永遠の少年 (消しゴムのカス その1)
豆腐売りの笛の音が夕焼け空に響いた。音はもちろん録音したもので、軽トラの拡声器から流しているのだろう。それでもこの街に越してきたばかりの頃は、あまりの懐かしさにはっとしたものだ。子供の頃はこの笛の音が聞こえると、ボウルを持って、お味噌汁に入れるお豆腐を買いに駆けていったものだ。
夕焼けの美しさに子供の頃の思い出を重ねていたせいだろうか、私はベランダにたたずむ彼の姿を、なんの疑いもなく受け入れていた。
やっと来てくれた―。
少年は思い出の中とちっとも変らない姿で私を見つめている。
陽に映える金髪の巻毛と、氷のように冷たい青い瞳。華奢な背格好も、あの頃のまま。
「迎えに来たよ。」
彼は短くそう言った。
私は手の中の洗濯物をそっと抱きしめる。昼間の太陽の名残りがふっと鼻先をかすめていった。
どれだけこの時を待っていただろう。どれほど強く、彼が迎えに来てくれるのを待っていたことか。友達との口げんか、親との衝突、受験勉強の焦燥や、周りに置いて行かれるような孤独感の中、私は彼が迎えに来てくれることを願い、願い続け、そしていつか忘れていた。
やっと来てくれた―。
でも。
私は嬉しいのか悲しいのか分からない。震える足を抑えながらようやく口にしたのは、
「行けないわ。」
の一言だけ。
少年は表情を変えずに私を見ていた。
「・・・。分かった。」
ふと気づくと、少年の姿は消えていた。
「ママ、ただいまー、って、こんな暗いままでどうしたの?」
娘が玄関から順に明かりを点けながら居間に入ってきた。
「あ、おかえり。ちょっと寝ちゃってたみたい。」
「なに?昔のマンガ?」
娘がテーブルに積み上げられたマンガを一冊手に取った。
「名作よ。読むなら貸してあげる。」
「ふーん、古い絵だね。」
ページをぺらぺらとめくって率直すぎる感想を漏らした娘は、今を生きる中学二年生。あの少年が時を止めたのと同じ年を生きている。
「そのうち貸して。それよりお腹すいたよ。」
「もうすぐお父さん帰ってくるから待っててよ。あ、いただいたお団子あるけど。」
「それ食べる。」
「着替えてからにしなさい。」
はーい!と元気よく答えて、娘はどたどたと自室に入っていった。私はおやつと夕食の準備に立ち上がる。
ふとベランダに目をやると、夕焼けは空の隅に追いやられ淡い闇が空を覆い始めていた。
いつか迎えに来てくれると信じていた。
いつか一緒に連れて行ってくれることを夢見ていた。
いつかこんなつまらない現実を超えて、時の中を永遠に旅していけたらと。
でも、永遠の少年の横に、こんな白髪交じりのおばさんがいたら興ざめではないかしら。ふふっと自嘲気味に笑うと、表紙の少年と目が合った気がした。
それでも迎えに来てくれたのね。
繰り返し繰り返し読んで、すっかり黄ばんだ本を抱きしめる。
迎えに来てくれてありがとう。
そしてまた、時の終わりに会いに来てほしい。私の永遠の少年―。
(完)
永遠の少年 (消しゴムのカス その1)
老ハンナと大老ポーは、なんであんなに年取った姿だったのでしょうか。