あの光景の中で

葉摘 馨

 私には、忘れられない光景がある。否、憧れていると言ったほうがいいだろう。
 とは言っても、初めて見たのは過去に見たのだか夢のことだか判断はつかない。いつ見たのかも、思い出せない。ただ毎朝、起きる寸前の夢の中や、目覚ましを止めたあとぼーっとした時なんかに蘇る。
 それは、青々と茂った葉に滴がついて煌めいているから、雨上がりなのだろう。そんな緑の真ん中で男の人が黒猫を目線の高さまで持ち上げ、微笑んでいる、というものだ。黒猫の毛並みは綺麗に整っていて、少し光が反射していた。男の人は、若そうだ、ということしかわからない。高校生か、あるいは社会人だと言われても首肯けそうだった。彼は眩しそうに目を細めるかのように笑っていて、猫のせいもあるのか優しそうだ。きっととても優しいのだろう。
 ハッと気がつき目覚ましを見ると、もう五分以上ベットの上で座っているではないか。これはいけない。
 早く学校に行かなければ。あの親父が帰ってくる。手も荒い、口も荒い、アイツが。
 私にとって中学校は逃げ場でしかなかった。父はいつも九時頃に帰ってきて六時頃に仕事に行く。中学校はちょうど私と父を会わないようにしてくれる。
 母は、小学校の頃に出て行った。父のDVに愛想が尽きたのだ。母は私を連れて行かなかった。理由は知っている。母は私が知っているとは思ってもいないだろうが、母がいた頃、毎日彼女は自分の部屋で「あの子はあの人の血を引いているのだ」と言いながら泣いていた。
 なぜ自分が生まれたのかが不思議だった。母は父を嫌い、父の血を引いた私を嫌った。父も同じく、母を嫌っている。なぜ二人はお互いの血を引いた私を生んだのか、不思議でたまらなかった。
 しかし、結果を見て「不思議だ」といっても仕方がない。理由がわかったところで父が優しくなるとも、母が帰ってくるとも思えなかった。そんなことを考えているのなら、一刻も早く父が帰ってくるこの家から出なければいけない。
 中学校は逃げ場だといったが、それは家にいるよりマシという意味で、退屈極まりなかった。何かが楽しいと思えない。友人がいないわけではない。ただ彼女たちにはそれぞれ私より大切な“親友”がいるだけであって。
 授業を終えてすぐ帰ると、父が家にいる。仕方がないので私はいつも部室へ向かう。人数ギリギリ、それも幽霊部員ばかりで廃部寸前の部活だ。部室に行ったって基本誰もいないし、三年生が引退した今、部員が何人なのか見当もつかない。部長もおそらく同学年の子がやっているのだろうが・・・それも知らない。多分ほとんどの子が知らないだろう。その程度の活動なのだ。
 私は部室に行って宿題をする。私みたいなタイプの成績は飛び抜けていいか飛び抜けて悪いかだが、私は丁度真ん中ぐらいだった。
 日が暮れた頃を見て家に帰る。電気はついていない。父はもう行ったようだ。
 ふと、あの光景を思い出す。男の人が猫に向けていた笑顔。それは、きっと私には誰からも向けられない笑顔なのだろう。こんな私に、あんなに優しく笑ってくれる人なんているはずがない。
 自分の部屋に荷物を置いてから、キッチンへと戻り湯を沸かす。今日もインスタントのカップ麺にする予定だ。料理ができないわけではない。基本、する気になれないだけだ。
 家には娯楽がない。否、唯一つまらない黒い箱がある。“テレビ”というやつだ。見る気にもなれないので私にとっての娯楽とカウントしていない。
 ふとゴミ箱に目をやった。小さなそのゴミ箱にはおそらく今日受け取ったであろうチラシだけが入っていた。私は裏が白いものだけを取り出し、近くにあったペンでラクガキを始めた。あの光景の絵だ。
 カップ麺をすすりながら描いたその絵はヘタクソだったが、まあこんなものだろうと納得できる程度のものであった。ただ、絵の中の男の人は笑っているのに何処か切なそうだった。

 一夜明けても、私は何も変わらない生活を送る。
 それがつまらない。毎日毎日父に怯え、学校ではつまらないと吐き続ける。どうしようもないのは私か、この世界なのか。
 いつもどおり、部室に行ってから家に帰った。
 が、家の中の電気がついていた。さっき帰り道にある小学校の時計を見たとき、七時を回っていたからこの時間に父がいるとするなら今晩は休みなのだろう。
 電気がついているのはリビングだが、そこを通らないと自分の部屋へは行けない。
 私は早まる心臓を深呼吸で落ち着け、中に入った。
 リビングの前のドアで止まる。中からテレビの音がする。
 やはり、父だ。
 これほど父でない方がいいと思う女も少ないだろう。
 大丈夫。少し話すだけ。少し話したら、部屋にこもればいい。
 カチャリとドアを開ける。
 テレビを見ていた父が振り返った。
「・・・久しぶりだな。」
 数ヶ月ぶりにあって、少しは賢くなったかと思ったら、とんだ期待はずれだ。父はニコリともせず、帰ってきた娘に対して「おかえり」ではなく「久しぶり」などと言う。この感覚の違いが、本当の父と娘の違いだと思うと虚しくなる。
「そう・・・ですね。」
「こっちにこいよ。」
 父はその色黒の筋肉質な腕で手招きした。ぴったりとしたシャツでもないのに、がっしりとした体型が服の上からでも見て取れる。父は確か四十後半だったが、普通の人より筋肉量は多いと思う。それは父の仕事の過酷さと同時に父が私に振るう拳の強さも表していた。
 私は父に招かれたとおり、父の隣へと行き、カバンを下ろして座った。
「積もる話もあるんじゃないか?」
 父はそう言った。
 そんなもの、ない。携帯も買ってくれない親が、娘に友達の話をしろというのか。普通の家庭を与えなかったキサマが、私が楽しく幸せに暮らしているところを想像したとでも言うのか。
「あまり・・・ないかな・・・?」
 私は笑って誤魔化す。なるべく、苛立ちを表に出さないように。
 早くここから逃げたい。早く、早く。
 父がしょうもない理由をつけて私を殴る前に。早く。
 そう思ったとき、スッと父の手が私の腰へ回った。
 何?気持ちの悪い。
「やっぱり、待って良かった。」
 父は今まであまり聞いたことのないような気持ち悪い声で言った。
「・・・何を?」
 私は眉をひそめて聞いた。
「お前がこうやって成長するのを。こうやって大人の身体になるのを。そうじゃないと襲う意味がない。」
 ・・・逃げろ、と頭が叫んでいる。が、体の自由が利かず、むしろ腰に回された手の力で動きづらくなった。
「お前はあの女の娘だから、捨てようと思っていたが・・・今思えば馬鹿らしい。これほど俺の求めた存在はいない。・・・俺の好きにできる存在は。」
 父はうわ言のように呟いている。
 父の手は私の身体のラインをなぞる。なぞっては返り、それをしばらく繰り返した。
「お前はあの女を無理やり襲って、孕ませたんだ。それがなんだよ・・・、責任を取れを言われたときは泣きながら笑ったよ。結婚したはいいが、責任から逃げたのはどっちだか。」
 父はハハ、と嘲笑い、そしてため息をついた。
 私は混乱する頭で父のうわ言を聞いた。
 父の言ってることが全て本当なら、やはり私は誰にも望まれず生まれた子なのだ。
 父が、母を、無理やり襲って・・・そして私をつくり、こんな私を生んでも後悔せずまた娘を襲おうとする。
 最低な男だ。
 父の手はするりと滑り、ショーツの上から恥部を触ろうとする。
「あっ、やめてっ」
 私はやっと動いた体で父の手を掴む。が、父はそんなことでは止まらなかった。
 やめて、やめて、と何度も言うが、父はそんなことを気にもせず私のショーツを下ろした。
「やめろっ」
 私は涙声で叫んだ。
 父はハッと驚き、手を止める。が、その表情はみるみる怒りへ変わっていった。
 父の右手・・・私が掴んでいたほうの手を振る。それだけで私は吹き飛ばされそうになる。
 何に・・・何にキレた?
 お前が私を殴る理由なんて何一つないはずだ。罪を犯したのは私じゃない、お前だ。罰を受けるのはキサマの方だろ。
 父はウウ、と唸る。そして糸が切れたように嘲笑った。
「そうか、そうだった。お前はあの女の娘だった。ああ、何だそうか・・・。結局俺の人生はアイツに全部狂わされているんだ。」
 父は私の顔や体を拳で殴る。いつもは見えないところを選ぶが、今日は我を失っているようだ。
「あの女・・・こんなクソ娘を残していきやがって。やっと成長しきったと思ったら、あいつと同じ抵抗をしてきやがる・・・。」
 ・・・それは・・・母の愚痴か?
 意識が朦朧とする中、父の言葉が耳に入ってくる。
 父が殴っているのは私ではない。私と重なった、母だ。
「クソが、クソがっっ。てめえらは何故おれのじゃまをする・・・?クソがっ」
 父の目が、私に拳を当てるたびに鋭い光を宿していく。
 ああ、いっそこのまま殺されてしまいたい。
 私は腫れてほとんど開かなくなった目に溜まる涙を感じた。
 なんとか逃げようと這いつくばり、立ち上がる。
 その瞬間、私はしまった、と後悔した。
 父の目がギラギラと輝いている。まるで人を殺そうとしている眼だ。
 父は私の顔を殴り、私はそのせいでよろける。その私の胸ぐらをつかんで突き飛ばした。
 あ・・・後ろには確か…机があったような・・・
 ドン、と鈍い音がした。が、不思議と痛みはなかった。
 また、いつもの光景がそこにある。いつもは止まったままのあの光景が、今回は動いている。光景の中に、入ってしまったようだ。
 男の人が猫を拾い上げ、そして私がいるのを知っていたかのようにこちらを見る。彼は猫にしていたように私に微笑みかけ、私の名を呼んだ。
 私は彼の方へ駆け出した。

あの光景の中で

こんにちは、そしてはじめまして。今回が星空初めての作品です。
短編です。いや、ほんとに短いですね。あっという間でした。
この作品、実はあの光景に遭遇しまして(猫を抱えたのは男ではなくショートカットの女の子でしたが)、これどうにか使えないかな・・・からの作品です。私のネタってそんな感じで降ってきます。

それから、一応これ続編あります(予定)
出せたら出します、気長に待っていてください。

あの光景の中で

私には、忘れられない光景がある。

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-05-05

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