遠くなる声

首吊り僧都

まだ肌寒い初夏の夜、口寂しさを紛らわすべく棚の方へ手を伸ばす。最早習慣となった行為だ。いつも通り湯を沸かし、ティーポットとコップを用意し、紅茶を淹れる。しかし、今日手が探り当てたのは紅茶ではなくコーヒーだった。そういえば葉を切らしてた、明日は買い物だな。と、明日のことを考えつつ、随分と久しぶりだが今日はコーヒーにするか、と思い立つ。昔は苦手だったがいつから好きになったのだろう、という問を頭の片隅で弄びつつ、手はコップに湯を注いでいく。
インスタントだしこんなものか、と久方ぶりのコーヒーの香りを嗅いでいると、脳裏によぎるものがあった。それは声の形をしていた。あぁ、そういえば……

「コーヒー、ブラックで」
彼女の、あまり働くのが好きではない口から、いつものように少ない単語が放たれた。その単語の聞き慣れない響きに、共に喫茶店に行くのはこれが初めてであることに気がつく。そんな思考に気を取られていたせいか、店員の声に対し咄嗟に
「同じものを」と返していた。
さぁ、どうしよう。とっさに頼んだはいいが昔ブラックコーヒーを飲んで以来苦手なのだ。できることなら紅茶などに換えたいが、しかしなけなしの意地だって張りたい。結局共に席についた時、こちらの手元にあるのはブラックコーヒーだった。
「コーヒー、好きなの?」
そう彼女は問いかけてきた。普段は感情を表に出さない彼女だが、珍しくその問いには関心が含まれていた。そのことに驚きを感じ、つい正直に苦手だ、と口に出してしまう。
「……馬鹿ね」
一刀両断である。どうやら思考に気を取られて望まぬ注文をしたことを気取られたようだ。恥ずかしい。それを誤魔化すべく、コーヒーは好きなのかと問いかける。
「好きね。家でも学校でも、そればかり飲んでいるわ。でも同じコーヒーでもブラック以外は好きではないわね。」
いつもより口数の多い彼女に驚きを隠せない。今日は驚かされてばかりだ、とつい笑みが顔に出てしまう。
「そんなにおかしいかしら。失礼な」
そんな不機嫌そうな声に対し弁解しつつ、コーヒーの好きなところを訊くと、
「まずは香りね。この店のコーヒーはお気に入りなの。ちょうどいいわ、嗅いでみて。この香りは……」
彼女の楽しそうな声に耳を傾けつつ、コーヒーの香りを楽しみ、少し飲んでみる。なるほど、たしかになかなか悪くない。昔とは味覚が変わっているのか、記憶ほど苦くはない。もしかしたら他にも理由はあるのかもしれないが……と、少し不埒な考えも芽生えるが、どうにも勘がさえるコーヒー愛好家に悟られぬよう押さえ込む。まだ茶化すには早い。もう少しこの声に晒されていよう。常になく饒舌に語る彼女の姿を視界に収めつつ、コーヒーをもう一口飲む。さっきよりも苦さがなくなった気がした。

……なるほど。コーヒーが飲めるようになったのはあの時からか。ふと感じた疑問が解決し、次いでいつからコーヒーを飲まなくなったかを考えたが、思い出せなかった。記憶の曖昧さに苦笑し、コーヒーを飲む。記憶より苦く感じなかったことに微かな安堵を覚えた。どうやら明日からもコーヒーを飲む必要はなさそうだ。

翌日、前から気になっていた茶葉を買い、早速淹れて飲んでみた。好みの風味だ。これからはこの茶葉を買おう。あの声が少し遠ざかった気がした。

遠くなる声

遠くなる声

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-05-06

CC BY
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