ENDLESS MYTH 第1話-6
命を繋ぐ逃亡が始まる。
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クレーターの盛り上がった瓦礫の頂上で、メシア・クライストは恋人を抱き寄せた。死の崖が眼前に落ちくぼみ、今にも彼らに地獄からの腕を伸ばそうとしている現状を、最愛の人と寄り添うことで、彼は心理的に冷静さを止めようと努力していた。
が、現実は彼らへ唾を吐きかけた。街の中心部を瓦解させ、瓦礫の山を築いたクレーターに集まる雲霞の化け物たちが、とうとう彼らの生きた吐息をかぎつけ、池の鯉の如く餌へ集約し始めたのだ。
眼前を戦慄で凝視する一行の中から、短い悲鳴が鳴った。エリザベス・ガハノフが珍しく平静を手元から落としてしまったのだ。
悲鳴に反応し、エリザベスの視線へ促され背後へ眼を移動させると、一匹の肉ヒダで構成された化け物しか存在しなかったはずの通りを、無数の、異臭をただよわせた腐肉の塊たちが闊歩して、いつの間にか埋め尽くしていた。
前後に化け物の軍勢に囲まれた形となってしまったのである。
冷静に物事を判断などという心理は、パニックの鎌によって刈り取られ、ただお互いの身体を密着させ、震えの渦に入っていることしか出来なかった。
と、刹那的なにそれは起こった。雷鳴が地の底から突き上げるように、地面を中空に跳ね上げるように、地響きが街を揺らした。
マリア、エリザベスは身体を支えられず、メシア、ファンの身体にそれぞれしがみつき、身体を支えた。が、イラート・ガハノフは身体を自らで支えようと踏ん張るも、足場の悪い瓦礫の上から転がり落ち、後頭部がヌメヌメとした柔らかいものにぶつかり、それが化け物の皮膚触感だと理解すると、慌てて身体を跳ね上げ、瓦礫の中腹まで、猿のように駆け上った。まさに身体を死に神に撫でられた気分で、いつも活気のある顔色が鉛色に血の気を失っていた。
が、少年っぽい彼ですらも、化け物たちの変化に気づいたほど、人肉をむさぼっていた数秒前までの化け物どもと、様子が違っていた。彼らを揺さぶる揺れが、何かしらの効果を彼らに与えている様子だ。
と、その時である、街の至る所で爆発が起こった。その規模は高層ビルが十数棟、まきこまれるほどの広範囲かつ、蒼天を突き上げる高さまで爆風は上昇した。
だがその爆風の中に蠢く影に、メシアたちは絶句した。
爆風を切り払うようにウネウネと糸を引きながら、頭をつかまれ苦しむ蛇のように暴れる巨大なそれには、吸盤が無数についていた。吸盤の大きさま5階建ての建物が1棟すっぽり入ってしまうほどであり、吸盤が不規則に乱立する、タコの脚のような触手自体の大きさは、ドバイ国の世界一高いビル、ブルジュ・ハリファほどもあった。
それが複数、街の地下から這い出ているのだ。しかもうねりながら街を掃き清めるように、建物、瓦礫、化け物どもを一掃してしまっている。
触手の現出は化け物の軍団を凍り付かせた。一行の眼にもそれは明らかであった。
逃げるなら今しかない、とイラートが脚を一歩踏み出しかけるのを、メシアが静止した。
「まだだ」
訝しく瓦礫の中腹からイラートは見上げ、臆病者に対する鋭い視線でメシアを射った。
「震えてる場合じゃねぇだろ。ここしか逃げる時はねぇんだよ」
化け物の間を縫うように逃げるイメージを脳内で展開させ、イラートが瓦礫を下り始めた。
「そうじゃない。もう少しでもっと安全に、救出も来るだろうし・・・・・・」
夢遊病者のように、忽然とメシアは不可思議な言葉を口走った。まるで先の出来事が見えているようであった。
「分かるの?」
振動に押し流されないようにしがみつくマリアが問う。
するとゆっくりと力の無い腕を呆然と上げ、弧を描く指先でメシアは街を薙ぐ触手を指さした。
刹那、触手は根元から断絶されると、街の中を数度にわたってゴムボールのように跳ねると、建設中の市街地へ落下し、切断されてもまだ動きを止めず、それ自体が単体の生命のように、轟音を響かせながら暴れた。
そして耳を金属同士を擦り合わせたような音がつんざき、再び地響きが地の底から突き上げてきた。
次ぎの瞬間、それは街の中心部に現れた。1本が高層ビルほどもある牙が数多乱立し、溶けた蝋のような灰色と紫を混ぜた皮膚を陽光にさらし、尖ったワニの如き嘴で瓦礫と化した街の半分を呑む。触手の持ち主が本体を表したのであった。
街はすでに壊滅状態にあったが、この巨大獣が現出したことによって、完全なる崩壊が現実のものとなった。
地上に出ている嘴は広げると街を覆ってしまうほどに巨大で、その悲鳴も地上をどこまでも駆けるようである。
耳を押さえたメシアたちはしかし、その嘴の先端に何かがぶら下がっているのに気づいた。
「人・・・・・・?」
マリアが呟きを小さい口からこぼすも、人の形をしたなにかにしては、明白に大きさが異常だ。巨大獣の大きさは20キロを超えているだろう。その先端にぶら下がっていながら、彼らにも大きさが理解できるほどはあるのだから、推定でも2キロはある。それほどの人型の物体など、地球上にありはしない。
だが彼らの眼前にはそれがハッキリとした形で提示されていた。まさしく人の形をしている。しかも鎧、甲冑、アーマーの類いを身につけた、動く人型物体、単調な表現をするならば、巨人である。
巨人は巨大獣の鼻先に突き刺した剣を脱ぎ、紫色の血しぶきを地上に雨として降らすと、ブヨブヨとした獣の皮膚を蹴り飛ばし、中空で1つ巨体を回転させると、地上へ着地した。全長2キロを超える巨体が着地したのだ、それだけでも大地震ほどの衝撃が街に波紋のように広がった。
一行が足場とていた瓦礫の山はあえなく崩壊の末路となり、アスファルトへ身体を投げ出された。
死の淵から一気に死出の旅となった一行は、バッタが跳ねるように、ひびが蜘蛛の巣の如く入ったビルの壁面へ身体を密着させ、眼前に居座る化け物の群れから、可能な限りの距離をとった。
けれども化け物の群れにさっきまでの勢いはない。生物ならば、なにかしらの恐怖がその本能に芽生えているはずである。が、巨人の着地で陥没したアスファルトの隙間に挟まっても、地下鉄のトンネルへ落ち込んでも、化け物は微動だにしないのだ。まるで恐怖という環状が、本能から喪失しているかのように、静けさを肉壁の中に内包していた。
一行が、今が好機、とばかりに走り出した。
と、マリアが不意に背筋を舐めるような視線を感じて、嫌悪感の反射行為で後ろを振り向いた。すると2キロの巨人の頭部とおぼしき場所に入った、2つの切れ込みの奥から、ギョロリとした眼球が彼女を見つめていた。
悲鳴をマリアはしかし呑み込んでしまった。ここで騒げば、逃げる足かせになってしまう。自分が足手まといになるのだけは避けたかった。だから振り向いた顔を正面へ戻すなり、メシアが握る手を必死に掴んで、足場の悪い退路を懸命に駆けた。
一方の巨人はというと、ひっさげた自分の半身、つまり1キロはある剣を片腕で振り上げ、未だ複数うねる触手に対してその切っ先を向けた。それは挑発にも見えた。
巨人は剣をひるがえすなり、瓦礫の街を数度にわたって蹴ると、俊足で触手へ接近、瞬間的に白刃を煌めかせた。
街が粘度数の高いネバネバ、ヌメヌメとした青紫の鮮血で染まり、2本目の触手が地に突っ伏し、苦痛に歪んだ悶絶を露にした。
と、巨人の剣が忽然と光の粒子の渦に包まれ、瞬きを数回する間に、1キロの剣は形をロープのようにウネウネと変化させ、長さが3キロほどまで伸びた。そして先端が左右へ広がると、さらにその先端が上下へ広がり、先端の大きさが顕著に目立った。
見るからにそれは巨大なアックスへと変化を遂げていた。けれども巨人の体格から見るに、明らかに重量が過剰であり、現に地面へ刃を落とした時、街の瓦礫へ深く食い込み、地震が波となって広がった。
巨人は腰を落としこむと、全身に力が入った。鎧の下で筋肉が膨れるのが外部からの視線でも理解できるほど、足腰が膨れると、アックスを、枯れ木を振るかのように、尖端が弧をえがき、化け物の口先に突き刺さった。
化け物どもの、独特の腐った鈍い光をおびた鮮血が、街を洪水として襲った。
瓦礫も遺体も小型の化け物も押し流した。
口を縦に割られた化け物は、人の耳にはあまりに聞き苦しい、悶絶の叫びを空に立ち上げた。
耳を押さえ、少しでも巨人の戦場から離脱すべく、心臓の太鼓の音も振り払い、メシアたちは走っていた。脳内に爪をたてる獣の悲鳴に表情を苦悶で焼きながら。
けれども彼らの脚を鮮血の洪水が足止めした。静止した化け物の群れを流すその、気味の悪い鮮血は、ひどい悪臭を中空へ振りまいた。
胃袋からこみ上げるものを抑え、メシアはマリアの手をしっかりと握り占めた。
「お父さん、大丈夫だよね」
か細い声がマリアの唇から辛うじて漏れた。
メシアは家族がいない。親しい知人や同僚、友はいるがこのときばかりはそれらを気遣う心の余裕もなかった。しかしマリアには父がいる。乳飲み子の彼女を教会の前で拾ってくれた神父が。
「神父は賢い人だよ。きっと先に逃げてるさ」
ここで初めてスマートフォンに眼を通すマリア。真夏の中、戦慄に背中を引っ掻かれながら逃げてきた道中で、だいぶ熱を帯びていたがまだ使用できる。しかし父からのメールも電話も着信した履歴はない。
俯きスマホをポケットへ押し込む。
と、鮮血の河を1台の車が突っ切って、彼らの眼前へタイヤを滑らせながら停車した。
ENDLESS MYTH第1話ー7へ続く
ENDLESS MYTH 第1話-6