僕らはまだモノクロームな街で

僕らはまだモノクロームな街で

長編七作目です【完結済】

ぼく

 それは深い霧だった。ぼくは深い霧のなかで漂っていた。ぼくは見えないものを探していた。けれどその探しているものがなにか、ぼくにはわからなかった。探しているものが多すぎて、手放してしまったものも幾つかはあった。その探しているものは、的確な表現で述べることができなかった。だからぼくは暫定的にそれを、「新しい季節」と呼んだ。
 ぼくは新しい季節を探している。その新しい季節は、どこにある? それは深い霧だと、ぼくは思った。だから霧のなかで漂っているのだ。なにも探しだせず、見つけていたものすらも忘れていきながら。空の軸に固定されたように立ちだまった昼の月に、ぼくはこの感情をそえる。あの月は悲しみで、焦りで、不安で、恐怖だ。
 窓枠におさまらず投げ捨てられていく街の背中に、わびしさを認めてよこたわる山々はしばらくの眠りのなかにいる。ぼくは頬杖をつきながら、消え去ってゆく景色をみえなくなるまで目でみとどけていった。足元で息切れの声をもらす車輪が反動ではずみ、ぼくを揺らした。自分のとなりに置いたリュックが無事なことを確認してすぐに車窓に踵をかえした。
 窓のせまい瞳には、天頂に吊られた月だけがながれ去っていくことなく実在していた。その他の景色はすべて風に袖をひっぱられて撤退していき、瞳の裏へと吸いこまれるように死んでいった。ぼくは淡々と冷徹にころされていく街並みを憂い、そしてすぐに忘れた。ぼくが通りすぎていったものは、どれも屍に変わった。
 列車のさきの遠くから、空気がはりつんで風が重くなった音をかんじた。やがてその唸り声のようなものは拡張されていき、そして一気に窓の景色からなにまでを夜にした。トンネルだった。トンネルに突入すると口篭った風の息が、より身近でつたわるようになった。その冷ややかな淡い闇のなかを駆けぬけていく電車は、腹にたくわえたぼくを含む人たちを無遠慮に何度も揺らした。わずらわしくすり寄ってくる風を左右に割りきりながら馳せる列車の窓からみえる景色には、ぼくの感情をそなえた月はみえなくなっていて、ただただ無機質なうす暗い壁をすぎ去っていく風の糸をかざって見せているだけだった。ぼくは風の糸にからまる前髪をふりほどいて、窓をしめた。すこし肌寒くなった季節が、またぼくになにかを促しているようだ。ぼくを焦らしているようだ。ぼくを生き急がしているようだ。ぼくはこの肌寒くなった季節を求めているのではない。ぼくが探している季節に名前はない。それはただの、「新しい季節」なのだ。
 そんな「新しい季節」を見つけだすまでが、このぼくの物語なのだと思う。どこか違う街へと去っていくことなく、そこでただよいつづける深い霧を抜け、ぼくは夜の向こうを知ろうとしている。ぼくはその夜から逃げ出したくなるだろうし、その霧にきっと脅えたりもする。それでもどこかで歩みだそうとしている自分がいるのだと信じて、「新しい季節」を探す旅にでた。
 そんなくだらない言い訳をかくしたシャツをぼくはコートで重ね着する。

 列車の窓に映っているぼくの顔はつよくうらぶれた色を寓意的にかもしていた。真夜中の街灯がてらした影のように重みのある黒髪は、小規模なクセをもっている。二重なのに瞼がおりかけの瞳や湿りがとぼしい唇、生気のない肌がならんだ顔が、その窓からみえた。列車が駆けぬけていくトンネルのなかは空気がきしむような鈍い音が鳴ってたなびいていた。重苦しい音はいつまでもトンネルの壁から発されていて、ぼくの鼓膜もその音に嫌悪感を齧りながらも馴染まされていった。
 空気のもつれた音が空間に滲みだし、それが定着しつつあるというところで、ぼくはようやく不思議におもった。その電車内に、すこし猜疑心を抱いたのだ。まるでこの列車とぼくが、外の街から欺瞞されているような感覚をいだいたのだ。つまり、トンネルを駆ける時間が妙にながいのだ。いや、かく電車がとおるトンネルの長さをぼくがすべて把握しているわけでは無いのだけれど、絶対にこのトンネルは長すぎると断言できた。いつまでも窓を叩きつける風の音はよどんでいて、重々しくそこに未練がましくのこっていた。さすがに長すぎる。ぼくは不思議がり、窓に頬をよせてトンネルのさきから光が差しこんでいるのか確認する。窮屈にはしる空気のよどみに埋もれた列車の頭からは、光がみえなかった。どういうことだ、とぼくは車内にいる他の乗客の姿をみわたした。そしてぼくは乾いてしまっていた目を見張った。
 そこにいたはずの数名の乗客は、ぼくだけを残して消えていたのだ。くたびれたスーツをきていた中年の男も、ヘッドフォンで音楽をきいていた女学生も、全員がぼくだけを置き去りにして消失していた。おもわず声を洩らしてしまうぼくが目をやった窓には、まだトンネルの冷ややかな影がおおった壁だけがみえていた。車輪から甲高い声がして線路をけずった。ぼくは図らずも腰をうかせてしまっていた自分の体制を崩してしまう。座席の背もたれに腰をぶつけ、尻をつよく打った。
 なんだ、ここ。ぼくは体制をもどして互いの指をからめ、自分の目元にあてながら考えてみた。しかしそこに思いあたる勘案はみあたらなかった。見当の一つもつかなかった。どういうことだ、とそれだけの疑問がぼくの脳をつよく占めていた。まるでナイフを首元にあてて「大人しくしていろ」とでも言われているように、ぼくの訝りはいつまでも脳の中核にたたずんでいた。もういちどぼくは車両のなかを見わたした。もしかするとさっきのは幻覚かもしれない、そう見えただけなのかもしれない、そう思いたくてもういちど確認した。けれど乗客はいなかった。そこには自分のみが存在していた。窓がガタガタと音をたてた。そんな物音に敏感になってしまっていたぼくはつい驚いてそちらに目をやった。そこには風をはらいのけ疾走していくトンネルの壁と、とてつもない不安感におそわれたぼくの妙な顔がうつっていた。ぼくの頬はいささか青褪めており、それでいてまだいまの状況を理解しきれていない眼をしていた。
そんなぼくの思考もかまわずに列車は闇のむこうへと抜けていく。まだ混乱状態にあるぼくの思想は、まるでハサミでばらばらに切り刻まれてやみくもに放り捨てられたようだった。ぼくは散らばった理性に針をなげ、リールで巻いてそれをたぐり寄せようとした。しかし落ち着くことはできなかった。ぼくは今、はげしく困惑しているのだった。なにも判断できなくて、煩雑する感情におぼれかけていた。
そんなぼくを拳でつよく握りしめていたトンネルは、ようやくぼくを手放して外へはきださせた。一瞬にして列車に生気が踵をかえしていくのがわかった。トンネルを抜けた。あのとてつもなく長く、ぼく以外の乗客を消去してしまったトンネルはようやく抜けたのだ。そのことにぼくはちいさく安堵し、息をはいた。
なんだったのだ、今の。もしかすると、ぼくは夢を見ていたのかもしれない。白昼夢というものだろう。ぼくが白昼夢をみていた可能性は十分にある。そうとでも想定しなければ、いまぼくがみた光景の説明がつかない。いままでは夢で、いまは現実だ。ぼくはそう自身に言い聞かせた。街を取りもどした列車の窓へと目をやる。そしてふたたび流れはじめた街並みをみて、もういちど、これが夢であってほしいと祈った。
 トンネルを抜けると、そこはぼくのまったく知らない夜の街になっていたのだ。

 突如として宵のなかにしずんだその街並みは、いくぶんと現実みが削がれていた。その街はトンネルをはさんで一瞬にして、いままでの趣をこわし、風情をくずし、ぼくが見慣れていた風景を葬った。窓からみえるその景色は、全体的に木造的なものを彷彿させ、どこか機械的で、そしてあらゆる物をつめこんだ箱のようなものを連想させた。ぼくをはこぶ列車はずいぶんとながい距離の鉄道橋をわたっていた。鉄道橋からみえる景色は、おおきな川をはさんで、複雑でありながら幻想的でもあるぼくの知らない街をたたずませていた。建物で埋めつくされて底をかくしてしまうその街にはあまたの明かりを抽象的な足跡のように飾られていた。列車はどうやらあの街に向かっているのだと思った。わりかしたかい鉄道橋の真下は、夜をきかざった真っ暗で寡黙な川面だった。線路はゆっくりと湾曲していき、空間をうばい争うようにして入りくんだその混沌の隙間にすいこまれていった。
 不規則にならんだ、輪郭もことなれば高さもちがう高層建築物の数々のあいまを列車はくぐりぬけ、その歩幅を繕っていった。がたがたと音をたてて足元がきしみ、なにかと思えば線路が木製のものへと変更されていた。列車はいささか速度をおとし、空を喰いやぶっていくようにならんだ様々な建物やビル、団地のあいだを慎重にわたっていった。
 ぼくはしばらくの間、まともに思考を巡回させることができなかった。ただただそのほんのわずかな既視感すらも覚えさせない景色に唖然としているだけだった。これは夢だと、ぼくは思った。そうだとしか思えなかった。願望でも便宜的な言い訳でもなく、これは夢だとしか言いようがなかった。つい先ほどまで十四時をすぎたあたりだったのに、トンネルを抜けた瞬間にこんなことになっているのだ。ありえない、この混沌とした光景はぼくの気分までもカオスなものにさせていくような気がした。列車は屋台がならんでいる商店街らしき場所の中間をわたり、きょだいな団地のつみ重ねられた空間の壁をなめるようにながれていった。列車の線路の下にはかならずべつの道が層をつくるように交わり重なってみえた。この街はほんのわずかな空間さえみつかれば何かしら建物が詰めこまれるのだ。密集した建物のトンネルをくぐっていると、やがて小さなプラットホームらしき場所がみえてきた。その駅の名前なんてものは知らないけれど、ぼくはもうそこで降りようと決意していた。ぼくはとりあえず、この列車から降りたかった。ひとまずこの絡みあう孤独な混沌をゆっくりとほどきたかった。みえてきたプラットホームは木構造をしていて、壁や足場にはずいぶんと年季をしみこませていた。そこへ近づいていくにつれて、列車は緩慢なうごきへとなっていく。もうすぐ到着することを察してぼくは隣の座席においておいたリュックを掴もうとする。リュックサックには適等にいれた衣類や生活に必要最低限のものだけが詰められている。ぼくはその重いリュックを持とうとした。けれど、リュックは無かった。「あれ」と焦りから声がもれ、ぼくは自分の付近にリュックサックがないか探してみた。けれどリュックはない。いつのまにかリュックは消滅していた。まるで乗客とおなじように、だ。気がつけば停止していた列車がまた出発しそうな空気をかもしだしはじめたので、ぼくはリュックを断念してホームへとおりた。
 降りたプラットホームから線路とのわずかにひらいた隙間をのぞいてみるとパイプ官や鉄網の階段がまじりかさなって繋がられた街並みの奥行きがみえ、ここが結構たかい位置にあるものなのだと気づいた。ここはどこだ? 未知な光景を目にしてぼくはつよい焦燥感におそわれていた。そんな焦燥感の背中をおすように冷ややかな風が吹き、ぼくを通りすぎていった。無意識に早足になりながらぼくは長方形型のホーム内をさすらい、木板の階段をみつけるやすぐにそこに足をかけた。木製の階段は宙にういており、風が突いてくるたびに飾られた軋み音がうかんだ。手すりの下をのぞくと助けを求めるようにこちらに手をのばす建物の束がおし詰められたようになって小さくみえ、視線を前にもどすとそこにもわずらわしいほどに建物にあふれかえった街の深い夜が、うつろな光を訥々とたらしながら止め処なく拡がっていた。木造的で機械的なビルや団地にはかぎりない数のパイプ官がもつれながら巡っていて、その中核にきょだいな塔がそびえていた。その塔は積乱雲のように垂直に盛りあがっていて、いろいろな空間が混ざりあってできていた。木構造の箇所もあり、煉瓦の部分もあれば、鉄工的な空間ものぞけた。その塔はまるでこの街の軸のようにもみえた。なぜなら塔からのびた階段や橋はあらゆる建物へとつながっているからだ。ぼくが歩いているこの木板の階段も、あの塔へと繋がっていた。平屋の家をひっぱって細長くのばしたような屋根のある橋はやわらかく湾曲しながら隣にあるべつの建物をつなぎ、縦じゃなく横へと横断するエレベーターはガラス張りのビルのほうへ赴いていく、塔のかたちを沿うようにある螺旋の階段はそのまま下の建物たちにおぼれた影のなかへと消えていっていた。

 あの塔を中心に波及していく建物たちは、どれも高々にかまえている。それらをくぐりぬけていく橋や階段を駆使して、この街の人々は息づいていた。ぼくは階段をわたり終え、塔のなかへと足を踏みいれる。塔のなかは光があふれていた。いろいろな出入り口があり、そのひとつずつに「1」や「2」と番号が表示されていた。出入り口にでると改札らしき機械があり、そこをくぐるとまた階段に繋がっていた。その階段すべてがあつまっている中心には、塔よりひと回りちいさくなった別の空間があった――その空間はまるで壁のないビルのようだった――そこからおびただしい数の明りが満面なく吐きだされていた。まるで見たことのない景色だった。粉砕された記憶の瓦礫ひとつひとつを拾ってみてみても、きっとこんな光景は紛れていないだろう。ぼくの前には改札が三台ほどならんでぼくがそこを通るのをじっと待っていた。でもぼくは足を踏みだすことがなかなか出来なかった。足が、震えていた。
 こわいのだ。まるで知らないこの景色が、光景が、視界にうつるもの全てが、どれもぼくに馴染みがなくて極端なほどの疎外感を投げつけてきて、おののいてしまったのだ。幼い頃に、デパートで母さんとはぐれて迷子になったときの感情を思い出す。まるでそれだった。どこに眼をやろうとぼくの知らない人があるき、ぼくの知らない光が群れて、ぼくの知らない夜が黙っていた。
「なんなんだよ、ここ」
 ぼくは嘆息めいた言葉を、足元に落とす。こぼれた言葉に染められたぼくの足元の影は、歩んできた歩幅のおぼつかない記憶も紛れている。雑踏と光が密集するそこへなびく階段はほそく、そこへ行こうとしているのはぼくしかいない。無口な夜はぼくを孤独にさせた。まばゆく喧騒する塔の光が、ぼくの体内に忍びこんでくる。ぼくは「新しい季節」を探していた。ぼくは深い霧のなかにいるのだ。ぼくは迷う。ぼくは迷う。ぼくは、迷う。ぼくは自分の視界にすら騙されているのだと思った。いまぼくは最悪な夢のなかに閉じこめられているのだ。知らない夜がつくりあげた孤独な心に、ぼくは膝を折ってしゃがみこんでいるのだ。
「ねえ君」
 誰かがぼくの肩を叩いた。ぼくは閉じかけていた瞼をかっと見開き、つま先から強くはずんだ。心臓がせりあがって動悸がそれまでの律動をとびはね、胸を臓器がたたきつけてきた。ぼくはその誰かから離れ、改札に腰を強打してそのまま転倒した。さわがしい呼吸が踵をかえしていくのを確かめて、ぼくはその誰かに目をやった。
 「大丈夫かい?」とびっくりした口調でぼくを心配している声の男は、改札口にたっていた駅員だった。駅員の男はぼくに手をのばして「立てるかい?」と訊ねた。ぼくは曖昧にうなずき、彼の手をかりずに立ちあがった。
「様子がおかしかったから声をかけたんだけど、大丈夫かい?」と駅員の男はぼくの顔をのぞいて言った。「もしかして切符でも落としたのかな、と思って」そう自分の推測をはなしながら、彼は不思議そうにぼくの顔をみていた。眉をひそめ、ぼくの顔を見つめていた。
「はい、大丈夫です」とぼくはコクコクとうなずく。それから、彼の推測が正解していることに気がついた。「……あ」、切符。声が洩れた。
「やっぱりね」
「すみません、いまお金だします」ぼくはコートから財布をだして代金を払った。彼は日本語をはなし、日本の円をお金としていた。どうやらぼくは海外にきたわけではないらしい。それでも、ここが日本のどこで何なのかさっぱり見当もつかなかった。
「君、一人なのかい?」と駅員は改札をくぐったあとにぼくに訊いた。
 ぼくは振り返り、駅員の顔をみた。そしてすこし瞼をひらいて、「うん」と鈍い声でいった。ぼくは、一人だ。誰もいない、誰も知らない、ぼくは独りだ。たえきれなくなって、彼から顔をそむけて階段へと走りだした。「あ、ちょっと!」と駅員がぼくを呼び止める声がしたが無視して、ぼくは走った。手すりを握って、光がたまる方へとつづく階段を駆けおりていった。目の先にある灯りの群集が、川の隅でよどんだものにみえた。光を濡らすそれは、ぼくの涙だった。ぼくは恐怖から、泣いていた。

 光に溢れた塔のなかには、いろいろな人間がたむろして、いろいろな人間が歩いていた。スーツをきた男やくずれかけの化粧の女、母親に泣きじゃくる子供、客をよびとめる屋台の店員、呼び止められた客、笑いあう男女、分かりあう友達同士、規則ただしく歩く足の森、ゆらゆらと揺れる雑踏の影、それらをぼくは通り過ぎてゆく。走り去っていく。ぼくの知らないそれらを、どれも涙を振りきりたくて過ぎ去っていく。知らない人と肩がぶつかり、知らない人の隙間をくぐりぬけ、ぼくはどこへ向かっているのかもわからず建物の中を駆けた。下へ降りるらしき木板の階段をみつけると、そこに向かった。つよく踏みしめた足で階段をおりていく。そこに這っていた軋み音がぼくにとび掛ってくる。涙が次々とたれていく。こぼれた涙をそこに落として置いていく。置き去りにされた涙をわすれてぼくは走っていく。視界にうつりこむ人々の顔はどれもゆとりをたずさえ、むせび泣きながら駆け抜けていくぼくに不思議そうに目をやる。定まらない視界のせいでいろいろな人と衝突する。「ちょっと!」と女に怒鳴られる声がしたけれど、ぼくはなにも言わず立ち去る。唇を噛みしめ、外へと繋がる出口をさがした。
 外の夜がわずかに覗けたそちらを睨むと、出口があった。おおきい回転ドアがあり、そこから人々が入ってきて、人々が出ていっていた。ぼくもその方向へと足を運ぶ。外に脱けだせたからといって、そこからどうなるかなんて分からない。でも走った。それでも走ることにした。解決なんてできないこの焦燥感が、ぼくを心臓の軸から潰していくような感覚に陥りさせてしまうから。だから走った。だから駆けた。だから地を蹴った。汗と涙を風で捨てた。それでも止まずに涙はこぼれた。無性になにかを叫びたくなった。けれど叫ぶ言葉は見つからなかった。ただ抑えられずにあがる息が洩れていっただけだった。ぼくは回転ドアをくぐり、出口をぬけた。
 ふたたびぼくの頭上は夜になった。塔からでた途端に、地面は石畳にかわった。石畳の地は、一段ずつの面積がひろい階段になっているようだった。ぼくはいちどだけ立ち止まり、コートの袖で涙をふいた。階段ののぼっていく方角へと目をやるとこの地面をはさんで煉瓦やコンクリートでできた建物が平行してたなびいていた。それは逆の方向へむいても同じだった。建物がつらなり、おおきな石畳の階段のゆるい坂道をはさんでいた。涙がとまったのを確認して、ぼくは階段をおりる方へと歩みをはじめた。涙が滞り、いささかだけれどぼくは落ち着きを取りもどせた気がした。額にはにじんだ汗が前髪をとらえて張りつけさせており、コートのなかは蒸れていて暑い。瞼の敷居をまたいだ涙がかわいて頬がうごかしづらい。けれど歩みをはじめた。そうしないと孤独が痛みをつれてきて、ぼくをゆっくりと食べていく気がしたのだ。恐怖心から、歩く。孤独から逃れるように、歩く。涙をはらいたくて、歩く。誰かを求めている、だから歩く。助けてほしかった。ぼくはいま、誰かに救ってほしいのだ。逃げてきた場所でも逃げている自分に、涙と寂しさがあふれるけれど逃げることしかできないぼくを誰かに助けてほしかった。
 ふと、ぼくは自分のきた道を振りかえった。そこにはぼくが歩いた形跡も、痕跡も、証拠もなかった。よく躾けられた賢い石畳が、いつまでも整然とならんでいた。その石のひとつがぼくだったとして、ぼくは彼のように黙っていられるだろうか。自分に与えられた役割を、放棄することはしないだろうか。――無理なのだろうな。ぼくはやはり逃げだすだろう。ぼくをとりまく環境が嫌になって、きっと逃げだす。逃げることしか、ぼくはできないのだから。たかい頭上の線路橋に、列車がはしる。空気をふるわすその音がぼくの視界を手招きしてきて、ぼくは音のほうへと目をやる。列車は駆けてゆく。建物らがかさばった影と夜の隙間に、騒音をたてて消えていった。ぼくは視線をそのまま下へと落としていく。夜空と線路から、石畳の地と建物の整列とまばらにいる人々へと描写されるものが変わった。そこには先ほどはいなかった少年が、ぼくの向かいで立っていた。その中心で表情もなくたっている少年を、ぼくは目をほそめて見据えた。
そいつもじっとぼくを見つめていた。ぼくとそいつの視線を、夜の糸がつないだ。真夜中の街灯がてらした影のように重みのあるクセ毛の黒髪、二重なのにもつれた瞼の瞳、憂いのある唇、なにか欠落した肌の色、黒いチェスターコート、グレーのシャツ、黒いチノパンツ、履きなれたグレーのニューバランスのスニーカー。ぼくは、彼を知っていた。知らないはずなんて無かった。それはかぶりを振るうこともできないほどに、知らない奴だと嘘をつけないほどに、ぼくと彼とは深い関りがあった。
 それは、ぼくだったのだ。

 ぼくが振りかえった先には、ぼくがいた。そのぼくが姿をすっと消したのは、ちいさな風が流れ、まばらにいた人々のひとりがぼくと彼との間を横切ったときだった。そこにいたはずの彼は、その人とかさなった瞬間に消えた。ぼくは目を凝らし、じっと睨んだ。しかし彼はいなかった。ぼくは夢のなかで、幻覚をみたのか? しげしげとそこを見つめる。やはりそこに、ぼくに瓜二つの少年がいた事実なんて、形跡なんて、痕跡なんて、証拠なんて、なかった。それを断定できるものがないから、ぼくが数秒前みていた視界は嘘になった。
 いったい現在は何時なのだろう、消えた彼から目をはなしてぼくはそのまま空を眺めた。夜にうずまく雲は、まるでおおきな暗闇の淵を空につくりあげているようだった。ぼくはその空にきざまれた夜の淵に吸いこまれるような感覚になり、身が畏縮するまえに視線をもどした。そのまま前へむいて早歩きでゆるく下がっていく道をおりていった。空はみないようにした。夜がすぐうえで口を開けてぼくを待っていた。ぼくはそれらから目を逸らして、また走った。
 ある程度すすんだところで、曲がり角があった。まだ真っ直ぐにも道はつづいていたが、ぼくはそっちへと曲がった。曲がるとそこは路地裏のようなところを連想させる場所となっていた。空気は閑とした静けさに覆われている。それまで建物とおなじように二列にならんで道をはさんでいた街灯の明かりもなくなり、真っ暗闇へとなってしまった。おもわずその空間におぞましさを感じたが、なぜか衝動的な自分の判断がただしいとおもってそのまま進んだ。
 ぼくが一歩と地を踏むたびに、そこから発された足音が暗闇をおよいだ。この路地裏のような空間は、どんな音でも慎重にあつかい、その音を誇張させた。ひしひしと冷えた空気が壁をなめる音が、まるで軽々しい霧みたいにただよっていた。醸しだされる奇妙さにぼくは足がすくむような感覚になり、おもわず走った。左右につらなる建物の壁の模様が視界の隣でながれていった。そして流れていく壁が、いちど途切れた。ぼくは足をとめ、その途切れた箇所へと目をやった。そこにはいろいろな植物をかざった石の階段があった。その階段は六段ほどのみじかいもので、ずいぶんと時代が経過しているようだった。錆だらけの手すりには蔦が這っていて、よくわからないけれど植物がそこにはあった。ぼくは段差を曖昧にさせてしまう植物の草をふみつけて、その階段をおりた。
 おりるとまた路地裏とはちがった空間へとかわった。そこはまるで街のちいさな一部がくぼんだ箇所のようだった。先ほどまでぼくをはさんでいた建物の背中が、階段の六段分ひくい位置からみえた。そして階段が指すほうへとみると、洞窟的なトンネルがあった。そのトンネルからはすでに出口の景色がみえていたので、そこまで距離はながくないものだとわかる。そこからは古びた木建造の平屋の屋根がいくつかのぞけた。ぼくはトンネルへと足を踏みいれ、そちらの方へとあるいた。
 石のトンネルのなかは、より冷ややかとしていた。壁に触れてみると、そっと手の平に結露の記憶がうつった。ぼくは履いているチノパンツで手の平をぬぐう。トンネルはすぐに抜けた。トンネルをぬけると地面は、どれも平等な大きさでならんだ模様のものから、様々な形態の石がうきでて詰められた模様のものへとかわった。そしてひからびた植木鉢にかこまれた平屋の家が、一定の間隔をあけてならんでいた。それらの平屋の壁には、懐かしい雨の跡と、クレヨンで描いたらしき無邪気な落書きがのこっていた。埃がよこたわるうごかない換気扇と、死んだ土だけがつまった植木鉢が修飾されていた。平屋と平屋をへだてる仕切りの壁には、寄りそうように茂った雑草が風をみつめていて、かつては人の通り道だったのであろう道をはさんだ溝渠には、つめたい影をたくわえた苔ばかりが膠着していた。夜なのに、住宅地にはなにひとつと明りは無かった。そこはかつての人の活気から見離され、生命の終わりを告げるさよならの風だけがいつまでも歩いていた。閑散としていて廃れてしまったこの街の一部に、ぼくはなぜか頬にながれた涙をうけいれた。感極まってひろがる哀しさからにじんだ涙をぼくは許した。ぼくはゆっくりと平屋の住宅たちを目でなぞりながら、この人気のない道を歩いていった。うずまく空はすでにほどけていた。何気なく置かれていた木のベンチはペンキの色が剥げてしまっていて白かった。床屋のサインポールはもう光ることも回ることもなく、ずっとそこで立ち尽くしていた。
 目で数えていた平屋が最後の一軒をおえ、ぼくは住宅地をあゆみきる。そこでぼくは木板のしきりが住宅地を囲んでいたことに気がついた。その柵に手をかけて、ぼくはそこから一望できる景色に目をやると、ふたたび光があふれた建物の束がみえた。先ほどぼくがいた場所とおなじように、そこからみえる光景もさまざまな建造物が詰めこまれて、ひとつのシルエットになってみえた。柵のしたは崖で、ちいさく建物の頭たちがみえた。
 ぼくは木の柵にそって進んでいくと、やがてまた石の階段があった。その階段はえらくながい距離をしていた。真っ直ぐにつづいていて、その階段の途中途中にいろいろな屋台などがならんでいた。蔦がからんだ鉄の手すりが片側だけにあり、そこからみえる景色もやはりシルエットとなった建物の群集だった。ぼくはその長い階段へと足をかける。階段は、下へおりればおりるほどに明りが増していた。遠くで提灯がならんでいたのだ。ぽつぽつと光が増えていって、最後にはにぎわいを固まった灯りは示していた。ぼくはあの提灯のあかりが恋しくなって、いそいで階段をおりていった。
 手すりからの向こうでみえる、息苦しさを感じさせるほどの建物のあつまりが、どれも夜に流れていった。階段はまだ暗い。まだ灯りが遠い。振りかえるとまだあの廃れた住宅地がみえた。そこから離れていく。孤立したあの場所から、ぼくは離れたくなった。涙がまた手を伸ばしてきて、瞼から外へとでようとしてきた。けれどぼくはもう涙を許さなかった。ぎゅっとそれを堪え、手招きする提灯や屋台の声のほうへと向かった。
 ぼくの脳裏にうかぶのは母さんだった。頭のなかの母さんはぼくから目を背けていた。つむじから咲いた黒髪だけがみえた。弱々しいのにたくましい背中からは、まるでぼくに「さよなら」と告げているようだった。母の背中はみるみる離れていき、小さくなって縮んでいった。母さんはぼくに背を向けたまま立っていた。離れていっているのは、ぼくの方だったのだ。ぼくは走って、母さんの背中から逃げていた。なぜ逃げている? 逃げても意味がないなんてわかっているのに、ぼくは逃げていた。ぼくに背をむけている母さんが見つめているものは「今の環境」だった。十五歳になったぼくの前にやってきた、十五歳の季節だった。その季節と向きあっているのは母だけだった。ぼくは、十五歳という年齢がともなってつれてきたその季節から逃げているのだ。その十五歳の季節には深い霧がただよい、どこにも離れずじっと立ちとまっていた。そんな霧の先に、探しているものはある。その季節の向こうに、「新しい季節」はあるのだ。なのに、ぼくは逃げている。逃げることだけをしている。逃げこんできた場所には、奇妙な恐怖心と、奇妙な焦燥感と、奇妙なさみしさだけがあって、ぼくはそこからも逃げだした。逃げることで得るものは、苦しみだけだということもぼくは理解しているのに。
 気がつくと、ぼくは提灯のあかりに挟まれていた。振りかえるともうあの住宅地はみえなくて、自分がおりてきた階段がつらなっている。前へ向きなおすと、もうすこしで階段が終わるところまできていた。提灯の明かりはぼくがこらえていた涙に紛れてぼんやりとしていて、あらい呼吸音と共に夜におぼれていた。膝ががくがくと震えてわらっていて、疲弊を隠しきれていなかった。

 遠かった光が近づいてきたことで、ぼくはすこし安堵した。脹脛を締めつけてくる筋肉の痙攣がつよく反動し、ぼくの足を強引にまえへと押した。階段をおり終えると、そこからは石畳のほそい道がつづいていて、その道を左右からてらす光が屋台などのならんだ店舗からあふれていた。屋台からはにぎわう客らの愉快そうな声がとびかい、なにかを焼く音やにおいがこの一本道に充ちていた。どこからも染みでてくる香りが、どれもぼくに寄り添ってきて、思わずぼくの腹が声をもらした。いままで隠れていた空腹が、その香りに牽かれてつよく存在を主張してきた。ぼくはコートから財布をとりだして中身をたしかめた。四千二百円、それがいまぼくが持っているすべての金額だった。どうして家をでる際にもっとお金をもってこなかったのだろうと、自分の頭のわるさに嘆息がもれた。ここでこの金をつかうのは勿体ない。きっと賢くない行動だ。後悔するに違いない。ぼくは渋々それをポケットにもどして、空腹をうったえる腹をさすりながら歩いた。
 いまのぼくにとって、この温泉街のような場所は苦痛だった。視界にはいりこむ人間はどれも笑っていて、どれも満たされていて、どれも楽しそうだった。手を繋いであるく恋人や、ネクタイをゆるめて仲間と酒をのむ男たち、どれもぼくなんか気にせずに幸せそうだった。流れていく。屋台や提灯のあかりが流れていく。歩いている人々が流れていく。石畳の模様が流れていく。離れていく。人々とぼくが離れていく。振り返るとみえる景色から離れていく。母さんの背中から、離れていく。もう嘘になってしまった、ぼくを見つめていたぼくから離れていく。道が続いていた。ゆらゆらと視界は揺れていた。足取りは重かった。揺れる視界が、おぼろげな靄に食べられた。涙が、また流れていた。
 ぼくは足をとめて、涙をとめようとした。コートの袖で目元をこすった。コートの生地はざらざらとしていて、瞼にヒリヒリとした感覚がのこった。ふと自分の隣をみると、なにも置いていないショーウィンドーが張っていた。そのガラス板に反射されてうつるのは手を繋いで道をつむぐ灯りと、涙をぬぐうぼくの姿だった。そこでなぜかぼくは、さっき忽然とあらわれて消えた彼の容姿を思いだした。じっと自分をみつめてきた彼の眼差しや、肌の色や、髪の色を。なぜそれらが脳裏に叩きだされたのか、ぼくはこのショーウィンドーにうつる自分をみてすぐに理解した。
 あのときぼくを見つめていた彼は、確かにぼくであったけれど、もしかすると「ぼくじゃない」かもしれない。そんな思考が跳ねたのだ。さっきぼくが見たぼくは、確かにぼく自身だといえる。きっぱりと、声を張って、胸を張って言える。けれど、断言はできなかったのだ。そのショーウィンドーにうつる自分をみるかぎり、ぼく自身のはずだった彼が、別人なのかもしれない可能性が浮上してしまったのだ。
 そこに映ったぼくは――涙の痕跡をつよく頬にのこしているぼくは――先ほどみた彼とは違う容姿をしていたのだ。

 ショーウィンドーにうつる自分の姿に、顔に、瞳に、ぼくははげしい驚きだけを覚えていた。真夜中の街灯がてらした影のように重みがあって黒いはずのぼくの髪は、すべてが除かれ、大儀的なものを欠落してしまったかのような喪失感のある白髪へと、急変していたのだ。するりとこぼれた「え」という声はひらひらと石畳の隙間へと落ちた。
 騙されているのだ。きっと、ぼくは根本的なことから欺かれているのだ。建物がわずらわしいほどに茂ったこの街も、ぼくを知らずにわらう雑踏も、変貌したぼくのこの白髪の頭も、全部どれも嘘だ。夢だ。ここにきてからぼくは何度と呟いていた。
「これは夢だ」
 根拠はない。それでもぼくはぼくに言い聞かせた。
「これは夢なんだ」
 その「夢」は醒めることはなかった。醒めることなく、じっとその「夢」だと仮定する時間は延びていった。あがった息のあらい音も、痙攣する足の痛みも、どれも夢じゃないみたいに鮮明だった。けれどぼくは「これは夢だ」と、言い続けた。ぼくの白い髪が、ほのかに風でゆれた。
 また涙があふれる。ショーウィンドーの中にいる自分も、おんなじように涙をうかべていた。やめろよ、ぼくの真似をするな。ぼくの動きを、ぼくの感情を、模倣するんじゃない。そこに映るのはぼくじゃない。ぼくじゃない。ガラス越しからみえる提灯の灯りが、笑っていた。ぼくの様をながめて、笑っていた。そこに充満する光は、ぼくを囲んで笑っていた。ぼくの意思に反してでてくる涙に光は触れて、濡れて、そして、笑った。
 ぼくは疲労からふるえた膝をたたきつけるようにして駆けた。ショーウィンドーにうつるそれらが怖くなって逃げた。どうすればいい、どうすればいい? どこに逃げればいい、どこに逃げればいい? 夜がぼくの首に手を回してきて、後ろから抱きついてくるようだった。ぼくは必死に抵抗して、無理やりにそれを剥がそうとする。夜は回していた手を首から、ぼくの目元へともってくる。ぼくの目を手の平でかぶせる。ぼくはそのまま夜に目隠しされる。石畳の地につまずき、ぼくはそのまま横転した。
 痛かった。その痛みが、これは「夢」じゃないことを冷徹にぼくに知らせていた。ふらふらだけれど立つしかなかった。ぼくが知る人物は、ここにはいない。ぼくは独りだった。提灯がぶれて灯りが踊るこの街で、ぼくは孤独なのだ。だから立つしかない。立たなければならない。そして逃げなければならない。足を踏みださなければならない。涙を堪えなければならない。ぼくは逃げることしかできないのだ。だから、逃げるしかない。どうしても向き合えない季節から、ぼくは逃げるしかない。逃げろ、走らないといけない。母の背中を捨てなければならない。未練がましい涙を殺さなければならない。いろいろと付着してくる感情を摘まなければならない。逃げることだけが、ぼくだ。ぼくは逃げる。逃げないと、すぐに追いつかれてしまう。だからぼくは。だからぼくは、
「あなたがコウトくんね」

 女性の声がした。聴いたことのない女性の声が、確かにぼくの名前をよんだ。ぼくはぼくを呼ぶ声へと振りかえり、そこに立っている女の人を目にした。そこにはぼくの知らない声をした、ぼくの知らない女の人がいた。真っ白な髪をしたぼくが投影されている虹彩の奥が、ぼくには薄紫色になる夕日の底で、おびただしい花に縁をかこまれたおおきな深淵のようにみえた。それは透明的でうるわしく、それでもどこかうつろな面影が滲んでいたのだ。
ぼくを知る彼女を、ぼくは知らなかった。彼女の容姿から継がれていく記憶はなかった。何かに引っかかるかと望んでなげた釣り糸がはいった川面の下は、乾きはてた砂漠だったのだ。コウトくん、ぼくの名前を呼んだその声は、ぼくの脳内でいくつもの線になって流れていった。不思議な声色からつむがれたこの五文字が、いつまでもぼくの脳の中央にある管のようなものを通っているようだった。
「コウトくん」また、ぼくは名前を呼ばれた。提灯のあかりがなじんで黄色味を増した半透明の茶色い髪は鎖骨あたりのながさで、端麗な肌のうえで寝ていた。わけられた前髪が僅かにかする瞳はおおきく、鼻もしなやかな輪郭をしている。そこにそっと添えられた唇はちいさく、さえた艶を得ていた。「コウトくん」また、彼女はぼくの名を呼ぶ。ぼくは今に至るまでのことを掘り起こせるだけ掘り起こしていた。どこをみても未知な光景があり、どこをみても未知な人々があるいている。それらが繋がっているこの街で、ぼくが信用できるのは何もなかった。「コウトくん」、と名前をよぶ女性に、ぼくはつよい猜疑心をおぼえていたのだ。
「は、はい」ぼくはその場からゆっくり立ち上がって、返事をする。
彼女はそっと沈黙をはさむ。彼女の表情に動きはなかった。じっと立ち尽くしたような瞳をし、鼻をし、口をしていた。それから言った。「訝ることはないわ。私はあなたを助けにきたの。ただそれだけのことよ」
「ぼくを助けに?」
「そう」と彼女は言った。まるで扁平な板にしわもつくらずにナプキンを敷いたような声だった。「あなたを助けに」
 ぼくを助けに、そう彼女は言った。ぼくを助けに? 彼女はぼくを助けにきたと言う。……わからなかった。まだ、ぼくはどこかでこれは夢だと思っているのだ。漠然としていた。曖昧としていた。それでも、心を充たしていた恐怖心に、わずかな隙間ができたような気がして、また涙の気配をかんじた自分がいた。無表情のやさしさに、淡く包まれたような、そんな気持になった自分がいた。
「コウトくん、私についてきて」彼女はそう言って、歩みをはじめた。
 ぼくは無言のままうなずいて、そのうしろ姿を追った。彼女はぼくを助けにきた、ぼくは助かる、それは嘘かもしれない。けれど彼女についていった。たとえ嘘でも、いまのぼくが求めていた言葉を、彼女は言ったから。

 互いに分かりあっていた提灯の姿はなくなり、あたりは幽寂としたアーケード商店街へと変わっていた。空を仰ぐと、半透明のまるみを佩びたガラス板のアーケードがあり、その外からは、いまだ深い夜がずっしりと重くこもっていた。商店街に、先ほどのような明かりはなかった。人の気配もなく、ひっそりとした静寂だけが夜の一部として居座っていた。しろいタイル張りの地面の両側にならんだ商店はどこもシャッターを閉めていて、一つの明かりもなく閑としていた。ぼくはそれらの店舗をきょろきょろと挙動不審な動作でみていた。商店街の暗闇のなかで頼れるものは、アーケードから射したわずかな月明かりと、自分の前をあるく彼女の足音だった。彼女の足音はパンプスが織りなすもので、タイルの地面をかるやかに蹴る音響は空間の隅のほうへとおもむいていき、ゆっくりと波及していった。ぼくのスニーカーから生まれる足音は、彼女の音の下をくぐるようにひろがって響いていた。

 ならぶ店舗の隙間からは、所々から草木が顔をのぞかせていた。未熟なまま成長を終えてしまった月明かりがその樹木の葉に光をくばり、その葉は青白い肌を夜にみせていた。不思議な寓意をかんじた。商店街のなかからは、妙に自然の薫りがしたのだ。真っ暗闇でくわしくはみえないが、このならんだ商店には数々の草木らがかざられているのだ。商店の壁には蔦が這い、アーケードのほうへとのびた樹木とそこからこぼれた木の葉はタイルの地面におちる。そこには人工的な自然がほどよく建物と調和されていたのだ。そこからみた草木らが、どこか不思議で、月明かりがてらしたその画に幻想的な印象をぼくはおぼえた。綺麗だ、ぼくは素直にそうおもった。
「もうすぐよ」彼女が言った。そうですか、とぼくは返事をしようとした。けれどそう返事する間もなく、ぼくらは商店街をぬけた。
 そこを抜けると、また街並みがひろがった。とても木造的な構成を街はしていた。緑があちこちで生えしげり、おなじような調子で木構造の建物もたっていた。その街を、さらにぼくらは進んだ。彼女のあとを追ってあるく。道のりはよくわからなかった。街は建物ばかりがあり、道がひどく煩瑣していた。それらをくぐり抜けるようにぼくらは歩き、階段をみつけた。やれやれまた階段か、とぼくは思った。
「これをのぼれば到着するわ」
「到着、て。どこに到着するんですか?」
 彼女はいった。「あなたの家よ」
 あなたの家。この階段をのぼれば、ぼくは自分の住む家に到着するらしい。いったいどういうことだ。ぼくには、彼女のはなす意味をうまく理解できなかった。「行きましょう」といって彼女はその階段に足をのせ、また歩きだす。ぼくも仕方なく、その階段をのぼった。階段はみじかかった。すぐにかわいた土の地面の感触がした。ぼくは自分のスニーカーから顔をあげ、前をみた。するとそこには家庭的な明かりが窓からこぼれた、ちいさなログハウスのような住宅がならんでいた。土が固められてできた地面にはくたびれた雑草が生えている。「こっち」とぼくを手招く彼女のほうへと向かう。そこには木板でつくられた四段ほどのちいさな階段があり、赤いドアをしたログハウスが一軒たっていた。「ここがあなたのお家」そう彼女はいった。
「ぼく、こんな家知りません」とぼくはためらいなく言った。
「あなた自身は知らないかもしれない。でも、ここがあなたの家なの。この中にはあなたの帰りを待っている人がいる」
「ぼくの帰りを、待っている?」ぼくは彼女の言葉をくりかえした。
「そう、帰りを待っている人がいる。コウトくん、いいかしら?」彼女はぼくの顔をみていってきた。彼女の表情はやはりおなじだった。そのままの目をして、そのままの鼻をして、そのままの口をしたまま、彼女は言った。ぼくは、唾をのむ。
「此処はあなた「が」知らない街であり、あなた「しか」知らない街なの」
 いきなさい、彼女は言う。ぼくはその赤いドアを何度かノックする。渦巻いていた夜の空をおもいだす。逃げてきた道に捨てていった涙をおもいだす。ノックする。ぼくの肩に触れてきた駅員をおもいだす。ぼくを知らない夜へとかどわかした列車をおもいだす。ノックする。突如として消えさった乗客たちをおもいだす。淡々と息絶えていった車窓の景色をおもいだす。赤いドアが、ひらいた。ぼくを見つめていたぼくの姿を、思い出す。
「ただいま」
 そう、ぼくは嘘をつく。

ボク


 散らかった部屋だった。ボクはそんな部屋の中心で目をとじていた。部屋のなかはひとつとして音はなかった。けれどその部屋は騒がしかった。ボクはその騒音にべつに嫌悪感はいだいていなかった。部屋の壁にボクは背をあずけ、向こうから聴こえる喧騒に耳をすましてみた。この寡黙な部屋に散らかるものの中からひとつ、ボクは無作為に手にとる。それはボクがくだいたガラスの破片だった。もうひとつ、手に取る。そのガラスの破片を合わせてみると、ぴったりと繋がった。
「そろそろか」
 ボクがそういった途端に、外の騒音がとまる。外の音がおわり、つぎは部屋の壁がひとりでに鳴りだす。自身がはなったその音で壁は痺れて、散らばっていたガラスの破片はどれもがボクの方へとおもむいてくる。そしてボクの爪先にそのガラス片はつき刺さる。そのまま体内へと侵入してくる。閉じていた瞼を、ボクは開くことにした。

「おーい」「もう終点だよー」「君、おきてー」男の声がした。ルアーに引っかけた意識をボクはリールを回して引きよせた。やがてボクは目をさます。「あ、起きた」と男がいった。ボクの前には駅員がひとり立っていた。
「君、もう終点だよ。もしかして降りなきゃいけない駅を通りすぎたんじゃないか?」
「いえ、ここでいいんです」起こしてくれてありがとう、とボクは礼をいって電車からでた。プラットホームをあるき、階段をおりると改札があったからそこに切符をさしこんだ。ボクは欠伸をしてから、壁にかかっていた時計で現在時刻をたしかめた。間もなく十五時をむかえようとしている。
 エスカレーターを降りる途中、となりが鏡張りだったのでボクは自分の顔をみた。そこにうつっていたボクの顔は、やはり本来のボクの顔ではなかった。髪はまるで真夜中の街灯がてらした影みたいに重みのある黒髪であり、瞼は二重なのに下がりつつある。これが此方でのボクの姿か、ボクは自身の姿を認識する。黒いチェスターコートをきていて、黒いチノパンツを履いていて、グレーのニューバランスのスニーカーを履いている。それとリュックをかついでいた。なるほど、君は家出を図ったのか。ボクはこの格好から得られる情報をひとしきり知った。エスカレーターをおりると、すぐにガラス扉から外の街並みがみえてきた。君が探しているものをみつけるまで――あるいは探しているものの手がかりとなるものを発見するまで――ボクはこの街にいなければならない。ここは君が知っていて、ボクが知らない街だ。君がいまいるのであろう街は、ボクが知っていて、君も知っている街だ。
 駅の出口をでると、ボクは歩道にでた。歩行者用の信号機が無口なままたっていて、あかい光を放っている。道路をはしる自動車らをボクは目でおう。遠くのほうでは、ビルが立ちならんでいた。その頭上を飛行機がよこぎり、足跡のかわりに雲の糸をはしらせていた。十五時の肩書きをせおった空はいささか鉛の色彩をふくんだ青をしていた。駅の付近には、いろいろな人がいた。歩いていた。座っていた。待ち合わせをしていた。携帯電話をさわっていた。欠伸をかいていた。カップのコーヒーをのんでいた。そんな人々をボクは一望し、すこし笑った。自然ともれたその笑みが、ボクの脳漿に君のことを浮かばせた。君も、そっちでいろいろな人をみているだろうと思う。君の知らない人々がいる。君の知らない建物ばかりが埋もれている。けれど、君はその街を知っている。
 君の自宅までの道のりはなんとなくだけれど分かった。ボクはこの街の道や建物はどれも無知だけれど、それでも分かった。ボクが思うほうの道へまがり、ボクが思うほうの方向で歩けばすぐに君の家があるのであろう住宅地に到着した。さらにその住宅地でもボクがおもった方向へと歩いた。迷うことはなかった。ボクはつらりつらりとした歩みで、君の住宅へとおもむいていた。
 ボクが足をとめた一軒家の前には、くろい柵の扉があり、隣にインターホンが設置されていた。そこからは石の階段があり、くろい玄関扉へと繋がっていた。ボクはインターホンを人差し指でおし、柵のとびらを引いて玄関扉の前までむかった。庭があった。窓へとつながるウッドデッキが設けられた庭はなかなか広く、そこには洗濯物が干されていた。ボクはそのつっぱり棒につるされた服たちをながめた。やさしく揺する風に干されたシャツが踊っていた。
すぐに、玄関扉の鍵がはずれる音がした。「どちら様でしょうか」とたずねる女性の声がした。ボクはなにも言わず、ドアが開くのを待った。ゆっくりとドアは前へとおされた。隙間から黒い髪がのぞき、ほそい指がみえた。そこからその女性が顔をだして、ボクの瞳をみた。自分の視界にうつるボクの姿をみて、彼女はおもわず声を洩らした。「……コウト?」
「ただいま、母さん」そう言って、ボクは微笑んだ。
ぽつりと落ちてきた雨が、ボクの頬を伝った。みると先ほどの空の鉛色はつよまって、雨の名をよんでいた。

ぼく 2

 最後に名前だけでも訊こうとおもい、「そういえば」とぼくは隣へと目をむけた。「名前はなんて――」けれど、ぼくはそこで言いおえようとしていた言葉をぶつりと切った。そこに、彼女の姿はなかったのだ。あの動きのない表情も、影も、ぼくの隣に彼女がいたという形跡はまるで消えていた。え、とぼくはおもわず声を洩らした。そこには夜がつくろうひえた空気と、それが佩びた翳りだけがのこっていた。
 その翳りすらも取りはらわれたのはすぐだった。ノックした赤いドアのとなりに設置されていた電灯に、明りがともったのだ。そしてガチャ、という音とともに開かれたドアの隙間から家庭的であたたかな光があふれでてきた。ぼくの足元にその光がはしり、そこに男性の影が貼られた。そして、男の白い髭がみえた。
「ただいま」
そんな言葉が、自然と唇の狭間からこぼれた。ぼくはそんな言葉を口にした。ただいま、と。図らずもこぼれたその言葉を、ぼくは気恥ずかしく思った。ドアから染みでてきた光はぼくの影をも攫った。そしてぼくは、登場したその男の人とはじめて顔をあわせた。
「コウト、どこに行っていたんだ」彼はいった。表情には、ぼくの帰りを心配していた影がまだあわく残っていた。「もう夜も深いんだぞ」
 ごめんなさい父さん、とぼくは謝った。それから彼のことを「父さん」と呼んだ自分にはっとした。父さん、何故なのか、ぼくはまた泣いていた。父さんというその響きが、とても懐かしくおもえたのだ。いや、ちがう。懐かしいのではなく、本来ぼくには「父さん」と呼べる人間はいなかったのだ。
「おいコウト。なにを泣いているんだ?」父さんはぼくの顔を覗きこむようにして見てきた。涙は流暢としたうごきではなく、訥々としていてそのぶん一粒ずつの輪郭がおおきかった。ぼとり、と絞りだしたかのようにこぼれる涙を、ぼくは拭わずに玄関の地におとしていった。「どうしたんだ、コウト」そう訊ねながら父さんは、そっとぼくを抱きよせた。父さん、とぼくは泣きながら言っていた。ぼくを抱きしめる父さんの腕はかたく、つよい包容感があった。室内から顔をのぞかせる光があたためた優しさは、ぼくの底でよどんでいた泥みたいな恐怖心をとかして、こねくりまわされて固くなっていた不安な感情を歿し、身体をしばっていた拘束感を絶えさせた。
「父さん」とぼくは父さんの肩に顔を埋めたままでいった。何度もせり上がってくる嗚咽がその言葉にいくつかの切れ間をつくった。「本当はぼく、違うんだ。父さんの知っている、コウトじゃないんだ。父さんの、本当の息子じゃないんだ」
 ぼくは父さんの肩から離れようとした。けれど父さんはかまわずぼくを抱きしめてくれた。そしてちいさな笑い声を落した。
「そんなこと、もう分かっているさ」
「え?」
「お前が俺の知っているコウトじゃないことくらいすぐに分かるさ」そう父さんが言った。そして抱き寄せていた腕の力をよわめて、ぼくの顔をじっと見つめてきた。そしてにっこりと、本当の父親みたいな微笑みをみせた。「でも、お前が俺と赤の他人、ってことは絶対にない。そう思えるんだ。息子じゃないけど、息子なんだ。そんな風に思えるんだ。コウト、お前はコウトじゃなくても、コウトだよ」
 うん。ぼくは瞼をあかく腫らしたままで、頬に筋をえがいたままの顔でうなずいた。そうだよ、と。「ぼくは、コウトだよ」
「おう。おかえり、コウト」
「うん。ただいま、父さん」
 ぼくは、離れていった母さんのうしろ姿を思いだした。母さんはまだ、そこであの季節をみつめていた。ぼくはまだ、ここであの季節から逃げていた。逃げながらぼくは、泣きながら笑っていた。

「とりあえず、腹減ったろ」
 腹が減っていそうな顔をしてるぞ、と父さんはぼくを家にあげてから言った。うん、とぼくはその問いに正直な感情をそえたうなずきで答えた。父さんは「はは」といちど笑い、柱にかけてある時計をみた。白いあごの髭を右手でさわりながら眺めていた。ぼくはそのあいだ、室内の天井の模様や木板の壁などをなんどもみわたしていた。家のなかは床も壁も木製だった。随分と時間が経過しているらしく、木板の色は変色しつつあった。敷かれたカーペットのうえに置かれた座布団にぼくは腰をおろしてまっていた。
「よし」と父さんがいった。ぼくは父さんのほうへ目をやった。「ラーメンでも食べにいくか。まだやってるだろ」
 そう決めてからの父さんの動作ははやかった。茶色いダウンジャケットに袖をとおし、黒いニット帽をかぶった。そして玄関の鍵をポケットに挿入した。ぼくも脱いでいたコートを手にとり、そのまま父さんの後についていった。ぼくの空腹は底まで達していた。蓄えていた財産はすべて尽き、空白の面積がひろくなっていくにともなって足への疲弊が克明とした形をもっていった。
 玄関から外へでると、また見慣れてしまった夜の空が視界の頭でよこたわっていた。風にながされていた薄生地の雲がたち去り、そこから唯物的な星が眼下のぼくを眺めていた。退屈そうな星がぼくを覗いていて、ぼくは退屈そうな星をみていた。けれどすぐにそらした。深い意味もなくならべられた星たちが、ぼくには腐った夜のささくれのように見えたのだ。こんなにも様々な内容が凝縮されたような今日なのに、明日は空っぽのままだった。    
 明日は、空っぽのままなのだ。ぼくは、そう思う。なんどでも。明日はまだ空っぽだ。

 父さんに連れてこられた場所は、『ニワトコ』というラーメン屋だった。駐車場には何台かの車が駐車しており、そこから階段をあがるとその店舗はあった。木板のドアをしていて、それを押すと鈴の音がなった。暖簾をくぐるとまずレジがあった。レジ台へとつらなった木板はカウンターテーブルとなっていて、寄り添うように赤いカウンター椅子がならべられていた。通路をはさみ、テーブル席もまっすぐに整列している。客はぼくら以外にもいた。
 父さんは勝手に奥のテーブル席へと腰をおろした。ぼくは向かいに座り、お冷をもってくる店員をじっと待った。店内はちいさなクラシックの音楽がながれていて、それを潰すように厨房からの食器がふれあう音やフライパンのうえで吼えた炎の音などがした。店内の壁には白いみたことのない花の絵が描かれていた。赤い点が中心にあるおはじきのような白い花が幾多とあつめられた状態で、枝先に飾られていた。ここの店名から連想してみると、どうやらこれが『ニワトコ』という花なのだと思った。
 コウトは何にするんだ、と父さんはメニュー表をながめながらぼくに訊ねた。そのときお冷をお盆にのせた店員がぼくらの前にそのグラスをさしだし、「注文決まりましたらお呼び下さい」と丁寧な口調でいい残してきえた。「父さんと同じでいいよ」とぼくは言った。そうか、と父さんはうなずいて店員を呼んだ。
 やがてふたつの容器が運ばれてくる。木のテーブルにおかれた器に入ったラーメンからは、幾多と服をきこんだスープのにおいが鼻腔へまねかれ、それに手を添えてつらなってきた湯気に顔をくすぶられた。ぼくはその醤油風味の芳ばしさをそのまま受けいれ、彼のやさしさにゆっくり抱擁された。思わずこぼれた綻びが、くらい部屋の戸棚の奥からわすれていたものを取りだしてくるようだった。そのふわりと浮いた香りで、ぼくは感慨深くなった。なぜだか、懐かしい気分になった。ぼくがまだ幼少の季節にたっているときの、まだ幼少な季節にたっている土曜日の窓からみた昼間の光景が、ぼくの脳漿から垂れこめてきた。そんな純情な空を、おもいだしたのだ。
「どうした、食べないのか?」と父さんは箸で麺を啜りながらぼくにたずねた。
「ううん、食べるよ。もちろん」
 ぼくは割り箸を手にとる。太くまっすぐな麺の上にはチャーシューが二枚そえられ、それにメンマが三つ肩をならべて置かれて、半身をつからせた海苔がくつろいでいる。中心におとされた生卵が、白い脂をおよがす醤油のスープとからまって、ぼくの空腹へと挑発してくる。ぼくはレンゲでスープを掬い、口にふくむ。箸で麺をつかみ、顔を近づけてそれを啜る。吸いついた麺が手ばなしたスープの滴が、激しくはねる。チャーシューを齧る。メンマを頬張る。麺を啜り、水をのむ。熱いスープに敷かれた卵の黄身が、ゆっくりと浸透していく。ぼくの空腹が呼びかけてくる。充たされていく食欲と、充たされていく胸の奥が、共に暖められて丸くなった。
 父さんはぼくを見て、気持ちよさそうに笑っていた。自分でもおどろくその食べっぷりに、父さんは満足そうな笑い声をあげていた。ひとつのカタルシスか何かのように笑っていた。なんだかぼくは恥ずかしくなった。なあに、と父さんは笑いながらいった。「恥ずかしがることじゃない。俺はいまお前のその威勢のよすぎる食い方に感動してんだよ」
 それから運ばれてきた春巻と餃子も、ぼくは空腹の言いなりになって平らげた。噛み砕いたそれらが内臓へとおもむかれていくのがわかった。父さんに残しておいた分も、「もっと食べろよ」とわらう父さんに礼をいって口につめこんだ。活発にはたらく喉に追い討ちをかけるように新たに注文した唐揚げも頬張った。空だったうつわが満ちていく実感が、つよくぼくを支配していた。額ににじんだ汗や、鼻水が、さらにそれらを讃えていた。
 ひとしきり食べ終わったあとで、ぼくは父さんに「ありがとう」と礼をのべた。父さんはまた豪快に笑って、「それはこっちが言いたい台詞だ」と言った。
「お腹が空いていたんだ、ごめんなさい」
「どうして謝るんだよ。コウトの食いっぷり、感動したぜ。人が詰めこまれて一瞬で満員になる列車の景色が浮かんだぞ」
 はは、とぼくは微笑した。「そんなにかな」「ああ、そんなにだ」父さんは目の端に涙をうかばせるくらいに笑いながらコクコクとうなずいた。

 帰り。ぼくは父さんが運転してきた車の助手席にすわって街の景色をみていた。駐車場からうごきだした車の窓からは、手前にくだり坂の道路があり、遠くには建ちならんだ建物のシルエットがみえた。あそこにぼくは、先ほどまでいたのだ。凝縮された建物のシルエットからは光を洩れさせていて、ここからでも眩しかった。
「コウト、お前はどこから来たんだ?」
「父さんの知らないところからだよ」
「そうなのか。そこにはお前の親はいるのか?」
「いるよ。母さんがいる。でも父さんはいない」
「そうか、母さんか。なら逆だな。ここには父さんしかいない」
 ぼくはうなずいた。バックミラーには『ニワトコ』からはなれていく過程を話すリアガラスがあり、後部座席がみえ、そしてぼくの顔があった。ぼくの髪の毛はやはり白いままだった。「その母さんは、元気なのか」と父さんは前をみつめたまま訊ねた。
 うん、とぼくは肯いた。「元気だよ。元気だと思う」今頃あの人はどうしているだろう、とぼくは想像した。家出したぼくに気づき、あわてふためいているのかもしれない。それとも逃げだした息子になさけなさを感じて、呆れてしまったかもしれない。それでも仕方ない、と呟くぼくもいた。
「それは違うな、コウト」と父さんはいった。「逃げだすことが情けないことじゃない。逃げることで助かることもあるんだ。まあ、いまのお前がどんな状況でここにきたのかは知らないけどな。逃げだすことが何も悪いことではないさ」
「ぼくは今の環境が嫌になって逃げだしてきたんだ。ある季節が、ぼくの視線の先にみえるんだ。でもぼくはそれが怖い。母さんだけが、その季節を見つめているんだ。けれどぼくはどうしても決心できなかった。そして逃げてしまったんだ」
「コウト。お前は逃げることに――つまり今の自分がしている行動に――意味はあると思うか?」
 ぼくは顔をしずめた。視線のさきは真っ暗でなにもみえなかった。向こうではあれだけ灯りがはびこっているのに、夜の空はなにも光を与えるものはなかった。「無い」、とぼくは答えた。「意味なんて、無いよ」
「あるんだよ」と父さんはいった。「逃げたい、と思ったのならそれは正解だ。食べたい、と思ったのならそれは正解なんだ。すべてのことに、意味はあるんだ。意味の無いことはない。お前がその季節から逃げだした意味を、お前がいちばん知っているんじゃないか? この街に逃げてきたことにも、お前は意味があるんじゃないか? この街をお前は知らない。けれど、知っているから、この街に逃げてきたんだろう?」
 父さんが懇々とはなすその話の「意味」を、ぼくは理解することができなかった。なにを伝えようとしているのか、ぼくには分からなかった。いや、父さんは敢えてそう意図して話しているのかもしれない。ぼくはそう思った。しかし、ぼくにはそれを読み取ることができなかった。
「お前が思ったことが正解なんだ。お前が解釈したそれが正解なんだ。コウトが起こす行動のすべてに、コウトの周りにあるものすべてに、かならず意味はあるんだ。それが深くても、深くなくても。なにも難しく考えることじゃない」
「すべてのことに、意味がある」と、ぼくは言う。
「ああ。意味がある。その季節から向き合えず、お前は逃げてきたんだろう? それは逃げることで気づく何かがある、と思ったからじゃないのか?」
「逃げだしたことで、分かることがある」ぼくはその言葉を反芻した。
「前に進むことだけが正しいんじゃない。たまには後ろに振り返ることも、必要なんだよ」
 ぼくは窓からながれる街の景色を、もういちどながめた。煌びやかな建物のシルエットは、父さんの運転する車と平行してあるいていた。ガードレールがたなびき、草木に風が唄をきかせ、揺れる夜がぼくの心も揺らした。
「ねえ父さん」
「ん、なんだ?」と父さんはフロントガラスを見つめながら、眉をあげてぼくに耳をかたむけた。
「この街は、ぼくを受けいれてくれるかな」と、ぼくは訊ねた。夜がながれる。
 父さんは「はは」と暫定的に笑い、「当たり前だ」と言った。「受けいれてくれるさ。だからお前はここに来たんだ。この街に意味があると思ったから来たんだ。そうだろ?」
 うん。ぼくは肯いた。
「此処はお前「が」知らない街であり、お前「しか」知らない街だ」
 このとき、ぼくは気づいていた。この車の後部座席に――ぼくのすぐ後ろに――誰かが坐っていることを。

 それは家に帰宅してからも、ずっとぼくの影に泰然とまぎれていた。陰鬱につきまとってくる影が、ぼくを背後から見据えていた。ぼくはその視線を感受し、さっと死角へと振りむくが、やはりそこには誰もいなかった。父さんはぼくのコートをクローゼットの扉にハンガーで吊るしている。ぼくは視線をかんじる背後を、じっと睨む。誰もいない。そこには木の壁にかかったカレンダーだけがある。その付近にも、なにもない。ソファに腰をあずける。それでも何者かの視線はなかなかもどらない寄せ波みたいに、ぼくから離隔されることなく留まっていた。この空間には、たしかにぼくと父さんしかいないはずなのだ。誰かが、ぼくの付近でぼくを監視していた。
 とりあえず風呂にはいれ、と父さんはぼくにバスタオルを投げてきた。「服はコウトのものを使ってくれ」「うん」ぼくは風呂場へと向かった。リビングをでると木板の廊下があり、はさんで向かいには父さんの寝室部屋があった。そのとなりにコウト(ぼくではない、本来の父さんの息子)の部屋があった。それからすこし間隔をあけてトイレと風呂場があった。ぼくは風呂場につながる引き戸をあけ、閉めて服をぬぎはじめた。洗濯機と洗面台があり、浴室へとつづいていた。ぼくは浴室へ足をふみいれる。
 シャワーが振りかぶってきて、ぼくの髪がそれを伝わせる。顔面をシャワーのお湯が覆っていき、首と肩から順序よく身体をなぞっていく。まだ気配はある。まだ、誰かがぼくを監視している。口もなく鼻もなく目もない、姿をたずさえない誰かがぼくを覗きこんでいた。眠りのおわりを告げる朝の日差しのような白い髪をしたぼくの顔が、浴室の鏡には映しだされていた。ぼくはシャンプーを手の平でとり、頭皮を洗おうとしている。ぼくの目は、ぼくを見ている。鏡のぼくも、ぼくと同じことをしている。頭上で泡立っていく。シャンプーが溢れて前髪にたれる。鏡のぼくとぼくは片目を瞑っている。鏡のぼくのうしろには、浴室の壁がある。白い浴室の壁がある。そこにぼくを見つめつづけている誰かの顔が、名前もなく姿もない誰かの瞳が、ぼくの右肩のうえから覗いている――。
 そこにはやはり、誰もいなかった。
 部屋にもどり置かれたデジタル時計に目をやると、すでに二十五時をまわっていた。ぼくは部屋のあかりを消し、ベッドへともぐる。消灯した部屋の壁にぼくは触れる。木々の薫りと、呼吸する声がぼくの耳を通過する。ドアの足元にわずかにひらいた隙間からは、リビングから灯る光が滲んでいる。父さんの足音がする。木板の廊下を踏み、じんと軋んだ音が部屋までわたってくる。まだ、視線がある。まだ、誰かがいる。眠らずに、深い夜に背もたれてぼくをみている。視線はなにかぼくに陰謀をしのばせている。振りむいても、そこには壁しかない。その者が誰なのか、なになのか、ぼくになにを「意味」しているのか、ぼくにはわからない。見当もつかないまま、おとずれた眠気が夜を煽っていった。ぼくは瞼をとじながら、ぼくを助けてくれた父さんや彼女の言葉を思いだした。
此処はあなた「が」知らない街で、あなた「しか」知らない街なの。わからない。ぼくにはわからない。父さんがぼくに話した言葉の意味や、彼女がぼくに告げた言葉の意味が、ぼくには何もわからない。その言葉に、ぼくはかぶりを振るうことも、コクリとうなずくこともできない。まだ夜はぼくを見つめている。まだ朝は眠っている。時計は夜明けを急かしている。ぼくの知らない街は、まだ深い霧のなかにいる。

ボク 2

 窓に点をつけ、それを繋ぎあわせるみたいに線を結んだ。それは雨だった。透明な窓が、まばらに半透明になっていった。雨はのそのそと蓄えていた財産を消費していった。雨は途切れとぎれに、窓の景色をけずっていった。雨は君の街を、無遠慮に濡らしていった。濡れた鳥が鳴き、濡れた光がぼやけ、濡れたアスファルトがくらく染まった。ボクはずっと雨をみつめていた。雨には優しさもなければ悲しさもない。雨には感情もない。街の一部をにぎり、街の一部始終を知ってさっていくだけだ。雨は独自の音を、街を楽器にして奏でる。雨は独自の温度を、街を器にして醸す。雨は人見知りをする。陽の存在から忌憚し、目をそむける。指をさしていた窓からの光が、雨のまだらな影にかわる。そんな影を敷いた床は、まるで水面のようだ。ボクは、雨をみつめる。
「急に降ってきたわね」母さんが言った。母さんも窓にしがみつく雨の様子を傍観していた。ボクは「そうだね」と言った。ボクを閉じこめていた雨粒が、あたらしく落ちてきた雨粒に触れて、そのまま垂れた。その雨粒は窓の底へと落下していった。しかしウッドデッキには沁みこまず、窓枠のところで動きをとめた。その雨粒は、ウッドデッキに求められていなかったのだ。今のところ。
「コウトは今、どこにいるの?」と母さんはたずねた。家のなかには、外の雨の音だけがしていた。「あなたじゃなく、本来の私の子供のコウトは」
「母さんの知らないところにいるよ。その知らないところからボクはきたんだ」ボクは抽象的な解答をする。
 母さんは釈然としない様子の声をもらしながら、ダイニングテーブルに手をついて椅子から腰を浮かせた。そしてスリッパの底を摩らすような歩きかたでキッチンまで向かった。食器がふれる音がした。「コーヒー」、と母さんは言った。「コーヒーは呑むかしら?」いただくよ、とボクはうなずいた。母さんは白いマグカップをふたつ取りだして、そこにコーヒーメーカに溜まっていたコーヒーを注いだ。マグカップの縁から丸い湯気がのぞき、ボクのまえに置かれた。「どうもありがとう」とボクは礼をいって、ひとくち飲んだ。おもったよりもコーヒーは熱く、すこし苦かった。
「砂糖はいるかしら? ミルクも」
「いらないよ。どうもありがとう」
 ことん、と置いたコーヒーの水面が揺れた。マグカップの持ち手をもったまま、ボクはまた雨の生活を観覧していた。雨は話しあい、遊びあい、染みこんだ。「話を聞かせて」と母さんはコーヒーを口に小さくふくみ、喉にながしてから言った。構わない、とボクは言った。
「あなたの居たところは、どんなところ?」
「建物が溢れているよ、そしてとても機械的で木造的だ。こことは大分、様子も違う」
 ふぅん、と母さんは声をこぼしながらまたマグカップの縁をくわえた。ほのかな湯気が、彼女の瞳とかさなって曖昧なものにした。彼女の瞳には、不安におもう心情がコーヒーによどんだ白い光みたいに浮かんでいた。きっと君の心配をしているのだろう、とボクは思い、そのことを雨につたえた。雨はうなずくように庭の草々を突いては濡らしていった。花もない殺風景な庭の合間をのんでいく雨は、触れた瞬間にからだを粉砕させ、おぼろげな水の霧をこしらえた。
「それじゃあ、あなたは何なの?」
「ボク?」
「そうよ」と母さんはうなずいた。「あなたは何者なの? 知らない街からきた、と言ったり、名前をきけば「コウトだよ」と答えるし。私にはあなたが何なのかさっぱり分からないわ。たしかに顔はコウトの顔をしているけれど、口調や態度もまったく違う」それに、と母さんは言葉をつづけた。「コウトは、コーヒーが嫌いなの」
 ボクはその質問への答えをかんがえた。窓をながれる雨をみて、草々とたわむれる雨をみて、室内ににじむ雨の音をきいて。街が濡れる、その様を目でおって。結局、ボクはなにも答えなかった。ただ黙り、その沈黙を雨にたくした。母さんのコーヒーをすする音がした。


 「雨、止まないね」とボクはつぶやいた。雨はやまずにいた。じっと街の頭上に据わり、アスファルトを濡らし、建物を濡らし、庭を濡らし、草々を濡らしていた。君はコーヒーを嫌い、雨も嫌うのだろうな、とボクは思った。君のとなりあわせに降る雨のことをかんがえる。君はまだボクを知らない。君は傘をさして、雨に濡れないように生きているのだ。
「わからないわ」と、母さんは言った。「さっぱりよ」そういって首を横に振った。
 難しく捉えようとするからだよ、とボクは言った。「人はすこしでも自分の理解力を常時より多くうごかすことを要されると「難しい」という言葉を吐くんだ。たしかに、難しいものは難しいし、易しいものは易しい。でも、難しい易しいという有無を問わないものもあるんだよ。どんな答えでも、どんなに納得いかなくても、それが正解だと言ってしまえばそうなってしまうものだってあるんだ」
 母さんはコーヒーを飲みほして、空になったマグカップと同時に暫定的な沈黙を置いた。その沈黙の膜の外側では、まだにわか雨の音が持続されている。
「母さん、世界に解答があるものなんてごく僅かなのだと、ボクは思うんだ。母さんがコーヒーを飲みほすことに、正解も不正解も要らないとおなじように。まだコーヒーメーカにコーヒーが残っているから、おかわりするということにボクが反対もしなければ賛成もしないのと同じように。どちらでも構わないんだ。正解、不正解。難しい、易しい。そんな言葉を必要とするものは、明晰的な輪郭をもつ概念だけだ。この世は、いや、人生っていうのはほとんどが曖昧なままで完結するものなんだよ」
 母さんは空になったマグカップの中を、じっと覗いていた。「コウト、なにが言いたいの?」
 ボクは笑った。「つまり。あなたの知っている息子のコウトが家出しようと、目の前の季節から逃げようとしても、それに正しいか正しくないか、なんて決定できないっていうことだよ。逃げればみつかる何かがあるかもしれない。前だけみていても、すべて円滑に進むわけではないんだよ」
 母さんは「難しいわね」とわざとらしく強調した声色で言った。それからマグカップを持って、キッチンに向かった。コーヒーメーカにまだ残っているコーヒーをすべて注ぎ、ミルクをくわえてスプーンで混ぜた。スプーンで混ぜながら、彼女は言った。「曖昧なものが、一番難しいものよ。コウト」
はは、とボクは笑った。「確かにそうかもしれないね。母さんの言うことにも一理あるよ」
母さんは言った。「一理どころじゃないわよ。四千二百里くらいあるわ」

ぼく 3

 夢をみた。それは古ぼけた情景だった。色彩がはげしく欠陥し、おぼつかない映像のフィルムは延々とぼくのとなりで回っていた。薄汚い光がおよいだその場に、ぼくは何故かたっていた。そこには置きざりにされたような遊具があり、みすえた夕日に照らされている。夕日はぼくの影も引き摺ってながくのばしている。誰かの声がした気がして、ぼくは振りかえる。そこには少年と少女がいた。木のベンチに腰をおろしている。少年の黒い髪は、背にある呂律の回らなくなった夕焼けに染められている。となりにいる少女の長い髪も、そこから引っ張られた朱色に身をさずけている。二人がすわるその隙間から、うらぶれた夕日が差していた。その光にぼくの肌も染まり、霞んだままの街で二人をながめていた。少女は歿していく空のいきりを気にせず笑っている。少年も笑っている。二人はなにかを話している。夕焼けは足をとめず、夕焼けは振り返ることもせず、夕焼けは日々になごりおしさを感じることもなく、二人の底へともぐっていく。空が青紫になっていく。カラスがながれ、高い声で鳴く。空の色彩がきえていく。夜がながれ、しずかな音を軋ませる。
 少女は消えた。ベンチには少年だけがいた。二人は二人じゃなくなった。二人は一人になった。夕焼けがあわてふためきだす。少年は一人で、夕方から夜へとまたぐ。少女はいない。笑っていた少女はいない。喪失感が雲になって、それをなげく声が鳥となった。あたりは夜となる。
「帰ろう」とぼくは少年に言った。少年はなにも言わなかった。無口のまま、うなずくこともせず、その黒い前髪で目をかくしていた。ぼくは、泣いていた。夜に雲がひとりでに増えだし、孤独を鳥が鳴いた。「帰ろう」、とぼくはもういちど少年に言った。ぼくは足元から欠けていった。ガラスが粉砕していくみたいに。ぼくの身体は半分になっていく。少年がぼくを見た。帰ろう、ぼくは言う。
「雨が降りだす前に」

 そこでぼくは目を醒ました。ベッドから起きあがり、カーテンから外をのぞいた。空は灰色なのか、青色なのかよくわからない微妙な位にあった。ベッドから身を離し、部屋をでる。廊下をはさむと、すぐにリビングへと繋がっている。すでにリビングでは白いあかりがともっている。キッチンで父さんがなにかを焼いている音がする。そして、そこからあまい匂いが空間に線をひいていた。
「おはよう、父さん」とぼくが言うと、キッチンから「おう、起きたか」と父さんの声が返ってきた。ぼくはソファに腰をおろし、窓の空をみていた。しばらくその景色をみていると、「よしできた」という父さんの声がして、ぼくはそちらへ向いた。父さんはダイニングテーブルにその料理していたものを載せた皿をおき、マグカップに注いだ紅茶をそえた。「さ、食べるぞ。朝飯だ」父さんは椅子にすわり、フォークをつかんだ。ぼくもすわり、フォークをもった。あまい香りのするそれは、フレンチトーストだった。
「フレンチトーストなんて久々に食べるよ」とぼくは喜んだ。
「そうなのか。甘いものは好きか?」
「うん、大好きだよ」ぼくは答えた。ぼくは甘いものを好んでいる。
 ならよかった、と父さんは安心したような口調でいった。ぼくはフォークでフレンチトーストを一口のサイズにカットし、それを口にはこんだ。コーティングされていたあまい卵は、ほのかな熱をまだ佩びていて、ぼくの舌にふれた途端にゆっくりとした手順でとろけていった。のそのそと沈殿していく濃密とした甘みが、ぼくの喉を染めていく。何かをかいさぐるように、流れていく。それは注がれていくようだ。それは束ねられていくようだ。ぼくは紅茶を口にふくみ、そのあまい残滓をかどわかして部屋へと招きいれる。まだすこしかたい朝の空に、活発な街の声は飾られないでいる。ぼくはフレンチトーストを食べおえ、皿を台所のシンクへとはこんだ。「なあコウト」と父さんが新聞紙をひらきながらぼくに訊ねてきた。なに、とぼくは返事する。
「今日、じつは仕事があるんだ。コウトはこの家でまっていてくれないか?」
 わかったよ、とぼくは答えた。それから昨日ぼくを助けてくれた、あの彼女を探しにいこうと予定をあたまで計画した。ぼくはシンクに食器をおいたあと、しばらくそこに歪に反射する自分の顔をみていた。ぼくの顔はステンレスの表面につよくゆがんで映っていて、まるで色を重ね塗られた油絵のようだった。それなのに頭髪の色は白く、なにも変わらないでいる。ぼくの知らない街の、ぼくの知らない夜が去り、ぼくの知らない朝がまだこわばったままの肌を晒している。ぼくの髪は白くなり、朝も白いままで、心だけが。空っぽだと嘆いていた明日さえも、降り積もってみえなくなった底にあった。
 「それじゃあ行ってくるよ」と父さんが家をでたあと、ぼくはまず歯をみがいた。それから顔を洗い、服を着替えた。服は「コウトのものを使え」と父さんから言われているので、ぼくはその通りにした。コウト(ぼくではない)の持っている服はどれもピッタリなサイズだった。ぼくは彼のタンスからネイビーのニット服と、白い細線のはいったストライプ柄の黒いコットンパンツを借りた。そしてクローゼットにかかっていた自分のチェスターコートを羽織った。下駄箱のうえにおかれた鍵をポケットにいれる。ぼくは靴を履きき、外にでた。

 古びた軋み音がしつられた玄関の階段をおり、草々がはえた地をあるきながら、ぼくは今朝みた夢のことを考えていた。あの夢は、なんだったのだろう。昨日の夜から父さんの言葉が、ぼくの尻尾にでもなったかのようにつきまとってくる。――すべてのことに意味がある。ぼくは今朝みたあの夢の中から、父さんが話した「意味」というものを探ってみた。けれど、そこにぼくの確信できる答えはみつからなかった。「雨が降りだす前に」ぼくは少年にそう言った。それだけだった。
 父さんらの家がならぶ住宅地からさがっている階段をおりると、遠くにアーケード商店街の出入り口があった。とりあえずそこに行こうとぼくは思った。街中、建物があふれている。昨日もみたはずなのに、夜だったからかぼくの記憶とうまく結びつかないでいる。ボタンをひとつ、ずらしてかけてしまったかのような感覚があった。年季がもたらすクリーム色に褪せた白い壁、そこはかとない煙突の煙、当然のようにあちこちにある樹木などの自然、高くせりあがる蔦の這った壁のマンション、おなじように建つ円柱型の建物、そのふたつを繋ぐ頭上の橋、ひらかれた窓の縁にとまる鳥、それらがぼくにはどれも不思議にみえた。ぼくの知っている「街」といわれて連想するような場所と、ここは大分と異なっていた。まず、アスファルトなどの黒色が見当たらない。電柱もなく、電線も張っていない。代わりに妙にノスタルジーな建築物が建ちならんでいる。それらを落ちついた心情でみている自分に気がつき、ぼくはどうやら昨晩よりずいぶんとこの街に慣れたのだと思った。父さんの存在がおおきく、ぼくに安堵を与えてくれたのだと思う。
 空が商店街のアーケードに変わる境目で、ぼくは一度足をとめる。巨大な階段があり、それがずっと傾いて連なっていた。その階段は街をみおろす壁を沿ってたなびいていて、どの建物の屋根よりもたかくなっていく。壁には様々な道や列車の線路がミルフィーユ状に並列していて、パイプ官がはり巡っている。階段のつながる壁のうえにも、もちろん建物が並んでいる。どこか宮殿の外壁を彷彿とさせるデザインの建物がみえ、それをおぼろげにしようとする小規模な森の樹木などもある。人もいる。すべてを包括して、光景を一望する。やはり、この街は混沌としすぎていて苦手だと、そんな感想をぼくはおぼえた。
 ぼくは商店街のなかに入るのを中断し、階段のほうへと足をはこんだ。階段の横幅はとてもひろく、分厚い木板となっている。ぼくは足をかけ、ながい階段をあがっていった。遠くにみえる街の二階へと、ぼくは汲々と距離をつめていく。いままでぼくを俯瞰して笑うようにそびえていた建物の背が、ぼくの足取りの通りに小さくなっていくのが手すりの外から確認できた。巨大なマンションがあり、屋上には図書館らしき建築物がある。それを樹木が円でかこんで並んでいる。マンションには、橋がかけられている。橋がつながる先にも、高層の建物がある。それらに集結するかのような建築物の群れと、道、それと人がいる。傍らの手すりからは、壁にミルフィーユ状にわけられた通路のひとつの、線路がみえた。線路の向こうにプラットホームがあり、まばらに人が列車をまっていた。もうすこし階段をあがると、またちがう通路の光景がみえてくる。
 不思議だ、とぼくはある程度街をみおろせる高さまで階段をあがったところで、あらためてそう思った。不思議な街だ。ほんとうに、みたことのない街並みだ。ぼくの知識のなかから、「建物がつまった街」と問われて連想する街並みは東京とか、そのあたりだけれど、ここはまるで違う。不思議だ。なんどとぼくはそんな感想を脳裏でもらす。これだけ建築物が無作為に凝集されているのに、緑が盛んなほどにまぎれているし、木材の薫りがつよくただよっているのだ。それでいて機械的であり、幻想的だ。
 階段をあがりきると、ぼくは舗装の地の際から縮小した街並みをながめた。見下ろした街には自分よりも低く鳥も旋回していて、ここがかなりの高所だということがわかる。ぼくがのぼってきた階段は一定の間隔で屈折しながらつらなって、眼下の街とこちらを壁をとおして繋いでいる。建物が、下の街とおなじように並んでいる。地面がかすかに振動し、下の通路で列車がとおったことを知らせる。先ほどよりも空が近づき、すこし足に正確な意識をもてなくなった。すぐに視界を前へともどす。それから「昨日ぼくを助けてくれた彼女をさがす」という目的を思いだしてぼくはまた歩みをはじめた。ぼくのあるく地面はとてもひろく、ここもまたひとつの街なのだということを知った。
 しばらく歩いていると、一際はなやかで豊かな色彩に包まれたなにかが視界に入った。その爆発的につよく印象づけさせるそれがなにかが気になり、ぼくは早足でそこへ向かった。近づいていくにつれて、豊富な色彩の正体が花だということに気づいた。それは花だった。そこはかなりの種類の花がみちていた。石畳の階段を、花々や植物ははさんで茂っていた。盛んにあふれだす花々のかおりや見た目をぼくはまじまじと見つめた。名前の知らないものばかりだった。ぼくはそれほど花に詳しくないのだ。けれどそこから自分を抱擁してくる花のかおりは、ぼくを恍惚とさせるのには充分だった。それらの花の群集を目にしていると、花はどれも自分のように思えた。ぼくは花だ。なぜそう思ったのかは、わからないけれど。
 それからぼくは彼女を探すことに意識をもどした。また歩きだす。降り積もったかのようにある混沌とした花たちの声は、ぼくのうしろ姿をいつまでも見送ってくれている気がした。ぼくはすこしほころび、そして同時にため息を吐いた。色彩がつまった芳香にまぎれたそれに、ぼくはうんざりとしてしまったのだ。「なんなんだよ」とそれに対してぼくは悪態をつく。雲がすべり、日差しがずれてぼくを納めていた日向が影にかわった。
 ぼくの背中をさす誰かの視線は、朝からずっとしているままだった。

ボク 3

 雨はふりつづけていた。雨が止むことはなかった。雨はときに唸り声をあげ、空を砕くことを予告した。そのあと、遠くで雷がつよく弾けた。窓の端側でそれが閃く。雨の生気はよりつよみを増し、この街にしろい衣を覆わせた。母さんはキッチンで料理をしていた。包丁がまな板をつく音がずっと雨の音とともに踊っていた。ボクはいつまでも窓のまえに座って、叩きつけてくる雨をみつめていた。雨の隙間から、ボクは君のことを思った。借用している君の身体――君はいま、迷っているのだろう。君はさまよっている。自分について、環境について、季節について、すべてに君は深い霧のなかにいる。傘をさし、肩すらも濡れないようにと脅えている。膝を折り、夜の真下でしゃがみこんで震えている。その夜がはだけて、ほのかな暁の薫りがこわばった街をほぐしてくれることを望んでいる。暗がりに俯いていた森がふたたび息をしはじめ、寝息もたてずに眠っていた海がまた潮をゆらすことを祈っている。月が空の裏側へと隠蔽され、花がもういちど開花することを。終りが終ることを君に知らしてくれる光を、始りが始ることを君に告げてくれる季節を、君はただ屈みこんだまま待っている。隣にいたはずの少女も忘れてしまってかまわないから、と。それまでの過去を殺してしまってもかまわないから、と。傘からしたたる雨粒にすら触れずにじっと。
 それは無理なことだ、とボクは言った。君は動かなければならない。爪を噛むことを止めなければならない。涙をながすことをやめなければならない。逃げるだけの夜から、逃げなければならない。それは君も理解しているはずだ。だから、その理解が行動にかわる糸口をその街でみつけるんだ。それまで君は、いつまでも「今日」のままだ。どれだけ時間がたとうと、「今日」ということに変わりはない。いまの君はまだ「明日」を知らない。君も、ボクも、「今日」のままなんだ。
 雨はさらに強みを増す。それはまるでクラシック音楽の終盤にさしかかる佳境のパートのようだ。ピアノが掻き鳴らされ、チェロが鳴りしびれ、指揮者がはげしく踊る。幾多と音が混ざりあい、心を無邪気に高揚させる。強くなる。強くなる。強くなる。アスファルトが殴られる。強くなる。強くなる。強くなる。強くなって、強くなる。街は雨にたべられる。強くなる。強くなる。強くなる。奮いたつ感情がいままでの音を壊す。砕く。殺す。強くなる。強くなる。叩きつけ、鳥の声もテレビの音もキッチンの音も届かなくなったところでその雨はとつぜん止まる。

ぼく 4

 あれこれとぼくは彼女の姿をさがし回った。けれど、彼女を見つけだすことはできなかった。気がつくと夕焼けが四方からぼくとの距離を詰めてきていたので、そろそろ帰ることにした。空が紅くにじみだす過程がぼくを妙にやるせなくさせた。街が残したぼくの足跡は、やがて這いよってくるたそがれに目隠しされてわからなくなった。朝になったら、また探しにこよう。ぼくはそう計画を立てて、父さんの家へと踵を返していった。
 家に帰ると、まだ父さんは帰宅していなかった。父さんがドアをひらく音がしたのは、それから三十分ほど経過してからだった。ただいま、と父さんは言いながら食材が詰めこまれたビニール袋を三つ、テーブルの上におろした。「買い物をしていたら遅くなったよ。すまない」と父さんは言った。ぼくは首を横に振って、「おかえりなさい」と言った。
「ただいま」
 父さんはそう返して、柔和は微笑みをした。夕焼けがしがみついて金色になった川面のように穏やかでやさしい微笑みだった。父さんはキッチンに向かい、すぐに料理にとりかかった。コンロに火を点ける軽やかな音がはずんだ。やがてなにかが煮込まれはじめ、その匂いがぼくの肩をたたいて振りむかせた。「なに作っているの」と訊ねると、「シチュー」と父さんは答えた。シチュー、ぼくはその声音の響きになつかしさを覚えた。この懐かしい感情を、窓から招かれていた夕暮れが拾った。日が歿していく。足をひきずって故郷へと帰っていく空とすれ違った夜が、ぼくに指をさしてくる。ぼくは窓から目をそむけた。夜がぼくに話しかけてくる、夜がぼくに唆してくる、夜がぼくに触れてくる。ぼくは目をそむけた。
 「……父さん、明日も仕事?」とぼくはシチューをスプーンで掬いながら訊ねた。父さんは「そうだな」とパンを千切って、シチューに沁みこませながら言った。「明日も仕事だ。帰ってくるまで、待っていてくれな」わかったよ、とぼくは肯いた。父さんのつくったクリームシチューは絶品だった。ぼくはステンレスのスプーンで幾度とシチューをすくい、息を吹きかけて頬張った。パンを齧る。大皿に盛りつけられたサラダを、ぼくは小皿にわけて食べる。口でくだいたクルトンの滓が頬の裏につき、ぼくはシチューでそれを交わらせる。「美味しいか」と父さんはいつものやさしい表情でぼくに訊いてきた。目の縁のしたにある小さなしわが、やんわりと曲がってのびた。もちろん、とぼくは強くうなずいた。
 背後の視線はまだぼくを見据えていた。毅然とした風格で、ぼくの後ろからいつまでも鋭い眼差しをわたしてきていた。常に監視されているという歯痒さをぼくはどうすることもできなかった。ぼくはいつまでもなにかの歯痒さに神経をすり減らされているのだ。さらに、視線は気のせいかもしれない――いや、そうであってほしい――のだが、徐々にぼくに近づいてきているような悪寒すら感じた。忍び足のまま、廊下のきしみ音すらもたてず、厳かな犬すらも気づかないその気配を恒常させて、ぼくの背後との間隔を狭めてきている……。ぼくは食べおえたシチューの皿にスプーンを置き、息をのむ。ぼくは彼の視線を背中でうけとりながら、その視線を離さずとらえたままで、口を結び、沈黙をつくり、そしてさっと背後へと振りかえった。瞼をひろげ、なにかを視界に探す。そしてすぐに首をもどし、はあと息を吐いた。「どうしたんだ」と父さんが驚いた口調でたずねた。ぼくは「ううん」と首を振った。やはり誰もいなかった。そしてやはり、視線は消えないままだった。

 ぼくは恐怖から震えていた。灰色の光に散らばったまだら模様の影が、ベッドの布団に投影されていた。ぼくの歯は部屋の窓とおなじようにガタガタと音をたてていた。ぼくは身体をまるめて縮小し、布団をふかくかぶって目をじっと瞑っていた。迫ってくるおぞましさに背を向けて、額に汗のよどみをつくっていた。窓が出鱈目なきしみ音をさけんでいた。ガラス板がいくどと弾んでいた。夜が更けた頃に出産された強風が、そのまま朝を殴りかかってきたのだ。窓のすぐそばで非常識なほどに巨大な特急列車がはしっているかのようだった。怖い、怖い。それだけだった。ぼくを支配するのは恐怖だった。震えている。風で吹かれてそりかえりそうになる樹木の想像をして、風で強引にさらわれていく雲たちの想像をして、ぼくは怖くていれなくなる。粟立っていれなくなる。はやく、はやく風が去ることを望む。風は消えない。風は去らない。おねがいだ。おねがいだから、とぼくは乞う。息があがる。汗がにじむ。思考回路がアスファルトに落ちてこまかく割れる。破片になる。シーツを握りしめる。食いしばった歯が小刻みにふるえる。目をぎゅっと瞑る。耳をふさぐ。言葉が断片的に、降りおちてきた。
「どうしたコウト」
 突然、ぼくを匿っていたものがなくなった。布団がなくなり、耳を塞いでつよく怯えているぼくの姿が部屋にあらわになる。父さんが立っていた。「大丈夫か?」心配そうな表情をしている。ぼくは粗い息をもらして、しばらくなにも喋れなかった。けれど、身を馳せりつづけていた震えはとまっていた。「どうしたんだコウト、嫌な夢でもみていたのか?」ぼくはうつろな目を開いて、「……風」と言った。「風?」と父さんは訊きかえした。
「風が、――強風が吹き荒れているんだ」
 父さんは窓へと目をやった。「強風なんて吹いていないぞ? 雨は降っていたけどな」ぼくはふさいでいた耳から手を離し、父さんへ視線をうつした。それから窓の方をみた。たしかに窓には止んだあとの雨の痕跡があった。雲が溶けてうっすらと青がみえ、たどたどしく日差しが綱渡りをしていた。切らしていた息がようやく落ち着き、ぼくは額の汗をぬぐった。それでもぼくの身から恐怖心は剥がれずにあった。父さんはとても不安そうにぼくの顔色を窺って、「大丈夫か」と訊ねてきた。ぼくはぎこちなく肯き、笑みをつくろうとした。しかし、うまく笑みをほどこすことがぼくにはできなかった。あげた口角がひきつり、無理やり曲げた瞳にはまだおぼろげな強風の余韻がふくまれていた。雨になぶられたあとの街は、とめどなく嫌な湿りをかかずらっていた。
 父さんはぼくに温かなココアを淹れてくれた。白いマグカップに注がれた色の濃いココアからはあまい香りと尖りのない湯気がはらを膨らませてのぼっていた。ぼくはそれを両手でつかみ、すこしずつ口に含んだ。とても甘く、ぼくにこびりついていた恐怖心にとけてやさしく口を去っていった。オーブントースターが高い音をならす。ぼくはココアをのみながら、焼きあがったものを待った。父さんはオーブントースターからトーストを皿にすべらし、ぼくの方へと持ってきた。はこばれてきたトーストは絶妙な焼き加減をこなしていて、表面にぬり伸ばされているものはシーチキンマヨネーズだった。「いまもう一枚焼くからな」と父さんはあらたにシーチキンがすわったトーストを蓋の開いたままのオーブントースターに入れた。そして蓋をしめ、また焼きはじめた。「出来たら自分で皿においてくれ。父さんはもういかなくちゃならない」そう告げて父さんはそそくさと家をでていった。ぼくはトーストを齧りながら、「いってらっしゃい」と言った。それから二枚目のトーストもたいらげ、皿とマグカップをシンクに置いた。そしてぼくも出かける用意をした。
 外をでると、雨から見放された街がかわきつつあった。空には青がうけもつ面積がひろまっており、こまかく分担された白い雲とシミみたいな灰色の雲がおよいでいた。かよわい風がはびこっている。ぼくは黒い九分丈パンツにグレーのタートルネックを着ていた。チェスターコートのボタンをしめ、また商店街のあるほうへと向かった。もういちどあの階段をのぼろう、とぼくは思った。やはりあそこに彼女がいるような気がするからだ。しだいに歩幅をはやめていった。あるく速度がはやくなる。足音をたてる。速度をあげていく。やっぱりだ。ぼくとおなじ速度で足音をならす奴がいたのだ。ぼくがつくった足音にぴったりと別の足音が重ねられていた。それは後ろからする。ぼくはとっさに足をとめ、あたりを見渡した。近くにいるはずだ。ぼくはくまなく辺りに目をやる。どこだ、どこにいる。ぼくは何度もみわたす。鞄を肩にかけてあるく婦女、犬の散歩をする青年、はしゃぐ子供、誰だ。どこにいる。どこを見ようと、視線の主はぼくから乖離せずにいた。それなのにぼくに目をくばる人気などどこにも見当たらない。あやかられた足音は、重なったまま停止している。ぼくは深く息をすった。それを充分にはきだして、ゆっくり目を閉じた。
 何者かがぼくに駆けだしてきたのは、その時だった。

 突如とぼくとの距離を詰めてくる透明な足音は、みるみる明確なものとなっていった。ぼくに近づいてくる。ぼくの鼓膜がその成長していく足音をとらえる。一気に迫ってくる、そうぼくは感受してその足音から逃げることにした。体勢をかがめて、つよく地を蹴った。にわかに走りだしたぼくに、その場にいた何人かがぼくに目をやった。ぼくは下唇を噛み、あのながい階段へと駆ける。一致していた足音はすでにバラバラになり、ぼくは姿もわからない何者かから必死で逃げていた。アーケード商店街の出入り口をよこぎる。建物のあいだをくぐりぬけ、階段をみつける。ためらいなく階段に足をかけ、ぼくはそこを上がる。ぼくを追っている足音も、すぐに階段に足をかけた。手すりをつかんで、屈折された箇所をなるべく動きをすくなくして曲がる。脹脛がつよく張る。いきなり走りだしたことで身体がまだ状況に追いついていないのだ。けれど逃げなければいけない。速度を落とすわけにはいかない。何者かとの距離が、どんどん短縮されていく。呼吸がみだれ、息切れがはげしくなっていく。動悸がつよく波打っている。それなのに思考だけが昂ぶっていく。逃げなければいけない、という恐怖が前のめりでぼくに命令している。走りながら何度もうしろを振りかえる。あらい呼吸が音をたてて心臓をたたいてくる。わきの腹にとがった痛みが刻まれる。喉の奥が重くなってじんわりと血液の味が絡まってくる。汲々と口内がかわいていく。手がふらつき、踏みこむ足が頼りなくなっていく。汗が吹きだし、前髪がはりつく。急激にたかまる体温がタートルネックのなかで窮屈になる。階段をのぼりきり、最後の段でつんのめりそうになる。そのまま速度が緩慢になってしまいそうになる。奴もすぐそばまで追いついている。階段をあがり終えようとしているところだ。まずい、ぼくは緩まっていた足をたたいてまた走りだす。全力で逃げろ、ぼくの脳漿が訴えかけてくる忠告に「わかってる」と怒りながらうなずいた。走りながら唾をのみこんでしまう。体内のはたらきがまた狂い、その代償が足へと寄こされる。だめだ、追いつかれる。ぼくはついあきらめの意思をもらしてしまいそうになる。間隔がきゅうげきに磨耗されていく。息が詰まってひどく咳きこむ。体重が前へと圧してきて、おもわず倒れそうになる。すぐ背後から、彼の影がぼくの影とかさなっていた。
 ぼくがしたたかに前面から倒れたのは、フローリング床のうえだった。誰かがぼくの手首をつかんで引っ張りあげていて、爪先がくぼんだ箇所につまずいた。にぶい音がなり、ぼくは額を床に強打した。すぐに手をおしあて、しばらく痛みにもだえた。なんだか、急に視界が暗くなった気がした。ドアが勢いよく閉まる音がした。すこし落ち着き、目をひらくとそこはどこかの室内だった。白くて外に丸みをおびた天井でまわっているシーリングファンがみえた。倒れたまま前をみてみると、大きな窓がひらいていて屈託なく風が入りこんでいる。カーテンが左右でゆらめいていて、ぼくに手を振っている。外からの日光だけがその室内では明りとなっていた。光が充ちていない箇所はうすい陰となっている。ぼくは床に手をついて、起きあがる。手首にはまだ誰かにつかまれた感触がのこっている。「大丈夫?」と聞いたことのある声がした。「え」ぼくはそこに振りむく。ぼくが探していた、彼女がいた。
「あ、あの……」
「大丈夫よ。もう追いかけていた人はいないわ」
 ぼくはそっと胸をなで下ろした。どうにか助かったのだ。「ありがとう」とぼくは彼女に礼をいった。彼女は「いいのよ」とゆっくり首を横にふり、屈んでぼくに視線を合わせてきた。「もう大丈夫よ。安心して」そう言うと、彼女はまた立ちあがって台所へと向かった。台所のまえにソファがあり、ガラスのテーブルが置いてあった。開いた窓のところに枕がむけられたベッドがあり、向かいに本棚があった。ぼくがつまずいた箇所へと目をやると、そこは玄関とフローリングをへだてる境目だった。横には下駄箱がしつられている。花瓶が置かれており、なかで花がこくりと肩を寄せていた。知らない花だ。胎児の指くらいの大きさをした白い花弁がうつむくように咲いている。「スノードロップ」と彼女がいった。
「え」
「その花の名前よ」
「スノー、ドロップ」ぼくはその名をいった。聞いたことのない名前だ。足元をみつめて垂れ下がったしろい花弁はまるで寂寥に閉じかけた瞼のようだった。うつろな肌をして、花瓶の縁に寄りかかっている。「……綺麗ですね」とぼくは言った。
 そうでしょ、と彼女はいいながらガラステーブルにコーヒーカップを置いた。皿にはちいさいスプーンが添えられ、となりにミルクと砂糖スティックが詰まった入れものが置かれた。「い、いただきます」とぼくは苦い口調でいった。ぼくはコーヒーがあまり好きではないのだ。彼女は自分用にもコーヒーを淹れてもってきた。そしてソファではなく、床に腰をおろした。ぼくと視点を合わせてくれたのだ。「もしかして、私を探していたのかしら」彼女はたずねた。こくり、とぼくは目をそらしてうなずいた。「そう」と彼女はいって、コーヒーカップの縁を唇にはさんだ。それからひと口、コーヒーをのんでからぼくに言った。「私のことはコハクと呼んで」コハク? とぼくはたずねかえした。それから淹れられたコーヒーの扁平な水面に顔をうつした。そう、と彼女はちいさくうなずく。「コハクと呼んで」それが私の名前だから、とコハクさんは言った。ぼくは承知して、「コハクさん」と名を呼んだ。
「なに?」
「あの、さっきもですが、助けてくれて、ありがとうございます」
 コハクさんはコーヒーをまた一口ふくみ、それをゆっくりのんだ。揃えられた唇がまた結ばれ、ぼくに目をやった。「あなたの帰りを待っていてくれた人はいたかしら?」
「はい、」とぼくは返事した。父さんの姿が浮かんだ。「待っていてくれました。ぼくを」
「そう」と彼女は言った。「ならよかったわね」
 はい、とぼくはまた同じ返事をした。すこし沈黙ができた。コハクさんはコーヒーを啜って、解放されている窓をみた。「さっき、雨が降っていたわ」そう、ですね。ぼくは窓を眺めているコハクさんの横顔をみていた。うすい茶色の髪からひっそりと覗いた形のいい鼻、カップにそえた艶のあるちいさな唇、すらりと反ったながい睫毛、すべてに無頓着な大きな瞳、そしてぼくの髪の毛のように白い肌に、ぼくはおもわず見惚れていた。「コウトくん、雨ってなぜ降るかわかる?」
 わかりません、とぼくは答えた。雨が降る理由について、ぼくはいろいろと思案してみた。雲ができるから――いや、彼女が言おうとしていることはそういうことではないだろう。ぼくは雨が降りしきる街の想像をしてみた。そして言った。「わかりません」
「伝えようとしているのよ」
「何を、ですか?」
「何かをよ。雨はなにかを言っているのよ。あなたにも、私にも。そして伝えたら帰るの」
「何処に、ですか?」
「何処かによ。きっとあなたが知っている場所よ」  
 そう言うとコハクさんはまたコーヒーを口につけた。「あなたの怖いものは何?」「怖いもの、ですか?」そう、と彼女はうなずいた。ぼくは自身が恐怖をいだいているものを考えてみた。ぼくの恐れているもの……。
ぼくは言った。「霧、です。深い霧。それと季節です。ぼくの前にある、季節。それと……風です」
「霧、季節、風」とコハクさんは言葉をテーブルに並べるように言った。コハクさんはまたコーヒーをすこし呑んで、霧や季節や風のことを考えているようだった。カーテンと踊りながら送られてきた風はぼくを通りこして壁にはねかえり、大きく渦をまく。風を追いかけて入りこんできた光が揺れる。スノードロップの花がちいさく首を振る。部屋は風をもてあまし、退屈そうな空の青に話しかける。「あなたはそれらから逃げているのね?」はい、とぼくは小さくうなずいた。ぼくは逃げている。霧から、季節から、風から。そう、とコハクさんは言った。「別に逃げることが悪いことではないわ。前へ向くために必要ななにかをあなたはまだ見つけていないだけなの。だから逃げても構わない。逃げれば、なにか見つかるかもしれないもの」
「見つからないかもしれない」とぼくは弱音をはく。
「見つからないわけないじゃない」とコハクさんはやはり単調な音のながれのまま言った。「人は必ずなにか欠落しているの。歩いているうちに、ポケットからぽろぽろとこぼしていってしまうの。あなたはその落したものを探しに、ここに来たのよ。歩いてきた道をもどるみたいに」
 ぼくは黙っていた。コウトくん、とコハクさんがぼくの名を呼んだ。
「あなたは、「分裂」している」
「……分裂?」とぼくは訊きかえした。なにが「分裂」しているのだ、と思った。コハクさんはぼくが「分裂」していると言った。ぼくにはその「分裂」の意味がわからなかった。「分裂」という言葉を、ぼくは理解できそうにないと思った。まるで見当もつかなかったのだ。
「あなたは今、「分裂」しているのよ。ぱっくりとね。目隠しされて周りの声だけを頼りにして、ようやく振りかぶった棒が西瓜をたたいて二つに割れる。その片方があなたなの。それも綺麗に割れたわけじゃない。桃太郎の絵本みたいに綺麗な断面をみせるような切断ではない。棒で叩いたの。その力任せにふりきったことで二つになったの。とても歪に」
「それが今のぼくということですか」
「そう、その片方が今のあなた。それだけよ。あなたはとても歪に割れた。ひき裂かれた境目はとても出鱈目な形をして、噛み千切ったあとみたいになっている。だからそれにピッタリ合致するのは一つしかないのよ。もう片方の、おなじように出鱈目な割れかたをした方。それ以外はどれもしっくりこないものばかりよ。うまく補えない。つまり、そういうことなのよ。私にはあなたに必要最低限のことしかできないわ。逃げこんできた場所の、逃げこめる場所を提供させたりするくらいしか。私からはこれくらいしか言えないわ。だって私はすべてを知らないもの。あなたが「分裂」しているということしか知らない。だからこれだけしか正確なことは言えない。ヒントを出すこともできない。だからコウトくん、自分自身でやりなさい。これはあなた自身の物語よ。断片的に散ってしまった瓦礫を、あなたの歩みで紡いでいくの。縫合させるの。下手くそで構わない。不器用でかまわない。あなたの物語に、計算されたプロットや伏線なんてなくていいの」私もあなたと同じなのよ、と彼女は言った。
「わからないよ」とぼくは言った。
「雨に耳をたてなさい。耳を欹てなさい。雨はなにかを言っている」

 ぼくはコハクさんの家から外にでたあとも、自身の「分裂」について慮っていた。力任せに切断された、ぼくの大儀的なものが含まれた半分――。大儀的なもの――。わからない、ぼくが呟く言葉はそれだけだった。わからない。コハクさんは雨に訊ねろと言った。ぼくは「雨」について思考をめぐらせてみた。雨が降りてきたときは、まだぼくは眠っていた。風がつよく吹き乱れ、朝を殴っていることに恐怖して溺れていた。ぼくは降っていた雨をしらないのだ。空は雨がいた頃の思い出をわすれて、ただ慣れ親しんだしろい雲を貼っている。もう雨のことは憶えていない。ぼくは帰ることにした。コートの襟をととのえ、まだ履けていない靴を履く。帰る方向へと足をむけ、歩きだす。
 そこで、あの視線が再びまたたいた。後ろからする。コハクさんの家にいたときは感じなかった。外にでた途端にこれだ。視線をおくる主はまだ消滅していなかったのだ。消えず、じっとぼくの背後にいた。足音もする。けれど、先ほどのように近づいてくる気配はない。ひとまずぼくは安堵した。それから仕方なく歩きはじめた。建物がながれていく。視界のとおくに昨日みた、花が溢れかえっている場所をみつけた。ぼくは自然とすこしだけ早足になり、そこへと向かった。群れている色彩が、ぼくを手招きしていた。ついぼくは頬を綻ばしてしまう。しだいに近づいていき、ぼくは足取りをすこし遅くする。そして花たちの群集を正面からながめた。花たちがもたらした薫りや空気が、ぼくにはひとつの祭りに思えた。石畳の階段がつらなっている。豊富な数の花たちがそれを騒がしくはさんでいた。ほんのすこしの間、ぼくは道徳を手のひらから落としてしまっていた。気がつくと、片足を階段にのせてしまっていたのだ。すぐに気がつき、ぼくは躊躇した。けれど花々が手をさしのべてくるようで、ぼくは階段から足をひきずりもどすことができなかった。階段のさきから、奇妙に色づいた煙みたいな花たちの香りがさかのぼってくる。空気をうばい、争いながらぼくへおびただしい薫りを渡してくるのだ。無断でこの階段をのぼってしまっていいのだろうか、逡巡がありながらも、ぼくは階段をのぼりはじめてしまっていた。階段をのぼり終えると、庭につながっていた。地は芝生で、うめつくすように花たちが広々と集められている。庭の面積はひろかった。すこし進むと、ピンク色の花がうかんだ池がみえ、池のむかい側には赤い屋根をした一軒家があった。ここが住居だということを確信する。やっぱり、とぼくは悪い予感が的中した。すぐに歩いてきた道を戻ろうとした。そのとき、池に浮かんでいたピンク色の花のなかの一輪が、ゆっくりと手をのばして開花していくのが目に入った。思わずぼくは足をとめ、それをじっと見つめてしまう。まだ他の花たちは閉じたままだ。口を噤み、ひたすら黙っている。そのなかでたった一輪だけ、そっとぼくに語りかけてくるようだった。それは本当にゆっくりとした動作だった。固く抱き合っていた花びらの一枚いちまいを、それぞれの輪郭に合わせてナイフで切り裂いて、独立させていく。ようやく背を倒しはじめた花びらのひとつは青空をあおぎ、まだ世界を怪訝している仲間たちに「大丈夫だよ」と呼びかける。その声を聞いてまた一枚、花びらがよこたわっていく。夜を育てていく空に肌をさらし、無知のままだった空気をたくさんに吸う。ゆっくりと、ゆっくりと、空からこぼれた光に身をささげていくのだ。足元に敷いたまるい葉に、ひらいた花びらは影をおとす。花は無邪気に、光をほころびの隙間からもらしていった。ぼくはその花をみつめていた。おなじ種類の花は、まわりにもうかんでいるのに、開いたものはあの一輪だけだった。あの一輪だけが世界を知り、しずかに世界と会話していた。いや、あるいは他の花たちはとうの昔に世界を知っているのかもしれない。あの一輪だけが他のみんなより遅れた出世なのかもしれない、とぼくは思った。たとえそうであっても、あの一輪の花はたのしそうに、しあわせそうに、うれしそうに笑っていた。すると涙が、ぼくの頬を伝った気がした。
「エリカ、アネモネ、クロッカス、赤いオダマキ、ホオズキ、薊、マツムシソウ、黄色い水仙、牛蒡、黒いチューリップ、勿忘草、スターチス、ヒガンバナ、それと――蓮の花」
「え?」
 女の子の声がした。その声がなにを言っているのか、ぼくは最初わからなかった。まるで示された文章をそのまま声にだして読んでいるかのようだったのだ。彼女が淡々とぼくになげてきた言葉のそれは、どうやら花の名前だった。そして、最後に「蓮の花」と言ったのが聴こえた。ぼくは声がした方へ振りむいた。そこには紅い髪のショートカットをした――ぼくと同じくらいの年齢だと思う――ピンク色のワンピースを着た女の子がたっていた。風が吹き、女の子のその紅い髪の毛をゆらす。分けて右目をかくしていた前髪もゆれて、ふたつの瞳が見える。ワンピーススカートの裾が波をえがき、色素のうすい足の太ももをまたたかせる。風が去る。女の子のショートカットの髪がもどる。前髪がまた右目を隠す。ワンピーススカートの裾も落ちつき、足はまた膝より下だけしかみえなくなる。「あ、……の」とぼくは声をだそうとする。なにか言わなければいけない気がした。
「あなたから見えたの」
「え?」
「それだけの花が見えたの」
「いま、君が言っていった花の名前かい?」
 「そう」と彼女は言って、ひだり側の髪を耳にかけた。夕刻が近づいてくる気配がした。ぼくは彼女を知らないし、彼女もぼくなんて知らないと思うけれど、ぼくは何故かこの女の子になつかしさに似た感情をおぼえた。「蓮の花」と彼女はいった。ぼくは「蓮の花?」と鸚鵡返しにたずねた。蓮の花……。
「今あなたが見ていた花よ」
「え」ぼくは振りかえり、水面にうかんだピンク色の花に目をやった。まだ花は大輪の艶姿を空にさらし、一滴たらして滲んだような夕刻を不思議そうにながめていた。「この花が?」そう、と彼女はうなずいた。蓮の花、とぼくはその花をみつめて呟いた。遅れて世界をしった蓮の花はまだ空をあおぎ、感じたことのない壮大な昂ぶりの感情のなかにいた。けれど、やはり孤独だった。仲間は眠っている。自分だけが、ひらいて孤独だった。女の子がまた口をひらいた。「名前」ぼくは彼女へと視線をもどした。「あなたの名前はなに?」
 コウト、とぼくは名乗った。コウト、と彼女はぼくの名前をくりかえした。「コウト、コウト」そう、とぼくは肯く。おぼえたわ、と彼女はいって「わたしはハナミ」と名乗った。ハナミ、とぼくは彼女の名前をくりかえした。「素敵な名前だね」「ありがとう」と彼女は礼をのべてから、「ハナミの呼び捨てでいいわ。年も同じくらいだと思うし。それにわたし、堅苦しいのが嫌なの。ちゃん、付けもあまり」ぼくは承知して、また蓮の花に踵をかえした。
「でも不思議ね」とハナミもぼくの隣にやってきて蓮の花をながめた。そして言った。
「なにが不思議なの?」
「本来、蓮の花は朝はやい頃に咲くの。あれはまだ新しいわね。二日目くらいかしら。ほんとうなら、午前の七時くらいに満開になって、昼ごろには完全に閉じている。なのに、どうしてかしら。今はもう夕方が目の前にいるくらいの時間なのに。それもあの一輪だけ。他はぜんぶ正常なのに」
「昼ごろには閉じる、ってそんなにすぐ閉じるの?」
「うん、とてもはかない花なのよ。蓮の花って。寿命はせいぜい四日ね。とても短いわ。一週間もたないもの。一日目は六時くらいには開花して、二日目から徐々に遅れていくの。そして四日目には閉じることなく、花びらが散っていくの。でもそれでも幸せそうに、生涯に悔いなんて無さそうに去っていくわ。すばらしい四日間だった、って。そう笑いながら泣いて死んでいくわ。わたしはそれを見ていると、なんだか胸が苦しくなるの。散っていく花びらが水面におちるの。時間というのは無情よ。なにも言わない。なにも感じない。なにも思わない。わたしは季節というものが嫌いなの。時間が着々と進んでいることを告げてくるから。季節はわたしを生き急がせる。焦らす。促そうとしてくる。だから嫌い」
 ぼくは思わず口をひらいたまま黙ってしまった。視界にうつしているのは蓮の花ではなくなり、ハナミとなっていた。紅い髪をして、前髪で右目をかくしているショートカットの女の子、ピンク色のワンピースを着ている、女の子。ぼくは驚きを隠せなかった。彼女のその前髪のように、この感情をたくみに隠すことはできなかったのだ。ぼくは唇を結ぶことができなくなっていた。なぜなら、彼女は――ハナミは――まるでぼくと同じことを思っていたからだ。
「ぼくと、同じだ」とぼくは声をもらした。「え?」とハナミはぼくの方をむき、訊ねてきた。「なにが同じなの?」
「ぼくと、同じことを君は思っているんだ」
「どういうこと?」
「ぼくも、季節というものに嫌悪しているんだ。いま、目の前にまた次の季節があるんだ。ぼくの前に。ぼくはその季節から逃げてきたんだ。此処に。その季節がこわくて、ぼくにはその季節と向きあう勇気がなかった。目をつむって、耳を塞いでしまったんだ。身体をまるめて、塞いでいても聴こえてしまう音をかき消すように叫んでいるんだ。「あああああああああっ」って。喉が枯れようと、血を吐いても叫ばなきゃぼくがぼくで居られなくなる感じがするんだ。でも季節は死なない。ぼくの前で、ずっとぼくを見つめてくるんだ」
 ハナミの声が消えた。ぼくはハナミの方へゆっくり顔を上げてみると、ハナミはぎこちない笑みを、浮かばせていた。涙まじりの瞳をひっしに曲げて、なにかをごまかすように笑っていた。つたない笑い声をこぼしながら、ずっとぼくを見つめていた。「まるでわたしと一緒ね」そう言った。
「似ているんだ。ぼくたちは」
「そうね」とハナミは言った。「似ているわ」
 ぼくはすこしはにかんで足元に咲いていた花をみた。紫色の花だった。ほそい花びらが円になり、中心と先端だけ紫色がにじんでいて、紫のにじんでいない箇所は白色だった。「蓮華草」とハナミはその花の名をおしえてくれた。ぼくは蓮華草の花に目をおとして、そのまま視線を池へとたどらせた。一輪の蓮の花は、まだ咲いている。空がハナミの髪の色をあやかりはじめた。「また明日も、来ていいかな?」とぼくは確認をとった。「もっと花をみたいんだ。それと君とも話したい」「もちろんよ」とハナミは承諾してくれた。そして、つぎは完成された微笑みをみせてくれた。ぼくも笑って、石畳の階段をおりていった。帰ろう、夜がくるまえに。雨が降りだすまえに。

ボク4

 夜が街にいすわってからも、雨の足音がまた聴こえてくることはなかった。ボクは君の部屋のベッドに身を及ばせ、眠ることにした。窓からは真夜中のもの寂しい音につけたすようにキジバトがひくい声で鳴き、自動車が道路をはしりさる音がした。あとは単純な夜の呼吸音と、カーテンの隙間でながれては消えていく雲がこの夜をみたしていた。シーツがすれる生活音がいちじるしく聴こえ、雨がいなくなったこの街でしずかに朝を育んでいった。ボクは目をつむり、眠りで耳が聾されることを待った。ゆっくりと睡眠がボクのなかに波及していって、まだわずかにある意識の滓を磨耗していった。カーテンをしのいで部屋に入りこんできた青い光は、月の抜け殻がこしらえたものだった。そんな光は部屋の壁にもたれていた本棚をほそく切りとってその色に染めた。ボクはほのかに目をあけて、本棚にならべてある本をながめた。しかしよく見えなかった。ただひとつだけ、芥川龍之介という名前がみえた。それに限定して目を凝らすと、その本が『蜘蛛の糸』だということがわかった。蜘蛛の糸――、ボクは完全な眠りにはいるまで、芥川龍之介の『蜘蛛の糸』がどういう物語だったか思い出そうとした。たしか『蜘蛛の糸』にはある花が登場してきたはずだ。それはなんの花だっただろうか。ボクはその花を思いだそうとする。『蜘蛛の糸』、読んだことはある。簡単な話だったし、難しい話でもあった気がする。思い出すことができないまま、ボクはとうとう眠った。音が消え、見えるものが見えなくなった。

 ボクは小さな蜘蛛をみていた。蜘蛛はしなやかな糸を垂らしながら歩き、ボクの方へと近づいてきた。細くながい数多の足を器用につかいこなしている。蜘蛛はボクの足元へと近寄ってきて、いちどボクに目配りをしてくる。ボクは蜘蛛が垂らしてきた糸をなぞり、それが続いている方へと視線をむかわせた。するとそこには闇にかくされた君がたっていた。蜘蛛の糸の先端が君のめのまえにあるのに、君はその蜘蛛の糸に触れようとはしていなかった。まるでボクと君を繋ぐなにかを拒んでいるかのようだった。いや、そうなのだろう。君はまだボクを拒んでいる。まだしばらく離隔されたままだ。まだ君には、そこまでの感情が備わっていないのだろう。やれやれ、とボクは首を振り、蜘蛛に目をおとした。蜘蛛もボクを見上げてきた。すこし沈黙があり、それから「ふっ」とボクは苦笑した。もういちど、しげしげと君へ目をやると、君の足元にはなにかの花が咲いていた。とても小さい花が群集になって君の足元にはびこっていた。「ウシノシタクサ……」とボクはその花を知っていた。もういちどボクはやれやれと首を横に降り、それから「そうかい」とうなずいた。蜘蛛は消えていた。君も消えていた。ボクはまだ此処にいて、君もまだ其処にいるのだ。もうすこし時間を要する。まだ「明日」はこない。まだ「明日」は空っぽのままだ。いつまでも「今日」のまま。朝になろうが、昼になろうが、つぎの夜がこようが、「今日」のままだ。息を吐いて、最後に「やれやれ」と、つぶやいた。
 ふと思いだしたように意識がボクの目柱をたたき、ゆっくりと瞼をもちあげた。窓はまだ夜で、折りかえし地点をまわったくらいの時刻だった。キジバトの声はまだ街にしのんでいて、街灯の明りもさびしそうに並んでいる。ボクは先ほどの君のことを思った。君の足元にはウシノシタクサの花がよどんでいた。それともうひとつ、咲いている花があった。「蓮の花」とボクはその名を言った。彼の足元でひらいていた蓮の花は手をひろげ、わずかな余生を天にささげていた。それから『蜘蛛の糸』のことを思い出した。ベッドから起き、本棚にならべられた小説のなかから『蜘蛛の糸』を抜きだす。そしてベッドに戻り、照明をつけてゆっくりそれを夜とともに読みはじめることにした。

ぼく 5

 雨だった。ぼくはコハクさんの話を思い出して、じっと窓から雨をみつめていた。父さんが家をでてしばらく経過してから、その雨は雲にふくまれてそのまま落っこちてきた。窓の表面に雨がしたたり、するりと滑っていく。地に生えていた雑草は雨を絡めとり、ゆっくり慎重そうに抱きかかえた。空は白濁としている。ぼくはネイビーのパーカーとジーンズという格好で壁によりかかって、とても静かなこの部屋に鳴りつづける雨の声に耳をすませていた。雨はいろいろな場所へ落ちる。雨はいろいろな場所を濡らす。雨はなにかを言っているわ、とコハクさんは言った。なにを言っている? ぼくは降りしきっている雨にたずねた。けれどぼくの問いは静寂のなかを挙動不審にただようだけで、やがて雨音の奥へと消えていった。コハクさんもこの雨を眺めているのだろうか、とぼくは思い、あの部屋の開放された窓から雨をみつめるコハクさんの姿を想像した。コハクさんの表情にはやはり色がなくて、音がない。ガラスのテーブルにはコーヒーカップが置かれて、花瓶にはスノードロップの花が飾られているだろう。スノードロップの花はじっとうつむいたまま雨の軽やかなはずみ音を聴いている。それからぼくは一輪だけ開花していた蓮の花のことを思いだした。蓮の花もまた口を噤み、雨を拒んでいるはずだ。雨を招きいれる池はたゆたい、また膝を折って身体をまるめた蓮たちの肩をゆすっている。ひとしきりぼくは想像し、深く息をした。また窓をみる。雨はまだやむ兆しをみせないでいる。ぼくは寄りかかっていた背中を壁から離して、窓へとちかづいた。ぼくは窓ガラス越しに、前をみているのだと、この現状を把握した。ぼくの視界の前では雨がふりしきっていて、雨の向こうでは、君がいるのだと。
 君は傘もささずに遠くからぼくを見つめている。雨はぼくと君との間隔をみたし、交わさない会話の代役を自身からにじみださせる音にまかせた。ぼくも君をみていた。君は無口で、なにも言わないけれど、ぼくになにかを呼びかけているのは確かだった。君はぼくになにか唆そうとしているのだ。けれどぼくはそれに対してかぶりを振るう。ぼくは君を信じられない。君のほうへと歩こうとは思えない。雨に濡れることを、ぼくは忌憚する。忌憚する。夢でみた少年はまだ夕暮れのなかにいる。ぼくもかもしれないと思った。

 雨が帰ったことを鳥が知らせると、ぼくはコートをはおってようやく外にでた。雨がたちさった直後の街は、まだどこか匂いが曖昧な意思をのこしていた。ぼくはきょくりょくそれを嗅がないようにと注意して歩いた。どこへ行こう。おりていく階段のすみで、雨の屍がなずんでいる。のぞきこむと、白い髪をしたぼくの顔がうつる。さらに背景に晴れはじめた空をみせ、空は正午の敷居をまたいだことをつげる。鳥が鳴き、わらう。雲が割れ、きえる。どこへ行こう。ぼくは一人歩きする花々のかおりを思いだす。おびただしい芳香ははり巡らされたロープをたどっている。ぼくはピンク色のワンピースをきた女の子を思いうかべて、そこへ行こうときめた。ハナミがいるところへ。ぼくは足取りをすこしはやめ、あのながい階段へと足をかけた。しかいの先で列車がはしった。きしみ音は波紋し、階段をいささか震わした。靴底からつたわった振動は無視して、ぼくはハナミのいる花につつまれた赤い屋根の家をめざした。うしろからの視線はもちろんあった。離れることはない。けれど昨日の暴走から、なぜか妙に視線の主張がよわまっている気がした。以前よりも、すこし視線が遠ざかっている。ぼくは安堵すると共に、怪訝の感情もおぼえた。とりあえず、今は気にしないことにする。
 やがておびただしい花の群れがみえてくる。ぼくは歩幅をひろげ、そこへ向かう。そして花にかこまれながら、石畳の階段をのぼった。花が這いよる庭がみえ、しげる草陰からあかい屋根をした家がうかがえた。ぼくは草花に身をかくしつつ、覗いてハナミの姿をさがす。ハナミは庭にいなかった。庭にはまだ雨の余白が湿っており、花はさきほどの雨を名残惜しそうに空をみつめていた。昨日ハナミからおしえてもらった蓮華草の花も、雨を忘れられずに空をみていた。けれど空はすでに雨のことなど忘れていた。ぼくは草陰から身をのりだして、視界をひろげた。あかい屋根の家のドアがみえる。玄関のドアのまえには扇状の形をした石畳がしつらえられ、それ以外はどこも草や花、木々となっていた。ハナミの姿はみえない。どうやら室内にいるらしい。ぼくは息をはき、立ちあがって元きた道をもどることにした。振り返る。
「お前さんなにしてんや」
 老人がいた。すぐには喋れなかった。それからゆっくりとした流れで「へ」という声が洩れた。へ、口からこぼれ落ちたその声がなんどか脳内でつづいた。そしてようやく輪郭のある声を吐いた。「え!」
「お前さんなにしてんや」
「え!」
「お前さんなにしてんや」
「え!」
 これが幾度かくりかえされた。ぼくは右をみて、左をみた。「え!」なにも言えず、それしかこぼれなかった。誰だ。ぼくは辺りをなんども見渡し、視界をぐるぐると回した。高速でながれる視界には白髪頭の老人がかならず入りこみ、「お前さんなにしてんや」という声は老人がうつらなくても聴こえた。「まあ落ち着けや」「え!」「お前さんなにしてんや」「え!」「もうええわそれ」「え!」「なにしに来たんや」「え!」「ハナミの友達か?」「え!」「話にならんな」「え!」「……なにをしているの?」「……え?」
 振り向くとハナミがいた。「ハナミの知り合いか?」と老人がハナミにたずね、「そうよ」とハナミが答えた。ぼくは「え」のかたちで口を開いたまま、ハナミと老人を交互にみた。老人の頭髪はしろくて薄くなっていて、まるい縁をした眼鏡をかけていた。「なんや、ならそう言わんかい」老人はそうぼくに言って、家のなかへと帰っていった。ハナミはクスクスと笑い、ぼくに「待っていたわ」と言った。ぼくは赤くなり、「おじいちゃん?」とたずねた。「そうよ。おじいちゃん。わたしと二人で暮らしているの。この家に」「そうなんだ」こっちにきて、とハナミがぼくを手招きした。ハナミについていくと、家の外壁によりそったベンチがあり、そこにすわった。ぼくも隣にすわり、そこから一望できる花々をながめた。まっすぐ先に蓮がうかんだ池があり、さらに遠くにたちならぶ建物らがみえた。頬をひっぱられた太陽が浮かんでおり、ぼくらに光を配ってくる。まだこびりついている雨の残滓を、その光は浄化させる。
「両親は?」ぼくは訊ねた。
「いないの」とハナミは答える。ごめん、とぼくが謝るといいのよ、と返してきた。ぼくは何だか申し訳ない気がした。けれどハナミは気にしないような顔でいた。「あなたの知っている花はなに?」とハナミは訊いてきた。「スノードロップ」ぼくはいろいろな花を思い出し(とはいっても花への知識はとぼしいが)、そこからひとつ選んでそう答えた。「スノードロップ」、ハナミはその花の名前をくりかえした。「……いい花ね」「うん」
「スノードロップ。希望、慰め……ね」
「え」
「花言葉よ。花にはそれぞれ言葉があるの。桜なら純潔や、優れた美人。コスモスなら謙虚、乙女の真心。それも色ごとに花言葉が変わっていくの。桜とかも、種類ごとに花言葉がかわったりするのよ。なんだか、素敵だと思わないかしら?」
「素敵だ」とぼくは言った。「でも、覚え切れないな」
「そうね。一つの花にたくさんの花言葉がついているものもあるわ。それに……」
「それに?」
「すべてがいい意味の花言葉、ではないの」
「不吉な言葉も、あるということ?」
「ええ、不吉な言葉と良い意味の言葉、両方をもっている花もたくさんあるわ。人間とおなじで、世界ともおなじよ。いい意味もあれば、悪い意味もある。そして、悪い意味のほうが大きな力をもっている」
「そのとおりだ」とぼくは言った。そのとおりだった。良い意味か悪い意味、どちらが強いかと問われれば悪い意味のほうが確実に巨大な力をもっているのだ。ぼくは過去をおもいだし、そのとおりだともういちど強くうなずいた。
 「でも、それが百パーセント悪い意味だと決めつけるのはよくない」と彼女はみじかい沈黙を挿んでいった。ぼくは「どういうこと?」とハナミにたずねかえした。ハナミは池にうかんだ蓮を眺めながら、また口をひらいた。「悪い意味にきこえるだけで、それがはたして本当に悪い意味かなんてわからないじゃない。ときにはそういうこともあるのよ。悪が善にかわる、とまではいかなくても、「悪が悪じゃなくなる」ということは。喧嘩をしたとしても、一方的に相手を悪にするのは間違っているように。自分にも、悪かった部分があるんじゃないか、いちど振りかえるの。完全に決別した善悪なんて、滅多にないわ」そんなこと、母親とかよく言うでしょ? とハナミは苦笑しながら付け足した。けれどハナミには両親がいないのだ。笑えばいいのか、ぼくはすこし迷った。結局、笑わないことにした。
 「よくわからない」、とぼくは言った。「難しい」ぼくはその言葉を選んでいった。そう、とハナミは言ってから、「わたしの話なんてわからなくても生きていけるわ。あくまで今のは、わたしがした話であって、世界が告げた言葉ではないから。わたしは別に特別じゃない。弱い人間よ」といった。
「でも、ぼくよりは大人だ」とぼくは言った。「ぼくはそんな自論を述べるどころか、考えることもできないよ。すくなくとも、ぼくより君のほうが強い。ぼくは弱いんだ。すぐ逃げてしまう。その逃げた先で嫌なことがあれば、そこからも逃げるんだ。ぼくは離れていくことしかできない。自分に自信はないし、信用もできない。からといって、人に指図されても動けないんだ。泣いて、嘆いて、逃げることしかできない。だらしなくて、とぼしくて、弱いだけのぼくなんだ。君は強いよ」
「わたしが、強い?」とハナミはたずねた。
「君は強い」とぼくはうなずいて言った。
「私が強いわけ、ないじゃない。ごまかしているだけ、ごまかしているだけなの。自分を騙そうと、もがいている。わたしが強いはずないじゃない。わたしは弱いわ。とても弱い。あなたと一緒よ。言ったじゃない? わたしたちは似ているの」
 蓮はひらかない。雨上がりの午後をたずさえた空から、蓮はいつまでも身を閉じている。「わたしたちは、朝を待っているの」と、ハナミは呟いた。ぼくは彼女のつぶやきに「うん」と相槌をうった。「ぼくらは朝を待っている」蓮の花みたいに、そう彼女は言った。「うん」それにも相槌をうつ。「蓮の花みたいに」蓮はひらかない。ひらかないということは、まだ散らない。悪い意味が悪い意味じゃなくなる。そう彼女が教えてくれた。「ねえ」「ん?」
「蓮の花というのは、足元の泥水が濃ければ濃いほど綺麗な大輪をさかすの。吸いこむ水が汚ければ汚いほど、蓮はその可憐なうつくしさを発揮できるの。それはもうひどく汚い水ならそれだけいいわ。透明なんて言葉すらも透明にしてしまうくらいの、とても汚い泥がふくまれた水。その泥を蓮はいただくの。ありがたく、その泥を貰うの。むしゃくしゃとその泥を食べていくの。そして、昨日みたような大輪の解放されたうつくしい艶姿を晒す。そういうことから、お釈迦さまの台座につかわれているものも、蓮の花なのよ」
「たしかに」とぼくは言った。「言われてみればそうだったかもしれない。でも、どうして蓮の花なの? 泥水が濃ければ濃いほど綺麗に咲く、というのがなにか関係あるの?」  
「比喩」とハナミは言った。「喩えよ。メタファー、というものね」
「メタファー、……?」
「ええ、お釈迦さまは蓮の花を人に喩えたの。泥があればあるだけ綺麗に咲くというところで、お釈迦さまは「泥」を、人の「苦しみ」や「迷い」というものに喩えたの」
「苦しみ、迷い……」
「苦しみや迷い、それを「泥」として比喩した。その泥が濃ければ濃いほどに、綺麗な花をさかすという蓮の花の特徴を、人としてあらわしたの。ここからはまたわたしの見解だけれど、人にいちばん必要なのは、苦悩することだと思うの。苦しむことで、人は成長する。さっきも言ったけれど、わたしたちは「苦しむ」ことを悪い意味として捉えてしまいがちなの。それは悪だと、決めつけるの。自分にとって、マイナスなことだと。その時点から、間違っているのよ。喧嘩した相手を百パーセント悪役にするのとおなじになってしまう。苦しむことで、得るものもある」
「失うものもあるかもしれない」とぼくは言った。
「そしたらまた失ったことで新しい苦しみが生まれる。それでいいじゃない。なにもかも、繰り返されていくの。必ず終りがくる、なんて嘘よ。終らないものもある。苦しむことに限らず、いろいろなことを繰りかえして生きていくの。わたしも、あなたも、まだ蕾なのよ。蕾のままで、まだ開いていない。泥を吸っている過程のなかなのよ」
 深い霧。ぼくの脳に、それが浮かんだ。ぼくはまだ深い霧のなかにいる。「苦しむことで、得るものもある」、ハナミが話したその言葉は、父さんがぼくに話した言葉とも似ていた。「逃げることで、得るものもある」。なるほど、とぼくは思った。なるほど。「……すごいな。ハナミは」
「すごくないわよ」ハナミはそう答えて、すこし笑った。ぼくも無理やり笑ってみた。けれど、笑えなかった。「そろそろ帰るよ」とぼくは言って、ベンチから腰を浮かした。そう、とハナミは言って、立ち上がった。ぼくは最後に池にならぶ数多の蓮たちをながめた。蓮たちはどれも身を閉じている。自身に蓋をして、まだ外を覗こうとはしていない。朝を待っているのだ。わたしたちは似ているの、ぼくはハナミがくれたその言葉に、かぶりを振った。「またね」、とハナミが手を振っていた。ぼくも手を振りかえして、石畳の階段をおりていった。それから両脇にしげっている花たちに、「さよなら」という言葉を置いた。似ていないよ、ぼくたちは。ハナミは「泥」を受けいれていて、「泥」と向き合っている。けれど、ぼくはどうだろう?
 ぼくは自身の「泥」を――深い霧を――拒んでいるのだ。

ボク 5

 『蜘蛛の糸』は、五ページほどの短編小説だ。たった五ページほどの小説なのに、ボクは甚だしく時間を、その五ページに消費した。くりかえして、ボクは『蜘蛛の糸』を読んだ。ひとしきり夢中になって『蜘蛛の糸』を読んでいると、活字をてらしていた照明スタンドのひかりが淡くなっていることに気づいて、窓に目をやると、深かったはずの藍色がただれて朝が訪れていた。ボクは『蜘蛛の糸』の小説を棚にしまい、君の部屋をでた。リビングにはいって、キッチンで水を何杯かのんだ。水を喉にながしこみながら、ボクは君が『蜘蛛の糸』を読んでどんな解釈をしたか、推測してみた。あのひとりの男の物語を目でおってみて、君はどんなことを考えただろう。地獄でもがき苦しむ主人公をみて、君はなにを思っただろう。隙間から糸をたれおとすお釈迦さまを知って、君はどう慮るだろう。ボクにはわかった。けれど、君自身はわからないだろう。君の思ったことをわかるのはボクであって、君ではない。君自身が気づくには、まだ時が満ちていない。ボクは飲干したグラスをシンクに置いた。ソファにすわり、テレビを点けると、ニュース番組がやっていた。左端にしるされた時間は、まだ午前六時をこえたあたりだということを告げている。まだすこし元気のない男のニュースキャスターが原稿をよんでいた。庭のウッドデッキにつながる窓からは、数羽の鳥が朝をつついていた。きのうの雨はもう帰ってこなくて、街よりもずっと遠くで勤しんでいるだろう。静かだ。テレビからこぼれてくるわずかな音量と、朝を旋回する鳥のこえくらいしか、音とよべる音がない。車も走っていない。ボクは、ひっそりとした君の街から、別の街のことを想像した。その街は建物であふれているけれど、君のしるような建物のあふれかたではなくて、全体的に木造的で、それであって機械的で、けれど電線などは巡っていない街だ。そこには様々な人がいて、様々な花がある。そんな街を、ボクは思った。そして、そこで笑う君をそうぞうする。
 しばらくして、母さんが二階の階段からおりてくる足音がする。リビングに入ってくる。「あら、もう起きていたの」と母さんはボクを見つけていって、「コーヒー、のむ?」とたずねてきた。もちろん、とボクはテレビから目をはなしてうなずき、それからまた街のことを思った。ふと、テーブルに置かれていたハサミが、目にはいった。ステンレスのハサミだった。刃渡りの容姿はまだ若く、あたらしい物だということがわかる。ボクはそのハサミを手にとってみる。刃にボクの顔がうつる。ボクのものではない、黒い髪……。ボクのものではない、透明な瞳……。ボクはハサミの刃にうつるボクと、見つめあう。なにかを君は言っている。このハサミは、君のものだ。君は逃亡をはかったとき、このハサミをもっていくのを忘れてしまったのだ。置き去りにされたハサミは、ボクが触れるまでうごかない。ボクが触れるまで、忘れられていた。このハサミがないと、君は断ちきれない。君を拘束してくる縄を、断ちきれない。

ぼく 6

 蓮の花が開花しだす頃に、ぼくは目をさました。ベッドから起きあがり、額にはびこっていた汗を手の甲でぬぐった。いやな湿潤が部屋によこたわっていた。よこたわっているというより、茂っていた。まだ外は暗く、けれどほのかな青が壁から目だけをだして覗いていた。なにか、とても陰鬱な夢をみた気がする。けれどもう忘れてしまった。どんな夢だったか、もう一片の痕跡すらのこらず忘れてしまった。ぼくは頬をいちど強くたたき、また窓のそとへ目をやった。
 次に訪れてきたのは悲しみだった。悲しみはぬぐいきれなかった汗で濡れ、すぐに乾いた。乾いたあとは、なにもない悲しみとなった。ハナミの顔がうかび、悲しみはまた濡れた。でもすぐ乾いて、ながれた涙でまた濡れた。ぼくはその悲しみを握りしめ、からまっていた前髪を手ですいた。無作為にとった服にきがえ、家からでた。「逃げよう」。「逃げよう」、と。「逃げよう」と、ぼくは思った。父さんはまだ寝ている。ほんのすこしずつ、青みを増していく夜がコハクさんの家のほうまでつらなっている。ぼくは涙をこらえて、おもい歩みで地を踏んだ。
「逃げて、どこに行くんだい?」
 君がそう訊ねてきたから、ぼくは言った。知らない、そんなこと知るわけなだろう。「まだ逃げるのかい?」そうさ、まだ逃げるのさ。君がなんといおうと、ぼくは逃げる。此処じゃダメなんだ、そう思ったから。だから逃げるんだよ。簡単なことだろう? 「まだ逃げる場所はあるのかい?」知らないよ、でもあるに決まっている。逃げればいいじゃないか。逃げることの、なにが悪い。父さんも言っていたじゃないか。逃げればいい、って。じゃあ好きなだけ逃げるさ。正しいじゃないか。間違っていること、ぼくは言っているか? 「父さんはそういう意味で言ったんじゃない」うるさい。「君はあの話の意味を理解していないんだ」うるさい! 「君はもう逃げ尽くしたんだ。そろそろ、前を向かないといけない」黙れ! 「そろそろ君は――」
 「うるさい!」ぼくは君をはらって、力いっぱいに走りだした。うるさいんだよ! 黙ってろよ! ぼくのなにを知っているんだよお前は! 消えろよ! 消えろよ! ぼくの前から消えろ! ぼくの前からさっさと「消えろよぉ!」ぼくはやみくもに走った。君の声は聴こえなくなった。夜はまだなずんでいて、朝の気配を途中のままいっこうに窺わせなかった。ぼくは息をひとつずつ塊にしてはいた。ハナミのうしろ姿が思いうかんだ。ピンク色のワンピースが風にこだまするように揺れ、そのまえには深く染みこんでいった夕焼けがよどんでいた。ハナミは前をみつめていた。夕焼けの声に耳をかたむける蓮たちも、身をつつしませながらも前をみつめている。ぼくは自暴的に街じゅうをかけ、不細工な息をもらしていった。なんどもつんのめり、ふざけた体勢のままでも走るのをやめなかった。つまずくたびに、自分が嫌になった。君はいなくなった。君の存在が消失したかわりに、より鋭利な加減がつよまったものがあった。ぼくは苛立ちからいちど思いきり地面をけった。邪魔だ、邪魔だ、邪魔だ、邪魔だ、ぼくは髪を掻きみだして乱暴に泣いた。ぼくの情けない声が涙をまじらせて作られつつある朝にひびいた。あの視線だった。何者かの視線が、また大儀的に存在をしゅちょうしてきたのだ。ハサミのようなもので、それらをぶつり、とにぶい音をたてながら切り離したいと思った。滅法に切断し、そこから噴きでる血を無抵抗にあびたいと思った。
 それからもぼくは走りつづけた。あのときのようなひどい疲れは感じなかった。ぼくはこの意識がすりきれて無くなってしまうくらいに疾走していたのだ。なにもかもから逃げたくなった。疲れを忘れるほどの意識が、この足をたたきつけてきていたのだ。ぎしぎしと軋み音をこぼしながらも瓶に凝縮されていた息が、ついに放出されてぼくはひどく噎せた。太ももに手をつけ、足元に目をおとしておさまるまで息を洩らした。殺していた息が一気にのけぞり落ちてきて、とどまっていた体温が足をとめたことをきっかけに大きく熱をひろげた。ひとしきり息をはき、ぼくは視線のまえにあるものをみつめた。ドアだった。ぼくはドアのまえに立っていた。朝はまだローブをはおって顔をかくしていた。ぼくはそのドアをノックしようと右手をあげた。手の甲をドアの面にそえ、かるく振ろうとした。けれどドアが開かれることに、ぼくのノックの必要はいらなかった。うつくしい琥珀色の髪がちらちらとみえた。ぼくがノックしなくても、コハクさんはドアから出てきたのだ。

 コハクさんはなにも言わずに、ぼくにコーヒーを差しだしてくれた。ぼくは「……ありがとうございます」とちいさく礼をのべて、苦手だけれどそれに口をつけた。しかたなく口に含んだコーヒーはやはり苦手な味をしていた。でも喉に流しこんだ。喉が渇いていたのだ。コーヒーは熱が底であつまっていて、身体をわたりきる頃にはじんわりとした温かみが充ちていた。ぼくはコーヒーカップを皿にもどし、もういちどふかく息をした。コハクさんはなにも言わずに窓のほうをみつめていた。閉まっていた窓からはローブのフードをとって、すこしだけ顔をみせてくれた朝がいた。空の黒ずみがゆっくりと後退していき、まだ熟さない未完全な群青の前兆がおびられていった。「朝がくるわ」、とようやくコハクさんは述べた。ぼくは黙っていた。「どうして、ここに逃げてきたの?」コハクさんはそんなぼくを無視して、訊ねてきた。
「逃げたかったんです。ここじゃない気がしたから。でもどこへ逃げればいいかわからなかったから、コハクさんなら何か教えてくれるかなと思って……。「前」みたいに」
 そう、とコハクさんは言った。「その「前」のときに言ったはずよ? 私はあれ以上のことをあなたには言えないの。自分自身で行動しなさい、と私はたしかに言ったわ。もうなにも私からは正確なことは言えないわよ。あなたの物語で私がとうじょうする出番はもうおわったの。終了したのよ。そのほかに、なにを話せっていうのよ」
「ぼくは……」ぼくはコハクさんの言葉の意味をわからないふりをした。「ぼくは、どこへ逃げればいいですか? どこへ向かえばいいですか? 別に逃げることが悪いことじゃない、逃げても構わない、とあなたは言ってくれました。だから、逃げようと思っているんです。どうやら、ぼくが求めている場所はここじゃないみたいなんです」
「いいえ、此処よ」とコハクさんは窓のほうをみつめたまま言った。「あなたが逃げるのに最適な場所はこの街よ。此処で合っているわ。そして、もうあなたが逃げる場所はないわよ。逃げても構わない、逃げることが悪いことじゃない、たしかにそう私は言ったわ。けれど、あなたに「とにかく逃げなさい」とは言っていないわ。前を向けるようになるために、一歩下がってみることも悪くない、ということを言っただけで」
「一歩だけじゃ前へ向けなかったんです。もう一歩、ぼくは下がる必要があると思ったんです。自分はそれが正しいという判断になったんです。父さんはぼくに言ってくれました。「自分が思ったことが正解だ」と。「自分の解釈が正解だ」と。だからぼくは自分で考えて、自分であみだしたんです。まだ、逃げなくちゃ。そう思ったんです」
「あなたって馬鹿ね」とコハクさんは言った。コーヒーカップをテーブルに置いた。え、とぼくは声を洩らした。「あなたのそれは自分なりの「答え」じゃなくて、ただの「開き直り」よ」
 そう言われるとぼくは無口になった。それは否めなかった。確かにそのとおりだったのだ。コハクさんは窓から目を離し、ぼくのほうへと顔をむけ、そして話しはじめた。
「コウト君。あなた本人も、もう気づいているんじゃないかしら。わかっているんでしょう? コウト君。あなたはこの状況に甘えている。前へ向こうとしていないの。そろそろ前を向かなきゃいけないときよ。もう、逃げるところなんてないの。どこにも今のあなたを歓迎する街なんてないわ。ねえコウト君、自分の足元をみてみなさい。あなたの足元にはなにがある? 歩いてきた道があり、歩いてきた靴があるはずよ。後ろに振りかえってみなさい。あなたの後ろ、それは「過去」よ。あなたが背を向けたそれらはすべて、コウト君自身の「過去」になったの。踏みしめて歩き、そして残してきた足跡がそこにはつらなっているはずよ。その足跡一つひとつを見てみなさい。その一歩ずつに、いろいろなものが生まれているでしょう? さまざまな感情が生まれ、さまざまな景色、さまざまな言葉などが。その一歩ずつに詰まっているでしょう。それらを思い出しなさい。それらはどれも、あなた自身が作りだしたものなのよ。あなたが一人で、一人で紡いでいったものなのよ。すべては思い出さなくていい。すべてを思い出すことは難しいわ。けれど、すべてを忘れるはずないでしょう? あなただけが知るそれらを、あなたすら忘れてしまうはずないでしょう? 忘れながら、思い出しながら生きなさい、コウト君。そこには幸福な思い出もあるでしょう? 自分が好きだといえるものがあるでしょう? 自分にとって誇れるものがあるでしょう? 思い出しなさい。もちろん、それが悪いものだったとしても。すべてのものは「過去」から生まれるの。目をつむりたくなる自身への嫌悪も、耳をふさぎたくなる陰鬱な記憶も。それらも思い出しなさい。そして、向き合いなさい。そして、前をみなさい。あなたが今、見えているもの。視界にはいるそれらすべては、あなたの「未来」よ。あなたの「未来」はもう、見えているの。「未来」が見えないわけ無いじゃない。そむけないで。見るの、見つめるの。そして、足を踏みだすのよ。そこに足跡をつけるの。足跡をつけると、そこはその瞬間から「過去」になり、自身への経験や思い出となって培われるもののなかに紛れていくの。そういう風に生きなさい。「過去」から――「未来」から――逃げないで。自分の嫌な部分も、嫌な傷も、ちゃんと見つめなさい。足跡からうまれてきた苦しみや悲しみ、悩みなども全部見つめなさい」コハクさんはぼくを見つめたまま、コーヒーを一口のみ、一旦はさんだ沈黙をすぐにはらってあたらしい言葉をぼくにわたした。
「自由を得るためには、それまでの自由を捨てなければいけない」
 コハクさんの瞳にうつるぼくはどんな顔をしているのだろう。ぼくはコハクさんの瞳にうつるぼくの顔をみることはできなかった。ぼくはなにも話すことはできなかった。ただ、重ねた唇がふるえていた。それがつまり涙をこらえている、ということに気づいたのはすぐだった。ぼくは窓ガラスから雨をみつめていたことを思いだす。窓ガラスの外でふりしきる雨のずっと奥に、君がたっていたことを思いだす。それからハナミが話してくれた、蓮の花のことを思いだす。蓮の花は泥みずが濃ければ濃いほど、大輪のうつくしい花びらをみせてくれるのだ。ぼくはそんな「泥」からはばかっていて、ハナミはそんな「泥」と向き合っている。そのことにぼくは劣等感をかんじ、また逃げようとしてしまうのだ。けれどこの街は、そんなぼくすらも匿ってくれる。だらしなく、怠惰で、弱いだけのぼくですらも。ぼくは、泣いていた。大きな声をあげて、ぼくは泣いていた。コハクさんはなにも言わず、ぼくの頭をなでてくれた。ぼくはそんな彼女の優しさを、素直にうれしいと思った。その一瞬だけ、「分裂」して欠陥していたところが満たされたような気になった。けれど、暫定的に満たしてくれたその優しさは、やはり一瞬のものにしかすぎなかった。涙がながれ尽きたあとも、ぼくは弱いままだったのだ。
 それでも前に向くことは、できなかったのだ。

 ぼくがコハクさんの家をでた頃には、すでに夜は終っていた。うつりかわった朝ですらも、その豊満な光たちはこぼれおちることに厭きてしまっているかのようだった。もうすぐ、街は昼になろうとしていたのだ。朝がうけもつ光の配分量がこかつするまで、それは残りわずかなものだということが理解できた。ぼくは涙ではれてしまった瞼を指でふれて気にし、人から顔をみられないようにしようと努めていた。遠くにあの花々の群集がみえたけれど、ぼくは寄ろうとはしなかった。ハナミとぼくは、似ていない。ハナミとぼくとは、違うのだ。ぼくは花々に背をむけて、父さんの家のほうへと体勢をむけた。
 ところで先ほどから、ひどく胸騒ぎがしていた。神経をかきむしるように動悸が胸をきざみこみ、ぼくはなにもしていないのに息切れをおこしていた。なにもしていないのに汗が垂れ、なにもしていないのに恐怖心が暗澹な建物となって、ぼくを陰のなかへと落としていた。ぼくにはその状況が理解できなかった。なぜぼくは今、息切れをしているのだろう。なぜぼくは今、汗をかいているのだろう。視界が、みょうに剣呑さを佩びていくのがわかる。歯がガタガタと震えはじめ、なぜかわからないままぼくはうごめきだす自身の膝を両手でおさえつけた。なんなのだ、これは。ぼくはぼくをおそう謎の恐怖心について、いろいろと考察してみた。もしかするとこれは、ぼくの自意識過剰ななにかが作りあげた幻覚や幻聴にちかいものじゃないだろうか。なにも根拠はないけれど、ぼくはそんな憶測をおいてみた。そうとらえることで、何者かの視線のことも説明つくような気がしたのだ。けれど、それがどうしても正解だとは思えなかった。仮にそうだったとして、どういうことからの自意識過剰なのかわからなかったからだ。あくせくとそんなことを思想している間に、気がつけば膝の震えはとてもつよいものとなっていた。ぼくに覆いかぶさる恐怖心は、一秒ごとくらいに重みを増しはじめ、ついにその正体をつかめた頃には、もう事態がおそいということに気がついていた。――気づかなかった。
 それは足音が。
  ぼくを追いかける何者かの足音が。
   そのとき、ぼくのすぐそばで止まったのだ。
 まず、ナイフが見えた。そして、それだけでぼくは混乱に陥った。絞りだされたような残滓の日差しをかくじつに拾い、にぶく光ったナイフはそのまま弧をえがくように、ぼくの方へとふりおとされた。ぼくは発せられる直前にころされた音のない悲鳴をもらし、その軌跡から間一髪でのがれた。しかしすぐにナイフの主(視線の主)は体勢をもどし、鋭利な先端をぼくにむけてきた。ぼくは身体をひねろうとしたがバランスがとれず、焦りからおもわずつんのめった。次にナイフに目をむけたころにはすでに刃はぼくの右のわき腹の寸前までやってきていた。まるで切り離された糸みたいに、そこでぼくは途切れた。

ボク 6

 その日もやがて染みだす茜色に、ボクは家をでた。君の持っている服はどれもボクにぴったりだった。ボクはなにの予定もないけれど、外に出たくなったのだ。君の街にたいする興味もある。電線に足をのせた何羽かのカラスがボクをみつけるやすぐにたかい声で鳴き、背中をさしてきた夕日に影がひっぱられていた。公園であそぶ子供たちの声が、あわく聴こえてきた。住宅地をぬけると、坂道がある。ボクはその坂道をくだり、商店街のほうへと向かった。商店街には、いろいろな店舗が両脇にならんでいて、人の声がいききしている。コロッケを頬張るちいさな男の子や、母親と手をつないであるく女の子、やさしく見守るおばさん。ボクはまだくだり終えていない坂道の途中から、その光景を俯瞰した。自分の頬にほころびがうかんだ気がした。また歩きはじめるころには、ボクが外出した理由がわかった。どうやらボクは、ある場所へと向かおうとしていた。
 ボクが向かおうとしていた場所はすぐに到着した。商店街をぬければ、すぐにみつかった。夕焼けがうしろめたそうに照らしたそれは、学校だった。ボクは真正面にたって、その校門をみつめた。それからゆっくり、息をはいた。のみこんだ唾が痛かった。その痛みを知りたくて、ぼくは唾をのんだのだ。心拍が誇張されていくのがわかった。風に蹴られた砂のような雲が、静謐がつみかさなった夕焼けのまえを横断している。あの雲の切れ目がゆっくりとさけていって、「分裂」されるまえに、ボクは足を踏みだした。
 校舎にはいると、まず下駄箱がならんでいた。ボクの背丈とおなじくらいの高さの下駄箱がいくつも、しつられていた。ボクはひとつ靴をひきずりだし、履いた。静かだ、とボクはおもった。階段をのぼると、廊下につながっていて、傍らのわきには教室がならんでいた。ボクはいくつかの教室のなかのひとつに入り、ぐるりと室内をみわたした。空が窓にうそぶいた夕日のわずかな子供は、室内をみたす机や椅子のうえをすべりよっていた。ボクは教室にならぶそれらを、ゆっくりと歩きながら触れていった。机のうえに散らかった消しゴムの滓を、ボクは指でこねくってみたりした。別にそのことに深い意味があるわけではないけれど。教室のなかは静寂がたれこめたあの夕日と同じようにただよっていて、かつての賑やかさは忘却されている。ボクは窓のすぐとなりにある机の椅子をひき、腰をおろした。振りまぶしてくる夕日が、ボクの黒い髪に染みこむ。肌にもしがみついてくる。黒板には、たった数時間前の思い出でたちどまったままだった。それまでの喧騒を、黒板だけがわすれられていなかった。ボクはただひとり、窓をみてかんがえる。夕日をおしつぶそうとする青は、みるみる溶解されていき、紫にちかい色へとなりはじめる。光から逃げるようにのびた机や椅子の影は、すべて廊下のほうへと首をかたむけている。机に指を二本しのばせて、トントンと爪先でつついてみる。それにも、深い意味はないけれど。
 君はいま、苦しんでいる。夕日がおしえてくれた。君とは、ボクのことだろう。そして、「君」のことでもある。夕焼けはなずむことなく身をすり減らしていく。すこしずつ暮れてゆく。そうだ、とボクは思い、そして言った。「ボクは苦しんでいる……「ぼく」は、苦しんでいるんだ」
「ああ」、と誰かが言った。誰かとは教卓のまえに立っていた。ボクはその誰かの顔が、うまく見えなかった。まだ、見えなかった。顔のわからない誰かはそのまま言いつづけた。「君たちは苦しんでいるんだ。でも、それは悪いことじゃない。わかるだろう? 君なら、わかるはずだ。あちらの「君」の帰りを待つ君なら。だから此処に――この場所に――きたのだろう?」
 ボクはうなずいた。
いや、と顔がわからない誰かは言葉をおとした。「もしかすると、あちらの「君」もそろそろ気づいているのかもしれないな。いや、少なくともなにか心の隙間に挟まっているはずだ。――いや、最初からあちらの「君」も気づいているのかもしれない。あちらの「君」にはまだ勇気がないだけだ。だから、開き直りをおぼえた。そうだろう?」
 ボクはまたうなずいた。
「……雨は、まだ降らないのか」顔のわからない誰かは窓のほうをながめて、言った。
「わからない」わからない、難しい。それらの言葉をボクは嫌いだ。けれど、ボクは「わからない」という言葉を選んでいった。
「もうじき降るさ」と誰かはこぼれおちた夕日ののこり滓を指でつまんだ。「もうじき降る。それは時間がそうしてくれるのかもしれない。――いや、時間がすべてじゃない。時間が解決してくれるものがこの世には殆どだが、それは時間が解決しているんじゃない。わかるかい? 時間に急かされた「自分」が解決するのさ。人は、感情が豊かだから物事を――季節を――なかなか即決できないのだ。だからなにも思わない、なにも言わない、なにも考えない無情の時間に頼るのさ。そういうものだよ」あちらの「君」には、まだそれが足りないだけだ。彼はそう述べた。
 ボクは黙っていた。
「なあに、もうすこしさ。あと、もうすこし。あちらの「君」も自分なりになにか考えているはずさ。――いや、もうそれはなにかしらの形となって有るかもしれない。もうすこし、待とう。雨は降る。時間が雨を降らしてくれる」いや、とまた彼は言った。「時間に急かされた「自分」が、雨をふらすだろう」
「けれど、彼は傘を差してしまうかもしれない」
「傘を差すかもしれない。そのとおりだ。なにせあちらの「君」は弱い。君とは違ってね。傘をさしてしまうか、雨宿りをしてしまうかもしれない。それならそれでいいじゃないか。大丈夫さ、心配することはない。弱いとは言っても、強いところだってあるはずさ。あちらの「君」も、所詮は君と一緒なんだ。ならば、強い人間だよ」
 ボクと一緒で、違う。ボクが強いのなら、君は弱い。顔のわからない誰かはそうボクに言ってくれた。雨は降る、とも言ってくれた。ボクは窓をみた。夜にそまりかける紫の空には、安もののウール布みたいなうすい雲がその色に肌をそめながら異形のままおよいでいた。

「もうひとつ、君に話そう」と彼はいった。
「どうぞ」とボクはかえした。
「君たちは苦しんでいる、と我輩は言ったね。そして、それが悪いことじゃない、とも言った。そう、苦しむことが悪いことじゃないんだ。むしろ、苦しまなければいけない。なぜ生きているのか、人生とは何なのか、その見解としても我輩はそう答えるだろう。「苦しむため」だと。苦しむために人は生きているのだ。君たちに伝えよう。喜びよりも、苦しみを選びなさい」
「喜びよりも、苦しみを選ぶ」
「ああそうだ。君たちはあたらしい自由を得ようとしている。そのためには苦しみなさい――いや、それまでの自由を捨てなさい。自由は自由を捨てて得るのだ。欲をだしてしまえば終わりだ。欲をだした途端、君たちを吊りあげていた糸は途切れる。ぷつん、と音をたててね。自由を捨てなさい。そうすれば蜘蛛は糸をたらしてくれる。甘えを出すな。そうすれば蜘蛛の糸はきれない。それに――」
 はっ、とした。気がつくと、ボクの周りにはおなじようにもがき苦しむ人たちの影がいたのだ。空白となっていた椅子にそれらは腰をおろし、机に身をはわせながらひっしに苦しみから耐えていた。教卓から誰かの姿はきえていて、ボクは机にしがみついてのたうち回る影たちのなかに紛れていた。うめき声があちこちから耳へと渉ってきた。ボクは混乱した。外はもう深い夜となり、影たちのもがきはさらに激しくなった。ボクはしばらく身動きがとれなかった。疾走する思想が、行動にうつすまでの過程までとどかなかったのだ。声が教室の壁ににじみ、ボクは耳をふさいでしまう。足ががたがたと震えはじめ、膝をなんども拳でたたきつけた。心臓がさけびだして、ボクは思わずはしりだしてしまった。教室からとびだし、涙をこらえて廊下をかけぬけた。まだボクは不十分だった。バランスをくずしながらも走ることはやめなかった。家に置いてきたハサミのことを思いだす。なぜボクはハサミを忘れてしまったのだ。自分を問い詰めようとする。離れていくことがわかる。離れていく。蜘蛛の糸から。だめだ、戻らなければ。けれど震える足は逃げようとしたままで、まだボクだけでは無理なのだと思いしった。
 君がいなければ、ボクも弱いままなのだ。ボクたちは「分裂」している。とても荒く、複雑に、出鱈目な裂かれかたをして「分裂」しているのだ。

ぼく 7

 ゆっくりと砂が降りそそがれてきた。ぼくの方へと落ちてくる。砂はそのままぼくにかぶってきて、そのままぼくを埋もれさせた。そしてぼくは目を醒ます。
 まず視界にみえたのは天井だった。木材でできていて、そこには温かさがあった。すこし首を曲げると、木の壁があった。壁はでこぼこした手触りで、ふくらんだ腹をつなげる境目はどこも窪んでいた。ぼくはベッドにいた。ベッドの足元のほうに窓があり、そこにはブラインドが掛かっていた。白いシーツが肌をなでてきて、ほのかに痒くなった。どうしてこんなに敏捷に痒さを感じたのだろう、と不思議におもって布団のなかをのぞいてみるとぼくは裸だった。下着とパンツは履いている。けれど上半身はまるで裸だった。なのに、腹のあたりだけ感触がちがう。もういちど布団をめくり自分のよこたわる身体を凝視してみると包帯が巻かれていた。包帯……。ぼくはどうして腹に包帯を巻いているのか思案してみた。どれくらいか測れない空白をはさんでしまったが、思いだせるかぎり記憶に手と足をすりよらして辿っていった。するとすぐに思い出せた。ぼくは何者かに刺されたのだ。ナイフで。ナイフの主は多分、ぼくに視線をおくってきていた奴だと思う。それは仮定だけれど――さらに根拠もないけれど――正解だとおもう。ぼくは身体をおこそうと企み、包帯がまかれた箇所の具合をたしかめながらゆっくり上半身をおこしていった。小さいではあるが、痛み――というよりは違和感があった。布団もしたがってめくりあがり、ぼくの上半身があらわとなる。刺された箇所は、右のわき腹だった。ぼくは右のわき腹をみてみると、その箇所だけすこし赤紫色のしみが滲んでいた。包帯をとりかえなければ、とぼくは思ったが、どうすることもできなかった。この場所がどこかわからなかったからである。どうしたものか。とりあえずぼくは時刻をたしかめようとした。時間が舌打ちするほうへ首をむけると時計があった。午後の四時をまわっている。もう夕方へと街はしたくをしているのだった。
 次にぼくはここがどこなのか推測する行為へとうつった。推測するとなっても、場所なんて限られている。父さんの家ではない。コハクさん、でも無いだろう。あとは一軒しかなかった。
「起きたのね」
 そのとき部屋のドアがひらいて、女の子の声がした。ぼくはドアのほうへ目をやると、紅い髪をした少女がいた。「ハナミ……」ハナミだった。「そうよ、わたしだけど」彼女はベッドのとなりに置いてあった椅子に腰をおろした。ならって紅いその髪が揺れた。右目をかくした前髪がたよりなく左右へ首をふった。ピンク色のワンピースが衣擦れの音をもらした。そして椅子のちいさな軋みが息をした。「もう大丈夫?」おかげさまで、とぼくは返事した。勝手にぼくは気まずさをおぼえていた。ぼくは昨日、もうハナミには会わないつもりで花に「さよなら」と言ったのだ。ハナミと自分を比較して、ぼくとは違うということを思い知らされたから。ぼくは彼女から逃げたのだ。それなのに、今ぼくは彼女の家のベッドにいる。この事実がすこし恥ずかしかった。「なにか呑む?」「なにもいらないよ……」そう、とハナミはちいさな言葉の粒をなげてから立ちあがった。ベッドのぼくの足元のほうへとまわり、紐をひいてブラインドを上げた。すると今までよりも色づいた光がハナミの紅い髪にふれてきた。「おじいちゃんがあなたを背負ってきたの」そうか、ぼくはあのおじいちゃんに背負ってこられたのか。ということは何者かに刺されたあと、ぼくはしばらくそのまま気絶して倒れていたということになる。「びっくりしたわ。急にあなたがシャツを真っ赤に染めてやってきたんだもの。何事かとおもったわ」ありがとう、とぼくは礼を言った。「おかげで助かったよ」ぼくは包帯ににじんだ血痕をながめた。
「血が滲んでいるじゃない。包帯をとりかえましょう」
「ありがとう」
 ハナミはあたらしい包帯をたずさえて、ぼくに近づいてきた。ベッドに片足をおよばせ、ぼくの身体に触れてきた。たまに彼女の横髪がはだかのぼくの肩をなでてきた。横にふりむけばすぐそこにハナミの顔がある。ハナミはぼくの腹に手をまわして、包帯のテープをとろうとしていた。妙に呼吸がみだれてしまう自分がいた。ぼくはいささか、緊張していた。ハナミは手馴れたように包帯をはずしていった。その間もしばらくぼくは息を殺して、ハナミがはなれるのを待っていた。「あら?」と彼女が声をもらした。それでぼくは詰め殺していた息が出鱈目にはきだされ、すこし噎せることとなった。すぐに落ち着いて、「どうしたの?」とたずねる。「傷が消えているの」とハナミは言った。「え?」
「傷が消えているのよ。血だけが滲んでいる」
「傷が消えている?」
 ぼくは自身の腹部に目をやった。ガーゼがとられてあらわになった傷口は、たしかに、修復されていた。まるで駅の外でみたおなじ容姿をしたぼくみたいに、刺されたということは嘘になっていた。そこには不自然な血のにじみだけが残っていた。「どういうことかしら」「ぼくにもわからないよ」しばらくぼくらは消失した傷をみつめていた。ためしに指先で触れてみたけれど、するどい痛みなどは感じなかった。ただ肌に付着したまわりの血痕がぼくに違和感をあたえていた。ハナミはタオルを濡らして絞り、血の跡をぬぐってくれた。そのやさしい手の仕草にぼくはまた緊張し、息を殺した。
「ありがとう」とぼくはもういちど礼を述べた。
「いいのよ。それよりなにか飲みましょう。わたしが何か飲みたい気分なの」
「わかったよ」
「あなたは今、どんな気分?」
「外に出たい。花を見たいんだ。蓮の花を」
「わかったわ。行きましょう」

 ぼくとハナミは庭のベンチに腰をおろし、また昨日とおなじ空の色と、また昨日とおなじ池の蓮をながめた。蓮の花はあたりまえだけれど、蕾のままだった。所々で花びらをうしなったものもあった。「あなたが来ていないときに、余命が尽きてしまったのがなん輪かあるの。悲しいわ。あれだけ美しいのに、四日間だけなんて」そうだね、とぼくは言いながら死んだものも含め、まだ身をつぐませている蓮たちをながめていた。池の水面は夕日をたくわえはじめた空をうつしている。
「おじいちゃんはどこにいるの?」
「買い物にいくと言っていたわ」
「お礼を言いたいな。助けてくれたんだ」
 そうね。ハナミは言った。まるで考え事をしていたら思わず言葉が声となってこぼれたような調子の声だった。気になって彼女のほうへ目をやると、ハナミはまばたきもせずに蓮の花を漠然とながめていた。「どうしたの?」とぼくは訊いた。具合が悪いのかい? そう訊ねるとはっとハナミの意識がもどった。「いいえ、なんでもないわ。すこし思い出しちゃったの。両親のことを」
「ハナミの両親は……」
 「ごめんなさい。あまり言いたくないの。でも言えるのは、わたしは母さんも父さんも大好きだったわ。とても大好きだった。それだけね」そう言うとまたハナミの瞳は光がぶれたようになった。ぼくはそれ以上、ハナミの両親のことについて言及することをやめた。しばらくまた蓮やその他の花たちをながめることに耽った。ほとんど名前なんて知らない花だけれど、ぼくにはそれで構わなかった。名前を知らなければいけないことなんて無いと思った。名前を知らなくても、美しいものは美しいし、感じるものは感じるのだ。なにかを話そう、とぼくは思った。
「ぼくには母さんしかいないんだ。父さんは知らない。だから母さんの話しかできないけれど、いいかな」
「ええ」とハナミはうなずいた。「ぜひ、聞かせて」
「うん……、母さんはいつもコーヒーをのんでいる人だった。暇さえあれば、必ずコーヒーメーカーからマグカップにコーヒーを注いで、砂糖もミルクも入れずにそれをのんでいた。本当にコーヒーが好きなんだ。日常の時間に隙間があれば、それをコーヒーで埋めるような人なんだ。けれどね、ぼくはコーヒーが苦手なんだ。なにが美味しいのかわからなかったけれど、なぜかコーヒーをのんでいる母さんをみていると落ち着いたりしたんだ。コーヒーは嫌いだけど、母さんの口から仄かにするコーヒーの香りは好きだった」
「コーヒー……」とハナミは呟いた。「いいわね。なんだか」
「そうかな」
「ねえコウトくん。コーヒーを呑みましょう。なんだか呑みたくなったわ」
「でもぼく、コーヒーが嫌い――」
「いいじゃない。わたしが呑みたいのよ。あなたと。蓮の花をながめながら。わたしが淹れるわ」
 そう言うと、ハナミはベンチから立ちあがって家のなかへとコーヒーを淹れにいった。そのあいだぼくは、母さんのことを思い出していた。母さんは、いま、なにをしているのだろう。ぼくのことを、どう思っているのだろう。コーヒーをすこしずつ口に含んでいく母さんの姿が、想像できた。あの家で、ダイニングテーブルの椅子に背をあずけて、わずかな音だけをこぼしながら、とても静かな空間でコーヒーをのむ母の姿が、ぼくの脳漿に克明にえがきうつされた。ぼくだけとなった庭には、夕方の色になじんだ風がしずかに街と孤独について語っていた。膝をだいて固まったままの蓮の肌が、ほんのすこしオレンジを佩びた。まるで痛いくらいの夕日が青の底を、ひっそりと覗きはじめた。うすくなった青空にまぶされたオレンジ色には、ねずみ色の雲もかざられている。夕日はぼくの肌をそめ、真っ白な髪すらもその色にしてしまう。いつもしていた視線の気配はきえていて、肩をくんで共にゆれる花と草たちが、まるでこの空をあおぐように。ぼくは、泣きたくなった。誰かに、抱きしめられたくなった。頭を、なでてもらいたかった。温もりから声をあげて泣いて、そして、屈託なく笑いたくなった。あのとき開花した一輪の蓮の花みたいに、ぼくは幸せそうに笑いたかった。
 前を見つめなさい。未来は見えないわけじゃない。コハクさんがしてくれたその話や、その言葉は、ぼくの窪みにかちりと嵌るものだと思った。かちり、と音をたててそれらは当てはまる。やさしくのばされた手の平が、ぼくの背中をそっと押してくれるみたいだ。ドアがひらき、ハナミがマグカップをふたつ持って庭にでてきたのはそのときだった。
「味の自信はないわ。でも、のんで」
「ありがとう」ぼくは彼女からマグカップをうけとり、夕日の色とまじわったコーヒーの水面をのぞいた。「いただくよ」
 ハナミもマグカップを片手にもって、ぼくのとなりに腰をおろした。マグカップからは夕日にほほえみかける丸い湯気がもれていた。蓮の花をながめながらぼくは、今朝みた夢のことをおもいだした。内容すらもさっぱりと忘れてしまった、一瞬にして古びたあの夢のことを。「……蜘蛛の糸」
「え?」とハナミはぼくの独り言を拾った。「どうしたの?」
「……思い出した。『蜘蛛の糸』だ。芥川龍之介の、『蜘蛛の糸』」
「『蜘蛛の糸』……?」
「そう、『蜘蛛の糸』。芥川龍之介の短編小説だよ。知っている?」
「ごめんなさい。わからないわ。芥川龍之介という小説家は知っているけれど。その『蜘蛛の糸』という作品はしらない」
「そうなんだ。いや、別にかまわないよ。その話にね、蓮の花が登場するんだ。それと、お釈迦さま。きのう君がぼくに蓮の花の比喩――たしかメタファーと言ったかな――の話をしてくれたときからずっと引っかかっていたんだ。どこか、その話とぼくの記憶がはさまるものがあったんだ。それをいま思い出したんだ。『蜘蛛の糸』だ」
 ぼくは、自分の部屋の本棚にしまった『蜘蛛の糸』の小説をおもいだした。たしか表紙は深いみどり色の背景に、あまたのしろい蜘蛛の巣がはられ、そのすきまで一匹の蜘蛛が垂れさがっているイラストだ。『蜘蛛の糸』をはじめて読んだのは、大分前だったとおもう。それまではあまり印象に残った作品ではなかったから、記憶も薄れていた。たしか、十ページもみたないとても短い話だったおぼえがある。「どんなお話なの? その『蜘蛛の糸』って」とハナミは訊ねてきた。ぼくは『蜘蛛の糸』の話を、できるかぎり思い出すことに努めた。再読もせずに本棚にしまったくらいに、思い入れがあまりない作品だったから、(ぼくは『蜘蛛の糸』を読んだとき、たしかあまり理解できていなかった気がする。ただ単純に、文章をなぞるようにだけ読んで、解釈もなにもかんじずに本を閉じたのだ)ところどころ忘れてしまった箇所もあるかもしれない。けれどぼくは、今になって『蜘蛛の糸』を思い出したのだ。そのことに意味があるのだと思い、訥々ながらにぼくは物語の説明をした。

「たしか『蜘蛛の糸』は……、極悪人の男――名前は忘れてしまった。変な名前だったことは覚えているけれど――が主人公の話なんだ。泥棒だったかは覚えていないけれど、その男は地獄にいるんだ。苦しんでいるんだよ。罰をうけてる。そんな男の苦しむ姿をね、空からお釈迦さまがながめているんだ。お釈迦さまは天国だかどこかも忘れたけれど、蓮の花がうかんだ池から、その男をながめていたんだ。そしてね、蜘蛛の糸をたらすんだよ。蓮の間から、するりとね。そして男はその蜘蛛の糸につかまり、引っ張りあげてもらおうとするんだ」
「そんな話だったのね。それで、その男はどうなったの?」
「詳しくは忘れてしまった。本当に曖昧なんだ。でも、たしか上れなかった気がする。たしか途中で糸が切れたんだ。どうしてだったかな」ぼくは砂を手の平ではらいながら、うもれてしまっている記憶をとりだそうとした。けれど、これ以上は思いだせなかった。
「そうなのね。知らなかったわ。芥川龍之介は知っていたのに」
「たしかそんな話だったとおもう。曖昧でごめん」
「いいのよ。――――でも、その話、なんだか今のわたしたちとも重ねられるんじゃないかしら」
「え」ぼくはハナミの顔をみた。「どういうこと?」
「詳しくは読んでいないからわからないけれど。でも、解釈のしかた次第ではわたしたちとも重ねられると思うわ。地獄でくるしんでいる男って、つまりわたしたちじゃないかしら。……ごめんなさい。でもそう思ったの」
「いや、そうかもしれない」とぼくはマグカップを両手でつつむように持ちながら言った。たしかに、そうかもしれない。「なら、お釈迦さまとは何だろう?」
「新しい季節」と、ハナミは言った。
 新しい季節。ぼくはハナミの言葉をゆっくり、唾を混じらせてのみこんだ。ハナミの言葉は、おしこめられた脈絡にしたがって流れていった。「なら、蜘蛛の糸とは、なんのことを言っているんだろう」ぼくは訊ねた。いや、すでにぼくは分かっていた。それはきっとハナミとおなじ回答なのだと思った。
 「蜘蛛の糸……そうね」ハナミはそう訊かれて、その回答を言った。その言葉をはいた。その言葉にぼくは「なるほど」と言えたし、釈然ともした。ぼくの窪みに、かちりと嵌った音がした。そして、それはぼくと同じ答えだった。
 ……コーヒー、とハナミはぼくの持つマグカップをみて呟いた。「飲まないの?」ぼくはあっと思ってすぐに「飲むよ、もちろん」と返した。けれどなかなか口元までマグカップを運ぶことができなかった。ぼくはふと、ハナミもコーヒーに手をつけていないことに気がついた。「ハナミは飲まないの?」そう訊ねるとハナミはすこし頬が赤くなり、ぼくから顔をそむけた。いささかの沈黙ができあがり、そしてすぐにハナミの苦笑がそれを壊した。「ごめんなさい。実はわたしもコーヒー苦手なのよね」
 ぼくたちは笑い合った。二人をつつむいまの空気は、とても温かいものだと感じた。夕暮れはじめた光がながれ、二人の空気をてらし、そっとこの街を色づけた。いつかハナミにおしえてもらった蓮華草の花が、ぼくらの間で揺れていた。池の蓮の花たちが開花しだすころに、また来るよとぼくらは約束してわかれた。おもわず洩れたぼくのほころびはオレンジ色になって、二人でかわした約束もオレンジ色だった。

ボク 7

 それからしばらく、ボクは説明できない恐怖心とともに過ごすこととなった。テーブルのうえにハサミを必ず置いてあるようにし、もう外へでることは無くなった。母さんが差し出してくれたコーヒーを飲むたびに、君はまだ帰ってこないのかと不安になった。顔のわからない誰かがボクにしてきたあの話を思いだして、はたしてそれは本当か? と疑ってしまうようになってしまった。君を信じることが、できなくなっていたのだ。なんどもテーブルに目をやる。ハサミが消えてしまっていそうで、心配になるのだ。紫色のあの日から、ボクはどうかしてしまっていた。ボクだけじゃ足りない、欠落している部分がどれだけ大儀的な役割をもっているのか、ということをあの日思い知らされたのだ。刻み込まれたのだ。夜になると、あの光景が脳にうかんできて震えた。ベッドにうずくまり、朝がおとずれるのをじっと待っていた。耳をそばたてれば、また聴こえてくるようだ。影たちがもがき苦しむ嘆息や、悲鳴が。時間がふりつもっていくたびに、夜をくりかえすたびに、ぼくは身体がぽろぽろと欠けていくような感覚がした。君の帰りを待つのが、ボクの使命だ。ボクは自分になんどもそう言い聞かせた。急かしてはいけない。焦燥してはいけないのだ、と。なんどもその言葉をくりかえした。布団のなかで、うずくまりながらでも、ボクはそう言いつづけた。そして何気なく窓をみるのだ。夜にカッターがするりと切れ目をいれて、そこから光が横列をつくって空を馳せりだす。その光に照らされるたびに、ボクはこれが何度目の朝焼けかかぞえることになるのだ。
 どれだけの夜だろうと、朝はかならず訪れるのだ。朝は必然なものなのだ。それなのに君は、朝がくるのかどうか不安になっている。時間が、朝焼けでもえて灰になっていく。未来が、すり減っていく。光がまぶしさを増す。ボクは自然と目をほそめることとなる。咳払いをして、舌打ちをこぼした。

 母さんはコーヒーが注がれたマグカップをダイニングテーブルにふたつ置いた。ボクは片方を手にとり、さっそく一口飲んだ。母さんはボクの向かいへと腰をおろし、じっとボクの目を見つめた。ボクは瞼をとじ、マグカップをテーブルにゆっくり置いた。
「行く、ってどこに行くの」
「行かなきゃならない場所に、だよ」ボクは舌打ちをこぼしそうになるのを堪える。
「それはどこなの」
「母さんの知らない場所だよ」
 母さんは会話をそこで中断させた。ハサミでぷつん、と糸を切るみたいに。マグカップの取っ手に指をまわして、マグカップの底がういたと同時くらいに、また母さんがボクに訊ねてきた。
「……そろそろ、教えてくれないかしら」
「教えたところで、母さんは「難しい」や「わからない」と言うんだ」また舌打ちをしそうになる。ボクは堪えた。
「ねえ、なにをそんなに焦っているの?」
 つぎはボクが会話を中断させた。荒々しく受話器をおいたみたいに。母さんがボクにした質問の隣には、沈黙しかなかった。母さんはコーヒーをすこし飲んだ。
「……ボクが母さんに教えるものなんて、なにもないよ」
「あるわよ。たくさんあるわ。あなたがこの家にきて、何日か経過したわ。けれど私はまだなにも「わからない」ままよ」
「だから話しただろう。「わからない」や「難しい」で片づけるから中途半端なままで終るんだ。ボクはそう話したはずだよ。答えなんてないんだ」
「ねえ教えて。あなたは、誰なの?」
 ボクは口を噤んだ。母さんはマグカップをそっとテーブルに置いて、ボクの目をじっと見つめてきた。ボクは口元をかくしていたマグカップを降ろし、母さんと同じようにテーブルに置いた。マグカップの底が単色なかわいた音をたてた。「……ボクは、ボクだよ」
「え」母さんは声をこぼした。
「ボクは、ボクなんだよ。一つになれなかったから、二つになった。その片方がボクだよ。その二つというのは、とても荒々しく切断されたんだ。無理やり噛み千切ったくらいに、出鱈目な避け方をしたんだ。だから、その二つはどちらも違うものでは補えない。どちらも正確に合致するものなんて一つしかないから。出鱈目な裂け方をしたものは、もう片方の出鱈目な避け方をしたやつじゃないと完成しないんだよ。だからボクはもう片方をつれもどす。ボクの半分がいる場所へ、いくんだ。いままでは待っているだけだった。そうすればいつか半分の方も帰ってくると思っていた。逃げることで大切なものに気づけて、前向きになれると思っていた。けれど、彼は弱いんだ。コウトという少年は、弱いんだ。その逃げこんだ場所でも、逃げることを止めないんだ。その状況に、甘えることにしてしまったんだ。それは、「勇気」を忘れてきたから。彼は逃げこむ際に、「勇気」というものを忘れてしまったんだ。だから甘えてしまう。大切なことにも気づけず、前向きにもなれない。すぐ開き直って、気に入らなければ逃げるんだ。そんな彼を待っていても、来ないとボクは思ったんだ。待っているだけじゃ駄目だ。だから、ボクの方から迎えに行かなくちゃ……。それがさらに苦しみになろうとしても。もがき苦しまなければいけなくても。それでも、こうするしか無いんだとボクは思った。だから、行かなくちゃいけない。――――母さん、お世話になったよ。母さんが淹れてくれたコーヒー、ボクはとても好きだ。けれど、深く味わうことはボクだけじゃできない。コーヒーを深く味わうことですら、片方だけじゃできないんだ。季節に立ち向かうことなんて、到底できない。もう、時間がない。母さん、あなたは前を見つめている。やがてくる季節に、向き合っている。でも、あなたが見つめているだけじゃ意味がないんだ。君がいないと……まるで意味がない」
 母さんは神妙な顔をして、ずっとボクの話に耳をかたむけていた。そしてボクがひとしきり話をし終えると、次はボクの顔のほうへと視線をたどらせ、北極星みたいに眼差しを固定した。すぅ、と息を吸って、吐くのと同時にボクに言った。「無理やり連れ戻そうと、しているのね。あなたは」
ボクはすぐ答えた。「そうだよ。無理やりにでも、強制にでも、ボクは彼を連れもどす」
「それで、うまくいくの?」
 ボクはコーヒーの水面をながめた。コーヒーの水面はゆれずに、琥珀色にそめたボクの顔をうつしていた。「わからない」と、ボクは言葉をはいた。「そんなの、わからないよ。でもね、母さん。「甘え」というのは連鎖していくんだ。放置していれば、するだけ増加していく。まるで髪の毛みたいに」そう言って真っ黒なボクの髪をみた。前髪が、目にかかる。
「あなたのその話を聞いて、私は「難しい」、とは言わないわ。「わからない」という言葉もつかわない。でも、言いたいことが一つだけあるの」
 ボクは音をペンチで潰したような極端な沈黙をつくりあげた。けれど母さんはその沈黙をボクの返事だとでも解釈するように、いまの言葉の続きをつなげた。
「コウトという少年は、決して弱くないわ。話を聞いていて思ったのは、あなたは強い人間だということ。あなたはもう半分の方がかかえている弱さなども認めているようにみえる。でもね、「弱い」という言葉だけでまとめるのはおかしいと思うわ。あなたが「難しい」や「わからない」という言葉でまとめるのは良くないと言っているのと同じよ。あちらの方にも、それなりの強さはある。すべてが「弱い」で片づけられるような子じゃない。「分裂」して、半分ずつになったけれど、片方ずつに弱さもあれば強さもあるはずなの。コウトという少年が――、弱い人間ではない、と私は言える。断言できる。……母親として、母親としてよ」
 顔のわからない誰かがした話を、ボクは思い出していた。舌打ちはもれなかった。「……そろそろ行くよ」ボクは椅子から立ちあがって、コーヒーを飲みほす。真夜中の街灯がてらした影みたいに真っ黒な髪をすこしだけ掻く。テーブルに置きっぱなしだったハサミを手にとり、ボクは玄関へと向かう。スニーカーを履く。ドアに手をかけ、ゆっくりと前へ押した。

 漂いだした雲が、グレーだということに気づいたのはすぐだった。ボクは歩いていた。霧を抜けようとしていた。夜の向こうを見ようとしてもがいていた。誰かが垂らしてきた蜘蛛の糸に、ボクはしがみついていた。ボクは歩いていた。ボクだけではこの霧は抜けられない。ボクだけじゃ夜の向こうは見ることはできない。ボクだけじゃ蜘蛛の糸は切れてしまう。ハサミはコートのポケットにある。空のグレーが強まっていく。ボクは向かった。君のところへ。ボクは向かった。駅のほうへと。雨が降りだした。

ぼく 8

 父さんは眠っている。障子に指で穴をあけて、そこから覗きこんできたような光が夜明けのまにまに浮かんでいた。まだ街は、二十八時をまわったばかりのような時間だ。布団をはらって起きあがると、ぼくはそれとなく腹の傷の箇所に目をやってみた。あれからも傷は開くことはなく、なにも異常はないままだ。なのに、血のシミは消えなかった。着替えたはずなのに、傷もないはずなのに、ぼくのTシャツには血がにじんでシミをつくっていた。その部分を触れてみるとシミはすでに乾ききっていて、生地とおなじ感触となっている。しかたなくぼくはTシャツを脱ぎ、あたらしいTシャツをとりだした。それからぼくは紙にハナミの家にいくということを記し、それをダイニングテーブルに置いた。そして父さんが起きないようなるべく足音を殺し、玄関をでた。なずむことなく着々と朝までの脈絡をたどっている夜明けを、空は街中にしらせている。さらに夜明けを急かすようにふいた風に背中をおされて、ぼくは早歩きした。ぼくは向かった。ハナミの家へと。ハナミはぼくを待っている。約束をしたから、待っている。ぼくはきのうの夕焼けの欠片を抱きかかえて、ハナミの家へむかった。
 
 束となって建物のあいまから押し寄せられた花たちが、ぼくの目に入りこむ。それをみてぼくはすこし笑みをこぼし、歩幅を急かした。青をほのめかしだした空を無視して咲きほこった花たちが、ハナミの方へとぼくを招いてくれる。ぼくは階段に足をかけ、庭へとむかう。庭との間隔がちぢんでいき、うっすらと庭にいる花たちの顔もみえてくる。やがて風が揺するピンクのスカートが目にはいる。夕暮れにとりのこされたような紅い髪が、まだくらい藍色にすこしだけ触れる。ぼくはつい微笑んで、声をだす。「おはよ」
 すると風が縒れて、ワンピーススカートが揺れかたを変えた。ハナミはぼくの方へ顔をむけてきて、「おはよう」とにっこり笑って言ってくれた。「待った、かな?」「ううん、まだ蓮も開花していないわ」そう聴いてぼくはほっとした。まだ窓をあけず外をけげんする蓮たちが波及した池のほとりにハナミはたっていて、ぼくもとなりに肩をならべた。「もうすぐ、花びらを興すわ」まるでハナミはきのうの夕暮れからずっとこの場所にいるかのような調子だった。どうしてそう思ったのかは、説明できなかった。夜明けまえの下でぼくたちは、しばらく言葉を要さなかった。気まぐれに蓮の葉がうごめきを見せ、ほとりの方へと波紋を手ばなした。葉はうなずくように、蕾たちになにか合図をおくるように、ぼくらに気づかせるように、そっと動いたのだ。「……あ」とぼくは声を洩らした。
「花びらが――」
 青みかかる空の底から、滲みだした光がぼくらをとおり抜いた。

 ぼくはバス停留所のベンチに座っていた。ちいさな屋根がおとした陰は、空とおなじ色をしていた。あげていた顔をまた自分のひざへと戻すと、みえていた空が真っ白になった。その真っ白は、ぼくの前髪だということはすぐにわかった。前髪がまなこの頭をくすぐるくらい伸びたというのは、ぼくがこの街にきてそれだけの時間が経ったということを知らせていた。「……わかってるよ」ぼくはバス停留所の外をみつめて、つぶやいた。ぼくは別にバスを待っているわけではないのだ。屋根をたたく軽いそれは、雨だった。ぼくは、雨宿りをしているのだ。シャープペンシルの芯で引いたような線が、不規則にいくつも降りおちてきているようにみえる。ぼくは前髪のさきをまぶたに寝かせ、視界をせばめた。目をほそめてみると、雨をはさんだ向こうに君がみえるからだ。君に言葉はないけれど、ぼくは君がなにを言おうとしているかは理解できた。君はじっとぼくを見つめ、その瞳はぼくを手招きしている。ややかたむいた雨が、雨やどりの屋根をさえぎり、ぼくの足元のほうへと侵入してきていた。
 その雨をぼくは怖いと思い、おもわず足をベンチの下へとくぐらせる。君はそんなぼくを見て、さらに雨を降らす。雨は強くなる。いくたと街をうちこみ、白い衣をおおわせる。屋根のうえで獰猛にわらいながら跳ねおどる。その音はぼくをはげしく混乱させた。雨は強くなる。君はぐっしょりと濡れて、束ねられた前髪からしたたった雨粒が頬につたっている。雨が強くなる。強くなる。「……わかってる」ぼくは足をバタつかせて、耳を手でふさぐ。ぼくだけが知るこの街を壊していくようなその雨の音が、ぼくには怖い。雨はふりしきる。強くなっていく。わかってる。わかっているんだ。ぼくは耳をふさいで、目をつむる。それでも聴こえてくる雨の音を、自分の叫び声でごまかそうとする。君は濡れている。雨が強くなる。強くなる。強くなる。風が吹き荒れはじめる。街をかけ、豪雨をくぐりぬけていく。雨に削られた空気が、霧を繕いはじめていく。雨が、強くなる。強くなる。強くなる。君がふらしたこの雨が、ぼくを無理やりにでも連れだそうとしている。わかっている。わかっている。君の話を、ぼくはもう知っているのだ。強くなる。強くなる。あともうすこし、もうすこし。ぼくは髪を掻きみだし、そむけている雨を見つめようとする。気づいている。気づいている。わかっている。わかっている。街がそがれていく過程のなかで、足音がきこえはじめる。その足音が誰か、ぼくはもう知っている。君だった。君が、ぼくの方へと向かってきている。「……わかってる、わかってる。わかってる。わかってる、わかってる、わかってる」なんども呟いた。拳でひざを叩きつける。乱れたままの真っ白な髪が、目にかかった。そのとき、足音がとまった。まるでなにかを思い出したように。君が、止まった。シャツには、血のシミが滲んでいた。雨も消えた。ぼくは耳から手を離した。それはつまり、ぼくが弱さを捨てようとしているのだと思った。一粒だけ、涙がおちた音がした。目をあけると、君の代わりにハサミがそこには置かれていた。ぼくが、ぼくじゃなくなる。

 ぼくらに追いついた光が、もつれていた空をほぐした。ゆっくりと身体に隙間をみせはじめた蕾を、光はほそく白い指でつまんだ。やさしく心を落ち着かせてくれる言葉をささやきながら、花びらの一枚をおもむろにめくっていく。すこしずつ、花びらは寝かされていく。水面にうつる影にも、それはこだまされる。花に笑いかける光のながい髪が、寝かされた花びらのうえに落ちる。光は丁寧に花びらの耳元でそそのかし、すこしずつ肌をあらわにさせていく。しろく妖艶な光は、子供たちに絵本を読みきかせるようなやさしい声色で街を唄っていた。それから連鎖的に、蓮たちは服をぬぎ捨てていった。裸になった蓮たちは気持ちよさそうに夜明けをたたえ、背中をさする風をもてあました。蓮は互いにわらいあいながら足をひらき、胸をあけ、手をひろげ、冴えた空気をたくわえこんでいった。
「綺麗だ」ぼくはこの感嘆してしまうような光景に、なにか言葉をささげたくなった。けれど、言葉はとぼしい知識から染みでた滴のようなものしか生まれなかった。それでも構わないとぼくは思う。だから、ぼくは簡単な言葉だけをつぶやいた。
「ええ」とハナミはうなずいた。「彼たちはこの一瞬のために生きているのよ。またしばらく経過すれば、苦しみ――泥の吸収へともどっていく。たったこの瞬間のためだけによ。いつもどおりの朝を知りたくて、また夜をたえるの。そんなことを、四回くらい繰りかえす。そして死ぬ。花びらを手ばなしていく」
「いつもどおりの朝がこなくなるのを、蓮たちはどう思うのかな」とぼくは死んでしまった蓮のことを思って言った。
「わからないわ。切なくなるのかもしれないし、寛容な心でそれも認めてしまうのかもしれない。だって、もがいたって変えられないものはあるもの」
 蓮たちは無口なまま、またしぼんでいくその時まで朝とたわむれていた。
「そんな蓮の花を、お釈迦さまは人間に喩えたの」
「僕らは、……蓮の花だという風に」
「そう。わたしたちは蓮の花なの。いまはまだ閉じているけれど、いつか開花する。いまは泥をたくわえる時期。そう考えるの。わたしいまも朝がくるのか不安になることがあるけれど、朝がやってくる度に思うようになったわ。「朝は必ずくる」んだって」
 ぼくは彼女の話をきいて、心のどこかに付着していた埃がとれるような感覚をえた。ぼくらはやっぱり似ているのかもしれない、そう思えたのだ。「……ぼくも」とぼくは言った。
「え」
「ぼくもだ。ぼくも今まで、自分に明日なんてないと思っていた。逃げるだけのぼくに、明日なんて来ないって。いつまでも「今日」のままなんだって。ぼくは、とどまっていたんだ。開き直って、雨を拒んで、季節から逃げて。苦しむのが嫌で」
 蓮の花がちいさく息をするように揺れた。ぼくの左手に、ハナミの右手をかんじた。朝が構築されていった。鳥が鳴いていた。「ハナミに出会えて、ほんとうに良かった」ぼくはそう言った。ハナミは「なによそれ」とはにかみながら返して、ぼくの左手を掴んできた。すこしだけ、と彼女は照れたまま呟いた。ぼくはちらりとハナミの横顔をうかがった。赤く色づいた頬のとなりを、「さよなら」と告げたような風がながれた。ながい前髪がゆれ、隠れていた右目があらわになった。ぼくらは、手を繋いだ。
「そろそろ、帰ろうと思う」ぼくはそう言った。
「ええ、あなたならできるわ。あなたは弱くなんかない。あなたは十分強いもの」
「この街にきた理由が、わかった気がするよ」
「……そう。大切なものに気づけたあなたなら、きっと霧を抜けられる。そんなあなたと出会えたわたしも、きっと」
「ぼくらには、もう夜の向こうは見えているよ」
「ええ」
 風と鳥が、鳴いた。ぼくは忘れていたものを思いだした。そしてすでにそれを、見つけていることにも気づいた。ぼくが失くしていたものは、もうぼくの中にある。まるで服にこびりついたシミみたいに、だ。
「ありがとう」繋いでいた手が、離れる。
「うん」ほどかれた彼女の手はそのまま落ちてしまう。
 そしてぼくは振りかえる。ハナミはまだ池の蓮の花たちをながめたまま、表情をみせないでいる。ふと足元をみると、蓮華草とともに、金盞花がさいていた。ハナミのうしろ姿には、ぼくは目をやらない。風が彼女のスカートをゆらして、またあの白い太ももをまたたかせているのかもしれない。ハナミがどんな顔をしているのか、ぼくは目をやらない。笑っているのかもしれないし、泣いているのかもしれない。ぼくは確認しない。歩きだす。まだ流れている風はなんとぼくらに告げているのか。その言葉も変わっていない。
 きっと、「さよなら」だ。

ぼく 9

 ぼくがドアを引こうとする前に、やはりコハクさんは顔をだしてきた。どうも、とぼくはすこしだけ顎を引いた。ドアの内からするりと延びてくる風が、外とおなじ匂いだった。どうやら窓は開放されているらしい。コハクさんはいつもどおりの動きのない表情のまま、しばらくぼくの顔を見つめていた。コハクさんの瞳が一部、白色に覆われていた。ぼくの髪の毛だ。ぼくはコハクさんを見つめつづけた。コハクさんも、ぼくの眼をじっと見すえていた。けれどぼくは目を逸らさなかった。自分の瞳に据わったこの勇気を、覚悟を、彼女にみつめさせるために。コハクさんは神妙な顔つきのまま、ぼくのこの様子を察したようだった。
「見つけられたのね」そう言って彼女は、はじめてにっこりと微笑んだ。
「はい」その柔和なほころびに、ぼくは頬を赤らめることとなった。動作がはげしく枯渇していたその肌でつくられた微笑みからは、ぼくが手で触れることができそうなくらいの克明な優しさが確かにたたずんでいたのだ。 
 中に入って、とコハクさんはぼくを部屋にまねいた。さきに室内へと体勢をむけた際にみえた彼女の虹彩は、ぼんやりとたゆたっているような気がした。なぜコハクさんがそんな瞳をしていたのか。それはぼくが玄関でスニーカーを脱ぐときあたりで理解できた。そして、おもわず嬉しさから笑みが洩れた。ぼくの隣で立ちつくしていたスノードロップの花が、窓からさすらってきた風に妥協するみたいにおもむろに揺れた。ぼくは感激した。コハクさんは、ぼくのために泣きそうになっているのだ。
「あなたなら、見つけられると思っていた」ぼくはカーペットの上に腰をおろし、キッチンでコーヒーを淹れているコハクさんのうしろ姿を見つめていた。コーヒーをカップに注いでいるコハクさんの背中からは、ぼくのために嬉しくて泣きそうになっている声が言葉をつなげて聴こえた。「あなたを信じてよかった、と。いまなら言えるわ」ぼくはすこし照れくさくなって、頭部をよわく掻いた。皿にコーヒーカップがのる音がした。コーヒー、彼女はぼくにふり向いてたずねた。「飲むでしょ?」
「はい」と、ぼくは肯いた。
 ぼくの前に差しだされたコーヒーカップからは、やわらかな湯気がただよっていた。ぼくはそれを持って、ゆっくり口元に縁をあてた。躊躇はなかった。飲める気がしたのだ。苦手なコーヒーすらも。すこしだけ口に含まれたコーヒーはとても苦く、喉におもさを与えてくるようだけれど、悪くなかった。悪く、なかった。ひらかれた窓は、風を部屋へすいこんでいった。あたらしい青がもたらした白い雲はながれ、そして千切れて、溶けていった。コーヒーの水面をのぞくと、当然のようにぼくの顔がうつった。いつか列車の車窓からみたときみたいに、ぼくの顔はうらぶれてはいない。遠くの夜に捨ててきたまま忘れてしまったものを、再び見つけだした今のぼくの顔は、うらぶれてなどいないだろう。ぼくは、笑っていた。コーヒーにうつるぼくの髪が、黒かったから。
「霧を、抜けられる?」とコハクさんは訊ねてきた。
「うん。抜けられる」ぼくはつよい意思で肯定した。
「やっぱり……」コハクさんはぼくを見つめたまま、すこし言葉にスペースを空けた。「あなたは強い人間よ」
 ぼくは羽織っていたチェスターコートのポケットに手を挿入して、中に入っているものに触れて確かめた。コートのポケットには、君が残していったハサミがある。あれから君の気配はかんじない。きっと、ぼくの帰りを待っていることだろう。「コハクさん」とぼくは言った。なにかしら、とコハクさんは嬉しそうにぼくに耳を傾けた。
「この街はぼく「が」知らない街で、ぼく「しか」知らない街なんだと、コハクさんは言ってくれました。今だから、その意味もわかる。この街は、ぼくだけの街なんだと。そう思います。これは、ぼくの物語です。そして、ぼくが主人公なんです。プロットも立てず、伏線もないけれど。ぼくという人間が主人公なんです。コハクさんが言っていた言葉が、ぼくの背中を押してくれるようです。「自由を得るためには、それまでの自由を捨てなければいけない」……。コハクさん。ぼくは、そろそろ帰ろうと思います。この街に逃げ込んできたことを、ぼくは嬉しく思います。コハクさんに出会えて、ほんとうに嬉しくおもいます」
 深い霧がただよっていた。深い霧のなかから空を見あげてみると、そこからは夜の向こうがみえた。「それでいいの」、とコハクさんは優しく目を閉じてうなずいてくれた。「それでいいのよ。コウト君。行きなさい。コーヒーが冷めてしまう前に。コウト君、苦しむことは悪いことじゃないわ」
「それに――」、コハクさんは言葉をつづけた。そのとき、ぼくの脳裏にはハナミの姿がいた。
「苦しんでいる人は、あなただけじゃないわ」

 家に帰ったあと、ぼくはあのハサミで伸びた前髪を切っていった。気づけば、まなこの上をまたたくくらいまで伸びていた白いぼくの前髪は、君がのこしていったハサミによって、するりと切り離されていった。視界の外へゆっくりおちていく白い髪の毛は、余命がつきた蓮の花びらのようだった。つぎに自分の髪の毛が、ひどく濡れていることに気づいたのはそのときだった。濡れた髪の毛の先をぼくは指でつまみ、そこからしたたってきた水粒をみつめる。このまま眠ろう、ぼくは濡れた髪のままで眠ることにした。

僕 

 車の窓からちいさいけれど見えたのは、あの廃れてしまった住宅地だった。平屋の家の壁にされたままのクレヨンの落書きも、ここからじゃ見えなかった。夜は、二十三時の中間すらもとおりこした時間帯だった。明りのひとつも灯らないあの住宅地は、形をのこしたまま止まってしまったのだ。けれど、いつかまた光が灯る。ぼくはそう思った。ぼくはそう祈った。あの住宅地は、別に死んだわけじゃないのだ、と。やがて景色は、建物たちの裏側へと隠されてしまう。
「またいつでも逃げてくればいいさ」と運転席にいる父さんは言った。「そのときも、この街はお前を歓迎するはずさ」
「ありがとう」ぼくは礼をのべた。それからすこし笑った。車は、アーケード商店街のちかくをとおり、提灯のならぶ温泉街のような場所をとおり、『ニワトコ』をとおり、そして、駅のほうへと近づいていった。車をとめると、そこからしばらく石畳のゆるい坂道がつづいていた。父さんと二人で歩いていると、ぼくとおなじ容姿をした少年をみかけた場所をとおりすぎたことに気がついた。振りかえってたしかめてみるけれど、そこにはもう彼はいなかった。駅の出入り口がみえてきて、ぼくは泣きながら必死で駆けてここから外の夜へと飛び出してきたことを思いだした。今の自分と比較してたしかめてみるけれど、そこにはもう慌てふためくような弱いぼくはいない。盛んな光がこもった駅のなかへ、ぼくは足を踏み入れた。

 階段をのぼっていくと、改札がならんだ箇所がみえてくる。そこにはあの時とおなじ駅員の男が立っていた。「――あ、君は」と駅員の男はすぐにぼくに気づいた。ぼくはちいさく顎を引き、つくり笑いをした。「帰るのかい?」、と駅員は親切そうにたずねてきた。愛想のいい笑みをうかべている。「はい」、とぼくは肯いた。その声には、克明な輪郭があった。克明な影がたずさえられていた。机の中心にそっと置けば、それだけで花瓶にそえられた花のような役割をもてるくらいに。駅員はあのときと同じような目つきをして、ぼくの顔をじっと見つめてきた。眼差しはまるで顕著に変化したなにかを確認するみたいだった。「君、なんだか変わったね」、駅員は言った。そう聴いてぼくは思わず笑ってしまった。ありがとうございます、ぼくは礼を言った。父さんも階段を歩きおえ、改札口へとおいつく。ぼくは父さんのほうへ振り向いた。
「それじゃあ、行くよ」ぼくは笑ったままの顔で、父さんに言った。
 ああ、と父さんもにっこりと微笑んだ。駅員の男も、ぼくのことを見ていた。数秒の沈黙を、別れにたとえた。それからスニーカーをひきずり、前へとぼくは足をむけた。改札をくぐると、天井がとぎれて夜空になった。ちいさく息をはいて、プラットホームの方向へと歩みを押しだす。とつぜん背中を手でおされたように前へ何歩かすすんだ自分の足には、すこしだけ切なさが残り、後ろめたさが孕まれていた。図らずも、ぼくは振りかえってしまう。ぼくに手を振る、駅員の男と、父さんがいた。感情的になってラーメンを啜るぼくをみて、爆笑していた父さんの笑い声が聴こえないのに聴こえた。おもわず涙がこぼれそうになった。けれど、ぼくはその涙を深い傷口を手でおさえつけるようにぐっと堪えた。脳漿に巡りめぐられていくこの街での日々は、ぼくにしたたかな感傷をぶつけてきた。そんなセンチメンタルにぼくは砂をまぶし、ごまかして紛らわせようと努めた。コートのポケットに入っているハサミで、前髪を切ったことを思いうかべてみる。けれど、どうしても涙を食いとめることはできなかった。無理だった。いろいろなことが、ぼくがプラットホームへと歩いてくにつれて掘りおこされていった。父さんと食べたラーメンのこと、開放された窓から部屋へはいりこんでくる風のこと、池にうかぶ蓮の花のこと、花言葉のこと、コハクさんのこと、ハナミのこと――。もうさよならの風は通りすぎてしまったけれど、あのピンク色のワンピースはいつまでも揺れているだろうと思う。それでいい、それでいいのだ、ぼくは口角をあげた。秒針がまばたきするように一秒を積んでいく。時刻は二十三時五十九分をぬけていく。線路がきしむ音がとおくから聴こえた。プラットホームにぼくは立つ。そのとき、列車がきた。もう振り返っても父さんはみえないだろうと思う。空気をつめこんだ缶を力任せにつぶしたような音がする。するとぼくの前で扉がひらいた。風呂敷からとりだしたばかりのような光が、ぼくの袖をつかんできた。
 街は〇時となる。

 列車のなかは、ほとんどの座席が空いていた。ぼくは空いている場所を無作為にえらび、腰をおろした。窓側へよりかかると、駅の高層建物から夜ににじみでた明りがみえた。まだあそこに父さんはいるのかな、とぼくは想像してみた。するとまたしてもハナミやコハクさんの顔が脳裏をよぎっていくので、この街でのことをなるべく思い返さないようにと注意した。窓の外で、列車がたかい声で鳴いた。終わりの風がはしる音もした。「……さよなら」、ぼくは静かに、つぶやいた。はげしく警戒する猫のしのび足みたいな速度で列車はうごきだした。プラットホームと、そのうしろでみえる建物の明りが緩慢にながれていった。誰もいないプラットホームは、すぐに最後方となった。線路がきしみ、速度があがっていく。駅の建物が窓枠からきえる。プラットホームが途切れたのは、そのときだった――「えっ」、ぼくの声がこぼれたのも。
 真っ白な髪をした、黒いチェスターコートをはおった少年がプラットホームの端っこでみえた気がした。ぼくは思わず窓へ顔をつきよせて、途切れたプラットホームのほうへと目をやった。けれどもう彼はみえなかった。彼の髪が白くなっていたことに、ぼくは疑念をいだいた。ゆるいカーブの鉄橋を、列車はかけていった。ぼくが知っているあの街が、離れていく。鉄橋が直線になり、とうとう街は川面をはさんだ向こうにみえるシルエットの景色となってしまった。あのトンネルが近づいてくるのがわかった。窓にすこしばかり翳りができて、ぼくの顔が反射される。その顔に自分ははっとした。ぼくの髪は以前のような黒髪へともどっていたのだ。先ほどみた彼の髪が白かったのは、つまりそういうことなのだろうとぼくは納得した。列車内に、にぶい音がにじみだした。トンネルが近づいてきていた証だった。ぼくは背もたれに頭部すらもあずけて、ゆっくり息をした。音が鋭いものへと変わっていき、音が絶頂に達する寸前でハサミで切られたみたいに途切れた。
「やあ」
 トンネルに、はいった。それまでの夜空や、街の光たちは暗闇にぬりつぶされ、コンクリートの壁だけをうつされることとなった。わずかながらにいた乗客も消え、その車内にはぼくと、――君の二人だけとなった。「余計なことをしてすまなかった」、と君はぼくの向かいの座席にすわって言った。君はぼくの目をじっと見つめつづけていた。君の瞳にはぼくが描かれていた。真夜中の街灯がてらした影のような黒髪をした、ぼくの顔がそこには映っていた。ぼくはなにも言わず、君が言葉をつづけるのを待った。
「ボクも……」と君はいちど言葉を詰まらせた。いちど踵をかえし、言おうとしている言葉をいくぶん削って、余ったものだけを並べた。「ボクも、焦っていたんだ。本当に、ごめん」
「ううん」とぼくは彼の言葉にかぶりを振った。それは違う。「君があやまる意味なんてないよ。ぼくがウジウジしていたのが悪かったんだ。むしろぼくは君に感謝しなきゃいけない。君がいたから、ぼくも決心できたんだ。君があのとき雨を降らしてくれたから。正直いって、最後の最後までぼくは迷っていたんだ。逡巡していた。いや、前を向かなければいけないことは最初からわかっていた。なのに、向けなかった。逃げていちゃだめだって、ずっと思っていたのに。やっぱり、ぼくは迷っていた。季節と向き合うことに、妥協できなかった。父さんやコハクさんやハナミがしてくれた話は、どれも正しかった。そんな正しさがぼくを強く揺らしてきた。そんなぼくの心をぴたりと固定してくれたのは、君なんだよ」
「君がそう言ってくれるのは、とても嬉しい。けれどね、ボクはあまり好まれないことをしてしまった。きっとあの時も、君の心がうしろ向きなのだったら、もう戻れなくなっていただろうと思う。君の心が揺れていたから。だから、結果的には君が自身の力で、揺れをおさめることができたんだよ。君は弱い人間だと、いつからかボクは思ってしまっていた。そのことに、あやまりたい。そして、ボクだけじゃ足りないということにも気づいたんだ。やっぱり、ボクには君がいてこその存在なんだよ」
 列車はまだトンネルのなかを駆けぬけていた。おもむろな振動と窓外のにぶい鳴りは真夜中を磨耗していった。トンネルを進むにつれて、ぼくのおぼつかない心が乖離されていくのがわかった。「コーヒー、」とぼくは呟いた。君はぼくの呟きに「ん?」と声をかえした。「コーヒー、美味しかったよ」とぼくは言った。コハクさんが淹れてくれたコーヒーは、母さんの口から仄かにした匂いとおなじだった。ははは、と君はかるい笑い声をもらし、「それはよかったな」と言ってくれた。「きっとそれと同じ味のするコーヒーを淹れてくれる人が待っているよ」
「そうだね」母さんの背中があった。母さんの背中はしだいに大きく見えるようになってきた。それはぼくが母さんの方へと歩いているからだというのが理解できた。ぼくの足音は、母さんの耳にまで届いているのかなと思った。母さんはずっと前を見つめていた。新しい季節、ぼくはその言葉をこぼした。列車がはしるさきに、白い光がみえた。そろそろトンネルが抜けることを光はぼくと君に教えてくれた。「さて、」と君はひざに手をつけて、立ちあがる素振りをした。「そろそろだ」
「帰ろう」とぼくは言った。
「うん、帰ろう」と君も言った。そしてうなずいた。
 ぼくらはすこし笑い合った。
「さっきみたとき、空、雨が降りだしそうだったよ」ぼくは思いだして言った。「傘持ってないや」別にいらないだろう? と君はやわらかい微笑みのままの顔でぼくに言った。「いまの君に傘なんて必要ない」そうだね、とぼくは肯いた。もう、傘なんていらないよ。白い光が近づき、列車をつつんだ。ぼくと君は笑った。トンネルを抜けるとぼくは、僕になった。

 誰かが僕にむかって大声をだしている気がした。すこしずつ、ほとばしっていた意識が歩み寄ってきた。瞼がおりていたから、開いてみると二人の男が僕のことをじっとみつめていた。僕の意識が帰還してきたことに気づくと、二人は「あ、やっと起きた」と声をそろえた。二人の男はくろい制服のような服をきていて、僕はどうやら深く椅子に腰かけているようだった。すこしばかり脳漿の箱の中をかいさぐると、記憶の残滓をみつけた。そして、ようやく二人の男が駅員だということに気がついた。
「帰ってきたんだ……」と僕はちいさく呟いた。
 二人の駅員は「え?」と声をそろえて耳をかたむけてきた。僕はそんな二人に「なんでもないです、ありがとう」と言葉を置いて、ひらきっぱなしの扉をでた。そんな僕を、二人の駅員はぼうぜんとした様子でみていた。コートのポケットにハサミは入ってあることと、服にはシミが残っていることを確認してから、僕は「霧を抜かなければいけないんです」と二人に告げた。それから電車をおりてホームを去っていこうとした。
 「そうだね」と声がしたのはそのときだった。「君は霧を抜けなければいけない。夜の向こうへ行かなければいけない」振りかえるとさっきの駅員たちがそう言っていた。僕は「はい」とうなずいて、また歩きだした。
 駅をでると見慣れた街があった。電線にとまる鳥もそのままで、なにも変わらない僕の街があった。アスファルトがあり、電線がめぐっており、いろいろな人々が行き交っていた。横断歩道の信号が点滅し、青になる。足を踏みだすと、その街がゆっくり色づいていくような気がした。まるで別れのあとで花びらが開いたみたいに、モノクロームだった街に色彩がうかびあがってきたのだ。断片的だった物語を、僕がこの手でつなぎあわせる。そうやって僕らは大人になってゆく。見あげた月にもう悲しみなんてものは無い。僕らはまだ地獄で苦しんでいて、お釈迦さまが空から蜘蛛の糸をたれおろしてくれるのを待っているのだ。ピンク色のワンピーススカートを揺らしたさよならの風がしずかに流れる。家では母さんが待っている。僕は考える。僕は答える。ハナミと同じ、解答を。蜘蛛の糸が僕らにとって喩えているもの、それは。        END

僕らはまだモノクロームな街で

新作でした。この小説にはとても思い入れがあります。「桜がよどむ川面」を完成させてすぐに取り掛かったこの作品ですが、今までといくぶんと違うジャンルとなっております。
僕のいままでの小説は純文学よりだけどまだ娯楽物としても提供できるような話が多かったのですが、今作は100%純文学です。内容も盛んに隠喩・暗喩をつかっていて、読者それぞれの解釈を大切にしております。
そして、これからの作品はこの「僕らはまだモノクロームな街で」がベースになってくるようなものだと思います。僕はもう暗喩でテーマを伝えたい。一度読んで「おもしろい」という感想より、何度も読んで「こうなのかもしれない」という考察ができるような小説を作っていきたいです。これからも、よろしくお願いします。

僕らはまだモノクロームな街で

ある季節を、ぼくは探していた。それなのに、ぼくはそれから逃げていた。深い霧を抜けようと、ぼくは思っていた。それなのに、ぼくはそれから逃げていたのだ。弱いぼくは傘をさし、モノクロームなままの街で逃げるだけだった。君は夜明けのまにまに雨を降らしてくる。コーヒーは苦いまま冷めていく。蓮の花もまだ服をきたままで、蜘蛛の糸も垂れてこない。「さよなら」と言えないぼくが逃げこんだところは、ぼくの知らない街だった。

  • 小説
  • 長編
  • ファンタジー
  • 青春
  • ミステリー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-04-26

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. ぼく
  2. 2
  3. 3
  4. 4
  5. 5
  6. 6
  7. 7
  8. 8
  9. 9
  10. 10
  11. ボク
  12. ぼく 2
  13. 13
  14. 14
  15. 15
  16. ボク 2
  17. 17
  18. ぼく 3
  19. 19
  20. 20
  21. ボク 3
  22. ぼく 4
  23. 23
  24. 24
  25. 25
  26. ボク4
  27. ぼく 5
  28. 28
  29. ボク 5
  30. ぼく 6
  31. 31
  32. 32
  33. ボク 6
  34. 34
  35. ぼく 7
  36. 36
  37. 37
  38. ボク 7
  39. 39
  40. 40
  41. ぼく 8
  42. 42
  43. 43
  44. ぼく 9
  45. 45
  46. 僕 
  47. 47
  48. 48
  49. 49