「原爆の日」

 昭和20年、1945年8月9日、同月6日の広島のウラン235型核爆弾「リトル・ボーイ」に続き、長崎にプルトニウム239型核爆弾、「ファット・マン」が落とされた。
 長崎だけでも死者7万4千人、負傷者7万5千人とも言われる無差別大量殺人だった。
 毎年長崎市松山町にある浦上川では、犠牲者を追悼する「万灯流し」が行われ、無数の魂のような灯篭が、犠牲者の無念の残り火のように流されていく。
 父親はアッツ島で死に、長崎の実家にいた母親と弟たちは原爆で死に絶えた。アッツ島での玉砕を、当時ではとても誇り高いような言い方を軍部などに押さえられたメディアは報じていたが、今では父の死を「名誉の死」とは言わなくなった。
 当時の長崎の状況は、細かくは思い出すことができない。
 今でも思い出そうとすると、ひどくめまいがして、断片的な地獄だけが思い出される。
 私は原爆の落ちた日、福岡に滞在していた。学徒すらもかりだされていた中、十九になったばかりの若造が兵役から逃れられたのは、毎日食べていたかぼちゃのおかげだった。
 軍隊にとられる時には身体検査がある。その時にかぼちゃを肌に塗って、内臓疾患を訴え、運よく兵役を逃れた。その他にも、当時は病弱だったせいもあって、若干肺炎も患っていたせいで、酷く咳き込み、疫病が蔓延しては困るとの軍の判断だった。
 精密検査をするまでの余裕はあちらにはなく、もはや大日本帝国は正常な理性や能力を失って戦争状態を続けていた。「玉砕」という言葉の中に、戦争にかりだされたら誰も生きて帰れないことは国民の誰もが感じていた。傍目にはいかにも病気である私が軍隊に入り、前線での惨状を見ることはなかったが、私の友人も数多くこの戦争で死んだ。
 大日本帝国が全面降伏をしたことを知った時、大きな喪失感と、今まで生きてきた、今まで犠牲にしてきたものの虚しさと悲しみとを感じ、放心した。それからしばらくは、この国と友のために何もできなかった自分を日々恨んだ。戦争に行くことを嫌がったのに、死者を目の前にすると何一つ言葉を発せられない自分がいた。兵役を免れ、なんと卑劣な真似をしたのだと当時の若さを恨んだことも多々あった。時折、自分が犠牲にならずに大事な友を犠牲に捧げてしまったと後悔することが今でもある。しかしそのたびに「生きなければならない」と自分を奮い立たせてきた。
 当時は原爆がいかなるものかもわからなかった。皆、ただの空襲ではないことがわかっていた。放射能の影響まで知る由もなかった。原爆を落としたアメリカでさえも、その影響を知らず、多くの調査員が降伏後現地に訪れたという。
 助けに行った多くの人間は、放射能による二次災害で被爆し、中には死んだり、長い後遺症に苦しむ人間を多く作った。助ける余裕のないものでさえ、投下地点から離れたものでも、放射能の影響を強く受けた。
 私が当事長崎についたのは、原爆投下から三日後のことだった。
 壊滅との報を聞き、絶望的な気持ちで長崎に帰った私は、目の前の惨状を見て、家族はもう助かってはいないだろうと直感した。
 どこが何かもわからない。黒く荒れ果てた瓦礫の荒野があった。
 瓦礫の山で、街の跡形さえも消え去った光景に、地理感覚があるわけがなく、探すあてもまたなかった。何が起こったのかも理解できず、麻痺した理性で目の前を認識していくのが精一杯だった。
 私が思い出せるのは、瓦礫の山と、焼けただれた死体の数々。黒く固まった死体らしき物体。そして、川辺で水を求めて死んでいる数多くのこげた死体。そして、完全に肉片の飛び散った瓦礫と同じように見える骨の欠片らしきもの。焼却しようと山になって焼かれている死体。そして焼却もできずに積み上げられた死体。死体。死体。死体。生き残った人々を救済しようと集まった救護班も、充分な体制がないために多くの命が消えていくのをなす術もなく見送るしかなかった。
 むせ返るような異様な臭い。肉のこげた匂いや瓦礫の焼けた臭い。獣の腐ったような臭い。様々な臭いが街中を包んでいた。いや、もはやそれが何の匂いかもわからない。なんの匂いがしたのかもわからなくなるほどだった。
 もはや、そこに立ち尽くすだけで家族を捜索するのは不可能に近いと思った。死体の山から、家族を見つけるのは無理だった。瓦礫の中から家族らしき欠片すらも見つけるのは困難だった。何度もその惨状を見ては吐いた。ものもろくに食べていない胃からは、胃液しか出なかった。内臓をひっくり返すような異様な臭いが嘔吐をまた誘った。
 すべてが地獄だった。
 断片的で鮮明な光景だけが今でも写真のように脳裏に浮かぶ。
 爆心地の近くでは、そこにいるだけで死ぬといううわさが一部飛び交い、私は地獄から逃げるようにして福岡に戻った。もう、その光景から逃げたかった。私は逃げる途中で、農作業をしていた土臭い女に出会った。
 農作物をかごに背負い、顔も土で汚れた女だった。私はようやくそこで生身の柔らかい肌を持っている生きた人間を見た気がした。極度の緊張状態にあり麻痺していた理性が、一気に生への衝動を感じ、湧き上がるような欲情を覚え、その女を犯した。
 自分でも理由がわからぬほどに、ひどく生きていることへの興奮を覚え、自分の一物はこれ以上ないほどに硬く、そそり立っていた。妙な高揚感と、興奮から、嫌がり抵抗する女を手にかける幸福感が余計に私の獣のような衝動を駆り立てた。
 抵抗する女の手首を掴みながら、力強く押し倒し、土の上で汚れながらも暴れる女の薄い農作業着を無理やり脱がし、乳房を荒々しく掴んだ。涙を流して泣き叫ぶ女に、より興奮を覚えた。その必死の咆哮に、生のうごめきを見た。
 生きている。私は生きている。そして女もこの通り、人間で、ちゃんと生きている。
 生きている女。生きている人間。喜怒哀楽を示す生身の人間を犯しているという快楽が、死者の世界から帰ってきた自分に、生と性の興奮を与え続けた。死臭のあとの、土の優しい匂い。女の体からわきあがる、かすかな甘い芳香。抵抗するごとに汗ばんでくる女の肌。無理やり脱がし、最後の抵抗を押し切って開いた女の股の間に一物を深くねじ入れる。女の中の熱が一物から伝わってきて、涙の出そうなほどに感動を覚える。力強く抱きつくようにして嫌がる女を押さえつけながら腰を懸命に振る。そしてうっすら浮かんでくる水玉のような女の額の汗からは、より甘い香りがして、私は女の唇をむさぼるようにして奪った。
 まるで獣そのものだった。だんだんと自らがのぼりつめていく過程で、長崎で見てきた光景がフラッシュバックし、それと同時に自分の射精のイメージが重なり合った。女の背負っていたかごが地面に転がり、中からは採ったばかりのトマトが三つほど転げ出ていたのが見えた。そのひとつがつぶれ、破れた皮の隙間から地面に赤い果肉と汁を広げていた。トマトの青臭く甘い臭いが土に混ざり、血の匂いとだぶり、女をより血なまぐさく見せた。血の通った、女を犯していた。女の抵抗は徐々に収まり、やがて涙声が別の声へと変わっていった。
 やがて女の中へと一気に射精すると、女も同時に体を震わせた。私の興奮が、少しずつ収まってくるごとに、自分が何をしたのかを冷静に判断することができ、そして取り返しのつかないことをしたのだと後悔した。女の股間からは、血が白い精液に混じり流れていた。
 私の瞳からは罪の意識からの懺悔か、それとも女への苦痛を与えてしまった、常軌を逸した行為へのショックからか、涙があふれて止まらなくなり、私は今犯したばかりの土で汚れた裸の女に必死に、すまない、すまない、と謝っていた。
女は泥に汚れた肌で、優しく私を胸に抱き、頭をなでてくれた。その時に顔に触れた乳房の柔らかさとあたたかみ、そして聞こえる鼓動に、また胸の奥から涙をあふれさせ、嗚咽し、うわんうわんと子供のように謝りながら泣きじゃくった。
福岡に戻り、私はそこでちょうど敗戦を知った。何もかもが虚しくなる瞬間だった。周囲の人間は、噛み締めるように黙って敗戦の報を聞くもの、涙を流して悔しがるもの、各々の心中は複雑だった。失うもののみが大きい戦争だった。
 終戦を知り、それからというもの、月に一度以上は犯した女の元へと通った。何度も謝罪し、また来ますと告げては、ひたすら謝り続けた。自分の行動に責任を取りたいと強く思っていた。最初は迷惑そうな顔をして、あからさまに嫌悪されたが、半年もたつと、とうとう折れた。名前をミツと言った。今、浦上川の「万灯流し」を私の横で見ている妻のことだ。
 私たちは、戦争から何を学んだのだろうと、時折思う。もう、戦争をじかに知るものは少なくなり、平和の本当の尊ささえも、何か違った形で失われようとしている。戦争をしていなくとも、やはり不幸な状態で理不尽に人が死んでいくのは、平和とは言えないのではないだろうか。悲しいことだといつも思う。
 私の命も、妻の命も、あと残り少ないだろう。あと、何年過ごせるだろうかと、毎年この灯篭が流れていくのを見ながらふと思う。
 人の心が平和であろうとする。そして相手の心の平和を願い、思いやろうとする。そのような思いの集まりこそが、真の平和を約束する原動力に常になるような気がしてならないのである。
 私は妻に微笑みかけ、また、妻も私へと微笑み返した。
 灯篭は、闇夜の川に煌々と輝き、ゆっくりと流されてゆく。

「原爆の日」

小道具をうまく使って色気が出ないかと思った実験作品。その小道具はトマト。だいぶ前に書いたやつで書こうと思った動機を忘れました。

「原爆の日」

長崎原爆投下の被害を免れたある男の話。

  • 小説
  • 掌編
  • 時代・歴史
  • 成人向け
  • 強い性的表現
更新日
登録日
2011-01-02

CC BY-NC-SA
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