アゲハ蝶

風南 絵和

 そいつは、十代にして世の中を達観しているような顔をしていた。
 そいつは、全てを許しているように、いつも穏やかに笑っていた。
 そいつは、口数も少なく、そのせいなのか、一言に重みがあった。

 そして、そいつは、誰の手も届かない場所へ行ってしまった。




 (マサル)が中学生のとき、クラスで「いじめ」が流行っていた。ターゲットはクラスで一番弱虫の俊。小学生の頃からガキ大将で通っていた(タケル)が、いたずらで、俊に蛙を投げつけて、俊が驚いて泣き出したのがきっかけだった。机やノートにいたずら書きをされるのに始まり、靴や体操着を隠されたりにまで及んでいる。
 やめろよな、そんな低レベルなこと。
 優は、俊が泣きそうな顔をするたびに思うが、いつも助けるには至らない。助けに入れば、今度は自分がターゲットにされる虞があるし、何といってもいじめの首謀者は、あの武なのだ。武とは、幼稚園の頃から一緒だが、優はどうしても彼が苦手だった。もしかしたら、昔、武に何かされたのかもしれないし、何もなかったのかもしれない。とにかく、あの乱暴な言動には、どうしても相容れないものを感じてしまう。
 そいつが優の前に現れたのは、二年生になった春のことだった。
「はじめまして。今日からこの学校に転入することになった、千鳥瑞樹です。皆さんと同じクラスになれて、光栄に思います。宜しくお願いします」
 担任の簡単な紹介の後、そいつはそんなふうに挨拶をした。人に好かれる笑みを湛えて。何人かの女子がざわめく。要するに、奴はこの辺では珍しい、いわゆる美形だったわけだ。
 ああ、なるほど。
 優は思う。転入生がいるから、余分に空席があったわけだ。それも、自席の隣に。
 そんなことを考えている間に、瑞樹は優のすぐそばまで来ていた。
「よろしく」
 穏やかな笑顔で差し出された手に、優は操られたように、うつろに応えるのだった。

 どうせすぐにぼろが出るさ。
 そんな優の思いと裏腹に、瑞樹がその態度を崩すことはなかった。いつも柔和な笑みを浮かべていた。それでも優には、瑞樹がただのお人好しだとは思えなかった。それというのも、優は彼の独り言を、聞いてしまったことがあるからだ。
梅雨の明けて間もなくの、ある晴れた日のことだった。下校途中、優は、同じように一人で下校している瑞樹を見かけたのである。彼は、道端に咲く花に舞っている一匹の蝶を見つけて、こう呟いたのだ。
 僕は君の仲間だ。ただ花を愛でる、アゲハ蝶なんだ。
 それは、神話の中から抜け出たような光景だった。儚げに舞う蝶と、それに語りかける美少年。あまりに美しく異質な、見てはいけないものを見てしまったような気がして、優は足早にその場を離れ、遠回りして家まで帰った。あとで考えてみても、あの言葉の意味は分からない。あれはいったい何だったのだろう。あの日以来、優は瑞樹のことを、少し変な奴だと思っている。
 瑞樹がクラスで大きな行動を起こしたのは、それから間もなくのことだった。

 七月の初め頃。もうたくさん蝉が鳴いていただろうか。蒸し暑い教室で、生徒たちは昼食をとる。優たちの学校では各自で弁当を持参することになっている。大概、仲のいい者や、同じ部活同士でグループを作ってしまう。こういうものは殆どの場合、同士間のあうんの呼吸で決まってしまうので、途中参加が難しい。優のクラスの場合、いつも独りなのは俊だけだった。一年の頃からの彼へのいじめは、まだ途絶えてはいなかったのだ。
 あるとき、俊が昼食をとろうと鞄を開けると、朝しっかり入れたはずの弁当がなくなっていた。それ以上に、もっと驚いたのは、鞄の中身が酷く荒らされていることだった。教科書もノートもズタズタに引き裂かれて、目も当てられない。そして、引き裂かれたノートの切れ端に、汚くて大きな文字で一言。
 バーカ
 俊は確信した。また、やられたんだ。彼には自分が何故こんなことをされるのか、全く分からなかった。そして、ただこの事実の前に絶望し、途方に暮れて、荒らされた鞄の中を見つめていた。優は、そんな俊の様子を、遠くのグループから密かに見ていた。それから、その少し後ろで、武とその仲間たちがほくそ笑んでいるのも。
 ああ、そんなふうに反応したら、奴らの思うつぼじゃないか。
 いつもなら、それで終わりだった。これから武たちが新しい嫌がらせを考えて、みんないつも通り。そのはずだった。だが、今回は違った。優の他にも、一連の出来事を見守っていた者がいて、行動を起こしたのだ。瑞樹だった。彼はいつの間にか自分のいたグループを離れて、哀れな俊のそばに歩み寄っていた。蔑まれることに慣れた俊は、穏やかな瑞樹を前にしても、緊張が解けない。
皆、何でもない振りをしていたが、教室中の意識が一斉に、このクラスのアイドルに向かっていたのは、言うまでもないことだった。
「どうしたの、大丈夫かい?」
 クラス中の空気を揺らしながら、瑞樹は何でもないことのように、怯え続けている俊に話しかけた。
「お昼、忘れたんだね。だったら、ちょうどいい。実は今日、母さんが間違って、作りすぎてしまってね。食べるのを手伝ってくれないかな」
 静かに動揺していたクラスをよそに、瑞樹はさっさと俊の近くに、自分の席を作ってしまった。思いもしていなかった展開に、俊は一層怯え、後ろにいた武たちは舌打ちした。瑞樹は、今、この瞬間から、クラス中の株を落としたのだった。たとえ、瑞樹がアイドルでも、クラスの皆が何より怖れているのは、武に目をつけられて、俊と同じように標的にされることなのだ。もう誰も、瑞樹に対して、大っぴらに好意を示そうとする者はいないだろう。
 優には、瑞樹の行動が理解できなかった。転入して早々、ほぼクラス中の人間を虜にしておいて、今度は自分から、その人気者の座を易々と捨てたのだ。このクラスで武に目をつけられることがどういうことか、分からないわけではなかっただろうに。涼しい顔をして午後の授業を受ける瑞樹の横顔を見て、優は腹を立てていた。
「おい!」
 その放課後、優は一人で下校していく瑞樹に声をかけた。午後からの憤りが、どうしても収まらなかった。
「おい、お前、ちょっと待て!」
 相変わらず涼しい顔をして、やあ、と笑って見せた瑞樹に、優の苛立ちは一層強くなる。
「どういうつもりだよ、お前、今日の!」
「今日、何かあったかな?」
「昼!」
 酷いマイペースか、それとも天然なのか……。瑞樹は暫く考えて、思い出したように言った。
「ああ、今日のお昼はね、僕は甘くない卵焼きが好きなんだけど、母さんが砂糖いっぱいの、物凄く甘い卵焼きをたくさん詰めてくれてね、困ってしまって……」
「バカ!」
 掴みかからんばかりに、優は瑞樹を怒鳴りつける。完全に、頭に血が上ってしまっていた。
「そうじゃないだろ!お前なんか、……もう、クラス中を敵に回したんだぞ!」
「大袈裟だな、敵だなんて。僕はただ、今日も友達と食事をとっただけだよ。何も悪いことはしていない。もし僕のしたことが不愉快で、みんなが僕に対する態度を変えたって、僕自身は、何も後悔することはない」
 瑞樹は、淡々と語っている。優を真っ直ぐに見返した瞳には、どこか寂しげな光が浮かんでいた。優は不意に、無様に感情的になっていた自分に気づいた。顔が熱い。
「みんな、やりたいようにするのが一番だよ」
 瑞樹の大人びた態度を前にして、優は言葉を失った。金魚鉢の金魚のように、怒りは行き場を失くし、口だけをぱくぱくと動かしていた。
 瑞樹は、少し笑って言った。
「いいな、君は。クラスのみんなも、みんな、いいな。……それでも僕は、何だって、やりたいようにやらないと。やっぱり僕は、アゲハ蝶だから」
 有線放送が夕刻を告げた。
「ああ、時間だ。もう、行かないと。親が過保護なんだよ。じゃあ、また明日」
 ひらひらと手を振って、瑞樹は優に背を向けた。
 優は呆然と口を開いたまま、暫く何も言えずにいた。瑞樹の後ろ姿が夕陽に溶けかけた頃になって、やっと声を上げた。
「……何なんだよ、アゲハ蝶って!」
 瑞樹は振り返らずに、ただひらひらと手を振るばかりだった。
 瑞樹は、まるで大人だった。
 その翌日から、武は早速、俊にしていたような嫌がらせを始めたが、瑞樹は動じなかった。俊のように怯えることもなく、時には堂々と武に意見してみせた。瑞樹の全てを超越したような余裕の前には、やはり金魚のように言葉を失った武がいた。優はその様子を盗み見ては、苦笑せずにはおれなかった。
 それでも、不毛な嫌がらせをやめる気配がなかったのは、武の「いじめっ子」としての意地だったのかもしれない。

 夏休みが近づいた。
 瑞樹はいつしか、あまり学校へ来なくなった。来たと思うと、どことなく蒼白い顔をしていて、じきに早退してしまう。
 平気そうに振る舞っていても、執拗に嫌がらせを受け続けるのは、やはりストレスだったのかもしれない。
 瑞樹がそんな状態になって以来、(タケル)は嫌がらせを控えたようだった。瑞樹に対してだけではなく、俊に対しての嫌がらせも沈静化していた。どことなく、教室は静かになったようだった。
 今はただ陽が当たっているだけの空席を、(マサル)は肘をついて眺めていた。停滞して纏わりつくだけの夏の陽が、何故だか、そこだけ、ちらちらと揺らいで見えた。
 学期末、最後の三日間。瑞樹はついに、一度も教室へ姿を見せることはなかった。

 やって来ました、夏休み。夏の風物詩といえば、何だろう。クーラーのキンキンに効いた部屋、涼しい音の出る風鈴、ちょっと原始的だけど、団扇、……待てよ、スイカもいいな。よく冷えていて、汁気があって、種はこう……。
 優は唐突に、立ち上がった。
 気を奮って始めた宿題は、一向に捗らない。机上に突っ伏したようになりながら、辛うじて手を動かし、ノートの端に下手なスイカの絵を描いている自分が馬鹿らしかった。彼の部屋には、クーラーもなければ、風鈴もない。停滞して嫌らしく淀んだ空気と、喧しく耳に障る蝉の声があるだけだ。
 スイカじゃないよ。やっぱ、水だよな。水辺。プールもいいけど、もっと流れている水がいいな。そうだ、ちょっと歩けば川があるな。流れてる水だ……。
 優の意識は、完全に宿題から逃避していた。
 家を出ても、真夏の蒸し暑さは変わらなかった。優は「流れる水」に希望を託して、ぶらぶらと歩き出した。学校という集団から解放されたら、今度は地獄のような蒸し暑さと、拷問のような宿題に苦しめられる。中学生という身分には、うんざりだった。
 だが、水辺に涼を求めた優の期待は、儚くも打ち破られた。哀れな川は、今や「流れるお湯」だった。美しい水が流れ、涼しげに風の吹く、オアシスのような水辺は、優の妄想の産物だった。
 緑の草が茂った土手を下って、改めて見るとあまり綺麗ではない水に、手を浸そうとしたが、そっと水面に触れてみると、まるで熱湯のようだと思い、諦めた。もしかすると熱されているのは表面だけで、水の奥の方は冷たいのかもしれない。そうは思っても、こんなところで水遊びをしようと思うほど、優は無邪気な子供ではなかった。
 落胆の溜息を吐いていると、一匹の蝶がひらひらと舞っているのが、目の端に映った。花のない緑の土手に、花の蜜を吸う蝶。何気ないが、意外な組み合わせかもしれない。優は、その蝶の行方を目で追った。蝶は、停滞の空気の中を、ひらひらと舞い飛び、最後には高い草の茂った中から棒切れのように伸びていた足に停まった。
 優は、目を疑った。
 草の中から、足が……?
 その人物は、生い茂った草をベッドにでもするように押し潰して、真っ直ぐ仰向けに倒れていた。強い夏の陽に照らされても、どこか蒼白い顔は、時を止めたように動かない。
 優は驚いて、あっ、と声を上げた。
「おい、お前!」
 草の中で寝ていたのは、瑞樹だった。恐る恐る声をかけてみたが、その蒼白い顔は何の反応も示さない。
 優は、途端に不安になった。蒸し暑さは変わらないのに、背筋を冷たい汗が流れ落ちる。
「おい、ちょっと、起きろよ!」
 優は勢い込んで、痩せて細い肩に取りつくようにして、その身体を力任せに揺すった。
 瑞樹の白い顔の口角が、すっと上がった。瞼が静かに上がって、久しぶりに、その涼しい目が、優を見た。
 力が抜けて、優は瑞樹の肩から手を外した。瑞樹はそれに合わせるようにして、そっと上体を起こした。さっきまで優が掴んでいた肩が、小刻みに震えている。瑞樹は、さも可笑しそうに笑っていた。
「お前……」
「人が死んでいるときは、警察に連絡だよ。だけど、まずは生きているかどうか、しっかり確かめないと。生きている場合は、救急車を」
 瑞樹の瞳の奥には、面白がるような光が浮かんでいた。優は、すっかりからかわれていたのだ。
「でも、君に揺すられたら、瀕死の重傷を負った人は、完全にとどめを刺されたようなものだね」
 瑞樹はそう言うと、声を上げて笑った。
「バカ野郎!」
 二度も瑞樹にやり込められた形になった優には、そう怒鳴るのが精いっぱいだった。
「ごめん、久しぶりに会えたから、つい。相変わらず、君が元気そうでよかったよ」
 優は、空席の机上で、ちらちらと揺れていた陽の光を思い出した。
「俺は普通だけど、お前はどうなんだよ。やっぱり、武のせいで……」
「そうじゃない」
 優の言葉を制するようにして、瑞樹は言った。
「僕は彼のことが、嫌いじゃない」
「お前、なんでそんな……」
 湯気さえ出そうな川の水面を見つめる瑞樹の表情は、なんの淀みもなく澄んで美しかった。優には、彼が理解できなかった。
「いいじゃないか、元気があって」
「元気って……」
 全てを見透かすような瞳が、優を真っ直ぐに見た。
「僕は、みんなが好きなんだ。クラスのみんな、学校のみんな、世界で生きてる、みんなが好きだ。武は勢いがあって、すごい。俊は、あれでいてとても強い。それに、君は本当に、凄くいい奴だ」
 穏やかに微笑んではいるが、冗談を言っている表情ではなかった。
「僕は、見ての通り。君のことも勿論好きだし、真夏の日光浴ができるくらいの元気がある」
 優は瑞樹の気持ちを掴みかねて、その涼しい顔を、黙ったまま探るように見つめていた。
「知ってるかい?」
 優の視線から逃れるようにして、瑞樹はそっと水辺へ近づいた。すると、それまではどこへ行っていたのか、さっき瑞樹の足に停まった蝶が戻って来て、彼の周りを舞った。瑞樹は、ちょうど蜻蛉を見つけたときにするように、細い指で蝶と戯れていた。
「アゲハ蝶の命は、ひと夏で終わるんだ。だけど、その時までは生き続ける。誰よりも美しく舞って、世界中の人たちに、憶えていてもらえるように」
 僕は、アゲハ蝶なんだ。
 瑞樹は、あの日、確かにそう呟いていたのだ。そして、今は、アゲハ蝶の命は、ひと夏で終わる、と。
 ここで激しく問い詰めるには、瑞樹の声はあまりにも滑らかで、淡々とし過ぎていた。優は、言葉をなくしたまま、呆然と瑞樹の顔を見ていた。その酷く穏やかな光を宿した瞳が、優を振り返って笑った。
「ね、思ったよりも、力強いだろ」
 優は息を吐いて、小さく頭を振った。あまりに酷い暑さと、耳障りな蝉のせいで、頭が可笑しくなったのではないかと思った。瑞樹は、まるで掴みどころのない幻想のようだった。蒸し風呂と化した部屋で取り組む宿題よりも、瑞樹の言葉から真意を探ろうとする方が、よっぽど難しいことだった。
「意味、わかんねえ」
 やっとのことで、ぽつりと言うと、瑞樹の笑みがぐっと現実感を増して見えた。幻想ではない瑞樹の存在を感知すると、その超然とした態度に対する苛立ちが、一気に湧きあがってきた。それは、相手のペースに呑まれてばかりの自分に対する苛立ちでもあった。
「お前、いったい何の……」
「僕はね」
 優の言葉を封じるように、瑞樹が話し始めた。優の憤りは、またしても行き場を失っていた。
「ここへ来て、とてもよかったと思っている。前のところでは、僕はあまりにも、酷い状態でありすぎたから。ほんの少しでも、君たちの間で、やり直せたかもしれないと思う」
 蝉の声が遠退いた。瑞樹のいつも通りの微笑が、まるで平面の絵のように見えた。優には、言いかけた言葉を、最後まで怒鳴り散らすことができなかった。二次元の世界に、一人だけが三次元で存在しているような、わけのわからない不安だけがあった。
 言葉は、喉の奥に絡みついて、声にはならなかった。
「アゲハ蝶は、賢いんだ。自分の命が、ひと夏で終わると分かっていればこそ、できるだけ、人に美しい印象を残そうとして飛ぶ」
 瑞樹のそばを大人しく舞っていた蝶が、ひらひらと、優の方へ寄って来る。
「その命が、たったのひと夏で終わるとしても、君はアゲハ蝶を好きだと思う?」
 蝶が、優の肩に停まった。だが、優は瑞樹の世界に捕らわれたように、身動きすることができなかった。蝶を追い払うこともできない優に、瑞樹は淡々と続けた。
「君の気持ちがどうであれ、その蝶は君のことを、とても気に入っている。それを思いやってくれるなら、君はこの夏が終わった後も、ことあるごとに、その一匹の蝶を思い出さなければいけない」
 瑞樹の表情に、一瞬だけ、影が差したように見えた。ほぼ同時に、川の向こう岸の土手の斜面を、何かカラフルな物が幾つか、勢いよく転がり落ちて来るのが見えた。
「やだ、水、汚い!」
「綺麗な水じゃないと、ダメなんだぞ!」
「でも、川はここしかないよ?」
「だから、プールがいいって言ったんだ!」
「プールの水は塩素が入っているし、意味がないって……」
 急に三次元の世界が戻って来た。まだ使いこまれていない声変わり前の声音で、美しい二次元の世界は幻想の国へ帰って行ったようだった。蝉の声も、再び優の耳に纏わりつく。向こう岸に来たのは、どうやら夏休みの自由研究をしに来た、小学生の一団らしかった。蝶が、優の肩から飛び去って行った。
 瑞樹は向こう岸を一瞬振り返って、ふっと笑うと、冗談めかして言った。
「なんだか安っぽい怪談みたいだけど、この夏が終わって命が尽きたら、あの蝶は君の夢に出るかもしれないね」
 瑞樹はまだ何か言いたそうに目を細めたが、次の言葉を続けることはなかった。優から視線を外すと、そのまま距離をとるように歩き出した。瑞樹の言動は唐突すぎて、優には分からないことが多すぎた。
「おい、ちょっと!」
 慌てて声をかけると、瑞樹は、さっと振り返った。これまでに見たことがないほど、さっぱりとした表情をしていた。
「君は、憶えていてくれるんだろう?」
「何を?」
「僕は少し、強い陽に当たりすぎたみたいだ。なんだか、疲れてしまった。今は親とは別れて暮らしているけど、代わりに、物凄く過保護な保護者がたくさんいるんだ。これ以上、疲れて帰ると二度と家から出してもらえない」
 細い肩をさっと竦めてみせると、瑞樹は優に背を向けて歩き出した。
 優には、瑞樹が分からなかった。こちらの言葉に反応はするものの、ちっとも会話が成り立たない。おまけに、瑞樹の話し始めることは、どこへ向かって行くのかさえ、掴めなかった。
 優は、また暫く呆けていたが、やがて、瑞樹の去って行く背中に向けて怒鳴った。
「おい、待てよ、お前!」
 瑞樹は、もう立ち止まることはなかった。ただ後ろ姿のまま、ひらひらと手を振って応えた。不思議と、その背中を追いかけて引き止めるとういう考えには至らなかった。
「ねえ、もう行こうよ、ここには何もないって」
「ちょっと待って、水だけでも持って帰って……」
 向こう岸の子供たちは、大方、だらけてしまっている。優の周りの空気は、再び停滞し始めた。空気に含まれた湿気を振り払うように、棒立ちになっていた足を動かすと、さっき優の肩から飛び去って行ったはずの蝶が、足元から舞い上がった。
 ひらひらと舞い飛んでいる蝶を目で追いながら、優は暫く、瑞樹との一連のやり取りを思い返していた。どこからが現実で、どこからが幻想なのか、分からなくなりそうで不安だった。


………………


 一匹のキアゲハが、優に纏わりついてきた。歩き出そうとして上げた足の周りを、ちらちらと舞い飛んでいる。
 危うく踏みつけられそうになっているのに、蝶は一向、彼から離れない。
 その蝶の羽は、いつか見た夕暮れ色の光に包まれていた。
 蝶が、優の肩に停まった。
「もう、あっちへ行けよ、このバカ!」
 一喝して払い落とすと、蝶の姿は、どこかへ消えてしまっていた。死骸があるのも見えないが、生きている気配も感じなかった。
 不意に、辺りが闇に包まれた。優は、強烈な不安に襲われた。
 突然、身体が傾げる感覚がして、足元が崩れた。

 真っ逆さまに……

 落ちた……。
 がくりと身体が落ちる感じがした。
 見えたのは、暗い部屋の天井だった。優は、どうやら夢を見ていたらしい自分に気がついた。どこか意味深な夢だったように思えたが、寝ぼけたままの優にとっては、安眠の方が大事だった。
 夏休み最後の夜のことだった。
 夜が明けて、朝が来たら、もう新学期だ。

 夏休みが始まって、あっという間に、八月になった。今年の夏だけ休みをください、とバイト先の店長に言うと、それまで大方、真面目に勤務していたせいか、すんなりと夏季休暇の許可を貰えた。夏の帰省は、今年の正月明けには決めていた。この町へ戻るのも、実家の自室へ入るのも、今年ばかりは数ヵ月ぶりだった。
 中学を卒業すると、(マサル)は町を出て、独り暮らしを始めた。一人息子に、早々に家を出られた両親は、家に不満でもあったのかとうろたえたが、特別にそんなこともなかった。町を出れば、「何か」があるのではないかと思った。その「何か」が何なのか、自分でも分からなかったが、分からないままでいるのは心許なかった。仕送りはあったものの、自分の労力を消費して、自分で生活を成り立たせていくことが、優には新鮮だった。
 久しぶりに戻った実家の部屋で、紋付袴を着て居心地悪そうに苦笑いしている自分に出会って驚いた。それは、今年の初め、成人の記念に撮られた写真をパネルにしたものだった。勉強机の上の壁に、きちんとかけられている。優は、うんざりしてパネルを外した。親や親戚たちに押し切られるようにして、「晴れ姿」の撮影を承諾してしまったが、まさかパネルにされていようとは思わなかった。
 恥ずかしいったらない……。
 パネルは、部屋から追い出して、仏壇の下の物入れへ退散させることにした。

 成人式は、スーツで臨んだ。大学の入学式の使い回しだ。会場に集まったのが、ほぼ中学時代の同級生らしいのを見て、優は改めて、自分が田舎の町で育ったことを実感した。町を出て初めて、優は自分の町が田舎であることに気づいたのだった。殆どが「久しぶりの再会」だろうに、こうして集まれば、昔と同じようなグループで集まっているのが面白い。優も、当時、よく所属していたグループの何人かと、軽めの挨拶を交わした。
 皆、成長してはいるものの、やっていることは中学生の頃と大した変わりはない。優は飲み物をとって壁に寄った。晴れ着やスーツで浮かれる集団のなかにいると、人酔いを起こしそうだった。
 待てよ、俺って人間嫌いなのか?
 二十年も生き延びて、今更そんなことを思った自分が可笑しくて、優は一人で少し笑った。
「優!」
 ややハイトーンの声が、横から優を呼んだ。そこには優と同じくらいの背をして、紋付袴をいかにも着せられた感じの青年が立っていた。優は、それが誰だか分からなかった。じろじろ観察された青年が、決まり悪そうに赤面するのを見て、優は思い当たった。
「俊か?」
「そうだよ、久しぶり!忘れられたと思った。僕は印象が薄いからな」
 俊は照れたように表情を崩して、笑って見せた。
 優は思わず、口を開けて呆けた。俊とは、学校でもプライベートでも、殆ど言葉を交わさなかった。優は彼が(タケル)にいじめられるのを、黙って見ていた集団の一人であるはずだった。こうして親しげに声をかけられるのは、意外だった。
「これ、恥ずかしいでしょう?僕は嫌だって言ったのに、どうしてもって、母さんが言うからさ、押し切られちゃったよ」
 武に歯向かうこともできずに、泣きべそをかいていた少年が、目の前にいる俊に成長する道筋が、優には想像できなかった。
「俺は押し切られなかったけど、……お前、変わったな」
 優の呆けたままの言葉を聞くと、俊は少しはにかんだように笑った。
「いまね、武とも話して来たんだよ」
 俊がそう話始めたとき、優は一瞬、冗談なのかと思ったが、その表情は至って真面目だった。
「僕ね、毎年、時間を見つけて、千鳥君のところへ行くことにしてるんだ」
「千鳥……瑞樹か?」
 一気にお祭りの世界が遠退いた。その名を、忘れるはずはなかった。だが、こんな浮かれた場で耳にするとは、予想していなかった。
「武も毎年、お墓参りに行くんだって。」
 それは、あまりに意外だった。武はあの夏が終わってから、それまでの悪友とのつき合いもやめ、俊へのいじめもぱったりやめていた。それでも、毎年の墓参りは、優が抱いたままでいた、「いじめっ子」のイメージとは、どうしても重ならなかった。
「君は行ってる?」
「いや……」
「そうなんだ。でも、千鳥君とは仲が良かったんでしょう?」
 瑞樹と話をしたのは、いつも学校の外だった。いじめられっ子の俊を庇った形の瑞樹に、優は話しかけなかった。瑞樹の方からも、話しかけてくることはなかった。当時は、瑞樹が自分の立場を理解しているからだと思っていた。だが、よく思い返してみれば、瑞樹は自分の必要と思ったときにだけ、嫌に積極的に喋っていたような気がする。
「彼、言ってたんだよ。君は凄くいい奴だって」
「いい奴、俺が……?」
 ……それに、君は本当に、凄くいい奴だ。
 はっとした。瑞樹の声が、すぐ近くで聞こえた気がした。当時のままの、涼やかな美しい声音だった。
「あの時は、なんでそんなことを言うのかよく分からなかったけど、あれから、いろいろ考えて、今は思うんだ。彼は、僕が君と友達になればいいと思ってたんじゃないかって。それなら、今日は君に会えて、本当に良かったよ。僕は彼のところへ行って、また一つ、いい報告ができる」
「お前、本当に、変わったよ」
 ……俊は、あれでいてとても強い。
 瑞樹が言っていた通りだった。
 まるで、今ここにいる俊を、予言したような言葉だった。
「僕は彼に、たくさん迷惑をかけてしまったから。もし僕が彼に頼り切りにならないで、ちゃんと自分で闘えていたら、彼はもっと、長生きできたかもしれない。それなのに、僕は彼に何のお礼もできなかった。僕は、しっかりしなくちゃいけないんだ。彼がしてくれたことを、無駄にしないためにも」
 真剣な眼の奥に、強い光を湛えて、俊は言った。
 俊は、優が知らなかった瑞樹の姿を、どうやら鮮明に捉えているらしかった。少なくとも、誰にも本当のことを告げぬままで、あまりに唐突だった千鳥瑞樹という人間の死と、俊が真っ直ぐに向き合ってきたのは確かなようだった。
 掴まえようとすると、ひらひらと飛び去って、真意を探らせない。優にとって、千鳥瑞樹は掴みどころのない、幻想のような印象の人間だった。だが、瑞樹は確かに、夏の終わりに死んだのだ。
 この町を離れてから、何かと忙しく暮らして来たが、俊を見ていると、一つの疑念が生まれた。
 自分は一人の人間の死から、必死に逃げて来たんじゃないのか。
「あいつ、言ってた……」
 頭の中で、一匹の蝶が舞っている。
 そうだ、いつか夢に出て来た蝶かもしれない……。
「お前は、意外に強い奴だってさ」
 俊は驚いたような表情をしていたが、やがて、擽ったそうに、笑って言った。
「そうか、……ありがとう」
 今なら、千鳥瑞樹という人間を、もっと真っ向から知ることができるんじゃないか。
「なあ、俺も行ってみようかな、あいつのとこ」
「うん、それがいい。彼も喜ぶんじゃないかな。君は、何て言ったって、彼のイチオシだったんだから」
 少しおどけた表情をして見せた俊の姿に、何故か、記憶の中の瑞樹の姿が重なった。
 相変わらず、お祭りムードが抜けない晴れ着とスーツの集団を眺めると、自分たちの立っている一角だけが、取り残された空間になったような気がした。
 ここでは、自分と俊だけが、幻想らしい。
 急に、笑いが込み上げて来た。優が笑い出すと、釣られたように、俊も声を立てて笑った。二人は暫く、笑い合っていた。

 盆の送りも済んで、もう幾日かが過ぎていた。昔からの風習や慣習には興味はなかったし、先祖の霊を祀ろうなんて気持ちもなかったが、(マサル)も両親につき合う形で、墓参りを済ませていた。まだ優が物心つくまえに、優の祖父母は死んでいる。顔も知らない祖先を敬おうという気持ちは湧いて来なかった。
 八月の終わりには、アパートへ戻るつもりでいた。大学はまだ休講期間だが、八月に稼げなかった分、労働に勤しむ予定だ。部屋の窓を開けても、飛び込んでくるのは蝉の声だけで、涼風の吹く気配はない。
 あの頃と、変わらないな。
 優は玄関に放置されているサンダルを突っかけて、着古したシャツと色落ちしたジーパンのまま、ぶらぶらと外に出た。太陽の傾きかけた昼下がりだが、相変わらず日差しはべったりと強くて、風もなかった。優は盆に訪れたばかりの、川の向こう側にある墓地へ足を進めていた。先祖の霊の鎮魂よりも、それは優にとって、重要な儀式になるかもしれなかった。
 橋の上に立つと、瑞樹と最後に会った場所が見える。草は相変わらず茂っていて、誰にも手入れをされていないようだった。思わず、あの日、瑞樹が寝ていた場所を探そうとしたが、当然、草の潰れたような痕跡は残っていなかった。川は昔より淀んでいるように思えて、小学生が近づくような雰囲気ではなかった。花のない土手を飛び回っていた蝶も、今は姿が見えなかった。代わりに、すぐ目の前を、壊れかけた機械仕掛けの玩具のような音を立てて、蝉が横切って行った。橋の上に、ぼとりと音を立てて転がった蝉は、暫く羽をガサガサと動かしていたが、やがて動かなくなった。
 そういえば、蝉も薄命なんだよな。
 優は軽く息を吐くと、シャツの襟口を動かして空気を送り、事切れた蝉の脇を通り抜けた。蝉の羽音は不気味に耳に障ったが、命尽きるまで、もがき続けた死に様を醜いとは思えなかった。
 千鳥家の墓には、クラス全員で参ったことがある。新学期が始まって、葬儀も済み、暫く経った後だった。(タケル)は下らない「いじめ」をやめて大人しくしていたが、瑞樹を失ったクラスは、やはり静かだった。空席の机は、年明けまでそのままにされていて、いつしか、細身の花瓶に生けた花が置かれていた。墓参りは、クラス委員の提案で、日曜に決行された。せっかくの休日を潰されることを、不満に思った奴もいたはずだが、相手が故人であると思うと、誰も反対はできない雰囲気だった。皆で一本ずつ、線香を墓前用の香炉に供えた。女子は殆ど啜り泣きの状態だったし、男子でも男泣きに泣く奴もいた。優は、ただ呆然と、「千鳥家代々之墓」と彫られた墓石を見ていた。小さな火のついた線香を渡され、香炉に供え、手を合わせもしたけれど、それはまるで、自分ではない誰かの動作のように、現実感がなかった。中学生の優には、千鳥瑞樹の死を単純に悲しむ余裕さえなかった。
 千鳥家の墓は、墓地の右手を入って、奥から二番目だ。

 頭の片隅で、夕陽色の光を纏った蝶が、羽を震わせている。
 墓地の入り口に来て初めて、「墓参りに来た自分」が、線香も花も持っていないことに気がついた。「千鳥君のところへ行く」という俊の口ぶりが、今の自分と重なって、少し笑えた。
 優は、瑞樹の記憶を辿っている。だが、これからすることは、曲がりなりにも「千鳥家の墓参り」なのだ。少しでも体裁を整えるべきかと思い、水汲み場にかけてあった手桶と柄杓を借りて、水を汲んだ。
 もう、五年は前のことだ。それでも、こうして瑞樹の死を確かめるために、千鳥家の墓に赴くのだと思うと、落ち着かない気持ちがするようだった。どんなに優が歳をとっても、瑞樹は記憶の中で、蒼白い顔をした少年のままだ。そうでない姿なんて、想像もつかないのではないか。
 墓地を進んで行き、目的の墓が見えた。その墓には、先客がいたようだった。千鳥家の親族かと思ったが、そうではないようだった。やや疲れた背広を来た男は年配のように見えたが、よく見れば優と同じくらいの歳のようだった。男は優と目が合うと、瞬間、驚いたような顔をして立ち止まった。一瞬のことだったが、その表情の眼の奥に、優はかつて苦手にしていた険のある光を見て取った。
 男は目を逸らすようにして、足早に優の脇を通り過ぎようとした。優は、手桶を持ってない方の手で、男の肩を掴んで止めた。手桶の水が揺れて、地面の上で音を立てて潰れた。
「ちょっと!」
 男の肩はがっしりと骨太だったが、背は優よりもやや低かった。行く手を遮られても、逃げるように優の方を見ようとしない。
「お前、武だろ」
 優の言葉に、男は明らかに動揺した。
「……違う、俺は、そんなんじゃねえ!」
 自分よりも小さくなって怯えている目の前の男は、「いじめっ子」のイメージからはかけ離れていたが、俊の語った、毎年かつての級友の墓を参る男とは、不思議と重なって見えた。
「嘘吐くなよ。成人式、いたんだろ?俺、俊から聞いたんだ。お前があいつの墓参りしてるって」
 優は、情けなく揺れている武の目を、真っ向から見返した。武は、観念したように肩の力を抜き、勢いを削がれたように、後ろに二、三歩下がったが、優から逃げ去るつもりはないようだった。あれほど苦手だった武が、今は少しも嫌な存在でないことが、優は単純に嬉しかった。同時に、瑞樹が亡くなった後、すっかり大人しくなった武を見ても、「悪者に天罰が下った」くらいの気持ちしか持たなかった、かつての自分を恥じた。
「あいつが来るまで、俺は自分が世界で一番強いと思ってたんだ。でも、あいつが死んで、思い知ったんだ。俺なんかより、俊の方が、よっぽど強い奴だって。俺は、取り返しのつかないことをしたんだ。俊がへこたれずに毎日学校へ来るから、自分がどんなに酷いことをしたのか、気づきもしなかったんだ。あいつが死んだのは、俺のせいだ」
 俊と武の二人ともが、瑞樹が死んだのは自分の責任ではないかと思っている。だが、しっかりと背を正して、明るい方へ向かった俊に比べ、目の前の男はあまりに哀れだった。
 武が、こんなにも気に病む男だとは、中学生の優は思いもしていなかった。
「あいつ、心臓病だって、聞いただろ?」
 葬儀にはクラスの連中の殆どが出席した。
 その時、初めて訪れた千鳥家は、しっかりとした木戸のある、庭付きの日本家屋だった。後で聞いた話だと、瑞樹の両親は離婚していて、千鳥は母方の姓であったという。黒い喪服に身を包んだ瑞樹の母親は、線がやや細く、故人の面影を偲ばせた。
「俺のせいなんだ。俺が、あんな馬鹿なこと、早くやめていれば、あいつは、死んだりしなかったかもしれない。何度、墓参りしたって、一生、許されない」
 葬儀の日、僧侶の読経を聞きながら、目を見開いて大粒の涙を絶え間なく落としていたのは、武ではなかったか。
 優がただ過ぎ去っていく事実に呆然と立ち尽くしていた間、武は全身で千鳥瑞樹という人間の死を受けとめようとしていたのだ。
「お前、……いいな」
 頭の中の蝶が、羽を震わせて舞い飛んでいる。
 ……元気があって、いい。
 瑞樹の声が、すぐ耳元で、聞こえたような気がした。優は、少し笑った。武が訝しがるように、眉を寄せてこちらを見ている。
「そうだよな。お前、あいつと、殆ど話さなかったんだよな」
「あいつどころじゃない。俺は、クラス全員の嫌われ者だ。成人式だって、出るのをよせば良かった」
 ……彼のことが、嫌いじゃない。
 瑞樹は自分の死後、武がこんなふうに気に病むと、どのくらい想像しただろうか。
 武の後悔が本心からの真剣なものだと分かっていても、優は笑わずにはおれなかった。
「俺が零落れたのが、そんなに面白いのかよ。頭も悪くて高卒で、やっと就職したのは町の三流企業。町を出て大学まで行ってるからって……」
 憤慨した様子の武を、優は手で制して言った。
「まあ、待て、早とちりするなよ。俺もお前を誤解していたが、お前も相当だよな。あいつ、お前のこと、嫌ってなかったぞ」
「嘘吐け、俺は知ってるんだ。あいつは俺を許したりしない。あいつ、時々、夢に出て来るんだ。忘れそうになると、出てくる。ガキの頃のまま出てきて、俺が手を伸ばすと、笑いながら、ドロドロに溶けていく。あいつは、俺を憎んで死んでいったんだ。あいつが死んで、俊が変わったのだって、俺を恨んでいるあいつが、乗り移っているからじゃないかと思うと、もう……」
「おいおい、迷信深い奴だな」
「冗談じゃないんだぞ!」
 武の声が、墓地に響いた。
「ああ、分かってるよ」
 勢いがある、というのは、こういうことなのだな、と優は納得した。武は、俊が瑞樹に憑かれているのではないかと言ったが、物の怪に憑かれたようになっているのは、どう見ても、武の方だった。
「じゃあ、いいことを教えてやる。俺はお前のことが大嫌いだったが、あいつは、言ってたぞ。お前の、勢いのあるところが好きだって」
 武は、合点のいかない表情をして、優を見ていた。
「俺もあの時はよく分からなかったが、今なら、分かる気がするよ。お前も、自分で考えればいいさ。もう妖怪瑞樹が夢に出ないようにな」
 優が冗談めかして言っても、武は笑わなかった。小さな子供が助けを求めるように、目に涙を湛えて、心許なそうにこちらを見ていた。
「ほら、しっかりしろよ、大将!」
 その背中を叩くと、思ったよりも力が籠ってしまったのか、がっしりした武の身体が二、三歩前へ出た。手桶から、再び、水が飛び出て落ちた。
 怒り出すかと思ったが、武は意外そうな顔をして、優を見て言った。
「お前、いい奴だったんだな」
「いい奴か……。同じこと言った奴がいたよ」
 あの時の瑞樹の顔は、真剣だった。だが、中学生の優は、瑞樹が何のつもりでそんなことを言うのか、分からなかった。
「なんで、俺のこと、引き止めたんだ?」
「さあ、なんでだろうな……」
 武の問いにそう答えたが、優は自分が本当は何をしたかったのか分かっていた。武と話せば、自分が掴み損ねていた瑞樹の姿が、見えるのではないかと思ったからだ。
「お前が小さくて、可愛かったからかな」
 ふざけて、自分より低い位置にある武の頭に、ぽんぽんと手を乗せた。武は暫く呆けた顔をしていたが、やがて真っ赤になって、優の手を払い除けた。
「やめろ、バカ野郎!」
「いいね、その意気だよ、大将!」
 瑞樹が残していったのは、掴みどころのない単なる謎ではなかった。もし、瑞樹の存在が実体のない幻想のようなものだったら、中学生の優が嫌いで堪らなかった武と、こうして向き合うこともなかったのだ。
 優はもう一度、声を上げて笑った。武も釣られて、少しだけ笑った。
「じゃあな、元気でやれよ!」
 去っていく武を見送って、少し疲れた背中に声をかけた。武は言葉少なに、さっと振り返って手を上げた。
 武が去った後、墓地には独特の静けさが残った。陽は本格的に傾き始めたようで、蝉はどこか遠慮がちに鳴いていた。
 優は向きを変えて、大きく一息を吐いた。
 千鳥家の墓は、すぐそこだった。

 葬儀の時に訪れた瑞樹の家は、和風の、どこか気品が漂う家だったと思ったが、夕陽に染まった「千鳥家代々之墓」は、他の区画にある墓石となんら変わりのないものだった。
 入口にある灯篭に、黄金色の陽を受けて、一匹のキアゲハが羽を休めていた。(マサル)が近づくと、待ちくたびれたように羽を震わせて、誘うかのように、墓前にある香炉のそばへ飛んだ。香炉には、つい先刻、(タケル)が供えて行ったらしい線香が煙っていたので、蝶はそれへは停まらずに、墓石の脇へ避けて行った。耳喧しいアブラ蝉の声が遠退いて、つくつく法師が聞こえ初めていた。
 優は、持っていた手桶から、柄杓で墓石に水をかけた。千鳥家の墓は、よく手入れされているようだった。どうやら新しく活けられたばかりの花は、これも武が持って来たものなのだろう。優が墓石へかけた水は、既に温いお湯になってしまっていたかもしれない。
「悪いな、手土産も持たないで」
 灯篭にいた、蝶のせいかもしれない。千鳥の先祖が眠っているはずの「千鳥家代々之墓」に至ってやっと、優は瑞樹の存在を色濃く思うことができた。自家の墓参りさえ、特別な感慨を持つことができなかった優には、どこか新鮮な感覚だった。
 墓石の後ろに立てられた瑞樹の卒塔婆は、一本だけが他のものより痛みが少ない。優には、書いてある戒名の意味は分からなかったが、「童子」と結ばれている一連の言葉は、消え擦れることもなく、はっきりと認識できる。
 千鳥瑞樹という少年が、生きて死んだ、確証に他ならなかった。
「なんで、いい奴だなんて、言ったんだ?」
 一人の人間の生死を、幻想のようにしか捉えてこなかった自分が、無性に腹立たしかった。 
「俺はお前に、何もしてやれなかったのに。生きてるときも、死んでからもだぞ?」
 優は、あまりにも卑小だった。恐いものは避け、分からないものは退け、都合の悪いものは揉み消してきたのだ。一人の人間の死さえ、何もなかったことにして、ずっと暮らして来たのだ。
 葬儀の席で、僧侶の読経を聞きながら、武は泣いていた。俊も見開いた目から、涙を零すまいとして、口を引き結んでいるようだった。だが優は、周りの様子を伺うだけで、ただ呆然と、故人の遺影を見つめていたのだ。遺影の瑞樹は、やはり蒼白い顔をして、静かに微笑していた。制服姿で泣いているクラスメートたちも、黒い喪服の大人たちも、全てが虚ろに思えた。覚めたら忘れる、夢のようなものにしか思えなかった。
 中学生の優は、ただ呆然としていたのだった。幻想のように掴みどころのない瑞樹の死を、優は悲しむことができなかった。そして、悲しむことができない自分に納得したのだ。掴めない白昼夢が消えたからと言って、誰が悲しんだりするだろう。瑞樹が実在した人間だとしても、悲しむことに意味はないのだ。一度、死んだ人間は、もう二度と、生き返ったりはしないのだから。千鳥瑞樹を幻想のようにしか思えなかった自分が、悲しむ理由なんて、どこにもないじゃないか。
 だがそれは、知らない振りをしたのと同じだった。中学生の優は、瑞樹の投げかけた言葉の意味を、考えようとさえしなかった。分からないと言って、突き放したのと同じだった。
 手桶を置いて、墓石の前に立つ。
「一番、お前を殺してたのは、俺じゃないか」
 自分の未熟な愚かしさが、あまりにも滑稽に思えて、優は思わず声を上げて笑った。
 分からないはずはなかったのだ。中学生の優にだって、友人を慮る気持ちさえあれば、瑞樹の死を悲しむことができたはずだったのだ。
 瑞樹の微笑が、目の前に浮かんで見えた。
 彼は既に、自分の死期を悟っていたのだ。
 ……できるだけ、人に美しい印象を残そうとして飛ぶ。
 どんな理由があったにしろ、瑞樹はあの日、優に心を託そうとしたのだ。それは美しい終焉を迎えたかった彼の、なけなしの表現だったはずだった。
 遠くの空は、夕陽の色に染まって、じんわりと滲んでいた。
「なんで、俺だったんだよ?」
 答える声は、どこにもなかった。
 優は、笑っていた自分が、いつの間にか泣いていることに気がついた。なんだか、可笑しい。墓石の前にしゃがみ込んで、優は暫く、笑いながら泣いていた。敷き詰められている砂利を握りしめると、夏の陽に照らされ続けた熱が、手の平を刺激した。
 その命が、たったのひと夏で終わるとしても、君はアゲハ蝶を好きだと思う?
 薄いシャツ越しの肩に、何かが触れた。
 入口の灯篭から、優を導いた蝶だった。
 もし、あの夏から後も千鳥瑞樹が生きていたら、世界はどんなふうに変わっただろう。千鳥瑞樹は、どんな青年に成長していただろう。どんなふうに話して、どんなふうに振る舞って、そして、優は、彼と友情を結ぶことができただろうか。
「馬鹿だよな、俺」
 自嘲気味に呟いた優の周りを、蝶がひらひらと舞った。
 武が供えて行った線香は、もう半分以上が燃え尽きていた。
「でも、お前だって、相当バカだ」
 中学生の優が、ひらひらと手を振って去って行く瑞樹の背中を見ている。足が、縫い留められたように動かない。
 ふっと息を吐いて、優は立ちあがった。
「俺はお前のこと、二、三発殴ってでも、泣かせてやればよかった。分かんねえこと言うなって、怒鳴ってやればよかった。生きてるうちに、もっと……」
 有線放送が鳴った。蝶が、優の周りを舞っていた。
 あの時、一度だけ聞いた、瑞樹の澄んだ笑い声が、耳のそばで響いた気がした。
 笑わせてやればよかった。
 優は、そばに置いたままにしてあった手桶を持った。瑞樹の笑い声をもっと聞きたがっている自覚を持つと、今度はそんな自分に決まりが悪くなったのだ。
 まるで、昔のままだった。
「お前と話すと、俺はペースを崩されまくりだよ、どうしてくれる」
 千鳥家の墓石の前を、キアゲハは面白そうに舞っていた。
「また来るよ。時間見つけて、時々な」
 優は、去って行く瑞樹の背中を思い出しながら、墓石と蝶に背を向けて、ひらひらと手を振った。過ぎ去った日々は、もう二度と戻らない。どんなに悔やんでも、言いそびれた言葉を伝えることはできない。千鳥瑞樹は死んだのだ。だが、いなかったわけではない。中学生の自分が思い込もうとしたような、心許ない存在などではなかったのだ。千鳥瑞樹は確かに、優と一時を共に生きた、友人だった。
 すっかり辺りは夕暮れだった。
 西の地平で、夕陽が平たく沈みかけているのが見える。
 夏の空気が含んでいる湿気の重さが、今は少しだけ、心地が良い。深く呼吸をすると、背筋が自然と伸びていくのを感じられる。
「ほんとに、バカだよ、お前」
 灯篭のそばまで、見送りでもするようについて来た蝶に気づいて、優は呟いた。
 千鳥瑞樹は、生きていたのだ。


 あいつは、いつも、あんなふうに、笑っていたんだ。


                                   完

アゲハ蝶

アゲハ蝶

いのち短し、アゲハ蝶。ひと夏の命を巡る物語。

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-05-05

Copyrighted
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