ラウンディランディ

片桐ふわり

ラウンディランディ ①

ラウンディランディ ①

雨が降った時のアスファルトが濡れた匂いが好き
少し肌寒くなってきた季節の変わり目の匂いが好き
晴れの日に干した布団に顔を押し付けて香る匂いが好き

―すれ違う時に香る、彼の匂いが好き



雲が少しだけ厚くなり、秋の訪れを感じさせる。雨は降らないだろう雲は緩やかに赤く染まり、乾いた風が吹いている。そんな風景と風を感じながら地下鉄へと続く階段を下りる。改札を入ると、電車のアナウンスが鳴った。もうすぐ電車が来るようだ。今日はいつもより少し早めに仕事を切り上げたので、外の日はまだ明るい。そんな明るさも地下鉄に入ってしまえば全て人間の手によって作られた蛍光灯の灯りへと変化する。秋奈はその薄暗さが好きだった。地下鉄の独特なコンクリートのひんやりとした空気と臭い。無機質なほど精密に作られた駅の中は、気持ちが落ち着くのだ。ホームに立つと、すぐに電車が秋奈の目の前を通り、速度落とす。完全に止まったところでドアが開き、秋奈は電車へと乗り込む。今日は気分を変えて快速も特急も使わず、一日の残り時間を目いっぱいに使って帰宅しよう。秋奈は会社を出るときからそう決めていた。いつもより込み合っている電車内。ドアのすぐ近くに立つ秋奈は、窓ガラス越しに自分の顔を眺めていた。窓に映る自分の姿は、いつも以上に疲れている。そんな自分の姿にため息をついて、カバンの中から本を取出し付箋のあるところまで進める。並ぶ文字はとても小さく、今の秋奈にはその文字の羅列がどうしようもなく悲しげに見えた。止まる駅を知らせるための電光掲示板をちらりと見た後、また手元の本に目線を下げる。

―Please remember the language which is not forgotten once.
(一度も忘れたことのない言葉を、思い出してみてください)

読んでいた本の一文に、秋奈は目を止めた。

―忘れたことない言葉

秋奈の胸が小さく音を立てる。忘れたことない言葉と、忘れられない言葉の違いはなんだろう。忘れたことのない言葉は、その人がその言葉を大切に持っていて、忘れたくないと願っている言葉ではないだろうか。逆に忘れられない言葉は、忘れたいと思いつつ忘れたいと思いすぎて忘れられなくなってしまっている言葉ではないだろうか。秋奈の頭の中には、忘れたことのない言葉と同時に、忘れられない言葉がたくさん詰まっていた。その比率は後者のほうが圧倒的に多いであろう。そしてこの季節。忘れられない言葉と思い出の全てがリンクして、秋奈の頭を全て飲み込んでしまうような、そんな感覚に陥る。考えれば考えるほど頭の中で段々と黒さを増し、初めに考えていたことが何だったかすら分からなくなってしまう。そんな感じがここ数日、ずっと続いていた。

―忘れもしない、あの季節。消えたあの人と、残された香りと言葉。そして、私。


あの人と出会ったのは三年前の秋の終わり。知り合ったきっかけはとあるコミュニティサイト。インターネットを使ってSNSで会話をするという、いかにも現代社会に溶け込んでいるともいえるような出会いだった。秋奈はあの人の顔も知らない、声も知らない、本名も知らない。分かっていることはその人がインターネット上で使用しているハンドルネームと年齢(これも確かなものではない)、住んでる地域。たったそれだけの情報交換で毎日のように話題が尽きることもなく文字の羅列を並べて会話を繰り広げていた。ただ、その関係に変化があったのがあの人と知り合いSNSで会話を始めてから四か月と十五日後。あの人から思いもよらないような言葉が飛んできたのだ。

「ハチさん、今度よかったらご飯でも行きませんか?ハチさん確か名古屋でしたよね?今度、名古屋に出張があるんです。夜は時間に余裕があると思うからもしよかったら。」

ハチとは秋奈がSNSで使用している仮の名前だ。仕事が深夜に終わり、パソコンを立ち上げてSNSを開いたらあの人からこのメッセージが届いてたのだから驚いた。秋奈は化粧を落とすことすら忘れ、返事を打ち込む。。

「こんばんは、お返事遅くなってしまってごめんなさい。名古屋に出張でこられるんですね、遠くからご苦労様です。日程はもう決まっているのでしょうか。私も仕事がある為難しい日もありますので、あしからず。」

ため息を一つ洩らしながらエンターキーを押す。正直、秋奈としてはSNSの相手となんか会いたくないというのが本音。顔も知らない、声も知らない、ましてや本名すら知らないなんて、どうかしてる。食事だけで済むならこの世から男女の関係なんてなくなってしまうようなものだ。そういう可能性がゼロでないとわかっていて会いに行く程、秋奈は頭の悪い女ではない(はず)。仕事で疲れているというのに、さらに頭を悩まさなくてはならないと考えると本当にばかばかしくなってきた。とりあえず先にお風呂、そうだお風呂に入ってフルメイクとストレスをきれいに洗い流してお酒でも飲もう。そう考えながらピアスを外して脱衣所へと足を向けた―瞬間。

(ポーン)

メッセージを受信する、今の秋奈にとっては不吉な音が小さくパソコンから聞こえた。このままお風呂に入ってしまおうか、それとも面倒ではあるがもう少しあの人に付き合ってやろうか。数秒、リビングと廊下の間で考えたがやっぱりお風呂が先だ。そう、疲れているのだ。秋奈はポーンの音を無視して再び脱衣所へと歩き出した。

お風呂からあがり、やっと一日の疲れと顔に装備していた外向けの厚メイクをきれいに落として、バスタオル姿でキッチンへと向かう、冷蔵庫から冷え切ったビールを取り出して蓋を開けた。2LDKもある駅前の高層マンション最上階のリビングに、ビール缶の蓋が開く、軽快な音が響く。バスタオル姿のままソファに座り、テレビのリモコンを手にした時、お風呂に向かう前の事を思い出した。

―あ、メッセージ。

よいしょ、小さく声に出し重い腰を持ち上げてパソコンのあるダイニングテーブルへと向かう。秋奈のパソコンは仕事で使用するためリビングのダイニングテーブルに置いてある。買った時からそのパソコンはほとんど動かした事が無い為、その位置にあることが当たり前かのように部屋に馴染んでいた。ダイニングテーブルと同じアイボリー色の椅子に腰かけると、右下にあるアイコンが点滅していることに気付く。先ほどのポーンが気のせいでないことを物語っているように何度も点滅を繰り返していた。

「ハチさんもお仕事お疲れ様です、おかえりなさい。日程は来月の二日から一週間。その間の夜は接待がない限り空いているのですがどうでしょうか?無理にとは言いません、ハチさんの都合がよくて、不快に思わないのであれば…」

読み終えるころには秋奈の手にあったビールは空になっていた。不快?不快以前の問題ではないか。どうして何も知らない人と食事なんか…
その日はメッセージを返せなかった。と、言うよりも返したくなかった。せっかく一日の疲れとメイクを落としたのだ。これ以上なにかを身にまとうのはごめんだ。そんな感覚になるほどのことと秋奈には思えてしまったからだ。あの人に返信することなくパソコンの電源を落とす。その日はいつもより一時間以上早い就寝となった。

ラウンディランディ ②

秋奈の朝は早い。五時には起きて身支度を始め、六時過ぎには自宅を出る。会議や出張がある時はもっと早いが、始発に近い時間の電車に乗るのはもう慣れた。秋奈はメンズ雑誌の編集部でチームリーダーとして働いている。別に人一倍頑張ったわけでも、仕事だけしてきたわけでもない。言われたことは確実にこなす事と、自分に何ができるか、今後の会社にとって何が収益に繋がるかを考えていただけである。他の人が出来ないような、そんな特別な事は何もしていない、当たり前のことをしてきたつもり。誰にでもチームリーダーになるチャンスはいくらでも存在していて、そんなとき秋奈にチャンスが回ってきた。そう、タイミングが良かったのだ。大変な仕事ではあるが好きな事だからやれると信じている。自分にはこれが適正な仕事なんだと、四年間そう思ってやってきたのだから。
朝の電車はかなり空いていて、立って移動するなんてことは滅多にないほどの人だった。いつも通り同じホームにいるといつもと同じ電車が扉を開く。中から数人ではあるが降りる人がいるので、全員が降りるのを待って秋奈も電車へと乗り込む。―と、すれ違った人の香水のような、甘い香りが秋奈の鼻をかすめた。ふと振り返るがスーツ姿の男性が数名いるだけで、その香りの持ち主は誰かなどわかるはずもなかった。なぜあの香りが気になったのか秋奈にもわからなかったが、電車に乗ってからもその香りが気になって仕方がなかった。さほど考え込みはしなかったが、会社に向かうまでの二十八分間。その香りは秋奈の鼻をくすぐり続けていた。


「あ、秋奈さんおはようございます。今日の編集会議ですけど、この間お願いしていたモデルのTOMA(トウマ)君になりそうですか?いまいち今回の企画に合いそうな気がしないんですけど…編集長がTOMA君以外許可しないから…」

そう話しかけてきたのは後輩の小坂泉。編集部の仕事に就きたくて、わざわざ北海道から名古屋まで出てくるほどのアグレッシブな行動力の持ち主だ。そんな行動力にいつも秋奈は助けられている。泉は見た目からもそのアグレッシブさがにじみ出ていて、綺麗にカラーリングされたベリーショートの髪の毛が彼女にはぴったりだった。

「泉ちゃんおはよう。あ、それ今日の会議資料?見せてもらえるかな。変更するようお願いはしてるけど許可がなかなか下りなくてね。…うーん、私も彼はどうもピンとこないんだけど。泉ちゃん、聞いてみたんだよね?編集長は、やっぱり駄目って?」

秋奈は泉から渡された書類を手に取り、事細かに書かれたプロットをめくりながら泉に問いかけた。あまり完成度としては高くない資料をぺらぺらとめくる。

「はい、ダメだって。イメージと合わないって言ったんですけど、今売れてるのは彼だからって。売れてても特集のイメージと合わないものを出すわけにはって反論はしてみたんですけど…編集長怒っちゃって。」

泉はばつが悪そうに鼻を鳴らして笑うと、左手に持っていた大き目のカバンからもう一つの資料を取り出して秋奈に差し出した。

「ダメとは言われましたけど、やっぱり納得できなかったのでもう一つ作ってきたんです。一応こっちも会議で出そうかと思ってるんですけど…やっぱり自信ないので秋奈さんに見てもらってから決めようと思って。会議は夕方なので、時間ある時に目を通してもらってもいいですか?」

先程最初に渡された資料よりも倍以上分厚い資料を渡され、秋奈は驚いた。これを一週間で組み込んだのかと考えると、秋奈でも徹夜しないと難しいほどだ。渡された資料の表紙には【流行色(カラー)は自分で決める】と、大きく書かれていた。そう、秋奈と泉が今回担当しているのは流行色を大きく取り入れたファッション特集の記事だった。TOMAとは今売れっ子の十八歳モデル。父親がドイツ人で母親が日本人とイタリア人のハーフ。顔立ちは東洋系の、いかにも日本人の女子が好きそうな顔立ちである。しかし秋奈と泉が彼で納得しない訳は、東洋系の顔立ちに合うファッションを選んでも日本人がそれを着るとは限らないからである。顔もスタイルもいいモデルが着れば売れるというのは昔から変わらないが、日本で流行しているカラーを取り入れて東洋人が着ても、確実に売れる保証がなかったからだ。海外でも日本でも今年のカラーが同じであれば売れたに違いないであろう。しかし日本独自の流行色。それならば日本人の顔立ちで、親近感の持てるようなモデルに今年の流行色を取り入れたファッションをコーディネートし、特集として雑誌に載せる方が確実に売れるという自信が秋奈にはあった。この企画は夏の終わりごろから計画していた。泉から手渡された資料は、前回の打ち合わせで決めた流行色も取り入れ、それに加えて沢山のアレンジが記載されていた。そこには、好みに合わせたコーディネートサンプルから、街中を歩く通行人にお願いして撮影したであろう写真が何枚もクリップで止められていた。

「泉ちゃん、これ一週間で作ったの?すごいね、これだけまとまっていれば会議にもだせるし、多分これでオッケーもらえるんじゃないかなぁ。あとは会議までに細かいところチェックしてみるね。」

先程はばつが悪そうに笑っていた泉も、秋奈の言葉を聞くと嬉しそうに笑い、よかった、ありがとう秋奈さん!と普段よりも大きい声で、尚且つ嬉しそうな声を上げた。つられて秋奈も笑いながら、自分のデスクへとつく。カバンから手帳と携帯を取り出し今日の予定を確認を始めた。

十一時 編集部本社打ち合わせ
十三時 次回(来年)夏物企画
十五時 編集会議
十九時 TOMA君事務所打ち合わせ(来年春物)

予定のチェックが終わるとパソコンを立ち上げ、メール確認をする。毎朝決まりごとの作業、一度も欠かしたことはない。メールは編集長から、お得意様から、モデルの事務所からと様々だ。自分宛に来るメールをすべてチェックし終わると、期日まで提出しなければいけない書類をメールで編集部宛に送る。デスクに座ってから数十分。朝一でやらなければいけないことはまず終わった。十一時からの打ち合わせまで、まだ三時間ある。その間に先ほど泉から受け取った資料にできるだけ目を通さなければ。そう思い、その分厚い資料に手を伸ばし一つ一つ細かくチェックをしていく。もちろん訂正は入るがさほど大きな訂正はない。泉は優秀なのだ。天性の素質というものなのだろう。センスは抜群にいい。秋奈はそれを信用し、泉と仕事をしているのだ。全て読み終えるまで一時間半程度かかったが、以前企画していたTOMAの内容よりいいものだ。これで行こう、これなら行けると秋奈は確信していた。秋奈はすぐに泉を呼んだ。

「泉ちゃん、いま大丈夫?十分くらいいいかな?あ、青木君。第二会議室あいてる?」

嬉しそうな表情で返事をする泉と、大丈夫ですよと答える後輩の青木。秋奈は泉を連れて隣の小さい会議室へと向かった。それに泉もついていくようにして会議室へと入っていった。会議室は誰もいなかった為暖房が付いておらず、温度はかなり低い。暖房のスイッチを入れ、椅子へと腰かける。秋奈が座ったのを確認すると泉も椅子へと座り、緊張の面持ちで秋奈を眺めた。その空気を割ったのは秋奈だった。

「泉ちゃん、これ企画として出してみようか。私が推薦するよ。今回TOMA君メインじゃなくなっちゃうけど、こっちの方が私も好きだな。この男の子、泉ちゃんのお友達?変にモデルっぽくなくて私は好きだな。特に子の写真、すごく惹かれる。アイドルみたいにイケメン君ってわけじゃないけど、すごく雰囲気いいね。今年のカラーは彼に決めてもらって、こっちは助言する形を取りたいってことでいいかな?あと彼の私服も取り入れたいんだけどそれは泉ちゃんで打ち合わせできる?うちが取り扱ってるブランドなら、予算出してくれれば購入してもいいよ。TOMA君に関してはこっちで全部決めないで、TOMA君に私服を持ってきてもらってそれでコーディネートしてもらうの。こっちで準備しちゃうとやっぱりTOMA君に合わなさそうだもの。今回の春のイメージで、TOMA君の顔立ちは嫌に浮いちゃう。一番自分でリラックスできる衣装がいいよね。私服が用意できないっていうことだったらアクセントで小物とかだけでもいいし。それと撮影場所なんだけど、できれば彼の自宅とか生活感のある場所でできないかな。もちろん難しかったら生活感のある家を借りて撮影するんだけど。泉ちゃんがプロットに書いた通り、家に彼女を招いてます、っていう設定で撮影したいかな」

訂正した箇所の説明と、今回のメインとなるモデルの話を泉は真剣に聞いていた。泉の企画を壊さない様、尚且つ春に向けて一番いい部分を取り入れ訂正をしていた。そのほかにも細かい訂正があったが、泉の意見も取り入れつつ訂正の打ち合わせが終わった。丁度十分を経過していたところだった。

「秋奈さん、ありがとうございます!これ、今日の会議で出してみますね。秋奈さんのおかげで最初よりいいものになったなぁ」

嬉しそうに訂正された企画書を胸に抱く泉は、今にも走り出しそうな勢いだった。二人とも笑顔で会議室を出ようとしたとき、秋奈が思い出したように口を開いた。

「あ、泉ちゃん。そのモデルの子と打ち合わせ、明日とかできないかな」

早い方がいいと思うんだ、と付け足して秋奈は泉に言った。今後仕事をしていく可能性があるならば前もって顔合わせをしておいた方がいいと、秋奈は思ったからだ。秋奈の明日は一日オフ。出張が急にキャンセルになった為、一日空白になってしまったからだ。

「うーん、どうだろう。彼、仕事してるからあとでメールしてみます。返事はすぐ返ってくると思うから。」

ありがとう、と返事をしながら会議室のドアを開けると、オフィスの中は忙しさに追われるように、いつも通り電話が鳴り響いていた―

ラウンディランディ ③

「今回の企画、私は変更したいと思っています。TOMA君は確かに売れていますが、顔立ちや体系から日本人では出せないものをもともと持っています。日本人向けに出すカラーを彼に任せるのはいかがなものかと、今回考えました。お手元にありますもう一部の資料をご覧ください。私の友人で素人の彼ですが、今回の企画をお願いしようと思っています。そもそも今回のテーマは流行色。流行色はその時代によって変わりますが、どんなカラーでもお店に行けば手に入るような世の中です。そんな中で自分のカラーを出すことが、流行色だと私は思っています。それでこの資料にある【流行色(カラー)は自分で決める】に私は注目しました。彼らの私服、私生活を魅せることによって親近感は生まれるんじゃないかと。もちろん彼らの了承は得た上での撮影になりますが、TOMA君だけの、こちらが準備した撮影よりももっといいものに仕上がると思っています。」

自分の企画を発表する泉は堂々としていて、自信に満ち溢れていた。十人ほどの編集長クラスの人間が同時に企画書に目を通す。彼らは売れることしか考えていない。TOMA君は売れっ子のモデルでもある為企画から外すことはできない。それをうまく取り入れた企画書が、今、彼らの手元にある。

「今、小坂から話があった様に私もこれで企画を進めていきたいと思っています。今後雑誌や芸能界から求められるのは親密感・親近感だと思えます。アイドルグループの私生活、なんていうテロップが出る番組も多い中、モデルは動かない静止画だけの撮影で私生活はあまり公開されてきませんでした。これを期にそこに踏み込んでみたいと考えました。」

秋奈が補足をする。そこへ秋奈の上司が口を開いた。

「うーん、僕はこの企画、良いと思うんだけど。そこまでのタイムスケジュールなんかも全部管理できる?あとその男の子。素人モデルの子。撮影期日は決められてるからそれでもできるって言うなら僕はこの企画、いいと思うよ。ねぇ編集長?」

その一言で企画が確実となった。秋奈と泉は視線を合わせ、喜びをかみしめていた。編集長はしぶしぶ納得したのか、一つ溜息をついてから、いいでしょうと言った。こうなったら急ピッチで泉の友人である素人の彼とはやく打ち合わせを進めなければ。秋奈は会議の後もそればかり考えていた。しかし会議の後はTOMAの事務所との打ち合わせ。彼が納得してくれなければこの企画は全てだめになってしまう。その為にもまずは目の前のことに集中しなければ。喜びを胸にしまいTOMAの事務所へと向かった―


「R編集の井浦です、事務所の前に到着しましたのでお願いします。」

R編集部とは秋奈が勤めている会社、ラウンディ編集部の通称名。だいたいどこの企業でも【アール編集部】と言えば通じるくらいの大手ではある。秋奈がTOMAの事務所の近くに着いた所で事務所へと連絡をした。中まで入るのは厳禁、売れっ子アイドルやモデルはどこで誰が見ているかもわからないから慎重にならなければいけない。もちろん事務所前の入口などで待つことも控えている。秋奈は四年間この業界に勤めて分かったことがたくさんあった。例えば、撮影に使われる衣装は大抵、雑誌編集部が買い取り、とか…そんな小さなことでも驚くばかりの毎日だった。しかし驚く事ばかりではなく、勉強になることもたくさんあった事は確かだ。その結果、この業界では名の知れる雑誌の仕事で、尚且つチームリーダーを務めている。恵まれた職場、と世間では言うのだろう。
電話をかけてから数分後、TOMAのマネージャーとTOMA本人が事務所から出てきた。少し遠くから会釈だけして先に歩く。こういう時は一緒に歩かず先にタクシーを確保し、待ち合わせをメールで伝えて向かって貰うようにしているのだ。今回の打ち合わせ場所は既にマネージャーへとメールで伝えてある為、タクシーに乗り込んだ二人を見送ると、後ろから来たタクシーに乗り込み前のタクシーを追った。こういう徹底した決まりごとのようなことは、どこの編集会社でやってるわけでもないらしい。秋奈の会社はこういうことに敏感なため、各自が言わずとも全員が統一しているようだ。今回の打ち合わせは個室になっている居酒屋のようなお店。何度も打ち合わせで使用しているから迷うことなどない。もちろん直接現地に向かう泉も同様。お店の前でタクシーを降りて、店内へと入る。店員の声を聞いた後、店員に名前を告げ個室へと案内してもらう。個室の前には女物のヒールが規則正しく置いてある様子から、どうやら先に泉が到着しているようだ。

「あ、秋奈さん。飲み物もう頼みました。ウーロン茶で大丈夫ですよね。」

泉が既に全員分(と言っても四人分)の飲み物を注文してくれていた。こういうところが気の利く、仕事のできる子なのだろう。秋奈はありがとう、とだけ言い座敷へと足を滑らせた。カバンから資料を取出し、TOMAとマネージャーに一部ずつ渡す。前回と全くと言っていいほど企画書が違うのだから驚くのも無理はない。TOMAは驚いた様子で前回と違う、と小さく呟いた。かすかに聞こえてはいたが、秋奈は触れることなく口を開いた。

「TOMA君、椎名さん、今日はお忙しいところ有難うございます。お食事も好きになさってくださいね。ところどころ仕事の話はしていきますので、宜しくお願いします。前回と変更している部分が大きくあります。ただ最初に言いますと、今回はTOMA君一人だけの特集では、」

そこまで言うとマネージャーの椎名がちょっと待ってください、と秋奈の話をさえぎった。秋奈は驚いた様子もなく、当然だよなという表情でどうぞ、と椎名へ声を向けた。

「TOMAがメインじゃなくなるんでしょうか、それからこの彼って言うのはどこの事務所の方でしょう。専属モデルという約束の話ではなかったのですか。」

TOMAは一応R編集の専属モデル契約となっている。専属の契約として、ソロで使うこと。誰かとの同時撮影はNGというのが約束となっていた。明らかにR編集の契約違反ということになる。椎名はそこについて不満を持っているようだ。しかしその椎名の言葉たちに、終止符を打ったのはTOMA本人だった。
「ねぇ椎名さん、ぼくは良いよ。この企画楽しそう。この男の子も優しそうだし、ぼくより年上でしょ?今まで先輩たちとの絡みってあまりなかったから、今回のこの企画、嬉しい。今までRさんの撮影で僕が担当のときはずっと一人でやってきたけど、一人ってなんかさみしいし、撮影してもらったぼくの写真、あとから見せてもらうんだけど全然楽しそうに見えないんだもん。やってみようよ、ね、椎名さん。お願い。」

意外なことに、TOMA本人がこの企画を気に入ってくれたのだ。今までTOMAは十五歳の頃からほぼ一人で、誰かと一緒に撮影することなくソロで撮影を行ってきた。その為イメージは【クール】。しかし話すと笑顔がかわいい十八歳の男の子なのだ。高校生なのだが仕事が忙しく学校はほとんど行けていない。もちろんその為友達は決して多いとは言えない。今回はその【クール】なTOMAをなくして、秋奈と泉のテーマである親近感を引き出していこうと考えていたのだ。そんなTOMAの言葉に椎名もしぶしぶではあるが納得し、撮影の話が進んだ。あとは彼との打ち合わせだけ。そう考えていたとき、泉が秋奈に言った。

「秋奈さん、その彼ですけど。先ほどメールあって今から合流できるとのことですが。」

ナイスタイミング!こんな好都合はない、TOMAも椎名もいて、打ち合わせもでき仕事の話がさらに進むとなるとこんなチャンスを逃すわけにはいかない。秋奈は、すぐに来てもらってと泉に伝えコンビニへと走った。彼の分の企画書をコピーするために。

コンビニから戻ると個室の前に出るときにはなかった革靴が増えている。おそらく彼だ。革靴ということだからおそらくスーツだろう、なんて予想をしながら小走りしたせいで乱れた息を深呼吸で落ち着かせ、落ち着いた所でドアを開ける。開けた瞬間、秋奈は気づいた。気づいたというよりも、感じた。あの香り。朝、すれ違った時の―

「あ、秋奈さんお帰りなさい。彼、到着しました。倉本隼人です。」

―隼人

秋奈は香りとは一切関係なく、その名前に驚いた。偶然だろう、別人だろう、そう思っているが驚きは隠せない。SNSの相手の名前もハヤトなのだ。思わずドアの前に立ち止まってしまった秋奈を不思議そうに見る四人。その視線ではっとしたように秋奈は個室へと入った。

「あ、改めまして。井浦秋奈です。本日は来て頂いて有難うございます。」

動揺を隠しきれない秋奈は必死に落ち着こう目線を下に向けて、名刺を渡した。あぁ、社会人として最低だ。相手の目を見ないで挨拶、なんて。しかし今の秋奈にそんな余裕などなかった。

「倉本隼人です、こちらこそお声を掛けて頂きまして有難うございます。」

綺麗なテノールが秋奈の耳をくすぐった。別に至近距離でもないのに、なぜこんなにも動揺してしまうんだろう。きっといろんな偶然が重なって、関連性はないけれど、こう気にもかけていることがいくつも重なったからだ。そうだ、何の関係もない。ただちょっと偶然に重なる部分があっただけだ。秋奈は自分に言い聞かせるよう何度も何度も心の中でつぶやいていた。

「私、倉本君とは大学の同級生で、学科も一緒だったんです。仲がいいってわけではなかったんですけど、学科が一緒だったからたまに喋ったりしたことあって。それで最近、たまたまSNSで見つけて連絡取るようになったんですよ。そしたら名古屋で働いてるって言うからびっくりしちゃって。」

泉が笑いながら話す。そんな中、隼人はTOMAと会話をしていた。TOMAは楽しそうに隼人に話しかけていて、隼人もそれを楽しそうに返している。椎名もさっきまではしぶしぶ、という感じだったのがTOMAが楽しそうにしている様子をみて安心したようだ。そんなとき、泉が隼人に問いかけた。

「そういえば倉本君、車?だったら今日お酒飲んじゃってるけど、大丈夫なの?」

「あぁ、俺電車だよ。会社は駅の近くだからここからも近いし。だから平気。」

その言葉を聞いて秋奈の想像していた偶然は、確信へと変わった。驚きの表情で隼人の方を見る秋奈に向かって、隼人は笑いかけながら

「あ、秋奈さんやっと気づきました?毎朝、駅ですれ違ってたのに。」

隼人がふてくされたようにわざと目を細め言った。秋奈は驚きで声が出ず、グラスを片手に持ったまま固まってしまった。泉は秋奈以上に驚きながら、えーっ!と大きな声を出した。あまりに大きすぎた声を塞ごうと、泉は口を手で覆いながら、知り合いだったんですか?と驚きと嬉しさを合せたような笑顔を浮かべ、秋奈に小声で話しかけた。秋奈は動揺がさらに増し、鼓動が早くなるのを感じていた。心臓が皮膚のすぐ下にあるのではないかと錯覚するほど、鼓動が全身を伝わる。閉じた唇からも心臓の鼓動が伝わるかのように、びりびりと脈を打っていた。ひゅうっと、音が少しなるような呼吸で息を吸い、やっとのことで口を開く。

「えっと…ごめんなさい、すれ違っていたのは分からなかったんですけど。あの、今日は香水…そう、香りで気づいて…」

声が震える。朝、あんなにも気になった香りが偶然にも隼人と同じ香りで、ましてやそれが隼人本人だったなんて。思ってもよらないような偶然。信じられない。

「香水?あぁ、今日からいつもと違う香水にしたんです。これ、ちょっと特別なので。それで気づいてくれたなんて、なんだかついてるなぁ。でもそれまでは知らなかったってことですよね?それはそれで残念。」

嬉しそうにグラスを傾け、口に運ぶ隼人。綺麗な首筋が数回、音を立てて鳴らした。あぁそうか。どうしてこの香りが鼻についたのかわかった気がした。今まで知ってる香水の中に、この香りはなかった。秋奈の仕事上、香水やコロン、ボディミストと言った男女を問わないコスメを扱った仕事はいくつもあった為、香りには敏感な方だ。知らない香りというだけでこれほど敏感に、胸が高鳴るものなのか。秋奈は初めての感覚に自分自身驚いていた。

「ちなみにどこで作られたんですか?今日の朝、この香りの事気になっちゃって。よかったらこの香水を作ってるお店の場所も。」

いいですよ、と言いながら隼人は自分の名刺を差し出した。先ほど聞いた隼人のフルネームと携帯番号、それから会社名。会社は外資企業の名前のようだ。しかしこの中に香水にかかわるようなことは一切書いていない。秋奈は不思議そうに名刺を眺め、裏返しにしてみたり、表に戻してみたりと名刺を見ていた。それを面白そうに見ていた隼人が言った。
「秋奈さん、そうじゃなくて。この香水、自分で作っているんです。」

名刺から顔をあげて隼人の顔を見た。アーモンド形の目がさらに細くなり、歯並びのいい歯が隼人の口から姿を現す。つられて秋奈も笑うが、ぎこちない。愛想笑いのような、苦笑いのような。そんな曖昧な表情で隼人に笑いかけてしまっていた。

「え、自分で作ってるって。調合して、」

秋奈の言葉を横目にそういうこと、と言いながら隼人は自分の鞄を部屋の隅から引き寄せた。大きめの黒い鞄には会社の書類であろう資料が束になって、背表紙が上を向いている。外資系の企業の事は、秋奈はさっぱりわからない。おそらく流通などの話を聞いても理解することすらできないのだろう。そんな資料の隙間から、、小さなシルバー色のアトマイザーを取り出した。大きさはほんの十センチもないような大きさ。女の子が香水や美容液を詰替えて持ち運ぶような、ほんの小さな筒状のケース。そのほんの小さなシルバー色の筒を秋奈に差し出しながら、隼人はどうぞ、と言った。秋奈は差し出されたそれを手に取り、蓋を開けた。ぽんっと小さな音を立てながら筒はスプレーの頭を露わにする。開けた瞬間、隼人からする香りと同じ香り、そして電車ですれ違いざまに感じた香りと同じものが、秋奈の前に広がった。甘い香りだけれど、バニラのような濃い甘さではない。かといって女性が使うようなフローラルな甘い香りではない。柑橘系でもない。不思議な香り。鼻に残るような、そんな香りだった。

「あまり一般的ではない香りですね、不思議な香りです。何を使われてるんですか?」

「これは沈丁花です。沈丁花は春の香りだから、先取りしようと思って。それと甘い香りはココナッツを少しだけ、本当に微量ですが入れています。香水というよりもお香のような香りですし、なんだかクセになるような香りでしょう?」

嬉しそうに話す隼人。今回のは自信作なんですよ、と言いながら秋奈から差し出されたアトマイザーを受けとり鞄の中へと入れた。なるほど、隼人はセンスがいい。これは隼人に決めてよかったのかもしれない。もし春物の特集でファッションとは別に春物の香水を特集しても、ウケるかもしれない。メンズ雑誌で香水の特集はたまにあるけれど、ファッション特集程頻繁ではない。それに今回の春物ファッションのテーマである【流行色(カラー)】には、隼人の自分の好みに合った香水を自分でというアイディアは面白いかもしれない。そう思った秋奈は、隼人に特集で香水のことも取材できないかと聞いてみた。自宅の撮影が大丈夫なのであれば、調合する材料・器具など詳しく分かるだろう。そうなると読者も自分でやろうという気になるかもしれない。今回の特集は今までとは違って、新しいものが次々と生まれるそうな可能性を秘めていそうだ。

「いいですよ、俺でよければお手伝いします。」

今まで口をはさむことなく二人の会話を聞いていた泉は、よかったですね、秋奈さん!と嬉しそうに言った。TOMAも椎名も宜しくお願いします、と隼人に笑顔を向けた。これで今回の企画が大きく動く。まだ雑誌発行までは三か月あるが、発行の一か月前には全ての工程を終了していなければならない。撮影と取材、準備にかけられる日数は約二か月。ここに全てを詰め込んで予定を立てていく。TOMAには前もってスケジュールを渡し、日程の確保をお願いしている為、TOMAの予定はバッチリだ。問題は隼人。仕事をしている合間か、仕事が終わった後の夜、もしくは唯一の休みに撮影と取材をしなければならない。秋奈は三か月間だけ休みと夜の空き時間をもらえないかと頼んでみたところ、意外とあっさり返事が返ってきた。大丈夫ですよ、と―

ラウンディランディ ④

その後は隼人のスケジュールを聞いて、次の打ち合わせを決めた。秋奈も泉も、今回の打ち合わせが終わったのでほんの少しだけ、お酒を飲むことにし、それから一時間程四人で飲み、今後の話やたわいもない話をして解散した。TOMAと椎名はタクシーで。隼人と泉、そして秋奈は電車で帰路についた。泉は路線が別なので途中で別れたが、毎日すれ違っていたという隼人と秋奈は同じ電車なわけで。終電にも近い電車に乗り込む二人。時間も時間なだけあってほとんど乗客はいない。秋奈の降りる駅までは五駅で、二十分と少しかかる程度だ。ぽつりぽつりと、数少ない会話をしているうちに秋奈の降りる駅に電車は止まった。

「秋奈さん、今日は有難うございました。電車ですれ違ってたこと気づいてもらえたことも、うれしかったですよ。また次回の打ち合わせも宜しくお願いしますね。気軽に連絡してください。じゃあ、気を付けて。」

言い終わる丁度いい頃、電車のドアが閉まった。秋奈は右手を軽く上げて隼人を見送った。駅から歩いてすぐの秋奈のマンションは、駅のホームにいてもその形を見ることが出来る。百以上の部屋があるそのマンションは、外から見ると、ところどころ光を放つ何とも不思議な構造物だ。あぁ、今日は良い一日になった。いい気分だ。ご機嫌な様子でマンションのオートロックを開け、その光を灯す構造物へと吸い込まれていった―

小さなカードを自宅玄関の横にあるパネルにかざすと、ピピッという高い電子音が廊下に響き、ガチャッと鍵の開く低い音が後を追った。ドアノブに手をかけ、室内へと入る。リビングのドアを開けて、ポケットに手を入れると、先ほど別れた隼人の名刺があった。名刺を取り出すと何とも言えない、不思議な感覚になっていた。
隼人…はやと…ハヤト…

秋奈ははっとした。ハヤトに返事を送っていない。そして今日は機嫌がいい。隼人の名刺を再びポケットに入れると、その名刺の入ったジャケットを抜いてソファにかけた。着替えることなくパソコンを立ち上げる。その間、秋奈は洗面所に向かって化粧を落とすことにした。それも急ぎめで。ハヤトに今日の事を話したい、良いことがあったんだと言いたい。ただそれだけだった。

無機質に鳴るパソコンの起動音とともに開かれたSNSの窓。開かれたことを確認すると昨日のメッセージに返信をする。

「こんばんは、昨日は返事を返せなくてごめんなさい。あと、食事の話なんですが、そちらもごめんなさい。実はいま仕事がすごくうまくいっていて、明日から三か月ほどは今まで以上に忙しくなりそうなんです。とっても嬉しいこと。正直、わくわくが止まりません。ハヤトさんとの食事の件は残念ですが、またの機会にでも、と思います。本当にごめんなさい。」

いつも通りエンターキーを押す。自分が送ったメッセージを見て、秋奈は少しだけ軽くなった気持ちを感じていた。仕事が理由にせよ、インターネットの人と会うことがなくなったのだ。嫌だと思っていた気持ちがすぅっとなくなり、昨日とは違って晴れやかな気分だった。返信が返ってくるまでもう少し時間がかかるだろう。そう思い、秋奈は再び脱衣所へと足を向けた。今度はお風呂に入る為だ。

お風呂上りにリビングでテレビを見ていると、忘れかけていたパソコンからポーンと音が鳴った。その音でついさっき送った自分のメッセージの事を思い出す。ソファから立ち上がり、ダイニングテーブルの椅子に腰を掛け、右下で点滅を繰り返すメッセージを開いた。

「おかえりなさい、大丈夫ですよ。お仕事、忙しいみたいですね。食事の件はまたの機会にでも…お仕事、うまくいってるんですね。おめでとうございます。そしてハチさんが嬉しそうなのでよかった。僕も今日は機嫌がいいんです、一緒ですね。ハチさんはどんないいことがあったんでしょう。やっぱり仕事のことでしょうか。」

「仕事のことです、良いことが重なってとても機嫌がいいんです。今日はお酒が進んじゃうかも。やりたい仕事の企画が通ったんです。あとはいろいろ偶然が重なったのと、いい具合にインスピレーションが働いて…もう待ち遠しいくらい仕事が楽しくなってしまっています」
ハヤトからのメッセージにすぐさま返信をした。仕事がうまくいっているのも本当、楽しみなのも本当。そして申し訳ないけれど食事をしなくてすむことが嬉しいのも、心の端で感じていた。どれも全て秋奈には嬉しいと思えるようなことばかりだ。ほろ酔い気分でキッチンへ向かい、冷蔵庫からビールを取り出す。蓋をあけ、冷蔵庫の前で缶に口を付けた。冷えた炭酸が喉を通り、体の内部に侵入する感覚は、いつになっても気持ちがいいものだ。若い子はビールが苦手、苦いから嫌いという人が多い。しかしそんな中にもビールがおいしい、この喉越しがたまらないという人も多い。秋奈は後者の方。お酒の中でもビールが一番好きなのだ。その、大好きなビールを片手にリビングへと戻る。席を立った時のままの状態でこちらを向いている椅子に座り、パソコンへと体を向けた。と、同時にメッセージを受信した音が鳴る。

「あまり飲み過ぎないように(笑)。偶然が重なってたとしても、それはハチさんの実力と生まれ持った素質だと思います。運も実力のうちと言いますし、素敵ですね。今後のハチさんのご活躍を祈って!僕も今日、良いことがあったんですが、一つハチさんにお聞きしたことがあります。今僕はとあるものに、名前を付けようと思っているんです。それは形はないけれど、人が感じることのできるようなもの。優しく包み込むようなイメージで…それでハチさんだったらどんな名前を付けますか?」

読み終えてから、秋奈は今日隼人は付けていた香水の香りを思い出した。甘く、優しく。形はないけれど人を包み込むようなそんな香り。秋奈の鼻をくすぐっていた香りはとうに消えているが、なんとなく残っているような気がする。もし、もしあの香りに名前を付けるとするならどうする?そんなことを秋奈は考えた。キュート?プレシャス?違う、なんだか名前とあの香りが一致しない。ふぅ、とため息をついてテーブルに積み重ねられている雑誌に目をやった。その雑誌は秋奈の勤めている会社の雑誌だ。今後、なにか企画するときの為に雑誌は全てとってある。その雑誌にはたくさんの付箋が付けられていて、気になる部分をチェックしている。たまたま一番上にあった雑誌に手に取り、ぱらぱらとページを進めた。無意識に開いたページの一角に【好色男子】と大きく書いてある。好色とは、一般的にみだらな、等いい意味ではとられないが、もう一つ別の意味で容姿が美しい、という意味もある。その意味を使って【好色男子】をテーマにしたのだ。これも数か月前に秋奈が企画したページである。秋奈はそれを見た瞬間、これだ!と確信した。好色という表現があの香りにはぴったり。形はないけれど、香りで美しいことを表現するあの香りには一番合う言葉だと直感的に思った。秋奈は自分のインスピレーションを信じ、あの香りに名前を付けるわけではないが、ハヤトから受けた質問に対しての答えをメッセージへと打ち込んでいた。

「今日はつぶれるまで飲んじゃおうかな、気分がいいときは飲むに限ります。正直、自分でも思うんです。私の生きてきた運勢ってとってもラッキーなことが多かったなって。恵まれてたんだと思います、周りの環境も、職場も。感謝しても足りないですね。ハヤトさんもいいことがあったんですね!じゃあ今日は飲んじゃおう、つぶれるまで!(明日仕事なので有れば無理は禁物)。最近、そんな感じの、優しさに包まれるようなものに私も出会ったんです。それを想像しながら考えたんですが、【randy(ランディ)】はどうですか?ランディって一般的な意味だと淫らな、とかちょっと厭らしい表現なんですが、別の意味で容姿の美しい人、って意味なんです。男女問わず使える言葉なので、どうでしょう?」

―ランディ

言葉にしてみるとなんだかくすぐったい。意味とはまるで違ってふわふわしているような心地の言葉だ。うん、優しくて甘い、そして包み込むようなあの香りにぴったりだ。名づけたその名前を、秋奈は頭の中で何度も何度も繰り返していた。

(ポーン)

聞きなれた音と共に右下に表示されるアイコンが点滅を始める。

「ハチさんは、いろんな人に愛されて育ったんでしょうね。だから優しい人間になれるんだ。僕のいいことは、今世紀最大かもしれないと思うくらいの出来事でした。本当にうれしいことだったんです。じゃあ、ちょっとだけ飲もうかな…(素敵な出会いに乾杯!そして明日は仕事なのでつぶれるまでとはいかないですが、飲みましょう!)なるほど、ハチさんも同じような出会いをされたんですね、これも素敵な偶然ですね。ランディ、響きがきれいですね。気に入りました。そのアイディア、頂いてもいいですか?」

ハヤトとは仕事の事、世間的な愚痴、今話題のニュース等いろいろな事を話してきた。今回のようなことを話すのは正直初めてかもしれない。秋奈はそもそも、インターネットで自分のことを話すのに疑問を持ち、嫌悪感を抱いていた。素性も知らないバーチャルな世界の人間に、自分のことを話すのは苦手なのだ。話さなければいけない、という強制はないが、自分のことを話さない秋奈はインターネットのSNSではあまり好ましくないタイプなのだ。だがハヤトだけは違っていた。そんな自分のことを一切話さない秋奈にも隔てなく会話を繰り広げてくれる。秋奈もハヤトの事は深く追及したり、聞き出したりなんかしない。お互い言いたいことを言って、聞いて。それだけの関係なのだ。そういうこともあってバーチャルな世界の人と食事に行くなど、秋奈には考えられなかったのだ。SNSの世界なんて、狭いようで広く、情報の交換は誰とでもできてしまう。簡単に名前を教えようものならその名前は全国に知れ渡るのと同じようなものだ。だとしたら偽りの名前を使って、まるでゲームをやっているかのような世界で会話をすることが、一番簡単で、リスクの少ないコミュニケーションだと、そう考えている。

「おそらく、大事にされてたんだなと思います。今だから気づけましたけど、昔は当たり前だ、なんて思ってましたけどね…今世紀最大ですか、すごいですね!どんなことかは存じませんが、その幸せを逃さぬように(乾杯!)なんだかお互い、いいこと尽くめですね。ランディ、気に入っていただけましたか、よかった。お好きに使って頂いていいですよ。何となく思いついた言葉だったので。」

書き終わってエンターキーを押したところで、ソファに置いてあった携帯が音を鳴らした。席を立ち、規則的な音を鳴らす携帯電話を手に取り、画面を見た。表示されているのは知らない番号。不思議に思いながら応答のボタンボタンをタップする。すると向うから聞こえてくるのは小さく聞こえるテレビの音と、今日初めて聞いた声の持ち主。隼人の声だった。

ラウンディランディ ⑤

「あ、もしもし秋奈さん?隼人です。先ほどはありがとうござました。なんだか機嫌がよくって電話してしまって…迷惑でしたか?」

「あ、ううん。大丈夫。いきなりだったからびっくりしただけで…あれ、でもなんで私の番号…名刺には携帯まで書いてなかったですよね?」

そうなのだ、打ち合わせの時に渡した名刺には携帯番号は書いておらず、会社の番号と名前だけが表記されている物を渡したはずだ。秋奈の持っている名刺には2種類あって、個人の電話番号まで表記されている物とそうでないものがある。相手から頂く名刺に番号が表記されていたら表記されていないものを、その逆の場合は表記されている物を、と分けて名刺を渡しているのだ。しかし電話口の相手である隼人は秋奈の番号を知っている。どうしてだろう、と考えたがすぐに共通の人間がいることを思い出した。―泉だ。おそらく彼女から番号を聞いてかけてきたのだろう。

「小坂さんから番号聞いたんです、秋奈さんの名刺に番号載ってないし。あれ、わざと乗せてないでしょ。傷つくなぁ。あ、そうそう。さっきの香水の事なんですけど、あれって雑誌に載る時、香水の名前っているんですか?」

「うーん、香水の名前はもう決まっているんですか?自身で作られてるなら、名前も自身でつけられてるでしょうし。」

秋奈は隼人に問いかけたが、秋奈の中であの香りの名前はもう決まっていた。先ほど別のハヤトと決めた【ランディ】。秋奈にはこれ以外は考えられなかった。でも、ここで隼人がランディと言えば、ハヤトが隼人だということが確実になってしまう。秋奈にはそれがどうしようもなくこわかった。バーチャルな、二次元的存在がリアルになってしまうことがどうしようもなくこわかったのだ。問いかけておきながら辞めておけばよかったなんて思ってしまう。やっぱりいいです、と追加で言おうと思ったが既に遅く、隼人が返答をし始めた。

「うーん、実はまだ決まってなくて悩んでいるんです。何がいいかなぁ、秋奈さん。いい名前とかありますか?何があの香りにあるのか分かんなくって。俺、そういうセンスないから…よかったら秋奈さんが決めてくれませんか?」
よかった、さっきこの話をしていたばかりのハヤトだ。こういうことを言うとは到底思えない。まだ決まっていない。その言葉で秋奈は胸を下した。ほっと一息つきそうになり、少しあわてて隼人に返事をした。

「私も、そんなにネーミングセンスはないですよ。でもさっきその香りのこと考えてて思ったんです。暖かくて優しいけれど、それでいて繊細で少し触ると壊れそうな。そんな人間って容姿がきれいってイメージがあると思うんです。そして色気のある香り。私はランディってつけたいなって思いました。…どう、でしょうか。」

秋奈が言うと、隼人は一息置いてから満足したかのような、そんな嬉しそうな声で言った。

「秋奈さん…ネーミングセンスありますね。それ、いいです、とても。秋奈さんさえよかったら、それ使わせてもらってもいいですか?」

その言葉は、秋奈にとって嬉しい言葉だった。一つはその言葉を気に入ってくれたこと。もう一つは、隼人がハヤトでなかったと確信できたからである。隼人の様子からは、その言葉は初めて聞いたかのような口ぶりだった。もしそれが知っている内容だったのなら、少なから今みたいな雰囲気にはならなかっただろう。しかし隼人からの返答は本当に、とても純粋なもので秋奈は心からよかった、と胸をなでおろした。

「気に入って頂けてよかった。使ってもらうのは全然大丈夫です。あ、それから。その香水、うちの雑誌のオリジナルで出してみないかな。もちろん、倉本君の名前も雑誌に載せるし、許可が下りなければ使わないわ。ね、どうかな。」

うーん、と隼人は電話越しに唸っていた。あまり乗り気ではなさそうだ。秋奈としてもこれはダメもとで聞いた内容ではあった。自分が一番気に入っている香りを世の中に商品として出してしまえばオリジナルではあるが、誰もが使う【一般商品】になってしまうからだ。おそらく隼人もそう思っているのであろう。秋奈がやっぱり、と言いかけた時、隼人が口を開いた。

「ごめんなさい、商品として出すのはちょっと。気に入っている香りというのもあるし、他の人が使ってるの想像すると、あまりいい気はしないかな。ほら、秋奈さん。この香りだから俺に気づいてくれたんでしょ?商品化すると、俺だけの香りじゃなくなってしまう。」

さらりと、恥ずかしげもなく隼人は言う。秋奈は息をのんだ。驚きと、動揺と、少しの嬉しさ。いろいろな感情が重なり、体温を上昇させる。
「あ、えっと…そうね。気に入っているなら、うん。やめた方がいいよね。ごめんなさい。一応分かってて、ダメもとでいってみただけなんです、気にしな、」

「秋奈さん、今俺が言った意味。分かってる?」

秋奈の言葉を遮り、隼人が言った。言葉に詰まる秋奈は、次の言葉を考えるが思いつかない。どうしよう、何も言えない。顔の表面が異様に熱く、携帯を持つ手がじんわりと汗ばんできたのを実感する。もう片方の手でスカートの裾を力いっぱい握り動揺を必死で隠そうとしていた。

「俺、秋奈さんのこと多分好きです。電車ですれ違っていた時から、ずっと。今日まで秋奈さん、俺のこと知らなかったけど。こういうの、迷惑?」

隼人は少し焦った様子だった。少しだけ早口で、秋奈の返答を急かしているかのような話し方だ。お互いが数秒黙った後、その沈黙を割って口を開いたのは秋奈。消え入りそうな小さな声で迷惑なんかじゃ、と濁したように言った。すると隼人は杏したかのように一息入れて言う。

「俺と付き合って下さい、なんて言わない。会ったばかりだから付き合えないのもわかってる。でも、意識して。秋奈さん。俺が秋奈さんを好きだって、意識すれば俺の事嫌でも見るようになるでしょう。」

そう言われるが、意識なんかとっくの前にしているのだ。あの香りを感じた時からずっと。電車で鼻をくすぐるような香りが気になって、そして再会。最初は香りにドキドキしているものだと思っていたが、きっと別の理由も大いにあるのだと思う。隼人はとても魅力的で、素敵だ。年下とは思えないほど落ち着いていて、しっかしている。電話越しでもそういった魅力は伝わるものだ。出会って他愛もない話をしたが、一度だけでも魅力を感じたことは間違いない。多分、いや確実に。秋奈は隼人を好きになる。その自覚が秋奈にはあったのだ。だからこんなにも動揺しているし、胸が高鳴っているのだろう。隼人の言葉に返す言葉を見つけられなかった秋奈は、それからもずっと黙っていた。何十秒だろう。時計の針は既に一周しそうなくらい時間が経過している。そんな中、隼人は鼻を鳴らして笑った後、言った。

「秋奈さん、そんな困ったようにしないでよ。…や、困らせてるのは俺だよね、ごめん。でも、俺は本当に秋奈さんが好きなんだと思う。まだ曖昧で、秋奈さんの事全部知らないから、全部好きですなんて言えないけれど。正直付き合いたいとも思っているし、秋奈さんの事知りたいと思ってる。でも秋奈さんはまだ、俺の事好きじゃないでしょう?俺の事も知らないだろうし。だから秋奈さんに意識させたいって思って電話したんだ。でも、今日はもう遅いし明日もお互い仕事だと思うから、もう寝よう。ね?また、近いうちに連絡する。じゃあ、おやすみなさい。」

そう言うと秋奈の返答を待たずに隼人は電話を切った。おそらく隼人なりの気遣いだったのだろう。秋奈がどうやって返事をしようか、悩んで困っているのが分かっていたから何も聞かずに電話を切ったのだ。いつの間にか床に座り込んでいた秋奈は、電話が切れると無意識に手の力を抜いた。すると手の中から滑り落ちた携帯は音を立てて床へと落ちて行った。携帯の画面は自動的に待ち受け画面へと変わっている。つけていたテレビの音がやけに遠くから聞こえるような感覚だ。やっとの思いで足に力を込め、立ち上がりソファへとなだれ込む。深いため息をついて、落とした携帯を拾った。少し携帯のケースに傷がついてしまっていた。携帯を片手に、背中をソファへ押し付ける。テレビの音を聞きながらゆっくりと目を閉じた時、携帯のメール受信音が鳴った。そのメールは泉からだった。

「秋奈さん、ごめんなさい。倉本君に番号教えちゃいました。倉本君、秋奈さんのことすっごく気に入ってたみたいで。本当にごめんなさい。」

メールを見ても、秋奈はため息しかでなかった。どうしてこうも次々と様々なことが起こってしまうのだろう。次々秋奈に課せられる難題は、心の中を埋め尽くすかのように大きくなり、次第に疲れへと変わる。ソファに付けた背中とお尻は、接着剤でもつけたかのようにぴったりとくっつき、離れようとしない。しかし、先ほど送ったハヤトへのメッセージの返信が来ているかもしれない。そんな期待が後押しをし、やっとの思いで深く腰掛けていたソファから離れた。やはり新着メッセージのお知らせが来ている。秋奈はマウスを手に取り、メッセージを開いた。

「大事に育てられた人間は、人に優しくなれるんです。きっと秋奈さんも。えぇ、今世紀最大の幸せ。本当に奇跡の幸せです。でも、多分この幸せは続かないと思います。多分、というより確実に。ですが僕は今だけ幸せだったらそれでいいんです。ハチさんの幸せは、ちゃんと続きますように。それから、ランディ。使わせて頂きますね。ありがとう、ハチさん。今日はもう遅いので、ゆっくり寝床につきます。またご連絡しますね、おやすみなさい。」

全て読み終え、静かにパソコンの電源を落とす。しかし秋奈は、ハヤトの言葉がずっと引っかかっていた。その日の夜はずっと、ハヤトからの言葉が頭に残り、いつもよりもずっと遅い夢見となった。

ラウンディランディ

ラウンディランディ

  • 小説
  • 短編
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-05-05

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  1. ラウンディランディ ①
  2. ラウンディランディ ②
  3. ラウンディランディ ③
  4. ラウンディランディ ④
  5. ラウンディランディ ⑤