永続論

永続論

親元を離れた子供がいる場合、今後親が死ぬまでにその子供と一緒に過ごせる時間は、およそ一ヶ月である。

何かの本に書いてあったこの一説を読んだ時、直美は心臓がひんやりするのを感じた。
小さな時には嫌と言うほど一緒にいて、同じ時間を過ごしてきた我が子とこれから先は後一ヶ月しか一緒にいる事が出来ないなんてー
一ヶ月、と言うのは少し大袈裟かもしれないが、24時間一緒にいた小さな頃を考えると、大きくなり子供が親元を離れると、格段に一緒にいる時間が減るのは事実であり、直美の一人息子の圭が親元を離れたきっかけは大学進学の為だった。それからは正月と夏休みの年に2度、何日か帰ってくるだけなので、今後自分が死ぬまでに息子と一緒に過ごせる時間がおよそ一カ月、という一説が現実味を帯びて直美に重く伸し掛かる。

圭は二年前から県外の大学に通う為にこの家を出て一人暮らしをしている。家にいる時には食事はもちろんの事自分の部屋の掃除、洗濯、全てに於いて母親の直美任せだった圭が果たして一人暮らしなど出来るのだろうか?と直美は心配だったが、案外一人になればちゃんと出来る様で家事も一応はこなしているみたいだった。やってくれる人が居ないのだから、自分でやる以外に選択肢が無い。一人暮らしとは自立への一歩である。

母親の居ない生活に圭はすぐに慣れたが、子供の居ない暮らしに直美はなかなか慣れなかった。料理を夫と自分の二人分だけ作る、その目分量がなかなか掴めず、干す洗濯物の少なさに物足りなさを感じ、夜遅くに自転車のブレーキ音が聞こえると圭が帰って来た、と目が覚める時があった。

圭がまだ小さな頃は自分にまとわりつく我が子にイライラする時もあった。自由な時間が欲しいとあれだけ思っていたのに、自由な時間だらけになった今、考えるのは圭の事ばかりだった。
幼稚園に行くのを嫌がり泣く圭、小学生になり重いランドセルを背負い登校する後姿、中学生になり持って帰ってくる部活の野球でドロドロに汚れたユニフォーム、高校生になりバイト代をはたいて買った今も家の軒先にある自転車ー全てが直美にとってかけがえのない愛おしい宝物だった。

「今度の週末は楽しみだな」
夕食を食べながら夫が嬉しそうに直美にそう言い、楽しみなど一つも無い直美は腹が立つ。
「また草野球?」
「え、圭が帰って来るだろ。今度の週末彼女と一緒に」
「何それ、私何も聞いてないけど?」
直美は週末に圭が帰って来る嬉しさよりも自分に連絡してこない寂しさが押し寄せる。
しかも彼女を連れて帰って来るなんて…
たまたまさ、野球の事でメールしてたら今度の週末帰るからって、たまたまさ、と夫は弁解し、ま、あれじゃないか、照れてるんじゃないか、と直美に気を使う。

世界の全てが母親、だった息子が確実に自分から離れ、確実に母親の居ない自分の世界を築き上げている。そして親子に残されたリミットは後一ヶ月ー
「親元を離れた子供と親が死ぬ迄に一緒に過ごせる時間はおよそ一ヶ月らしいわよ」
「…ふーん、そう考えると短いもんだな。家族でいられるのも」

ポツリと呟いた夫の言葉に直美は本当にそうだと感じた。家族は家族と言うだけでそれだけでいつも、ずっと一緒にいられる様な感覚だったけれど、本当は家族で一緒にいられる時間は短いのかもしれない。あっという間にその幸せな時間は過ぎ去って行く。
「でも離れていても家族に変わりはないんだし、寂しいけど息子の自立は喜んでやらなきゃな」
「…分かってるけど、やっぱり何だか寂しいわ」
「いつまでも母親にべったりのマザコンじゃ彼女の一人も出来ないぞ。そうやって子供が新しい家族を作って俺達の家族が続いていくんだから」

夕食を終えた風呂上がりの夫がビールを飲みながら今年も綺麗に咲いてるな、と珍しく庭のハナミズキの花を褒めた。
薄紅色のその花を見て小さな頃の圭は、桜もちみたいで美味しそう、と言っていた事を直美は良く覚えている。小さかった圭、可愛かった圭。そんな圭が彼女を連れて帰って来るなんて…
「変な子だったら承知しないから」
夫からビールを取り上げて直美はそう言ってグビグビと飲み干した。お手柔らかにね、と夫は楽しそうに微笑んだ。庭ではハナミズキを見て桜もちみたいで美味しそう、と小さな圭が笑っていた。

永続論

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  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-04-29

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