雨がやんだら(7)

   二十五

 フォード・ファルコンはV8エンジンを轟かせて、北へと向かっていた。
 昨晩、事務所でした運試しで、ボールペンは右に――「宮崎健太郎」と名前を書いた側へと倒れた。そこで、宮崎健太郎について、昨晩のうちにインターネットでざっと下調べをしておいた。
 宮崎健太郎は私より三つ年上、つまりは花田洋子と同い年だった。上野毛にある美術大学に在学中、同じゼミの仲間四人とテトラコルドというバンドを結成、テレビのオーディション番組で十週勝ち抜いたことにより、彼らはプロデビューを果たしていた。デビュー後、三曲目のシングルが人気ドラマの主題歌に採用されたことで、その年の暮れに放送される国民的歌謡番組にも出場していた。
 ここまで調べて、私はテトラコルドというバンドのことを、ようやく思い出すようになった。ただ、当時は〝バンドブーム〟と呼ばれる流行の真っ只中で、彼らのようなバンドは数多あり、彼らが国民的歌謡番組に出演した際の動画を見ても――花田洋子が『リリーマルレーン』を歌う動画を掲載していたサイトだ――私にしてみれば、〝ああ、こんな曲を聴いたことがあったな〟ぐらいの曖昧な記憶だった。
 国民的歌謡番組に出演した翌年からテトラコルドは、リーダーである宮崎健太郎の主導の元、〝自分たちの音楽を突き詰めたい〟というありがちな理由で、楽曲を発表し始めるようになる。この頃、彼らが発表した楽曲も例の動画サイトから聴くことができた。ヒットチャートを賑わす曲を忌避することで、音楽通を気取る一部の連中には〝アヴァンギャルド・ロック〟などと呼ばれ持て囃されたらしいのだが、〝音楽通〟ではない私に言わせれば騒音以外の何者でもなく、ヒットチャートからテトラコルドの名が消えていったことは、充分に頷けた。〈ポットへッド〉の野中が、テトラコルドというバンドを「一発屋だ」と語っていたのは、この辺りの経緯を踏まえてのものなのだろう。
 宮崎健太郎が大麻不法所持により一度目の逮捕――起訴猶予処分だった――をされたときには、〝音楽通〟なる輩の中では反体制のシンボルとして評価を高めたようで、それを受けたテトラコルドの〝アヴァンギャルド・ロック〟は、ますます鋭さを増し、世間の目からはさらに遠のいていった。
 〝アヴァンギャルド・ロック〟の終焉、すなわちテトラコルドが解散したのは、五年前のことだった。この頃になると、宮崎がライブで見せるパフォーマンスが常軌を逸していたこともあって――ステージで突然嘔吐し、その吐瀉物を食べる、生きた鶏をステージ上で捌き、その生き血をすする、などなど――彼が麻薬所持とその使用による二度目の逮捕をきっかけにして、〝音楽通〟たちすら、テトラコルドを見捨てることになった。彼ら〝音楽通〟が求めていたのは、他人と違う音楽を敢えて評価することにより、虚栄心が満たされることであって、ジャンキーにつき合うことではなかったということだ。
 世間から見れば〝一発屋〟のテトラコルド解散は、大したニュースソースではなかったようで、新聞記事のデータベースサービスで調べてみても、一本の短い記事が検索結果として表示されただけだった。
 そして、宮崎健太郎の二度の薬物事犯に関連して、桜樹よう子こと花田洋子の名前が検索結果に表示されることはなく、古河の言ったことが、ファン心理からくる嘘ではないことも証明された。
 テトラコルドの宮崎健太郎以外のメンバーは音楽業界に残り、それぞれ今も活躍しているらしいのだが、解散の原因となった宮崎本人は、音楽業界を離れて、陶芸家に転身していた。
 パソコンのディスプレイに映し出された陶芸家としての宮崎健太郎の作品は、実用的な茶碗や壺ではなく、やはり〝前衛的〟を売り――『生命』と名付けられたバラだろうか花を模した壺のようなものや、『再生』というタイトルの手が六本生えている人型のもの――とする陶器たちだった。
 結局、これら〝前衛的〟な陶器たちは〝芸術通〟と呼ばれたがる連中によって評価され、宮崎健太郎は薬物事犯の前科者ではなく、新たな世界を切り開く陶芸家としての地位を築きつつあった。
 〈ポットヘッド〉の野中が花田博之に教えた宮崎健太郎の銀座での個展は、先週のうちに会期を終えていた。そこで昨晩のうちに、宮崎健太郎の公式サイトに記載されていたメールアドレスに「急な申し入れで恐縮ですが――」と前置きして、新聞記者を装って〝取材〟の依頼をするメール送っておいた。
 今朝になって事務所に赴いた私が最初にしたのは、パーコレータでコーヒーを淹れることではなく、宮崎健太郎の公式サイトに記載されたもうひとつの連絡先である電話番号に「昨晩、メールを送った者ですが……」と前口上を入れて、電話をすることだった。
 電話に出た女に改めて〝取材〟の申し込みをすると、やけに陰気な声を出す女は、午後には次の個展の開催地である仙台に出発するため、昼までなら朝霞で、午後以降なら仙台でなら〝取材〟を受けても構わないと答えたので、私は「これから、すぐにお伺いします」と言って電話を切った。
 早々に事務所を後にして、フォード・ファルコンを一路、北に向かって走らせた。この〝忌々しい〟車について、尾藤からはなんの連絡もなかったが、私は「いい加減に返せ」と言われるまでは、こちらの都合で使わせてもらう腹づもりでいた。
 〈東京ドーム〉を過ぎてから白山通りを春日町の交差点で左折、春日通りを走る。茗荷谷を抜け、池袋六ツ又交差点で通り過ぎた。ここから通りの名は春日通りから川越街道と呼び名が変わる――もっとも、同じ国道二五四号線を走っていることには変わりはないのだが――ただ、道幅は広くなり、時折交差していく環状線を行き交う車は、大型車が目立つようになっていた。当然のように走行する車のスピードは上がり、この雨の中でも点数を稼ごうとする白バイの姿がバックミラーに入るようになった。ただでさえ目立つ車に乗っていることもあり、アクセルをゆるめて、この〝忌々しい〟でかい図体を隠すように走った。
 途中のガソリンスタンドで給油をした際、店員に断りを入れて、ファルコンから離れて隣接するコンビニエンスストアに行き、ATMで昨日散財してしまったせいで、すっかり寂しくなってしまった財布の中身を補充した。ついでに切れかけていた煙草も買っておく。
 腹を満たしたフォード・ファルコンを、川越街道に再び乗せた。和光で外環道を渡ると、右手に〈ホンダ技術研究所〉、左手には〈陸上自衛隊朝霞駐屯地〉を拝むことができた。我が国の国防と最先端技術を担う組織を両壁に走り、次に現れた〈朝霞警察署〉を目印に川越街道から離れて――目立つ車に乗っているせいで、いつもより慎重に右折した――住宅街へと入る。
 住宅街は、型抜きでもして建てられたような同じ意匠をした新しい住宅と、古くからの戸建てが混在していて、この町が郊外のベッドタウンとして、発展しつつあることを感じさせた。生憎の天気のせいで、日曜日だというのに住宅街を行き交う人々の姿は少なかった。それでも、時折見かける通行人はこの車を目にすると、一様に動きを止めて、通り過ぎるまで目で追いかけていた。母親に手を引かれた三、四歳の女の子にいたっては、両手で耳をふさいで、ファルコンが目の前を行き過ぎるまで、立ち止まってしまった。おかげで母親には、平穏な町を荒らすならず者を見るように睨まれる始末だった。まったく〝忌々しい〟車だ。このファルコンが響かせるV8エンジンの轟音が、穏やかな休日を迎えたベッドタウンにふさわしくないことぐらい、運転をしている私が一番わかっていることなのだ。
 やがて姿を見せた荒川水系だという黒目川に沿って五分ほど走り、東武東上線の高架をくぐると、住宅街から抜けた。行く手の河川敷に臙脂色の建物が、一軒だけポツンと建っている。その臙脂色の建物が私の目指す場所だった。陶芸家というので、東京から遠く離れた山奥に庵でも編んでいるイメージを持っていたのだが、この郊外のベッドタウンの外れにある臙脂色の建物が、陶芸家である宮崎健太郎の窯元であるらしかった。
 来客者が車で来ることを想定したものなのか、臙脂色の建物の門前には、車二台分ほどのスペースがあった。私は遠慮することなく、そのスペースにファルコンを停めさせてもらうことにする。
 レンガ造りに見えた外壁は、よく見てみればモルタル壁を臙脂色に塗装し直したもので、どうやら新築の物件ではなく、元は三階建ての事務所かなにかだった建物を改築したようだった。
 フォード・ファルコンから降りて、事務所の名残があるガラス戸に向かう。ガラス戸には、色の濃いフィルムが貼られていて、中をうかがい知ることはできなかった。ガラス戸の脇に設置されたインターホンを押す。しばらくすると、インターホンから女の声で「取材の方ですか?」との問いかけがあった。今朝、電話に出たのとの同じ陰気な声だった。私が「そうです」と答えると、「しばらくお待ちください」と抑揚のない調子で返ってきた。
 空を見上げることで、彼女の言う〝しばらく〟の間をつぶすことにした。見上げた空は、私の事務所からおよそ三〇キロ離れた地でも変わらず雲に覆われ、降りそぼる雨はやむ気配を見せなかった。その雨粒の大きさが、雲の向こう側では次の季節に移ろいつつあることを告げていた。
 内側からゆっくりとガラス戸が開けられ、臙脂色のワンピースを着た女が顔を覗かせた。年の頃は、私より少し若い三十代半ばといったところだろうか。左目に眼帯をしていた。それを気にしてなのか、胸の当たりまである長い髪で、顔の左半分を隠している。
「すいません。お忙しいところお時間を頂戴して」私は彼女に言った。
「いいえ。遠いところを、わざわざお越しいただいて、ありがとうございます」芝居で言うところの〝棒読み〟で答えた後、一礼をした。「どうぞ、お入りください」
 彼女に招かれるままに入った一階は、仕切りがなくワンフロアのロビーになっていて、十数台の台座が置かれていた。宮崎健太郎が焼き上げた陶器のギャラリーになっているようだ。しかし、今日は作品が置かれているはずの台座の上は、どれも空になっていた。
 私は訊いた。「こちらは、ギャラリーになってるんですか?」
「はい。ほとんどの作品は次の個展をやる仙台に運んでしまいましたけど」女が一番手前にある台座の前に立った。「ここには、最新作の『鼓動』が展示してあったんですよ」
 最新作の『鼓動』――昨晩、閲覧した宮崎健太郎の公式サイトでも紹介されていた。様々な色で塗りたてられたのボーリングのピンのような陶器で、なにをもって『鼓動』というタイトルなのか、皆目検討もつかなかったのだが。とにかく私は「ああ、そうなんですか」と、話だけは合わせておいた。
「こちらへどうぞ」私のおざなりな回答がお気に召さなかったのか、彼女は視線を私から外して、ロビーの奥に走らせた。
 女の後について台座の中を歩いた。ロビーの奥には階段とエレベータがしつらえてあった。エレベータを操作する彼女の背中越しに言った。「あの……階段で構いませんよ」
「階段は二階までしか続いていません」振り向かずにエレベータの方を向いたまま女が答えた。「二階は、宮崎のアトリエになっています。宮崎は、アトリエには誰も入れたくないと申してますので……取材は三階でお願いします」
 最近では陶芸家もアトリエという言葉を使うのだろうか。まあ、これはどうでもいい。私は胸の裡を悟られぬよう愛想良く「了解しました。問題ありません」と答えておいた。
 改築後に設置されたらしいエレベータには、臙脂色の絨毯が床に敷かれていた。かすかに芳香剤の香りが漂うエレベータは、因業ババアが大家の雑居ビルにあるエレベータと違って、ガタガタと音を立てることなく優雅に三階で止まり、静かにドアが開いた。
「こちらになります。そのままお入りください」
 エレベータの先は、十畳ほどのトレーニングルームになっていた。打ちっ放しの壁沿いにウエイトマシンやベンチプレス台といったトレーニング器具が置かれている。エレベータの中から一転して、汗の匂いとトレーニング器具が醸し出す金属の匂いで満ちていた。一番奥には真新しいサンドバッグも吊されていた。そのサンドバッグを挟むようにして、トレーニングルームの両隅にドアがあり、女は左隅のドアへと向かう。〝前衛的〟な作品群が展示されているはずの台座の次は、ダンベルにバーベルの合間を縫うようにして女の後を追うことになった。
「驚かれたでしょう?」ドアノブに手をかけた女が、今度は振り向いて言った。口調は相変わらず、陰気なのだが。
「まァ、そうですね」できる限りの愛想笑いを浮かべて答えた。
「みなさん、驚かれるんですよ」私の精一杯の努力も虚しく、彼女は笑みひとつ漏らさずにドアを開けた。「どうぞ……」
 ため息だと感づかれぬよう気を配って息をつき、私は次の部屋へと入った。ギャラリー、トレーニングルームに続いて現れたのは、玄関だった。少し拍子抜けしつつ、三和土で靴を脱いで用意された臙脂色のスリッパを履く。遅れて入ってきた女が私の左側を追い抜いていく。彼女も同じ色のスリッパを履いていた。
 彼女の背中に私は言った。「宮崎さんは、臙脂色がお好きなんですね」
「レンブラントが黒だったように、宮崎にとっての基調色……ベースカラーなんです」
 女が言うように、私が見た宮崎健太郎の作品には、必ず臙脂色がどこかに使われていた。しかしそのことを、十七世紀を代表するオランダの画家と並べて語られることには、喉に小骨が刺さっているかのような違和感があった。
 二十畳ほどの広さのあるリビングに通された。宮崎の〝ベースカラー〟だという臙脂色で、調度品は統一されていた。リビングの床にはいくつかダンベルが転がっていて、中には私の見たことのないトレーニング器具もあった。壁には、空手やキックボクシングの試合が収められた写真が掲げられ、陶芸家の部屋と言うよりも、格闘家や武道家の部屋といった佇まいだった。
 部屋の中央にあるヴェルヴェットのソファに、陽に焼けた体格のいい男が腰かけていた。迷彩柄のタンクトップに黒のハーフスパッツを履いた男は、女にエスコートされてリビングに入ってきた私に気づくと、顔一杯に人懐っこそうな笑みを浮かべて立ち上がった。身長は私より少し低い一七〇センチ前半といったところなのだが、体重は私よりも二〇キロ――昨日パソコンの画面で見たテトラコルド時代の彼より三〇キロ以上――は重そうだった。鍛え上げられた僧帽筋と大胸筋が、タンクトップをはち切れんばかりに押し上げている。
「ようこそ、宮崎健太郎です」右手を差し出してきた。陽に焼けた太い腕と浮き上がった血管は、ボンレスハムと肉塊に巻きついた紐のように見える。「驚いたでしょ」
 差し出された宮崎の右手を握り、率直な感想を返した。「そうですね。陶芸家というのは、山奥で作務衣でも着て難しい顔をしてるもんだと思ってました」
「そういうのはさ……」宮崎が、今度は笑顔をいたずらっぽいものに変えた。「あんたたち、マスコミさんの思い込みなんだよねェ」
 右手に激痛が走った。力の加減を知らないのか、力自慢をしたいのか。とにかく、有り余る筋力にものを言わせて、右手を握られた。表情を変えずにいることがやっとで、宮崎の言葉になにも返すことができなかった。
「あんた、我慢強いねェ」宮崎が目を丸くした。「初対面のヤツに、いつもやってるんだけど……声を上げなかったのは、あんたが初めてだ」つまらなそうに呟いて、ようやく手を離す。
 筋肉製のプレス機から解放された右手がスクラップにされてしまっていないか、二度、三度と右手を開いて確かめた。痛みは残っているものの、動かすことに支障はない。
「今日はすいません。急なお願いをしてしまって……」私は上着から名刺を取り出した。
「全然、構わないよ。取材はウエルカムなぐらいだよ。陶芸家にしろ、なんにしろさ、今の世の中、目立ってナンボなんだから」
 どのご時世であれ、私の稼業は目立ってナンボではないのだが――そのことは黙っておいた。
「東洋新聞社の……滝川さん……」私の渡した名刺に目を落とした宮崎が訊いてきた。「東洋新聞ってのは、どこの新聞なの?」
「東洋なんて名乗ってますけど、実は地方紙なんですよ」
「へェ……どこなの?」
「横浜です」
「ふぅーん。そうなんだ……でも、横浜ならいいんじゃない? 世界に開けた国際都市なんだから」
「そう言っていただけると、ありがたいです」
「これが、朝霞の新聞だったら……〝名前に偽りあり〟って訴えちゃうけどさ」宮崎がヴェルヴェットのソファに座り、軽口を叩いた。「まァ、かけてよ」臙脂色のテーブルに名刺を放る。
 勧められるままに、宮崎と向き合う恰好で腰を降ろして、ICレコーダーをテーブルに置いた。上着の内ポケットからメモ帳とペンを取りだし、いっぱしの記者らしく振る舞う。
「――でさ、取材してもらう前に、ひとつ訊いていいかな?」
「なんでしょう?」
「滝川さんのアダ名ってなに?」
「アダ名……ですか?」
「そう。あのさ、滝川さんって呼んでもいいんだけどさ、なんか余所余所しいじゃん。だからさ、いつも取材してくれる人には、アダ名とか訊いてるんだよね。その方が、親近感が湧いて話やすいんだよ」
「そういうもん、なんですか?」
「そうだよ。もし……アダ名が無いっていうなら、俺の方で勝手につけちゃうけど」
 先刻の力任せの挨拶といい、アダ名で他人を呼びたがることといい、芸術を売りにする人間の考えることはよくわからない。首を傾げたくなるのを我慢して答えた。「仕事仲間には、バクって呼ばれてますが……」
「バク? なんで、バクって呼ばれてるの?」宮崎は、テーブルに放った名刺を再び手にした。
 名刺には〈東洋新聞社 社会部記者 滝川竜太〉と記されていているだけで、宮崎が疑問に感じているように〝バク〟と呼ばれる理由となるキーワードは見当たらない。
「私……博打が好きでして。自分でいうのもなんですが、それも相当の。給料のほどんどを、博打に使っちゃうんですよ――」
 バクこと、滝川竜太と知り合ったのは十年以上前のことで、彼は全国紙の社会部に所属する腕利きの記者だった。取材をしていなければ、博打を打っている――いや、博打の合間に取材をしているような男で、〝バクさん〟というアダ名は記者仲間どころか、彼と同業ではない私や古河たちの間にも伝わっていた。その滝川がデスクへの昇進を断って、永年勤めた全国紙を退職したのは、私が今の稼業に転職をした年のことで、〝生涯一記者〟を標榜する滝川ことバクさんにとって、現場で走り回るよりも社内で詰めている時間が増えるデスク職は耐えられないことだったらしい――もっとも、博打に費やす時間が減ってしまうことも理由だったそうなのだが――宮崎に渡した〈東洋新聞社〉名義の名刺は、先年ある依頼に絡んで再会したバクさんから頂戴したものだった。
 バクさん曰く
 ――そろそろ、デスクにされそうなんだよ。〈東洋新聞社〉も辞めどきだな。この名刺、好きに使っていいぜ
 とのことだったので、今回は彼の言葉に甘えさせてもらっていた。
「――それで、仲間から〝バク〟って呼ばれるようになりましてね」
「博打好きで、バク。なるほど……面白いねェ」宮崎が声を上げて笑った。
「いやァ、お恥ずかしい限りで……」
「そんなことないよ。最高じゃん」
 私は右手に持ったペンの尻で頭を掻いた後、居住まいを正して、訊いた。「さて、ひとつ、お訊きしたいんでけど、よろしいですか?」
「どうぞ、バクさん」宮崎が身を乗り出して言った。
「こちら二階がアトリエになっているんですか?」
「そうだよ。俺は全部、ここで作ってる」
「先ほども言いましたが、陶芸家というのは、登り窯かなにかの前で……こう、難しい顔をしているという世間のイメージがありますけど、随分と変わってらっしゃいますね」
「だから、それは勝手なイメージだって」この手の質問は、幾度となくされてきたのだろう。彼の言葉の端から、それがうかがえた。「それにね、釉薬をどうするとか、登り窯がどうとか、薪がどうとかさ、そういうのは、ちゃんとした陶芸家に任せておけば――」宮崎が話を止めて、睨みつけてくる。
 ――新聞記者ではないことが、バレたか
「おい!」宮崎が怒鳴り声を上げた

   二十六

「お前、なにそこでボッと、つっ立ってんだよ! 立ち聞きなんかしてんじゃねェよ!」
 振り返るとリビングの隅で、先刻の女が立ちすくんでいた。宮崎の怒りの矛先は、私ではなく彼女に向けられていた。
 肩を震わせてこちらを伏し目がちに見つめる彼女に、宮崎はさらに怒鳴りつけた。「お客さんが、来てんだろ? お茶ぐらい持ってこいよ!」
「あの、お構いなく」この場を取り繕うべく、私は宮崎に声をかけた。
 目尻を下げて、宮崎が答えた。「バクさん……これは、こっちの話だから。こういうことは、ちゃんとしないとね」
「いや、ですが……」
「早く、お茶を持ってこい!」私の言葉を無視して、彼女には目尻をつり上げて言いつけた。
「ごめんなさい」かろうじて聞き取れるほどの声量で、女が謝罪した。慌ててリビングを出てく彼女は、軽く右足を引きずっているように見えた。
 リビングから女が姿を消したのを見届けて、宮崎が深々と頭を下げる。「ほんとに、ごめんね……気が利かない馬鹿女で」
「いえ……本当にお構いなく」
「いいの、いいの。悪いのはあの女だから……で、なんの話してたっけ?」不穏な空気を一掃しようとしてのことだろうか、顔を上げた宮崎の口調は軽いものだった。
「ちゃんとした陶芸家が、どうとか……」
「そうだ、そうだ」と合いの手を入れて、宮崎が言った。「あのさ、俺は、ちゃんとした陶芸家じゃないから……いや、陶芸家でもないな。なんていうのかな……そう、ただ自分の表現したいものを作ってるだけなんだよ。今は、それが陶芸ってわけでさ、陶芸に飽きたら別のことをやると思うよ。だから来年の今頃は、書道とかやっちゃってるかもね」
「書道ですか……となると、あなたは陶芸家ではない、ということですか」
「そうだね。周りがさ、勝手にそう言ってるだけで、俺は自分のことを表現者って呼んでもらいたいのよ。昔は音楽、今は陶芸、これからは……なんだろうね」
「さァ……私のような凡人には、わかりませんよ」
 先刻の女がお盆を手にして、宮崎の背後からリビングから戻ってきた。お盆の上にふたつグラスが乗せられ、麦茶かなにかが注がれていた。
 私の視線に気づいた宮崎が振り返った。女を見て、ため息をつく。「あのさァ、なんでそれなんだよ。お客さん用に川根の婆ちゃんが送ってくれたお茶があったろ? なんでそれ使わないの……」
「ごめんなさい」肩をすぼめた女が踵を返した。やはり、右足を引きずっているように見えた。
「早く持ってこいよ!」リビングから出ていく女の背中に宮崎が言った。
 私に向き直った宮崎に訊いた。「あの方は、奥さんですか?」
「奥さん……違う、違う」宮崎は顔の前で手を振って否定した。
「では、恋人というわけですか」
「うーん。恋人ねェ……」宮崎は太い腕を組んで、発達した大胸筋を誇示するように胸を張った。男であろうと女であろうと、大きな胸は他人に見せつけたくなるものらしい。それから右目だけをつぶってみせた。「まァ、そんなとこかな」
「昔から、おモテのようですからね」
 昨晩、パソコンを前にして調べてみてわかったことなのだが、宮崎は桜樹よう子こと花田洋子以外にも、何人かの女性芸能人と浮き名を流していたようで、その中には私でも知っている芸能人の名前もあった。
 遠い目をして宮崎が答えた。「昔はね。でも……今はそんなことはないよ」
「そうですか? だって現に彼女がいらっしゃるわけでしょ。私は独りモンですよ」
 宮崎が声を上げて笑い出した。手を叩き、ひとしきり笑ってから言った。「……それはさ、バクさん、あんたが博打ばっかりやってるからでしょ?」
「そう言われると、身も蓋もないんですが……」
「おかしいなァ、バクさん……」宮崎は目尻の辺りに溜まった涙を手で拭っていた。「それで、なに? バクさん、俺の女関係のことを取材しに来たの?」
 私は答えた。「ある意味、そうですね」
「困ったなァ……」芝居がかったように、宮崎が大きく顔をしかめた。「知ってると思うけど……昔さ、俺、薬で捕まってるでしょ。そのせいか、あれ以来、さっぱりなんだよね」
「でも、もう薬には手を出されてないわけですよね」
「もちろん。もうやめたよ」宮崎が大きく頷いた。「あの頃はさ、他人と違うことやんなきゃって、焦ってたんだよ。それで、インスピレーションって言うの? そういうのをさ、湧かせるために、ついつい手を伸ばしちゃったんだよねェ……でも、すごかったんだよ。薬やるとさ、見える世界が違ってくるの。ほんとなんだよ。俺、やっぱり天才なんだって思う瞬間とかあったからさ」
 宮崎に悪びれる様子はない。そして、かつての〝出来心〟から手を染めてしまった犯罪からの更正について、他人前で語ることには慣れているようだった。
 彼の独演は続く。「……だけど、刑務所でね、自分の顔を鏡で見たときびっくりしたんだよ。すごい痩せててさ。捕まる前までは、俺は命削ってやってんだ、なんて粋がってたけど、あの顔みたら怖くなっちゃって……そしたら、ある看守の先生がね、身体鍛えてみないかって言ってくれたの。最初は、体力の回復が目的だったんだけど……なにせ、腕立て伏せが五回できないだもん。それが悔しくて、悔しくてさァ……一カ月ぐらいしてからかなァ、十回できるようになったときなんか、恥ずかしげもなく、その看守の先生の前で、泣いちゃったもんね」
「そうですか……ウエイトトレーニングの方は、出所されてからというわけですか」私は先刻通ってきたトレーニングルームの方を指差した。
「そう。身体鍛えるのが楽しくなっちゃってさ。重いバーベルとか持ち上げるじゃない、そうするとドーパミンだっけ……まァ、とにかく脳内麻薬っていうのが、ドバって出てくるのね。そうするとさ、言い方悪いけど、薬やるよりも気持ちいいっていうか、ものすごいインスピレーションが湧いてくるんだよね。そしたら、もうやみつき。はまっちゃって、はまっちゃって……で、こんな身体になっちゃった」宮崎は右腕を曲げて、発達した上腕二頭筋肉を誇示して見せた。血管の浮き立った自慢の力こぶを、左手で愛おしそうに撫でる。「ほんと、最近になって思うんだ。薬に頼ってた俺は、なんて安易なヤツだったんだろうって……」
 宮崎の話は嘘だ。彼は今でも薬に頼っている。薬の名前がヘロインから、ステロイドに変わっただけのことだ。そうでなければ、出所してから数年という短い間で、筋肉だけで三十キロ近くも増量できるはずがない。要するに、彼は未だに〝安易なヤツ〟なのだ。
「最近はさ、筋肉だけつけてもしょうがないから、空手を始めたんだ。我流だけどね」
 トレーニングルームに真新しいサンドバッグが吊されているのを思い出した。そこで見栄えのいい技だけを、サンドバッグに叩き込んでいる宮崎の姿は、容易に想像できた。
「だったら、なおのこと、女性にはおモテになるんじゃないですか? 女性は強い男に魅かれる、といいますから……」胸の裡とは裏腹におべっかを使った。
「だから、そんなことないって。しつこいなァ」と言った後、宮崎は神妙な顔を作った。
 新聞記者も、私の稼業も他人から話を聞き出す〝しつこさ〟では、そう変わりはない。「しつこいのが、この商売ですから……気に障ったら申し訳ないですね」
「なるほどねェ。しつこいのが、バクさんの商売ってわけね」モヒカンのように頭の両サイドを短く刈り上げた髪に、手をやって宮崎が続けた。「でもね……俺、女を信用してないんだよね」
「女を信用していない……どういうことです?」
「正確に言うと、女だけじゃなくて他人ってのが、信用できなくてさ」
「それは、昔からですか? それとも陶芸家になってから?」薬事犯として逮捕されてから――と口にしないだけのデリカシーは、私だって持ち合わせている。
 宮崎は宙に視線を走らせて、少し考えてから答えた。「昔……からかな。音楽やってるときから、そうだったね。表現者……バクさんたちにわかりやすく言うと、アーティストとか芸術家って呼ばれる人間ね。その……才能があるヤツの周りってさ、不思議と人が集まるんだよ」
「そうなんですか?」
「そういうもんなのよ。それでね、集まってくるヤツは、三つのタイプに別れるんだよ。バクさん、どんなヤツか……わかる?」
 私は「さァ」と首を傾げた後、話を進めるよう促した。
 宮崎が右手の親指を立てた。「まずひとつ目のタイプは、才能のある人間の近くにいて、自分が儲けようってヤツ。こういうヤツは、ある意味〝ギブ・アンド・テイク〟っていうのかな……とにかく、俺にとっても、儲けるチャンスにもなるわけだし、つき合いやすいよね。ビジネスライクだっけ? そういうつき合いだからさ、別れるにしても〝金の切れ目が縁の切れ目〟っていうわけで、腹も立たないしさ。まァ、男女比率は五分五分だね。ふたつ目はわかる?」
 私は、今度は首を横に振って応えた。
 右手の人差し指を立てて、宮崎は拳銃の形を作った。「ふたつ目のタイプはさ……才能のあるタイプの近くにいることで、自分に箔をつけようとしてるヤツ。こういうヤツはちょっと扱いづらいんだよね。俺は誰それと友達だ、とか……あたしは、誰それの飲み仲間よ、なんて言って回りただけのヤツなんだけど、たまに変な噂流されたりして、苦労するんだよねェ。ただ上手くつき合えば、向こうから金を持ってきたり、スポンサーを見つけてきたりするんだよね。この手のタイプは男の方が多いかな。さて、最後の三つ目のタイプ――」
 彼の持論は、自己顕示欲の強い人間に特有のものだ。周囲にいる人間を、自分を輝かすだめだけの道具、あるいはアクセサリー程度にしか考えていない。もっとも、その自己顕示欲の強さは、宮崎が陶芸家、いや彼の言葉を借りれば、〝表現者〟として名を成している要因のひとつになっているのかもしれない。これが〝表現者〟として必要な要素だとすれば、私は〝表現者〟なぞには、逆立ちしてもなれそうになかった。
 とにかく、陶芸家の講話は最後まで聞かねばならないようだ。親指、人差し指に続いて中指を立てて、三を示している宮崎に、身振りで〝講演〟を続けるよう促した。
「三つ目はね、才能のあるタイプの近くにいることで、自分も才能があるんじゃないか、アーティストなんじゃないかって勘違いするヤツ。こいつが一番厄介なんだよね。才能もなんもないくせにさ、近寄ってくんの。そのくせ、知識とかは豊富でさ。なんていうのかな、芸術の世界に浸っていたいだけで、なんの表現もできないヤツ。女に多いんだよねェ、こういうヤツは。大抵、色仕掛けで近寄って来るんだ。こっちも男だからさ、ついつい……まァ、これもある意味で〝ギブ・アンド・テイク〟かな。俺の身の回りのことだったりさ、性欲の処理をしてくれるだけで、ヤツらは憧れの生活を得られているわけだから」宮崎は世のフェミニストたちが揃って発狂しそうなことを、得意げにさらりと言ってのけた。
「先ほどの彼女は、どのタイプなんです?」奥に消えた女について、私は訊いた。
「先ほどの彼女? あァ、あの馬鹿女ね。あれなんか、三つ目の典型だよ」宮崎が吐き捨てた。
 ここで精神安定剤――ニコチンを補充したいところだったが、この部屋には灰皿がない。そこで、手にしたメモ帳に、宮崎からは見えないよう大きく〝バカヤロウ〟と書いた。なんとか気持ちを落ち着かせて、私は訊いた。「では、花田洋子さんは、どのタイプになるんでしょう?」
「花田洋子?」宮崎が眉の間を寄せて、首を傾げた。
「ええと……桜樹よう子さん、と言った方がいいのかな。思い出せませんか?」
「桜樹よう子……あァー、洋子ね」声を上げる宮崎の顔から曇りが取れた。「そうだ。あいつ、本名は花田洋子っていったんだ。うん、覚えてるよ」
 宮崎が〝覚えていない〟と答えていたら、即刻席を立つつもりだった私は、一息入れて再び訊いた。「もう一度訊きますが、花田洋子さんは先ほど仰られていた三タイプのうち、どのタイプになります?」
「そりゃ、三番目だよ」宮崎は言わずもがなだとばかりに即答した。
「三番目……ですか」
「そうさ。元アイドルかなんか、知らないけどさ。音楽かぶれもいいところだったね。それに、あいつの兄貴が絵に興味があるとかないとかで、そっちの方にもかぶれちゃっててさ。小賢しいって感じだったね。ちょっとばかし、つき合ってやったけど――」そこまで言って、宮崎が口を閉ざした。身を乗り出して正面から私を見つめてくる。
「なんでしょう?」
「……バクさん、ひょっとして、洋子の取材してるの?」左の眉だけを下げて、宮崎が訊いてきた。
「ええ。かつてアイドルだった桜樹よう子さんこと、花田洋子さんについて、取材をしています」
「なんだァ、早く言ってよォ」飛び跳ねるようにして、宮崎はソファに背中を預けると、天井を見上げてぼやいた。「俺じゃないんだァ……でも、なんで俺に洋子のことを訊くのさ?」
「下北沢の〈ポットヘッド〉、覚えてます?」宮崎が小さく頷いたのを確かめて続けた。「〈ポットヘッド〉のマスターに聞いたんですが、あの店に洋子さんとよく通ってたそうじゃないですか」
「そうだったけどさァ……〈ポットヘッド〉に行ってたのなんて、随分と昔の話だぜ?」
「確かに五年以上も前のことですけど……今でも、おつき合いはあるんですか?」
「もうないよ」
「あなたとおつき合いのあった頃、彼女にはご主人と……まァ、離婚していたかもしれませんが、お子さんがいたはずです。そのことは覚えてませんか?」正確には別居なのだが、この際それはどうでもいい。
「だから、覚えてないってェ」天井を見上げたまま宮崎は、答えを返し続けていた。
 私は本題を切り出すことにした。「その洋子さんのお子さんという少年が、あなたに会いに来ませんでしたか?」
「洋子の子供? 知らないよォ」
「十六歳になる花田博之という少年なんですが――」私は携帯電話を取り出し、花田博之の画像をディスプレイに表示させた。
「だから、知らないって言ってるだろ!」天井に向かって、宮崎が声を上げた。「来てないよ、そんなガキ……だいたい、つき合ってた頃だって、会ったこともないんだぜ」
 取材の対象が自分でないとわかった途端これだ。これでは、自己顕示欲の強い陶芸家というより、ただの不貞腐れたガキだ。私はもう一度、メモ帳に〝バカヤロウ〟と大きく書いて気を鎮めた。
 ――なんにせよ、博之が宮崎に会っていないことがわかっただけでも収穫だ。そろそろ話を切り上げねば
「バクさんさァ……初めから言ってよ。俺の取材じゃないって。それなりに忙しいんだぜ、俺」
「すいません――」取り敢えず頭を下げた。もっとも謝罪相手の宮崎が天井に目を向けたままなので、気づいてくれたかどうかは、わからないのだが。
「あ――」なにかに気づいた宮崎が、ソファに背を沈めたまま顔を上げた。先刻までころころと変えていた表情が消えてしまっている。「バクさん。ジュンコ……あの馬鹿女、お茶持ってきてないよね」
「そうですけど……いや、お構いなく。私も、そろそろ失礼させてもらいますので――」
「なにやってんだ、あの馬鹿女」私の言葉には耳を貸さず宮崎が立ち上がった。女――ジュンコが、姿を消したリビングの奥へ、拗ねた子供がやるように、わざとらしく大きな足音を立てて歩いてゆく。
 ――疲れる男だ
 他人の目を気にすることなく、大きなため息をついて、ソファの背もたれに寄りかかった。宮崎がしたように天井を見上げた。昨晩、事務所でやった運試しが、ハズレを引き当てていたことを呪った。
 ――本物のバクさんであれば、見事にアタリを引き当てていたろうに
 ソファに背中を押し当てて背筋を伸ばすと、自分で思っていた以上に筋肉は強張っていたようで、首から肩にかけた辺りがバキバキと鳴った。凝り固まってしまった筋肉に、血液と酸素を行き渡せることを、心地よく感じるような歳になったのだと実感した。
 リビングの奥から怒号が聞こえてくる。機嫌を損ねた甘えん坊が、世話焼きの女に八つ当たりでもしているのだろう、そう高をくくってストレッチの快感に浸っていた私を、突然の悲鳴が現実へと引き戻した。

   二十七

 そして激しい物音――
 ソファから立ち上がった。物音はふたりが姿を消したリビングの奥から聞こえてくる。
 激しい物音が、再びリビングへと響き渡った――違う。これは、そんな生易しいものではない。
 ――〝誰か〟が、なにかに激しくぶつけられた音だ
 私はふたりが消えたリビングの奥へと向かった。言葉になっていない怒号が響く。声の主は明らかに〝男〟だ。廊下を左に折れて、怒号が聞こえてくるダイニングへと入った。
 白を基調にしたダイニングは、臙脂色に慣れてしまった目には眩しく映った。そのダイニングにあるキッチンカウンターの下に、ジュンコが倒れている。カウンターの角にでもぶつけたのだろうか、私に背を向けた彼女は腰の辺りに手を当てていた。白い床に横たわるジュンコの臙脂色のワンピースが、血だまりのように見えた。
「おめェは、何度言ったらわかるんだよ、この馬鹿女! 余計なことしないで、早くお茶持って来いって言ったろうが!」横たわるジュンコの前で仁王立ちになった宮崎が、彼女を見下ろして怒鳴りつけた。
 ダイニングのテーブルの上には、煎茶の用意がしてあった。急須、湯飲みのほかに、湯冷ましに使うための大振りの湯飲みが置かれていた。沸き立てのお湯では、美味いお茶は煎れられないという。揃えられた道具を見る限り、ジュンコなりのおもてなしをしようとしてくれていたに違いなかった。
「宮崎さん、その辺でやめておくんだ」私は宮崎の背中に声をかけた。
「おめェは、俺に恥をかかす気か! えェ!」興奮しきっている宮崎に私の声は届かなかったようで、彼はジュンコの腰の辺りを軽く蹴りつけた。「この馬鹿女が!」
 薬で安易に作り上げたとはいえ、筋肉の塊のような男が蹴ったのだ。ジュンコが呻き声を上げて、身をよじらせる。
「いい加減にしろ。俺は、やめろと言ってるんだ」私は宮崎の肩を引いて、ジュンコから引き剥がした。
 宮崎がゆっくりと、こちらを振り向く。ようやく私に気づいた宮崎は、眉根にしわを寄せて唇を尖らせた。遊びの最中におもちゃを取り上げられて、機嫌を悪くしたガキの顔だった。
「なんだよォ……止めないでよ、バクさん」
「なにがあったか知らんが、見過ごすわけにはいかないな。女相手になにやってんだ、あんた」
「女相手になにやってんだ、あんた」私の声色を使って鸚鵡返しに答えて、宮崎は唇の両端を上げた。「カッコいいなァ、バクさん。でもさ、男とか、女とか関係ないんだって。男だから手を出していい、女だからダメってのは、おかしいよ。人として間違ってたらさ、ちゃんと注意してやんないと」
「あんたがやっていることは、注意なんてもんじゃない」
「バクさん……勘違いしないでよォ。これは暴力じゃない。躾なんだ。イヌとかネコだってそうだろ? 言うことを聞かせるために、いろいろとやるじゃん」
「だったら、あんたがやってることは、躾じゃない。調教ってんだ」
「だったら、調教ってやつだね」薄笑いを浮かべて頷く宮崎の股間が大きく膨らんでいた。身体にぴったりとしたスパッツを履いているせいで、余計に目立っていた。彼の科白は、芸術家独特の感性というヤツが言わせているのではない。ただ単に、この男の性癖なだけだ。
「生憎な、今じゃァそういうのは、動物愛護法違反ってェ立派な犯罪だ」
「だったら、この馬鹿女は動物以下……だな」宮崎が私の方を見たまま、右足を後ろに跳ね上げた。
 宮崎の踵が横たわったジュンコの腰の辺りを捉え、ジュンコが悲鳴を上げて再び身をよじらせた。臙脂色のワンピースがまくれ上がり、白い太股が露わになる。その太股には、ぞっとするような大きな青い痣があった。
 自分の奥歯がギリギリとなっているのが聞こえる――臙脂色のスリッパを脱いで、足元を固めた。
「なに、バクさん……その目は? 俺とやろうっての?」それを見た宮崎が薄笑いのまま言った。「さっき言ったでしょ、俺、空手始め――」
 芸術家気取りの変態を諭そうとする灰色の脳細胞よりも、赤い筋肉細胞が先に動いていた。真っ直ぐに伸ばした右の拳が宮崎の顔を撃ち抜いた。その勢いのまま左の拳をレバーに叩きつける。かつては〝稲妻〟と呼んでいた私自慢のコンビネーションも、ドーピングとはいえ筋肉の鎧で守られた宮崎をぐらつかせるのが精一杯だった。歳のせいだとは思いたくない。一歩下がって間合いを取り、大胸筋の間を右足で蹴りつけた。発達しすぎた筋肉は、人体の弱点をさらしているのようなものだ。爪先が宮崎の鳩尾にめり込むのがわかった。宮崎が鳩尾を押さえて、膝を突く。がら空きになったその顔面を、サッカーボールを蹴る要領で思い切り蹴り上げた。一度、身体を大きくのけぞらせてから、宮崎が顔から床に崩れ落ちる。
 かつて〝カミソリ〟と称していた蹴りの切れ味は、まだ錆びついていなかったようだ。私は宮崎の巨体を跨いで越えて、ジュンコの元へ歩み寄り、まずはまくれ上がってしまった臙脂色のワンピースを直してやった。それから、彼女の肩を支えて上半身を起こす。「大丈夫ですか?」
「ありがとう……ございます」
 震えているのが声だけでないことは、肩を支える腕からも伝わってきた。「ひとりで、立てますか?」
 眼帯をしたジュンコが首を振った。それから辺りを見回して、床に崩れ落ちている宮崎に気づいた。息を呑んで身体を固くすると、震える声のまま訊いてきた。「怪我は、してないんですか?」
「おかげさんでね。俺はなんともない」とびきりの微笑みと一緒に、お礼の言葉を返した。
「いえ、彼……です」
「あァ……彼ね。ちょっとばかり、気を失ってるだけでしょう」勘違いをしてしまった自分に落胆しつつ言った。「とにかく、死にゃァしないですよ」
「そうですか……」
「さァ、行きましょう」肩を貸してジュンコを立ち上がらせた。
 右足を引きずる彼女の肩を支え、ダイニングからリビングへ連れていった。臙脂色をしたヴェルヴェットのソファに座らせてやる。まだ痛みが残っているのか、ジュンコは腰の辺りに手を伸ばして、さすり始めた。
 私はソファに身体を沈めたジュンコに声をかけた。「水を持ってきます」
「あの、お薬……ピルケースも、持ってきてもらえます?」立ち上がった私にジュンコがお願いをした。
「どこに、あるんです?」
「キッチンカウンターの上だと思います。青いピルケースです」やはり、まだ痛むようだ。喘ぐようにジュンコが言った。
「わかりました」と答えてから、私は彼女のお願いに応えるため、ダイニングへと戻った。
 ダイニングでは宮崎が、うつ伏せに倒れたままだった。肉屋の冷蔵庫に置かれた出荷を目前にした生ハムの原木のようで、私はその巨大な肉塊の脇を通り抜けた。ジュンコが私に頼んだ青いピルケースは、彼女が言ったとおり白いキッチンカウンターの上に置かれていて、中には錠剤が十数個入っていた。私はピルケースを上着のポケットに入れた。キッチンの中に入り、グラスを探す。どの家にでもありそうな無色透明のグラスが一番奥にしまわれていた。食器棚の中にある器のほとんどが臙脂色に染められているせいで、一際目立っている。取り出したグラスは、どれだけの間使っていないのか、少し埃をかぶっているように思えた。蛇口をひねり、軽くゆすいでから水を注ぐ。
 ダイニングで物音がした。なにかが動いている音だ。キッチンカウンターの向こうをそっと覗くと、うつぶせに横たわっていた生ハムの原木が、両手をついて立ち上がろうとしていた。宮崎が意識を取り戻したのだ。薬物依存からのリハビリで始めたウエイトトレーニングの成果もなく、彼は両腕で身体を支えることができずに、結局はゴロリと仰向けになった。
 宮崎は天井に向かって目をしばたたかせ、「痛いよォ、お母ちゃァん……」と小さく呻いた。下唇が切れて血が滴っている。私の蹴りが当たった際に、宮崎自身の歯で貫通させてしまったらしい。あの傷では、何針か縫わなければなるまい。
 気づかぬふりをして、やり過ごしてしまうこともできたが、理由はどうあれ怪我をさせた張本人は私なのだ。せめてもの情けと、一番手前にあった臙脂色のマグカップを食器棚から降ろし、水を注いだ。マグカップとグラスを手にしてキッチンを出た。マグカップは宮崎の傍らに置いてやる。
「俺が、なにしたっていうんだよォ……」マグカップを置いたのが私であると認めた宮崎が言った。「悪いのはジュンコなんだぞ。あいつが、ちゃんとしてれば……なんで、俺だけ殴られなきゃなんないんだよォ。ずるいよォ……俺は空手をやってるんだぞォ」しゃべるたびに唾と血が飛び散る。
 私は返り血を浴びないよう少し離れて言った。「あのなァ……空手だの、ボクシングだのってのはね、他人に殴られる覚悟がなきゃ、やっちゃダメだよ」
 そのまま踵を返した。背中越しに、宮崎のすすり泣く声が聞こえてくる。いい歳をした男の泣き声など、耳をふさいでしましたいところだったが、生憎と私の左手には、ジュンコに持っていかねばならないグラスがあった。
 足早に戻った臙脂色のリビングで、ジュンコはヴェルヴェットのソファに支えられるようにして、身を沈めていた。テーブルにグラスを置き、青いピルケースをジュンコに渡す。
 ピルケースを受け取ったジュンコは蓋を開けて、淡い黄緑色の錠剤を左手に三つ振り出した。ためらうことなく口の中に放り込むと、右手でつかんだグラスの水で流し込んだ。
 鎮痛剤だ。処方箋も見ずに服用するジュンコの様子から、この手の薬を常用していることがうかがえ、宮崎による彼女への暴力が日常的に行われていたことを示唆していた。彼女が眼帯をしている理由は、〝ものもらい〟や結膜炎といった眼病によるものではないと確信した。
 ――花田洋子も、こうして日常的に暴力を振るわれていたのだろうか
 ジュンコはグラスに半分ほど残った水を一息に飲み干すと、再びソファの背もたれに身を沈めた。まだ鎮痛剤が効き始めてはいないだろうに、薬を飲んだことで安心したのか、ジュンコの顔からは険が取れ始めていた。彼女が目を閉じて呟く。「ありがとう……」
 ジュンコの隣に腰を降ろして、ワイシャツの胸ポケットから煙草を一本取り出してくわえる。灰皿が見当たらないので、火はつけずにくわえたままでいたが、期待していたプラシーボ効果は、私には現れなかった。早々にくわえていた煙草を箱に戻す。
 実際に火をつけていたとすれば、ちょうど一本喫い終える頃、鎮痛剤が効き始めたジュンコの呼吸は、穏やかになっていた。それを見届けた私は、テーブルの上に置いたままだったICレコーダーとバクさんの名刺を――こんなところに残しておくのは、もったいない――上着にしまい、ソファから立ち上がた。
「さて……私は、引き揚げさせてもらいます」
「待って……」ジュンコが、もたれかかっていたソファから身体を起こした。眼帯をしていない方の目で私を見上げ、スラックスの裾をつかむ。「ここから、連れてって」
 ジュンコを蹴り飛ばしてでも、この場から早々に立ち去ってしまいたかったのだが、意に反して私は彼女に頷いて応えていた。
「先に行って、待ってて。準備してくから」ジュンコは目を細めて言うと、ようやくスラックスの裾から手を離した。
 ジュンコから解放された私はリビングを後にして、トレーニングルームへと向かった。熱海の貫一のように、非情になれなかったのも、ジュンコの姿を見ているうちに、ふと花田洋子のことが脳裏をよぎったからだと思うことにした。
 宮崎にいらぬ自信をつけさせることになったトレーニング器具の間を抜けて、増設されたエレベータに乗った。一階でエレベータのドアが開くと、宮崎の作品が展示されているはずの台座が目に入った。最新作だという『鼓動』を始め、台座の上に作品が展示されたままだったら、すべてを叩き壊してやることもできたろうに。
 ドアを開けて外に出てから、先刻喫えなかった煙草をくわえて、ブックマッチで火をつけた。最初の一服を深く喫い込み、煙を盛大に空に向かって吐き出す。
 ――古河のことを笑えんよ
 感情の赴くままに他人に手を上げた自分を嗤った。ニコチンを補充することで、反省できるだけの心の余裕はできたようだった。
 いつもより時間をかけてきっちりと根元まで喫った煙草を、携帯用灰皿に押し込んで、フォード・ファルコンに戻った。ファルコンのエンジンは、ここ数日の間、雨ざらしにしていたせいで、一発では始動しなかった。イグニッションキーを三回捻ってようやくエンジンが点火し、空模様と私の気持ちに足並みを揃えるかのように、不機嫌そうな音を立てて、シリンダーが動き始める。この〝忌々しい〟車と私の機嫌がどうであろうと、〝借り物〟であることには違いなく、私は優しくアクセルを踏んでアイドリングを安定させた。
 二分ほど過ぎて、タコメーターの挙動も落ち着いてきた頃、一階のドアが開いてキャリーバッグを引きずったジュンコが姿を見せた。臙脂色のワンピースからジーンズにターコイズブルーのシャツに着替えている。ジュンコはまだ腰が痛むのか、鎮痛剤のせいなのか、どちらにせよおぼつかない足取りだった。低い唸り声を上げるファルコンと、車内でおそらく険しい顔をしているであろう私を見つけると、この風景の中で唯一明るい表情を見せた。シルバーのキャリーバッグを引きながら、こちらに向かって歩いてくる。
 伝え歩きを覚えたばかりの赤ん坊のように、よたよたと歩く彼女を無視することもできず、私はファルコンから降りてジュンコへと歩み寄った。キャリーバッグを引く手の反対に回り、肩を貸してやる。
「……あなた、優しいのね」私の耳元でジュンコがささやくように言った。
 私は黙ったままジュンコの手からキャリーバッグを引き取ると、後部座席にそれを乗せた。それからドアを開けて、助手席に座るよう促した。彼女がファルコンに乗り込むのを見届けてから、私は運転席に回ってハンドルを握った。アイドリングが安定していることを確かめて、バッグギアを入れる。ようやくこの〝忌々しい〟車の車両感覚がつかめてきたのか、切り返しは一回で済んだ。
 向きを変えたファルコンを発進させる前に、私は助手席に向かって言った。「さて……どちらまでお送りすればいいんです? ジュンコさん」
「ジュンコって呼ばないで!」助手席のジュンコが叫んだ。
 突然の金切り声に、私はクラッチのタイミングを間違えてしまった。大きくノッキングをして、ファルコンのエンジンが止まる。
「ごめんなさい……驚かせてしまって。だけど、わたし、ジュンコって名前じゃないの」助手席の彼女は、乱れてしまった長い髪を整えながら言った。
 私にしてみれば、突然叫ばれたことよりも、この告白の方が驚きだ。今度は私が声を上げる番だった。「ジュンコって、名前じゃない?」
「そう、わたしはジュンコじゃない。〝深〟い〝幸〟せと書いて、ミユキっていうの」
「ですが……彼は、あなたのことを〝ジュンコ〟と――」
「ええ、呼んでたわ。でもね、あいつは、つき合う女のことをみんな〝ジュンコ〟って呼んでいるの」
「どうして?」
「知らないわよ。わたしで三人目らしいけど……とにかく、わたしは〝深〟い〝幸〟せと書いて、ミユキっていうの。だから、あなたはわたしのことを、ミユキって呼んで」〝三代目ジュンコ〟こと、深幸は名前の当て字にこだわりがあるのか、もう一度同じ説明をした。
「つき合う女をいつも同じ名前で……清水の次郎長じゃあるまいし」代々の女房を〝お蝶〟と呼んでいた伝説の侠客の名前を思わず呟いていた。
「……ん? なんか言った?」助手席で深幸が首を傾げた。
「なんでもない」私はクラッチを踏んで、イグニッションキーを回した。一度、暖めていたこともあって、今回は一発始動できた。「……で、深幸さん。どちらまでお送りすれば、よろしいんですか?」
「とにかく、この町を出たいの。車を出して」
「かしこまりました」少しだけおどけてみせて、私はクラッチを繋げた。低い音を轟かせて、ファルコンが発進する。
 深幸は川越街道に戻るまでの間、気鋭の陶芸家――宮崎に言わせれば〝表現者〟だったか――との馴れ初めを語った。「わたしね、デザイナーになりたくて上京して、専門学校に通ったりしたけど……結局、なれなくてね。それで、普通のOLをしてたの。もう諦めたつもりだったんだけど、展覧会とかに行くのは好きで……それで、ある展覧会のレセプションで彼に声をかけられたのね。たくさんいる中で、わたしだけに声をかけられたときに、運命なのかなって思ったの。宮崎のセンスを本当にわかっているのは、わたしだけなんだって」
 〈朝霞警察署〉の脇を抜けて、川越街道に入った。取り敢えず、池袋で彼女を降ろす心づもりで、ファルコンを南へと走らせる。
「宮崎が手を上げるようになったのは、一緒に暮らすようになってから……そう、二年前ね。彼が、なにかを表現しようとする〝産みの苦しみ〟みたいなものだと思うの。最初は驚いたけど……殴られたり蹴られたりした後、彼はとても優しかったわ。だから、怒った顔も、あの優しい顔も、わたしにしか見せない素顔なんだと思って……本当にわたしのことを、愛してくれてるんだって」
 深幸はこちらが頼みもしない自分語りをしてみせたが、語っている内容が自己愛に満ちたDV被害者のルーティーンであることに、気づいていないようだった。それ以上に、私の首筋の辺りに注がれる彼女の視線に、嫌な予感がしていた。
「だけど、わたしね。あの家を出ることに……宮崎と別れることにしたの。その方がいいって、あなたが教えてくれたのよ」
「そうですか? そんなことを言ったつもりは、ありませんが――」
「言葉にはしてないだけよ。あなたがしてくれたこと……違うわ。あなたという人が、教えてくれたの。あなたと出会った今日は……そう、今日は運命の日なのよ」
 深幸の右手が、クラッチを操る私の左太股の上に置かれていた。
「運命の日?」
「今日、仙台まで行くことになってたでしょう? 荷物をまとめておいてよかったわ」
 置かれた深幸の右手が、太股をさすり始める。私はギアチェンジをする動作の流れで、彼女の右手をそっと離した。「偶然ですよ」
「偶然でも、必然でも、運命は運命よ」再び深幸の右手が、私の太股の上に伸びてきた。
 ――どういうわけか、この手の予感は的中しやがる
 ファルコンを赤信号で停め、助手席に視線を走らせた。
「今日は、ありがとう……」ジュンコが微笑んだ。初めて見る彼女の笑顔は、どこか媚びているようでいて、少し艶めかしかった。眼帯をしていない右目が潤んでいるのは、泣いているからではない。
「そんなに怖い顔しないで」
 私は深幸から目を逸らした。フロントガラスの向こうを見ると、ブルーの道路標識が成増駅まで三〇〇メートルだと告げていた。信号が青に変わると、私はシグナルグランプリよろしく、即座にクラッチを繋ぎ、三百メートルを一気に駆け抜け、一番右側の車線から強引に左折した。後続車がけたたましくクラクションを鳴らし、助手席の深幸が悲鳴を上げた。構うものか。成増駅のロータリーにファルコンを滑り込ませる。
 路線バスの間に強引にファルコンを駐車して運転席を出ると、後部座席のキャリーバッグを降ろした。助手席のドアを外側から開ける。
「なに? なんなの?」深幸が助手席から私を見上げた。
「あんたを送るのも、ここまでだ。降りてくれ」
「嫌よ」深幸は正面を向いたまま動かなかった。「どうして? わたしはあなたと一緒にいたいのよ」
「悪いが、俺はあんたと一緒にいたくない」日曜日の昼下がり、駅を行き交う人々が私たちを見ていた。構うものか。
「早く降りるんだ。引きずり降ろすぞ」
 もう一度言うと、ようやく深幸がファルコンから降りた。「なんで、一緒にいてくれないの?」
 私はなにも応えずに、キャリーバッグを深幸に渡した。
「ねェ……あなたを愛してるのよ、わたしは」
「偶然出会った男に、簡単に愛してるなんて口にする女は、信用できない質なんでね」
「違うわ。これは運命よ」
「残念だが、俺は運命論者じゃァない。ここで、さよならだ」
 なにかを言いたげな深幸に背を向けて、私はファルコンに乗り込んだ。フォード・ファルコンを発進させる。バックミラーに、ロータリーに残されたターコイズブルーのシャツを着た深幸が映っていた。なにかを叫んでいるようだったが、V8エンジンの轟音にかき消されて、私の耳には届いてこなかった。
 彼女に必要なのは、愛情ではない。ましてや〝運命の人〟でもない。
 セラピストだ。
 そして、私の稼業はセラピストではない。

 事務所まで戻る道すがら立ち寄ったファミリーレストランで昼食を済ませたついでに、ニコチンを補充したおかげで、宮崎健太郎や深幸から感じたいらだちを鎮めることはできた。どんなにいけ好かない輩であろうと、なにかをきっかけに忘れてしまわなければ、この稼業はやっていけない。しかし、わざわざ朝霞まででかけて収穫を得られなかった虚しさは、満腹感をもってしても拭い去ることはできなかった。
 虚脱感に襲われて事務所に戻った私を癒してくれたのは、一本の電話だった。

雨がやんだら(7)

雨がやんだら(7)

海を臨めるはずが、窓の向こうは五月雨に煙ってしまっていた。 ベッドに横たわる女の傍らに、その少年は腰かけていた。 私の今回の依頼は、彼を捜すことだった――

  • 小説
  • 短編
  • ミステリー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-05-03

Copyrighted
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