色彩



世界は僕から、いつも三センチくらいずれている。
世界が僕に投げかけるものを、僕は正確に受け取れないし、僕が世界に投げかけるものはたいていほんの少し遠くに落ちた。僕はあまりこの世界に対して積極的になろうという気が起こらなかったし、誰かに僕の中の何かを正確に伝えようとすることもなかった。ただ、周りの人間が笑うのにあわせて笑い、お世辞をいい、時には陰口を叩いた。それでいいんだと思っていた。実際、何かしら問題は無かった。いじめも衝突も無く、僕は安穏と自分の人生を歩いてこれたのだ。無難に、無難に、目立たない。それが僕のモットー。そうやっていかにも普通の生活を送っていた。

川の流れに力を抜いて浮かんでいるくらい自然に、僕は小学校、中学、高校へ行き、まあそれなりの苦労をして大学受験に合格し、東京にある大学の文学部へ入学した。大学の講義に出ても、周りの席のやつらも大体僕と同じような人生を送ってきたんだろうなと一発で分かるような人間ばかりだった。そいつらの顔は見ていても記憶に残らずさらさら消えてしまうようなものばかりで、普遍的で、ぼんやり眺めているとだんだんと色彩を失ってどれもが深緑の粘土で出来た塑像のように見える。或いは警察の描く似顔絵、お手本どおりの、答えがひとつしかない計算結果みたいな絵。今日もまた教室でつまらないと評判の、でも単位は楽に取れる教授の講義を聞く。猛スピードで僕の耳を通り過ぎていく教授のつまんなさそうな声、粘土の塑像たち、ノートという名前の汚い字が書き連ねてある紙、シャーペンを転がす、無機質な教室、まだそれほど暑すぎない、光の溢れる空、たとえば、散歩に出れば最高の雰囲気で―――。

いきなり僕は立ち上がった。
まだ教授は黒板を見て何かぶつぶつ言っていたが、荷物を片付けてかばんを持って、くるりと踵を返した。隣に座ってた男がちょっと目を上げて、興味がなさそうに鼻を鳴らして前に向き直った。扉を開けると午後の日差しが僕を大歓迎してくれる。背中から喧騒が遠ざかっていく。

さよなら、さよなら、くだらないものたち。



僕はそれから大学へ行かなくなった。



思えばそのときが、僕が何かを自分の意思で行動した最初だったかもしれない。それまで僕の中で渦巻いていた、くすぶっていた感情というものが、痺れを切らしてぱーんと決壊したみたいだった。全てを吹っ切った後の風は限りなく甘美だった。何だか全てが明るく輝いて見えた、虚脱した手足が心地よかった。ところが、そうかこんなところに僕は生きていたんだ、とうとうやった、これで僕は自由の身だ、と牢獄から脱出した死刑囚を気取ってみても、僕には生活を続ける当てが無かった。何処で聞きつけたんだか知らないが、両親は僕が大学に行っていないのを嗅ぎ付けて、「もう知りません 勝手にしなさい」という一行しかないメールをよこした後仕送りをやめてしまったから、バイトをするしかなかった。それでもなんら取り柄の無い僕が出来る仕事といったらせいぜいコンビニの店員とかガソリンスタンドの店員だけで、夜の暗闇にぽつり浮かんだ宇宙ステーションのようなコンビニでお客が来ずに立ち尽くしていたり、ガソリンスタンドで慣れない大声を張り上げながら入ってくる車のフロントガラスをタオルで磨いていたり、他にもバイトを増やしてしばらくはそれで食いつないでいたが、体力的にもきつくなって、バイト以外は家で寝ている生活になった。度重なるバイトで慢性的な寝不足になり、そのままバイトに行って大小さまざまなミスをした。それがもとでバイトをクビになり、料金を滞納してガスや水道を止められ、とうとう家賃も滞納してアパートを追い出された。もういいや、と面倒くさくなって行く当ても食べるものも無くなり、浮浪者のように何日も街を彷徨ってコンビニやスーパーのゴミを漁った。とはいえゴミ箱から弁当やパンを見つけられるのは数日に一回がいいところで、大体は弁当もパンも無く、しかも同じ境遇に居る者の人数も最近では増えていたから、取り合いになってあっという間に食料は得られなくなった。力尽きてゴミ捨て場に倒れこんだとき、ああもう僕は死ぬんだなと直感した。つまらない人生だったなと思った。普通に生まれて普通に進学して大学行って、何故か結局こうして死ぬんだなと思った。


――男が僕の前を通り過ぎて、また戻ってきた。

しばらく興味深そうに、しかし十分に警戒して僕を見つめた後、おい大丈夫か、と小さな声で呟いた。こんなところで倒れている僕が死んでいるように見えたのだろう、実際僕も死ぬんだと思っていたから当たり前だった。僕がゆっくりを顔を上げると男はびっくりして数歩下がった。

男は丸い小さなサングラスをかけていた。天然パーマ、ってやつなのだろうか、あっちこっちに跳ねていてふわふわとした黒いアフロの上に帽子をかぶって、黒いスーツを着ていた。随分と奇妙な恰好だ。昔のドラマに似ていた俳優に似ている、刑事ものの。
僕は数秒間の間男と見詰め合った。ゴミ捨て場に寝ている薄汚い男とスーツの男が向かい合っている光景。奇妙だ。奇妙すぎる。これがかわいい女の子だったら恋の予感でも芽生えてしまうのかもしれないが、何せ相手は男でグラサンにアフロだ。芽生える方がおかしい。僕が口を開くより早く、男が手を差し出した。僕は手に掴まってようやく起き上がった。ゴミの臭いともう何日も風呂に入っていない体臭が混ざってそれは独特な臭いが鼻を突く。男が顔をしかめながら、うちにシャワーあるから、と言った。ありがたかった。

男の家でシャワーを浴びて身体を洗い流すと、いくらかはマシな人間になった気がした。それでも髭は伸び放題、髪はぼさぼさで、男が見かねてシェーバーを貸してくれた。もっとマシな人間になった気がした。男は僕が出てくるまでの間にコーヒーを淹れていて、香ばしい匂いがシャワーの方にまで漂ってきた。

男が淹れたコーヒーは今まで飲んだどの飲み物よりも美味かった。
僕がびっくりしていると、男はふふんと笑った。部屋の中でもサングラスをはずさないので、表情が分からない。きっと自慢げな顔でこっちを見ているのだろう。

コーヒーで身体が温まっていくにつれて、今までの生活がワインボトルのコルクを引っこ抜いたみたいに流れてきた。ひどい暮らしだった。野良犬のような、泥のような生活だった。それらを外側から見てみて初めてそんな思いが浮かんできた。もうあんなところには戻りたくない、二度と。大きなため息をついたとき、男がお前、仕事無いんだろ、と呟いた。僕は頷いた。僕にはなんにも無い、残っちゃいないのだ。

雇ってやる、と言う声が聞こえた。
顔を上げると、やっぱり男の顔があった。依然として表情が見えない。

男は自宅の一部を店舗にして喫茶店をやっているらしかった。そこの従業員として、僕を雇ってくれると言ったのだ。近くのアパートにも住まわせてやるし、給料だってちゃんと払う、と言った。僕の目が話を聞くうちにどんどん大きくなった。寝るところがあって、毎日ちゃんと食べられればそれで充分だった。男の申し出は充分すぎるほどだった。僕はすぐさま、お願いしますと言った。カウンターに額がつくまで頭を下げた。男はまたサングラスの奥で笑った。

数日の後に僕はそのアパートに引っ越した。
荷物なんて何も無い、簡単なものだった。


男の名前は分からなかった。男は僕に絶対に名乗らなかったからだ。サングラスも頑としてはずさなかった。喫茶店の店長だから、マスターと呼べと言われた。それ以来、僕は男をマスターと呼んでいる。

働く最初の日、ほい、という声と共に渡されたのは黒いギャルソンのエプロンだった。それがここの従業員としての服装らしい。腰に細い紐を巻いて、外れないようにぎゅっと縛る。へその周りがぐっと引き締まる。今までの、不定形のどろどろした僕の存在が、はじめて明確な形を持ったように引き締まる。

背を伸ばし、あごを引いて、マスターを見つめる。サングラスの奥の目を、まっすぐに。
よろしくおねがいします、頭を下げて、腹から出した声が誰も居ない店の中に響いた。
マスターは、はいはい、とやる気のなさそうな返事を返した。


こうして僕の、喫茶店の従業員としての新しい生活が、始まった。


マスターは大分人使いの荒い人だった。
僕は初めて店に入った日から細々した掃除と、マスターの料理の下ごしらえ、会計など、いわゆる雑用の仕事を任された。新入りなのだから当たり前なのかとも思ったが、マスターはとにかく僕に何でも頼んだ。それでも料理とコーヒーは絶対に自分で仕度をした。豆もマスター自身が奥に行って取ってきて、ブレンドしていた。
最初は常連客が怪訝な顔で僕を見ていたが、新入りなんだ、とマスターが紹介するとだんだんと話しかけてもらえるようになった。来ている客の年齢層は高めで、近所に住んでいるおじいちゃんおばあちゃんが多かった。奥様方はランチの時間帯に徒党を組んでやってくる。たまに子どももついてきて、オレンジジュースやホットミルクを頼みながら子どもだけの世界でそれなりに盛り上がっている。それをマスターはカウンターの奥でグラスを磨きながら眺めている。近所との付き合いの所為か、それなりに儲かっているらしかった。

仕事にもだいぶ慣れたある日、店の壁に見たことの無い絵が飾ってあった。
マスターに、これ誰が描いたんですか、と聞いたら、マスターは黙って窓際の席を指差した。
ショートカットの、細身の少年が座っている。Tシャツは薄汚れ、ジーンズには絵の具が付着している。ああ、あいつか、と思っていると、マスターがO美大の女の子だと言った。僕はもう一度窓際を振り返った。どう見てもヨーロッパあたりの浮浪少年にしか見えなかった。金持ちの紳士の靴磨きとかをしてそうな感じだ。この近くに住んでいるらしい、マスターはちょっと僕の方を見て、コーヒーを運んでいった。

その絵は抽象画で、色とりどりの円が微妙に重なって描かれていた。小さいものから大きいものまで、大きさも様々だ。全体的に色調は暗く、底が見えない感じがする。マスターも置くんだったらもっと明るい色調の絵を描いてもらったらいいのにと思った。

女の子はひたすら窓の外を眺めていた。二時間くらい、飽きもせずじっと座っている。時折マスターがコーヒーのおかわりを勧めるが、女の子は首を振った。そしてまた窓の外を眺める。何を見ているんだろうと思ったが、話しかけるのは躊躇われた。

しばらくして、女の子が立ち上がった。
僕は会計をするんだと思ってレジの傍に移動しようとした。


――――ガシャン、という音がして、見ると女の子が床にうつぶせに倒れていた。

グラスが割れたらしい、彼女のすぐ脇には割れた硝子が散乱している。マスターが、慌てて僕の名前を呼んだ。マスターが破片をどけている間に、僕が女の子の身体を持ち上げる。あまりにも細く、軽かった。持っているところが、異様に熱い。熱がある。

マスター、この子熱あります、というと、奥につれてけ、と返される。マスターの自宅の客間へ運び、布団を敷いて寝かせる。マスターがポカリと冷えピタを持ってきた。マスターが、大丈夫か、と声を掛けると、か細い声でただの風邪なんです、帰れます、と言う。僕の目から見ても到底大丈夫そうには思えない。聞けば三日前から熱があるが、食べ物をろくに食べていないと言った。マスターが呆れてため息をつき、いいから寝てろ、おかゆ持ってきてやるから、と言って奥へ引っ込んだ。

よくよく見ると確かにその子の顔には女の子らしさが漂っていた。色白で、伏せた睫毛が長い。薄い桃色をした唇は薄く開かれていて、髪の毛は綺麗な栗色だ。フランス辺りにいそうな顔をしている。頬を紅潮させ、荒い息を吐いていた。

マスターが水とおかゆを持ってきた。おかゆには梅干が入っている。僕が女の子を抱き起こすと、マスターがレンゲの縁をふうふう言いながら女の子の口に近づける。女の子は熱にぐったりしながら、何とかおかゆを食べきった。水を飲ませ、布団に横たえると、やがてそのまま深く眠ってしまった。それから、僕はマスターと一緒に女の子の食事の世話をしたり、冷えピタを換えたりした。
結局、その日はアパートに戻らずマスターの自宅に泊まった。マスターは自分のベッドで、僕はソファで寝た。小さなソファだったから、身体を丸めて生まれる前の胎児のような恰好で眠りについた。


数日の間、女の子はマスターの自宅にいて、僕は時折彼女の面倒を見た。
風邪が引くと女の子は丁寧にお礼を言って家に帰っていった。しかしあのまま帰してよかったのだろうか、また身体を壊して倒れるんじゃないだろうかとあれこれと考えていると、マスターが、あ、と小さく声を漏らした。その手には細身の腕時計があった。女の子がつけていたものだ。
マスターは僕を振り返った。え、僕ですかと問うと、何か文句あるかと凄まれる。ここに来たときのことがあって僕はマスターには逆らえない。マスターはにっこり笑って僕に腕時計を差し出した。僕は女の子の住所をマスターに尋ねる。メモに書いて渡された文字の列には何だか見覚えがあった。え、これ、と戸惑っていると、いいから早く行け、と手を払われた。

おんぼろの木造アパートの、二階。階段を上がって、廊下を突き当りまで行って、その右側。
――そして、左側には、僕の部屋がある。
彼女は、僕のアパートの、それも真向かいの部屋に住んでいた。

チャイムを押すと、はい、とか細い声がする。あの声はいつもなのか、と軽く驚いていると、ドアが開いた。これ、忘れ物です、そう言って手にした腕時計を女の子の目の前に差し出した。女の子は少し目を見開いて、それはすいません、ありがとうございます、と笑った。笑うと白い頬にくっきりとえくぼが出来た。唇から白い歯が覗いた。細く白い手に腕時計を乗せて、僕は、じゃあ、とだけ言って踵を返した。女の子は僕が見えなくなるまでドアの外に立っていた。

帰ってくると、マスターはかわいい子だったろ、と僕を見た。確かに、線の細くて儚い印象の、かわいい子だった。しかし細すぎて心配になるくらいの身体をしていた。それをマスターに話すと、ちょうどいい、お前が色々面倒見てやってくれ、と言い出した。部屋が向かいなのもマスターは最初から知っていたのだ。晩御飯食べさせてやってくれ、最低限の食事は取っているみたいだが、あの子は没頭すると食べるのを忘れる性質なんだ、と言う。今回はそれが重なって体調を崩したらしい。異議を唱えるわけにもいかず、分かりましたと僕は了承した。晩御飯につくったオムライスを持って彼女の部屋のチャイムを鳴らすと、彼女はドアを開けてあれ、今日の、と言った。僕は喫茶店の名前を出し、マスターから頼まれたんで、と言ってオムライスを押し出す。そんな、といって女の子は慌てた。何度かの押し問答をして、ようやく彼女はオムライスを受け取った。僕が、あの店の新入りなんです、と自己紹介したら、彼女はそうなんですか、と顔をほころばせた。マスターの入れるコーヒーがお気に入りらしかった。頑張ってくださいねとも言われた。ちょっと力がわいた。

そこから僕は、女の子とちょくちょく交流を持つようになった。

彼女の名前は清井凛といった。
油絵を描いている、としか彼女は言わなかった。O美大のことを言うと、彼女は少し笑って何も答えなかった。彼女の部屋にはカンバスと絵の具と画材道具が転がっているらしく、入らないでくれ、と言われた。僕は時間になると自分の部屋で作った晩御飯を保存容器に入れて彼女に差し入れた。もともと料理は得意では無かったが、マスターの料理を手伝うようになってから料理の腕は少しずつ上がっていったので、彼女も満足して食べてくれているようだった。
僕は彼女を、清井さん、と呼んでいる。清井さんは最初のうちこそぎこちなかったが、やがて僕に料理のリクエストをしてきたりと馴染むようになった。たまに店に来たときは、やっぱりコーヒーを一杯だけ飲んで帰った。彼女は家に帰ると製作をしているようだったが、僕は店に飾られたもの以外、清井さんの絵を目にしたことは無かった。彼女は自分の絵を外に発表したり、売ったりはしていない。店にあった絵は、マスターが彼女に店の為に絵を描いて欲しいと頼んだものだった。報酬を用意していたが、彼女は受け取らなかったという。

マスターに聞いてみても、清井さんの素性はよく分からなかった。ちょっと引っ込み思案な子だなあ、とマスターは腕組みをしていた。O美大のことについても、マスターは知らないといった。

それでも、晩御飯を持っていけば彼女は微笑んでありがとうといってくれたし、心配していた体調も、崩している気配も無い。
彼女の好物が、僕が最初に持っていったオムライスだということも分かった。店に居るときも、少し話をするようになった。大抵は他愛の無い天気の話とか、テレビで見た俳優やドラマの話とか、マスターの行動がどうだったとか、そんなことを話した。清井さんはそのほとんどの話を笑って聞いていた。
ただ、彼女が時折窓の外の何を見ているのかは、まだ聞いていなかった。真剣に窓の外を見ている清井さんは何かとてつもなく神聖な何かのように思えて、声を掛けることも近くによることも憚られた。外を見ているときの清井さんの目はカメラのレンズのように動いて、降り注ぐ日差しの沢山の光を集めてきらきらしていた。新しいおもちゃの使い方を必死に考えている子どもみたいだった。

僕は清井さんが窓の外を眺めている間、グラスを磨いているのが好きだった。
清井さんが居る間に磨いたグラスは、他のものよりも少しだけ綺麗になった。


また見てんのか、静かに隣に立ったマスターに囁かれて僕の肩が跳ね上がった。
相変わらずのサングラスの奥は見通せず、
何を考えているのか良く分からない。僕は目線を逸らそうと躍起になったが、目線は虚しく空を切るだけだった。
清井さんが居ないとき、たいてい僕は、清井さんが描いた絵を見ていた。
色調は暗い。なのに、何故か目がいってしまう。様々な色が重なっている、何十種類もの絵の具、その微妙な色合い。その暗さは、普段の彼女の様子とはあまり結びつかない。もっと明るい絵を描けばいいのに。呟いた声がマスターにしっかり聞こえて、マスターが少し息を吸った。


あの子な、暗い絵以外、描けないんだってよ。

ぼそっと吐かれたマスターの言葉が、床に落ちた。僕は、え、どういう意味ですか、と振り返る前に、マスターは奥に引っ込んでしまっていた。


清井さんは相変わらず、たまに店を訪れては一杯のコーヒーを飲み、そして窓の外を眺める。
きらきらした目、じっと集中している、触ったら切れそうな空気。
彼女の周りには、きんきんした何かが漂っている。

僕も相変わらず、カウンターの奥でグラスを磨きながら彼女を眺める。

――あの子な、暗い絵しか描けないんだってよ。

マスターは奥にコーヒー豆を取りに行っていた。
壁の時計の音が、店の中を這って行く。

僕は、最後のグラスを磨き終わるとカウンターを出た。
足音を気持ち抑えて、彼女の傍へ寄っていく。僕の気配に気づいた清井さんは、さっとこちらを振り返る、いつもの笑顔を浮かべて。彼女の両の目が、僕の顔を捉える。
いつも、何を見てるんですか。普段どおりを装った軽い声で、彼女の目を見て尋ねる。ちょっとだけ、彼女の笑顔が揺れた。
いや、毎回毎回、じっと眺めてるでしょう、ちょっと不思議に思ったんですよ、と急いで続ける。
世界を、見てるんです。
この世界を、じっと見てるんです。
普段より幾分低い声で、しばらくしてから清井さんは呟いた。僕は答えてもらえたことに調子をよくして、頭に浮かんだままの質問を彼女に投げた。
この店の絵、あなたが描いてくれたんですってね。でもどうして、あんなに暗い絵を描いたんです?暗い絵しか描けないって、本当ですか?
彼女の笑顔が消えた。沈黙が辺りに満ちる。
それは、教えられません。
静かな声で言い放って、僕が何か言う前に、彼女はもう帰ります、と立ち上がった。

やっちゃったなお前、マスターがいつの間にか戻ってきて、僕の隣に立つ。僕は項垂れたままマスターを見つめた。ふん、とマスターに鼻で笑われる。
僕は何か、聞いてはいけないことを聞いてしまったみたいだった。目の前で消えた彼女の笑顔が脳裏にこびりついている。
彼女は一体何を抱えているんだろう。消えた笑顔の奥に見えた、それはあまりにも薄暗く、静かで、深い感情だった。それでいて、いつもの彼女からは絶対に零れ落ちてこないだろうその感情は、今まででいちばん強い力で僕の中身を引っ張った。意識は急速に彼女の元へと走り出していた。しかしすでに彼女は背を向けて去って行ってしまった。背中はもう見えなかった。
コーヒーの香りが店内に満ちた。肩を叩かれ、振り返るとコーヒーカップがずいと差し出された。マスターは、ほらよ、元気出せ、と言って僕の頭を叩いた。コーヒーはいつもどおり美味かった。

その日から数日間、僕の用意した晩御飯を彼女が受け取ることは無かった。僕がチャイムを鳴らしても、清井さん、とドア越しに呼びかけても、彼女は姿を現さず、仕方なく僕は、ドアの前に保存容器を置いたが朝になっても依然として中身は消えていなかった。彼女が部屋に居るのかどうかも分からなかった。もちろん、店に来ることも無かった。
グラスを磨きながら肩を落とす僕を、マスターはちらちらと気にしていたが、何も言わなかった。

彼女が何時も座っている席に近づいて、窓から外を見てみた。
なんてことは無い、住宅街と街灯、いくつかの店が軒を連ねているだけで、別に面白いものとか、変わったものは何一つとしてなかった。
世界を、見てるんです。彼女の声が耳の奥から沸きあがってくる。
彼女が見ていた世界は、こんなにありふれた景色なんだろうか。



清井さんに晩御飯を差し入れなくなってしばらくたち、その日僕は喫茶店での仕事を終えて帰宅するところだった。
その日は常連客が飲みに来ていて、結構遅くまで働いた。疲れきって部屋のドアを開けようとすると、反対側からどすん、という音が響いてきた。
何かものでも落ちたんだろうか、危ないな、と思っていると、どすん、はやがて断続的に反対側から聞こえるようになった。僕は眉をしかめた。清井さんの部屋からだ。しかも、だんだんとどすん、の間隔は狭まっていって、連続した音になっている。何かグラスのようなものが割れる、がちゃ、という音も聞こえた。
おかしい。
清井さんは今部屋の中にいるのだろうか。いや、それとも別の人間が泥棒として侵入しているのか。――そこに、もし清井さんが、今、同じ部屋の中にいるとしたら。
僕は咄嗟にドアノブに手を伸ばした。急いでがちゃがちゃと捻るが開かない。鍵がかかっていた。ドアを強引に引っ張る。指の先がじんじんと痛んだ。清井さん、大声で彼女の名を呼ぶ。音が一瞬止まったような気がした。古いドアの鍵が壊れて、ドアが手前へ倒れた。

絵筆を持った清井さんがそこに立っていた。

絵の具と、筆と、カンバスが倒れ、散乱した部屋で、彼女だけが唯一直立していた。着ているTシャツとジーンズは絵の具でぐちゃぐちゃになり、部屋には沢山の色が溢れ、床の色が分からなくなっていた。
手をだらりとぶら下げて、栗色の髪をあちらこちらに跳ねさせて、ぼんやりした、光の無い真っ黒な目で清井さんは僕を見ていた。腰の奥の方から、ぞくぞくとした震えが脊髄の方にまで一瞬で駆け上がってきて、目の前が少し暗くなった。今僕の目の前に居るのは何か別の人種の人間のように思えた。もしかしたら清井さんのふりをした宇宙人なのかもしれない、しかしその宇宙人は、はっきりと清井さんの声で、清井さんの顔で僕の名前を小さく呟いた。

何やってるんですか、と問いかけた僕の声は情けないほどに震えていた。部屋の真ん中まで進んだが、足が言うことをきかなくなっていて、踏み出すたびに床がぐにゃぐにゃと曲がっているような心地がした。ふらふらと僕は彼女に近寄った。彼女は僕の名前を呟いたきり何の反応も示さなかった。電池の切れた人形みたいに、本当に息をしてないんじゃないかと不安になるくらいに清井さんは一切の運動をやめていた。僕の耳の奥で心臓の鼓動が熱く脈を打っていた。僕の耳の中は鼓動で一杯になった。手が伸びて、清井さんの細い肩を掴んで引き寄せた。やめて、という声がして、強い力で僕は突き飛ばされた。僕はまた清井さんに手を伸ばした。ぱし、と音がして僕の手が赤くなる。清井さん、僕はやっとそれだけを吐き出した。なんで、なんでよ、と清井さんは普段からは想像もつかないような大きい声で叫んだ。なんでわたしのところへくるのよ、と清井さんは叫んで僕の手を振り払い続けた。振り払って、僕を押しのけようともがいて、暴れた。あああああああ、と最後には言葉にならない叫び声を掻き鳴らしながら。僕はどうにか苦労して清井さんを押さえ込み、抱きしめた。清井さんの肩はきちんとあたたかくて、僕はようやく息を吐いた。清井さんは不恰好に僕の肩に頭を乗せ、倒れこんだ。
清井さん、清井さん、―僕は彼女の背中を撫でながらぶつぶつ彼女の名前を吐き出した。反応はしばらく返ってこなかった。ただぼんやりとした目を空中に漂わせている清井さんが怖くて、僕は一心に彼女の背を撫で続けた。手が摩擦熱で熱くなったころ、彼女からくぐもった声で、どうして、という声が聞こえた。

どうしてですか、か細い声で清井さんが問う。僕は何も言えなかった。どうして、私のところへ入ってくるんですか、今にも散って消えてしまいそうな声が震えだした。
そこから先は言葉を成すことなく、うめき声になってぽとぽとと絵の具で汚れた床に落ちていった。僕は彼女が泣き止むまで、また背中を撫でた。
どれくらいの時間がたったのかは分からなかったが、落ち着いた彼女は、ごめんなさい、ごめんなさいとそれしか口にしなかった。僕が何故こんなことをしたのかと聞いても、彼女は謝り続けるだけだった。仕方なく、僕は部屋に帰るしかなかった。



朝になっても、昨夜見た出来事が悪い夢のように首や肩に圧し掛かっていた。目の奥がぼんやりと痛んで、頭痛がした。
喫茶店に行ってもグラスをひとつ割ってしまい、掃除も満足に出来ずマスターがため息をついた。何があった、と言われたが、なんとなく昨夜の出来事を話そうとは思えなかった。
自分が見たことを信じてもらえるかも分からなかったし、きちんと説明することすら出来ないだろうと思った。それでも彼女の目の、ぼんやりした真っ黒な静けさが僕を不安にさせた。今日も彼女は喫茶店に姿を見せず、マスターが心配し始めていた。

頭では考えないようにしていても、目はいつの間にか彼女の絵を捉えていた。
心なしかその暗さは、彼女の目と似ているような気がする。この奥に彼女は何を隠しているんだろう、何があるんだろう。
――何にもない、んだってよ。
マスターの声だった。咄嗟に後ろを振り返ると、マスターが立っていた。僕は考えを口にしたつもりも無いのに、マスターは読み取ったようだった。
私の中には、何にもないんです。そう彼女は言っていたのだという。マスターが彼女に絵を頼んだときだ。何にもないから、絵も空っぽになる、それが嫌でカンバスを塗りつぶそうとすると、暗い色調の絵しか描けないのだ、と。絵は自分の中のものを表現するものらしい、とマスターは言った。その表現すべきものが無いのに描こうとするから、こんな風になる、と首を振ったのだ。

何がなくて、何が空っぽなのか、彼女の中に、ぽっかりとした穴があいていて、そこからひゅうひゅうと風が通り抜けているイメージがぱっと頭の中にわいた。
穴の開いた体の彼女はとても寂しそうな顔をしていた。目はやはり真っ黒で、光が無かった。


清井さんがいない店はどうにも広いように思えた。
常連客や子供づれの客は相変わらず通ってくれているのだが、清井さんが何時も座る席だけは、そこだけ空気が凝っている。その椅子の周りだけ、空間が広くなっているように錯覚してしまうのだ。掃除をしても、会計をするときでも、その席はすっぽりと空虚に包まれていた。

私の中には、なんにもないんです。

清井さんは、あの席に座って世界を見ていた。
何の変哲も無い、ありふれた世界を。子どものような、きらきらした目で。自分の中になにもない、と言う人が、あんな瞳で、世界を見れるものだろうか。あんなふうにじっと、集中していられるものだろうか。今ひとつ、僕には納得が出来なかった。清井さんは、何かを隠している。

いつものようにいちばん後の客が会計を済ませて帰った後、僕はマスターに近づいた。なんだ給料なら上げないぞ、と冗談を言うマスターの、サングラスの奥の目をじっと見つめる。
――僕にコーヒーを淹れさせてください。
僕は深々と頭を下げた。マスターは何にも言わなかった。僕が恐る恐る顔を上げると、マスターはいなかった。やっぱりだめなのか、と思った瞬間、マスターが奥から現れた。手に、コーヒー豆の袋を持っている。ほい、と渡され呆然としていると、豆の選別からな、とマスターが笑った。

その後僕はマスターに、ブレンドの豆の調合の仕方、豆の挽き方、お湯の温度まで徹底的に覚えさせられた。
どの豆とどの豆の組み合わせがさわやかで、どれとどれが渋くて、どれがコクがあって、とそれまでただインスタントコーヒーを飲むだけで満足していた僕にとっては、豆の種類は千差万別と言ってもよかった。それらを注意深く挽き、きちんと決まった温度に温めたお湯で淹れる。マスターが納得する味や香りを作り出すまで、店が終わったあと泊り込みで練習した。
ようやくよしと言ってもらえたのは、一ヵ月後だった。それでも自分で飲んでみると、マスターの淹れたコーヒーからは程遠いものだった。

僕は家に帰り、向かいの部屋のチャイムを押した。
清井さんは一ヶ月の間も一度も店に来ていない。晩御飯も食べているのか分からない。それでもたまに部屋の明かりはついているのを見ると、一応生活はしているらしい。
ドアが開いて、清井さんが顔を出した。前よりまた痩せたように思える。僕の顔を見た瞬間、彼女はドアノブを引いた。
僕は慌ててドアの隙間に足を差し込み、待ってください、と叫んだ。ドアと壁で足が圧迫されてぎしぎしと音を立てた。すいません、帰ってください、と彼女が下を向いたまま言った。それでも僕は足をどけなかった。
コーヒー、飲みませんか。咄嗟に僕は清井さんの頭の上から言った。清井さんは、呆気に取られた様子で僕を見た。
僕、コーヒー淹れるんで、一緒に飲みませんか、僕の部屋で。清井さんが何か言う前に、矢継ぎ早に言う。清井さんはドアノブを持ったまま、俯いた。何も言わず、長い間立ち尽くしていた。
僕の足が痺れて、感覚が怪しくなってきたとき、わかりましたという声が聞こえた。

部屋に入り、マスターから教えてもらったとおりの手順でコーヒーを淹れる。豆は、マスターから少し分けてもらった。
二人分のカップを持って台所から出ると、何故か部屋の電気が消えていた。真っ暗だ、と思って見回すと、窓のあたりだけが明るく光っていた。傍には清井さんが立っていて、カーテンを開けて外を見ている。そういえば今日は月が綺麗だった。苦労して窓に近づき彼女にカップを渡す。このままのほうがいいですか、と聞くと、清井さんはゆっくり頷いた。
僕と清井さんは窓を見ながら、座り込んだ。ふうふう言いながらコーヒーを啜る。


――小さいころから、ずっと絵を描いてました。

コーヒーの匂いと、湯気に溶け出すように清井さんの声が流れ出す。僕は清井さんを見たが、清井さんは窓を見たまま続けた。

幼い私の絵へののめり込み方は異常でした。大抵はかわいい女の子や小さな花、でも後にはなんだか訳の分からない生き物や、ただ色だけを塗りたくって、両親が買ってくれた色鉛筆やクレヨンで、画用紙に何枚も何枚も絵を描きました。それだけならいいのですが、友達とも遊ばず、部屋にこもりっきりで、時には食事さえ忘れて描いていました。始めは家に遊びに来てくれた近所の子どもたちも、私が絵を描き始めると遠慮して帰ってしまい、だんだんと私から友達が遠ざかっていきました。私はそれでも絵を描き続けました。
両親は狂ったように絵を描く子どもを恐れながらもどうにもできませんでした。小学校の工作の時間に粘土で好きなものを作る、というのがあったんですが、他の子どもがお花やヒーローや車などを作る中、私だけが奇妙な形のオブジェを作り、それも小学生とは思えないような精密なものを先生に提出しました。先生は子ども離れした私の作品を見て、小さな声で、気持ち悪い、と呟きました。周りの子どもも私を遠巻きにするようになりました。それから、私は人と深く関わることをあまりしなくなりました。私から離れていく人たちの目が忘れられませんでした。友達も作らず中学、高校とすごし、両親は半ば私を厄介払いするかのように美大へと追いやりました。お金がかかるのを私は心配していましたが、あの二人にとってはお金より私が離れてくれることの方が大切だったようです。そうして入った美大でも、馴染むことが出来ずに、嫌になって今では休学しています。

そこまで言って、清井さんは深く息を吐いた。僕は何も言わずに清井さんを見ていた。

人と関わることをやめてから、私の絵はだんだんと暗くなりました。どんなに頑張って描こうと思っても、暗い色しかカンバスにのせられないのです。どうしてだろう、と考えた後、私には綺麗なものが何も無いんだ、と気づいたんです。私には人との関わりが無い、そこから得られるものも無い、ただ諦めているだけです。私はどうにも出来なかった。いつの間にか、私は世界から取り残されてしまったように感じていました。どんな景色を見ても、自分と結び付けて考えられない、表現できない。世界は私からどんどん遠くなっていったんです。それでも絵から離れられない。呼吸するように絵を描いてきたから、どうしても手がカンバスに向かってしまう。でも出来上がるのは暗い絵ばかりで、どうすればいいのか分からなくなるんです。そうすると、もう自分でもコントロールが出来なくなって、絵の具を撒き散らしたり、カンバスを壊してしまう。私は絵を描くときの自分が嫌だったんです。無意識のうちに吸い寄せられるようにカンバスに向かう、でも結局は、人も物も何もかも傷つけてしまう、そんな狂ったような自分が嫌いでした。

僕は、清井さんの傍に寄った。
清井さんは、また話し出した。

喫茶店のマスターに絵を頼まれたときは、とても迷いました。それでも、マスターは私にとてもよくしてくれた人なんです。私が美大に入るとき、たまたま入った喫茶店でマスターがアパートを持っている、という話を他のお客さんにしていて、住む人を探していると言っていたんです。私はちょうど美大からも近かったので、入れて欲しいと頼んだんです。そこから、マスターには時々喫茶店に来るように言われて、そのたびに私の様子を見ています。休学したことはマスターには伝えていませんが分かっていたようで、好きなようにすればいいんだよ、と言われました―両親にも伝えていません、離れてくれさえすればいいので、お金だけ振り込んでいればとでも思っているんでしょう―だから、マスターのためだったら何か違う絵が描けるかもしれない、と思っていたんですが、やっぱり駄目でした。暗い絵しか出来上がらず、マスターには強引に持っていかれてしまいました。お金を渡す、と言われたんですが、あんな絵でお金を取るわけにはいかない、と断りました。結局、私にはもう暗い絵しか描けないんだと思い知りました。

清井さんの目が、窓からそれた。彼女は立ち上がったのだった。
暗い部屋の中で、月明かりに光る彼女の目が、僕を見ていた。

倒れた私を看病してくれたあなたが、マスターに頼まれてやってきたとき、私はあまり深く関わらないようにしよう、私の中のこの部分だけは、絶対に見せないようにしようと思ったんです。きっと、あなたが私の絵のことを知ったら、いつもみたいに離れていってしまうんだろうと、どこかで思っていたんです。それでも、――それでも見られてしまった。私は逃げました。ずっと部屋に閉じこもって、ベッドに横になっていました。もう終わりだと思いました。またみんなのように、あなたは離れていってしまうと。

彼女の目は、恐ろしいほどに真っ直ぐだった。何か、強い力が満ち溢れていて、光線のように僕を射抜いた。

どうしてですか。なのに、どうしてあなたは私のところへ入ってくるんですか。

僕も立ち上がって、正面から彼女の顔を見た。
彼女は無表情だった。強い目で、口は堅く閉ざされている。月明かりに、彼女の髪が、頬が、肩が、照らされて青白く光っている。
それは、とても美しい光景だった。電気を消した部屋の中で、漂うコーヒーの匂いの中で、発光する彼女の輪郭。
僕は無意識のうちに手を伸ばした。肩口に指が触れる。細い肩は小刻みに震えていた。震えている彼女は、弱いのに周りを威嚇している小動物のように見えた。

彼女の肩を、そっと掴む。

彼女は、怖いのだ。人と関わることが。関わって、自分を理解できずに離れていく人々が怖いのだ。
彼女の、あの揺れた笑顔の中に、無表情の中に、彼女が隠し持っていたのは恐怖だったのだ。離れていく人への恐怖、理解されないことへの恐怖、孤独への恐怖。
揺らぐ足元の上に何とか踏ん張って、自分の場所を必死に守ろうとしているのだ、震えながら。

肩を掴んだ手に、力がこもる。

でも、彼女の言葉は、間違っている。
彼女の中には何もない、というのは、嘘だ。

月明かりを浴びる彼女の、いちばん青白く光っているのは、細い首筋だった。
今にも壊れそうで、ちょっとでも力を入れたら折れてしまいそうな、儚く白い首。幽霊のように妖しく、美しい光。

清井さん、あなたは間違っている。
あなたには、絵が残ってるじゃないか。
絵に向ける、狂気染みた純粋さがあるじゃないか。

彼女ではない、僕の中に何も無いのだ。小さいときから今まで、何の目標も楽しみも無く生きてきて、周りの人間の動きに、感情にあわせて、言いたくもないお世辞や、冗談や、陰口を言ってきた。両親からも特に何も期待されず、失望もされず、ただなんとなく歩いてきただけの僕の中には、何も無いのだ。流されるままに生き、彷徨い、死に掛けたところを運良く拾われたような、僕のような人間には。

僕のような、何にもなれない、粘土の塑像のような、つまらない人間には。

――いつの間にか、彼女の肩をありったけの力を込めて掴んでいて、彼女は瞳に怯えを浮かべて僕を見ていた。
肩から手を離すと、僕は彼女の後ろに回った。宙ぶらりんになった手はそのまま彼女の首筋へ向かう。触れた皮膚は熱く、彼女の体温が高いのか僕の指先が冷たいのか分からない。項へと手を滑らせると、清井さんがびくりと肩を揺らす。

月明かりが部屋の奥の方まで流れ落ちてきた。清井さんは今や全身を光に照らされていた。

細い、細い首、美しく、儚く光る、今にも消えてしまいそうな白。綺麗で、妖しくて、引き込まれてしまいそうな光。
僕の手は、彼女の首にじわじわと力を込める。ゆっくり、ゆっくりと。
きれいで、うつくしくて、こんなにもきれいで。あなたは。あなたには。


ごほっごほ、と咳き込む音で、僕は自分が何をしているのかに気づいた。





僕は、倒れこんで、水から上がった魚のように唇をぱくぱくさせて、必死に酸素を求めてもがいている清井さんを見ていた。
僕の両手はだらりと身体の横にぶらさがっていた。

清井さんは、僕を怯えた目で振り返った。薄い唇が戦慄いていた。

どうしてかは、僕にも分かりません。
僕はぼそっとそう呟いた。全身からゆるゆると力が抜けていって、足がかくんと崩れて座り込む。床は冷たかった。
ただ、清井さんはひとつ間違ってます、僕の声と清井さんの吐く荒い息の音だけが、部屋に満ちている。
僕は、たとえ清井さんがどんな人間でも、清井さんから離れていくことはありません。
清井さんは、やっと出したというような小さい声で、嘘だ、と呟く。嘘じゃありません、僕は切り返した。
でも僕はいつでもあの喫茶店に居ます、あなたが来てくれさえすれば、僕はあの店であなたに会えるんです。これからも僕は何処にも行きませんし、あなたを避けたりもしません、驚きと疑いが入り混じった顔で、清井さんは僕を見る。

清井さん、あなたは綺麗です。
普段のあなたも、絵を描こうと苦しんでいるあなたも、綺麗です。

僕は少しだけ、笑った。脇においてあった、もう冷めてしまったコーヒーを啜る。

また店に来てください。僕は、あなたが来るのを待ってますから。

清井さんは、少ししてから、頷いた。




その後、僕が店で掃除をしているとドアが開く音がしたので、また常連客か、と顔を上げると、清井さんが立っていた。
マスターがカウンターから、ああ久しぶりだねえ、と穏やかな声で呼びかけた。

清井さんは、いつもの席に座る。

マスターがコーヒーを淹れようとしたが、清井さんがそれを呼び止める。
僕に作ってもらいたい、と言うのだ。

まだ満足のいく味には仕上がっていないが、僕が差し出したコーヒーを清井さんは美味しそうに飲んでくれた。


私ね、絵を描くの、やめようと思ってたんです。
静かに、清井さんが窓を見ながら囁いた。

でも、考え直しました。もう一回、美大に通うことにします。清井さんは微笑みながら窓の外を見つめる、笑って世界を見ている。
清井さん、ここからは、どんな世界が見えるんですか。僕は清井さんの横顔に尋ねた。清井さんは黙ってコーヒーを啜る。

ここからの景色は、最初見ただけだと普通の住宅街なんですけど、意外といろんなものが見えるんですよ。通り過ぎる会社勤めの人とか、奥さんたちとか、夕方になれば子どもたちが笑いながら自転車に乗っている。おじいさんおばあさんたちは世間話をしながら歩いている。夜になれば明かりが灯って、ガラスの向こうにあたたかい光がいくつも浮かぶ。何にも変わったところは無いですけど、ありふれているけれど、みんなきらきらした景色なんです。私は、現実の世界から取り残されていた。確かにみんなの笑顔も、世間話も、私には遠かった。この景色も絵に描こうとしたけれど、出来ませんでした。でも本当に綺麗だったんです。

コーヒーカップが、かたりと音を立てた。

良かったです、僕の声に、清井さんが僕を見た。
清井さんがここに来てくれて、良かったです。
清井さんは、ありがとう、と言った。

僕はコーヒーのおかわりを淹れようとカウンターへ向かった。きっと彼女は飲んでくれるだろう、という思いが、何故かあった。
マスターが立っていて、あの子、乗り越えたんだな、と僕にしか聞こえない声で囁いた。

それから、週に何回か清井さんは喫茶店を訪れて、コーヒーを飲んで帰る。そのときにコーヒーを淹れるのは僕、という決まりが出来た。
僕の作った晩御飯も、ちゃんと食べてくれている。美大にも、最初はおずおずとだったが、復学して、少しずつ慣れてきたようだ。
今日はオムライスでお願いします、その言葉を、笑いながら僕は受け取る。分かりました、と。



清井さんの居る店が、もう一度当たり前になってきたとき、僕は店の壁にかけてある絵を架け替えた。


花びらのような薄紅の、光の加減が様々に入り混じった、あたたかい色調だった。

色彩

色彩

美大生の話をもう一度書いてみました。

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2012-03-12

Copyrighted
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