐れて、なにも考えずに奥まで足を進めた。
 火曜日の昼間で乗客は少なく、簡単に座席を確保できた。僕が腰を下ろして鞄を膝に乗せると発車を告げるベルが響く。扉が閉まる音の後に床が揺れ、車窓の向こうの暗闇に何本もの平行線が横切っていく。それらの線は二分も経てば薄くなり、ドアが開くと同時に車内はわずかな熱風に煽られる。
 僕は左手を掲げて腕時計を眺めた。三年半前に大学卒業と就職のお祝いを兼ねた父からのプレゼント。「この時計にふさわしい人間になりなさい」と言葉を添えられたが、今になって重みを感じる。
「この品にふさわしい場所へ行くから」シャツの襟を正しながら心の中で言った。「それくらい大切な日だよ」
 いつの間にか頬は熱を帯びていた。目を閉じて涼しさを取り戻そうとする。次の駅へ向かおうと電車が動き出した途端、急に体が冷やされて、思わず笑ってしまった。扉を一瞥した後は車輪と冷房の音に耳を傾けた。もう大丈夫だろう。
 しばらく続く穏やかな時間。機械の轟音も暑さを忘れさせる点で不快にはならない。車両の揺れが眠気を誘い、たまに外気に晒されても受け流せていた。しかし、ぼやけた平行線を目で追うことに楽しみを見出していたので、意識は保ったままだ。表現できない不思議な気分を少しでも長く味わっていたかった。
「間もなく二子玉川、二子玉川」
 車掌が唐突に僕の目的地をマイクで告げると、景色は青に染められていく。電車が地上へ抜けたのだ。それまで描かれていた平行線は窓から消え、僕の遊びを奪う代わりに広大な空を映した。その下で住宅地が連なり、陽の光を反射した屋根が白い粒を散りばめる。
 感嘆の声を漏らしてしまった。数少ない乗客たちの視線がこちらに集中する。恥ずかしさで目を伏せ、身を屈め、僕は停車を待つ。
 数秒後、揺れが収まった。鞄を持ち上げ、振りきる意志でホームへ降り立つと、うだるような暑さが襲いかかってきた。喉に纏わりつくような熱気に耐えて端の改札を目指す。突き抜けるような青空も、多摩川の緩やかな流れも、川沿いに整備された公園の芝も、すべて視界には入っていたが興味を示せなかった。
「帰るとき、改めて眺めようか」
 改札の先は巨大な商業施設が広がっている。過去に駅周辺が再開発され、この建物がオープンした直後、各メディアから何度も取り上げられていた。高級住宅街と似合う洗練された雰囲気を漂わせている。だが、やはり僕は少し目を大きくしただけで、この場所の空気をいつまでも吸うつもりはなかった。腕時計の針先は予定時刻に迫っている。
 強い日差しを浴びて額に汗を滲ませながら見知らぬ住宅地を歩く。予めインターネットで地図を検索したとはいえ、細かい道順までは把握できない。
 鞄からスマートフォンを取ろうとしたところ、前方に小さな雑貨店が姿を現したので、僕は咄嗟に手を引いてしまった。雑貨屋の角を曲がれば到着するし、電話で道を聞くなんて無粋だろう。高まる緊張感は胸に残しておきたい。
 雑貨屋の隣に『ル・ソレイユ』と書かれた小さな看板。フランス語で太陽を意味する文字を横目に、新築された一階建ての洋館に向かう。ドアノブには定休日を伝える札が吊るされていたが構わず手をかける。開く音が来客を知らせ、それに気づいた一人の若い女性が入口に近づくと、深く頭を下げた。
「いらっしゃいませ。ようこそ『ル・ソレイユ』へ」
「とても素晴らしいレストランですね」
 わざと紳士らしく振る舞ってみたが、どうも落ち着かない。相手は笑いを堪えているようで、歪んだ口元を両手で押さえている。僕は暑さを忘れる代わりに冷や汗を流した。
「どうぞ」
 黒服を着た女性は一歩を踏み出して客席へと案内する。僕は自分の頭を軽く叩いた後で彼女に従う。二十人も入らないような狭いフロアでも窮屈さを感じさせず、椅子やテーブルの配置も整い、壁際に飾られた数点の小物も綺麗な店内を演出し、南側の窓から差し込む一筋の光は控えめな照明とコントラストを強調する。
 最も奥の席で女性は止まり、丁寧に荷物籠と椅子を動かした。こちらを微笑んでいる。僕は一礼して普段のように接客をしてくれただろう給仕に対して感謝の意を示した。すでにテーブルクロス上に一組のナイフとフォークが用意されていた。自分がとても場違いだと困惑しつつも、一組しか置かれていないことに気づき、安心して椅子の背にもたれる。何本もの銀食器を扱わなくて済むからだ。
 水がデキャンタからグラスに注がれて間もなく、懐かしい匂いが鼻を刺激する。白服を着た一人の男性がテーブルへ歩み寄る。右手に色彩豊かな料理が盛られた白い皿、左手にパンが入った木皿を持ち、僕の顔を見つめた後、そっと口を開いた。
「牛フィレ肉のパイ包み焼きと夏野菜のティアンでございます」兄は笑った。「マナーは気にしないで好きなように食べて」
 数年ぶりの再会のはずなのに、まるで毎日のように食事を作っていると勘違いさせる言葉。僕は目を赤くしながらパイ包み焼きにナイフを入れる。一切れを口に運んだ瞬間、思い出が広がった。
 兄は料理人を目指し、高校を卒業後したら調理学校に通いたいと父に夢を打ち明けた。父は真っ向から反対して大学進学を勧めていたため、兄の高校生活最後の一年間は喧嘩が絶えなかった。当時、まだ中学校に入学したばかりの僕は、二人の争いに関わらないだけで精一杯だった。
 少なからず兄に申し訳ない気持ちはあった。幼い頃に母が急逝してから、仕事で忙しい父を支えようと兄弟で家事を分担した。その中で、料理に兄は心を奪われ、家族の食事はすべて兄が作った。食後、兄は僕に味の感想を聞いてきた。おいしい、おいしくない、もっと食べたい。そんな幼稚な内容しか話せなくても兄はノートに書き連ねる。それを次の食事の場で生かし、また評価を求める。結果的に兄の情熱を燃え立たせてしまい、僕も争いの原因の一部であると後ろめたかったのだ。
 半ば勘当で兄が家を出て以来、思い出は空白だった。
 しかし数週間前、会社の同期から誘われて、あるソーシャル・ネットワーク・サービスに登録したことが転機だった。自分の情報を登録すれば自動的に近い関係の人を紹介する機能で、偶然にも兄のアカウントがマイページに表示される。一抹の不安を抱きながらも至急メッセージを送ると、当日のうちに返信を受けた。内容が好意的だったことに驚きを隠せなかった。兄とは違い、父の言われるままに東京の大学へ進み、父が望むように都内の民間企業の社員となった僕は、兄の目には父と重なって映っただろうから。
「兄さんに会いたい」
 何度かやりとりを交わした後、決意して送ったメッセージ。兄は快く承諾してくれた。
 兄は地元長野のフランス料理店に拾われ、調理師免許を取得する傍ら、そこで料理の基本から本格的に学んだという。料理長の推薦で七年前に渡仏してパリの老舗で修業を積み、一昨年の春から帰国、横浜のレストランに二年間だけ籍を置き、今年に入って念願の店を手に入れた。横浜で同僚だった三歳年下の女性と結婚して、この小さなレストランを夫婦で営んでいる。
「本当に、おいしい」
 さっくり焼き上がった生地と柔らかい肉が見事に合わさる。夏野菜の香りがアクセントを加える。わざわざ定休日に招待してくれた温かさもあり、ただ感無量だった。
 平均の客単価は昼でも二千円、夜は八千円を超える強気の値段設定だが、近所の主婦たちの心を瞬く間に掴み、隠れた名店と噂されているそうだ。兄夫婦は出店に向けて貯蓄を全額費やし、知人や金融機関から資金を借り入れているので、まだ結婚式は挙げていない。
「すぐに結婚式の費用は稼げそうだね」と顔を上げる僕。
「そう願うよ」
 兄は照れながら妻の肩を抱いた。妻は夫に身を任せた。僕は再び料理に舌鼓を打った。このまま時間が過ぎてほしいと三人が等しく願ったに違いない。
 腕時計の針の振動を感じ、ふと大切なことに気づく。鞄に手を伸ばして二つの祝儀袋を取り出した。遅めの開店祝いだ。
「父さんの分もあるから」
 僕が告げた瞬間、兄の表情が硬くなる。隣にいた兄嫁も顔を強張らせてしまった。軽率な発言に気づいた僕は悔やんでも悔やみきれなかった。先月の短い夏休みで帰省したとき、兄と連絡が取れたことに喜ぶあまり父に報告をした。十年以上も行方不明だった息子について近況を耳にすると、さすがの父も無視できなかったのだろう。東京へ戻る直前、あれこれと言い繕う父から受け取り、僕は微笑ましく思いながら今まで預かっていたのだ。
 兄の鋭い視線が僕を貫く。それも当然か。父の名前は禁句で、軽はずみな行動をした僕は無言のまま俯いた。テーブルの下に左腕を隠し、じっと耐えようとした。
 会話が途絶えてどれほど経ったのかわからない。時を刻む音が左手から全身へと伝わる。胸が押し潰される恐怖から逃れようとして、僕は口を大きく開き、兄の顔を見ないまま掻き消すように言葉を放った。
「父さんも兄さんを認めたんだ」
「家から出て以来、自分の料理を父さんは食べていない」
 反論できなかった。父の代弁より自身の言い訳に近かったことも見抜かれたはずだ。
「言い過ぎた」すぐに兄が謝る。「君は悪くないのに」
「僕こそ責められるべきだよ」
 テーブル上の冷めた料理が視界に入った。せっかくの場が台無しだ。いや最初から招かれざる客だったのかもしれない、と妙に納得して腰を上げる。ただ、祝儀袋を父に返す際、せめて味の感想だけでも添えようと決意した。
「待って」
 予想外にも呼び止められた僕は狼狽し、ひどく怯えた顔が兄の瞳に映る。
「今は受け取れないけど」声は意外と明るかった。「その代わり、父さんを連れてきてくれないか?」
「ここに?」
 僕の問いに兄はうなずく。冷たい表情は溶けていた。
「この店の料理を食べて、わかってもらいたいんだ。僕たちが幸せだってことを」
 それから沈黙の帳が再び降りた。僕は夫婦に語りかけようとしたが、うまく整理できず、まったく言葉が出ない。兄は僕の頭を優しく撫でてくれた。義姉は両手を僕の左手に乗せてくれた。僕の体内が火照り、興奮で息が苦しくなった。
「二人分の予約を入れて」必死に絞った僕の声。
「天気予報だと来週から涼しくなるらしい」兄は温かい眼差しを向けながら首を縦に振る。「そろそろ秋のメニューを考えないと」
 収穫の季節を迎え、きっと豊かな食材が厨房に並ぶだろう。茸、クルミ、ムール貝などが旬だと義姉は教えてくれた。来月に入ればキジや鹿といった、ジビエと呼ばれる野生の鳥獣も品に加わるという。ぜひ父にも楽しんでほしい、と腕時計ごと包むように僕の左手を優しく握る。
 僕は涙を見せまいと右手で顔を覆った。

おもてなし

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  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-05-07

Copyrighted
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