黒いヴェール
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日が暮れてあたりが薄暗くなってきた頃、
人気のない道を下を向いてのろのろと歩いていた。
両側には深い木立ちがしばらく続き
重なったたくさんの枝が闇を色濃くして、複雑なシルエットを作り出している。
風が冷たく吹きつけ、マフラーも手袋もない体をどんどん冷やしてゆくが
それすらあまり気にならないでいた。
それくらい、暗い気持ちで歩いていた。
下を向いていたので、初めは気付かなかった。
風が枝を揺らす音かと思ったが、ひゅうひゅうと鳴る木枯らしの中から
「きししし。きししし」
と少し違った質の音がする。
「きししし。きししし」
「きししし。きししし」
ぼんやりと木立ちへ目を向けると
枝々の闇の中に赤いサインペンで点を二つずつ打ったように
小さな赤い目がたくさん光っているのが見えた。
一度目を向けるとなぜか釘付けになってしまい、立ち止まる。
「・・・誰?」
と、その無数の赤い目に向かって、怖々尋ねてみる。
「きししし、きししし」
笑い声がいくつも上がって
「おれだよ」
「おれだよ」
「おれだよ」
と、たくさんの甲高い声が一斉に答える。
「・・・誰なの?」
もう一度尋ねると、
「分かっているくせに」
「そうだ、よく分かっているくせに」
と、赤い目がまたみんなして答える。
「分からない」
とこちらが答えると、今度は少し責めるように
「お前が呼んだんだろう」
「そうだ、お前が呼んだんだ」
「だから来たんだ」
声が口々に言う。
頭がどんよりと重く、うまく意味が把握できない。
呼んだ覚えはなかったけれど
呼んだと言われればそんなような気にもなってしまう。
とにかく、体がだるかった。
話を続けるのが億劫になって
無理矢理目をそらし、暗い道をまた先へと歩いてゆく。
たくさんの赤い目はひゅんひゅんと木立ちの間を飛びまわって
こちらの歩調に合わせてついてくる。
まだまだ、この道を抜けられそうになかった。
「きししし、きししし」
という笑い声がしつこく続き、いつまでも私の横をついてくる。
早く明るいところへ出たいのに、足が重たく、引きずるようにしか歩けない。
足元もよく確かめないままのろのろと進んでいくうち、
ふいに大きな石を踏んで足首をひねってよろめいてしまった。
「きしししっ、きしししっ」
「きしししっ、きしししっ」
一段と笑い声が高くなり、
「やいやい、どうした」などという野次も聞こえる。
答える気にもなれず黙って足をさすっていると
がさっと何かが枝の間から飛び出してきて、私の肩に爪を立ててつかまった。
向こうから顔を覗き込むように近づけてきたので、暗がりでもはっきりと見えた。
赤く光った目をした、年老いた醜い小人であった。
「きしししっ」
肩の上で、それが笑う。
汚い歯を剥き出しにして。
笑うと、いやらしい顔がますますいやらしくなった。
心底嫌な気持ちがして急いで手で払おうとしたが
私の手の平が当たるよりも前に小人は素早く肩を蹴り上げ、
また木立ちの中へ飛び込んでしまった。
「きししし、きししし」
と、仲間が笑う。
風が吹いて木の枝を揺らし、たくさんの赤い目も一斉にゆらゆらと揺れた。
見ているとめまいがするようで、すぐに目をそらし、また歩き始める。
先を急ぎたいのに、ひねった足首が痛くて早く歩けない。
頭も体も、どんどん重くなるようだ。
少し速度が落ちると、木立ちから小人が素早く飛び出し、肩の上に飛び乗ってくる。
爪を立てて、いやらしい声で笑う。
それを追い払う。
その繰り返しで、だんだんと思うように追い払えなくなってきた。
初めに乗った者を手で払うより先に、次の者が体に乗ってきてしまう。
「きしししっ」
と笑いながら、頭によじ登ったり、腕にぶら下がったり、
服の背中に爪を立てて引っ張ったりする。
体がどんどん重くなり、足もうまく進まない。
速度が落ちるたび、次から次へと小人が飛びついてくる。
とうとう体中に小人がしがみついて、身動きが取れなくなってしまった。
「重い。重いよう」
たくさんの醜い小人をぶら下げて、私は呻く。
「お前だ」
「お前が呼んだんだ」
「だから来たんだ」
そう言ってみんなして
「きししし」と笑う。
呼んでない、と答えたいのに、声が出ない。
気付くと日がとっぷりと暮れて
あたりは物の見分けがつかないほど真っ暗になっていた。
重い頭をめぐらすと、体中で赤い目がぎらぎらと光っていた。
ふいに、「やあっ」と大勢で甲高い掛け声を上げたかと思うと
一斉に体中の小人が飛び上がって離れた。
急に体が軽くなってふらついた途端、
今度は頭からばさっと重たいものをかけられた。
湿気を含んでやけに重みのある、分厚いヴェールであった。
頭からつま先まで、すっぽりと包まれてしまう。
その上からまた素早く小人たちが飛びかかってきて
逃げられないように押さえつけられる。
「きししし」
「きししし」
という笑い声が、ベールを通してくぐもった音で耳に届く。
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もう本当に、一歩も動けなくなってしまった。
・・・・・・重たい。
・・・・・・重たい。
真っ暗なヴェールの中で、それだけをただ繰り返し思う。
耐え切れず、その場にしゃがみ込む。
ヴェールの中はかび臭く、息苦しい。
・・・・・・重たい。
・・・・・・重たい。
小人たちが半狂乱になって、頭を小突いたり肩をつねったりする。
けれど、それに逆らう気力が湧かない。
「きしししっ」
「きしししっ」
あとからあとから新しい小人が体に飛び乗ってくる。
一体どれほどいるのだろう。
木の枝が重そうに、がさがさと絶えず音を立てているのが聞こえる。
・・・・・・帰りたい。
鈍くしか働かない重たい頭の片隅で、ぽつりと考える。
小人がどんどん乗ってきて
私はヴェールの中で膝をつき、手のひらを地面につけてなんとか体を支える。
・・・・・・帰りたい。
きーきーと体中の小人が大騒ぎして、何度も頭を小突かれる。
「お前が呼んだんだろう」
「お前が呼んだんだろう」
そう言って、ヴェール越しに腕や足にかみついてくる者もいる。
帰りたい。
重みに耐えながら、だんだんと腹が立ってきた。
「・・・帰りたい」
微かだけれど、声が出た。
自分で自分の気持ちを確かめる。
「帰りたい」
今度はもう少し大きく。
「うけけけけっ」
と、いやらしい笑い声が聞こえる。
「ずっといるんだろう」
「ずっとここにいるんだろう」
ヴェールの向こうで、小人たちが口々に囃し立てる声がくぐもって届く。
「帰りたい」
はっきりと、声が出た。
そうだ。
帰るんだ。
そう思ったら、指先がほんの少し温かくなってきた。
真っ暗なヴェールの中で目を凝らすと
指のあたりにほんのりと淡いオレンジ色の光が見える。
「帰りたい」
意識して、はっきりと声を出す。
その声に反応するように、オレンジの光が濃さを増した。
指先に、微かな炎が灯っているのだった。
ヴェールの中でもぞもぞと腕を動かし、指先を顔に近づけてみる。
ほわほわと、湯気のように淡い燃え方をしている。
少し温かい。
「帰るんだ」
言い聞かすように、そう言った。
「ああ?」
「何か言ってるぞ」
「うけけけけっ」
体にしがみついた小人たちがあざ笑う。
「帰るんです」
今度は外へ向かって言った。
言ってから、淡く燃え立つ指先を重いヴェールの布地に押し当てる。
ちりちりと小さな音がして、ヴェールの中に焦げ臭い匂いが広がった。
できるだけ吸い込まないように片腕で鼻と口を覆い、
空いている方の指先をまた押し付ける。
少しずつではあるが、ちりちりと分厚い布が焦げてゆく。
「帰るんです」
口を覆いながら私は言った。
途中で気持ちが折れてしまわないように。
「うげげげっ」
「ずっといるんだ」
「そうだ、ずっといるんだよ」
外から盛んに囃し立てられるが、もう気にしない。
「帰るんです」
そう言って、内側からヴェールの湿った布地を焦がし続ける。
気持ちがしっかりしてくるのに合わせて、指先の炎が濃さを増していく。
じりじりと焦げ方が早くなるのが分かって、と同時にヴェールの表面に穴が開き
指先が外のひんやりした空気に触れた。
「ぎあっ」
甲高い叫びを短く発して
指の出たあたりにぶら下がっていた小人が熱さで地面へ落ちたのが分かった。
「うげげげげっ」
「うげげげげっ」
他の者たちは何とも思わず、落ちた仲間を見て笑っている。
かまわず焦げた穴を広げる。
指先を押し付けると、布が溶けるように燃えて広がってゆく。
「ぎあっ」
とまた別の叫び声が上がり、ぼてっと小人が落下する音がする。
穴はどんどん広がり、もうこぶしが突き出るまでになっていた。
ヴェールを突き破って突然現れたオレンジの炎を見て
頭の上の方にいる小人たちもようやく慌て始めた。
きいきいぎゃあぎゃあ騒ぎながら、燃え立つこぶしにみんなして飛びついてくる。
「押し込めろっ。押し込めろっ」
「外へ出すなっ」
「逃がすなっ」
口々に叫んで私をヴェールの中へ押し戻そうとする。
「帰るんですっ」
負けじと私も言い返し、その声に反応するように炎がひじの辺りまで広がった。
「ここからっ、出るんですっ」
重いヴェールを引き裂くように左右へ押し広げると
熱で溶けるように布がやわらかく開き、上半身が表へ出た。
冷たい空気が頬をなでる。
胸いっぱいに、それを吸い込む。
きいきいぎゃあぎゃあと悲鳴を上げて、わらわらと小人たちが散らばってゆく。
服の裾に炎が燃え移った者もいて、地面を転げ回って必死でかき消している。
無事だった者も、何か意味を成さない声を発しながら
四つん這いで木立ちの中へ逃げ込んでゆく。
それらを横目で見ながら、ゆっくりとヴェールから足を抜く。
焦げて小さく丸まったヴェールは
地べたの上でただの汚い布の切れ端になっていた。
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両腕はもうまばゆいほどの明るい炎に包まれていて、
でも不思議と熱くはなかった。
何か、芯から温まるような感じがする。
試しに少し足首を動かしてみる。
ひねって痛んだ足首は、さほど気にならない程度になっていた。
「よし」
と深くうなずき、ゆっくりと一歩一歩踏みしめながら歩いてゆく。
両側の木立ちの中で、小人たちの赤い目がたくさん揺れている。
ざわざわと枝が動き、きいきいぎゃあぎゃあ騒がしい。
「お前が呼んだくせに」
「そうだ、お前が呼んだくせに」
口々に、こちらを非難するような言い方をする。
それでもかまわず歩いてゆく。
小人たちが騒ぎながら、枝々をびゅんびゅん飛び交ってついてくる。
「仲間だろう?」
「そうだ、おれたち仲間だろう?」
いろんな声が四方八方から聞こえる。
でもそれに耳を貸さないように
気持ちをしっかりと保ちながらずんずん歩いてゆく。
幾度も幾度も、胸のうちで自分に言い聞かせる。
目を合わせてはいけない。
心を、支配されてはならない。
繰り返すうち、なんだか少し泣けてきた。
何の涙だか、よく分からない。
よく分からないまま、鼻をすすりながらそれでも歩いてゆく。
何度でも何度でも繰り返す。
「目を合わせてはいけない。
心を、支配されてはならない」
ようやく暗い木立ちを抜け、見慣れた道へ出た。
家々の窓から明るい灯りが外まで漏れ出し、
どこからか夕餉の支度の匂いが漂ってくる。
それでも気を抜かず、後ろを振り返らずに歩く。
まだ少し、甲高いわめき声が背中を追ってくる。
それには絶対に、耳を貸さない。
古い街灯の立つ角を曲がって砂利道を少し入ると
軒先に灯りのついた我が家の玄関が目に入ってくる。
その明るい光を背に受けて
玄関先に真ん丸く座り込んでシルエットになっているのは、家の猫であった。
軽く息を切らしてたどり着いた私を待ちわびたかのように
猫はのっそりと立ち上がって大きく欠伸をする。
玄関の扉を開けて猫を先に通してから、初めて私は後ろを振り返る。
暗闇の中に、もう赤い目は一つも見えない。
嫌な笑い声も、甲高い呼び声も聞こえない。
先に家に上がった猫が振り返って待っているので、私もようやく中へ入る。
扉を閉めて、鍵をきっちりかけて。
そうしてやっと、一息つく。
扉を背にして、そうだ、と私は考える。
あれを呼んだのは私だ。
あれは私の仲間だ。
気を抜くといつだって、暗い気持ちを助長させるように私に覆いかぶさってくる。
だけれども。
と、私はまた考える。
あれに気を許してはいけない。
決して、心を、支配されてはならない。
ふう、と私はもう一度深く息を吐く。
体がずいぶん疲れていた。
空腹なのかどうか自分でもよく分からなかったが、
何か体を温めるようなものを食べなくてはいけない。
その前に、ゆっくり風呂につかるのもいい。
結局できることといえば、そんな単純なことしか思いつかないのだった。
「ぐるなーう」
と、猫が鳴く。
甘えたような声を出して。
「そうか、まずはあんたのご飯だね」
お腹を空かせた猫を見ていたら、いつもの調子が戻ってきた。
冷蔵庫の扉を開けて、中を覗く。
黒いヴェール