卒業
花を抱えて立っていた。
三月一日の昼下がりに花を持っている学生は、つい今しがた式を終えたピカピカの卒業生だと相場が決まっている。もちろん僕もそのひとりなのだけれど、特にこれといった感慨もないし、どうしてこの子はこんなに憮然とした表情を浮かべているんだろう、と僕の顔を見た人々が思うだろうことは自分でもわかっている。そうして実際、僕はひどく不機嫌なのであった。
卒業式は正午過ぎには終わり、友人たちとの会話もそこそこに教室を後にした。二年に進級する際にクラス替えが行われてからずっとあの教室、あの机と椅子を使い続けたが、別段思い入れはない。
それよりも周りの生徒達があまりにうるさく、ひどく楽しそうだったため、彼らほど高校生活が充実していなかった僕は半ば逃げるように階段を下っていった。
玄関を出たところで見知った顔に出くわした。まだ幼さの残る顔の少年少女は、昔部活の後輩だった子たちだ。僕を反面教師にすべき子たち。腹の底で僕を軽蔑していても不思議でない子たち。
足早に近づいてきた彼らは僕の名を呼んで、
「ご卒業おめでとうございます」
言いつつ何かを差し出す。何か、と言っても、こちらも三年間の経験からそれが祝福の花束であることは承知しているのだが、まさか自分にも渡す用意があるとは考えてもみなかったので、ちょっと感動してしまう。困惑しつつ受け取り、ぞんざいに頭を下げる。風が吹き付けて、礼を言うためにわざわざ舐めた唇を乾かしていく。突然、ひどく気まずい沈黙が訪れた。
ちょうどそのとき、どこかで聞き覚えのある声がして振り向くと、同じく卒業生で元部員の友人がこちらにやってきている。僕はこれ幸いとばかりに別れの挨拶を述べると、その場から退散する。かつて共に研鑽を積んだ同胞たちの発する騒音が、僕を容赦なく群れから弾き出した。
荷物が多いので、乗り込んだその足で真正面の降車口の前まで歩いてゆき、左手で手すりを掴む。右手の花束を左の二の腕にもたせかけ、そこでようやく一息ついた。
地下鉄の車両内はだいぶ暑い。暖房が点けられているらしかった。底冷えのする時期であるので、普段なら素直にありがたいと思うのだが、今日のように通学用のリュックサックと花束をかつぎ、ほとんど駆け足に近い速度で駅までやってきた身としては厳しいものがある。
額に汗の予感を感じつつ、二、三度深呼吸して誤魔化そうと試みるが、あいにく体は簡単には熱を逃がしてくれそうになかった。本来ならばきっと、ある程度は自分の意志で制御できるものであるべきはずなのに、暑さひとつうまく対処できないのではただの肉と骨まみれの入れ物となんら変わりないではないか。
唐突な怒りが込み上げてきて、僕を取り巻くあれこれに飛散する。ほとんどが見当違いだとわかってはいるけれど、抑える術を僕は持たないのだ。その「見当違い」の中には、後輩から貰ったばかりの花束も含まれていた。
抱えたセロファンの包みをじっと見下ろす。手渡されたときの瑞々しさは既に失われていて、多少乾いたような質感がこちらを見返してくる。その妙に生々しい、まるで媚びる中年の娼婦のような花弁はますます僕の神経を逆撫でした。
そもそも、と僕は考える。なんだって僕にこんなものを渡したんだろう?部活内を散々引っ掻き回して去った僕に?
僕は文芸部を辞めていた。正式な退部の手続きはしていないので、辞めていた、というのは正確な表現でないが、とにかく三年になったばかりの六月頃からは足を運ぶことすらなくなっていたのだ。三年になったばかりということは、今部内で中軸として活動する一年生たち、先程花束を手渡してきた後輩たちが入りたての時期である。彼らの入部に伴い、三年の部員同士で安定しつつあった人間関係がいったん崩され、環境が変わり、部室の雰囲気が変わり、先輩としての予想外の重圧が生まれた。
恥ずかしい話なのだが、僕が部から去った原因はそこにあった。要するに僕は力みすぎたのだ。変化への漠然とした不安、緊張で疲弊したところに、たまたま自分が取り残されたように感じる出来事があり、すっかり精神的に参ってしまった。
他の部員たちに責任を擦りつけ、支離滅裂な批判を繰り返した僕は、間もなく文芸部を去り、彼らも僕を相手にしなくなった。その後の僕はといえば、腹の虫が収まらぬまま色んな人達に八つ当たりし、愚痴をこぼして、大変な迷惑をかけていたのだが。そうして、ようやく冷静な頭で自分の非を認め、悔いるようになったのは、いい加減初雪が降ろうとしている頃だったろうか。
ともかくそのような理由から、本来僕には他の三年の部員と同じ花束を貰う資格など、ありはしないのだ。
相変わらず花束を見下ろし続けている。急に、それらが自分の知っている花ではない気がしてくる。嫌悪、恐怖、苛立ち、不安、それらをいっぺんに煽るための、いや寧ろ全ての暗い感情そのものがひとかたまりになって束ねられくるまれた、腕の中の代物はまさにそんな重さが加わったように感じられたのだ。得体の知れない気味悪さに、思わず取り落としそうになる。
突然耳に入ってきたアナウンスにはっとする。どうやらありがたいことに、地下鉄はちょうど中心街に到着したらしい。この奇妙な包みを抱いたまま真っ直ぐ帰宅する気には、どうしてもなれない。僕はごった返すホームへ降り立った。
行くあてもないまま通りをひたすら徘徊し続け二十分が経過した。そろそろどこかに腰を落ち着けてもいい気がしたので、つい先日知り合いに教わったばかりの喫茶店へ向かう。立ち並ぶビル群から目当ての一棟を見つけて中に入り、エレベーターに乗り込む。どこかの階で営業するカレー専門店からだろうか、なんとも言い難い香辛料の匂いが嗅覚を撫ぜていった。
五階で降りて喫茶店のドアを押し開けると、今度はコーヒー豆と古い木の香りで満ちている。カウンターで何事か書き物をしている店員に軽く一礼し、たまたま空いていた窓際の席に向かった。花束をぞんざいに卓上に放ってからリュックを下ろし、やわらかな一人掛けソファの背にコートを引っかけたあと、できるだけ静かに腰かける。うんと伸びをして、やれやれ、ようやくひとごこちつけると思った。
一連のちょっとした散歩で火照った脚とは反対に、頭の芯はすっかり冷えてしまっている。視界が妙に澄んで、ものの輪郭がやけに鋭く見える。触れたら血が滲みそうだ。こうなると、しばらくは憂鬱な気分にしかなれない。正面の大きなガラス窓に目をやると、ビルの灰色の外壁のみが見える。その無味乾燥な平面が、ますます僕の精神を重く沈ませた。
店員がやってきて注文を促したので、やや逡巡してから酸味の強いコーヒーを頼む。理由はない、メニュー表を開いて最初に目に付いただけなのだが、何故か頼まなければならない、その一杯でなければならないような感覚に陥ったのだ。きっと、理由はおろか大した意味すらないのだろうが。
テーブルに視線を戻す。例の花束が置かれている。雲と厚いガラスに阻まれた淡い日光を浴びて、幾分かでも元気を取り戻したようにも見える。この花の名はなんというのだろう、どんな花言葉が与えられているのだろうか、とすこし気になりもしたが、生憎植物には明るくないのでわからない。
花の褪せた緑と桃色が、木製のカウンターテーブルの重厚な暗褐色によく映えていた。しかしいまひとつしっくりこない。よりうまく見えそうな置き方をあれこれ試してみる。位置や角度がある程度定まったところで、しかしまだ納得できないとでも言いたげに首を捻ってみせた。すっかり芸術家気取りだ。
そうこうするうちコーヒーが運ばれてくる。カップを持ち上げひと口だけ啜る。なるほど、少々青臭い酸味と深みのある香りは癖になる旨さだ。息を吸って吐くと、悪いものがすこし抜けていった気がした。
なんて呑気な人間だろう、僕は、とカップに口をつけつつ思う。あれほど嫌悪し、恐怖していた花束が、喫茶店の設備と組み合わさって生まれた視覚的な心地よさによっていつもどおりの綺麗な実体に戻り、熱いコーヒーと深呼吸だけで沈んだ心にも再び光が当たるようになった。気分の乱高下が激しいのは自覚していたが、これでは今に自身を振り落としかねない。もっとも、振り落とされる前になんとか暴れ馬をなだめすかし、しがみついてきたからこそ、こんな自分に呆れる自分を保っていられるのだが。
窓の外では、いつの間にか雪が降り出していた。みたび卓上を見やると、花束はまだその場に留まっている。よくよく考えれば、学校を出てからの僕の格好は、周囲からすると随分間抜けだったことだろう。あの妙に恭しい、というか仰々しい花の持ち方は、今日が三月一日でなければまるでプロポーズかなにかのための、大事な小道具のようだったからだ。加えて、きっと顔には暗い色が濃く現れていたろうから、さながら「女性に贈呈しようと試みた花束の受け取りすら拒否され打ちひしがれた青年」といったところか。我ながらちょっと可笑しい。
案外僕は、呑気な人間だ。でも、いつまでも落ち込んでいるより、ましかもしれないし、いま綺麗なものをが綺麗だと思えるならそれでいいじゃないか、と詩的なことをとりとめもなく考え、カップの中身をまたひと口啜る。嬉しいことに、コーヒーはまだ熱かった。
午後三時、帰宅した僕の様子を見た母は、ただ手放しで卒業を喜んだり嘆いたりしているわけでないことに気づいてくれたのか、
「おめでとう、よく三年間通ったね」
とだけ言った。僕は礼を言って、この花束を適当な花瓶に活けるよう 頼み、三年間で息苦しさにもすっかり慣れた制服を脱ぐために、自室へ引き上げた。
僕は高校が嫌いだった。僕は胸を張って学び舎を後にできなかった。僕はたくさん馬鹿なことをした。でも、それでも僕にはたぶん友達がいて、今は見当たらないようないい思い出もどこかに残っていて、誰かひとりくらいには別れを惜しまれていた。あの花束も、きっとその証拠の一つにはなり得るだろう。そう信じたいし、せめて卒業式を終えたばかりの今日くらいは信じてもいい気がした。
しばらくして、夕飯ができたと告げられ、階段を下りた。配膳くらい手伝おう、と台所のほうを見やって、少しだけ微笑んだ。澄んだグラスの中では、薄桃色の花たちが水を吸い上げ、本来あるべき輝きを取り戻しかけている。明日はもっと綺麗に咲くことを祈って、僕は散らかった食卓を片付けに取りかかった。
卒業