悩みなき哉、人生!
ステュアート氏は、幼い頃から非常に悩み多き人物だった。
大なり小なり、様々なことで悩んでは、苦しい人生を歩んできた。
その悩みを文学へぶつけたおかげで作家としては成功し、現在はある程度お金も貯まったが、それでも、この胸の苦しみから解放されることはなかった。
ある日いつものように書斎で原稿を執筆していたステュアート氏は、突然ペンを置き、ついに自分の性格に我慢できなくなって、声を大にして叫んだ。
「あぁ!わたしはどうしていつもウジウジ悩んでいるのだ!一度でいいから、悩みなき人生を送ってみたいものだ!」
「その願い、叶えて差し上げましょう」
突然、天井から声がした。
スチュアート氏はびっくりして椅子から転げ落ちた。
「だ、誰だね!?」
すると何ということだろう、天井に白い人影のようなものがうっすら浮かんだかと思うと、またたく間に羽の生えた美しい女性が姿を現した。
「驚かせてごめんなさいね。わたし、天使のポピンズ。偶然、空を散歩してたら突然大きな声が聞こえてね。ついお邪魔してしまいましたの。素敵な書斎ね」
ステュアート氏は目を丸くした。
「て、天使だって?何を馬鹿な!今のは何かのマジックだろう?きっと細いワイヤーか何かで飛んでるように…」
「うふふ。さすが作家さん、面白い発想ね」
ポピンズは肩をすくめて笑った。
「何がなんでもわたしが天使だと信じないおつもり?」
「もちろん」
「じゃあ、これでどうかしら?タッタカタ♪」
ポピンズはステッキを取り出し、ステュアート氏に向けて呪文のようなものを唱
えた。
「どう?」
「どうとは?」
ステュアート氏は首をかしげた。
「自分の中で、何か変わった気がしない?」
「変わっただって?うーん、そういえば何だか胸元がスッキリしたような…あ!」
ステュアート氏は再び大声を挙げた。
「な、悩みがなくなっている!」
「そう。今わたしがあなたに掛けたのは、悩みがなくなる魔法。これであなたは今後いっさい悩むことはないわ」
「ほ、本当かね?」
「ええ。どう、これで信じてくれるかしら?」
「信じるとも、信じるとも!」
その日から、ステュアート氏の人生はバラ色だった。なにせ悩むことがなくなったので、仕事も大いにはかどり、次々に本を出版した。そしてその本は飛ぶように売れ、ステュアート氏はあっという間に億万長者に登り詰めた。
悩まなくなったステュアート氏は、お金の使い方も当然派手。稼いだお金で家を大きくし、それでもお金が余るので車を買い、絵画を買い、毎晩のように美しい女性たちを晩餐会に招いた。
いくら浪費しても、本を出せばまたお金が入ってくる。
何も心配はいらない。苦しむ必要はない。
しかし、幸せであるはずのステュアート氏は、何か奇妙な感覚にとらわれていた。
いくらモノを買っても、いくら遊んでも、いっこうに心が満足しないのだ。
「これは一体どうしたことだろう」
ステュアート氏は、だんだん毎日の生活に飽きるようになっていってしまった。
「こんな退屈な気分になるのは、もしかしたら、毎日同じ家にいるからかもしれん。気晴らしに旅行でもしてみようかな」
ステュアート氏は、さっそく南の島へ一週間滞在する計画を立てた。
有り余るお金で船を買い、当日は船にたくさんの荷物を積んで、南の島へ出かけた。
「何だか船の進む速度が遅いな」
船を操縦しながらステュアート氏は思った。
「そうか、荷物があり過ぎてノロノロとしか進めないのだな。荷物の中には特に大切なものも入ってないし、島に着いたらまた買えばいい。荷物を海に捨ててしまおう」
ステュアート氏は早く島に着きたい一心から、自宅から持ってきた荷物を大なり小なり、次々に海へ捨てていった。
「さぁ、これで船は軽くなったぞ。島まではあっという間に着けるだろう」
ところが、ステュアート氏の考えとは裏腹に、荷物を失った船は不安定になってしまい、前にうまく進めないではないか。
船は同じ場所をいつまでもグルグル回っている。
「これじゃ堂々巡りだ」
ステュアート氏は船の体勢を立て直そうと思い切り舵を切った。しかし、それがまずかった。
「うわあああ」
急な操縦をしたせいで、荷物を積んでない軽い船はあっという間に転覆してしまった。
「た、助けてくれ!」
海に投げ出されたステュアート氏は喘いだ。
口に海水が入ってくる。塩辛い。喉がかわく。だから余計に海水を飲もうとする。塩辛い。さらに喉が渇く。
「誰かー!誰かいないかー!」
ステュアート氏は必死に助けを求めた。
「全く、見てられないわね」
ステュアート氏の頭上に、ポピンズが現れた。
「ポピンズ、助けてくれ!溺れてしまいそうだ」
「ステュアート。わたし、あなたにひとつだけ嘘をついたの」
「なんだって?」
「わたしがあなたの書斎にやってきたのは、偶然じゃないの。あなたの人間性に惹かれたからよ」
「そ、それはどういう…ゴボゴボ」
「あぁ、そうか。こんな状態じゃ話を聴いてる余裕はないわね。タッタカタ♪」
再びポピンズがステッキを取り出しあの呪文を唱えると、次の瞬間、海水は消え、スチュアート氏は原稿の山に埋もれていた。
あたりを見渡すと、いつもの書斎。
スチュアート氏は椅子から転げ落ちており、何もかもポピンズと出会った時の状態に戻っていた。
家も元の大きさに戻り、車も、絵画もなくなっていた。そして、胸の奥には、あの重々しい“アレ”が渦巻いていた。
「悩みなき人生はどうだった?」
ポピンズが尋ねた。
スチュアート氏はもう一度椅子に座り直して、苦笑いを見せて応えた。
「もう結構だよ。あんな味気ない人生は」
悩みなき哉、人生!