殺人に、時効はない

 出来はともかくとして、ちゃんとお終いまで書きました。
 後味の悪い話ですが。

 彼は本心から、カオリとマナの為にも今のような懶惰な生活と決別し、白日の下を平然と歩ける真人間になりたかった。
 けれども彼はある罪を犯し、それが出来なかった。
 時効が消滅するには、まだ時間が必要だった。

 彼は逃亡者となって、初め安住の地を求めて様々な女性の家を転々としたが、どこだってそこは彼に安らぎを与えてくれなかった。

 彼は、女性――とりわけ寂しい女性を惹き付ける独特な憂いを帯びていた。
 それは彼の計算ではなくて、全くの無意識で、だからこそ余計に女性を惹き付けた。

 彼はしばしば女性達の求めに応じ、その罪の告白をした。
 女性達はそれを聞き、ますます彼をいとおしく思った。

 女性達はむしろ彼を庇い引き留めようとした。
 しかし、彼にはそれが苦痛でしかなかった。
 
 結果、彼は逃げ出す――その繰り返しだった。

 けれど、ついに彼は安住の地を見付けた。
 それはカオリのマンションだった。

 カオリは彼の罪を知っている。
 彼から聞かされたのだ。
 知って尚、彼を匿った。

 これは、これまでの女性も同じだった。
 ただ、一つ違いがあった。

 彼の方から、その罪を告白したのだった。

 彼はこれまで、女性達にヒステリックに迫られ、言わば脅迫に屈する形で自分の罪を告白させられた。
 しかし彼はカオリに対して、何気なく、まるで世間話でもするかのように気軽に告白をした。
 カオリはその告白を受けてなにも言わず、ただいつもと変わらぬ態度で彼に接した。

 それは彼の想像通りだった。

 そうして、今に至る。

 二人の関係は、DNAの二重螺旋構造のようだった。
 それは一見糾った一本の縄のように見えて、常に一定の距離を保ち、お互いが決して交わることのない、見事に美しい関係だった。

 交わり――二人の間には男女のそれはなかった。

 二人は、肉体的な繋がりは、崩壊の序章だと知っていた。  

2

 カオリにはマナと言う娘が一人いた。
 可愛らしいお下げ髪が、その丸っこい顔に良く似合う、まだ四つの女の子だった。
 
 カオリは高校の同級生と卒業と同時に結婚し、わずか一年で別れた。
 結婚した時には既にマナがお腹の中にいた。
 別れた時には既にマナが生まれていた。

 親とは勘当同然で、カオリは生きるために働く必要に迫られて――それはお定まりの水商売だった。

 カオリは持ち前の美貌ですぐに勤める店のナンバーワンになった。
 その店に彼は客として訪れる。
 それが二人の出会いだった。

 
 彼は朝起きて、当たり前のように冷蔵庫を開け、三人分の朝食を作る。
 三人はそれを一緒に食べた。
 いつしかそれは習慣となった。
 彼とカオリは互いを名前で呼びあった。
 マナはカオリをママと呼び、彼をパパと呼んだ。

 朝食は決まって朝八時だった。
 彼は規則正しい生活を好んだ。
 それを少しでも乱すと、とんでもない悲劇に出くわす可能性があることを彼は知っていた。

 カオリの帰りは遅かった。それでも必ず朝食を共にした。
 カオリは三人で食事する愉しさを十分に知っているからだ。

 かつて望んで得られなかった幸せが、今ここにあるとカオリには思われた。

 ホステスである自分と、犯罪者である彼、そうして血の繋がらない彼をパパと呼ぶ娘のマナ。
 それは恐らく世間一般の思い描く幸福な家庭とは程遠いものだろう。 
 しかし三人で囲む食卓に、カオリは確かな幸せを感じていた。
 だからカオリは無理をしてでも八時に起きて朝食を共にし、また眠りに就くのだった。

 彼はカオリがもう一度眠りに就き、昼時にまた起きるまでの間、自分をパパと呼ぶマナを、年の離れた妹のように可愛がった。
 彼はマナのために絵本を読み聞かせたり、馬になってやったりした。

 彼には四つ下の妹がいた。
 それはちょうど彼とカオリの年の差と同じだった。
 しかし彼女は、十五の時に自殺してしまった。

 彼はその妹を大変可愛がっていた。
 彼はカオリを見て美しく成長した妹の姿を想像し、マナを見て愛くるしかった頃の幼い妹の姿を懐古した。

 お昼時になって、カオリは良い匂いに目を覚ます。
 キッチンを覗くと、マナが彼にピッタリと引っ付いて、お手伝い(のようなこと)をしていて、その光景は寝起きのカオリの目には、仲の良い父子のように映って自然涙が出た。
 
 カオリに気付いて、彼は労るような声をかけ、マナは無邪気な笑顔を見せる。
 談笑に溢れる昼食を済ませ、カオリはマナをお昼寝させる。
 
 ここから二人の時間になる。

 リビングのソファーに腰を下ろし、二人は静かにお喋りをする。
 いや、話すのは決まって彼で、カオリは聞き役に徹する。

 彼の話はいつも知的で、機知に富んでいた。
 カオリは彼の話がとても好きだった。
 聴いていると、自分が知識で充たされていくような、そんな錯覚に陶酔出来た。
 それは彼がカオリの勤める店に、客として初めて訪れた時から変わりなかった。
 だからこそカオリは、彼に惹かれたのだろう。

 その日、開店間もない時間に彼はふらりと一人で現れて、取り囲むホステス達と戯れることもせず、ただ研磨に研磨を重ねた思想や哲学を、およそそれを披露するには相応しくないその場所で、そうしてそれを端から理解する気もない聴衆を相手に、全く愛着持たず吐き捨てて行った。
 
 こんな客をカオリは初めてだった。

 一頻り話し終えた彼はふと顔を上げて、
「どう思う?」と、たまたま目が合ったカオリに聞いた。

 カオリは、優等生のように適格な意見と感想を述べた。
 端からそう言ったものを期待していなかった彼は、それに驚き、気を良くしてまた話し始め、またカオリに意見を求めた。
 カオリはそれに対して、やはり真摯に答えた。 

 それが二人の出会いだった。

「どう思う?」
 いつものように彼が尋ねる。 
 カオリいつものようにそれに答え、彼もいつものようにその答えに満足した。 
 程なく、マナがきっかり一時間のお昼寝を終え、眠気まなこを小さな手でこすりながら起きてきた。

 ここから三人の時間になる。
 
 
 

 


  

3

 彼は罪を犯し逃亡を選んだが、素より人間的に彼はひどく完成されていて、道徳やモラルを非常に尊んだ。
 それは彼が人格形成の大切な時期を、何不自由なく暮らした余裕から身に付けられたものだった。
 
 彼の父は、地元では名士と知られ、彼の家は、地元では名家と呼ばれた。
 衣食足りて礼節を知るという通り、彼はそこで鷹揚と育ち、高邁な精神を身に付けた。
 しかしその高邁な精神が、彼に逃亡を選ばせた訳ではなかった。

 彼は知っていた。
 もしも捕まれば、きっと自分はなすがままに自分の犯した罪を認め、容赦なく自己を否定してしまうだろうことを。
 その際、誠実な彼はある事実を絶対に語らざるを得ない。
 それは彼の犯行の経緯である。
 
 それを語ること、それが何より彼には堪えられなかった。

 彼はこれまで、自分を匿う女性達の前で、自分の犯した罪を告白して来た。
 そうして、その背景の正義を訴えた。
 それは哀憐、愛憐を解する女性達の胸を激しく打った。

 確かに、彼の犯行に正義の二文字が無かったわけではない。
 しかそれは、嫉妬という醜い二文字の前に、完全に平伏してしまうのだった。

 彼はどの女性の前で語る時でも――それはカオリも例外では無かった――それを隠匿して話していた。
 
 彼は出来るならその事実を完全に葬り去りたいと思った。
 素より時効の成立と同時に、それが消滅すると彼は思ってなどいなかった。
 しかしそれは、自分の口から永久にそれを語る機会が消滅することを意味した。
 
 それを彼は望み、だから彼は逃亡を選んだ。

 彼が逃亡始めて八年。
 三人で暮らし始めて、もうすぐ一年になるえd。

 彼が罪を犯したのは十九歳――未成年の時だった。
 つまり彼は、一般にはその顔と名前は知られていなかった。

 いつしか彼の心には、雑踏の中を、エキストラのように平然と歩けると言った、妙な余裕すら生まれていた。

 彼はカオリとマナと三人で、本当の家族のように出掛けることすら出来るようになっていた。
 
 この日も、三人は近くの公園に出掛けることにした。

4

 五月で、空気がどこまでも清浄な季節だった。
 公園の芝生は青々と繁り、木々の柔らかな若葉は、皐月の風と戯れているように見えた。
 その日はゴールデンウィークの谷間の平日で、いつもより人影は多かったが、それでも三人の私的な空間を他者に邪魔されず保つに充分な余裕があった。
 
 二人は乾いた芝生の上に造作なく腰を下ろした。
 マナはと言うと、まるで野に放たれた、充分に飼い慣らされた兎のように、二人に心配を与えない、と同時に自分も不安に陥らない範囲をはしこく動き回って、時折振り返っては二人を見やった。
 その度毎に、二人はマナが安心するように微笑んで手を振ってみせないといけなかったが(そうしないとマナが納得しないからだ)それは二人にとって案外心地よいものだった。
 
「何を考えているか、当ててみましょうか?」
 マナに手を振りながら、カオリは言った。
 彼もマナに手を振りながら、カオリにどうぞと促した。
「妹さんのことでしょう?」
「うん。ちょうどあのくらいだった。初対面で、妹のことは聞かされていたけど、僕が身構えたように、きっと彼女も、もっとよそよそしい挨拶をしてくるのだと思っていた。けれど妹、はお構いなしに僕を馴れ馴れしくお兄ちゃんと呼んだ。本当に無邪気にね。血の繋がらない、父親の再婚相手の連れ子。僕が八つで、妹が四つ。四つじゃ、分からないよね、そう言う――」
 彼はそこで言葉を切った。
 マナが振り返っていた。
 二人は手を振って応える。

 カオリは彼の話の続きを待って、沈黙した。
 彼もその沈黙の意味を理解したが、
「もう半袖の季節かな」と、何でもないことを言った。
「もうすぐ立夏だから」
 また、マナが振り返る。
 二人は、何の苦もなく手を振り返す。
 
 カオリは、確かに幸福だった。
 カオリは、この幸福が恒久に続いて欲しいと思った。

5

 彼が自由の身になるには、十五年を要した。
 
 十五年の時効――つまり彼は人殺しだった。

 この事実を、マナと言う少女に告げるのはあまりに酷なことだった。
 故に彼はマナに対して何も語らずに来た。

 しかし、時効もあと三年を切ったある日――小学二年生、八歳になったマナは彼の目を見て聞いた。

「パパは何者なの?」

 それは酷く漠然としていながら、まさしくマナが日頃抱いていた彼への疑問を総括した問いだった。
 
 彼は少し沈黙し、そうして答えた。

「……僕は犯罪者だ」
「悪いこと、したの?」
「ああ、とっても悪いことだ」
「どんなこと?」
「……人を、殺した」
「……ママは、知ってるの?」
 
 マナのその一言に、彼は衝撃を受けた。

 普通、人を殺したと告白された場合、まず、誰を殺したか聞く筈である。
 それなのにマナは、まず真っ先に自分の母親であるカオリを気遣った。
 彼は改めてマナのことをいとおしく思った。

「……知ってるよ。前に話した」
「じゃあ……ママは――」
「知ってなお、僕を匿ってくれている」
 マナは沈黙した。
「マナ、君はもう気付いている――分かっていると思うけど、日頃、君は僕を躊躇なくパパと呼んでくれるけど、僕は、君の本当のパパじゃない」
「うん。最初から知ってる」
 彼は、吐けるだけ息を吐いた。
「そうか。それでも君は、僕をパパと呼んでくれていたんだね」
「だって――」
「それで、どうだい? 今、僕が何者であるか分かって――」
「……やっぱり、パパは私のパパだよ。だって私、パパのこと大好きだもの」
 彼は、不覚にも少し泣いた。
 涙を手で拭いながら、
「……じゅあ、僕はここにいても良いのかな?」
「当たり前だよ」
「ありがとう」
「どういたしまして」
 二人は笑った。
 一頻り笑い合って後、彼はそれから表情を改め、言った。
「マナには話して置きたい。カオリに話したように、僕がどうして人を殺してしまったのか、殺さざるを得なかったのか……」
   

 

6

 僕には、血の繋がらない妹がいた。
 名前をユミ。
 母が病で死んで、父は程なくサツキと言う女性と再婚した。
 その人の娘がユミだった。
 その時、僕は八つ、ちょうど今の君と同じ年で、ユミは四つだった。

 心ない人は、サツキさんは父の愛人で、ユミは父の実の子ではないかと陰口を叩いた。
 事実かどうかは知らない。
 しかし当時はまだ純粋だった僕は、父がそのようなことをするはずないと信じ、サツキさんを母と慕い、ユミを妹として可愛がった。

 けれど、ユミはもういない。

 ユミは、死んでしまった。

 ユミは、自殺した。

 そうして、ユミの自殺と、僕の殺人とは直接的に結び付く。

 僕はユミのために、人を殺したのだから……。

 
 平成六年、七月――。
 それは、僕が大学一年の、夏のことだった。
 僕は実家を離れ、東京の大学に進学していた。
 ホームシックなんて言えば大仰だけど、僕は夏休みが待ち遠しかった。
 夏休みは実家に帰省して、大いに遊ぼうと思っていた。
 
 この時には、既にサツキさんは亡くなっていた。
 元々病弱な人だった。
 サツキさん――義母さんが生きていれば、きっと何事も起こらなかっただろうと思う。
 彼女の存在は、きっと抑止力として充分に機能したであろうから。
 父に、そうして僕に対しても……。

 告白すると――これは今まで誰にも、カオリにも話していない、君にだけ話す――僕はユミのことが好きだった。多分、きっと……。

 でなければ、僕はあんなことをしなかった。
 もっと、冷静でいられたに違いない。


 僕は帰郷を前に、実家に電話を入れた。
 電話に出たのはユミだった。
 女性らしい、電話用の声での応対に、僕は笑った。
 ユミは僕と気付いて、いつもの無邪気な声に切り替わる。
 久し振りに聞くユミの声は、僕には心地良かった。 
 けれど兄として、それを妹に知られるのはいかにも恥ずかしく、僕は努めて素っ気なく、ただ帰郷する日だけを告げて受話器を置いた。

 七月二十三日。

 もしもこの日に僕が帰っていれば、何事も起こらなかった――いや、僕は何も気付かなかっただろう。

 台風が、発生したのだ。
 しかもどうも、それはちょうど僕の帰郷の日に、僕の故郷を直撃するようだった。 

 七月十八日。

 だから僕は予定を早めてその日に帰郷した。
 そのことを、僕は伝えなかった。
 父さんを、そうしてユミを驚かせてやりたかった。

 実家に着いた時には、既に周囲は薄暗く、玄関には鍵が掛かっていた。
 けれど家の明かりは付いていて、仲に誰かがいるのは明らかだった。

 僕は呼び鈴を鳴らすことが出来た。
 けれど合鍵を持っていた。
 僕は二人を驚かせてやりたかった。

 僕はそっと玄関のドアを開け、静かにそれを閉めた。
 家の中には、確かに人の気配があった。
 僕は気配のする部屋に向かい、やはりそっと戸を開けた。

 父さんと、ユミは確かにその部屋にいた。

 二人は、裸で抱き合っていた……。

 父は悪ぶれもせず平然と、「おかえり」と僕に言った。
 ユミは、顔を両手で覆い、泣き出した……。

 ああ、そうか、父は無理矢理にユミを――。

 僕は、父を殴った。
 僕は、父を蹴った。
 
 ユミの前で、ユミのため、そうして僕自身の嫉妬から、際限なく僕はそれを繰り返した。

 気付くと、父は死んでいた……。
 僕は、父を殺してしまったのだ。

 気付くと、ユミの姿がなかった。

 ユミは台所で、死んでいた。

7

 平成二十一年 七月十八日 午前零時

 彼はその瞬間を、カオリとマナと三人で、リビングのソファーの上で迎えた。
 
 折しもテレビでは、殺人罪などの公訴時効撤廃を盛り込んだ法務省勉強会の最終報告が十七日公表された――と言うニュースが流れていた。 

「時効の撤廃ですって」
 他人事のようにカオリが言った。
「危なかったね、パパ」
 微笑みながら、マナが言った。
「そうだね」
 彼も笑った。

 三人は、この日から本当の家族になった。


 彼はカオリの籍に入り、名字を変え、程なく予備校講師の職に就いた。
 カオリは水商売から足を洗い、今はスーパーのレジ打ちのパートをしている。
 
 そうして月日は流れ、マナは高校一年生、十五歳になった。

 その日、スーパーは棚卸しでいつもより早く閉店を迎えた。
 カオリは、そのことをすっかり失念していた。

 それでカオリはいつもより早く帰路に就いた。
 そのことを、カオリは二人に告げなかった。
 
 帰宅したカオリは、リビングのソファーの上に横たわる二人の姿を認めた。

 二人はカオリに気付き、悪びれもせず、いつもと変わらぬ口調でお帰りと言った。

 殺人に、時効はない。 

殺人に、時効はない

 後味の悪い話になってしまいました。
 こう言う話は良くないですね。
 当たり前ですが、フィクションです。

殺人に、時効はない

殺人に、時効はない――という話です。 出来はともかく、ちゃんとお終いまで書いてます。 短編:7463文字です。 4000文字~39999文字までが『短編』らしいので、目安として。

  • 小説
  • 短編
  • サスペンス
  • 青年向け
更新日
登録日
2015-04-24

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
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