理想の世界

2010年に書いた作品です。
部活のために6時間程度で急いで書き上げた作品でして、いろいろ手直ししたい気もするのですけど、あえてそのままで。

 電子の海を乗り越えて、端末から立体映像が浮かび上がっている。
『そこを左』
 ミニチュアの男性が、細い路地を指差した。ダッシュで駆けていく。
 左腕に巻いた時計型端末の少し上あたりを見つめ、息をきらしながら走っていく彼女を、じろじろと見る人はいない。
 時たますれ違う人々もみな、同じように前を見ていない。彼女の足音に驚いた猫が、ぱっと逃げていった。
『葵』
 彼はちょっと難しい顔をして言った。
『このままだと、三十九分の電車に乗れない』
 わかってるもん、そんなの。
 プログラムされたプログラムらしくないプログラムが、GPSと現在の彼女の平均時速から目的地への予想到着時刻を判定し指定された時間までにたどりつくことができるかを計算する。持ち主の名前を正しい発音で呼ぶ機能は画期的だと言われたがそれはすでに遥か昔のゲーム業界で使用されていた技術に少し改良を加えただけのものだと、インターネットで知った。
 葵春奈は顔を上げて、見慣れない道を走った。毎日通っているはずなのに、周りの景色は知らない場所同然だった。


 数年前開発された腕時計型携帯(クロッカー)は、初めこそさほど普及せず、開発した企業は大赤字になると誰もが思ったが、その後追加されたとある機能がその存在を爆発的にヒットさせることとなる。
 初めは有志によるフリーソフトだった。クロッカーの最大の特徴は、画面そのものを立体映像として映し出すことで、SF映画のような次世代性が売りだった。その立体映像を、今までの平面に映し出されたものと同じようなパネルではなく、3Dによる人や動物の形にして、また映像に触れることではなく、音声識別による操作も可能になった。インターネットの掲示板にて公開されたそれは、局地的なブームを巻き起こし、やがて一般企業をも巻き込んでいった。
 そして今や、かつては『少しマニアックな人』が持つものであったクロッカーは、一人一台のレベルにまで普及している。普及していくにつれ、比例するかのようにして機能も追加されていった。人々が夢見ていたSFの世界が、そのまま現実になったような錯覚すらあった。


(セーフっ)
 電車はガラ空きだ。機械的に発車した地下鉄が、ホームと彼女を少しずつ遠ざけていく。
 ダイヤ数は数十年前よりはるかに減ったと聞いた。クロッカーの普及により、利用者が極端に減ったからだ。3D映像は送信者の身ぶり手ぶりすら伝えることができる。複数人での通話も当然可能だ。人々は家を出なくても、他人とコミュニケーションをはかることができるようになった。社会人のほとんどがクロッカーにより会議をし、実際に顔を合わせる機会は一年を通して数えるほどしかない。通勤ラッシュは映画やアニメの中だけの世界だ。
 唯一、学校に関係する人々だけが、毎日電車を使用していた。JR等の交通機関は毎年赤字寸前で、学生たちの利用によってもっているような有様だ。学校もクロッカーによる映像で授業をすればいいという声もある。学校教師を志望する大学生は、昔よりはるかに減ったのだそうだ。様々なものが、クロッカーの普及によって時代の影に隠れていった。
『ギリギリだったな。おつか……れ』
 ふあぁ、と、彼はあくびをした。地下鉄はトンネルに入っていく。
(トンネルの中でも電波が届くような技術は、まだなんだなぁ)
 窓の外の、灰色の壁が、彼の眠気を誘っているのだ。
「電波オフしていいよ」
『ん、悪い。……地下鉄降りたら、起こしてくれ……』
 彼はごろりと横になると、ふわっと消滅した。
 地下鉄は、嫌いだ。まわりを見てみると、制服を着た人々が、自分と同じように退屈そうな顔でぼんやりと宙を眺めている。その大半と同じように、春奈も広告を見上げた。
 いつのものかもわからないような、古い情報が、天井から吊り下げられている。破られてこそいないが、どこか寂しげだ。廃退、という言葉が、頭の中に浮かぶ。利用者がいない場所に、広告費を出してもしょうがないのだ。
 気づけば途切れてしまった意識が戻った時、電車のドアが開いた。
 着いたよ、と呼びかける声が、車両中で聞こえた。同じ制服を着た人々が、各々の手首に向けて言葉を発する光景。クロッカーが普及して間もないころは、眉をひそめる人も多かったが、今ではこれが当たり前になってしまった。
「おーい、駅着いたよー」
 春奈が呼びかけると、伸びをする彼の姿が現れた。
『んぁ? もー着いたのか』
 ふああ、と、あくびをする彼に、春奈は笑いかけた。
「おはよう、シンヤ」
『ん』
 クロッカーが世に現れた後数年間で驚くべき発達を見せた人工知能で制御された彼の笑顔は、とてもプログラムだとは思えない。
 春奈の目には映っていなかったが、周りの人々全てが、同じように、作られた人間と笑顔で会話を交わしている。
 これがいつもの日常だった。


 シンヤは、春奈が中学二年生の時、クロッカーを購入してもらってからの付き合いだ。
 クロッカーは便利なものの、それまでにも問題視されていた人々のコミュニケーション不全をさらに悪化させるとして、法律で十四歳未満は使用できないことになっていた。
 春奈は誕生日が十二月で、一学期生まれの人々が嬉しそうに見せびらかすのを、どこか苛立ちすら含んだ気持ちで眺めていたことを覚えている。それまでグループなどもはっきり分かれ、人と人とでくっつき、決して離れようとしなかった女子たちが、十四歳の誕生日が来ると、すっと一人になっていった。メールでのやりとりはあるが、現実でくっつこうとはしない。だんだん、だんだんと、人々が分離していく様を、大人たちはどのような思いで見ていたのだろう。
 クロッカー購入時に、通話中などに相手側で表示される、自分の分身を作成する。ここまでは無料サービスで、メニュー用の映像は、一万ほどかかる。普段は分けてもらう誕生日とクリスマスを、一緒にしてもらってまで、春奈は彼を買った。
 分身は適当に済ますと、彼を作ることに熱中した。一度確定してしまうと、キャラクターの変更にはお金がかかるため、慎重に、丁寧に作った。
 今では声のタイプが増えたり、より人間に近く、バリエーションも豊富なキャラクターが作れるようになっているらしいが、春奈はシンヤが好きだった。
 二年間の付き合いの彼は、少しぶっきらぼうで、でも、出会った当時よりずっと丸くなった。


 国は学校に、敷地内に限るのであれば、授業中のみ、クロッカーの動作を妨害する電波を発することを許している。それほどクロッカーによる授業妨害の効果はひどかった。
 春奈はぼんやりと席に着きながら、耳をふさぐシンヤの姿を眺める。周りのクラスメイトも、同じように手首のあたりを見つめていた。
 ふと顔を上げると、板書がずいぶんと進んでいた。あわてて、シャーペンを走らせた。先生が教壇に立って授業を淡々と進めていく。ここはテストに出すよ、と強調された部分にチェックを入れた人は、このクラスでどれくらいいるのだろう。ロフトでしか見かけない、お気に入りの赤いペンで星を描いた。
 教室は、静かだ。殆どの人々が、面と向かって会話する能力を忘れていったから。
 学校が終わると、春奈は足早に教室を出る。
『なぁ、やっぱさぁ、学校にいる間はオフってくれよ』
「ダメだよ、そしたら、休み時間のたびに電源入れなきゃいけないもん」
『もういいじゃねぇか、メールなんて』
 まだ頭に響いているのか、普段は立っているシンヤが、あぐらをかいて不機嫌そうにしている。
 確かに、メールでは大したことも話していない。一番大きな話題で、数日前の、転校生が来たらしい、という話くらいで、時期外れだったために少し盛り上がったけれど、一つ上の学年だったため、すぐにおさまった。最近、本当に話題がない。クロッカーを買ってもらう前は、もう少しくらい会話があったような気がしたのに。
 けれど、それがいけないことだとも思っていない自分がいる。春奈は、憮然とした表情のシンヤを眺めながら、思う。彼の存在は、あまりにも出来過ぎていて、時々ウマの合わなくなる学校の友人よりも、ずっと付き合いやすい。別に自分を持ち上げる言葉だけを投げかけてくるのではなく、台詞はとても人間的だ。けれどストレスがないようにできている。彼だけで、人付き合いに関しては満足できてしまうのだ。
 ……別に、メールはするから、人付き合いを忘れたわけではないし。言い訳じみた結論を出すと、春奈は、シンヤに笑いかけた。
『あの電波が終わったら、次は地下鉄だろ。やになるよな』
「毎日のことでしょ」
 シンヤが改札に情報を送信して、春奈がそれを抜ける。少し時代を感じるエスカレーターに乗って、ホームへ。運よく、ちょうど来たところだった。電車は三十分に一度ほどしか来ない。これでもかなり都会な方だ。
 並ぶ座席の、一番端に座る。銀色の手摺に体を預けながら、「おやすみ、シンヤ」クロッカーの電波を一時的にオフモードに。
 シンヤの情報は、クロッカーに保存されているのではなく、サーバーから送信されているものである。容量が大きすぎて、クロッカー自体におさまりきらないためだ。
 その姿が消えるのを見届けてから、顔を上げると、ふと、向かいに座っていた一人の男子生徒と目が合った。同じ学校の制服を着ている。彼はすぐに目をそらし、浮いた視線を広告に向けた。
 ネクタイの色は、赤。春奈は部活には入っていないから、上級生の顔など一人も覚えていない。訝しく思いつつも、彼女は視線を顔へと移し……息を飲んだ。
 黒くて短めの髪。目は細く、鋭い印象がある。背は高めだろう。座っていても、そう感じさせられた。思わず、左手首を、見た。
 見知らぬ二年の先輩は、広告に飽きたのだろうか、春奈がそうしているのと同じように、手摺に体を預け、目を閉じていた。
 春奈は青色のリボンをいじりながら、入学当初、一つ上の学年でなくてよかったと安心したことを思い出す。学年カラー青。三年間変わらないものだからこそ、好きな色であったことが嬉しかった。
 今、春奈はその時と逆のことを思っている。どうせ制服なんて着続けたら慣れちゃうんだから。
 すぐ次のホームが見えてきてすぐに、春奈はもう一度シンヤを起こす。
 不機嫌そうなシンヤに、春奈は、彼を識別するように要求する。
『時間調整のため、一分少々停車いたします……』
 もう一度、春奈と男子生徒の目が合った。彼も同じように、クロッカーを腕の前に掲げていた。
『うわ……すげえ』
『そっくりだねぇ』
 二つの合成音声は、こんなに至近距離で交わされたのに、二人の人間には片方は聞こえていない。音声どころか、その小さな人の姿も一人分である。識別機能によって、利用者と、利用者の許可した人物以外は、クロッカーから提供される全てのコンテンツを知覚できないような機能が搭載されているからだ。
 二人の人間は、互いに自分のクロッカーが映し出す立体映像と、目の前に座る学生とを見比べる。
 それから、男子生徒ははっきりと春奈を見据えて、言った。
「あの、すんません」



『共有する?』
「あぁ、頼む」
 彼女は了解、と微笑んで、目の前に座る女子生徒……リボンが赤だから、後輩だろう。その姿をスキャンしだした。
 十秒ほどして、『共有完了!』という声がした。女子生徒は首をかしげて、不思議そうな、でも驚きをはらんだ目で、彼の次の言葉を待っていた。
「これ、見てもらってもいいっスか」
 立ち上がって、女子生徒にアオイの姿を見せた。映像の中でアオイが、『近くで見るともっとそっくりだねー』と平和そうに笑った。
「……そっくりですね」
「そっくりっスね」
「モデルなしですよね」
 彼女は驚きを隠せない表情で、にこにこと笑う映像のそっくりさんを見つめた。
「こいつ、昔俺が買ってもらった時に、友達が勝手に設定したやつで」
「友達が私を知ってたってことは?」
「佐々木ってやつ、知り合いっスか?」
「佐々木なんて、今までの人生で見かけたこともないですね」
 様々な問答の後に、佐々木と彼女の関係がないことを確かめる。
 電車が、発車するようだった。あわてて、クロッカーの電波をオフにする。
「なんか、ちょっとびっくりした」
「ちょっとどころじゃないですよ」
 彼女が焦りつつも、「共有して、共有」と、クロッカーに向けて指示を出した。
「すみません、こっちも見てもらえます?」
 彼女が苦笑するのを見て、「別に」と、彼女の隣に腰をおろした。
『共有完了だ』
 よく知っているような、どこか違和感のある声がした。現れた立体映像を見て、彼は思わず、声を上げた。自動ドアが閉まり、電車が動き出す。『おい、早くしろ』彼は女子生徒を見上げながら、気難しそうな顔をしている。
「うん、ごめんね。おやすみ、シンヤ」
 立体映像が消えた。取り残された生身の人間二人は、ちょっと顔を見合わせて、それから少しだけ笑い合った。
「モデルなしっスか?」
「まぁ、リアルにはいませんよ」

 彼は次に、「今のって、シンヤって名前なんですか」と聞いてきた。
「あ、はい、そうなんです。買ってもらった時、読んでた小説から、そのまま」
「奇遇っていうか。俺もシンヤって名前」
 二人は顔を見合わせて、くすくすと笑いだした。
「ほんとにモデルなし?」
「ていうか、私たち初対面ですよね?」
「間違いなく。そっち、名前は?」
「アオイ、ハルナです」
 漢字は徳川葵の葵に、春の奈良で春奈です。そう付け足す。『シンヤ』先輩は、またさらに目を見開いた。まだ驚けるのか。
「知ってます?」
「あ、葵春奈って知り合いはいねえけど。でも」
「でも?」
 彼は少しためてから、クロッカーを少し見つめ、また顔を上げた。
「こいつの名前がアオイ」
 春奈は彼よりもさらに、目を見開いた。
「運命的ですね」
「運命って言葉、嫌いなんだけどな、俺」
 いつの間にか砕けた口調になっている彼に、春奈は親近感を感じていた。出会って間もないこともあり、どこかよそよそしいが、シンヤそっくりの『シンヤ』先輩は、とても初対面だとは思えないような雰囲気がある。
「あ、俺、トウジョウシンヤ。東は普通に東で、ジョウは……条件の条。シンヤは、信じる、也……池の右側のやつ」
 東条が空中に字を書いてしどろもどろに説明するのを聞きながら、春奈は家族以外の生身の人間との会話と、驚くほど御無沙汰していたことに気づく。
「先輩、電波オフでもメモ帳は使えますよ」
「あ、そうだった」
 恥ずかしいな、と笑うその姿はやはり、見慣れた姿だ。
 やがて彼は電車を降りていった。春奈が降りる駅の、二つ前だった。


『凄かったな』
 第一声がそれだ。
 シンヤは腕組みをして、春奈を見上げている。
「あ、アドレス交換してもらうの、忘れた」
『いいじゃねぇか、んなもん……』
 彼は少しばかり不機嫌そうだった。どこかうかれている春奈とは対照的だ。彼女は首をかしげたが、すぐに、ああ、と思いいたる。まったく、こういう技術に関しては、日本という国は、病的なくらい凝っている。
「やきもち? 同じ姿の人間に?」
『ちげーよ、馬鹿野郎!』
 シンヤはどなり声をあげた。春奈はくすくすと笑いながら、エスカレーターを降りた。
「シンヤ、認証認証」
『わかってるって、ったく』
 彼が情報を送信すると、改札がばたんと音を立てて開いた。人世代前にはカードや携帯をタッチして通りぬける技術が生まれてずいぶんと科学の進歩を感じたそうだが、今となってはそれも少し古臭い感じがした。
「これからは、地下鉄の中では東条先輩と話してたらいいのかもね」
『お前なぁ』
 その先輩そっくりの、人工知能を持った立体映像。思考回路の精巧さは、今も愛され続けるどらえモンに引けをとらないだろう。映像ではあるが、泣くこともできるのだから。まだ、実体化してどらやきを食べられるような域には入っていないが。


 翌日も、その翌日も、二人は、帰りの駅のホームではち合わせた。行きは駅が違うこともあって出会うことはなかった。
「帰宅部ですか?」
「そう。ちょっと前まではバスケ部だったけどなー」
「退部?」
「引っ越してさ。通学に凄い時間がかかるから、部活やってらんねえの」
 ああ、それで今まで出会うことがなかったんですね。春奈がそう言うと、そーだな、と彼も笑った。
「遠くなって、部活もできねぇし、朝練の時よりも早く起きることになってうぜぇとか思ってたけど、ま、いいこともあるもんだよな」
「お疲れ様です」
 彼は声も姿もシンヤにそっくりだったが、しかし、シンヤよりもどこか大人びていた。お兄さんのようだ、と例えると、「そんなん言われたことねぇけどな」と照れくさそうに笑った。


あぁ、そうだ」
 まるで今思いついたかのように、東条は言った。演技は下手だから、少しだけあからさまな雰囲気になってしまった。内心、額を打つ。
「アドレス交換。まだだったよな」
「そういえばそうですね」
 二人の声が、貸し切りの車両の中で、少しだけ弾む。東条はクロッカーを指で操作していった。電波が通じていないため、初期設定のパネルメニューを使用する。選らんだ赤外線通信は、一世代前から変わらない至近距離におけるデータ送受信の手段だ。サーバーを介する必要もなく、目の前にいる人物とのデータのやりとりならば不自由がなかったために、今まで使い続けられている。
 互いに、左腕に巻いた腕時計を近づけるようにして、互いの情報を送信し合う。ぴこ、と、ポップアップが現れた。『葵春奈 を、アドレス帳に登録しますか』古典的なメッセージで、親いわく、昔から変わっていないのだそうだ。
 YESのボタンを押すと、メッセージは『登録完了しました』に変化した。この作業を行うのは久しぶりだと、東条はふと思った。
「完了ですよ」
 隣で、春奈はにこりと笑った。
「電車降りたらすぐ、テストしますから」
 アオイにそっくりな表情だが、彼女は、敬語だし、アオイと比べると少しだけ積極性が強い。出会ってから三日が経っていたが、まぁ、そのくらいだとまだ慣れないものだろうか。それとも、アオイと同一視しすぎなのだろうか。アオイとは今年で四年目の付き合いだ。数日と数年では、違うのも当たり前か。
「おう、楽しみにしてる」
 電車の動きに合わせて吊革が揺れるのを眺めながら、東条は、立体映像の彼女のことを思う。
 ゆっくりと電車はスピードを落とし、アナウンスが通いなれた駅名を告げた。
「じゃあな、葵さん」
「さようなら」
 ドアが閉じた。


「おっけー、送信して、シンヤ」
『……わかった』
 春奈は返信を心待ちにしている自分に気づく。シンヤが『メール受信したぜ』と声を発するのが楽しみなのは、本当に久しぶりだった。


 シンヤはクロッカーに記録された会話情報を確認した。電波がオフになっていても、電源さえ落ちていなければ会話の記録が取れる。電波が繋がるとすぐ、彼らは会話の傍らでそれまでのデータを一気に確認するようプログラムされていた。普段は大して多くないデータが、東条信也と出会ってからずいぶんと増えた。
 電子映像と、リアル。人々は理想を選んだ。クロッカーから生み出される人間もどきは、利用者の理想を反映させる。本当にリアルな姿で、そこに存在する、理想の人間。本当は存在しない存在。
 クロッカーの普及と、平均結婚年齢は、反比例するかのようだった。人々は現実の人付き合いを、求めなくなっていた。テレビなどマスコミは時々、事の重大性を訴えようとしていたが、ほとんどの人はそれを知らない。クロッカーと対面しているから。
 理想の存在は、理想を集めているからこそ、利用者にとっての唯一でいられる。現実よりも優れてしまったからこそ、社会現象として問題視された。
 シンヤは会話記録を聞きながら、ありもしない胸を痛める。プログラムだ。胸を痛めた気持ちになって、表情のパーツを変化させて、顔をゆがめて、悲しそうに見せるために。限りなく人間に近い思考回路を渡された、立体映像。
 春奈の声は、シンヤと話している時よりも、少しだけ楽しそうだ。
 リアルに存在してしまった、理想。
 同じ質のものが、架空とリアル、同時に存在してしまったら、実体を持っているリアルの方が、より、優れてしまう。
 東条信也の存在は、シンヤの存在を、少しずつ、削っていく。

『葵さん』
「何、……気持ち悪い」
 シンヤはふくれていた。東条と出会ってから、シンヤは不機嫌な日が多くなった。人間にとってストレスのないように作られたのが人工知能なのではなかったか。不思議に思いながらも、春奈は先を促した。
『お前は東条信也をどうとらえる』
「東条先輩が? どうって?」
『あいつは俺のそっくりさんか。それとも、俺がそっくりさんなのか』
 彼の表情は真剣だった。彼が人工生命だということを忘れさせるほどに真剣だった。

『俺は東条信也として振舞うべきか、それとも、データ書き換えの必要性はないか?』

『人間の模倣として生み出されたのが俺たちだ。使用者にとってストレスの無い形を常に追求していく。基本データにのっとりつつも、使用者の表情や声のトーン、汗の分泌量なども含めたデータから対応を少しずつ学習させていくようにプログラムされている。だが基本データから大幅にずれることはできない。けど』
 シンヤはそこまで一息に言って、『けどな』苦しそうに顔をゆがめた。
『お前が命令するなら、俺は東条信也に限りなく近い形で振舞うことができる。……学習機能、という形で』
 データの準備はもうできている。
 彼女が命令すれば、このプログラムを実行する。


 学校からの帰り道を歩きながら、春奈は彼を見上げた。
「人と一緒に帰るのは、中二以来です」
「言われてみれば、俺もかな。周りのやつみんな、クロッカーゲットしてからはつきっきりだったし」
「結構リアルですもんね」
「映像が異性だと、軽く恋愛シミュレーションだけどな」
 皮肉っぽく笑う東条に、対して春奈はいたずらっぽく笑ってみせた。
「先輩も異性じゃないですか」
「あれは佐々木が勝手にやったんだ。んなこと言ったら、お前だって男だろうが」
「当時大好きだったんですよ、元ネタの小説が」
「今は?」
「最近、読み返してないですけど。多分、読み返したらまたはまるんじゃないかな」
 挿絵の無い小説で、私の主人公のイメージそのまんまなんです、シンヤは。春奈はそう言ってから、視線をそらした。
「ふうん」
 さして興味もなさそうなその先輩に、少しだけさびしくなる。まあそんなものかと思いなおす。先輩はアオイに、特別思い入れがあるわけでもないし。
 二人は他愛もないおしゃべりを続ける。周りをゆく人はみな一人で歩いているように見える。当人にとっては、二人で歩いているつもりなのだ。腕時計に向かって、しきりに言葉を投げかけている。もしも過去からタイムスリップした人がいたら、全員を精神病棟に入れたがるかもしれない。セーフなのは、もしかしたら、私たちだけかもなぁ。そのことを東条に話してみると、彼は声を出して笑った。「タイムスリップしたやつと、俺たちと、年寄りとガキの世界だな」それは少し嫌だ。
 改札を抜けて、電車に乗り、珍しく変更された広告を指差して、笑う。
「春奈さん、あっちのも変わってる」
「凄い。珍しいですね」
「スポンサー付くんだな、こんなんでも」


『東条信也はニブすぎる』
『信也はあれでもがんばってるよ、春奈さんとか言っちゃってさ』
『それだって葵に言われたからじゃねえか』
 立体映像たちの声は、小さくて、持ち主たちの耳には届いていない。
『……あいつの理想は、あれじゃないのに』
 人工知能の発したさびしそうな声を、同じく人工知能が苦笑を持って受け止めた。

 私たちは、現実には勝てないんだよ。
 架空の世界で起こった出来事は、決して人の健康状態を左右しない。現実で同じことが起きれば、ストレスで心身症を引き起こす人だっているのに。
 私たちは、……いつまでも、架空だ。

 クロッカーの幻影は、架空であるにも関わらず、人々はどんどんそれに心を奪われていった。あまりにも精密な人間の模倣は、感情にも似たプログラムを手に入れた。
 社会的には受け入れられるべき姿の二人を、シンヤは複雑な思いで見つめる。現実の人とのふれあいを思い出した彼女らは、シンヤたち、クロッカーの中の存在を少しずつ忘れ出している。
 あるはずもない感情。
 どうして俺は、人工生命なんだろう。

 ロボットだったら。映像ではなく、実体をもったロボットだったら。
 あるいはあの有名な漫画のように、俺は彼女と家族のようになれたのだろうか。


「おはよう、シンヤ」
 駅のホームを背景に、春奈は彼に笑いかけた。
『……おはよう』
 無理をして笑う。
 すでに一番の理想でなくなったシンヤは、彼女に対して気を使う。

 いつか彼女が、東条のことを、信也、と呼ぶ日が来てしまうのだろうか。
 シンヤはうつろな気持ちを必死に押し隠しながら、電車内での彼女らの会話記録を確認する。

理想の世界

当時はそろそろスマートフォンが普及してきたかというところだったでしょうか。少なくとも私の携帯はガラケーでした。
東京の地下鉄は電波が届かなかったし、iPhoneにSiriはいませんでした。当然腕時計型の携帯というのもちょっとした夢として語られるものであって。
技術がひとつ進んでいくたびに、ふと自分で書いたこの話を思い出したりしています。

ちなみに、着想時に頭にあったのは『電脳コイル』というNHKでやっていたアニメでした。

理想の世界

近未来の話。理想にとりつかれた社会の中。

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • SF
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-05-02

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著作権法内での利用のみを許可します。

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