タイプの女
その男を採用したのは彼女の存在と無関係ではない。あの日、会社のドアを開けたら男女が立っていた。女はなかなかの容姿で、浅野雅人は一目見て引き付けられた。
「面接に来ましたが、こちらですか」男が尋ねた。
「そうです。どうぞ、お入り下さい」
「失礼します」
「伸夫さん、がんばってね」
美人が励ました。入社試験に彼女だか妻だかを連れてくるのは甘ったれている。だが男も悪い感じはしなかったので大目に見た。
一通りの試験を終えてから、十四人のうちから三人に絞って、編集長の松田に結果と人物評を伝えた。ドアの前で顔を合わせたのが芝山伸夫である。
「大学中退で、二十六歳。ペーパーテストはまあまあ。自分の意見をもっていて、センスは悪くないです。ただ気の小さい性格だと話していました。出版関係にいたそうですから、即戦力になりそうです」
「協調性はどうなの」
「デリケートなところがあるから、同僚にも気配りできるでしょう」
「浅野くんが自信を持って推薦するなら考慮してもいいね」
「ぜひお願いします」
能力的に見て、候補の三人は甲乙つけがたいが、同行した女が採点に加算されていると言わざるを得ない。
「私が保証します」
「じゃあ、それでいくか」
「決定ですね」
編集長は新人の育成はあんたに負かせるよ、次長の浅野に託した。芝山はあるユニークな雑誌社に勤めていたから一から教える必要もない。
採用通知の電話をしたら、当人が不在で女性が出た。用件を話し、明日にでも来社するように要請した。
「ありがとうございます」
あの時の女の声である。
「柴山さんを見込んで、強く推させていただきました」
「もしかしたら、ドアの前でお目にかかった方ではないですか」
「そうだと思います」
「今後ともよろしくお願いします」
「一緒に仕事をするのが楽しみです」
「でも心配です。芝山は経験不足ですし、モラトリアム的な要素がありますから」
「皆、似たような連中です、大丈夫ですよ」
「そうですか、次長さんが仰るなら安心です」
浅野の頭の中は陰影に富んだ顔立ちの女が駆け巡った。生成りのチュニックに水色のパンツ姿はおしゃれだ。けれども、部下になる男の妻に懸想するなんて、どうかしている――
会社は四冊の漫画雑誌を発行しており、四階建ての自社ビルが青野書房である。『週刊漫画クイーン』はドア近くの壁際で、三十八歳の松田編集長以下四人が担当している。浅野は三年のキャリアをもつ中堅だが、上層部から期待されているわけではない。だが、これまで勤めていたどの職業よりも性分に合っていた。ヌードグラビアと漫画と捏造記事――そのあざとさと嘘っぽさに居心地のよさを感じていた。淳風美俗を守る側の、真しやかな本物なぞ疎ましい限りだ。
芝山は顔を出した次の日から勤め出した。礼儀正しく、先輩の浅野には猫撫声で話すほどだった。自分で言うように小心者なんだなと、後輩に優しい気持ちになった。かと思うとユーモラスなことを言って同僚を笑わせた。浅野は彼の雰囲気に満足し、誇らしげでさえあった。
試用期間の二ヵ月間が過ぎた頃から、柴山の様子が徐々に変化してきた。彼は常に自分の存在をアピールさせたがっているけど、大丈夫かな、心の底に危惧の念をチラと抱いた。さらに慣れてくると、ときたま無神経なことを口にするようになった。浅野が上司であることも忘れて、見下したような言動を取ったりする。どうしたのだろう、それは一時的なもので、本来の彼ではないかもしれない。たまたまに過ぎないのだと自分に言い聞かせた。 しかし、それは人の善すぎる見方だった。芝山はまたたく間に変貌を遂げ、本性を発揮するようになった。
その日は、出張校正が終わったばかりで、何もすることはない。会議に出ている編集長のほかは皆休んでいる。浅野はノートパソコンを開いて、ニュースを見ていた。このところ、彼の顔には憂鬱の表情が浮かぶようになった。生来神経質ではない彼にはあまりないことで、悩まされているのはむろん芝山のことだ。こんなはずではなかったと失望感が大きい。態度、振る舞いが野放図というか、横着というか、目に余るものがある。
ミーティングを終えた松田編集長が戻ってきた。
「控室で冷たいコーヒーでも飲まないか、買ってくるから」
松田はそのまま部屋を出ていく。お茶だけではすまないだろう、小言か、それともきついお達しか。腹黒い松田のこと何をたくらんでいるのか知れたものではない。パソコンを畳んで控室に行くと、青白い顔をして座っていた。最近、具合が悪いらしい。
「体は大丈夫ですか」
「夏バテだろう」
「今年の夏は猛暑続きでしたからね」
「すぐに回復するさ」
松田は病気の話は避けて、話題を変えた。
「浅野くんは今の彼女と結婚しないのかね」
「しませんね」
「昨今は、そういう男女が七十パーセントいるそうだ。人口減少で日本は滅びちゃうな」
「拘束されるのがイヤなんですよ」
「もっと遊びたいのかね」
「そういう気持ちもないではないですがね」
目下、一緒に住んでいる由紀には倦んでいる。三年間のけりを付けて自由にノビノビと羽ばたきたかった。
「ところで、芝山くんはどうしたんだ。急激に評判を落としているな。あんたの熱心さにほだされて採ったけど、もっとリーダシップを発揮してほしいな」
「はあ」
だが、浅野には不満だった。トップの松田が部下に丸投げして責任逃れをしている。要領がいいのだ。痩せ型の松田は一メートル八十五センチの芝山の巨体に恐れているのか。それは同時に社内全体の雰囲気であり、しかも浅野に非難の目を向けるようになった。
「皆はきみが手ぬるいと言っているぞ」
「それはないですよ」
「言うべきことは言ってやったほうがいい」
「言っていますよ」
「頼むよ」
編集長は体調が悪いのか気力を失っている。その皺寄せが来ている。やっぱり芝山はどうしょうもない奴なのか。二、三日した。芝山が取材に出かけようとしている時、何かの用事で広告部長の安江が編集室に姿を見せた。窓際で誰かと話しているのを横目で見ながら、
「俺、あの野郎が大嫌いです」
「あんたと価値観が違うからな」
「安江が話しているだけで、苛々します。あの爺はタイムラグなんだ。文化的な乗り遅れなんて、マスコミの世界では致命的だよ。あんな骨董品は淘汰すべきだ」
「シッ!」
同僚の一人が人差し指を口に持っていった。渋面の安江がこちらにやってくると彼は要領よく部屋から抜け出した。
「骨董品だと、何を言うか。きみは部下を教育しているのか」怒りを浅野に向けた。
「手厳しくやっています」
「無礼なことを平気で言わせているじゃないか。日頃から野放しにしているからだ」
「その度に注意しています。部長も直接叱ってやって下さい」
「何を言やがる。こういうことは直属の上司の仕事だろうが」
「それは、そうですがねえ」
「重役を侮辱するなんて、とんでもない奴だ」
折悪しく編集長がいない。芝山でなくとも安江部長は目障りだった。ずれているくせに偉ぶって物を言う。
「二度とあったら承知しないからな」
「怖いですねえ」
幹部の浅野にも体面があった。部長がいなくなると、他の班の者がわざとらしく煽り立てた。
「次長、頼んまっせ」
「強く出てよ」
「怖気づかないでよ」
「期待しています」
日和見主義者達は浅野が窮地に陥るのを楽しみにしているのだ。何しろ蔑みあいで成り立っている会社だから人の恥や挫折が楽しくてしようがないのだ。彼はこういうメダカ共にも苛立っていた。いずれは片をつけるつもりで、目下は方策を練っているところだ。 一息入れようと給湯室でお茶を汲んできて、湯飲みを手にしながら場面を転換するように別のことを考えた。
(あんな奴でもステキな子がいる。しかも俺のタイプだ)
彼は空想の中で恋に溺れている自分を見出した――
それにしても由紀ときたらどうだ。彼女と同棲して三年になろうとしている。今では燃えるものがなくなり、マンネリに陥っている。それでも最初の頃は素晴らしかった。生き生きしていて毎日が希望に充ちていた。
渋谷のスナックで友人に紹介された時は、豊かなバストラインに心を奪われた。スリムな体つきをしていて、華やいでいた。ダウンライトの光に照らされてひときわ美しく見えた。彼女が席をはずしている時に友人に打ち明けた。
「あんな可愛い女性と付き合ってみたい」
「えらく気に入ったみたいだな」
「ああ。きみからも話してよ」
由紀も浅野に気があったのか、初体面で意気投合した。二人はお決まりのコースを辿り、吉祥寺のアパートで一緒に住むようになった。今では大きな乳房も目障りになった。
やっと秋風が吹くようになり、いい気候になった。芝山はますます自由かつ奔放に振る舞っている。横柄な口の聞き方をするのも頻繁になった。面と向かって注意する者もいない。その分、浅野が一人で対処しなければならなかった。
その日、松田編集長と遅くまで残っていた。時刻は午後九時頃で、大半の編集者は帰った。浅野は話したいことがあった。
「芝山は駄目みたいですね」
「そう簡単に言うなよ。見限るのは早いぜ」
「あれでは通用しません。私は不明を恥じます。この際、はっきりさせたほうがいいと思います」
「はっきりとは?」
「つまり、クビとか……」
「それは極論だ。一度、話し合ってみてはどうかね。解雇は避けたほうがいいからね。正当な理由がない限りできないことだし」
松田は賛意を示すようなことはなかった。実体はよく知っているはずだから、聞いてくれてもよさそうだが黙っている。何かはかりごとがあるからだろう。一説によると新設の編集局長のポストを狙っているとかで、だから手落ちのないようにしている。出世や保身のためでしかないならば、浅野はそんな上司の指示をまともに聞くつもりはなかった。彼は彼で自分の立場がある。第一、プライドが損なわれるのが耐え難い。何としてでも芝山を排除してやりたかった。浅野は度胸を据えていた。先日、そば屋の店員が出前の空き容器を取りに来た。その時、芝山はカツ丼の肉が靴の底みたいに固いとケチをつけ、足で蹴飛ばした。店員はよく難癖をつけられるだけに怒りをあらわにした。
「何をするんだ」
「食えないものを、持ってくるからいけないんだ」
「だからといって、割ることはないだろう」
その店員がこんな乱暴な言葉遣いをしたことはない。しかも顔に殺気がみなぎっていた。よほど腹を立てたらしい。
「客だからといって、威張るなよ」
「なんだい、こいつめ」
「やるか」
店員はすばやく芝山に近づくと、両手でジャケットの襟と袖をつかんだ。それだけで決まっていて、背負い投げでもかけようという勢いである。確か柔道の有段者と聞いている。
「おい、服をつかむな、放せよ」
芝山はとうに気合い負けをしている。それを感じ取った浅野は、間に入った。
「三河屋さん、あんたは柔道三段の腕前だということは知っている。この間、不良高校生を投げ飛ばしたのを見た。ここは私の顔を立てて、冷静になってよ」
「次長、止めないでよ」
芝山はわなわな唇を震わせている。
「二人とも、ストップ」
芝山を相手の腕から開放してやった。本気でない店員も安堵の表情を浮かべ、そしてどんぶりの破片を拾って、新聞紙に包んで片付けた。浅野はそれを受け取って所定のところに置きに行く。ついてきた店員がすみませんと頭を下げる。
「俺、柔道三段じゃないんですよ」
彼は笑いながら否定した。
「時にはハッタリも大事だ。奴はビビっていたぞ」
「でも、出前を取ってもらえないのが心配です」
「そんなことはない、あんたには何の落ち度もない」
「それならいいですけど」
笑みを浮かべて帰っていく。芝山の正体見たり、である。浅野は弱みをつかんだのか、きっと喧嘩だって強くはないだろうと見すかした。
それからも芝山は注意するとおとなしくなるが、時間が経つとまた地金を表した。その繰り返しである。しかし皆は彼の腕力を恐れて、芝山とは終始綱引きをする格好になった。とにかく、何とかしなければ――
その日、松田が午後から検査で病院に出かけた。この頃、ますます顔色が悪いので、口さがない連中がガンだの何だのと無責任な噂をした。そんな大それた病気ではないだろう。編集長がいなくなると芝山がわざとらしく大声で欠伸をした。
「おい、声が大きいぞ」
「普通ですよ」
慎むように注意しても、逆らうようにダランとした仕種をした。
「次長、同棲しているんだってね」
「そういうことは、見て見ぬ振りをするもんだ」
「でも、バレているよ。隠さなくてもいいじゃん」
「ブライバシーに口を挟まないでくれ」
「奥さん、どんな人? 一回、やらせてよ」
感情を表に出さない浅野だが看過できず、カリカリしたけれど、だが同僚の手前、こんなことで争いたくなかった。決してひるんでいるわけではない。
二十分後、決意を秘めて声をかけた。
「喫茶店に行こう」
「うん、いいね。たまに次長と話すのも」
馴染みのオセロにいく。注文した飲み物を待っている間、芝山は顔を横にして斜めから見て、蔑んだように笑い声を立てた。
「次長の丸っこい顔を眺めていると、埃をかぶった地蔵様みたいで、思わず手を合わせたくなるな」
「ハハハ」
浅野は鷹揚そうに笑った。小太りでずんぐりし、黒ずんだような顔をしているからだろう。
「かたじけないお方です」
「俺、少しは御利益があるわけだな」
「ストレス社会だから、癒し系として珍重されるんじゃないかな」
ゲームでも楽しむように言う。いい気なもので、今際のきわまで舐め切っている。ここにきて遠慮することはないので、関心のあることを聞いてやった。
「あんたの奥さん、美人だね、大事にしているかい」
「いつも機嫌悪いですよ。セックスの時、俺一人でイっちゃうもんだから」
「奥さんが可哀相だな」
「俺、女房の快感のことまで考えていないよ」
「それじゃ、心移りするぜ」
「いいですよ。別の女のほうがいいんだから」
浅野にしたら勿体ないようことを言う。彼らは正式な結婚ではなく、内縁である。が仲睦まじいとは言えない。幸せにしてやれないとしたら男として失格である。ならば自分が面倒を見てやってもいい。ああいう顔立ちの女はそうざらにいない。特に寂しげな目がいい――
コーヒーが運ばれてきた。芝山はずるずると音を立てて飲んだ。
時間が流れ、会話が途切れた。
「ところで、芝山くん、この会社を辞めたら、どこかに行くところあるのかね」
「え、どういう意味?」
「このところ、秩序が乱れているよね。上層部はあんたに原因があると言っているよ」
「俺にだって」
「そうだ」
「だから、どうしろというの」
「責任を取らななきゃいけないってことさ。どう取るか、きみは大人だから分かっているよな」
芝山の顔色が変わり、表情が歪んだ。二人の間に沈黙が続く。ウエイトレスが水を取替えに来ると、芝山は喉が乾いているのか、一息に飲み干した。
「どうすりやいいの」
「依願退職をお願いしたい」
「……」
芝山は無言になり、茫然とした。心理的な衝撃が伝わってくるほどだった。で、いくつかの不届きな言動を指摘した。ウイスキーのボケット瓶をこっそり飲んでいたとか、暴言を吐いたとか。こういう場面では浅野は血も涙もない鬼になれた。しかもカタルシスさえ覚えた。
「この程度で辞めろと言うのは解せない。俺の態度は乱暴かもしれないけど、仕事は一生懸命にやっている。養う家族がいるから困るんだ」
「この程度はないだろう」
「編集長はどうなの」
「業を煮やしているよ」
「次長、もう一度上の人とかけ合ってよ」
「松田は受け付けないね。はっきり言って、芝山くんは困った人扱いだ」
「畜生、覚えてろよ」
芝山は両手の拳を握って殴る真似をした。彼の腕力を恐れないではない。いや大変な脅威である。だからといって低姿勢に出たくなかった。こんな輩に自分の立場を脅かされて黙っていられるか、彼のためにどれほど困らされたことかーー。
「行くところがなければ相談に乗ってもいいよ。この手の出版社なら、いくつか知っている」
「お願いしたいです」
芝山はしおれた声。そんなつもりはまったくなくて、ただ状況を進捗させるために口にしただけだ。嘘の方便も止むを得ない。
最後に明快な口調でこう告げた。
「一ヵ月間の猶予があるから、その間に探すんだな。会社はいくら休んでもいい。きみの代わりにアルバイトに来てもらうから」
「何とかならないかね」
「ならないな」
編集室に戻ると、芝山は黙り込んでいた。がっくりとテーブルに両肘をついて上体を倒すようにしているのだが、折れ曲がった長い釘のように哀れだ。そして定時を待たずに帰って行った。
解雇はその日のうちに社内に広がり、社員達の知るところとなって、大方は妥当な措置と捉えている。中には難しい仕事をよくこなしたと感心する者もいた。安江部長が尊大に胸を反らして編集室に現れて、
「よお、首切り麻右衛門、よくやったな」
肩を叩いた。
「空威張りだけじゃなくて、実行が大事です」
近くの者が安江に当て付けた。
「その通りだ」
浅野はニヤリとした。
「年寄りにはできないね」
別の者が言った。
「ハハハ」
浅野は意識して笑ってやった。安江は何のことかと怪訝な顔つきをした。 目論見通りやり終えて満足感を覚えた。
夕方近く、松田が病院から帰ってきたので、さっそく報告した。
「えっ、辞めさせたのかい」
「編集長の意を汲んで、できるだけ説得しようとしました。けど、最初から見くびっていたから、ラチがあきません」
「早過ぎないか」
「いや、限界です」
松田は腕組してしばらく考え込んでいた。
「仕方がないかな」
「更生の望みなしです。社会淘汰するしかありません」
「私も解雇はあり得ると考えていた」
松田も了解せざるを得なかった。
日曜日の午後、自宅でパソコンを検索していたら、由紀が部屋に電話の子機を持ってきた。
「柴山さおりさんという方よ」
芝山が会社に来なくなって十日が過ぎている。さおりは真っ先に夫の不始末を詫びた。
「浅野さんには申しわけないです」
「あなたに責任はありません」
「お酒ばかり飲んでいます。就職運動なんか全然しないの。浅野さんに、仕事が見つかったかどうか、聞いてくれと言うんです」
当てにしているらしい。どこまでも横着な性格に呆れた。さおりも追い詰められているようである。
「お酒を飲むと荒れて、私にも手をあげるようになりました」
「自暴自棄になっているのかな」
「私、どうしていいのか分かりません。青野書房でおとなしくやってくれていれば、再起できたのですがね。正直言って、彼にはがっかりしました」
「私も見ていて、弱いなあと思いました」
「話してやっても収拾がつきません」
「別々の道に進んだほうがいいかもしれません」
「それも視野に入れています」
「口幅ったい言い方ですが、私が力になってあげてもいいですよ」
「本当ですか。それなら別れてやるという気になってきます」
「それですよ。そう考えれば未来は開けていきます」
「一人になったら、浅野さんみたいな方に巡り会えるかもしれないわね」
その暗示的な言い方に頬が緩み、胸が高鳴った。もし別れるようなことがあれば物心両面に渡って、バックアップしてもいい。
「けど、相手が相手だから、慎重に進めたほうがいいね」
「じっくりと言い聞かせるわ」
さおりは寛いだ声になっていた。電話が終わった後、由紀がお茶を運んできた。彼女は夫がよその女と長々と話しているからといって、嫉妬することもなく、自分もベッドの端に座ってお茶を飲んだ。お茶請けは鶴の子という饅頭で、九州に旅行した友人のお土産である。
「電話の人、大事なお友達みたいね」
「前に会社にいた同僚の彼女なんだけど、悩んでいるんだ」
「前に話していた人でしょう」
「うん、そうだ」
由紀はそれ以上の関心はなく、思慮深そうに黙っていたが、間をおいて、ゆっくりした声で切り出した。
「私、この家を出ようかしら」
「そんなこと考えていたのか」
「びっくりしたでしょう」
「そりゃね」
「フリーの編集者で食べていかれると思うの」
「そうか」
格別に動揺しなかった。十分に予測可能なことだった。といって落ち着いて聞いたわけではなく、寂しい気持ちもあった。それに男が出来たかもしれない。何があろうとも不問に付すことにした。さおりのこともあり、むしろタイミングがよかった。
「これも自然の成り行きだろうね」
「だと思うわ。私たちはそれぞれの道を歩んだほうがいいのよ」
「由紀がそれでよければいいよ」
「じゃあ、そうさせて頂くわ」
早々と決着がついた。由紀が家を出ていくことにした。
会社は平穏を取り戻した。自分に責任のある浅野は安らいだ気持ちになった。そして秘められた恋に期待を寄せた。芝山のことはとっくに忘れて、さおりのことが終始目に浮かぶようになった。彼はどっちかと言うと、空想的な性癖があり、ロマンチックに考えがちだった。
『週刊漫画クイーン』だけ午後八時頃まで残っていたが、他の班は皆帰った。
「松田さんはいますか」
電話がかかってきた。編集長に変わろうとしたら、切れてしまった。その五分後、ドアを乱暴に開けて人が入ってきた。芝山伸夫だった。さっき電話をしたに違いない。退社して一ヵ月が過ぎている。
「松田はいるか、話があるんだ」
声を荒げた。浅野はゾッとした。壁際のキャビネットにしゃがんで記事中写真を探していた松田は振り返った。
「どうしたんだ」
「どうもこうもあるか。自分の胸に手を当てて考えてみろ」
松田の襟首をつかんだ。
「暴力はよせ、よさんか」
喘ぐように言う松田を壁に押しつけた。ゴツン、ゴツンと頭を打つ音が不気味に聞こえた。次に頬を殴られると、松田は苦しげに頭を抱えて座り込んだ。芝山は相当に酔っていて体がふらついている。浅野は立ち上がり、いかつい体つきの新入りの編集者と一緒に酔っぱらいを外の廊下に連れ出した。
「松田、出てこい」芝山はわめいた。
「おい、冷静になれ」
螺旋階段を降りながらなだめた。ビルを出て通りかかりのタクシーが来るのを待った。
「次長、仕事はどうなった」
「簡単に見つかるもんか」
「俺は焦っているんだ」
車が停まった。さあ、乗るんだ、と無理やり押し込んだ。
「早く見つけてよ」
「誰がお前の仕事なんぞ、探すものか。厚かましいぞ」
浅野は走り出した車に向かって叫んだ。いつまで情けない男だ。
編集室に引き返すと、松田はぐったりしていた。
「怪我はなかったですか」
「ふらつくような感じなんだ」
「壁に頭をぶつけられたからじゃないですか」
「あれは効いていない。朝からボヤッとしているんだ」
「しかし、乱暴な奴ですね」
「絶対に許せん」
松田は芝山への怒りで体を震わせた。顔は蒼白でよほど悪そうだ。それから早めに帰るからと支度を始めた。今度は編集長を外まで送っていった。
次の日、松田の症状を聞いた。帰宅したら容体が悪くなり、血を吐いたので救急車で病院に搬送された。その夜は点滴を打ち、徹夜で輸血した。重篤らしく、当分は入院することになった。さおりにはメールで知らせておいた。
二日後に芝山から電話があった。
「あの、松田さんのことで聞きたいんだけど」
何かを恐れている口調である。さおりから情報を得ているに違いない。
「かなり重いぜ」
「病名は何なの」
「精密検査をするまで、正確なことは分からない。脳挫傷か何かだろう」
「えっ、そんな病気なの」
「きみが暴力を振ったからだ」
「俺、そんなに力を入れていないよ」
「そっちは酔っぱらっていたから、覚えていないんだ。すごい強打だった。音が上の階まで響いたらしいぞ」
「し、死ぬだろうか」
「もし大事に至ったら連絡させてもらうからな」
「俺、どうなるんだ」
「裁判に訴えられだろう。死刑か無期か知らないけど」
その誇張した言い方に芝山は電話の向こうでびくついている。阿呆な男だ、一人で悩んで苦しめばいいのだ。
いくらも経たないうちに松田が腸の手術をしたと連絡が入り、しばらくは療養を続けるそうだ。浅野が編集長代理になり、采配を振った。新入りも仕事に慣れ、環境は見違えるようによくなった。一連のゴタゴタがあったものの、浅野は却って男を上げた。
(さおりを奪ってトドメを刺してやろうか)
ひそかに思案した。彼女とは二度ほど会って、手を握ったり、肩を抱いたりしたが、愛の行為というよりも慰謝である。もっと親しくなって、一線を越えた間柄になりたかった。抱擁したりキスしたりするようになったらもうこっちのものだ。
暑さも引いた秋晴れの日、さおりからお目にかかりたいと連絡が入った。芝山とは別れたらしく、色々と話したいことがあるようだ。
昼休み、会社を抜け出して新宿のイタリア料理店で会った。二、三度、由紀と来たことがある。定評のエビクリームのパスタを食べた。さおりが慣れた手つきでテンポよく口に運ぶのを見ながら、浅野は食べるのが遅いので意識して相手に合わせた。
「浅野さんはいいお店を知っているのね。とてもおいしいわ」
「それはよかった」
食べ終わると、カプチーノを飲みながら芝山の話題になった。彼らの住まいは三軒茶屋にあり、そこに一年半住んだ。幸せの日もあったが、おおむね夫の情緒不安定に手こずった。ついに愛想はつきた。彼女はある日、決然としてこう告げた。
「私は、ここを出て行きます」
芝山はごねるということもなく、案外あっさりと応じた。
「何もかも一からやり直しよ」
「お金もかかったろうね」
「あれやこれやで随分使ったわ。今月の生活費も足りないくらい」
さおりは中規模のファッション関係の会社に勤めているが、技術があるわけではなく、普通のオー・エルだから給料はたかが知れている。浅野はここぞとばかりに助け船を出した。
「大変だったら、融通してもいいよ」
「そんなの、悪いわ」
「ぼくときみの仲だ。新しい門出を祝福する意味でお贈りするよ。見返りは一切求めないから」
「だって……」
さおりは口ごもりながら金に困っている様子だ。
「出世払いとかなら気が休まるけど」
「どっちにしろ、プレッシャーにならないほうがいいね。ぼくは返してもらうつもりはないよ」
彼女は承諾した。銀行振込みということにして口座番号を聞いた。
「よくして頂いて、お礼の言葉もありません」
「これしきのこと、何でもないよ」
さおりはうっすらと涙目になった。
「ともかく、芝山との関係がなくなったから、自由になっただけでほっとしたわ」
「さおりさんのためにけっこうなことです」
「浅野さんも女性とお別れになったとか」
「そう、独身になったね」
「きっと、おモテになるでしょうね。ホンワカして抱擁力があるから」
切れ長の目で見つめた。特に目が魔力があり、特に話す時、視線をそらさないのがさおりの癖だった。こういう女を獲得したら男として本望だろう。
「それに声がふくよかで心が和むもの」
浅野は晴舞台に立っているような気分になった。そこで一歩踏み込んで聞いてみた。
「さおりさんは、ぼくくらいの年齢をどう思う?」
「年の差なんて感じないわ。むしろ、もたれかかれて、頼もしいわ」
それを聞いて勇気が出てきた。二十五歳のさおりに対して、浅野は三十二歳である。極端に離れているわけではないが、いくらか引っかかっていた。
「やっぱり、あなたは特別の女性です」
「すごく嬉しいです」
さおりは微笑む。にわかに可能性が出てきた。由紀と別れたのは正解だった。女運は悪いほうではないから、今後すんなりいくかもしれない。
翌日、振替で三十万円を送ると、ただちにメールの丁寧な礼状が届いた。感謝しつつ、さっそく使わせてもらいますと書かれてあった。
折を見て、デートに誘ったら、引っ越しをした荷物を片付けていないので、待って下さいということだった。次に間をおいて、ランチでもしないかと電話したら、予定が入っているという返事だった。冷たい口調ではないし、長々とした雑談にも付き合ってくれ、手答えは十分に感じた。
十一月の中頃にはさおりから誕生日の案内状が届いた。下北沢の彼女の自宅で催すので是非おいで下さいとある。やっぱり信じていた通りだ。辛抱強く待っていた甲斐があった。家に招くのは愛情の深まりがあればこそだ。これを機会に一気に進展するかもしれない――
やがて待ち兼ねていたその日が来た。下北沢の街はクリスマス・ソングが流れて賑わっていた。ポインセチアの鉢とワインを手にして、目的の場所に向かった。略図通りの七階建てのマンションで、柊南天の茂ったパティオを横目で見ながら、エレベーターに乗った。時刻は午後一時。彼は既に欲情のとりこになりながら、五階で降りた。
「わあ、素敵なお花だ」
さおりは歓声を上げる。趣味のいいサンドベージュのセーターを着ていて上品な香水の匂いが立ちこめていた。しゃれたインテリアのワンルーム。リビングに通されて深々としたソファに座ると、すぐに紅茶が運ばれてきた。
「ブランデー、それともミルクにする?」
ブランデーを多目に入れてもらって飲むと、口中がカッと熱くなった。緊張を解きほぐすように、
「この部屋、さおりさんのセンスが染み込んでいるよね」賛辞を呈した。
「気に入って下さったかしら」
「最高にいいね」
「ありがとう」
「お金がかかっているんじゃないかな。必要なら言ってよ」
彼の担当の雑誌は売れ行きがよくて、世の中の景気と関係なく儲かっており、しかも会社は十周年記念で、冬の賞与は例年よりはずんでくれた。
「浅野さんって、太っ腹というか、大物というか、私、そういうところが大好き」
「相手がさおりさんだからだよ」
少しでも有利に展開するなら金銭を貢ぐのは厭わないし、ましてやいい女のためならいくら使っても惜しくない。
「前ので間に合っているわ。贈り物も買ったし」
「それなら、いいけど」
会話を楽しみながらさおりの裸形そのもののようなスパッツタイツが目についてならなかった。
「今日はいつものさおりさんと違うね。妖気が立ちこめているみたいで、クラッと来そうだよ」
「まあ、大げさね。不断の私よ」姿見の前で自己陶酔的なポーズを取るさおり。「でも、やっぱり違うかな」
「そうだろう、ぼくの言った通りだ」
「フフフ」
こんな愉快なことはなかった。浅野が来たことに喜々としているのだから。それでいて以前のように手を握ったり、肩に手を置いたりする隙がなかった。むろん警戒しているというわけでもなさそうだ。それなら不意に抱きしめたらどうか、奇襲戦法はスリルがあっていいかもしれない――
「戸袋から引き出物の陶器をとるんだけど、手伝って下さる」
「ああ、いいよ」
さおりが椅子の上に乗ると、気を利かせて体を支えてやる。
「アッ、くすぐったい。触っちゃイヤ」
「ごめん、ごめん」
二人は子供みたいにはしゃいだ。木箱を渡され、それをテーブルの上に置いてからまたソファに座った。一人の女がもうすぐ自分の掌中に転がり込んでくるかと思うと、落ち着かなかった。だが、流れが遅いのでじれったい気がした。買ってきたワインを飲んでほろ酔い気分になろうか、そのほうが手っ取り早い。それで栓抜きを借りようとした。
「お酒は少し待って。慌てることはないわ。時間は充分にあるもの」
「そうだよねえ」
「浅野さんは紳士でしょう、泰然としていなさい」
「はい、はい……」
さおりは肴をつくるために台所で立ち働いている。油で炒める音、芳しい匂い、皿と皿が触れ、活気に満ちている。
間もなくしてトレーにグラスやオードブルを運んできた。
「おいしそうだね」
「もうすぐよ」
さおりも楽しみにしているかのような愛くるしい表情。あれ、グラスが三個用意してあるな、何か訳があるのだろうか、いや深い意味はないだろう。彼女は一通り並べ終わると、椅子に腰を下ろした。そして艶めかしい豹柄の脚を組み合わせて、夢見るような表情をした。一言言わなければと言葉を探していたら、ドアホンが鳴った。彼女は敏捷に立ち上がり、短い廊下から玄関に向かった。宅急便だろう。溌剌とした声が聞こえた。
「イエーイ、待っていたわ」
「ハッピーバースデー」
男の声だが、配達員ではなさそうだ。
「このポール・スミスのコート、気に入ったよ」
「あなたによく似合っているわ」
「高かったろう」
「ご心配無用よ。さあ、脱いで」
こんな会話を交わしているけれど。いったい何者だろう。兄弟とか従兄弟かもしれない。多分そうだろう、そうとしか考えられない。三十秒後に現れたのは美形の若者だった。さおりが誇らしげに紹介した。
「サプライズよ。この方、彼氏の近石裕一さん。こちらは大親友の浅野雅人さん」
「さおりがお世話になっています」
近石が頭を下げた。スマートな好青年風である。
「いえ、こちらこそ」浅野は話すのがやっとだった。
「浅野さんは私のアドバイザーなの。何でもかなえてくれるの。小父さんっぽいけど、なかなかの人格者よ」
近石が頷き、上品な微笑を浮かべる。さおりが各々のグラスにワインをついだ。
「カンパイ」
浅野が音頭を取らされた。舌の先で舐めただけで飲む気がせず、ただポールなにがしかのコートの値段やさおりが男に抱かれている光景が瞼の中を行き来した。せっかくの料理も色褪せた。ろうそくの炎を消す儀式をすませてから、ラムの香草焼きを食べ、グラスを傾け、無理して笑顔をつくった。飲み食いしながら物憂い一時が過ぎた。
(何が人格者だ。いい加減にしろ)
浅野は潮時を見て、立ち上がった。
「今日はさおりさんの恋人にお目にかかれただけでもよかった、楽しかったですよ」
気持ちに皮肉を込めた。丁重に引き止められたが、帰る以外に選択肢はなかった。歩いているうちにお腹に軽い異変が生じ、便意を催した。この調子だと下痢だろう。出そうになったので、駅のトイレに急いで向かった。
(こんな胸クソの悪い日はないぞ!)
浅野は呟きながら便器に跨った。
タイプの女