終点

旅人と黒猫のやりとり。

終点

 

 がらん、ごろん、と列車が気だるげに駅から走り去る音が聞こえる。
 それを聞きながら、旅人は、地平線の彼方でも、足元のコンクリートの床でもない、その間の周辺を、ぼんやりと見つめていた。

 

 旅人が、木製の古びたベンチに腰掛けている。
 旅人は、長い青色の上衣に、すっぽりと覆われているような外観を見せていた。目深のフードが顔を隠し、陰の差す口元が見えるのみ。ゆったりとした上着の袖は、革製のグローブが覆う手首と、黒いブーツの足首までを堅固に覆っていた。旅人が普段から背負う小さくない鞄は、今は彼の隣に置かれている。
 彼の座るベンチは『駅』の前に設置されたものなのだが、周囲に人気はない。旅人の背が、奇妙なまでに長い影を静かに落としていた。
 ふと、旅人の上衣を、一筋の風が撫で、揺らした。
 穏やかな、暖かい南風だった。
 空は黄昏時。筋雲が高々度にいくらか浮かんでいるものの、今この時は快晴と表現できる気象条件だろう。
 旅人は微動だにせず、ただ、ベンチの上に腰掛けている。
 小規模の『駅』。その前のベンチ。そこに座る旅人。
 旅人の前には灰色の舗装道路がまっすぐ横に伸びており、『駅』がつなぐ線路と並行する形となる。旅人は道路を歩いてきた。
 道の向かい側には、土気色の田園風景がひたすらに続いている。今はあぜ道の他に植物の姿は見えないが、あと一月もすれば苗が植えられ、もう一月もすれば青々とした水田が一円に拡がるのであろう。
 人気のない、それらすべての景色に、煌々とした夕陽が落ちている。
 暖かな風が、大地の上をそよぐ。
 朱色に塗られた風景の中で、ベンチに座る旅人の青い上衣が、奇妙な彩りを与えていた。

 声が聞こえたのと、旅人がぐるりと振り返ったのは、ほぼ同時だった。
「ねえ、旅人さん」
 旅人は声の源に視線を向けた。
 彼の背後。『駅舎』出入口近くの壁沿い。背の高い空調室外機の上、色褪せた排水パイプの下。
 そこに、黒猫がいた。
 いつ現出したのか、旅人には認識できなかった。
 白茶けた空調室外機の平らな表面に、黒猫は半ば寝転んで、くつろいでいた。
 だがその黄金の眼は、ひたすらまっすぐに――旅人へと向けられている。
 旅人はベンチに座り、黒猫は室外機の上にいたので、二人の視線の高さはほぼ同等だった。
 気兼ねのない、高い声で、黒猫は訊ねた。
 他でもない、ベンチに座る旅人に向けて。
「足が痛むの?」
 青い上衣の旅人は、少なからず驚いていた。
 彼にとって、彼のこれまでの旅路にとって、人語を解し話す動物と邂逅する経験は決して皆無ではなかった。しかし、ここまで『現実』に近い領域で、しかも積極的に旅人に話しかけてくるものが現れるとは、思ってもいなかったのだ。何故、こんなところで。
 朱色の夕陽の中。
 フードを被った旅人と、黒猫の視線が、無言のままに重なる。
 ――ここは、他ならぬ『駅』だ。
 そして黒猫は、災禍の象徴だ。
 ふと、その二つの思惑が脳裏を掠め、旅人はまるでそれを振り払うようにして、やや大きな声で猫に告げた。しかしその声音は、長らく彼の発声機能が使われていなかったためか、ひどく掠れていた。
「痛む、わけじゃない。……休んでいる、だけだ」
 思わず咳き込んで、旅人は自らの喉の異状を把握した。
 旅人は真実を話していた。別段、足の痛みなどないのだ。
 歩き通しがしばらく続き、やや全身の疲労が溜まっていた頃合いで、座れる場所が偶然見つかったから、このベンチに座った。彼の認識は、それだけだ。
「誰でも、肉体を動かし続ければ、疲れる」
 独言のように、旅人は付け加えた。
「じゃあ、どうして」
 黒猫は続けて訊ねた。猫は口角を上げる筋肉を持たないが、それは明らかに笑みの色を含む声だった。
「あなたは、その大きな背負い鞄を開けて、地図を見たりしないの? 鞄の中の飲み物をどうして飲まないの?」
 黒猫に言われ、旅人は視線を自らの腰の隣に落とした。そこには、彼と長年の旅を共にしてきた革製の鞄があった。大氷河の獣から奪った皮革を持ち込み、職人に仕立てさせたものだ。やや重みがあるが、頑丈で、ほとんど修理に出したこともない。
 黒猫に視線を戻し、旅人は率直に答えた。
「この辺りの道は直線で、地図を見る必要はない。だから、鞄を開けていない。しかし言われてみれば、若干喉は乾いているな」
「そこに自販機もあるよ」
「必要ない」
 若干のばつの悪さを覚えながら、旅人は鞄の側面からささやかなスチール製の水筒を取り出し、口腔と喉を潤した。
 ふと、猫が前足で示した方向に視線を向けた。飲料物の自動販売機の側面が、駅舎の隣に見えた。気付かなかった。関心の沸かないものには意識が向かないものだ、と旅人は思った。
 彼の様子を、黒猫は、じっと観察している。
 旅人も黒猫を観た。
 まだ成長しきっていない、若い個体だった。好奇心旺盛なのかもしれない。旅路の中で、旅人は経験的に理解している。このような動物や妖精の類は、人間以上に精神構造が多彩で、人語を介することができても会話が成り立たないものも多い。
 どうしてこのような領域に人語を操る猫がいるのか、という疑問はさておいて、旅人はもうしばらくこの猫に付き合ってやることにした。
 疲れを取るまでの、暇潰し程度にはなるだろう。
 変わらず、周囲に人気はなかった。
 まばゆい夕陽が、旅人と黒猫と、辺りを照らしている。

「旅人さん」
 若干の沈黙ののち、黒猫は新たな質問を投げかけてきた。
「じゃあ、どうして、向こうの街の方を見ないの?」
 ……しばらく、猫の金色の瞳を旅人は見つめてから。
 さあ、と返した。
 そう応えるしかなかったのだ。
 旅人が、いつ何時でも目標を見据えているわけではあるまい。
「あなた、旅人でしょう? 旅人は、あの光を目指すんだよね」
「ああ、そうだ」
 応えながら、旅人は、地平線に向けて視線を凝らした。落ちゆく太陽の右側。延々と続く舗装道路の向かう先。
 ……その、遠い、遠い山間に、都市のようなシルエットを覗うことができた――伝聞によれば、それは確かに都市だった。
 時折、夕闇の翳る街の姿の内に。
 きらきらとした、何かが見える。
 様々な色彩の美しい光の点が、顕れたと思いきや、ふと消えてゆく。
 両者とも、一体、誰がどうしてそう呼び始めたのか――『旅人』と呼ばれる者たちは、それを『星』と呼称していた。
 星を掴むこと。
 それこそが、すべての旅人の究極目標だった。
 青い上衣の旅人は重々知っている――あの、星の見える都市に辿り着いても、それは手に入らない。
 星は、旅人を誘い、導くもの。現在見えるところにあるわけではないのだ。方向は間違ってはいないだろうが、実際の星は、更に遥か遠くに存在する。それがどこなのかは、彼の知る由もない。知るはずもない。
 あの奇妙な輝きを求めて、幾多の探求者たちが、今も黙々と旅を続けている。旅人とは、概してそういうものなのだ。
 地平線の光輝を凝視しながら、青い上衣の旅人は、彼の知る他の旅人たちのことを思った。旅の途で、言わば同志でありライバルでもある彼らと出会い、時に協力し合い、時に反目し合った。
 赤襟巻きの旅人は、あの都市に用があると、かつて言っていた。
 鷲の刃の兄弟。次に相見えた時には容赦しない。
 三つほど前の領域で自分が協力した若者は、今も生き残っているだろうか?
 鏡像の戦士。あの存在は遥か先を駆けているのだろうか。
 彼らは今も、探求を続けているはずだ。
 自分も追い付き、追い抜かなくてはならない。
 青い上衣の旅人は、ベンチに腰掛けながら、湧き上がる意思に心を燃やした。

 そんな旅人の感情など、知る由もないのか。
「ねえねえ、旅人さん。どうして、足元を見ないの?」
 あっけらかんとした口調で、室外空調機の上の黒猫は、ベンチの上の旅人に、再度問うた。
 旅人は。
 これにも、さあ、と応えるしかなかった。
 自分が足元を見ないことに、何かしらの不都合があるのだろうか?
 黒猫と視線を交わす。
 黄金色の眼は、じっと、旅人の顔を見つめている。
 ――ごく小さな、しかし確かな疑念が、旅人の心中に募りつつあった。それは微かなものだったが、何故かひどく居心地の悪いものに感じられた。
 この猫は、何が訊きたいのか。自分に、何が言いたいのか。
 旅人は口火を切った。
「今度は、こちらから質問したい」
 南風を頬に感じながら、旅人は、黒猫に向けて疑念を放った。
「……何のために、ここに来た? 何故、ここにいる? 目的は何だ? 何者だ? 偶然、この領域に存在しているわけではあるまい。何かを伝えに来たのか?」
 しばしの間、沈黙が場を支配した。
 黄昏色が覆う空。落ちゆく夕陽。稲のない田園の土色。その間をひたすらに続く線路と道。線路をまたぐ小さな無人駅。その前のベンチに座る旅人と、相対する黒猫。
 最初に言葉を話したのは、黒猫の方だった。
 だが、それは旅人の疑問への答えではなかった。
 新たな質問だった。
「ねえねえ、旅人さん」
 まるで、何も聞こえていないかのようだった。
 旅人の問いなど、何も。
 そして、それまでと全く同じ語調で、猫は訊ねた。

「……どうして、自分に嘘をついているの?」

 虚を突かれた旅人は、思わず眉根を寄せた。
 何を、言っている。
「薄々には、もう気づいているんでしょう?」
 猫の声音からは優しさすら感じられて、それが旅人には不快だった。
「あなたは旅の中で、偶然この『駅』に辿り着いたと思っているのかもしれないけど、そうじゃない。あなた自身が、この場所と、僕を呼んだんだよ」
 ――冗談じゃない。
 思わず旅人はベンチから立ち上がり、長いコートの背を翻して、猫と向き合った。
 猫は続けた。
「……ここで終わりだなんて、思いたくない? 旅人さん。あなたは、まさしく骨身を削って旅を続けた。でも残念ながら、とっくに限界に達していたんだ。星を求める旅は、もう、続けられないんだよ」
 ――やめろ。
 黒猫が語る言葉に、激しい嫌悪感が湧き上がった。
 その嫌悪感が自らのものであることに、他ならぬ旅人自身が驚き、焦った。
 同時に、ある疑念が湧いた――この獣は、自分を言葉巧みに騙そうとしているのか? 担いでいるのか? 魔獣の類なのか? その考えは、何故かとても真っ当であるように旅人には感じられた。
 困惑する旅人に構わず、黒猫は告げた。
 相変わらず、平然とした口調で。
「ここは、終点なんだよ。旅人である自分に、お別れを告げる場所。旅人でない自分と相まみえる場所。勝ち目のない戦いを悟って、それに幕を下ろして、列車に乗って、元いた場所に戻っていく、そんな場所」
 ――だまれ、だまれ!
 旅人は、腰のベルトに下げた短剣を鞘から抜いた。
 形状はナイフに近いが、肘から指先までの長さを持つ、それは紛れもない剣だった。旅の初めの頃、古城の奥深くに眠っていた一振りを掘り起こし、繰り返し改修して打ち直した、彼の旅路そのものとさえ言える武器だ。この刃の一閃が屠った敵は数え切れない。
 黒猫に向けて、自身を騙そうとする獣に向けて、旅人は躊躇なく飛び掛かった。
 厳密には、飛び掛かろうとした。
 信じられない程に足元がおぼつかなかった。
 まるで腰から下に神経など通っていないかのように、僅かな感覚もなく、旅人の体は大きく揺れた。
 ぐらり、と全身が崩れて、それを彼はどうすることもできなかった。
 両膝が力なく曲がり、旅人はしたたかに体の前部をコンクリートの床に叩きつけた。
 胸部が急激に押され、ごふっ、と肺から息が漏れる。
 右手に取っていた自慢の短剣は、いつのまにか零れ落ちてしまっていた。
 ――まさか。
 まさか、こんなに。
 黒猫は、自ら崩れ落ちた旅人を見下ろしながら、静かに告げた。
「……あなたが初めてここに来て、座ったのが、いつのことだったか、覚えてる?」
 地面に倒れ伏し、ひく、ひく、と蠢く旅人に向けて。
「もうずっと……ずっと、昔のことなんだよ。意識的な自覚はなかった。でも、あなたは、とても長い間、ここに座っていたんだ。あなたは旅を諦めきれなかったから。あなたは自らの旅人としての限界を自ずと理解していた一方で、星を掴みたいと、掴めるはずなんだと、そう願ってもいたから……信じていた、から」
「……お、俺は、まだ、まだ……」
 ふと、強い風が吹きすさんだ。
 それは、地に倒れ伏した旅人のフードを捲り上げた。
 中身が、露わになった。
 旅人が上衣のフードの中に閉じ込めていたのは、骨だった。
 頭蓋骨の、それも本来の大半が失われた一部分だけが、口元周りの肉を申し訳程度に纏わり付かせて、どうにかそれらしい形を取り繕っているのだった――汚れた包帯が肉と骨の癒着部に巻かれているが、果たしてそれに意味はあるのだろうか? どのような、意味が?
 長い上衣の内の肉体も、頭部と同様だった。
 筋肉と内臓の一部を纏う、崩壊し、削がれた骨格。
 それこそが、この旅人の真実の姿だった。
 彼自身の精神の発露でもあった。
「……ま、まだ……!」
 旅人の首は、既に脊椎しか残っていなかった。
 声帯はおろか、喉らしい喉すらないのに、声を発して、彼は体を震わせて、もがいた。
「さあ、行こう」
 黒猫が、流麗な動作で床に着地して。
「君を迎える列車が、来てくれたよ」
 旅人の、肉のついた頭蓋骨に歩み寄って、やはり優しく告げた。

 

 がらん、ごろん、と列車がじわじわと駅に近付く音が聞こえる。
 ただ一車線しかない、戻る道にしか行かない、その列車が。
 夕陽の照らす、駅前の床の上に。
 青色の上衣を纏った骸骨が、旅人が、まさしく死体のように、動かないでいる。
 動かないで、いる。
 彼が、自らの感情の何もかもに片を付けて、一つの終止符を打つまでには、もう少しの時間が掛かるのかもしれなかった。

 (終)

終点

終点

旅人と黒猫のやりとり。掌編ファンタジー・ノベル。

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 冒険
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-04-26

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted