犬と話せば
ショートショートです。
犬と話せば 初稿
五月で新緑の眩しい季節。
最近ジョギングをはじめた私。
近所の公園を、走りに出掛ける。
目的は健康のため――て言うかダイエット。
だけど五分も走ると、すぐ脇腹が痛くなるし、喉も乾く。
ちょうど、自動販売機。
誘惑に負けて、ジュースを購入。
腰に手を充てて、飲んでしまう。
全く、何のために走ってるんだか……。
ふと、私の目に止まったのは、自販機正面のベンチに腰を下ろす少年。
その傍らの大きな犬――おそらくゴールデンレトリバー。
少年の手には、空になったペットボトル。
少年は、犬に向かって突然――
「バウ、バーウ、バウバウ、バウ」
――と、吠えた。
私は、ビックリした。
ちょっと危ない子なのかなと思った。
けれど――
少年は、犬の口許にペットボトルを差し出すと、犬はそれを口に加え、そのまま私の方――自販機のゴミ箱のほうへと向かってきた。
そうして器用にペットボトルをゴミ箱に捨てると、少年の所へと戻っていった。
いったいどういうことなの?
もしかして、この少年は犬の言葉を話せるの?
――なんて思い巡らせながら、少年の方を見ていると、少年と、目が合ってしまった。
少年は、私に会釈して、そうしてニッコリ微笑んだ。
何て人懐っこい笑顔。
私も会釈を返し――少年と犬の許へと歩み寄る。
「となり、良いかな?」
「どうぞ」
少年らしく、きれいで澄んだ声だった。
私は、少年の隣に腰を降ろしながら、
「良かった。言葉が通じて」と、私も負けじとお姉さんらしく、まるで電話に出る時にする声で言った。
「今、僕のことをおかしな子だって思ったでしょ?」
「うーん、実はちょっと、ね」
私は小声で、
「……もしかして君、犬と話せるの?」
「まさか」
「でも、今――」
「たとえば『お手』は英語で『シェイクハンド』ですよね?」
「うん」
「だけど彼――『バウ』って名前なんですけど、彼の場合は『バーウ』なんです」
するとバウ君は、お手をして見せた。
「もしかして、『お手』とか『おかわり』とか『伏せ』なんかを、全部?」
「そう言う事です」
「へー面白い。バウ君、お手、バーウ」
バウ君は、無反応。
「……もしかして、君の声にしか反応しないってオチ?」
「違います。彼の名前は『バウ』じゃなくて『バウ』です。そうしてお手は『バーウ』じゃなくて『バーウ』です」
「……同じじゃない」
「いえいえ、全然違います。だから『バウ』じゃなくて『バウ』ね?」
けれど私には、その違いが全然分からない。
不意に、少年はポンと木製のベンチを叩く。
「これはどの音です」
「どの音って、ベンチを叩いた音でしょう?」
「それはそうなんですが――ドレミの、ドの音です」
「……あ、絶対音感!?」
「はい」
「もしかして、同じ『バウ』でも、音階の違いで、命令が異なるってこと?」
「そういうことです」
少年によると――少年は幼い頃からピアノを習っていて、それで絶対音感を身に付けたのだと言う。
ちなみにバウ君も、いつもピアノの下でその演奏を聞いていたのだと言う。
考えてみれば、犬は人間より聴覚に優れている。
訓練すれば、当然音階の違いを聞き分けられるだろう。
特に人間側が絶対音感を持っていて、明確に使い分けていれば、当然。
「バウ、バーウ、バウバウ、バウ」
と、少年が吠える。
するとバウ君は、私から、空になったペットボトルを受け取ると、それをゴミ箱に捨ててくれた。
「ちなみに今のは、『バウ、捨てて、ペットボトル、ゴミ箱に』になります」
そう言って、また少年は人懐っこい笑顔を見せた。
それから私たちは親しくなって、公園で会うたびに少年から指導を受け、遂に私は五回に一回バウ君の名前を呼べて、十回に一回お手をしてもらえるまでになった……。
……私って、音痴なんだな……。
やがて梅雨の季節になって、なまけものの私は、雨を理由にジョギングをさぼりがちになった。
今日は、久し振りの晴天――いわゆる梅雨の中休み。
私は久し振りに、公園に走りに出掛けた。
ご無沙汰だったジョギングコースを、走る。
すぐさま脇腹が、痛み出し、喉も乾く。
私が目指すのは、あの自動販売機。
案の定、自販機前のベンチには、少年とバウ君の姿が見られた。
おあつらえ向きに、少年の手には空っぽのペットボトル。
私は、今回もバウ君の妙技を見られるのだと期待した。
けれど少年は、ペットボトルを自ら持って立ち上がると、私のもと――ゴミ箱の方へ歩いてくる。
バウ君は知らん顔で、犬らしく後ろ足で耳の付け根を掻いている……。
ゴミ箱にペットボトルを突っ込んだ少年に、私は訊いた。
「どうしたの? もしかして、バウ君とケンカした?」
少年は、無言で左右にかぶりを振って後、ややあって、重い口を開く。
私は、すべてを理解した。
声変わり……。
犬と話せば 改稿
風薫る五月。新緑のまぶしさに誘われるかのように、私は最近ジョギングを始めた。なんて言えば聞こえは良いけれど、本当は健康のため――ぶっちゃけダイエット。
いっちょまえに、カラフルなジョギングウェアを身にまとうと、肩まで伸びた黒髪をシュシュでさっと束ね、近所の公園のジョギングコースに走りに出掛けた。
だけど日ごろの運動不足がたたって、五分も走るとすぐ脇腹は痛くなるし、のども渇く。
そんな私の目の前に、ちょうど自動販売機。私は誘惑にあっさり負け、ペットボトルの炭酸飲料をお買い上げ、腰に手を当てぐびぐびラッパ飲みしてしまう。
「全く、何のために走ってるんだか……」と、ひとりごちてのち、大きなゲップを一つ。
バウッ。
不意に犬の吠える声。私はそちらに視線をやった。
道一本挟み、自販機正面のベンチに腰を下ろして、私とおんなじペットボトル飲料を飲んでいる少年と、その前に伏せている大きな犬――ゴールデンレトリバーの姿が目にとまる。
少年は、ほどなく炭酸飲料を飲み終えると、口もとに手を当てて、小さなゲップを一つ。その仕草に、少し私は恥ずかしくなる。見るともなく二人(一人と一匹)の様子を見ていると、少年は犬に向かって突然――
「バウ、バーウ、バウバウ、バウ」と、吠えた!
私は、ビックリした。ちょっとカワイソウな子、アブナイ子なのかなと思った。けれど、それは私の早とちりだった。
少年が、犬の口もとに空っぽのペットボトルを差し出す。犬はバウッと一吠えすると、それをくわえ、尻尾をふりふり私の方――自販機のゴミ箱の方へと向かってきた。それから器用にペットボトルをゴミ箱に捨てると、やはり尻尾をふりふり少年のもとへと戻っていく。
「……」
――いったい、どういうことなの?
――もしかして、この少年は犬の言葉を話せるの?
なんて思い巡らせながら、犬の頭を撫でている少年を見ていると、目が合ってしまった……。慌てふためく私に、少年はぺっこり会釈して、それからにっこり微笑んでくれた。その人懐っこい笑顔に警戒心はすっかり解かれ、私も会釈を返すと、二人のもとへと歩み寄る。
「となり、良いかな?」
「どうぞ」
少年らしく、高く澄んだ声だった。
隣に腰を下ろしながら、
「良かった。言葉が通じて」と、私も負けじとお姉さんらしく、まるで電話に出る時のような声で言った。
それなのに、
「すごいゲップでしたね」と、少年。
「やだ、聞こえた?」と、出鼻をくじかれ照れる私に、
「今、僕のことをおかしな子だって思ったでしょ?」と、いきなり核心を突く逆質問。
「うーん、実はちょっと、ね」
私はちょっと辺りを確認してから、小声で、
「……ね、もしかして君、犬と話せるの?」と聞いた。
「まさか」と、少年は首を振って否定する。
「でも、今――」
「たとえば『お手』は英語で『Shake Hand』ですよね?」
「うん」
「だけど彼――バウって名前なんですけど、バウの場合は『バーウ』なんです」
するとバウ君は、少年の差し出した手に『お手』をしてみせる。
「……もしかして、『お手』とか『おかわり』とか『伏せ』なんかを、全部?」
「そう言うことです」と言って、少年はイタズラっぽく笑った。
私は、少年の遊び心に素直に感心した。
「へー面白い。ね、私もやっていい? バウ君、お手、バーウ」
けれど、バウ君は無反応。
「……もしかして、君の声にしか反応しないってオチ?」
「ちがいます。彼の名前は『バウ』じゃなくて『バウ』ですよ。それからお手は『バーウ』じゃなくて『バーウ』です」
「……おんなじじゃない」
「いえいえ、全然ちがいます。だから『バウ』じゃなくて『バウ』ね?」
けれど私には、そのちがいが分からない。
「弱ったなあ……」と言って、少年は頬杖を突いてロダンの『考える人』になる。事実、彼は一個の芸術作品のように美しい。おそらくは、まだニキビの憂いも知らぬであろう美しい横顔、その極め細かな肌――に私はいつしか見とれてしまっていた。
ベチッ。
不意に、少年は木製ベンチの背もたれを叩く。まるで私のよこしま(?)な感情を見抜き、それを咎めるかのように。
うろたえる私に少年は、
「これは、どの音です」と言った。
「ど、どの音って、ベンチを叩いた音でしょう?」と、思わずどもる私。
「それはそうなんですが――ドレミの、ドの音です」
――ドレミのド?
「……あ! 君、絶対音感があるの?」
「はい」
「じゃあ、もしかして同じ『バウ』でも、音階のちがいで意味が異なるってこと?」
「そういうことです」
少年(ケイスケ君)によると――父は指揮者、母は小学校の音楽の先生と言う両親のもと、幼いころからピアノやヴァイオリンを習っていて、それで絶対音感が身に付いたとのこと。ちなみにバウ君も、幼いころからいつも彼のかたわらで、その演奏を聴いていた(?)そうだ。
考えてみれば、犬は人間より聴覚に優れている。訓練すれば、当然音階のちがいを聞き分けられるだろう。特に飼い主が絶対音感を持っていて、明確に使い分けていれば、当然。
「バウ、バーウ、バウバウ、バウ」と、ケイスケ君がまた吠える。
するとバウ君は、私から空になったペットボトルを受け取ると、それをゴミ箱に捨ててくれた。
「ちなみに今のは『バウ、捨てて、ペットボトル、ゴミ箱に』になります」
戻ってきたバウ君の頭を撫でなから、ケイスケ君は白い歯を見せた。
それから私たちは親しくなった。私は公園でケイスケ君(とバウ君)に会うたびに、彼から犬語のレクチャーを受けた。そうして、ついに私は五回に一回バウ君の名前を呼べて、十回に一回お手をしてもらえるまでになった。私って、オンチなんだな……。
やがて季節は梅雨。なまけものの私は、雨を口実にジョギングをさぼりがちになる。
それでも今日はひさしぶりの晴天。ジイジイと鳴くセミが、すっかり梅雨明けを宣言していた。およそ一月ぶりに、カラフルなジョギングウェアを身にまとうと、肩まで伸びた黒髪をシュシュでさっと束ね、公園に走りに出掛けた。
ごぶさただったジョギングコース。一ヶ月のブランクと夏の日差しは、容赦なく私の脇腹に激痛を走らせ、のどを渇かす。そんな私が目指すのは、当然あの自動販売機。
案の定、自販機前のベンチには、ケイスケ君とバウ君の姿があった。おあつらえ向きに、その手には空になったペットボトル。
私は、今回もバウ君の妙技を見られるものと期待した。
けれどケイスケ君は、ペットボトルを自ら持って立ち上がると、私のもと――ゴミ箱の方へ伏し目がちにトボトボ歩いてきた。バウ君は全く知らん顔で、犬らしく後ろ足で耳の付け根をボリボリ掻いている。
ゴミ箱にペットボトルを突っ込んだケイスケ君に、私は尋ねた。
「どうしたの? もしかして、バウ君とケンカでもした?」
押し黙ったまま、左右に首を振る彼のほっぺには、虫刺されのような無数の赤いシミ。
ややあって、彼は重い口を開く。
それで私は理解した。
声変わり……。
犬と話せば
ショートショートでした。
これくらいの短い話をたくさん書ければ良いなと思うのですが、なかなか……。